一千年の歴史を作らん

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大島大使 ヒトラー總統 リツベントロープ外相

「戦争の責任はルーズヴエルトにあり!」
ヒトラー總統の對米宣戦布告大演説
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一九四一年十二月十一日獨逸國會に於て

一千年の歴史を作らん[編集]

 ドイツ國會議員諸君!

 世界歴史的事件の頻發した一年は近く終末を告げ、極めて重要な決定を見るべき一年は目睫に迫ってゐる。この重大なる秋に當り余は茲にドイツ國民の代表者たる諸君に呼び掛けんとするものである。然し更にこれにより全ドイツ國民は過去の事象及び現在、將來下さねばならぬ決定につき知るべきである。一九四〇年、余の和平提案が當時の英首相並に彼を支特し或は制御する一味により再び拒絶さるるや、 年秋吾人は今次の戦争を理性と必然性に基づく凡ゆる理由に反しても終局まで戦ひ抜かねばならぬものであることが明かになるに至った。

 黨員諸君! 諸君は余が終始一貫、中途半端な軟弱な決意を 惜惡しつゞけて來た事を豫て知悉して居られると思ふ神の攝理がドイツ國民をして今次の戰爭を回避し得られぬ様に欲し給ふたならば今後五百年乃至一千年に亘りドイツのみならずヨーロッパの歴史、否、世界の歴史を決定的に造るこの一の史的闘爭の指揮が余に委せられたに對し余は神の攝理に感謝したいのである。ドイツ國民及びその兵士が現在勤労し闘つてゐるのは、之は單に自己及びその時代の爲のみではない。同時に来るべき、否、さきの時代の人々の爲である。神は我々に前古無比の史的大修正の完遂を委嘱せられた。これが達成こそ實に今や我々に課せられた責務である。

新ヨーロッパ戰線の構築[編集]

 ノルウェー戰終了直後既に西部に於ては停戰の可能性が生じたのでドイツ國の指導部は先づ第一に政治的、戰略的及び經濟的に重要な占領地區を取り敢へず軍事上確保するの止むなきに至った。それが爲當時占領された諸國の抵抗力の方向は爾來一極したのである。大規模な基地及び要塞地帯は今やキルケネスからスペインの國境迄に及んでゐる。無數の飛行場は新設された。然もこれは遠く北部に於ては或るものは花崗岩の原石爆破により造られたのである。海軍には海上からも空中からも實際上難攻不落な規模を有する潜水艇基地が建設された。又千五百餘の砲臺は防備の衞に當つてゐて、その陣地は調査され計畫されて構築されたものである。尚ほ道路及び鐵道網が建設され、現今はスペイン國境とベツアモ間の連絡が海上とは無關係に確保されてゐる。海陸空軍の工兵隊及び建設大隊はトツド部隊と提携して茲にジークフリード戦に毫も遜色なき施設を構築したのである。然も毅然としてその擴大强化に寧日なき有様である。

このヨーロッパの正面を如何なる敵の攻撃に對しても不可侵たらしむること、これ余の断乎たる決意である。昨冬中も繼續された防禦的性質を有するこの事業はそれ迄は季節の關係に制限されてゐた攻撃的性質を有するこの事業はそれ迄は季節の關係に制限されてゐた攻撃的戰爭が遂行されるに及んで完成されたのである。ドイツの海上並に海中戰闘力はイギリスの艦船並にその任務に服する艦船に對して不断の殲滅戰を續けた。ドイツ空軍は偵察並に攻撃により敵艦破壊を援助し、英本土に對する無數の報復爆撃により所謂「魅惑的戰爭」とは如何なるものであるかを、より明かにイギリス人に示したのであるが、何ぞ計らんこの「魅惑的戰爭」の元祖たるや第一に現イギリス首相その人に指を屈せねばならぬ。


北阿戦線の戦果[編集]

 今次の戰爭に於いて昨年の半ばドイツは、特にその盟邦イタリーの援助を受けた。數箇月に亘ってイギリス努力の一大部分が盟邦イタリーの双肩に重く被さつてゐたのである。英軍は單に重戰車の極めて優勢なお蔭で北阿に於ては一時危機を招來するに成功したが、昨年三月ニ十四日には早くもロメル將軍指揮下の少數部隊より成る獨伊聯合軍が反撃を開始したのである。四月二日にはアゲダビアが陷落し、四日には聯合軍はベンガジに到達 、八日にはデルナに入城し、十一日にはトブルクを包圍し、十二日にはバルデイアを占領した。ドイツのアフリカ遠征部隊は、戰場の氣候が全く相違し、ドイツ人には不慣れであつたにも拘らず愈々以て赫々たる戰果を收めたのである。嘗てスペインに於ける如く今や獨伊兩國は北アフリカの野に於いて同一の敵に對し手に手を携へて戰つてゐる。

 斯くの如き果敢な行動により北阿戰線が獨伊兵士の血を犠牲にして再び確保されてゐる間に歐州は旣に恐るべき不吉の影に覆はれたのである。余は一九三九年秋緊急巳むを得ざる必要に迫られ獨ソ間の焦眉の不和を芟除して全面的平和の前提を確立せんと決心した。元來ドイツ國民、特にナチス黨の堅持するはボルシエヴイズムに對する立場が全然反對なためこれは余にとつて精神的には苦痛であつた。然し乍ら實際上は困難では無かつたのである。何故かといふとイギリスがドイツより脅威されてゐると稱し援助條約を口實にして侵略した凡ゆる國々に對してはドイツは事實常に經濟的利害のみを目標としてゐたからである。

 ドイツ國會議員諸君! 余は又その理由として諸君に回想して戴き度いのはイギリスが一九三九年初夏及び盛夏に又もや多數の國々に對してドイツが之に侵入しその自由を剥奪する意向を有してゐるかの如く主張して、之等諸國に援助を申し出た事である。随つてドイツ國及びドイツ政府はこれは毫も事實に卽せざる單なる想像に過ぎないものであると確信を以て斷言し得たのである。


バルチック諸國の迷蒙[編集]

 加之英外交に乗ぜられて一の戦争がドイツ國民に强制せらるる様な場合にはドイツはその戰を極めて高價な犠性を拂つてのみ遂行可能な所謂ニ面作戰により敢行するより他はないといふ冷静な軍事上の認識を得たのである。更にバルチツク諸國、ルーマニア其他がイギリスの援助條約採決に傾き又これによつて彼等諸國も亦斯くの如き脅威を信ずる旨を暗示したので自国の利害關係の境界を決定することはドイツ政府にとり單に權利のみならず同時に義務であったのである。

 之等の諸國は其の後間もなく東部の脅威に對する最も強力な保證となり得た唯一の要素は獨りドイツ國のみであつたといふことを認めざるを得なかつた。之等の國が斯く後になって始めて認識したのはドイツとしても遺憾とするところである。兎に角彼等の滅亡したのはその自己の政策を通じドイツとの連繋を遮断し、その代りに他國の援助を信頼した結果に他ならないのであつてこの他國たるや數世紀來文字通りの自己主義に堕し未だ掌て援助を與へす寧ろ常に救援を要求した國である。

 然し乍らドイツは之等の國々の運命に就いて同情の念を禁じ得なかつた。フインランド人の冬季職は吾人に苦悩と驚欺との混同せる一種の威情を抱かしめた。驚欺したのは吾人自身が尚武の國民として英雄的行為や犠牲心に對し感じ易い情操を有するが爲であり、又心苦しく感じたのは吾人が西部の脅威的敵と東部に於ける危機とを空しく目前に見乍ら當時はこれらの國を武カを以て援助し得ぬ立場にあつた爲である。而してソ聯がドイツの政治的影響圏を限定してこれによりその圏外にある諸國を事實上撲滅するの權利を捻出せんとすることが明かとなった後の獨ソ關係は、只單に各自の目的を追求する爲に續けられたに過ぎなかつたのであつてこれは凡そ理性と感情との全く許さゞるところでであつた。

 ドイツは其の後數箇月を經て一九四○年には早くもクレムリンの一味こそヨーロッパを支配し、以て全欧を破壊せんと意識的に計畫する者であると認定するに至つた。余はドイツがソ聯の國境に隣接せる外に僅か數個師團の兵力を配備するに止めた當時既にソ聯の軍事力が東部に於て前進せる事實につき概貌を明かにしたのである。既に當時東部に於ては前古無比の大規模なソ聯軍の前進が實行されてゐたことは盲人と雖も看過し得なかつた。然も脅威されてゐないものを防禦せんとする目的ならばせめてもましであるが、然らずして寧ろ防禦カを最早有しない様に見えたものを攻撃せんとのみしたのである。 而して西都に於ける戰闘が電撃的に終結してモスカウの爲政者達が常にしてゐたドイツの急速な國カ疲弊の可能性が消え失せたにも拘らず彼等の意嚮は毫も幾らなつたのであつて寧ろ彼等は攻撃の時期を單に遷延したに過ぎなかつた。彼等は恐らくは一九四一年の夏こそ攻撃開始の爲にも最も好機であると思つたに違ひない。全歐は所謂蒙古人の新らしい襲來に依つて危く蹂躙されんとしたのであつた。

ヨーロツパの境界とは?[編集]

 然しこれと時を同じうしてチヤーチル氏は對獨戰を强化すると約言した。彼は今は一九四〇年英下院秘密會の席上、ソ聯の参戰を以て今次の戰爭を有利に繼續し終結せしむる最も重要な因子であると强調し又ソ聯の参戰は晩くとも一九四一年には實現し、次いで英國は自國も亦攻撃に移り得るであらうと自ら示唆した事實を卑怯にも否定してゐる。今年春、我々は随つて確固たる義務の爲人カ及び物資を無盡蔵に所有するかの如く見えた。一大國の進軍の跡を追ふたのである。斯くしてヨーロツパは愈々暗雲に閉ざさるるに至つた。

 議員諸君! 然らばヨーロッパとは何んであるかといふに、ヨーロッパ大陸については何等地理的定義が無い只民族的及び文化的定義があるに過ぎないウラルはヨーロッパ大陸の境界ではなく、西方の生活様式を東方のそれと隔絶するその線である

 嘗てはかういふ時代があつた。それはヨーロッパがギリシャの島嶼の様なものであつて、ここへ北方の民族が侵入して來て爾來徐々ながら不斷に人類の世界を明朗にした焰をここで初めて點したのであつた。このギリシャ人共はペルシャの征服者の侵入を防いだ時にはその狭隘な故國を防護せず却つて現今ヨーロッパといふこの概念を防いだのである。

 而して次いでヨーロッパの中心は古代ギリシャからローマに移つた。茲に於いてローマの思想及び政治がギリシャの精神並にギリシャ文化と合體したのであつてこれにより一大國が建設されたが現今も尚その意義が創造的カを發揮してゐないのである。況んや優勢ではないことは勿論である。然しローマ軍のカルタゴ侵略に對抗し三回も参戰してイ夕リーを防禦し且つ遂に勝利を博した時彼等の戰つたのは再びローマのためではなかつたのであつて、寧ろギリシャ、ローマ的世界を包含せるヨーロツパのためであつた。

ヨーロツパの發達[編集]

 新しい人類文化のこの故國の土地へ次に侵入したのは遠く、アジアより襲來した民族であつた。非文化的漂泊民の怖ろしい大群が奥アジアから現今のヨーロッパ大陸の中心地まで火を放ち殺戮を行ひつつ恰も神の懲罰の如く襲來した。次いでカタラニアの戰野でローマ人とゲルマン人が始めて協同し重大な運命戰を遂行しギリシャ人に源を發しローマ人を經て今やゲルマン人にも影響を與へた一の文化を擁護した。

 ヨーロッパは育成した古代ギリシャ及びローマから西洋が生まれた。而して西洋を擁護することは數世紀に亘つてひとりローマ人の使命のみならず特にゲルマン人の使命であつたのである。然し乍ら西洋がギリシャ文化の照明を浴びローマ帝國の力强い傳統を成受し且つゲルマン人の開發によつて擴大するに随つてそれだけ一の観念が地域的に擴がつたのであつてこの観念を我々はローヨッパと呼んでゐるのである。ドイツの皇帝がウンシュトルツス河畔や或はレツヒ河畔で戰つたのは東方民族の侵入を阻止する目的であつたかどうか、或はアフリカが長年戰つてスペインから獨立したかどうか、かう云ふことは枝葉な問題に過ぎない。要は、これらも皆常に成長せんとするヨーロッパが根本的に異つた世界に對して遂行した一の闘爭であったのである。甞てローマはヨーロッパ大陸の建設防護のため不朽の功績を樹てたが次いでゲルマン人も今や諸民族より成る一の所謂家族を防衛し守護するの任を引受けたのであつて、この家族内に於ては相互にその政治形態及び目標について尚ほ相違し相反するものがあるが、然し全體から見れば血統上及び文化上部分的には同じであり又部分的には統一を保つてゐる。而してこのヨーロッパからは地球の他の部分へ移住するものが出でた許りでなく同時にヨーロッパからは精神及び文化的果實が他の大陸へ移植されたのであつて、この果實は眞理を否定せずして追求する意志ある者のみの認識するところである。

 隨つてヨーロツパはイギリスにより開化されたものではなく寧ろヨーロツパ大陸に於けるゲルマン民族の片われがアングロサクソン及びノルマン人としてこの島、即ちイギリスへ渡り、これを進歩せしめたもので、この進歩は但し長くは續かなかつたのである而してこれと同様にアメリカがヨーロツパを發見したのではなく、ヨーロツパがアメリカを發見したのである。アメリカがヨーロツパから輸入しなかつたものは凡てユダヤ化した一の混合民族にとつて嘆美すべきものと思はれるかも知れぬがヨーロツパは斯くの如きものは藝術及び文化生活を頽廢せしむるもの換言すればユダヤ人或は黑奴の血統の遺產としか思はないのである。


全ヨーロツパの運命の爲に![編集]

 ドイツ國會議員諸君! 余が斯くの如く論及せざるを得ない理由は本年の初めより徐々に必然的になり、且つ第一にドイツ國が其の指導に當る義務ある今次の戰爭こそ同様にドイツ國及び國民の利害を超越するものであるからである。換言すれば嘗てギリシャ人がペルシャ人に對抗しギリシャ自國を防がずして寧しろヨーロッパを防禦しローマ人がカルタゴ人に對しローマにあらずしてヨーロッパを、又ローマ人及びゲルマン人が匈奴に對し西洋にあらずしてヨーロッパを、ドイツの皇帝が蒙古人に對してドイツにあらずしてヨーロッパを、スペインの英雄がアフリカに對しスペインにあらずしてヨーロッパを、防護した如く、ドイツも亦目下自國の爲にあらずして全ヨーロッパの運命の爲に戰つてゐるのである

 この認識が主なるヨーロッパ國民の根本意識に現今深く根を下ろしてゐる事を喜ぶべき微候であつて、この現れが個人の赤裸々な意見の發露なると義勇兵の戰爭参加たるを問はないのである。

 ドイツ並にイタリーの軍隊が本年四月六日ユーゴースラヴィア及びギリシャの攻撃を敢行した時が既に、目下我々が遂行中の大戰爭の序幕であつた。何故かといふにイギリスの首謀者共は、この戦争勃發に關與してはゐたが、然し實はロシアがその主役を演じてゐたからである余はモロトフ氏のベルリン訪問の際同氏に對し拒絶したことをスターリンは再び我々の意思に反し、革命的運動により所謂廻り道をして遂行し得るものと信じたのである締結された諸條約等は毫も顧慮せずポルシェヴィキの主權者共は彼等の意向を强化したのである。この新しい革命的政權たるソ聯と友好條約を締結するに及んで忽然として脅威的危険の逼迫が明らかになつた。今次の戦争に於けるドイツ國防軍の業績は一九四一年五月四日のドイツ國會で正しく評價された。然し當時余は我々が急速に或る國との衝突に邁進してゐたのを認識せる旨については残念乍ら言明を避けねばならなかつた。この國はバルカン戰の時はその進軍が未だ完遂せず又特にその當時の季節には雪溶けが始まつて滑走場の地質が弛んでゐた爲に飛行基地が利用出來なかつたといふ原因で當時は未だ攻撃を開始しなかつたものである。


余を見損ふもの[編集]

 ドイツ國會議員諸君!  余は英下院の報告を通じ又ドイツ國境にソ聯軍が移動せる事實を看取して東部に於ける危機勃發の可能性を確認したため新鋭な戰車、機械化及び歩兵部隊を配備する様直ちに命令を下した次第である。これが前提をなしたのはドイツが人的に又物質的に尚ほ充分能力を保有してゐる事であつた。議員諸君! 之は余が諸君並びに全ドイツ國民に向つて敢へて保證し得るところである。

 過去に於ては民主主義諸國に於ても吾人の容易に理解し得る如く軍備に就ては種々論議されてゐたが、その間に我國民社會主義ドイツは着々と軍備を整へたのである。此の點は過去も現在も何んら變らない。我々は一度決定が下されれば、いつもより多い又より優秀な武器を得る事が出来る。

 如何なる場合も敵をして我心臓へ始めの一撃を與へしめざる事が緊要であると如何に確認してもこの場合ソ聯に對し決心をなすのは余にとつて極めて困難であつた。民主主義的新聞記者は余がポルシェヴィキの力を精神に知ってゐたならば恐らくソ聯に對し攻撃を開始し得なかつたであらうと現在往々論じてゐるが、これは當時の情勢と且つ余、個人を見損ふのも甚だしいものと云わなければならぬ余は戰争を自ら求めた事はない。否余は反對に回避せんと凡ゆる努力を拂つたのである。若し余が戰争の不可避を認め乍らも唯一の可能な結論を引き出すことを躊躇したとすれば、恐らくは義務を忘れ良心を拾てて行動したことになつたであらう。余はソ聯こそ單にドイツ國のみならず全ヨーロッパにとり致命的危険因子であると考へたので、出來得れば衝突勃發の數日前に自ら敵に攻撃の目標を提供せんと決心したのである。ソ聯が攻撃せんとしてゐた事實については多數の確實な證據がある同時に又、我々はソ聯が攻撃せんとした時期についても明確に知つてゐたのであるこの危険が想像以上大規模であつたのを今や始めて知るに至って余は神が我等のなさねばならなかつた事を遂行する力を時期を違へず余に與へられたに對し余は在天の神に感謝せざるを得ない。余の對ソ決断に對してはひとり何千のドイツ將兵がその生命を感謝すべきのみではなく實に全ヨーロッパの存立はこの決断によつて維持されたのである。

 若しソ聯のニ萬以上の戰車、數百ケ師團の軍隊、數萬に達する大砲が數萬の飛行機に誘導され突如として怒濤の如くドイツを席捲して行動を起したとするならば、恐らくヨーロッパ人は滅亡して了つたであらう。運命は多數の國民をその血を犠牲に供してこれに先んじしめた。即ちポルシェヴイキの攻撃を阻止せしめたのである。若しフインランドが再び干戈を執る決心を直ちに下さなかつたならば北欧諸國の有する地味な堅實性は互解したであらう。若しもドイツがその將兵と武器を以て、この敵に對抗し立ち上らなかつたならば欧洲の均衝維持といふ笑ふべき英國思想を全く魂のない馬鹿げた傳統により實現せしめんとした一つの思潮が全欧洲を席捲したであらう。

 スロヴアキア人、ハンガリア人及びルーマニア人がこのヨーロッパの世界を共に擁護しなかつたならばポルシェヴィキの漂泊民はアチラの匈奴群の如くドナウ諸州に荒れ狂ふたであらう。而してイオニア海沿岸の廣野で今日の時勢に韃靼人蒙古人が、モントロー條約の改訂を強制するに至つたかも知れぬ。イ夕リー、スペイン、クロアチアが師團を派遺しなかつたならば、新ヨーロッパ観の宣言として凡ての他の國民へも同時に効力を投げ與へた一のヨーロッパ擁護戰線などは結成されなかったのであらう。かかる認識を洞察して北部並びに西部ヨーロッパからノルウエー人、デンマーク人、オランダ人、フランダース人、ベルギー人更にフランス人の義勇兵が馳せ参じたのである。これに依つて枢軸諸國の闘爭は眞に文字通りのヨーロッパ十字軍たる性格を有するに至つた


ヨーロツパ十字軍[編集]

 このヨーロッパ十字軍征戰の企劃及び指導を語るには今は時期向早である。然し乍ら戰闘地域が餘り厖大であり、又事件が餘りに複雑重大である爲、個々の印象が打ち消され、又記憶に留め得難い前古未曾有の今次の戰争について既成の事實を二、三指摘する事は余は既に今でも差支へないと考へる。

 對ソ攻撃が開始されたのは實に六月ニ十二日の黎明であつた。我軍はソ聯の對獨進駐を驚異的に支持せんとして設けられたソ聯の國境陣地を抵抗不可能な猛烈さを以て瞬く間に占據したのである。六月ニ十三日には早くもグロドノを占領し、二十四日にはプレスト・リトヴィスクの陥落後敵の城砦を奪取してヴイルナ及びコウノを攻撃した。かくして六月ニ十六日にはデユーナブルダが我軍の手に入つた。越えて七月十日にはブリマンスクとミンスクの最初のニ大包囲殲滅戰が完了したのであつて當時我軍は三十ニ萬四千人の捕虜を獲得し三千三百三十二臺の戰車と千八百九門の砲を捕獲した。七月十三日には既に殆ど凡ての重要な地點に於てス夕ーリン線が突破され又ドニエプル河の渡河も强行された。八月六日にはスモンレスクの戦闘が終束し捕虜三十六萬を算し我が軍は三千二百五臺の戰車と砲三千百二十門を撃破又は捕獲した。その後三日を經て早くも其他のソ聯軍の運命は決したのである。卽ち八月五日ウマンの戰闘に於て再び十萬三千名を捕虜とし、戰車三百十七臺、砲一千百門か破壊又は鹵獲したのである。八月十七日にはニコラエフが陥落し、ニ十一日には、チェルソンが占領された。又同日ゴメル方面の戰闘が完了したが其際我軍は捕虜八百四十を得、戰車百四十四臺、砲八百四十八門を破壊又は鹵獲した。八月二十一日にイルメン湖ペイプス湖間のソ聯軍諸陣地は我軍の突破する所となり、二十六日にはドニエールペトロウスタの橋頭堡が我軍の手に歸した。

 同月二十八日には既にドイツ軍は激戰の後レバール及びバルチツク港に進出し又フインランド軍は三十日ヴィブリーを占據したのである。九月八日シュリユツセルブルグが占領されるに至って、レニングラードは南方との連絡を完全に遮断された。十六日にはドニエブル河の橋頭堡を占拠して既に十八日にはボルトフが我軍の手に落ちた。十九日には我軍は怒濤の如くキエフの城砦に迫り同市を占領しニ十一日にはエノゼル河を渡河したのである。斯くの如き大成功によつて始めて大作戰の實が熟したのである。二十七日にはキエフ方面の戰闘が終了したがこの戰闘に於ては捕虜數六十五萬五千に達した。彼等は蜿蜒長蛇をなして西部へと護送されたのである。同時にこの戦闘に於ては戰車八百八十四臺、砲三千七十八門が包囲された。敵陣地で我が手に歸した。十月二日には既に東部戰線の中央部に於て突破戰が開始され十一日にはアゾン海沿岸の戰闘は赫々たる戰果に飾られて終つたのである。その際再び捕虜十萬七千名、戰車二百十二臺、砲六百七十二門を鹵獲した。十月十六日には独逸聯合軍は激戦の後オデツサに入城、同十八日には十月ニ日に開始された東部戰線中央に於ける突破戰が世界戰史上稀有な大勝利の裡に完了した。同戰闘に於ては六十六萬三千名を捕虜とし、戰車千ニ百四十ニ臺及び砲五百五十ニ門を破壊又は鹵獲したのである。又十月二十一日にはダゴが占領され同月二十四日にはハリコフの工業中心地を占領した。更に二十八日にはクリミア半島への通路を激戰後確保し既に十一月二日には首都シンフェロボールに殺到し、十六日にはケルチに至るまでクリミア半島を席捲したのである。十二月一日にはソ聯軍の捕虜數は三百八十萬六千八百六十五名に達した。また撃破或ひは鹵獲せる戰車の總數は二萬一千三百十一臺、砲三萬二千五百四十一門、飛行機一千七百三十ニ機に上つた。又同期間内に英機ニ千百九十一臺をも撃墜したのである。尚ほ海軍によつては四百十七萬六百十一噸の艦船が、空軍によつてはニ百三十四萬六千六百八十噸が撃沈された。其の撃沈噸數は六百五十萬六千七百九十一噸に達した。


世界に誇る歩兵部隊[編集]

   議員諸君! 國民諸君!

 これは全くありのまゝの事實であるが、恐らく諸君にとつては無味乾操な數字であらう。然し乍ら諸君は我々ドイツ國民の歴史、更に意識並に記憶からこれを掻き消さない様にと余は祈るものである。何故かと云ふにこの數字の蔭には業績と犠牲と苦困が隠されてゐる。ドイツ國民及びその盟邦の數百萬の最良の男子が抱く決死的な魂、滅死奉公の精神が宿つてゐるのである。

 これは凡そ生命と生活を全部投げ盡し故國では殆ど想像の及ばぬ努力を拂つて獲得されたものである。遠く無限の境に進軍し、酷暑と渇に苦悩し、果てしなき泥濘の道に阻止されて殆んど絶望の淵に陥り、七、八月の酷熱、十一、十ニ月の冬の暴風と闘ひつつ白海から黒海に至る不慣れな悪氣侯に曝され、虫に悩み、汚物や害虫に苦勞し、雪や氷に凍えてドイツ人、フィンランド人もイ夕リー人、スロヴァキア人、ハンガリー人、ルーマニア人、クロアチア人、北部及び西部ヨーロツパ諸島よりの義勇兵は戦つたのである。ここに余は特に東部戰線の兵士を擧げたい。然し多季に入るに及んで今やこの戰闘行動は自然的に停止され、夏季の到來と同時に進軍は再び續行された。

 余は本日は軍隊の名を一々擧げたり、または各司令部の功績を稱揚したりしようとは思はない。彼等は擧つてその最善を盡したのである。然し乍ら、或る一事だけはこれを何度でも確認するのが、理解ある事であり又正當であると考へる。卽ち、凡ゆるドイツ將兵の中で、最も困難な戰闘任務に服してゐるのは、今も昔も變らず、我等が世界に誇る歩兵部隊だといふことである

 六月二十二日から十二月一日までの間にドイツ軍が今次の英雄的戰闘に於いて失つたのは、戰死者十五萬八千七百七十三名、負傷者五十六萬三千八十二名、及び行方不明者三萬一千一百九十一名であり、空軍にあつては、戰死者三千二百三十一名、負傷者八千四百五十三名、行方不明者ニ百八名であり、又海軍では、戰死者三百十名、負傷者ニ百三十二名、及び行方不明者百十五名である。隨つてドイツ國防軍は全部で戰死者十六萬二千三百十四名、負傷者五十七萬一千七百六十七名、行方不明者三萬三千三百三十四名を喪失した。かくて、戰死傷者の數は前大戰のソンム戰の戰死傷者數の約二倍强で、行方不明者の方は當時の數の半數に達しない。然し凡てがこれ皆我が國民の父であり息子である。而して諸君、余は次にかの一の他の世界に對して意見を披露してみよう。その世界は數多の國民と將兵が氷雪の中で戰つてゐる時に、いい氣になつて爐邊で閑談などに耽る癖のある男に代表され面もその男といふのが今次の大戦の抑々張本人たる世界である。一九三九年に當時のポーランド國に於ける諸民族の狀態が念々堪え難きものとなつた時に、余は公正なる妥協によつて満足すべき解決に達せんものと努カする處があつた。暫くの間は恰もポーランド政府自身が理性的な解決に同意すべく、眞面目な考慮を拂つてゐる様に見えた。余が茲で尚附言し得る事は、これら總べての提案に際してドイツ側は、以前にドイツ領であつたもの以外の何物をも要求しなかつたといふことである。

 否それどころか、寧ろ反對に我々は、前大戦以前にドイツに所属してゐたものをも少なからず斷念した程である。諸君は今比の當時の劇的發展過程や、益々増大したドイツ系民族の犠牲を想起されるであらう。議員諸君! 諸君はこれらの血の犠牲を今次の戰争の犠牲と比較してみるならば、當時の犠牲が如何に甚大であつたかを最もよく測り知ることが出來るのである東部戰線に於ては之迄にドイツ國防軍は總數十六萬の戰死者を犠牲に供した然るに、當時を見るに、極めて平和な時代であつたに拘らず數ケ月間にポーランドは六萬一千名を超えるドイツ人が殺害され、而もその一部は残虐極まる拷問を受けたのであつた。我ドイツ國が接壌地に於ける斯かる狀態に意義を申立て、而してこの狀態の打開を厳重に要求し、且つ總じて自國の安全についても考慮を拂ふべき權利を有してゐたといふことは、他の諸國が他の諸大臣に於いてさへその安全のため基地を追求する如き現在の時代にあつては、極めて當然な事である。解決せらるべきであつた問題は、領土的に見れば些細なものであつた。本質的には、ダンチツヒ及び東部プロシアの切断されたる地方と爾餘のドイツ國領との連繋といふ問題であつた。他ならぬこのポーランドに於いて當時ドイツ人に加へられたあの残酷な數々の迫害は、思ひみるだに胸を締めつけざるを得ないものがある。尚ほポーランドは他の少數民族等も亦これに劣らぬ悲痛な運命を忍ばねばならなかつたのである。同年八月に入つてから、全權委任の形式で與へられたイギリスの保證のために、ポーランドの態度が益々强硬となつて來たのに鑑み、ドイツ國政府は、これを最後の機會として、一個の提案を行ふことに決し、この提案に基いてポーランドと交涉に入る用意を有し且つその旨を當時のイギリス大使に口頭で通告したのであつた。余はこれらの提案を今日こゝで記憶から呼び起し、再び諸君の注意を喚起したい。

ポーランド問題に對する獨逸の提案とその眞相[編集]

 その時の提案といふのは、ダンチツヒ廻廊問題並びに獨波兩國に於ける少數民族問題の調整に關するものであつた。當時ドイツ、ポーランド間の情勢は頗る緊迫してゐて、正に一觸即發の状態にあつたものといふことが出来る。そこで、如何なる平和的解決と雖も、それがすぐ次の機會に斯かる狀態の原因となるが如き諸事態を發生せしめないやうに、またそれによつて單に東部ヨーロッパのみならず、他の諸地方までも同様の緊迫狀態に陥ることのないように、達成せられねばならないのであつた。

 事態がかくなつた原因は、第一にはヴェルサイユの所謂獨裁條約によつて定められた實行不可能な國境制定法にある第ニには分離された諸地カに於ける少數民族に對する不當な取扱ひが原因である。そこでドイツ國政府は、これらの提案に際して國境制定を淸算して双方にその存立上必要な連絡路を建設し、少數民族問題も出來得れば解決せんとする考慮及び、若しもこれが不可能の時は少數諸民族の運命を、彼等の權利の完全なる保證によつて堪え易いものにしようといふ意嚮から出發したものである。ドイツ國政府の確信せるところでは、その場合一九一八年以來行はれて来た經済的及び肉體的損害を明かにし、且つそれを全面的に補償することが絶對に必要であつた。ドイツ國政府は、この種の義務的行為を以て、當然双方を拘束し得るものと看做した。即ち、かかる考慮に基いて次の如き實際的、諸提案が提出されたのである

 第一自由都市ダンチツヒは、同市の純然たるドイツ的性格並びに同市居住民の一致せる意志に基いて、直ちにドイツ國に復歸すべきこと。

 第二、バルチツク海からマリエンヴエルダー、グラウデンツ、クルム、ブロムベルグを繋ぐ線(これらの都市を含む)に至るまで及びそれから稍々西の方シエーンランデに至る所謂廻廊地帯は、そのドイツ又はポーランドへの歸屬に關して各自により決定せらるべきこと。

 第三、かかる目的の爲に此の地方は票決を行ふこと。その票決權を有する者とは、一九一八年一月一日現在同地方に居住してゐたか、又は同日までに同地方に生れたる總てのドイツ人及び同様に同日同地方に居住してゐたか、又は同日までに同地方に出生せるすべてのポーランド人、カシューブ人等々である。而して同地方より放遂されたドイツ人等は彼等の票決を行ふ為に歸還すること。

 公正なる票決を確保するため並びにそのために必要な廣汎なる準備工作を保證するために、前述の地方はザール地方に於けると同時に、直ちに構成さるべき國際委員會に従属せられること。同委員會はイタリー、ソビエト聯邦、イギリス、フランスの四大國により構成せらる可きもの。同委員會は同地方に於ける一切の主權を行使する。その爲には意見の一致し得る限りの最短期間中だけ、同地方からポーランドの軍隊、警官及び官史が退去せしめられることを要する。

 第四、本地方から除外されるのはポーランドの海港グヂニヤである。同港は、領土的に見てポーランドの植民地に限定せられてゐる限り、原則はポーランドの主權下にある地域である。

 本ポーランド港灣都市の一層細目に亘る境界はドイツ、ポーランド兩國間に於て確認せらるべく、また必要な場合にはそのための國際仲裁裁判所を設けて確定すべきものとす。

 第五、正當なる票決を遂行するに必要な廣汎なる準備に要する時間を保留するため、本票決は十二ケ月を經て始めて施行せらるべきものとす。

 第六、この期間ドイツ國に對しては同國東部ブロシャとの連絡を及びポーランドに對してはその國の海洋との連絡を、夫々無制限に保證するため、自由なる通過交通を可能ならしむべき道路及び鐵道が建設せらるべきこと。この場合、當該交通路の維持乃至輸送の遂行に必要なる如き關税の徴収に限り施行せらるること。

 第七、本地方の所屬は専ら投票の多數決により確定せらるべきものとする。

 第八、票決の行はれたる後――その成行如何に關係なく――ドイツ領地たるダンチツヒ州や東プロシャとの自由なる交通を確保し、またポーランドに對してその海洋との連絡を保證せんがために、若しもその票決地方がポーランドのものとなつた場合には、大體ピュートフダンチツヒ乃至デイルシャウの方面に於て、ドイツ國有自動車道路並びに復線による鐵道線路を敷設するために、一個の治外法權交通地帯が故置せらるべきこと。これらの道路及び鐵道の建設は、それによつてポーランドの交通路が妨害せられざる様、即ちその交通路の上を超えるか又はその上を潜るかの方怯で遂行せられること。この地帯の幅員は一粁に確定せられ且つドイツの主權下にあること。

 若しも票決の結果がドイツ側に有利となつた場合には、ボーランドは、その所有する港灣たるグジンヤへの自由にして無制限なる交通のために、ドイツに許さるべきものと正に同様の、治外法權的な、道路乃至鐵道交通の權利を享有し得ること。

 第九、廻廊地帯がドイツに歸屬せる場合には、同廻廊が適當とする範圍に於いて、ポーランドとの間に居住民の交換を行ふべきは自明なること。

 第十、ポーランドの希望せるダンチツヒ港に於ける特權の如きはドイツのグチニヤ港に於けると同様の權利と、對等に取扱はれて然るべきものであらう。

 第十一、本地方に於ては脅威を與ふるが如き如何なる威情をも排除せんがために、ダンチツヒとグヂニヤとは純然たる商業都市としての性格を保有すべきこと。換言すれば、一切の軍事的施故及び軍事的防禦工事を施さざること。

 第十ニ、投票の結果ドイツかポーランドの何れかに歸屬すべきへラ半島はいづれにしても軍備は徹廢すべきこと。

 第十三、ドイツ政府はポーランドの少數民族取扱に對して厳重抗議を提出する要あり、又ポーランド政府亦ドイツに對して幾多不満表明の必要を認めつつあるものの如くであるが故に、兩國は茲に這般の不満を國際調査委員會に廻附することに同意する。該委員會は經済的有形的損害並びにテロ行爲に關する一切の抗告を調査する任務を帯びるものとす。

 ドイツ及びポーランドは一九一八年以來發生を見た一切の經済的其の他の、兩國少數民族の蒙りし損害を賠償すると共に一切の徴収を廢止し又は、此の種及び其の他の經済生活への干渉に對して該當者に完全な賠償を行ふべき義務を負ふ可きものとす。

 第十四、ポーランドに残留するドイツ人並びに、ドイツに残留するポーランド人が有する國際決侵犯の威情を一掃し、且つ彼らに國民的威情と相容れざる行動勤務に强制されざる安全威を與へるため、ドイツとポーランドは、廣汎且つ義務的の協定を締結して兩國少數民族の権利を確保し、以てこれら少數民族にそれぞれの民族性を保持せしめ、これを任意發揚せしむると共に、これが目的達成のために彼らの必要と認むる組織を認容するに同意する事、兩國は少數民族所屬者を兵役に徴集せざる義務を負ふ事。

 第十五、上記諸提案に基き協定の成立を見る暁にはドイツ及びポーランドは直ちに兵カの動員解除を手配、實施するに同意する事。

 第十六、上記取極めの促進に必要な今後の措置については、ドイツ及びポーランド は、協力してこれが一致を計る事。

 扨てドイツの提案は以上の通りであつたが、當時のポーランド政府はこれらの提案に對して回答することさへも拒絶し來つたのである。これについては、かかる眇々たる一國家が、此のやうな提案を一蹴せるに止まらず、自國に一切の文化を賦與して來たドイツ人に對して、依然として残忍なる行爲をなせるのみならず、總動員の態勢を採つたのは何故であらうかといふ疑問が起るのであるが、後日在ワルシャワ外務省の公文書を閲覧するに及んで我々は驚くべき事實を知るに至つた。卽ちこゝにポーランドの抗戰力を强化し、事態を和解に導く一切の可能性を打破する目的を抱いて、無責任にもその全勢力を注ぎ込む一人物があつたのである。


今次大戰の責任者[編集]

  當時のワシントン駐箚ポーランド公使ポトツキ伯爵が、同國政府に齎らした報告なるものは公文書であるが、これによればこの一人物及び、彼を使嗾する背後勢力こそ第二次世界大戦の全責任を負ふべきものであることが、驚くほど明瞭に判然として來る

 次に起る疑問は、如何なる理由でこの人物が今まで全歴史を通じてアメリカは勿論、彼自身に對しても何ら危害を加へなかつた一國に對し、かくも狂信的な敵性を抱くに至つたかといふことである。この一國、卽ちドイツのアメリカに對する態度に關しては次の如く斷言出來る

 第一に、ドイツこそは恐らく、南北兩米大陸に於て未だかつて一箇所も植民地を領有せざりしは勿論、政治的にも何ら活動を起した事のない唯一の國家である。況んやアメリカ移住のドイツ人は犠牲的に働いたのであつて、アメリカ大陸、特にアメリカ合衆國はこれと協力しながら只利益のみを得たのである。

 第二には、ドイツ國は合衆國建國以來現在に至るまで一度として政治上非友誼的態度――況んや敵性態度――を採つたことがなく、其の多數の息子達の血を以てアメリカの防衛に協力して來たのである。

 第三には、ドイツ國は未だ會て合衆國を敵とする戰爭に自發的に参加したことがない。寧しろアメリカこそ一九一七年には戦禍をドイツに及ぼしたのである。然もその理由たるや、ルーズヴェルト現大統領が此の問題検討のため自身で設立した委員會によつて餘すところなく明かにされたものである。一九一七年のアメリカ参戦の理由が専ら若干少數財閥の資本主義的利益に基いたこと、並びにドイツにしてはアメリカと係爭する意圖など毫も有してゐなかつたことを、最も完全に確かめたのが意外にもアメリカの参戦理由を解明する爲に設立された、この調査委員會であつた。それでなくともアメリカ民族とドイツ民族との間には領士的又は政治的性質を帯びたものにしろ、およそ合衆國の利益は素より、況んや生存を脅かすが如きものについても毫も對立は介在しないのである。成るほど國家形式の相違は一般に諸民族生活に於ける敵性の原因とは解し得ないのであつて、一國の國家形式が必然に附與された自己の領域の圏外で他國の國家形式を侵犯しない限りは斯くの如き相違點は敵性の原因ではない。

 そもそもアメリカなるものは廣汎な全權の賦與された大統領の指導する共和國なのである。ひるがへつてドイツを見るに、ドイツはかつては限定されたが、支配して來た君主國であつたが、其の後權力なき權力の民主國となり、現在は强大な權力により指導される一種の共和國なのである。此の2つの國家の間には、而も太洋が横つてゐる。資本主義的アメリカとポルシェヴィズム的ソ聯との相違は當然――若し各自國の主義概念が少くとも眞實を包攝してゐるならば大統領が支配するアメリカと總統が指導するドイツとの相違よりは遥かに大きくなければならぬ筈である。


ウイルソンとルーズヴエルト[編集]

 然るに茲に否定し得ぬ一つの事實は、ドイツと合衆國間の此の二つの史的係爭が――その同一勢力の後押しがあるにせよ――終始二人の合衆國の人物、卽ちウイルソン大統領とフランクリン・ルーズヴエルトにより炊きつけられたといふことである。ウイルソンに關する批判は歴史自らがすでに雄辯に物語つてゐる。彼の名は各時代を通じて最も低劣な食言と切つても切れぬ縁を有してゐる。彼の破約は所謂敗戰國は素より戰勝國さへその民族の生活を混亂せしむるに至つた。ウイルソンの食言だけで捏ち上げたヴェルサイエ宣言は幾多國家を分裂に導き、文化を破壊し、あらゆる國家の經済を崩壊せしめた。然かもウイルソンの背後に、これに關心を寄せつつある財閥の一民が控へ、これが此の小兒痲痺症の数授を驅使しつつアメリカを戰爭に驅り立て、巨利を夢みてゐたことを我々は今にして知つたのである。

 ドイツ民族はかつて一度は此の人物に信頼を寄せたが、これが却つて仇となりドイツ民族は嘗てその經済的、政治的生存の崩壊と云ふ代償を拂つたのである。然るにかうした數々の苦い經驗に性こりもなく復しても新規の大統領が現はれ、戰爭を勃發せしめ、何よりもドイツに對する敵意を戰端を切るまでに高めることを以て、己が唯一の使命と心得てゐるのは何故であらうか。

 ドイツに國民社會主義の勃興を見たのはルーズヴェルトの合衆國大統領當選と同じ年であつた。茲に於てか今日の展開の原因と見倣さるべき要因を検討するのが重要である。

 それには先づ個人問題に觸れざるを得ない。余はルーズヴエルト大統領の抱く人生観なり、人生に對する態度と、余のそれとの間には大きな間隔があるのを餘りによく知つてゐる。

 卽ちルーズヴエルトは富有の家庭の令息として生れ、然も生まれながらにして家柄と血統とが民主主義國にあつて坦々たる經歴と出世とが保障された人種の階級に屬してゐる。

 其れにひきかへ余自身は貧しい取るにも足らぬ家に孤々の聲をあげたのであつた、余は目に餘る辛酸をなめ努力と勤勉によつて前途を闘ひ抜かなければならなかつた。

 世界大戦が勃發するやルーズヴエルトはウイルソンの庇護を受けつつ、蔭にかくれて、然も戦時成金の雰圍氣を味ひながら戦争を體驗したのであつた。彼は従つて一方が苦戦を喫しつつある時、他方が巨利を博し、一方がこの他方に降伏するといふ民族と國家間の闘爭、快適な半面だけより知らない者である。其の黨時の余の生活といへばこれとは全く正反對であつた。余は決して歴史を作り、況んや金を作る一味の如きものには屬してゐなかつた。否余は實に命令を實行する部類に屬してゐたのである。

 余は戰時の四年間一兵卒として専ら義務の完遂に勉めつつ敵前に過ごし、やがて歸還した時には、一九一四年出征黨時のそのままの無一文であつた。余はまた更に何百萬といふ味方とも運命を分ち合つた。これに反しフランクリン・ルーズヴエルト氏は單に所謂上層數萬の一味と運命を分ち合つたに過ぎないのである。

 ルーズヴエルト氏が戰後、早くも金融投機にその才能を磨きかけてインフレーションと他人の困苦を悪用しつっ私腹を肥やしてゐたのに對し、余は黨時數十萬の者達と共に傷ける身を野戰病院の一隅に模たへてゐたのである。更にまたルーズヴェルト氏が商才にたけた合法的に擁護された經済通の政治家の出世街道を闊歩してゐたのと事變り、其の黨時の余は一介の無名人として史上かつてなき不法を加へられた一民族の復興の爲に死闘してゐたのであつた。思へば似寄りもつかぬニ人の活き方である。


禁錮さるペき大統領[編集]

 即ちフランクリン・ルーズヴエルトが合衆國の首班に列せられた時彼は資本家によつてすつから懐柔しつくされた政黨の侯補者で黨に利用されてゐたのだ。而して余がドイツ國の首相に就任した時、余は自ら創建した民族運動の指導者であつたのである。ルーズヴエルト氏を支持せる勢力こそ余がドイツ國民の運命と又余の最も神聖な内心の確信に基いて殲滅を期してゐた勢カに他ならなかつた。新規の米大統領が驅使してゐた所謂「ブレーントラスト」なるものは余がドイツに於て人類の奇生虫的現象として殲滅を目指し且つ漸く公的生活より芟除し始めたところの國民層により結成されてゐたものである。

 然し他方余と彼とは僅かながら共通な運命にもあつた。フランクリン・ルーズヴエルトは民主主義の影響を受けてアメリカの經済が衰頽してゐる時政權に就いた。 而して余も亦民主主義のためにドイツが全く瓦解せんとした一歩前にドイツ國指導の衞に黨つたのである。黨時アメリカ合衆國は千三百萬の失業者を有しドイツは七百萬の失業群と更に七百萬の半失業者を抱いてゐたのである。この兩國とも政府の財政は混亂し一般の經済生活は益々低下してその止まるところを知らぬ有様であつた。

 この時、アメリカ合衆國及びドイツに於いては後世をして何れの理論が正黨なりや否やにつき絶對的判断を容易に下さしむる一の情勢が展開したのである。黨時ドイツは國民社令主義政權の指導の下に生活、經済、文化、藝術等が驚異的向上を遂げたがこれに反し、ルーズヴェルト大統領は自國内の僅かな改良さへ成し遂げ得なかつたのである。

 然し斯くの如き業績は、一平方キロメー夕ーにつき漸く十五人の人口密度を有するアメリカ合衆國に於ては、一平方キロメー夕ーの地域につき百四十人の人口を包含するドイツよりも遥かに容易に遂行され得る筈である。

 アメリカで經済的繁榮を招來し得ぬのはこれは支配階級の意志が間違つてゐるか或はその衞にある指導連が全く無能であるかの何れかに據るものである。

 ドイツは僅々五ケ年の間に諸經済問題を解決し又失業問題を打開した。  この時代にルーズヴエルト大統領は自國の國債を極度に膨張せしめ、經濟を一層混亂せしめ又失業者數をも減少し得なかつたのである。然しながらこの人物が支援を依頼した、否寧ろこの人物を押し立てた若者はユダヤ人として只だ國家廢頽の時のみ利益を受け秩序確立には斷じて反對する分子に屬してゐることが思ひ當れば、斯くの如きルーズヴェルト政策が不成功な所以は何ら不思議ではない。國民社會主義ドイツは投機事業を彈壓したがこれに反してルーズヴェルトのアメリカに於ては投機は驚異的發展を遂げたのであるこの男の所謂「ニュー・デーイル」立法は誤りであつた。然かもこの男のなした失敗の中で最大なものである「ニューデーイル」という平和時の經濟政策が繼續されたならば如何にルーズヴェルト大統領が詭辯に巧みであつても早晩行きつまつて了つた事は明瞭である。ヨーロツパの國ならばルーズヴェルトはきつと國家財産浪費蕩盡の廉で裁判所に召喚されたであらう。然かも市民裁判所で商壓法違反の廉で投獄は免がれなかつたであらう。(喝采)斯くの如き判斷寧しろ認識はアメリカに於ても亦多數の名望ある人物の抱くところである。


ポトキー公使の報告[編集]

 こゝに於てこの人間に對し脅威的反對の聲が沸き騰つた。これが爲にはその内政に對する一般與論の關心を對外に向つて外らしてこそ始めて自身が救はれると悟るに至つた。これに關してポーランド公使ポトキーのワシントンからの報告を檢討するのは一興である。ポトキーはルーズヴエルトがその經済上の所謂「骨牌札で出來た家」が瓦解の危機に瀕してゐたことを熟知し且つ如何にしても外政的轉向を必要としてゐた點を再三指摘してゐる。ルーズヴェルトは彼を取り巻くユダヤ人方面によつて元氣づけられ、强硬になつたのであるが、このユダヤ人輩はアメリカに於ける奮約聖書的復讐癖を利用して、益々反ユダヤ的になるヨーロッパの國々に對し第二のブリム(註)を催す機會を捉へ得ると思つてゐたのである。此の男の周圍に群をなして集り、しかも此の男も手を差延べた者は全く狂信的に惡意を懐くユダヤ人そのものであつた。斯くして紛爭を誘發するか或は既存の紛爭を激化し如何なる揚合でも紛爭が平和的に解決されるのを妨害せんとする意味に於て、ルーズヴェルトの影響カが益々効力を發したのである。この男の年來の唯一の希望は世界のどこかで――最も好むところはヨーロツパで紛爭が起ることであつて、この紛爭は紛争國の一に對するアメリカ經濟の責任を通じ、アメリカをそれに近寄らしめ、これによつて國民の關心を對内的經濟政策の衰微から對外に外らされるに適當な政治的利害關係の機れ合ひを作る可能性を與へるものである

 此の意味に於て彼のドイツ國に對する行動は、特に亂暴極まるものがある。一九三七年以降彼は數度の演説を行つてゐるが、その内に特に卑劣であつたのは一九三七年十月五日のシカゴに於ける演説である。これらの演説でこの男はアメリカの與論をドイツに對して計畫約に挑發してゐるのである。彼は所謂全體主義國に對し一種の檢疫をなすと恫喝したのである。  ルーズヴェルト大統領は斯くの如く益々憎悪及び挑發政策の强化を實行しつつ最近再び侮辱的聲明を發して駐箚アメリカ大使を召喚した。爾来獨米兩國關係は僅かに代理大使によつて結ばれてゐる。

 ルーズヴェルト大統領は一九三八年以來ヨーロツパの建設政策に對する凡ゆる可能性を計畫的に且つ故意に阻止せんと企ててゐる。彼はその際他國に向つて平和に關心を有すと僞り、然も平和的協調政策を遂行する用意ある國に對しては借入金の閉塞、經済壓迫又は貸金停止等の手段により恫喝するのである。(註、ユダヤ人の復讐に成功した時の祭)

 これに就いてワシントン、ロンドン、パリー及びブリュツセル駐割のポーランド大使からの報告によると、驚く可き事實が判明する。一九三九年この男は、その挑發部隊を强化し始め、議會に於いて全體主義諸國に對抗し、戦争以外の凡ゆる政策を遂行すると恫喝してゐる。

 彼は他國がアメリカの問題に干渉せんと企て、且つ、モンロー主義の維持を街つてゐると絶えず主張してゐるにも拘らず、一九三九年以降はアメリカ合衆國大統領には何ら關係のない中央ヨーロッパの問題に容喙してゐるのである。第一には彼は、斯くの如き間題を理解してゐない。第ニに、假令彼がこれを理解し、又その史的顛末を洞察してゐるとしても、ドイツの元首がアメリカの情勢を判斷し、又はこれに對する意見を披瀝する權利を有しないと同様に、彼も亦中央ヨーロツパ國について世話を焼く權利がないのである。(喝采) 否、ルーズヴェルト氏は、もつと、更に前進した。彼は凡ゆる國際法上の規約を蹂躙して彼の氣に入らぬ政府には承認しないとか、新秩序を認めないとか、又既に瓦解した政府の特使は、そのまゝにするか、或は合怯的政府に任命するとか聲明してゐる。否、遂には彼は、外國の領土を簡單に占領する權利を得る様な條約を、斯くの如き使節と締結する程になつたのである。一九三九年四月十五日には、ルーズヴェルトは余並にムツソリーニ首相に催告狀を發したが、これには地理的及び政治的無知識の混合し、一定の金持階級の高慢不遜を表示してゐる。しかもこれに依つて我々は、聲明書を發表しどこかの國々と不可侵條約を締結せよと要求された。この國々の大部分は大體自由を有しなかつたのである。何故かと云ふのに彼等はルーズヴェルト氏の同盟國に合併されたか、或は保護領に編入されたものである。議員諸君!諸君は當時余が此の人附きのよい男に丁寧で、しかもはつきりした返答をしたのを御記憶のことと思ふ。まあしかし、これが少くとも數ケ月間この健康な戰爭挑戦者のお喋りを封じ込んだわけである。


平和の詐欺漢ルーズヴエルト[編集]

 扱て、彼の代りに登場したのが尊敬すべきルーズヴェルト夫人である。彼女は我々の住んでゐる様な一の世界に生活するのは拒否したのである。

 これは少くとも理解し得る。その理由は、我々の世界は詐欺や掛引の世界ではなく實に勤勞の世界である。この夫人の亭主は、然し、暫く静養した後、一九三四年十一月四日に中立法の改訂を敢行し、ドイツの適國側へ一方的に供給するために、今や武器輸出禁止を廢止したのである。  彼は次で、東亜でも同じ様に、經済上の縋れ合つた關係といふ廻り道を通じて、早晩效果を生ずる利害協同體を支那と結成し始めてゐる。既に同月彼は亡命ポーランド人の一論を所謂亡命政府として認めたが、この政府の唯一の政治的基礎は何んであるかと云ふと、ワルシャワから持参したポーランド金貨のニ、三百萬に過ぎない。又既に四月九日には彼は更に進んでドイツの干渉を阻止すると云ふ白々しい口實を以て、ノルウエー及びデンマークでのクレデイットを閉塞したのである。が然し、例へばデンマークの政府にしても、その資産運用については、ドイツからは注意さへされてゐない。況して管理されてはゐないと云ふ事は彼の充分承知な所である。

 種々な亡命政府の他にノルウエーの亡命政府も亦、彼に承認された。一九四0年五月十五日にはこの外にオランダ及びベルギーの亡命政府も承認されて、同時にオランダ及びベルギーの資産が凍結されないのである。然しこの男の眞の氣持が現はれてゐるのは何んと云つても六月十五日附のフランス首相レノー宛電報である。この電報で彼はレノーに、フランスが對獨戰爭を継續すればアメリカは對佛援助を倍加するであらうと告げてゐる。戰爭の長期化を望むこの意向を特に强調するため、アメリカ政府は占領の收穫、換言すれば、嘗てドイツから剥奪した地城の返還は承認しないであらうと聲明した。アメリカ合衆國大統領がヨーロツパに於ける境界を認むるや否やはドイツ政府の知つた事ではない。又、そんな事には將來も亦、何んら痛痒を感じないと余は此處に君諸に特に申上げる必要を認めない。が余は單に平和の理念を僞り、又永久に戰爭をのみ挑發するこの男の煽動行為を特に叙述せんためこの場合を引用したに過ぎない。今や彼はアメリカが自ら他國の攻撃を挑發しなければ何人もアメリカを攻撃しないのであるからヨーロッパに平和が招來された場合は、アメリカの軍備擴張に何千萬ダラー蕩盡した事が全く詐欺と知れると言ふ事に不安を威じて來た。


見よ!この國際法違反の數々[編集]

 一九四〇年アメリカ合衆國大統領はフランス金貨の保證を指令した。これは外面はドイツがこれに手を延べるのを阻止するが目的であると言つてゐるが、事實は然らずして、これをアメリカ駆逐艦を以てカサブランカからアメリカへ輸送する爲である。

 一九四〇年九月には、ルーズヴェルトは更に戦争に接近して來た。まづ彼は、米艦隊に屬する五十隻の駆逐艦を英艦隊に譲渡した。何れ後世に於て明らかとなるであらうが、その代償として彼は北米及び中米にある英領士の軍事基地を受けとることになつてゐる。即ちこの點については獨逸に對する憎惡を有してゐても、亦尚崩壊の時期にある英國を出來るだけ確實に、そして危險なく繼承出來ると云ふ見解が働いてゐるのである。

 英國はアメリカからの補給品を最早や現金で支拂う能力がない爲に、彼は米國民に對し武器貸與法を壓しつけた。かくて大統領は武器貸與法によつて援助する諸國の支配権を持たうとした。それはこれら諸國の防衛がアメリカに對して生存上重要であるとルーズヴェルトに思はれたからである。その後獨逸が彼の繼續してゐた計畫を何ら刺激しなかつたのにこの人物は一九四一年三月再び第一歩を進めたのである。

 一九三九年十ニ月十九日には既にアメリカの巡洋艦はドイツ汽船コロンブスを安全地帯内に於て英軍艦にそれとなく押しつけたのである。これによつて同船は沈没せざるを得なかつた。同日米軍はドイツ汽船「アラウカ」の拿捕に協力した。一月ニ十七日に米巡洋艦「トレントン」はドイツ汽船「アラウカ」、「ラ・プラタ」及び「ワンゴニ」の移動を敵軍に通告して國際法を侵犯した。一九四〇年六月二十七日に米國諸港に於ける外國商船の自由通過を制限して國際怯に完全違反する擧に出たのである。

 一九四〇年十一月にドイツ汽船「フリギア」「イダルワルト」及び「ライン」は米海軍に追跡された結果英海軍の手に落ちない爲に自沈するに至つた。四月十三日には西亜にある英軍部隊に物資を捕給のため米國船に對し紅海通過解放の擧に出た。三月には凡てのドイツ船舶が米當局によつて押収された。かくの如くしてドイツに屬する船舶が最も不當な方法によつて取扱れたのでつて、カナダの拘禁所より脱出したニ名のドイツの士官を同様に國際法の決定に反して捕縛しこれを英當局に引き渡した程である。

 四月にはルーズヴエルトが快速艇二十隻を英國に譲渡し、それと共に引續き英國軍艦の修理がアメリカ諸港で行はれてゐる。

 越えて五月十ニ日には英國援助のために航行中のノルウエー汽船が國際法に背犯して武装及び修理が行はれた。更に六月四日にはアメプカの部隊輸送船がグリーンランドに到着した。六月九日になるとルーズヴエルト大統領の命令に基きアメリカ軍艦某號がグリーンランド近海で獨逸潜水艦一隻を爆破を以て撃破したといふ英側情報が齎らされた。

 七月十四日には再び國際法を無視して、合衆國に於ける獨逸資産の凍結が行はれてゐる。六月十七日に及んでルーズヴエルトは獨逸領事の引揚及び領事館の閉鎖を要求した。更にルーズヴエルト大統領は獨逸通信社「トランス・オツエアン」社、獨逸情報、閲覧所及び獨逸國有鐵道支局の閉鎖を要求した。更に七月六日より七日に至る間ルーズヴエルト大統領の命令に基きアメリカ軍隊に依る獨逸側の戦闘區域内にある氷島の占領が遂行された。

 かくしてルーズヴエルト大統領は、先づ獨逸を遂に戰爭に導き、次いで獨逸の潜水艦宛も一九一五ー一九一六年に於けるが如く完膚なきまでにのし得るものと高をくくつてゐるのである。

 これと時を同じうして、彼はソヴエート聯邦に援助の約束を與へた。七月十日には突如としてノックス海軍長官が、合衆國は枢軸側艦艇に對する發砲命令を受けてゐる旨を発表した。九月四日には、合衆國駆逐艦「グリーア」號は、同艦の受けてゐた命令に從ひ、大西洋上でイギリスの飛行隊と協力して、ドイツ潜水艇隊に對抗して行動した。

 五日後、1隻のドイツ潜水艦は、合衆國の駆逐艦が、イギリス護迭船團中に護送船として加はつてゐることを確信した。最後に九月十一日に至るや、ルーズヴエルトはかの演説を行ひ、これにより枢軸船艦のすべてに對する發砲命令を確認し、且つ新たに発令した。九月二十九日には合衆國哨戒艇隊がグリーンランド東方に於いて、ドイツ潜水艦一隻に爆雷攻撃を加へた。十月十七日には英國向け護送船團の護衛に任じて航行中であつた合衆國駆逐艦「カーニイ號」が、又もやドイツ潜水艦一隻に爆雷攻撃を加へ、また最後に十一月六日には合衆國海軍は国際法に違反してドイツ汽船「オーデンヴァルト」號を拿捕し、之を米國の某港に曳航してその乗組員を拘禁に附した。

戦争挑發者の目的[編集]

 余は、この大統領と稱する男の余に對する、人身攻撃的な侮辱的言欝や無禮千萬な仕打ちを、當時取るに足らざる事として看過せんとした。彼が余を呼ぶにギャングの語を以てしたことは、この言葉が、ヨーロッパで出來たものでなく、又左様な實體がヨーロッパには存在しないで、寧ろ合衆國で生まれたものであるだけに余は一向平氣である。然しこれは別としても、余はルーズヴエルト氏から總じて侮辱されるわけはないと思ふ。何故なれば余は彼を以て、嘗てのウツクドロウ・ウイルソンと同様、精神病者だと見倣すからである。

 この男がそのユダヤ人の一味と共に年來同一の手段を用ひて日木に對しても戦つてゐることが我々にはよく分つてゐる。余は此虜でそれらの手段について語るには及ぶまい。此處でも同一の方怯が用ひられるに至つた。この男は最初に先づ戦爭を嚇しかける、それからその原因を捏造し、勝手な主張を持ち出し、それから嫌惡すべき遣り方でキリスト教的僞善の雲の中へ身を隠し、かくて徐々ながら、確實に人類を戦爭へ引き込むのであるが、古くからのフリーメーソンの加盟員として、その際自己の行爲の誠實を證せんがために、神を證人に呼ぶことを忘れないのである。

 余は信ずる、今や遂に一の國家が、この史上に、たゞ一度しか見られない眞理と權利とに對する破廉恥な非行に對して、むしろ此の男の方で望んで居り、從つてそれに關して今更彼が驚くに當らないところの、かの抗議の一歩を決然と踏み出したことを、諸君の總べてか一種の救済だと感じられたであらうといふことを。

 日本國政府が幾年にも亘る此の男との商議の後、遂に、最早これ以上かくも侮辱的な遣り方で嘲弄されることを我慢出來ずとして起つたことは、我々すべてを、即ちドイツ國民と否全世界の再余の正しき人々のすべてが、定めし深い満足を以て眺めたことであらう。ルーズヴエルトの背後にある勢カが如何なるものであるかは、我々の知悉するところである。それはかの永遠のユダヤ人であつて、この永遠のユダヤ人たるや、我か總ての者がソヴエート・ロシアに於いて戦慄を以て且つ經驗せざるを得なかつたところの事態を、我々に對しても執行すべき時機到來せりと北叟笑んでゐるのである。このユダヤ人の地上に於ける樂園なるものを我々は今や實地に識ることが出來た。數百萬人のドイツ軍將兵は、この國際的ユダヤ人が人命と財貨とのすべてを破壊し盡した一國の實情を、各自の眼で以て確めることが出來たのだ。かういふことは恐らく合衆國大統領などの知りたいとも思はぬところであらう。それはたゞ彼の精神の狭隘さを證明するだけのものである。

 ただ然し、國家を一つ一つ漬して行くといふことだけが彼の全闘争の目的だといふことは我々の知るところである。随つて我々がよしんば日本と同盟を結んでゐなくとも、この事がユダヤ人共と彼等のフランクリン・ルーズヴエルトの意圖するところだといふことに就いては、我々は明瞭に知つてゐた筈である。ところで今日のドイツ國は嘗てのドイツ國とは何等共通のものをもつてゐない。随つて我々は、この戦爭挑發者が數年來達成せんと企てゝゐたことを、今度は我々の側から行ふであらう。我々が日本の同盟國だからといふだけでなくて、むしろ獨伊兩國の現下の指導部が、この歴史的時期に於いて諸國民の興奮が恐らくは永久に亘つて決せられるであらうといふ事を、理解するに足る洞察と能力とを有してゐるからである。この別世界が我々に對して企てゝゐることは、我々には明瞭である。彼等は嘗つて民主主義的ドイツを飢餓に陥れた彼等は現在の國民社會主義的ドイツを殲滅したいと思つてゐる若しルーズヴエルト氏やチャーチル氏が、やがて新しい社會秩序を樹立するつもりだと言明するならば、それは禿頭の理髪屋がインチキでない毛生え藥を客にすゝめるやうなものである。(哄笑)


正當防衛としての三國同盟[編集]

 社會的に最も立ち遅れてゐる國々に住んでゐる兩氏の如きは、戰爭をけしかけるなどといふ大それたことをする代りに、各自の國の失業者等のために考へてでもやる方がましであらう。彼等は夫々の自國内に、食料品分配の意味で盡力するに足る困窮と苦悩とをもつてゐるのだ。ドイツ國民としては、チャーチル氏からもルーズヴェルト氏からも、乃至はイーデンなどからも、喜捨金など惠んでもらう必要はないドイツ國民の欲するのはたゞ自己の權利のみである。(喝采) 而してこの生存權は、千人のチャーチル乃至ルーズヴエルトがゐて、これに反對の陰謀を企てようとも、飽く迄確保されるであらう。此處にゐるこの民族は、殆どニ千年に亘る歴史をその背後に有してゐる。この民族は長い期間に於いて今日ほど一致團結したことは未だ嘗てなく、また斯くの如きは國民社會主義のお蔭で、今後の全將來に亘つても在り得ないことであらう。だが、この民族はまた恐らく斯くも慧眼であつたことは嘗てなく、また斯くも榮譽に満ちてゐたことも稀れであつた。それ故余は今日、米國代理公使に放券を渡して彼に次の事を知らしめた。即ち、無制限の世界支配的獨裁を目指せるルーズヴエルト大統領の政策が益々擴大の一途を辿る間に、北米合衆國はイギリスと協同して、獨伊兩國民、及び日本國民に對しても、彼等の自然なる生活維持のための諸前提を奪ふために、如何なる手段を揮ぶことをも躊躇せざるに至つた。英米兩國政府は、この理由よりするも、單に現在に於いてのみならず、むしろ今後の全將來に亘つて、よりよき世界新秩序招來のための一切の正當なる修正に反對したわけである。

 開戦以來米國大統領ルーズヴエルトは、益々、一聯の重大極まる國際法侵犯の罪を犯して來た。獨伊兩國民の財産に對する數々の不法侵害は、拘禁その他による威嚇を伴つたばかりか、それらの國民の一身上の自由を勝手気儘に剥奪するといふ如き不法行爲を敢てしたのである。合衆國大統領のさなきだに益々先鋭化せる攻撃振りは、遂ひに一切の國際法上の規定に反して、彼が米國海軍に向ひ、獨伊の國籍を有する艦船は何處ででも見付け次第襲撃し、砲撃し、且つ撃沈するやうにとの命令を下すまでに立ち至つたのである。米國の國務大臣等は、かやうな犯罪的な遣り方によつて、ドイツ潜水艦若干隻を既に撃沈したとまで揚言した。

 獨伊の多數商船は米國巡洋艦の襲撃を受けて拿捕された上に、その非戦闘員たる 乘組員は拉致せられ、且つ投獄せられたのであつた。それどころか、更に、アメリカ政府側には何等の公式否定も行はれずして、ルーズヴエルトの遠大な計畫なるものが米國で公表せられるに至つたが、それは遅くとも一九四三年には兵力を用ひて獨伊兩國をその本國自體に於いて襲撃せんとするものであつた。

 これにより、数年來のルーズヴエルト大統領に依る堪え難き挑發行爲にも拘らず、戰爭の擴大を防ぎ合衆國との正常な關係を維持せんとする、獨伊兩國の類例なき辛抱强さを立證する努カは、全く水泡に歸してしまつたのである。

 茲に於いて獨伊兩國は、遂ひに、一九四〇年九月二十七日附の三國條約の規定に遵ひ、日本と相携へて、それら三國とその國民とを防衛し、且つそれに依つてその自由と獨立とを維持せんがために、アメリカ合衆図と英園と對する戰ひを開始するの止むなきに至つたのである。依つてこれら三國は次の如き協定を締結し且つ本日ベルリンに於いて調印を了した次第である。


三國協定[編集]

 アメリカ合衆國及び英國に對する共同の戰爭が完遂せられるまでは干戈を收めざるの確乎不動の決意をもつて大日本帝國政府、ドイツ國政府及びイタリー國政府は左の諸規定を協定せり。

  • 第一條 日本國、ドイツ國及びイタリー國はアメリカ合衆國及び英國により强制せられたる戰爭を共執り得る一切の强カ手段をもつて勝利に終るまで遂行すべし。
  • 第ニ條 日本國、ドイツ國及びイタリー國は相瓦の完全なる諒解によるにあらざればアメリカ合衆國及び英國の何れとも休戰又は講和をなさざるべきことを約す。
  • 第三條 日本國、ドイツ國及びイ夕リー國は戰爭を勝利をもつて終結したる後においても亦一九四〇年九月二十七日その締結したる三國條約の意義における公正なる新秩序招來のため最も密接に協力すべし。
  • 第四條 本協定は署名と同時に實施せらるべく且つ一九四〇年九月二十七日の三國條約と同一期間有効なるべく締約國は右有効期間の満了前適當なる時期において爾後における本協定第三條に規定せられたる協力の態様につき諒解を遂ぐべし。

銃後國民の覺悟と神への感謝[編集]

 議員諸君!

 一九四〇年七月に行つた余の最後の平和提案が拒否されて以來、我々としてはこの闘爭は最後まで闘ひ抜かねばならぬといふ點を、すでに充分に承知してゐる。故にアングロサクソン的、ユダヤ的、資本主義的世界がポルシェヴィズムと統一戰線を形成してゐる事實は、我々國民社會主義者にとつては、何ら奇とするに足りない。我々はドイツの國内においても、彼らが常に同様の寄合世帯を爲しつつあつたことを見て來たのだ。しかし我々は、國内におけるこの闘爭を成功裡に遂行し、十四年間に亘る權力獲得の死闘の後に、遂に我々の敵を殲滅した。ドイツを奈落の底から救ひ出さんと決意した時、余は未だ名もなき一介の兵士であつた。この闘爭が如何に困難であつたかは、多くの諸君が知るところである。僅か七人の黨員によつて行はれた小さな運動から一九三三年一月三十日の責任ある政府結成に至るまでの道程は、實に奇跡的なものであつたから、たゞ神の攝理のみがその祝福によつてこれを可能ならしめることを得たのだと考へられる。

 今日余は、世界最强の陸軍、最大の空軍及び誇りある海軍を統卒してゐる。余は余の背後、余の周圍に一致團結せる黨のあることを知つてゐる。この黨と共に余は大を爲し、黨は余を通じて大を爲したのである。余の目前に見る敵は、ニ十年來周知の仇敵である。しかし余の前途に横はる道は、過去において踏んで來た道程と比較すべくもない。ドイツ國民は、今や、その生存の決定的瞬間に立つてゐることを認識してゐる。幾百萬の兵士は、最も困難なる條件の下に、従順忠實にその義務を遂行してゐる。又幾百萬のドイツ農民及び労働者、並に婦人たちは、エ場に營業所に田畑に、各々額に汗して銃後のためにパンを作り、戰線のためには武器を製作してゐる。更に我國と盟を結べるものは、我々と等しき苦悩を抱き、我々と同じ敵を持つ强力な國々である。アメリカの大統領とその全權主義的徒輩は、我々を持たざる國と命名したこれは正しいしかし持たざる者も生きんと欲するものであり、又生くるために僅かに所有してゐるものまで持てる者たちに奪はれることを、絶對的に阻止せんとするものである

 黨員諸君! 諸君の知らるる如く、余は一度び始めた闘爭を最後まで成功的に闘ひ抜かんとする斷乎たる決意を有するものである。諸君は皆、余がかくの如き闘爭において何事をも恐れず、必要とあらば如何なる抵抗をも排する意志を有するものなることを知つてゐる。

 余は諸君に對し一九三九年九月一日の演説において、今次の戰爭においては、兵器のカも時間のカもドイツを屈服せしめ得ないであらうと保證した。余は余の敵に對しても保證したい。兵力や時間が我々を屈服し得ないばかりでなく、何らの内部的疑感も、只管に義務を遂行せんとする我々を動揺せしめ得ないといふことも。もし吾人にして戰線にある兵士の犠牲、彼等の爲せるところに思ひを致すならば、銃後の犠牲の如きは全く論ずるに足りない些少なものである。しかし、すでに我々より前の世代にドイツ國民の存立と偉大さのために結れた凡ゆる人々の數を考ふるならば、我々はここに初めて我々自身の双肩にかかる義務の大なるを自覺するであらう。

 しかしながら誰かこの義務を回避せんと欲する者があるならば、後は我々に交つて國民の一員なりと稱する權利を有しない。權力獲得のための闘爭において何ら苛責するところなく斷乎たる態度を取って來たと同様に、我々は今、わがドイツ國民の維持のための闘爭においても些かの苛責もなく、毅然たる態度に出るであろうわが國民の父たり子たる最良の男子が多數戰野に倒れてゐる時、銃後にあつて戰線の犠牲を水泡に歸せしめんとする如き生活は、誰一人としてこれを考ふることを許されない。苟くもドイツ 戦線を臺なしにし、政府の權威を弱め、又銃後の働きを妨害する試みが行はるる限り、如何なる假面を被らうとも同様である。罪ある者はすべて死罪に處せられるであらう。たゞ異なるところは、戰線の兵士は最高の名譽の中にこの犠性を拂ふに反し、名譽ある犠牲を水泡に歸せしめんとする者は、恥辱の中に死んで行く點にある。

 我々の敵は思ひ違ひをしてはならぬ。有史以來ニ千年の長きに亘り、ドイツ民族が今日程鞏固に一致團結したことは嘗つてなかつたのだ。神はこの數年間我々に對して大なる惠みを與へ給ふた。我々はかくも偉大な民族の一員たることを許し給ふた神の攝理に對して、頭を垂れて威謝せざるを得ない。然り! 我々は今ドイツ民族の過去及び將來に鑑みて、不滅のドイツ史上に我らの名をも留め得るの榮譽を有することを神に威謝するものである。(完)

昭和十六年十二月二十八日印刷      一千年の歴史を作らん
昭和十六年十二月三十日發行              定価三十銭
             東京市京橋區銀座四ノ二
              (散文館ビル八階)
編輯兼               
發行者       池田慶四郎
  東京市芝區新橋三ノ二〇
     更生社     
 印刷者       肥田正次郎
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東京市京橋區銀座四ノ二(散文館ビル八階)
發行所           日獨旬刊社出販局
電話京橋三六九三番
(登録番號一二二〇一六號)
振替東京三四八〇七番

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  1. 法律命令及官公文書
  2. 新聞紙又ハ雑誌ニ掲載シタル雑報及時事ヲ報道スル記事
  3. 公開セル裁判所、議会並政談集会ニ於テ為シタル演述

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