巻第七
雑歌
天を詠める
1068 天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
月を詠める
1069 常はかつて思はぬものをこの月の過ぎ隠れまく惜しき宵かも
1070 大夫の弓末振り起し狩高の野辺さへ清く照る月夜かも
1071 山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ降ちける
1072 明日の夜照らむ月夜は片寄りに今宵に寄りて夜長からなむ
1073 玉垂の小簾の間通し独り居て見る験無き夕月夜かも
1074 春日山おして照らせるこの月は妹が庭にも清けかるらし
1075 海原の道遠みかも月読の光少き夜は更ちつつ
1076 百敷の大宮人の退り出て遊ぶ今夜の月の清けさ
1077 ぬば玉の夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも
1078 この月のここに来たれば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ
1079 真澄鏡照るべき月を白妙の雲か隠せる天つ霧かも
1080 久かたの天照る月は神代にか出でかへるらむ年は経につつ
1081 ぬば玉の夜渡る月をおもしろみ吾が居る袖に露ぞ置きにける
1082 水底の玉さへ清く見つべくも照る月夜かも夜の更けぬれば
1083 霜曇りすとにかあらむ久かたの夜渡る月の見えなく思へば
1084 山の端にいさよふ月をいつとかも吾が待ち居らむ夜は更けにつつ
1085 妹があたり吾が袖振らむ木の間より出で来る月に雲な棚引き
1086 靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし
雲を詠める
1087 穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立つらし
1088 あしひきの山河の瀬の鳴るなべに弓月が岳に雲立ち渡る
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1089 大海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲
右ノ一首ハ、伊勢ニ従駕シテ作メル。
雨を詠める
1090 我妹子が赤裳の裾の湿つらむ今日の小雨に吾さへ濡れな
1091 融るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣吾下に着り
山を詠める
1092 鳴神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも
1093 三諸のその山並に子らが手を巻向山は続のよろしも
1094 吾が衣色に染めなむ味酒三室の山は黄葉しにけり
右ノ三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1095 三諸つく三輪山見れば隠国の泊瀬の桧原思ほゆるかも
1096 古のことは知らぬを吾見ても久しくなりぬ天の香具山
1097 我が背子をいで巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし
1098 紀道にこそ妹山ありといへ玉くしげ二上山も妹こそありけれ
岳を詠める
1099 片岡のこの向つ峯に椎蒔かば今年の夏の蔭になみむか
河を詠める
1100 巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆること無くまたかへり見む
1101 ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも疾き
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1102 大王の御笠の山の帯にせる細谷川の音の清けさ
1103 今しきは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも
1104 馬並めてみ吉野川を見まく欲り打ち越え来てぞ滝に遊びつる
1105 音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
1106 かはづ鳴く清き川原を今日見てばいつか越し来て見つつ偲はむ
1107 泊瀬川白木綿花に落ちたぎつ瀬を清けみと見に来し吾を
1108 泊瀬川流るる水脈の瀬を早み井堤越す波の音の清けく
1109 さひのくま桧隈川の瀬を速み君が手取らば言寄せむかも
1110 ゆ種蒔く荒木の小田を求めむと足結は濡れぬこの川の瀬に
1111 古もかく聞きつつや偲ひけむこの布留川の清き瀬の音を
1112 葉根蘰今する妹をうら若みいざ率川の音の清けさ
1113 この小川霧たなびけり落ち激つ走井の上に言挙げせねども
1114 吾が紐を妹が手もちて結八川また還り見む万代までに
1115 妹が紐結八河内を古の人さへ見つつここを偲ひき
露を詠める
1116 ぬば玉の吾が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
花を詠める
1117 島廻すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずばやまじ
葉を詠める
1118 古にありけむ人も吾がごとか三輪の桧原に挿頭折りけむ
1119 ゆく川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
蘿を詠める
1120 み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰か織りけむ経緯無しに
草を詠める
1121 妹がりと吾がゆく道の篠芒吾し通はば靡け篠原
鳥を詠める
1122 山の際に渡る秋沙の行きて居むその川の瀬に波立つなゆめ
1123 佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも
1124 佐保川にさ躍る千鳥夜降ちて汝が声聞けば寝ねかてなくに
故郷を思ふ
1125 清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ甘南備の里
1126 年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
井を詠める
1127 落ちたぎつ走井の水の清くあれば度らふ吾は行きかてぬかも
1128 馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも
和琴を詠める
1129 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻や隠れる
芳野にてよめる
1130 神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見れば愛しも
1131 人皆の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み
1132 夢の和太言にしありけり現にも見て来しものを思ひし思へば
1133 皇祖神の神の宮人野老葛いや常しくに吾かへり見む
1134 吉野川石と柏と常磐なす吾は通はむ万代までに
山背にてよめる
1135 宇治川は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
1136 宇治川に生ふる菅藻を川速み採らず来にけり苞にせましを
1137 宇治人の譬ひの網代君しあらば今は寄らまし木積ならずとも
1138 宇治川を船渡せをと呼ばへども聞こえざるらし楫の音もせず
1139 ちはや人宇治川波を清みかも旅行く人の立ちかてにする
摂津にてよめる
1140 しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿は無くして
1141 武庫川の水脈を速みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも
1142 命を幸くあらむと石走る垂水の水を結びて飲みつ
1143 さ夜更けて堀江榜ぐなる松浦船楫の音高し水脈速みかも
1144 悔しくも満ちぬる潮か住吉の岸の浦廻よ行かましものを
1145 妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず
1146 めづらしき人を我家に住吉の岸の埴生を見むよしもがも
1147 暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るちふ恋忘れ貝
1148 馬並めて今日吾が見つる住吉の岸の埴生を万代に見む
1149 住吉に往きにし道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり
1150 住吉の岸に家もが沖に辺に寄する白波見つつ偲はむ
1151 大伴の御津の浜辺を打ちさらし寄せ来る波のゆくへ知らずも
1152 楫の音ぞほのかにすなる海未通女沖つ藻刈りに舟出すらしも
1153 住吉の名児の浜辺に馬並めて玉拾ひしく常忘らえず
1154 雨は降り刈廬は作るいつの間に吾児の潮干に玉は拾はむ
1155 名児の海の朝明のなごり今日もかも磯の浦廻に乱れてあらむ
1156 住吉の遠里の小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎぬる
1157 時つ風吹かまく知らに吾児の海の朝明の潮に玉藻刈りてな
1158 住吉の沖つ白波風吹けば来寄する浜を見れば清しも
1159 住吉の岸の松が根打ちさらし寄せ来る波の音の清しも
1160 難波潟潮干に立ちて見渡せば淡路の島に鶴渡る見ゆ
覊旅にてよめる
1161 家離り旅にしあれば秋風の寒き夕へに雁鳴き渡る
1162 圓方の港の洲鳥波立てば妻呼びたてて辺に近づくも
1163 年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝榜ぐ舟も沖に寄る見ゆ
1164 潮干れば共に潟に出鳴く鶴の声遠ざかれ磯廻すらしも
1165 夕凪にあさりする鶴潮満てば沖波高み己妻呼ぶも
1166 古にありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原
1167 あさりすと磯に吾が見し名告藻をいづれの島の海人か刈るらむ
1168 今日もかも沖つ玉藻は白波の八重折るが上に乱れてあらむ
1169 近江の海港八十あり何処にか君が舟泊て草結びけむ
1170 楽浪の連庫山に雲ゐれば雨そ降るちふ帰り来我が背
1171 大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
1172 何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ榜ぎ出来し船
1173 飛騨人の真木流すちふ丹生の川言は通へど船ぞ通はぬ
1174 霰降り鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋しきものを
1175 足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ
1176 夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず
1177 若狭なる三方の海の浜清みい往き返らひ見れど飽かぬかも
1178 印南野は行き過ぎぬらし天伝ふ日笠の浦に波立てり見ゆ
1179 家にして吾は恋ひむな印南野の浅茅が上に照りし月夜を
1180 荒磯越す波を畏み淡路島見ずや過ぎなむここだ近きを
1181 朝霞止まず棚引く龍田山船出せむ日は吾恋ひむかも
1182 海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆之浦廻に波立てり見ゆ
1183 ま幸くてまた還り見む大夫の手に巻き持たる鞆之浦廻を
1184 鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも
1185 朝凪に真楫榜ぎ出て見つつ来し御津の松原波越しに見ゆ
1186 あさりする海未通女らが袖通り濡れにし衣干せど乾かず
1187 網引する海人とや見らむ飽浦の清き荒磯を見に来し吾を
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1188 山越えて遠津の浜の磯躑躅還り来むまでふふみてあり待て
1189 大海に嵐な吹きそしなが鳥猪名の湊に舟泊つるまで
1190 舟泊てて杙振り立てて廬りせな子潟の浜辺過ぎかてぬかも
1191 妹が門入り泉川の瀬を速み吾が馬つまづく家思ふらしも
1192 白たへににほふ真土の山川に吾が馬なづむ家恋ふらしも
1193 勢の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す
1194 紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
1195 麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹
右ノ七首ハ、藤原卿作メリ。年月審ラカナラズ。
1196 苞もがと乞はば取らせむ貝拾ふ吾を濡らすな沖つ白波
1197 手に取るがからに忘ると海人の言ひし恋忘れ貝言にしありけり
1198 あさりすと磯に棲む鶴明けゆけば浜風寒み己妻呼ぶも
1199 藻刈舟沖榜ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ
1200 我が舟は沖よな離り迎ひ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ逢はむ
1201 大海の水底響み立つ波の寄せむと思へる磯のさやけさ
1202 荒磯ゆもまして思へや玉之浦離る小島の夢にし見ゆる
1203 磯の上に爪木折り焚き汝が為と吾が潜き来し沖つ白玉
1204 浜清み磯に吾が居れば見む人は海人とか見らむ釣もせなくに
1205 沖つ楫やうやうな榜ぎ見まく欲り吾がする里の隠らく惜しも
1206 沖つ波辺つ藻巻き持ち寄せ来とも君にまされる玉寄せめやも
1207 粟島に榜ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり
1208 妹に恋ひ吾が越えゆけば勢の山の妹に恋ひずてあるが羨しさ
1209 人ならば母の愛子そ麻裳よし紀の川の辺の妹と背の山
1210 我妹子に吾が恋ひゆけば羨しくも並びをるかも妹と背の山
1211 妹があたり今ぞ吾が行く目のみだに吾に見せこそ言問はずとも
1212 阿提過ぎて糸鹿の山の桜花散らずあらなむ還り来むまで
1213 名草山言にしありけり吾が恋ふる千重の一重も慰めなくに
1214 安太へ行く推手の山の真木の葉も久しく見ねば蘿むしにけり
1215 玉津島よく見ていませ青丹よし奈良なる人の待ち問はばいかに
1216 潮満たばいかにせむとか海神の神が門渡る海未通女ども
1217 玉津島見てしよけくも吾はなし都に行きて恋ひまく思へば
1218 黒牛の海紅にほふ百敷の大宮人し漁りすらしも
1219 若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕へは大和し思ほゆ
1220 妹が為玉を拾ふと紀の国の由良の岬にこの日暮らしつ
1221 吾が舟の楫をばな引き大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに
1222 玉津島見れども飽かずいかにして包み持ちゆかむ見ぬ人の為
1223 海の底沖榜ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立てずして
1224 大葉山霞たなびき小夜更けて吾が船泊てむ泊知らずも
1225 さ夜更けて夜中の方におほほしく呼びし舟人泊てにけむかも
1226 神の崎荒磯も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避道は無しに
1227 磯に立ち沖辺を見れば海藻刈舟海人榜ぎ出らし鴨翔る見ゆ
1228 風早の三穂の浦廻を榜ぐ船の舟人騒く波立つらしも
1229 吾が舟は明石の浦に榜ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
1230 ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも吾をば忘れじ志加の皇神
1231 天霧ひ日方吹くらし水茎の崗の湊に波立ち渡る
1232 大海の波は畏し然れども神を斎ひて船出せばいかに
1233 未通女らが織る機の上を真櫛もち掻上げ栲島波の間ゆ見ゆ
1234 潮速み磯廻に居れば漁りする海人とや見らむ旅ゆく我を
1235 波高し如何に楫取水鳥の浮寝やすべき猶や榜ぐべき
1236 夢のみに継ぎて見えつつ高島の磯越す波のしくしく思ほゆ
1237 静けくも岸には波は寄せけるかこの家通し聞きつつ居れば
1238 高島の安曇河波は騒けども吾は家思ふ廬り悲しみ
1239 大海の磯もと揺すり立つ波の寄せむと思へる浜の清けく
1240 玉くしげ見諸戸山を行きしかば面白くして古思ほゆ
1241 ぬば玉の黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも
1242 あしひきの山ゆき暮らし宿借らば妹立ち待ちて宿貸さむかも
1243 見渡せば近き里廻を廻り今そ吾が来し領巾振りし野に
1244 未通女らが放の髪を由布の山雲な棚引き家のあたり見む
1245 志加の海人の釣船の綱耐へかてに心に思ひて出でて来にけり
1246 志加の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山に棚引く
右ノ件ノ歌ハ、古集ノ中ニ出ヅ。
1247 大穴牟遅少御神の作らしし妹背の山は見らくしよしも
1248 我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば吾に告げこそ
1249 君がため浮沼の池の菱摘むと吾が染衣濡れにけるかも
1250 妹がため菅の実採りに行きし吾山道に惑ひこの日暮らしつ
右ノ四首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1417 名児の海を朝榜ぎ来れば海中に鹿子ぞ呼ぶなるあはれその水夫
問ひ答へのうた
1251 佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る
1252 人こそは凡にも言はめ吾がここだ偲ふ川原を標結ふなゆめ
右の二首は、鳥を詠める。
1253 楽浪の志賀津の海人は吾無しに潜きはなせそ波立たずとも
1254 大船に楫しもあらなむ君無しに潜きせめやも波立たずとも
右の二首は、白水郎を詠める。
時に臨けてよめる
1255 月草に衣ぞ染める君がため斑の衣摺らむと思ひて
1256 春霞井の上よ直に道はあれど君に逢はむと廻り来も
1257 道の辺の草深百合の花笑みに笑まししからに妻と言ふべしや
1258 黙あらじと言のなぐさに言ふことを聞き知れらくは苛くそありける
1259 佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも
1260 時じくに斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども
1261 山守の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも
1262 あしひきの山椿咲く八峯越え鹿待つ君が斎ひ妻かも
1263 暁と夜烏鳴けどこの岡の木末の上はいまだ静けし
1264 西の市にただ独り出て目並べず買へりし絹の商じこりかも
1265 今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰か取り見む
1266 大舟を荒海に榜ぎ出八船たけ吾が見し子らが目は著しも
所に就けて思ひを発ぶ
1267 百敷の大宮人の踏みし跡ところ沖つ波来寄らざりせば失せざらましを 旋頭歌
右ノ十七首ハ、古歌集ニ出ヅ。
1268 子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き巻かめやも
1269 巻向の山辺響みて行く水の水沫の如し世の人吾等は
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
物に寄せて思ひを発ぶ 旋頭歌
1272 大刀の後鞘に入野に葛引く我妹真袖もち着せてむとかも夏葛引くも
1273 住吉の波豆麻君が馬乗衣さにづらふ漢女を座せて縫へる衣ぞ
1274 住吉の出見の浜の浜菜刈らさね未通女ども赤裳の裾湿ぢゆかまくも見む
1275 住吉の小田を刈らす子奴かも無き奴あれど妹がみためと秋の田刈るも
1276 池の辺の小槻がもとの小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ
1277 天なる姫菅原の草な刈りそね蜷の腸か黒き髪に芥し付くも
1278 夏蔭の寝屋の下に衣裁つ我妹うら設けて吾がため裁たばいや広に裁て
1279 梓弓引津の辺なる名告藻の花摘むまでに逢はざらめやも名告藻の花
1280 打日さす宮道を行くに吾が裳は破れぬ玉の緒の思ひ乱れて家にあらましを
1281 君がため手力疲れ織りたる衣を春さらばいかなる色に摺りてばよけむ
1282 梯立の倉梯山に立てる白雲見まく欲り吾がするなへに立てる白雲
1283 梯立の倉梯川の石の橋はも男盛に吾が渡せりし石の橋はも
1284 梯立の倉梯川の川の静菅吾が刈りて笠にも編まず川の静菅
1285 春日すら田に立ち疲る君は悲しも若草の妻なき君が田に立ち疲る
1286 山背の久世の社の草な手折りそ己が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ
1287 青みづら依網の原に人も逢はぬかも石走る淡海県の物語せむ
1288 水門の葦の末葉を誰か手折りし我が背子が袖振る見むと吾ぞ手折りし
1289 垣越ゆる犬呼び越せて鳥猟する君青山の茂き山辺馬休め君
1290 海の底沖つ玉藻の名告藻の花妹と吾ここにありと名告藻の花
1291 この岡に草刈る小子しかな刈りそねありつつも君が来まさむ御馬草にせむ
1292 江林にやどる猪鹿やも求むるによき白たへの袖巻き上げて猪鹿待つ我が背
1293 霰降り遠江の吾跡川楊刈れれどもまたも生ふちふ吾跡川楊
1294 朝月日向ひの山に月立てり見ゆ遠妻を持たらむ人し見つつ偲はむ
右ノ二十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1295 春日なる三笠の山に月の船出づ遊士の飲む酒杯に影に見えつつ
右ノ一首ハ、古歌集ニ出ヅ。
行路
1271 遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
譬喩歌
衣に寄す
1296 今作る斑の衣目につきて吾は思ほゆいまだ着ねども
1297 紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばや人の知るべき
1298 かにかくに人は言ふとも織り継がむ吾が機物の白麻衣
右ノ三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1311 橡の衣は人の事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ
1312 おほよそに吾し思はば下に着てなれにし衣を取りて着めやも
1313 紅の深染の衣下に着て上に取り着ば言なさむかも
1314 橡の解洗衣のあやしくも異に着欲しけきこの夕へかも
1315 橘の島にし居れば川遠み曝さず縫ひし吾が下衣
糸に寄す
1316 河内女の手染の糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
日本琴に寄す
1328 膝に伏す玉の小琴の事無くば甚だここだ吾恋ひめやも
弓に寄す
1329 陸奥の安太多良真弓弦はけて引かばか人の吾を言なさむ
1330 南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
玉に寄す
1299 あぢ群のむれよる海に船浮けて白玉採ると人に知らゆな
1300 をちこちの磯の中なる白玉を人に知らえず見むよしもがも
1301 海神の手に巻き持たる玉故に磯の浦廻に潜きするかも
1302 海神の持たる白玉見まく欲り千たびそ告げし潜きする海人
1303 潜きする海人は告ぐれど海神の心し得ねば見えむとも云はず
右ノ五首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1317 海の底沈く白玉風吹きて海は荒るとも取らずばやまじ
1318 底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告げし潜きする海人
1319 大海の水底照らし沈く玉斎ひて採らむ風な吹きそね
1320 水底に沈く白玉誰ゆゑに心尽して吾が思はなくに
1321 世間は常かくのみか結びてし白玉の緒の絶ゆらく思へば
1322 伊勢の海の海人の島津が鮑玉採りて後もか恋の繁けむ
1323 海の底沖つ白玉よしを無み常かくのみや恋ひ渡りなむ
1324 葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
1325 白玉を手には巻かずに箱のみに置けりし人ぞ玉溺らする
1326 照左豆我手に巻き古す玉もがもその緒は替へて吾が玉にせむ
1327 秋風は継ぎてな吹きそ海の底沖なる玉を手に巻くまでに
山に寄す
1331 磐畳む畏き山と知りつつも吾は恋ふるかなそらへなくに
1332 岩が根のこごしく山に入りそめて山なつかしみ出でかてぬかも
1333 佐保山をおほに見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ
1334 奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心を如何にかもせむ
1335 思ひかていたもすべなみ玉たすき畝傍の山に吾標結ひつ
木に寄す
1304 天雲の棚引く山の隠りたる我が下心木の葉知りけむ
1305 見れど飽かぬ人国山の木の葉をし下の心になつかしみ思ふ
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1354 白菅の真野の榛原心よも思はぬ君が衣に摺りつ
1355 真木柱作る杣人いささめに仮廬の為と作りけめやも
1356 向つ峰に立てる桃の木生りぬやと人ぞ囁めきし汝が心ゆめ
1357 たらちねの母がその業る桑子すら願へば衣に着るちふものを
1358 はしきやし我家の毛桃本繁く花のみ咲きて生らざらめやも
1359 向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも
草に寄す
1336 冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも吾が心焼く
1337 葛城の高間の草野早領りて標指さましを今し悔しも
1338 我が屋戸に生ふるつちはり心よも思はぬ人の衣に摺らゆな
1339 月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ
1340 紫の糸をぞ吾が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
1341 真玉つく越智の菅原吾刈らず人の刈らまく惜しき菅原
1342 山高み夕日隠りぬ浅茅原のち見むために標結はましを
1343 言痛くばかもかもせむを磐代の野辺の下草吾し刈りてば
1344 真鳥棲む雲梯の杜の菅の実を衣にかき付け着せむ子もがも
1345 常知らぬ人国山の秋津野のかきつはたをし夢に見しかも
1346 をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて吾が衣に着む
1347 君に似る草と見しより吾が標めし野の上の浅茅人な刈りそね
1348 三島江の玉江の薦を標めしより己がとぞ思ふ未だ刈らねど
1349 かくしてや黙止や老いなむみ雪降る大荒木野の小竹にあらなくに
1350 近江のや八橋の小竹を矢はがずてまことあり得むや恋しきものを
1351 月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも
1352 我が心ゆたにたゆたに浮蓴辺にも沖にも寄りかてましを
花に寄す
1306 この山の黄葉の下に咲く花を吾はつはつに見つつ恋ふるも
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1360 息の緒に思へる吾を山ぢさの花にか君がうつろひぬらむ
1361 住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも
1362 秋さらば移しもせむと吾が蒔きし韓藍の花を誰か摘みけむ
1363 春日野に咲きたる萩は片枝はいまだふふめり言な絶えそね
1364 見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて生らずかもあらむ
1365 我妹子が屋戸の秋萩花よりは実に成りてこそ恋まさりけれ
稲に寄す
1353 石上布留の早稲田を秀でずとも縄だに延へよ守りつつをらむ
鳥に寄す
1366 明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
獣に寄す
1367 三国山木末に住まふむささびの鳥待つがごと吾待ち痩せむ
雲に寄す
1368 岩倉の小野よ秋津に立ち渡る雲にしもあれや時をし待たむ
雷に寄す
1369 天雲に近く光りて鳴る神の見れば畏し見ねば悲しも
雨に寄す
1370 ここだくも降らぬ雨ゆゑ庭たづみ甚くな行きそ人の知るべく
1371 久かたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干る時なきか
月に寄す
1372 み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしも無し
1373 春日山山高からし石上菅根見むに月待ちがたし
1374 闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月も早も照らぬか
1375 朝霜の消やすき命誰がために千年もがもと吾が思はなくに
右ノ一首ハ、譬喩歌ノ類ニアラズ。但シ闇ノ夜ノ歌人ノ、所心
ノ故ニ並ニ此ノ歌ヲ作ム。コレニ因リテ此ノ歌、此ノ次ニ載ス。
赤土に寄す
1376 大和の宇陀の真赤土のさ丹付かばそこもか人の吾を言なさむ
神に寄す
1403 御幣取り神の祝が斎ふ杉原薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ 旋頭歌
1377 木綿懸けて祭ふ三諸の神さびて斎むにはあらず人目多みこそ
1378 木綿懸けて斎ふこの社越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに
川に寄す
1307 この川よ船は行くべくありといへど渡り瀬ごとに守る人あるを
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1379 絶えずゆく明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに
1380 明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
1381 広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて吾は思へらむ
1382 泊瀬川流るる水沫の絶えばこそ吾が思ふ心遂げじと思はめ
1383 嘆きせば人知りぬべみ山川のたぎつ心を塞かへたるかも
1384 水隠りに息づきあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも
埋木に寄す
1385 真鉋持ち弓削の川原の埋木のあらはるまじき事とあらなくに
海に寄す
1308 大海は水門を候る事しあらばいづへよ君が吾を率隠れむ
1309 風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しかるべし君がまにまに
1310 雲隠る小島の神の畏けば目は隔つれど心隔つや
右ノ三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
1386 大船に真楫しじ貫き榜ぎ出にし沖は深けむ潮は干ぬとも
1387 伏超よ行かましものを目守らふにうち濡らさえぬ波数まずして
1388 石隠り岸の浦廻に寄する波辺に来寄らばか言の繁けむ
1389 磯の浦に来寄る白波返りつつ過ぎかてなくば岸にたゆたへ
1390 近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ榜ぐとはなしに
1391 朝凪に来寄る白波見まく欲り吾はすれども風こそ寄せね
浦沙に寄す
1392 紫の名高の浦の真砂土袖のみ触りて寝ずかなりなむ
1393 豊国の企玖の浜辺の真砂土真直にしあらば如何で嘆かむ
藻に寄す
1394 潮満てば入りぬる磯の草なれや見らく少く恋ふらくの多き
1395 沖つ波寄する荒磯の名告藻の心のうちに靡きあひにけり
1396 紫の名高の浦の名告藻の磯に靡かむ時待つ吾を
1397 荒磯越す波は畏ししかすがに海の玉藻の憎くはあらぬを
船に寄す
1398 楽浪の志賀津の浦の船乗りに乗りにし心常忘らえず
1399 百伝ふ八十の島廻を榜ぐ船に乗りにし心忘れかねつも
1400 島伝ふ足速の小舟風まもり年はや経なむ逢ふとはなしに
1401 水霧らふ沖つ小島に風をいたみ船寄せかねつ心は思へど
1402 こと離かば沖よ離かなむ湊より辺付かふ時に離くべきものか
挽歌
1404 鏡なす吾が見し君を阿婆の野の花橘の玉に拾ひつ
1405 秋津野を人の懸くれば朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず
1406 秋津野に朝居る雲の失せぬれば昨日も今日も亡き人思ほゆ
1407 隠国の泊瀬の山に霞立ち棚引く雲は妹にかもあらむ
1408 狂言か妖言や隠国の泊瀬の山に廬せりちふ
1270 隠国の泊瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常無き
1409 秋山の黄葉あはれみうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
1410 世の中はまこと二代はゆかざらし過ぎにし妹に逢はなく思へば
1411 幸はひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く
1412 我が背子をいづく行かめとさき竹の背向に寝しく今し悔しも
1413 庭つ鳥鶏の垂り尾の乱り尾の長き心も思ほえぬかも
1414 薦枕相枕きし子もあらばこそ夜の更くらくも吾が惜しみせめ
1415 玉づさの妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる
或ル本ノ歌ニ曰ク、
1416 玉づさの妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる