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リンコンの人物及び其の事業

提供:Wikisource
A. リンコン

凡例

 米國に於て出版せられたるリンコン傳大凡三十種あり。就中最も詳細なるものはニコレー、ヘー二氏合著の『リンコン傳』にして、全部十卷より成る。二氏共にリンコンの秘書官たりしことあり、リンコン傳の著者としては最も適當なる資格を備へたる人にして、其の書も亦殆んど間然すべきなし。但惜むらくは浩瀚に失す。(Abraham Lincoln: A History. By John G. Nicolay and John Hay. N.Y. 1890. 10Vols.).

 ニコレー、ヘー二氏の書に較べて大に簡約なるものば『米國政治家列傳』に收めたるモース氏の『リンコン傳』なり。上下二卷より成る。上卷は主として大統領前のリンコンを叙し、下卷は大統領としてのリンコンを說く。材料精確にして信憑すべしと雖も、初學少年の爲には便ならざるもの也。(Abraham Lincoln: By John T. Morse. Boston. 1893. 2Vols).

 普通の傳記體を離れて直にリンコンの面目を描き得て眞に逼りしものをカール・シュルツ氏の『リンコン論』と爲す。シュルツは「四十八年」の革命に敗れて獨逸より米國に逃れたる人也。南北戰爭の當時、已に理想主義政治家として其の名高く、リンコンの批評家、助言者として亦甚だ重きをなせり。後大統領ヘースの內閣に入りて內務卿となりしことあり、外來の移民にして台閣に上る、其の人誠に異數とすべし。所謂猩々猩々を識る。その『リンコン論』の、傳記文學の領域に於て一生面を開くもの、固より怪しむに足らざる也。而かも一讀直に要を得んとするには紙數幾百、シュルツの書も亦多少の憾なきにあらず。(Abraham Lincoln: An Essay. Boston. 1891).

 今此の憾を銷すべくして直截簡明、僅々數十頁の間にリンコンを活躍せしむるものは、ジョーセフ・チョート氏の『リンコンの事業及び其の人物』にして、本書は即ち其の譯本也。(The Career and Character of Abraham Lincoln: By Joseph H. Choate. N.Y. 1901).

 本書の著者ジョーセフ・エッチ・チョート氏は、ハーヴァド大學出身の法律家にして、今猶ほ米國法曹界の巨人として雷名あり。千八百九十九年より四ケ年間、米國大使として倫敦駐剳中、屢々雄辯を以て英國の社交界を驚かしゝは人の能く知る所とす。千九百年十一月、氏が蘇國エディンバラ府哲學協會の名譽會長に推選せられし時、その就任演說たりしは即ち此の『リンコン論』にして、當時直に電報に依りて米國諸新聞に轉載せられて非常の稱賛を得たり。後單行本として行はるもの數種あるに至りしが、孰れも皆數版に及べり。

 從來リンコンの名はアブラハム・リンコルン、若くはリンコーンと發音せられたるが、皆誤れり。正しきはエーブラハム・リンコン也。特に童蒙の爲に之をいふのみ。

  明治四十年六月

譯者しるす

リンコンの人物及び其の事業

 諸君が余に囑するに就任演說を以てしたるものは、余が米國政府の代表者なるが爲なるを思ふ。此の時に當りて題を民主政治の硏究に取り、例を米人中の米人たる人物の性行に求めて一時間の淸聽を煩はすことは、必ずしも無益の事にあらず。エーブラハム・リンコンは曠世の英雄也、其の性格絕倫にして其の事業は永久也。黑奴の解放は彼によりて實行せられ、米國聯邦統一の偉業は彼によりて完くなれり。近世の歷史を耀かす此の二大事實は、皆能く人の知る所にして、特に宣揚して故ら玆に諸君の注意を請ふの要なきを見る。

 短き彼が施政の日に於て、天下何人も彼の如く罵詈せられ、嘲笑せられ、侮辱せられたる者曾てこれなかりき。而も難關一たび排し來り、志漸く成らんとして、不幸刺客の毒手に斃るゝや、天下万國の人は競うて彼が品性の偉なるに感歎せり。彼逝いてより三十五年、歷史に於ける彼の地位全く定まりて、今や何人も彼が全世界の恩人たるを疑はざるに至れり。

 彼の生時に在りて盛に彼を咒咀したる倫敦「ポンチ」は、彼の死に會うて大に前非を悔い、下の如き頌辭を載せたるあり。

"Beside this corpse that bears for winding sheet

The stars and stripes he lived to rear anew,

Between the mourners at his head and feet,

Say, scurrile jester, is there room for you?

* * * *

"Yes, he had lived to shame me from my sneer,

To lame my pencil, and confute my pen —

To make me own this hind — of princes peer,

This rail-splitter — a true born king of men."

 如何なる小說の奇なるも、彼が生涯の奇なるに如かず、如何なる多變の傳記も彼が傳記の多變なるに如かず。身を微賤に起して權威と光榮を極めたること彼の如きは、眞に絕無の例と謂ふべき也。

 彼が事業の大要は諸君能く之を知れるならん。彼が名聲の天に冲したりし日、彼は賢明にして忍耐あり、勇敢にして機略ある支配者︀なりき。十九世紀の最大戰爭に最後の勝利を得たる大元帥なりき。平民政治のチヤンピオンなりき。四百万の鎻を解きたる恩人なりき。而して政治家として、大統領として、解放者︀として天下万民の瞻仰したる偉人なりき。

 吾人は先づ此の偉人が前半生を一瞥せん。矮屋陋居は天下固より其の類に乏しからず、されど彼が產れたる家の如く貧しく憐れなるもの、復たその匹を見ざるならん。床なく窓なき丸木小舍は即ち彼の家にして、而して此の家や實に當時の邊陲たるケンタッキーの荒原に存在せり。彼の周圍には學校なく、敎會なく、書籍なく、貨幣なく、鐡道なく、新聞なく、苟も朝夕必須の物たり、人生愉樂の具たる物、一切此のケンタッキー州に缺如せり。アレガニーの山脈より西の方ミシシッピーに進むは、當時移民の遷り行く針路なりしが、無學にして怠惰なる貧しき彼の父も、彼及び彼の家族の幸福の爲に此の針路を逐うて處々に彷徨せり。彼等の生活は言ふまでもなく多難なりき。彼等は森林と戰はざるべからず、猛獸と戰はざるべからず、退讓し行く野蠻人と戰はざるべからず、纔かに道具を手に取り得るより成年に至る、彼等の生活は、彼等の精力の總てを要求せり。此の間に於けるリンコンの生活は、粗衣粗食、一個純粹の農夫にして、父の畑に働くにあらざれば、隣地の農家に傭はれたり。此の如き周圍に在りて成人せしに拘らず、リンコンの體格は意外に發育し、年十九にして六呎四吋の大丈夫となれり。この異常なる體軀の成長と共に、彼の奇異なる敎育は始まれり。後年彼をして一國の運命を導かしめ、彼をして透明なる識見あり、堅實なる道念ある政治家たらしめ、危機一髮の際に當りて逼らず、撓まず、悠々として大事を處せしめたるを思ふときは、彼の敎育は眞に奇異なるもの也。彼は繁劇なる勞働の餘暇、讀書と習字と算術の一端を學びたるが、これ彼が人より授かりたる敎の總てにして、その期間は一年にすら滿たざりき。此の如き無造作なる手ほどきも、正しく用ふれば遂に完き敎育を成すに至るもの乎、リンコン能く此の事を知りたりき。彼は彼の父の無學と怠慢に鑑みたりと見え、彼は能く働き、能く學べり。全󠄁力を盡くして自家の憐むべき境涯を脫せんとせり。これ彼が年少已に世に示したる品性なりき。

 文化の中心を離れて恰も別世界を成すが如きケンタッキーの社︀會には、當時書籍なるもの殆どなく、唯聖󠄁バイブルの一書のみありて家藏たりき。此の如き時代に在りてバンヤンの『天路歷程』と『伊蘇普物語』と一部の米國史と華盛頓傳とは、如何にしてか彼の手裡に入れり。數哩を徃復して一個の英文󠄃典を借り來れり。一部のインデアナ州律を得て、其の內容に通󠄁ずるまて玩味せり。大凡此等の書、反復又󠄂反復、悉く彼が背誦する所󠄁となれり。斯くして彼の同化力は大に亢進󠄁せり。唯理由わけもなく數多き書册を亂讀するよりも、數部の書に就いて沈潜久しきに及ぶことは、却て智力を進󠄁め德性を高むることに於て大に有功なることあり。少年リンコンの心は、今や聖󠄁書の知識󠄂聖󠄁書の語にてみ渡れり。後年此等の語を自在に驅使して人の驚く所󠄁となりしもの誠に故ある也。劇しき一日の務終󠄁りて、人皆深き眠に入りたる時は、彼が正に讀書を貪る時にてありき。彼は幼より事物に對して獨立の判󠄁斷を爲せり。一たび定めたる心のおきては、飽󠄁くまで之を守るの習󠄁性を作れり。而して是れ實に未來の大統領に缺くべからざる資󠄁性なりき。當時紙を得ること能はざりし彼は、每夜煖爐の光に照らし、木造󠄁の「シヤブル」の背に於て徐ろに文󠄃を作れり、書きて滿つれば更󠄀に之を削󠄁りて幾度となく練習󠄁せり。斯くして成年に至るや、彼は近󠄁隣の集會に到りて屢々雄辯を試みたり。一世を震憾せし彼が懸河の辯は、彼が自修の敎育より來りたる貴き結果の一にして、また彼の爲に成功の秘訣たりき。

 滊船あり、電信ありて地球の隅々に起󠄁りたる事件は、即時に人の知る所󠄁となる今の時勢に於て、當時世を離れたるインデアナのピージョン・クリークなる少年が、彼の周圍を脫却せんが爲に、如何に勇猛に精󠄀進󠄁したるか、を想像するは甚だ容易ならざるべし。彼は如何にして世界の光明に觸るゝことを得て、而して乾坤の獨囚より免︀れたる乎、時は千八百二十八年、彼方に十九歲、彼の隣人は彼を雇うて其の子に伴󠄁はしめ、平󠄁底船に穀物を積みてニューオーレンスに至る使󠄃命を託せり。屈曲蛇の如きミシシッピーを徃還󠄁して其の使命を全󠄁うするや、彼の生涯は正に一轉機に遇󠄁へり。

 彼が世界の光明に觸れて歸りたる後、幾許もなく、彼の父はインデアナに於ける彼の不成功に倦みて、二頭の牛に一切の家財をかせ、家族を伴󠄁うて西に向ひ、平󠄁荒󠄁野を辿ること十四日にしてイリノイスに出で、此處に又󠄂もやびしき小舍を結べり。リンコン已に丁年に達󠄁して一個獨立の人となり、七町餘の畑を耕󠄁し、小き開拓地を繞らすに必要なる木材を切り出すことに於て未丁年者としての義務を了はれり。看よ、この手薄き準備は、實に未來の大英雄としての準備なりき。試に之を大英國の事例に照らし觀るに、これ正に未來の大宰相たり大政治家たる者が、優等證書を懷にして大學の門を出づる時也。敎化と訓練によりて得らるべきあらゆる利益を收め、最賢最善なる男性女性の交遊によりて得らるべき一切の便宜を收めて、更に社會の門に入らんとする時也。而も此の時に當りてリンコンたる者、資財の恃むべきなく、家庭の慰むべきなく、朋友の謀るべきなく、綫かに額に汗して其の日其の日の麵包に汲々たり。或は尙ほ人の爲に傭耕し、或は村商人の手代となり、或は水車を起し、或は舟子となり、或は自ら物を積みてニューオーレンスに徃來したる事、これ彼が當時の生計なりし也。されど天は永く有用の人を無用の地に棄てざるもの乎、千八百三十二年、彼二十三歲の夏、社會は彼を認識せざるべからざる事件に遇へり。

 當時インデアンの酋長と白人との間に條約成りて、土人は悉くミシシッビーの西岸に移住することを承認せしに、獨りブラック・ホーク及び其の一味あり、固く之を拒みて亂を爲せり。リンコン此の時イリノイス州知事の召募せる義勇兵に應じて起ちたるが、擧げられて一隊の長となりぬ。彼の膂力は屢々同僚の間にためされて、復た彼と爭ふ者なきに至れり。此の短き爭亂の間、彼は實戰に與かるの機會を得ず、從ッて從軍の譽を享くること能はざりしかど、彼はこれによりて優に一地方の領袖たるべき聲望を擔ふに至れり。同年彼はイリノイス州々會議員の候補者として現はれたるも、選擧の結果は彼に利あらざりき。されど彼の名聲は、彼を知る者の間に益々揚がり、彼の住める郡內の投票は、悉く彼の收むる所となりしが如き、これ當時の實况なりし也。此の間彼は商店を開きて失敗せり、測量師となりて聊か成功せり、而も之に次ぎたるものは刻薄なる執達吏にして、彼が商業上の失敗を償はんが爲に、彼の馬と器具とを押收し去れり。

 余が彼の少時について特に微細に亘る所以のものは、如何に奇異なる土臺の上に、彼の光榮と事業とが築かれたるかを示さん爲なり。運命は彼を小學に送らず、中學に送らず大學に送らずして、彼を流離困頓の中に投じて、來るべき大任を負はしむべき準備たらしめたり。而も此の準備や、實に一髮千鈞の危機に際して、最大緊要のものたるを證明せり。天若し彼を小中大學に在ること十年ならしめば、彼恐らくは彼が負ひたる如き唯一無二の大任に堪へざりしならん。想ふに彼以外のモーセスありて、我等をヨルダンの彼方なる望める自由の鄕に導きたらん。

 彼は二十五歲にしてイリノイス州會議員に擧げられ、在職八年に及べり。此の間彼は諸處より借り集めたる法律書を繙き、兀々として之を亂讀せり。一部の法律書を購ふことすら能はざりし窮乏なる彼も、斯くして辯護士たるの資格を得たり。二十五歲より五十歲に至る此の二十五年間に於て、彼が國會議員たりしは僅に一期即ち二ケ年に過ぎざりき。功業由來蹉跌し易し、彼が勃々たる雄心も、此の短き二ケ年に在りては、彼をして未來の大立物たらしむべき何等の特徵を示すこと能はざりき。千八百四十九年、議員の任期終る時、彼は「公有領土局」の長官たらんことを求めて、端なく大統領の拒絕に會へり。而も喜ぶべし、彼は之が爲に純粹俗務の一局に捕虜たることの危難を免れて、彼と彼の國の爲に祝福をなせり。彼の知識や經驗や威望や、年を逐うて其の範圍を擴大せり。彼の心意は今や十分なる發育を見たり。人を說くに巧なる雄辯の術は益々彼が長ずる所となれり。步一步、彼の地位は辯護士社會に在りて重きをなせり。而してオハイオ河以西に於て何人も彼と懸河の辯を爭ふ者なきに至れり。而もこれ彼が修辭の巧なるが爲にあらず、論理の透明なるが爲にてありき。彼が誠實の心より來る明快にして力ある辯論は、常に深き印象を聽衆に與へざれば已まざりき。彼が廣き同情と火花の如き諧謔とは、彼に聽く者の普く喜ぶ所となり、一たび彼に接したる者は、何人も彼が讃美者たらざる能はざりき。

 辯護士として州會議員として彼がイリノイスの首府なるスプリングフィールドに根據を得てより二十年、羽翼已に成りて一向冲天の機を待ち詫びたる彼の前に、今や機會は自ら展開し來りて、彼が少時の窮乏、困厄、不便の一切を報償せんとするに似たり。彼が威望の揚がるにつれて、彼が權勢の進むにつれて、苟も事の公共に關する問題にして、彼が討論者たらざるものなきに至りたれば、彼の一擧一動は常に人の視聽に聳えて、彼の個人的勢力は日々に增大せり。

 想ふに余と職業を同じうせる法律家は、必ず疑問を發するならん。只見る一個の田舍漢、或は森林原野に、或は耕耘舟楫に、其の少年を送りたる無敎育の勞働者が、纔かに法律に關する雜書を亂讀することによりて、如何にして博大深奧の識見ある法律家たるを得たりしやと。佘は公言す、彼は斷じて此の如き法律家にてはあらざりきと。彼はシグネット〈法學雜誌〉に寄書し得たる者にあらず、蘇國の高等法院に辯論して勝利を博する如きは彼の夢想し得たる所にあらず。此の如きは實に數世紀の法學的修練を積みたる者の始めて能くする所也。一婦人あり、曾てホームス博士に問うて曰く『幼兒の敎育は何の時に於て始まるや。』博士答へて曰く『生前少くとも二世紀前に於て』と。余は信ず蘇國第一流の法律家たるにも、亦此の如き修練を要することを。〈譯者曰く、――英蘭、蘇蘭、愛蘭の三國は、風俗習慣の上に於ても、思想感情の上に於ても、各々別に一乾坤を成す處なれば、政治的合同の意義を離れたる場合は、明に之を別つを可とす。之を混同して英國と呼ぶは頗る沒分嘵の事也。〉

 然れども千八百四十年頃のイリノイス州に於ては大に事情を異にせり。リンコンがスプリングフィールドの法廷に辯論を始めたる當時に在りては、敎化尙ほ普からず、法廷の規定も之に準して甚だ簡易なりき。されど正義を奉じ、法律を守り、判決に服せる、當時の人民の間には、已に御得意辯護士なる者を見るに至れり。元來ブラックストーン、チテーによりて組み立てられたる習慣法の基本原理なるものは、左まで難解のものにあらざれば、智見あり、常識あり、品格あり、決斷あり、頓才あり、辯舌ある者は、其の餘を補うて餘りありき。

 當時の訴訟なるものも、亦頗る單純にして、多くは常識にて判するを得たるものなれば、判事も辯護士も小六ヶ敷法律的技巧に訴ふるの必要なかりし也。當時尙ほ未だ鐡道なく、大會社なく、遺產の悶着なく、此等の錯綜より生ずべき込み入りたる法律問題も亦自ら存せざりき。從ッて是等の事に通曉せる專門家なる者も、亦大體に於て必要なかりし也。されど當時のイリノイス州內の辯護士社會には、間々深奧なる法律家のありしは事實にして、此等の人物は皆功名富貴を此の新開の地に求めて來れる也。而してリンコンが辯護士としての力量を發揮し、其の術に習熟するを得たるものは、主として此等專門明達の士と、或は交はり、或は爭ひたるが爲なり。

 オハイオ河以西の諸州に在りて辯護士たる者、また兼ねて政治家たらざるべからざるは當時の事情なりき。村、町、郡、州、次第に發達して中央政府の事務もまた漸く細密なるに從ひ、これ等より生起する問題の多くは、實に法律家の頭腦を要したりき。今日に在りては新聞紙の專有に屬する公共問題の評論なるものも、當時に於ては政談集會に於ける辯士のみ討議したる所なりき。されば機智あり、熱心あり、明快なる頭腦ある雄辯家は、其の法廷の內に在ると否とを問はず、常に民衆の注意を惹くべき好地位に立てり。今や人の耳目を喜ばしめ、好奇の心を滿たさしむる一切の具、備はらざるなしと雖も、當時に在りて民衆の爲に主要なる歡樂の塲たりしは、實に法廷及び政談集會の公堂なりき。されば法廷の「ベンチ」に凭るにもせよ、政論壇上に立つにもせよ、最も能く聽衆を感動せしめ、最も能く聽衆を悅ばすものは、當時の「ヒーロー」として喝釆されぬ。法律の論と政治の論とは彼等嚴しく之を別たざりしかば、最も能く人を動かす政論家は、また最も能く推論に長ずる法律家なりと看做されたり。

 此の如くしてリンコンは多くの訴訟依賴者を得たれば、尠からぬ謝禮を受くるに至れり。されど如何なる形に於て來るも、黃金は彼を動かす能はざりき。燃ゆるが如き功名の念は、彼をして資金を土芥視せしめ、國家民人の爲に大業を成就せんとする高潔の心は、彼をして一切鄙吝の念を絕たしめたり。富は固より彼に薄からず、彼の收入は年を逐うて增加せり。されど彼は之によりて毫も富むことなかりし也。彼は一回一万圓の報酬を得たることすらありと傳ふ。此の如きは法律家の「パラダイス」と稱せらるゝ米國にても、當時は頗る巨額のものと看做されたり。余は彼の傳記家に比して重きを彼の法律家的經歷に置く所以のものは、大英國と米國とは法律家の地位につき大に異なる所あるが爲なり。今日の米國にても、公人生涯に到達する重もなる大道は、實に法律の職業なり。余は信ず、法廷に於ける訓練と經驗とは、更に廣大なる舞臺に於て發揮せらるべき諸能力の涵養を助くと。

 リンコンをして著名ならしめたるものは、言ふまでもなく政治問題也。彼は政治問題に於て正しくイリノイス州民の心を攬れり。此の時に當りて米國全土の政治的權力や、漸く徃時の十三州を去りて西部の諸州將に之に代はらんとす。イリノイスは强大なる西部の一州也、此の州に於て名望を擔へるリンコンの前途は、今や甚だ多望となれり。千八百六十年の共和黨大會に於て、彼は西部人民の推す所となりて大統領候補者に當選せり。彼今空前絕後の大問題に面して起つ。〈譯者曰く、――當時大會に出席したる代表員の總數は四百六十五名にして、其の過半數卽ち二百三十三票以上を得たるを當選者とす。第一回の投票に於てシューワド百七十三票、リンコン百二票、共に定數に滿たず第二回に於てシューワド百八十四票、リンコン百八十一票、尙ほ共に定數に滿たず。第三回に至りて形勢大に變じ、シューワド百八十票、リンコン二百三十一票となれり。而も尙ほ定数に滿たず。第四回に三百五十四票を得てリンコンの當選確定せしが、最後に動議起り、彼の當選を全會一致となせり。知るべしリンコン當時の勢力、主として西部に止まりしことを。〉

空前絕後の大問題とは、言ふまでもなく奴隸制度より來るもの也。思ふに奴隸問題の歷史は、已に諸君の熟知する所にして、此の問題に對するリンコンの態度、即ち奴隸制度の全廢を標榜して起てる彼の地位も、亦能く諸君の明視する所ならん。黑人を奴隸と爲すの制は、夙に南部諸州に行はれたる所にして、殆んど諸州の歷史と共に始まれるが如し。「メーフラワー」號の淸敎徒が、マサチゥセッツのプリーマスに上陸せる前年、即ち千六百十九年に於て和蘭の商船は、一群の奴隸を阿弗利加より搭載し來りて、之をヴァヂーニアのジェームスタウンに上陸せしめしを始とし、奴隸輸入の一事は、植民時代(獨立前の時代)を通じて行はれぬ。勿論北部諸州と雖も、絕えて奴隸を有せざりしといふにはあらず、されど之が爲に政治問題に影響するが如き事態は毫もこれなかりき。米國憲法制定の當時に於て、此の事端なく議題となり、奴隸の道義上、社會上、政治上、一個の罪惡たることは憲法大會の重もなる人物の認識する所となり、奴隸の輸人を禁止する法律を設けて之を勵行すれば、自ら此の制度を全滅するに至るべし、とは彼等の等しく信じたる所也。華盛頓は其の遣書に於て自家の奴隸の解放を約し、且つジヤファソンに吿げて曰く『奴隸制度を全廢すべき計畫を案出せんことは、我が願の一なりき。』ジヤファソン亦此の制度に關して曰く『正義は神なるを思ふ時、余は我國の爲に戰慄す、神の正義の安からざるを思ふ時、余は我國の爲に戰慄す。』フランクリンの如き、アダムスの如き、ハミルトンの如き、パトリック・ヘンリーの如き、皆此の制度に反對したる人也。妥協は往々にして政界不可避の罪惡たるが、米國憲法も亦一種の妥協によりて成立せり。憲法は、已に諸州に於て認められたる奴隸の制は之を認め、勵行せらるべき奴隸輸入禁止の法律も、二十ケ年の延期を許すこととなりて成立せり。特に記憶すべきは、奴隸の逃走を取締る嚴重なる法律の設けられたることなり。是れ實に後の爲に禍を遺すものにてありき。されど千七百九十二年に繰綿機の發明あるまでは、何等の危難の表面に現はるゝことなかりしが、この發明によりて南部諸州は頓に奴隸勞働の缺乏を感ずるに至れり。二十ケ年の延期滿ちて、愈々奴隸輸入の禁止を實行すべき時は、即ち大に奴隸の數の增加したる時にてありき。其の時以來、奴隸制度は一個强大なる政治的權力の基礎を成し、南部諸州は偏に此の制度を維持し、機會ある每に此の制度の擴張を謀れり。〈譯者曰く、――當時英國に於て紡績の機械發明せられ、紡む事と織る事は進步したれども、これが原料として外國より仰ぐ綿花は、綿と綿の質を分つに一々人の手を用ひたれば、勞多くして功少く、綿花は常に需要に應ずること能はざりき。繰綿機によりて事情一變し、一人の奴隸能く三百人前の綿を繰ることを得たれば、綿花の耕作は米國に於て甚だ有望となり、奴隷の價値大に騰れり。若し此の繰綿機の發明せらるゝことなからんか、若くは二十年後れて發明せられたらんには、リンコン果して歷史の人物たるを得たりや否は頗る疑はし。〉

 奴隸に關する討論は絕えず行はれたりと雖も、此の制度に反抗する北部人民の良心の激動は甚だ遲緩なりき。之に反し、南部人民の感情は頗る猛烈にして、南部の要求、若し貫徹せざるときは、斷然分離して別に南部の一聯邦を組成すべしと稱して、常に北部を威迫せり。此の分離より聯邦同盟を救ふ爲に、一時凌ぎの妥協は數々試みられしも、期滿ちてこは何等の効果なく、千八百二十年、ミゾリーが一州として聯邦同盟に加入せんとするに當り、更に一種の妥協成り、ミゾリーを以て奴隸制を有する最後の州と爲し、以後新に聯邦同盟に加入する者には、一切此の制度を許さざることゝなれり、之を「ミゾリー妥協」と稱す。後千八百五十四年に至り、奴隸黨の議員、聯邦議會に多數を占むるに及びて、此の妥協法は遂に廢止せられ、奴隸の制度は更に新しき擴張を新來の諸州に見るに至れり。こゝに至りて眠れる北部人民の良心は大に動き來り、憲法改正の手段によりて奴隸全廢を實行せんとする共和レパブリカン、パーテーの成立を見たり。

 此の主義によりて爭はれたる大統領選擧の第一戰は、共和黨の勝利に歸せざりしが、これによりて得たる投票の數は頗る多かりき。分離を以て威迫せる南部人の威迫は、北部人に對して更に何等の効力を有せざるに至れり。リンコン今や新政黨の首領となれり。千八百五十八年、彼と奴隸黨の領袖たるダーグラスとの間に火花を散らして試みられたる論戰は、米國全土の注意を惹けり。リンコンが力ある推論は到る處に隨從者を得たり。彼の德性は宣揚せり、彼の良心は激動せり。奴隸若し罪惡たらざれば天下何の處にか罪惡あらん。皮膚の色の異なるが爲に、人は自已の勞力の結果を他人に掠奪せらるべきものにあらず。他人の血汗によりて無意義の奢侈に耽るは、何人の權利にもあらず。彼は天性、米國獨立宣言書の信者にして、人に天賦固有の權あるを認めたり、即ち生存の權利を認め、自由の權利を認め、營業の權利を認めたり。是れ彼の信條にして、彼の事業は徹頭徹尾此の信條の上に立つものなりき。請ふ彼の聲言せる數語によりて、少しく彼の意見を窺はん。彼曰く、
『今や米國人民の眼前に橫はる大問題は、世界を通じて行はれたる二主義の爭鬪也。正と不正との二主義の爭鬪也。此の二主義の爭鬪は、古今を通じて行はれたる所にして、未來に於ても尙ほ繼續せん。人類平等は其の一也、帝王神權は他の一也。如何なる形に於て來るも、其の精神は常に異ならず。曰く勞働し、困苦して麵包を得るは爾の務也。而して之を食ふは我權利也』。

兩者の爭の到底不可避のものたるはリンコン能く之を明視せり。姑息の調和、姑息の妥協、分明こゝに至りて無用なるを認了せり。正義强きか、不正義强きか、自由勝たざれば奴隸勝たん。米人此の岐途に分れて遂に南北戰爭となれり。

 彼に不朽の語あり、曰く

『自由と奴隸を調和せる「妥協政策」の實行中に於て、奴隸問題の熱度は毫も冷却せずして却て、益〻亢進したるが如し、破裂は唯一正當なる運命也。「家を支ふる力相背くとき其の家は顚覆す」。余は半自由にして半奴隸なる政治の永續すべきものにあらざるを知る。余は國家の分割を希はず、余は家屋の顚覆を希はず、されど余は統一事業の完成を希ふ。奴隸制度を擧げて全廢するか、然らざれば此の制度を認め、新舊南北の諸州を通じて等しく合法正當のものとなさゞるべからず』。

 千八百五十年より六十年の十年間は、奴隸問題の沸騰點に達したる時代にして、事態は刻一刻より逼り來り、大破裂の起るは今かと疑はれぬ。千八百五十年の妥協法に依りて一時の小康を得たりと思ひし間もなく、新しき叫喚の聲は意外の邊に起れり。中央政府が軍隊の力を用ひて逃亡せる奴隸をボーストンより拉し去りたる一事は、自由の堅城として知られたる同市住民の痛く憤慨する所となれり。奴隸制度の殘忍刻薄を描寫せる『アンクル、トムス、キアビン』は出版せられたり。上院議員チヤールス・サムナーは奴隸黨の爲に白晝公然上院議塲に於て毆打されたり。奴隸は財產にして、其の處分は所有者の隨意に屬すとの新判例は「ドレッド・スコット事件」に對して高等法院の與ふる所となれり。自由の旗を樹てゝヴァヂーニア州に闖入し、奴隸を集めて大膽なる運動を試みたるジヨン・ブラオンは死刑に處せられたり。大凡此等の事、一としてリンコンの宣言を證せざるものなく、半自由と半奴隸とは兩立せず、奴隸か自由か、二者其の一に歸着すべきは當然の運命なりき。ジヨン・ブラオンの刑に就くや揚言して曰く、奴隸の制度は唯鮮血を以て一拭すべきのみと。されど奴隸制度の全滅の爲に數百万の武夫、劍光砲聲の間に相見ゆる四ケ年なるべきは、ジヨン・ブ ラオンも、ジヨン・ブラオンの處刑者も、共に夢想だもすること能はざりき。當時の軍歌に曰く、

『ジヨン・ブラオンが屍は
苔むす墓に朽ちたれど
彼の魂は進軍す。』

 リンコンの齡は今方に五十一、此の荒原の兒、傭耕者たり、樵夫たり、舟子たり、測量手たりし者、辯護士たり、辯士たり、政治家たり、愛國者たる彼は、一國の命運已に窮して正に一轉向を要する危機に際し、一大政黨に推戴せられ、奴隸廢止の大任を帶びて一大共和國の主宰となれり。

 活ける神の攝理ありて、常に國民の運命を支配することを信ずる者は、此の一個素樸の人の、高位に上りて能く其の重任を全くしたることに於て正しく意義ある聲援を得たるならん。歷史に於けるリンコンの地位に關して、我等の哲學者たるエマソンの下せる判斷は、此の哲學協會の諸君に呈して一考を求むるの價値あるべし。エマソン曰く、

『彼が大統領の椅子に凭りしことは、人類理性の勝利にして、又社會良心の勝利なりき。時勢の必要に應じて成長したる彼は、當面の問題に接して、直に其の眞意義を捕捉せり。戰一たび開けて、世に觀兵式の將軍たり、晴天の舟子たる者一切無用となれる時、狂瀾怒濤を見て憤然舵機に走りたるは新しき舵手にてありき。彼の堅忍、彼の機略、彼の剛毅は、戰時四年を通じて公平なる試練を經たり。彼の勇氣と、彼の正義と、彼の商量と、彼の仁愛とに依りて、彼は勇敢なる時代の中心に勇敢なる人格として屹立せり。之を總ぶるに、彼は直に是れ當代米國人民の歷史なりき、北米大陸眞個の代表者なりき、合衆國民の父にてありき。二千万の心臟は彼が爲に鼓動せり。二千万の心は彼の口を藉りて明白なる音韻をなせり。

 余が始めて彼を見、彼の演說を聽きしより已に四十年を經たり。されど彼によりて得たる印象は、今猶ほ余の心に新なり。彼は西部の諸州を風靡したる後、遊說の爲め、紐育市に來りたるが、其の容貌風釆、一個紛れなき田舍者にして、其の長大の軀のいたく群を拔くの外、一見何等の特徵を認むること能はざりき。彼の衣服は最と無造作に彼にまつはれり。黑味勝ちに蒼白き彼の顏面は、何等の色彩を帶びざりき。彼が姿勢の粗野なるは、彼が流離困頓の中に人と成りしを證する也。彼が凹める眼は陰欝悲哀の趣を備へたりき。休止の時の彼が面を打見たるに、最下の地位より最高の地位に彼を登せたる彼が腦力の非凡を示す證據とては見えざりき。壇に上る前、余に語りたるときの彼を思ふに中心絕えざるものあるが如く、恰も一個の少年辯士が、不慣の聽衆の批評を氣つかふが如き面體おももちありき。

 彼が演說を聽かんが爲に集まりたる無數の聽衆の中には、當代の俊豪多く、記者あり、牧師あり、政治家あり、法律家あり、商人あり、批評家ありき。彼等は皆彼が有名なる雄辯を聽かんことを熱望して來れる也。有力なる辯士として博したる彼の名聲は、夙に彼等の聞く所なりき。彼が機智頓才に關する多くの如何はしき風說は、疾くより東部諸州に滿ちたりき。ブライアント氏の紹介を以て、彼が悠々としてクーパー・インスチテュートの高壇に登るや、此の荒原の兒たる彼の人物如何を見んとの好奇の心に滿ちて待ちに待ちたる海の如き聽衆は、頭を擡げて一齊に彼を喝釆せり。然り、彼等は失望することなかりし也。彼一たび口を開くや、殆ど別人の如くなれり、彼の目には光あり、彼の聲は鳴り渡れり、彼の面は輝けり、而して一大集會は之が爲に點火されし如くに見えき。一時間半にして彼の演說は了はれり。彼が辯論の風、彼が態度の狀、驚くべきまで素樸なりき。ローウエルが所謂「聖書の莊嚴なる簡易」は、彼の雄辯に接して自ら人の想到する所なりき。何等の修辭なく、何等の裝飾なく、彼は言はんと欲する所を直言せり。人若し、邊陲の人に有り勝ちなる浮誇張大の辯を聽かんが爲に來りたらば、彼が語調の眞摯熱心なるに驚嘆したるならん。唯此の無學の一漢子、刻苦自ら學び自ら修めたる一事によりて、煩はしき人間一切の工を超越して簡易素樸の風に於て、自ら莊重雄偉の致を極めたることを思ふときは、眞に驚異の外なき也。

 彼が語りたる題目は、彼が最も得意のものにてありき。數多き歷史上の事實を以て、併せて精細なる論理を以て、彼は議論の步を進めたり。米國憲法を制定せし諸公の眞意なるものは、眞に聯邦同盟の完成に在り、後世子孫の安寧福祉を保するに在り、而して此等をして有効ならしむる爲に、總ての屬領テリトリーズより一切奴隸を排除すべき權力を中央政府に委ぬることも、亦誠に諸公の眞意なりしことを、彼は最も能く痛論せり。若し奴隸全廢を標榜せる共和黨の大統領にして當選せば、南部は分離して別に一聯邦を組成すべしといふ南部の威迫に對しては、彼は情深き心を以て之に反對せり。正義と自由の愛とに充ち滿ちたる彼の良心が、活氣を全身に喚起したる時、彼は聽衆に訴へて曰く、當面の爭は、正と不正との爭也。此の爭に於て吾人が尊貴にして冒すべからざる政治上の目的を達するまでは、如何なる反對、如何なる威迫、政府を倒し人民を賊せんとする如何なる威迫反對に逢着するも、吾人は決して吾人の職分を忘るべからずと。彼が議論の結尾は、最も能く人の心に沁み渡れり。曰く、

『正義は權力を生ずといふことを以て我等の信仰たらしめよ。この信仰あり、我等が一たび職分としたる所を遂行することに於て極めて大膽ならしめよ。』

 其の夜は大講堂に、翌日は紐育の全市街に、彼に對する喝釆の響は轟き渡れり。一個の風來者として來れる彼は、大成功の月桂冠を戴きて紐育を去れり。

 五年の後、何事ぞ、余は復た最後の彼を紐育に見たり。黑布を掛けて弔意を表せる靜肅なる街衢を擔はれ行く柩裡の彼を見たり。彼は慟哭哀悼に思を傷めたる多くの人民に伴はれて、彼が爲に政治的光榮の終點たりし華盛頓より、彼が公人生涯の始點たりしスプリングフィールドに行くべく紐育を過れる也。〈譯者曰く、――米國にては大統領逝去後、期を限りて軒頭に黑布をかゝぐるを習慣とす。〉

 當選後四ケ月を經て千八百六十一年三月四日、式により憲法を遵守し、聯邦を擁護するの誓を爲して、彼は愈〻大統領の職に就けり。リンコン當時の地位たる、言ふまでもなく至艱多難のものにてありき。彼が當選の事定まるや、南部の七州は直に聯邦同盟より分離して、別に一同盟を作り、砲臺を奪ひ、火藥を掠め、造兵所を橫領し、彼等が手の達する處に存する聯邦政府所屬の物、悉く之を刧掠せり。彼等の戰意は最早疑ふべからず。されど退任すべく定まりて尙ほ職に留まる所の大統領は、固是れ奴隸黨の選ぶ所也、手を拱いて徒に之を傍觀す。陸海軍の大元帥は、憲法上當然大統領の職務に屬するもの、此の地位今やリンコンを待てる也。されど彼の指揮すべき陸海軍なるもの、事實殆ど存せざりき。彼は如何にして南部の挑戰に應ぜんとするか。〈譯者曰く、――米國にて大統領の選擧は、十一月の第一月曜日に次ぐ火曜日に行はるゝが、其の就任は翌年の三月四日也。この當選せられて、尙ほ就任せざる大統領のことを「大統領被選者」(プレシデント、エレクト)と稱す。〉

 溫和にして慰撫の精神に富みたる就任演說に於て、彼は分離したる南部の諸州に訴へて、直に歸順すべきを勸吿せり。若し歸順せざるときは、斷然兵力を以て一旦奪はれたる砲臺、兵器、其の他政府所屬の一切の物を回復するは、當然大統領の職分なることを宣吿せり。此の時に當りて黨與も反對黨も、猶ほ未だ戰爭の不可避を信ずること能はざりき。されどサムナー塞の占領を見るに至りて、南部の戰意、南部の背叛は、明白となれり。北部の人心は爲に沸騰せり。米國全土の上に翻る星條旗の神聖を護るは此の時なりと叫ばれたり。當時リンコンが三ヶ月を限りて七万五千の義勇兵を召募せしを觀れば、此の戰の未來が、如何に無造作に看做されたるかは知るべきにあらずや。されど此の時以來、忠實なるリンコンの黨與は、初一念を貫徹せんとする意氣に於て、毫も渝る所あらざりき。彼等は勝利を知れり、勝利は彼等の義務なるを知れり。米國の未來、米國の希望は、唯一彼等の勝利に繫かるを知れり。南部諸州が聯邦同盟より分離せりといふ一事は、今や米國存亡の問題となれり。聯邦保存すべきか、抑もまた之を毀つべきか。

 吾人は今此の爭鬪の狀を詳述すべき時間を有せず。慘を極め悽を極めたる此の戰は、眞に大仕掛のものにてありき。三ケ月にて平定すべく豫想されしものは四ケ年に及べり。七万五千にて事足るべく看傲されたる政府側の兵士は、二百万を超ゆるに至れり。米國人民に價せる軍費の總額は百億圓を通算せり。一國の花たる三十餘万の壯丁は、之が犧牲となれり。戰慄すべき此の四ケ年に於けるリンコンの堅忍は、歷史能く之を證明す。彼は眞個の意義に於ける大統領なりき。彼は總ての助言に傾聽せり。彼は總ての黨派の意見を徵せり。而も上帝と國家とに對する自己の責任を思うて、爲政の大事は常に自己の判斷に賴れり。彼の誠實は彼が大統領たる以前に於て已に能く承認せられ、彼は久しく「誠實なるリンコン」の名に於て知られたり。而して彼の動作は全く之を證したりき。

 大なる權勢を一身に集めたる彼は、到底彼が所謂「素樸の民」の一人たることを失はざりき。是等素樸の民に對する彼の同情は、絕えて渝る所なく、常に彼等に接し、彼等の言ふ所に應じたり。是れ人格の秘訣の存する所にして、彼が常に人民より信賴せられ、仰望せられたるもの、また實に之が爲めなり。彼の勇氣や、剛毅や、忍耐や、希望や、疑ふべからざるまでめされたり。

 彼は部下の諸將を信任する甚だ厚かりしかど、一たび其の不適任なるを認むるや、直に之を罷免するの英斷ありき。此の困難にして重要なる任免の事は、大統領としての痛ましき務なりき。されど一たびグラント將軍の材を認めて、最後の凱歌を持ち來すは此の人なりと爲すや、總ての權力を擧げて此の人に一任して、而して毫も疑ふ所なかりし也。

 彼は罪ある者に對して、常に限りなき溫情を有したりき。罪を獲たる兵士の妻女の、來りて哀訴するに逢へば、彼は常に忍ぶこと能はざりき。されば當時の陸軍當事者は、逃走兵士を取締るに途なきことをつぶやけり。罪人の家族の婦人にして謁を求むるあらば、彼は必ず之を引見せり。戰爭の爲に苦みたる者の親戚姻者に對する彼が同情の濃なることを示す例證の多きが中に、總ての男兒を送りて戰塲の鬼たらしめし母人に贈りたる彼が弔慰狀の如きは、眞に親切丁寧を極めたるものゝ一と謂ふべし。書中に曰く、『余は陸軍省の記錄に於て、貴下が五人の子息の悉く名譽の戰死を遂げられしを知れり。余は何の辭を以て貴下が無窮の哀を慰め申すべきやを知らざれども、共和國を救はんが爲に斃れたる人の死に對して、共和國の感謝として、玆に弔慰狀を發せざらんとするは余の禁へざる所也。天にします我等の父は、愛兒の死より來る貴下の悲哀の一切は之を和らげ給ひて、最愛の記念の一切は、之を遺さしめ給はんことを、余は偏に祈禱し奉る。斯くまで高貴なる犧牲を自由の祭壇に捧げられしことを以て、貴下が嚴肅なる誇りたるべきことも、亦余の深く信ずる所也』。余は英國女皇の仁愛の資に富み給ひしことは能く之を知る。されど斯くまで情深き言葉を以て士卒の遺族を慰め給ひしことありや否やは、余の未だ知らざる所也。

 世界は千八百六十三年の一月に至りて「奴隸解放令」の發布を見たり。此の令や、直に我等の同胞たる數百万の奴隸、法律に由りて「完全なる動產にして、其の處分は一に所有者の自由に屬す」と認められたる數百万の奴隸を、獨立自由の人と爲したるもの也。而してリンコンは是によりて歷史に於ける博愛家、慈善家の第一位を占むることを得たり。

 思想は世界を支配すといふことは、是に於て最も適切なる例證を見たり。井リアム・ガリソンは、三十年前奴隸廢止の運動を開始したる人にして、其の生時に於ては固より其の事業の完成を期したるものにあらざりしが、此の解放令に接して大に喜び、記して曰く『崇高雄大、其の恩澤の光被する所甚だ遠く、壓制者に對しても被壓制者に對しても、共に等しく公正にして眞に歷史の大事件也。』

 リンコンは衷心より奴隸に反對したる人也。傳說のつたふる所に據れば、彼は年少、人の爲に傭はれ、舟子となりてニューオーレンスに使せし當時、自ら鎖にいましめられたる奴隸の慘狀を目睹して心窃に決する所ありたるが如し。當時ケンタッキー、若くはイリノイスの白人にして、奴隸と共に、若くは奴隸の傍に勞働せし者は、何人も奴隸制度のそれ自らに於て慘忍刻薄を極むるものたるを認めたるのみならずまた、白人勞働の進路に橫はる一大障碍たることを感ぜざる者あらざりき。リンコン一たび議員となりて奴隸黨より成れる當時のイリノイスの州議會に入るや、直に決議案を提出して曰く、「奴隸制度は不正と不利益との上に立つもの也」と。諸君之を以て尋常平板の事となして、而して何等の勇氣の稱すべきものなしと言はんか、請ふ少しく當時の形勢を察せよ。奴隸廢止の演說を爲したる一事によりて、ガリソンは繩めの辱を受けて、怒れる暴徒の一群にボーストン市 街を引き迴はされしも此の時也。リンコンと州を同じうせるラヴジヨーイが、奴隸廢止に關する小册子を印刷したる機械を、襲ひ來れる暴徒の爲に、無殘の最後を遂げしも此の時也。

 彼はコロンビア區〈首府華盛領を含む方十哩の地。〉に於て一定の代償法を設けて、漸次奴隸を廢止すべきことに關して一個の議案を提出せり。是れ彼が議會に在りたる時の事也。彼は國民の一部が叛逆を試むるに至るまでは、無代償にて奴隸を解放するは、二百年間特定の人に一定の收入を成せし財產を沒收することとなり、頗る正義に反すと爲せり。ペンシルヹーニア州の代議士ヰルモット氏が、新に米國の屬領となるべきものに關する法律に附加せんとして提出せる動議、即ち――「奴隸若くは强迫勞働の制度は…屬領の管內に存するを許さず」……所謂「ヰルモット但書」として知られたる動議に對して、リンコンは四十二回の賛成を表せりといふ。道義の上より觀れば、奴隸の制度は罪惡也。經濟の上より觀れば、國民繁榮の大敵也。奴隸か自由か、二者其の一に歸着せざるべからずとの彼が意見は、所謂「イリノイス」討論として知られたる大雄辯に至りて、其の頂點に達せし也。

 民の聲は神の聲――リンコンが大統領に當選せりてふ一事は、直に奴隸制度擴張の屛止を證したりき。由來憤激せる人民の心の底に本づく革命なるものは、徹頭徹尾其の目的を達せざれば已むものにあらず。若し南部の諸州にして、リンコンの當選に對して何等の反抗を試みず、聯邦同盟より去ることなく、依然として中央政府の管下に屬して、等しく憲法の支配を受けたりとせん乎、不道德は不道德に相違なく、不利益は不利益に相違なしと雖も、奴隸の制度は尙ほ百年の命脈を有したるやも亦未だ知るべからず。リンコンを當選せし共和黨なるものは、言ふまでもなく奴隸制度の擴張には反對したり。されど旣に此の制度を有する諸州に對しては、直接何等の干涉を試みんとはせざりし也。勿論新領土に對して、奴隸嚴禁の制を設くるときは、奴隸制度其の物は、漸次衰殘して遂に泯滅するに相違なし。さればリンコンが代償の法を設けて、漸次に全廢に導かんとしたる政策は、正義に於ても便宜に於ても、共に稱賛すべきものにして、また能く建國諸公の旨を得たるもの也。されど神は泯ぶべきものをして先づ狂せしむ。最初に七州なりしものは十一州となり、今や彼等は聯邦同盟より分離し去りて、公然中央政府に戰を挑みぬ。斯くして彼等は自由とリンコンとの爲に史上類なき莊嚴なる機會を與ふるに至れり。

 彼が第一回の就任演說の當時に在りては、吾人は未だ一滴の鮮血を見ることなかりし也。彼は此の演說に於て、分離せる諸州に示すに、力めて溫和の態度を以てしたると共に、憲法を保障し、彼を選擧して、黨派の決議を實行することも、亦彼が正しき職務なることを詳陳せり。其の所謂決議の中に曰く『州權の犯すべからざることを認むる事、特に各州に對して任意に州內の事件を處埋するの權を認むる事は、實に我政治組織に必要なる權力の均衡を維持する所以也。』彼は幾度か此の語を反復したる後、語をついて曰く『憲法及び法律の範圍に於て、諸州に附與し得べき保護にして、諸州より要求することあらば、之を一州に與ふること、猶ほ他の州に與ふるが如くなるべし。』

 然りと雖も、平和と歸順を促したる此の洪量なる勸吿も、遂に彼等の從ふ所とならず、飽くまて憲法を無視するに至り、奴隸の上に一大帝國を建設せんとするに至り、一國を擧げて鮮血の中に漂はさんとするに至り、局面こゝに一變して、リンコンの心も亦大なる變化を見たり。彼謂へらく、叛徒は直に征服すべからざる乎、十分の勝利を得るまで、戰爭は之を繼續せざるべからず。此の如き場合に於て國民を濟ふの道は、唯各處に存在する總奴隸を全廢するの一あるのみと。又謂へらく、一國二途に分れて、一方は奴隸の爲に聯邦分割を目的とせば、他の一方に於て爲すべきことは、奴隸を廢して聯邦を維持するの一あるのみと。

 『我事情を制するにあらず、事情我を制する也』とは、彼が當時の感慨なりき。戰は進みて慘より慘に至り、危險は更に危險の度を增すに及びて、彼は下の如き自信に到達したり。人を殺し財をなみすることしかく太甚しき此の戰をして、無益の犧牲に終らざらしめんが爲に、大元帥たる者の爲すべき所は、直に叛逆黨の中心に向ッて一大打擊を與へ、之によりて彼等の立脚地を根本より破壞することにてありき。彼の語に於て之を言はゞ、

 『全力を盡くして憲法を擁護すべしといふ余の宣誓は、不可避の方法に依りて政府を擁護し、國民を擁護すべしといふの意義に解釋せらる。憲法は固是れ政府、國民を統御する所の法律也。然らば國民亡びて憲法尙ほ存するの理果してこれある乎。生命と下肢と併せ存すべきは普通の事、而も下肢を斷ちても尙ほ生命を存すべき場合なきにあらず。されど生命を棄てゝ下肢を存せんとするは、斷じて賢者の所爲にあらず。余は信ず、尋常違憲の處置たるべきことも、一國保存の爲に之を爲すときは、國家の保存によりて憲法の保存となるが故に、之を合法といふも可也と。正義か邪惡か、此の二途を離れて取るべきなきに際し、奴隸及び奴隷の如き小事を存せんが爲に、政府も、國家も、憲法も、併せて之を棄てざるべからざることをも、尙ほ憲法を保持する所以の義なりと解する能はず。』

 彼遂に此の判斷に到達したる時、彼は斷然最後の手段を取りて、彼の名を不朽にする所の奴隷解放令に署名せり。彼は此の令に由り、戰時の大元帥として、及び叛徒を鎭壓する適當なる手段として、各處に捕はれて奴隷たる總ての人は、今日以後全く自由の民たることを布吿せり。彼は陸海軍の力を以て、此の新しき自由の民の自由を擁護することを宣言せり。

 戰爭を全勝に導きし所の他の政策に就いては、彼は固よ り彼が信任せし諸公と責を分ち功を分つべく、シューワドの如き、チエースの如き、スタントンの如き、其の他陸海軍の將軍提督、皆悉く此の大業を翼賛せし者也。されど此の解放令の一事に至りては、純乎として彼の胸中より出でたるもの也。其の思想や、其の執行や全く彼に屬する也。彼は此の大法令を內閤に提出して諸卿に吿げて曰く、此の令については心旣に決する所あり、今唯細目に就いて諸君の意見を問ふと。彼が解放を斷行したる時機や洵に宜しきに適ひたりき。

 比の令の出づること一刻の早きことありとせん乎、北部の民心は尙ほ之に伴ふこと能はざりしならん。劍戟始めて閃き、砲火始めて聞えてより一年半、戰の描き出せる荒涼の景は、今や大西洋の岸よりミシシッピーの彼方に至れる也。其の間一勝一敗、輸贏或は決せざることあり、北軍或は南軍に致されんとすることあり。兩軍相對峙して曠日瀰久なる時、民心或は沮まんとす。サムナー塞占領當時の元氣は、時に或は方向を轉ぜんとす。固より彼等は喪心せしにあらざる也、されど內訌時に頭を擡げんとす。此の時に當りて解放令の出でたるもの、眞に霹靂一聲の觀ありき。民心これが爲に一新して、進んで難に赴く者踵を接するに至れり。是れ實に壓抑煩累の裡より國民の良心を救ふものにてありき。建國以來半自由にして半奴隸なる虛僞の狀態より、米國其のものを濟ふことにてありき。「自今以後、自由と同盟とは永へに一體」たるべきことを思うて、國民のハートは更に新なる皷動を始めたりき。是れ啻に道義上の一大成功たりしのみならず、政府は是によりて有形上の聲援を得たり。以後二ケ年、解放されし黑人の、進んて軍に投ずる者實に十二万に及べり。一個黑人の黑人聯隊に投ずるや、其の母驚喜して曰く『余の彼が從軍を榮譽とするは、彼が戰死を榮譽とするに異ならず』と、果然彼は突進隊の先鋒となりて戰死せり。人の南軍について彼の屍を求むるや、南軍答へて曰く『彼の死骸は黑奴ニガーの冡中に在り。』されど彼の母は光榮ある三十六年の餘生を得、ボーストン市は特に彼女の爲に尊き記念像を建てぬ。

 解放令の効果は、即時に戰爭の進路に現はるゝことなかりしかど、北軍の進む處必ず奴隸を解放せし一事は、特に注意すべきものならん。而も新しき勢力は夏と共に來りて、政府も人民も新しき元氣を得、七月初旬に於けるゲテスバーグの大決戰は、戰爭の運命を一變せり。次いて來れるヴィークスバーグの陷落は、墨西哥灣に至るミシシッピーの航路を自由にせり。

 解放令と此等の新勝利との外國に與へたる影響は甚だ大なりき。當時尙ほ未だ海底電線なかりしかば、外國に在りて事情の實地に通ずることの容易ならざりしは無論の事、我等が第十九世紀の末年に在りて、地球の隅より隅の出來事を、電氣の力によりて會得するが如きは、當時の人の能くする所にはあらざりき。歐洲に至れる南部の密使は、種々なる手段により、南部に都合よき意見を、或は公私の人に吿げ、或は新聞雜誌に公開して、力めて外國政府の干涉を誘致したるが爲に、南部の前途の却て有望なることは、常に歐洲人の眼に映じたる所なりき。而して南部の公債の歐洲市塲に在りて、一時非常の好景氣を呈したることあるも、亦實に之が爲めなり。

 當時の歐洲人は、槪ね下の如き思想を有したり。北部は一大帝國の爲に戰ふものにして、南部は獨立の爲に戰ふ者也。他人の勞力の結果を奪うて自家の物と爲す豪族政治は、實に南部の特色なること、これ彼等の知らざる所にして、自由の思想を基礎とする眞個の共和國たる北部に比して、今日は稍〻弱き者なれども遂には一大國民たること、是れ南部の運命也。ジヤファソン・デーヴィス及び其の他の南部の領袖は、已に一大國を形成せるものにして、北部の所謂共和政治の實驗は、見事失敗に歸して、聯邦政治の到底不成立なるを證せる也。されば政府は此の戰に於て勝算あるものにあらず、分離を目的とせる南部の成功は、毫も疑あるべからず。北部縱令南部を壓して一時の成功を博することあるも、これ遂に米國全體の災害たり、世界の災害たり、併せて黑人種の災害たることを免れず。且つ南部人をして永久政府に北部を敵視せしめ、絕えず南部をして獨立運動を策せしむるに終るべし。――是れ實に當時歐洲人の試みたる推論なりき。

 此の思想の誤謬なることは、解放令公布の當時リンコン能く之を知りたりき。政府の終に勝つべきこと、且つ勝つを要すべきことを知りたりき。奴隷已に解放せられたれば、爭鬪原因なるもの、こゝに消滅して、南部と北部とは漸次接近し來りて、當初の如く復た善友たるべきことも、彼また能く之を知りたりき。解放令は、米國の味方たる外國人の間に於て非常の喝釆を以て迎へられぬ。此の時に最も能くリンコンの心を悅ばしめたるものは、英國北部の製造業の中心たる諸市の勞働者、相集まりて此の解放令を祝賀せしこと也。此等勞働者の多くは、紡績の職工にして、米國南部より來る綿花の供給、戰爭によりて絕えたる爲め、其の多くは失業者たりしに拘はらず、困苦を忍び、艱難に耐へ、毅然として奴隸廢止の正義を守りて、北部の味方たりしは、眞に美麗なる人情の發動と謂ふべき也。此の令發布の當時、リンコン謂へらく、今背叛の狀に在る南部諸州の奴隸を解放して、全く自由の民と爲さば、政府が戰を繼續するの意は、唯奴隸廢止の一事に在るべき事明白なるべきが故に、自由を愛する人民の外國政府をして、全く于涉の餘地なきに至らしむべしと。――然り、結果は明に之を證明せり。

 リンコンが智力の進步、德性の開展、人を引きつける人格の發達は、五十二歲に至りて、彼が政治の大任を帶びたる時、如何に人智の驚異すべくして、また万事に適應する性質を有するや、に就いて稀有の好例證を提供しぬ。强健の心と强健の體。彼は政治に何等の經驗なくして大統領の職に就き、直に錯綜せる內外行政の諸問題に對せし也。而も奇なる哉、一問題起る每に之を解決するの容易なる、彼殆ど老功なる治者に似たるものありき。クラレンドンがクロムエルに就いて言ひしが如く「彼の材器は大事の要求に應じて現はれたるが如くなりき。」過勞と不安と困厄とに充ち滿ちたる彼の生涯は、殆ど一時間の閑暇すら剩すことなかりしに、彼は尙ほ必要に應じて起つを辭せざりき。彼は輿論の急先鋒となれり。されど多數人民の追隨し得ざる程に急進することなかりし也。而して常に赤心を人の胸中に推したる事、これ亦彼が成功の秘訣なりき。

 啻に智力に於て不斷の進步ありしのみならず、淸新なる彼が話頭と圓熟せる彼の文辭に見るを得べき韻致に富める美妙の情も、亦彼が性質に現はれたりき。終生大學の門をくぐりしことなき一個の田舍者、自ら修め自ら學びて遂に文辭の老大家となりしが如きは豈に偉ならずや。彼が演說の或るものには、殆ど古今を空しうするが如きものあり。

 諸君は彼が戰死軍人の墓に捧げたるゲテスバーグに於ける二分時の演說を聞くべき時を有する乎、彼の全靈全く此の中に存する也。

 『八十七年前、我等の祖先は自由の主義に孕まれたる一新國民を此の大陸に產出して、之を人類平等の大義に奉獻せり。今や我等は干戈を國內に動かして、此の新國民、若しくは斯の如く孕まれ、斯の如く奉獻せる總ての國民の果して存在し得べきや否やを檢證す。我等は今其の爭鬪の大戰塲たりし處に相會す。我等は今其の戰塲の一部を捧げて之を、斯の如き國民の眞に生存すべきことを證せんが爲に、進んで生命を擲ちたる人の墓塲に獻ぜんとす、これ甚だ宜しきに適へる也。然れども一考せよ、我等は此の地を捧ぐることを得る乎、淸むることを得る乎、崇むることを得る乎。看よ、此の地に戰ひたる猛將勇士は、其の生けると死せるとを問はず、已に此の地を淸め、此の地を崇めて、我等の微力の遠く及ぶこと能はざる程高き處に捧げたり。我等が今こゝに言ふ所は、聞ゆること狹くして傳はること或は短からん。されど諸公の此の地に爲せし所は、天地と共に悠久也。此の時に當りて、我等の爲すべきは、寧ろ我等の一身を捧げて、諸公が未完の事業を遂ぐるに在り。諸公が戰死の無意義にあらざるを證せんが爲に、上帝治下の此の國民の更に自由の新誕生を得たるを證せんが爲に、人民の爲に人民の建てたる人民の政府の永久地上に消滅することなきを證せんが爲に、我等は寧ろ我等の一身を捧げて諸公が未完の事業を遂げざるべからず。』

 彼は彼の事業が米國人民の大多數によりて承認せられたるを見たり。彼が毒手に斃るゝ四十日前、吾人は彼が第二回の就任演說に於て、彼の意志の動かすべからざるものあるを見たり。深奧なる宗敎的感情の流露するを見たり、敵者に對する高潔にして優しきなさけの動くを見たり、人類同胞に對する宏海の量あるを見たり。中に曰く、

 『我等若し、米國奴隷の制を想像して、神の攝理に逆らふものとなし、一定の期間を限りて之をゆるし給ひし神の意志は、今や此の制度を排除し給ふに在りと爲し、南部と北部と相鬪はしめて、最も神意に逆らひたる者をして、最も多くの苦痛を蒙らしむること、是れ神の意志なりとなさば、活ける神の存在を信ずる人の、常に認めて神性と爲す所に相反するや否や。此の戰慄すべき爭鬪の一刻も早く終了せんことは、我等が衷心の願にして、また切に希ふ所也。若し二百五十年間、我等が奴隷の力に依りて積み立てたる財貨の一切をなみするまで、戰鬪の繼續すべきこと、これ神意ならば、若し三千年間奴隷の鞭策より來りし流血の總量を贖ひ了るまで、刀劍を用ゐて我等の鮮血を流すべきこと、これ神意ならば、我等は當に言はざるべからず「神の審判さばきは常に正し」。

 『何人をも怨むことなく、何人にも仁愛に、神の如く正しくして、我等をして我等の事業を成さしめよ。國家の創痍は之を繃帶せざるべからず。從軍の將士及び將士の遺族は、之を優遇せざるべからず。國內に於ても國外に於ても、公正なる平和を確保して、永久ならしめんが爲に、神の如く正しく我等をして我等の事業を成さしめよ。』

 彼が祈禱は明に驗ありき。彼が終りの四十日は歷史の大事件にて飾られたり。解放令は修正憲法の一部となりて、已に聯邦議會を通過し、諸州の議會はこれが批準に忙はし。叛徒今や降を請ひ、南部の首府もまた陷落して、悽絕慘絕の大戰爭、全くこゝに終りを吿げ、彼が愛する星章の旗は、米國全土の上に飜るに至れり。此の勝利の頂點の日、突然狂漢の手に斃るゝや、南部の人民は彼等が最善の味方を失ひぬ、人類同胞は最も尊貴なる實例の一を失ひぬ。而して自由の友たり、正義の友たる者は、悉く彼の墓前に頭を低れぬ。

リンコンの人物及び其の事業

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原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この著作物は、1940年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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