ファウスト
薦むる詞
昔我が濁れる目に
よろめける姿どもよ。再び我前に近づき来たるよ。
いでや、こたびはしも
我心
汝達我に
我身のめぐりに浮び出でて、さながらに立ち振舞へかし。
汝達の
我胸は若やかに揺らるゝ心地す。
楽しかりし日のくさ/″\の
さて
半ば忘られぬる古き物語の如く、
初恋も始ての友情も諸共に立ち現る。
歎は新になりぬ。訴は我世の
さて
我に先立ちて
我が初の
後の数闋をば聞かじ。
親しかりし
あはれ、始て聞きつる反響は消えぬ。
我歎は知らぬ群の耳に入る。
その群の褒むる声さへ我心を傷ましむ。
かつて我歌を楽み聞きし誰彼
猶世にありとも、そは今所々に散りて
昔あこがれし、静けく、
久しく忘れたりしに、その
我が囁く曲は、アイオルスの
定かならぬ
厳しき心
今我が
消え失せつる物、我がためには、現前せる姿になれり。
〈[#改ページ]〉
劇場にての前戯
座長。座附詩人。道化方。
座長
これまで度々難儀に逢った時も、
わたくしの手助になってくれられた君方
こん度の
一つ君方の見込が聞きたいのだがね。
殊に見物は自分達が楽んで、人にも楽ませようとしているのだから、
わたくしもなるたけ見物の気に入るようにしたいのです。
もう小屋も掛かり、舞台も出来ていて、
みんながさあ、これからがお
誰も彼もゆったりと腰を落ち着けて、眉毛を
さあ、どうぞびっくりするような目に逢わせて貰いたいと思っている。
わたくしだって、どうすれば大勢の気に入ると云うことは知っている。
しかしこん度程どうして好いか分からないことはないのです。
何も見物が最善のものに慣れていると云うのではない。
ですが、兎に角いろんな物を恐ろしく沢山読んでいるのですな。
何もかも新らしく見えて、そして意義があって
人の気に入るようにするには、どうしたら好いでしょう。
なぜそう云うかと云うと、わたくしは一番大当りがさせて見たい。
見物が人波を打ってこの小屋へ寄せて来て、
狭い恵の門口を通ろうとして、何度押し戻されても
また力一ぱいに押し押しして、
まだ明るいうちに、四時にもならないうちに、
腕ずくで札売場の口に漕ぎ附けて、
丁度饑饉の年に
一枚の入場券を首に賭けても取ろうとする、
そう云う奇蹟を、一人々々趣味の違う見物の群に起させるのは
詩人だけですね。どうぞ、君、こん度はそんな
詩人
いや。どうぞあの見物と云う、色変りの寄合勢の事を
言わないで下さい。あれを見ると、詩人の
あの、
人の波を、わたくし共の目に見せないように隠して下さい。
それと違って、詩人だけに清い歓喜の花を咲かせて見せる、
静かな天上の隠家へ、わたくしを遣って下さい。
あそこでは愛と友情とが、神々の手で、
わたくし共の胸の祝福を造って、育ててくれるのです。
あそこで胸の底から流れ出るのを、
口が片言のようにはにかみながら囁いて見て、
どうかすると出来損ね、ひょいとまた旨く出来る。
それをあらあらしい刹那の力が呑み込んでしまうのです。
どうかすると、何年も立って見てから、
やっと完璧になることもあります。
ちょいと光って目立つものは一時のために生れたので、
道化方
後の世がどうのこうのと云うことだけはわたくしは聞きたくありませんな。
わたくしなんぞが後の世に構っていた日には、
誰が今の人を笑わせるでしょう。
みんなが笑いたがっているし、また笑わせなくてはならないのです。
役者にちゃんとした野郎が一匹いると云うのは、
兎に角
まあ、気持の好い調子に遣る男でさえあれば、
人の機嫌を気に掛けるような事はありますまい。
そう云う男は、見物の頭数を多くした方が、
却て感動させ易いから、その方を望むのです。
まあ、あなたは平気で、しっかりした態度を示して、
空想に、あるだけの取巻を附けて聞せて下さるですな。
取巻は理性に悟性に感覚に熱情、なんでも結構でさあ。
だが、おどけと云う奴を忘れてはいけませんぜ。
座長
なんでも出来事の多いが好いのですよ。
みんなは見に来るのです。見ることが大好きなのです。
見物が驚いて、口を開いて見ているように、
目の前でいろんな事が発展して行くようにすれば、
多数が身方になってくれることは受合です。
そうなればあなたは人気作者だ。
なんでも大勢を手に入れるには、
そうすれば、その中から手ん手に何かしら捜し出します。
沢山物を出して見せれば何かしら見附ける人の数が殖える。
そこで誰も彼も満足して帰って行くのですね。
こう
骨の折れない工夫で、骨の折れないお膳立をするのです。
どうせ見物はこわして見るのですからな。
詩人
いや。そんな細工がどの位悪いか、あなた方には分からないのです。
真の芸術家にどの位不似合だか、分からないのです。
その様子では、いかがわしい先生方の
あなた方の所では、金科玉条になっていると見えますね。
座長
そんな悪口を言ったって、わたくしはおこらない。
なんでも男が為事を成功させようと云うには、
一番好い道具を使うと云うところに目を附けるのです。
思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。
誰を相手に書くのだか、目を
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
新聞雑誌を読み
仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しょに芸をしてくれる。
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。
大入がなんであなた方は嬉しいのです。
まあ、その愛顧のお客様を近く寄って御覧なさい。
半分は冷澹で半分は野蛮です。
芝居がはねたら、トランプをしようと云うのもあれば、
娼妓の胸に食っ附いて、一夜を暴れ明かそうと云うのもある。
そうした目的であって見れば、優しい詩の
ひどく苦労をさせるのは、馬鹿正直ではないでしょうか。
まあ、わたくしの意見では、たっぷり馳走をするですな。
どこまでもたっぷり遣るですな。それならはずれっこなしだ。
どうせ人間を満足させるわけには行かないから、
ただ
おや。どうしたのです。感心したのですか。せつないのですか。
詩人
いや、そう云うわけならあなたの奴隷を外から連れておいでなさい。
天が詩人には最上の権を、
人権を与えている。
それをあなたのために
一体詩人はなんでみんなの胸を波立たせるのです。
なんで地水火風に打ち勝つのです。
その胸から迫り出て、全世界をその胸に
畳み込ませる諧調でないでしょうか。
自然は無際限なる長さの糸に、
意味もなく
万物の雑然たる群は
不精々々に互に響を合せているに過ぎない。
そのいつも一様に流れて行く列を、
節奏が附いて動くように、賑やかに句切るのは誰ですか。
一つ一つに離れたものを総ての秩序に呼び入れて、
調子が美しく合うようにするのは誰ですか。
誰が怒罵号泣の
夕映を意味深い色に染め出すのです。
誰が恋中の
美しい春の花を
誰が種々の
誰がオリンポスの山を崩さずに置いて、神々を集わせるのです。
人間の力が詩人によって啓示せられるのではありませんか。
道化方
そんならあなたその美しい力を使って、
詩人商売をお遣りなさるが好いでしょう。
まあ、ちょいと色事をするようなものでしょうね。
ふいと落ち合って、なんとか思って足が留まる。
それから段々
初手は嬉しい中になる。それから
浮れて遊ぶ隙もなく、いつか苦労が出来て来る。
なんの気なしでいるうちに、つい小説になっている。
狂言もこんな風に
充実している人生の真ん中に手を
誰でも遣っている事で、そこに誰でもは気が附かぬ。
あなたが
誰彼となく旨がって、為めになると思うような、
極上の酒を醸すには、
交った色を賑やかに、澄んだ処を少くして、
間違だらけの
そうすればあなたの狂言を、青年男女の
見物しに寄って来て、あなたの啓示に耳を
そうすれば心の優しい限の人があなたの作から
メランコリアの露を吸い取るのです。
そうすれば人の心のそこここをそそって、
誰の胸にも応えるのです。
そう云う若い連中なら、まだ笑いでも泣きでもする。
はずんだ事がまだ
出来上がった人間には、どんなにしても気には入らない。
詩人
なるほどそうかも知れないが、そんならこのわたくしが
やはり出来掛かった人間であった時を返して下さい。
内から迫り出るような詩の泉が
絶間なく涌いていた、あの時です。
霧に世界は包まれていて、
谷々に咲き満ちている
千万の草の花をわたくしが摘んだ時です。
その頃わたくしは何も持っていずに満足していた。
真理を求めると同時に、幻を愛していたからです。
どうぞわたくしにあの時の欲望、
あの時の深い、そして多くの苦痛を伴っている幸福、
あの時の憎の力や愛の力を、
わたくしの青春をわたくしに返して下さい。
道化方
いや。その青春のなくてならない場合は少し違います。
戦場で敵にあなたが襲われた時、
愛くるしい娘の子が両の
あなたの頸に抱き附いた時、
先を争う駆足に、遥か向うの決勝点から
名誉の輪飾があなたをさしまねいた時、
旋風にも
それとは違って、大胆に、しかも優しく
馴れた音じめに演奏の手を下して、
自分で極めた大詰へみやびやかな迷の路を
さまよいながら運ばせる、
それはあなた方、老錬な方々のお務です。
そしてわたくしどもはそのあなた方にも劣らぬ敬意を表します。
老いては子供に返るとは、世の人のさかしらで、
真の子供のままでいるのが、老人方の美点です。
座長
いや。議論はいろいろ伺ったが
この上は実行が拝見したいものですね。
あなた方のように、お世辞を言い合っている程なら、
その隙に何か役に立つ事が出来そうなものです。
気乗のした時遣りたいなどと、云っているのは駄目でしょう。
気兼をして遅疑する人には、調子が乗っては来ますまい。
詩人と
兵を使うと同じように、号令で詩を使って下さい。
わたくしどもの希望は御承知の通だ。
なんでも強い酒が飲ませてお
どうぞ早速醸造に掛かって下さい。
きょう出来ないようなら、あすも駄目です。
一日だって無駄に過してはいけません。
決心がしっかり押えなくてはいけない。
またその決心がある以上は、押えたものを放しはなさるまい。
そこで厭でも事件は運んで行くですね。
御承知の通この独逸の舞台では
誰でも好な事を遣って見るのです。
ですからこん度の為事では
計画や道具に御遠慮はいらない。
星も沢山お光らせなすって宜しい。
鳥もお飛ばせなさい。獣もお駈けらせなさい。
造化万物何から何まで
狭い舞台にお並べ下さい。
さて落ち着きはらって、すばしこく、天からこの世へ、
この世から地獄へと事件を運ばせてお貰い申しましょう。
〈[#改ページ]〉
天上の序言
主。天宮の衛士。後にメフィストフェレス。
天使の長三人進み出づ。
ラファエル
昔のままの
日は合唱の
そして
天使の中で誰一人その
それを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。
崇高な万物は同じ荘厳を保っている。
ガブリエル
そして早く、不可思議に早く
美しい大地がみずから回転している。
天国のような明るさと
深い、恐ろしい夜とが交代する。
巌石の畳み成せる深い底から
幅広い潮流をなして海は泡立つ。
その巌も海も、永遠に早い軌道の
引き入れられて、共に
ミハエル
そして海から
暴風は怒号して往き、怒号して返る。
その往いては返る競争で、吹き過ぐる
深甚なる作用の連鎖が作られる。
ともすれば
道のゆくてに燃え上がる。
しかし、主よ、御身の使徒等は
御身の世の穏かなる推移を敬っている。
三人共に
天使の中で誰一人御身の心を知ってはいぬが、
これを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。
そして御身が造れる一切の崇高な万物は
メフィストフェレス
いや、檀那。お前さんがまた遣って来て、
こちとらの世界が、どんな工合になっているか見て下さる。
そして不断わたしをも
わたしもお前さん
御免なさいよ。ここいらの連中が冷かすかも知れないが、
わたしには気取った
わざと気取って見たところでお前さんが笑うだけだ。
それとも笑うなんと云うことはもう忘れていなさるかしら。
奉公人達の云う日だの星だのの事はわたしは知らない。
わたしは人間と云う奴の苦むのを見ているだけだ。
人間と云うこの世界の小さい神様は今も同じ
それこそ
お前さんがあいつ等に天の光の影をお遣りなさらなかったら、
も少しは工合好く暮して行くのでしょうがね。
人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかと云うと、
どの獣よりも獣らしく振舞うために使うのです。
まあ、お前さんの前だが、飛足のある虫の中の
飛んだり跳ねたりばっかりしていて、
直ぐ草の中に潜っては昔のままの歌を歌う。
草の中だけで我慢していてくれれば結構だが、
どのどぶにも鼻を衝っ込みゃあがるのですよ。
主
お前の云うことはそれだけかい。
いつでも苦情ばかり言いに来るのか。
いつまで立っても下界の事がお前には気に入らないのか。
メフィストフェレス
そうですね、檀那。わたしにはいつも随分
人間と云う奴が毎日苦んでいるのを見ると、気の毒になってしまう。
わたしでさえもう
主
ふん。お前ファウストを知っているか。
メフィストフェレス
あのドクトルですかい。
主
うん。
メフィストフェレス
さようさ。あいつは妙な
あの変人はこの世の物を飲みも
湧き立つ胸のごたごたが遠くの方へとあいつをこがれさせる。
自分が変だと云うことを半分知っているのでしょう。
天の一番美しい星を取ろうとしているかと思えば、
地の一番深い
そして遠い望も近い望も、
あいつの湧き返っている胸に満足を与えないのですね。
主
なるほど、あれは今の処で夢中で奉公しているが、
見い、植木屋でも、緑に芽ぐむ木を見れば、
翌年は花が咲き実がなるのを知るではないか。
メフィストフェレス
どうです、檀那、何を賭けますか。あいつに裏切をさせて、
お前さんさえ承知なさりゃあ、
そろそろわたしの道へ引き込んで遣りたいのですが。
主
それはあれが下界に生きている間は、
お前がどうしようと、己は別に止めはしない。
人は務めている間は、迷うに極まったものだからな。
メフィストフェレス
それは
構っているのは、わたしゃあ
わたしゃあふっくりした、
亡者が来りゃあわたしゃあ留守を使って遣ります。
猫だって死んだ鼠は相手にしませんからね。
主
宜しい。そんならお前に任せて置く。
あの男の
お前にそれが出来るなら、
お前の道へ連れて降りて見い。
だがな、いつかはお前恐れ入って、こう云うぞよ。
「
始終正しい道を忘れてはいないものだ」と云うぞよ。
メフィストフェレス
好うがす。ただ少しの間の事です。
この賭に負ける心配はない積りだ。
わたしの思い通りになったら、
どうま声で
あの先生に五味を食わせて見せます。旨がって食います。
わたしの姪の、あの評判の蛇のように。
主
好い。今度もお前の
己は本からお前達の仲間を憎んだことはない。
物を否定する
己の一番荷厄介にしないのは横着物だ。
一体人間のしている事は兎角たゆみ勝ちになる。
少し間が好いと絶待的に休むのが好きだ。
そこで己は刺戟したり、ひねったりする奴を、
あいつ等に附けて置いて、悪魔として為事をさせるのだ。
さてお前達、本当の神の子等はな、
永遠に製作し活動する
愛の優しい
お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、
持久する
(天は閉ぢ、天使の長等散ず。)
メフィストフェレス(一人。)
己は折々あのお
そこで
悪魔にさえあんな風に人間らしく話をしてくれるのは、
大檀那の身の上では感心な事さね。
〈[#改丁]〉
〈[#ページの左右中央]〉
悲壮劇の第一部
〈[#改ページ]〉
夜
[編集]狭き、ゴチック式の室の、高き円天井の下に、ファウストは不安なる態度にて、卓を前にし、椅子に坐してゐる。
ファウスト
はてさて、己は哲学も
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。
そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。
マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、
もう彼此十年が間、
弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、
学生どもの鼻柱を
そして己達に何も知れるものでないと、己は見ているのだ。
それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。
勿論世間でドクトルだ、マギステルだ、学者だ、牧師だと云う、
一切の馬鹿者どもに較べれば、己の方が気は利いている。
己は疑惑に悩まされるようなことはない。
地獄も悪魔もこわくはない。
その代り己には一切の歓喜がなくなった。
人間を改良するように、済度するように、
教えることが出来ようと云う自惚もない。
それに己は金も品物も持っていず、
世間の栄華や名聞も持っていない。
この上こうしていろと云ったら、
それで
いくらか秘密が己に分かろうかと思って、
己は魔法に這入った。
その秘密が分かったら、辛酸の汗を流して、
うぬが知らぬ事を人に言わいでも済もうと思ったのだ。
一体この世界を奥の奥で
それが知りたい。そこで働いている一切の力、一切の
それが見たい。それを知って、それを見たら、
無用の舌を弄せないでも済もうと思ったのだ。
ああ。
この机の傍で、己が眠らずに
真夜中を過したのは幾度だろう。
この己の
悲しげな友よ。そう云う晩にお前は
色々の書物や紙の上に照っていた。
ああ。お前のその可哀らしい光の下に、
高い山の
野の上のお前の微かな影のうちに住むことは出来まいか。
あらゆる知識の塵の中から
お前の露を浴びて体を直すことは出来まいか。
ああ、せつない。己はまだこの牢屋に
ここは
可哀らしい
窓の硝子画を透って通うのだ。
この穴はこの積み上げた書物で狭められている。
円天井近くまで積み上げてある。
それに煤けた見出しの紙札が
この穴には瓶や缶が隅々に並べてある。
色々の器械が
お負けに先祖伝来の家具までが入れてある。
やれやれ。これが貴様の世界だ。これが世界と云われようか。
貴様はこんな処にいて、貴様の胸の中で心の臓が
窮屈げに
あらゆる
神は人間を生きた自然の中へ
造り込んで置いてくれたのに、
お前は烟と腐敗した物との中で、
人や
さあ、逃げんか。広い世界へ出て行かぬか。
ここにノストラダムスが自筆で書いて、
貴様の旅立つ案内には、これがあれば足りるではないか。
そして自然の教を受けたなら、
星の
貴様の霊妙な力が醒めよう。
いや。こうして思慮を費して、
この神聖な符を味っていたって駄目だ。
こりゃ。お前達、
己の
(書を開き、大天地の符を観る。)
や。これを見ると、己のあらゆる官能に
青春の、神聖なる生の幸福が新に燃えるように
己の脈絡や神経の中を流れるのが分かる。
この符を書いたのは神ではあるまいか。
己の内生活の
歓喜を己の
己の身を取り巻いている自然の、一切の力を、
微妙に促して暴露させて見せるのはこの符だ。
己が神ではあるまいか。不思議に心が澄んで来る。
この符の清浄な
活動している自然が、己の
今やっと思い当るのは、
「
汝が耳目
起て、学徒。誓ひて退転せず、
塵界の胸を暁天の光に浴せしめよ。」
(符を観る。)
一々の物が全体に気息を通じて、
物と物とが相互にそれぞれ交感し合っている。
その総てが、祝福の香を送る翼を振って、
天から下界へ
諧調をなして万有のうちに鳴り渡る。
なんと云う壮観だろう。だが、惜むらくは
ああ、無辺際なる自然よ。己はどこを
一切の物の乳房等よ。己はどれを手に取ろう。
天地の命根の通っている、一切の
枯れ衰えた己の胸のあこがれ迫る泉等よ。汝達は湧いている。
汝達は人に飲ませている。それに己は
(憤慨せる様にて書を飜し、地の
はて、この符の己に感じる工合はよほど違う。
こりゃ、地の精。お前は大ぶ己に近い。
もう己の力が加わって来るらしい。
もう新しい酒に
危険を冒して世の中に出て、
下界の苦痛をも、下界の幸福をも受け、
暴風に
はあ。己の頭の上に雲が涌いて来た。
月の光が隠れてしまった。
燈火も見えなくなった。
湯気のようなものが立つ。己の頭の
稲妻のように赤い
陰森の気が吹き卸して来て、
己の身を襲う。
己は感じる。お前、
形を顕せ。
はあ。己の胸の底へ引き
新しい感じに
あらゆる己の官能が掻き乱される。
己の心を全くお前に委ねたように感じる。
形を顕せ。形を顕せ。己の命を取られても好い。
(本を手に取り、地の精の呪文を深秘なる調子にて唱ふ。赤き燄燃え立ちて、精霊燄の中に現る。)
霊
己を呼ぶのは誰だ。
ファウスト(顔を
気味の悪い姿だな。
霊
お前は長い間己の境界に、吸引の力を
強く己を引き寄せたな。
そしてどうする。
ファウスト
ああ、せつない。己はもう堪えられぬ。
霊
お前はと息を衝きながら己に
己の声を聞き、己の顔を見ようと願う。
お前の
さあ、ここに来ている。なんと云うけちな恐怖が
超人を以て
自分だけの世界を造って、それを負うて、
歓喜の
己に声を聞せたファウスト
力一ぱい己に
その男がお前か。己の息に触れたばかりで、
性命の底から震い上がって、
臆病にも縮んでいる虫がその男か。
ファウスト
ああ。燄の姿のそちを見て、なんの己がたじろくものか。
己だ。ファウストだ。お前達の仲間だ。
霊
身を委ねて降りては昇る。
かなたこなたへ往いては返る。
燃ゆる命。
かくて「時」のさわ立つ機を己は織る。
神の生ける
ファウスト
広い世界を飛びめぐる忙しい
己はお前をどれ程か親しく思っているぞ。
霊
いや。お前に分かる霊にこそお前は似ている。
己には似ておらん。(消ゆ。)
ファウスト(挫け倒る。)
お前には似ておらんと云うか。
そんなら誰に似ている。
神の姿をそのままに写された己だ。
それがお前にさえ似ないと云うのか。
(戸を
ああ、死だ。分かっている。あれは内の学僕だ。
己の最上の幸福が駄目になる。
これ程の
あの抜足をして歩くような乾燥無味な男が妨げるのか。
(ワグネル寝衣を著、寝る時被る帽を被り、手に燈を取て登場。ファウスト不機嫌らしく顔を
ワグネル
御免下さいまし。あなたの御朗読をなさるのが聞えましたので、
おお方グレシアの悲壮劇をお読みになるのだろうと存じました。
わたくしも少し覚えて
なんでも当節はそう云うことは
誰やらが申すのを承りましたが、
俳優は牧師の師匠になっても宜しいと申すことで。
ファウスト
それは牧師が俳優であったらそうであろう。
追々そんな風になるまいものでもない。
ワグネル
わたくしのように研究室の中に縛られていて、
世間を見るのは、やっと休日に
遠い処から遠目金で見るような事では、
どうして言論で世間を説き動すことが出来ましょう。
ファウスト
それは君が自分で感じていて、それが肺腑から流れ出て、
聞いているみんなの心を
根強い興味で引き附けなくては、
世間を
そんなにして据わっていて、
人の馳走の余物で
君の火消壺の中から
けちな火を吹き起しても、
それでは子供や猿どもでなくては感心はしない。
それが望ならそれまでの事だ。
どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
人の肺腑に徹するものではない。
ワグネル
先生のお詞ですが、演説家は雄弁法で成功します。
どうもその研究が足りないのが、わたくしには分かっています。
ファウスト
いや。成功しようと云うには、正直に遣らなくてはいかん。
鐘大鼓で叩き立てる馬鹿者になってはいかん。
智慧があって、切実な議論をするのなら、
技巧を弄せないでも演説は独りでに出来る。
何か真面目に言おうと思う事があるのなら、
なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。
どうかすると君方の演説は人世の紙屑で
上手な細工がしてあって、光彩陸離としていても、
それは秋になって枯葉を吹きまくる
湿った風のように気持の悪いものだ。
ワグネル
はいはい。「学芸はとこしえにして、
我等の
御承知の通り、批評的研究を努めていますと、
折々頭や胸がどうかなりはすまいかと気遣われます。
なんでも淵源まで溯って行く
舟筏を得るのは、容易な事ではございません。
半途まで漕ぎ著けたところで、
まあ、我々
ファウスト
古文書がなんで一口飲んだだけで
永く渇を止める、神聖な泉のものか。
なんでも泉が自分の
心身を爽かにすることは出来ない。
ワグネル
はい。先生はそう仰ゃるが、その時代々々の心になって、
我々より前に聖賢がこう考えられたと云うことを
見わたして、今日までの大きい進歩を思う程、
愉快な事はございません。
ファウスト
そうさ。天の星までも届く進歩だろうよ。
君に言うがな、過去の時代々々は我等のためには
七つの
君方が時代々々の精神だと云うのも、
それは原来その時代々々が先生等の霊の上に
投写した影を認めるに過ぎない。
そんなわけだから、随分みじめな事がある。
君方を一目見て人は逃げ出してしまう。
五味溜か、がらくたを打ち込んで置く蔵か。
高が
結構な処世訓が添えてある位なものだ。
ワグネル
しかし、先生はそう仰ゃいますが、世界ですね、人の性情ですね、
それを誰でも文献の中から少しなりと知り得たいと存じますので。
ファウスト
いや。その知るだの、認識するだのと云う詞の意味だて。
本当に知ってもその本当の事があからさまに言われようか。
それは稀には幾らかの事を知って、
おろかにもそれを胸にしまって置かずに、
自分の観た所、感じた所を世俗に明かした人達もあるが、
そう云う人達は
いや。彼此云ううちに、もう夜が更けた。
今宵は話はこれまでにしよう。
ワグネル
はい。わたくしはいつまでも起きていて
こんな風にあなたと高尚なお話がいたしたいのでございますが、
さようなら
それを機としてまた二つ三つお話を伺うことにいたしましょう。
わたくしはこれまで随分研究には努力いたしました。
学問は大分ある積でございますが、一切の事が知りたいと存じまして。
(退場。)
ファウスト(一人。)
いやはや。いつまでも一縷の望を繋いでいて
心は無用の事物に
宝を掘ろうと貪る手で、
精霊の気が己を
あんな人間の声が響いて好いものか。
しかし下界にありとある人の中の人屑にも、
こん度は己が感謝せずばなるまい。
なぜと云うに、己の
絶望の境から、あいつが己を救い出したのだ。
いや。あの
全く自分が侏儒であるように、己は感じた。
神の姿をそのままに写された己は、
永遠なる真理の鏡に
下界の子から蝉脱して
享楽の自己を天の光明のうちに置いていたのに、
己は光の天使にも増して、
既に宇宙の脈のうちを流れ、
創造しつつ神の
お前に似ようと思うのが、そんなに僭越だろうか。
己はお前を引き寄せるだけの力は持っていたが、
お前を留めて置く力がなかったのだ。
想えばあの嬉しかった刹那に、
己は自己をどんなにか偉大に、またどんなにか小さく思っただろう。
お前は残酷にも己を
人間の運命の圏内に衝き戻したな。
誰に己は教を受けよう。何を去り何に就こう。
あの内の
我等の
ああ、我等の受ける苦だけではない。我等のする事業も邪魔だ。
我等の
約束したように無用の夾雑物が来て引っ著く。
この世界の善なるものに到達してから前途を見れば、
一層善なるものが、
下界のとよみの中で凝り固まってしまう。
不断は空想が大胆な
希望に富んだ勢を以て、永遠の境まで拡がっても、
「時」の渦巻に巻き込まれて、狙った幸福が一つ一つ毀れると、
さすがの空想も
その時直ぐに心の底に、「憂」と云うものが巣を食って、
ひそやかな
自分も不安らしく身をもがいて、人の安穏と歓喜とを破る。
この憂は種々の
家になり、地所になり、女房になり、子供になる。
火になり、水になり、
貴様は常にその
その離れ去らぬもののために泣かなくてはならぬ。
いや。己は切に感ずる。己は神々には似ておらぬ。
塵芥の中に
その塵芥に身を肥やして、生を
道行く人の足に踏まれて、殺されて埋められるのだ。
高い壁に沿うて、分類して百にも
己の周囲を
この
器具、千差万別の無用の骨董も塵ではないか。
己の求めているものが、この中で見附けられようか。
いつの世、どこの国でも人間が自ら苦んで、
その間に
己に万巻の書の中で読めと云うのか。
お前の脳髄も己のと同じように、昔迷いつつ軽らかな
快い日を求め、重くろしい
真理を追うて、みじめに失敗したと云う外はあるまい。
それからお前達器械だがな、車の輪や櫛の歯のような物、
お前達も己を馬鹿にしているに違ない。己が扉の前に
立っていた時、お前達は鍵になってくれるはずであった。
しかし
青天白日にウェエルを脱いで見せてはくれない。
あいつが己の
己に用のない古道具奴。お前達は父の
火皿を弔る滑車奴。お前はこの机に濁った燈火がいぶっている
夜な夜な煤けて行くばかりだ。
この少しばかりの物を、
己は重荷のようにそれを背負って汗を掻いている。
貴様の先祖から譲り渡された物を、
貴様が占有するには、更にそれを
利用せずに置く物は重荷だ。
刹那が造ったものでなくては、刹那が使うことは出来ない。
はてな。なぜ己の目はあそこに食っ附いて離れないだろう。
あの瓶が己の目を引く磁石なのか。
なぜ己の心持が、夜の森を歩く時月が差して来たように、
この取り残された一つの瓶奴。お前を恭しく取り卸しながら、
己はお前に会釈をするぞよ。
人智と技術とをお前に対して敬するぞよ。
あらゆる隠微な人を殺す諸力を選り抜いた霊液奴。
今この
お前を見たばかりで、苦痛が軽くなるようだ。
お前の瓶を手に取れば、意欲が薄らいで来るようだ。
己の
高く湛えた海の上へ、己はさそい出されて、
我足の下には万象の影をうつす水鏡が
新なる日が新なる岸へ己を呼ぶ。
軽らかに廻る
浄い事業の新しい境界へとこころざす
心の支度が出来たように己は感ずる。
こんな高遠な生活、こんな神々の歓喜のような歓喜。
まだ蛆でいる貴様になんの功があってこれを受けるのだ。
好い。優しい下界の日の光に、
貴様は決然として背を向けるが好い。
誰も畏れて避けて通る門の戸を、
押し開けて入る勇気があるなら行け。
空想が自己を苦痛の地獄に堕す
あの暗い洞窟の前におののかず、
狭い入口に地獄の総ての火が燃え立つ
あの狭隘の道を目ざして、
よしや誤って虚無の中に滅し去る
晴やかな気分でこの一歩を敢てして、
神々の位を怖れぬ男児の威厳を、
事実の上に証して見せるなら、今がその時だ。
さあ、水晶の浄らな盃、ここへ降りて来い。
長い年月の間お前の事は忘れていたが、
今その箱の中から出てもらおう。
己の先祖が祝賀の宴を張った時には、
お前は光り耀いていて、
己も若かった昔の夜のうたげを覚えている。
お前の上に美しく
飲む人の
さて一口に中の酒を飲み干したものだ。
己はお前を今日に限って隣の客にも廻さず、
お前の絵模様に拙い才を試みようともせぬ。
ここにあるのは早く人を酔わせる酒だ。
己がかつて選んでかつて醸した
この褐色の
さあ、この最後の杯を挙げて、己は心から
はればれしく寿をこの「暁」に
(ファウスト杯を口に当つ。)
鐘の響、合唱の歌。
歌う天使の群
クリストはよみがへりたまひぬ。
身をも心をも
緩やかに利く、
死ぬべきもの
ファウスト
や。己の口から杯を強いて放させたあの声は
なんと云う深いそよめき、高い音色であろう。
それにあの鈍い鐘の音は、
もう復活祭の始まる時刻を知らせるのか。
さてはあの諸声は、昔冢穴の闇の夜に
天使の唇から響いて、新しき教の群に
固き基を与えた、
歌う女の群
われ等、
香料を
み
臥させまつりぬ。
清らに
さるを、あなや、
こゝにいまさぬ。
歌う天使の群
クリストはよみがへりたまひぬ。
いたましき、
浄からしめ、鍛ひ錬る
業を
物を愛します主よ。聖にいませ。
ファウスト
お前達、天の声等はなぜ力強く、しかも優しく
己をこの塵の中に
情の脆い人等の住むあたりに響き渡れば好いに。
なるほど使命の詞は聞える。しかし己には信仰がない。
奇蹟は信仰の
あの恵ある
あの境界へは己は敢て這入ろうとは努めぬ。
しかし小さい時からあの声を聞き慣れていたので、
あの声が今己を
昔は沈んだ安息日の静けさの中に、
ゆくりなく天の愛の接吻が己にせられた。
その時意味ありげに、ゆたかな鐘の音が聞えて、
己の
その時
己を駆って、森の中、野のほとりへ行かせた。
そして千行の熱涙の
己のために新しい世界が涌出すように思った。
面白い遊、春の祭の自由な幸福を、
あの歌が青春に寄与したものだ。
そう云う追憶が子供のような感情で、
今己の最後の
お前達、優しい
ああ。涙が涌く。下界は己を取り戻した。
歌う徒弟の群
埋められたまひぬる、
生きて気高くまします
早く
み
なり出づるを楽む心もて
物造る
あはれ、悲しくも我等は
我等教子の友を、
歎きつゝこゝに残りをらしめ給ひぬ。
あはれ、師の君よ。
おん身の幸に我等は泣く。
歌う天使の群
物を朽ち
立ち離れつゝ、
み教を弘めつゝ旅寐し、
師の君は汝達に近くおはす。
師の君は汝達のためにいます。
閭門 の前
[編集]さま/″\の散歩する人出で行く。
職工の徒弟数人
なぜそっちへ出て行くのだい。
同じ徒弟の他の群
おいら達は猟師茶屋へ行くのだ。
初の数人
おいら達は
徒弟の一人
それより
第二の徒弟
あっちは途中がまるで詰まらないぜ。
第二の群
お前はどうする。
第三の徒弟
おいらはみんなと行く。
第四の徒弟
みんなお城の茶屋まで登って行けば
あそこが女も一番好いのがいるし、ビイルも旨い。
それに喧嘩だって面白い奴が出来るのだ。
第五の徒弟
人を馬鹿にしていやがらあ。
また背中をなぐられるのかい。三度目になるぜ。
己はあんなところへは
下女
わたし
第二の女
まあ、あそこの柳の木のとこまで行って御覧よ、来ているから。
初の下女
来ていたってなんにもなりゃしないわ。
きっとわたしには構わないで、お前と並んで歩いて、
踊場へ
お前が面白くったって、わたしにはなんにもならないわ。
第二の女
なに、きょうはひとりじゃなくってよ。
そら、あの髪の綺麗に
書生
やあ。気持の好い、活溌な歩きようをしているなあ。
君、来給え。あいつ等の行く方へ附いて
濃いビイルに強い烟草。
それに化粧をした娘と云うのが、己の註文だ。
良家の処女
ちょいと、あの書生さん達を御覧なさいよ。
誰とでも御交際の出来る立派な方なのに
女中の跡なんぞに附いて
まあ、なんと云う
第二の書生(第一のに。)
おい、君、そんなに駆け出すなよ。あの跡から行く
二人を見給え。気の利いた風をしているだろう。
ひとりは僕の内の隣の娘だ。
あれが僕は
見給え。あんなにゆっくり歩いている。
一しょに行くと云うかも知れない。
第一の書生
早く来給え。切角の旨い山鯨を取り逃がしてしまう。
日曜日に僕達をさすらせるには、
土曜日に
市民
いや。こん度の市長にはわたくしは感心しませんなあ。
市長だと云うので、日にまし勝手な事をする。
そして市のためにあの人が何をしています。
一日々々と物事がまずくなるばかりじゃありませんか。
なんでも市民はこれまでになく言いなりになって、
これまでになく金を沢山出すことになっています。
乞食(歌ふ。)
お情深いお檀那様や、お美しい奥様方。
お召はお立派で、お血色はお宜しい。
どうぞ皆様わたくしを御覧なさりまして、
わたくしの難儀にお目を留められ、お
こうしてお歎き申すのを、むだになさらないで下さりませ。
お
皆様のお
わたくしの
他の市民
日曜日や大祭日には
遠いトルコの国で余所の兵隊同士が
ぶち合っているのが面白いじゃありませんか。
余所にそんな事があるのに、こっちはお茶屋の窓の側で
ビイルを一杯飲み干して、美しい舟の川下へさがるのを眺めて、
日が暮れれば楽しく内へ帰って、
第三の市民
お隣の方の仰ゃる
余所の奴等はお互に頭の割りくらをするが
何もかも上を下へとごった返すが好い。
よろず長屋に事なかれですよ。
一老女(良家の娘達に。)
やれやれ。えらいおめかしが出来ましたな。別品揃だ。
誰だって迷わずにはいられますまい。
おや。そんなにつんけんなさらぬが好い。その位で沢山だ。
お前さん達のお
良家の娘の一人
アガアテ婆あさん。
往来を一しょに歩いて溜まるもんかね。
見せてくれたには
他の娘
わたしにも水晶の中に現して見せてくれてよ。
なんでも軍人のようで大勢のきつい人の中にいましたの。
それからわたしどこかで逢うかと思って気を附けていても、
まだその人らしいのに逢わなくってよ。
兵卒等
堅固なる城塁よ。
気性ある少女子よ。
占領したきはこの二つ。
艱難困苦は
その成功こそめでたけれ。
召募の
汝が響くに任す。
戦死の野へも導け。
これぞ
これぞ命なる。
城塁も落ちざらめや。
少女子も
艱難困苦は大なれど、
その成功こそめでたけれ。
かくぞ
門出する。
ファウストとワグネルと
ファウスト
春の恵ある、物呼び醒ます目に見られて、
大河にも細流にも、もう氷がなくなった。
谷間には希望の幸福が緑いろに萌えている。
冬は老いて衰えて
荒々しい山奥へ引っ込む。
そして逃げながらそこから
粒立った氷の一しぶきを、青み掛かる野へ、
段だらに痕の附くように
しかし日は白い物の残っているのを許さないで、
何物にも色彩を施そうとする。
そこにもここにも製作と努力とが見える。
それでもこの界隈にはまだ花が咲いていない。
その代りに、日は晴衣を着た人を照している。
まあ、跡へ戻っておいで。この高みから
町の方を振り返って見ようじゃないか。
色々の著物を著た人の群が出て来る。
きょうは誰も誰も日向ぼこりがしたいのだ。
あれは皆
自分達も復活して、
低い家の鬱陶しい間から出たり、
手職や商売の平生の群を離れたり、
頭の上を押さえている屋根や
肩の摩れ合うような狭い
礼拝堂の尊い闇から出たりして、
あれを見給え。大勢が活溌に
田畑の上へ散らばって行く。
川には後先になったり並んだりして、
面白げに騒ぐ人を載せた舟が通っている。
あの一番跡の舟なんぞは、
沈みそうな程人を沢山に載せて出て行くところだ。
あの山の半腹の遠い
色々な衣裳の彩色が光って見える。
もう村の方からとよめきが聞えて来る。
大勢のためにはここが真の天国なのだね。
「ここでは己も人間だ、人間らしく振舞っても好い」と、
老若ともに満足して叫んでいるのだね。
ワグネル
先生。あなたと散歩しますのは、
わたくしの名誉でもあるし、為めにもなります。
一体わたくしは荒々しい事は
御一しょでなくてはこんな所へは来ないでしまいましょう。
ヴァイオリンを弾く音、人のどなる声、王様こかしの
どれもどれもわたくしは聞くのが随分つろうございます。
悪魔にでも焚き附けられているように騒ぎ廻って、
それを歌だ、
百姓等(菩提樹の下にて。)
舞踏と唱歌と。
著て出たジャケツは色変り。紐や飾が附いている。
さすが見た目が美しい。
菩提樹のまわりは
どいつもこいつも狂ったような踊りよう。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
胡弓がこんな音をする。
羊飼奴は気が
その時はずみに片肘が
元気な尼っちょが顔を見て云った。
「お前さんよっぽどとんまだね。」
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
そう不行儀では困ります。
それでも始めるくるくる廻り。
右の方へ踊って行く。左の方へ踊って行く。
あれあれ上著がみんな飛ぶ。
赤くなったり、熱くなったり。
肘を繋いで、息を衝いて休む。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
腰にお前の手が障る。
構わず騙して連れて退く。
菩提樹の方からは。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
胡弓の音やら人の声。
百姓爺
やあ。先生様でござりますな。好くおいでなさりました。
わたくしどもをお
この人込の中へ
大先生様がいらっしゃる。
このお杯が一番
丁度注いだばかりだ。
どうぞ召し上って下さりませい。
お
これに這入っている酒の一滴ずつを丁寧に
勘定して見ます程、どうぞお命をお延べなさりませい。
ファウスト
切角の御親切だから頂戴しましょう。
これでお礼を申して、あなた方の御健康を祝します。
(衆人そのあたりに集ふ。)
百姓爺
ほんとにこう云うめでたい日に、
好うおいでなさりました。
先年わたくしどもが難儀をいたしました時は、
あなた様のお
ここにこうしてながらえているものの中には、
えらい熱を煩っていたのを、
お亡くなりになった老先生様が、
あぶない
その時分先生様はまだお若かったが、
どの隔離所をもお見まい下された。
どこからも死骸をかつぎ出したのに、
先生様は御無事でおいでなされた。
なんでもあぶない
人をお
一同
先生様も御長寿をなさりまして、
これからも大勢の人お
ファウスト
いや。人を救うことをお
あの
(ファウスト、ワグネルと共に歩み出す。)
ワグネル
先生、
みんなにあんな風に尊敬せられておいでになるお心持は。
先生のように、自己の材能で人をあれまでに
帰服させることが出来れば、幸福でございますね。
年寄は子供に指さしをして見せて遣る。
誰だ誰だと問い合って、押しつ押されつ、駆け寄って来る。
胡弓の音が
お
皆がばらばらと帽子を脱ぐ。
も少しで、晩餐のパンを入れた尊いお箱が通るように、
膝を衝いて拝みそうでございますね。
ファウスト
もう少しだから、あの石の所まで行って、
大ぶ歩いたから休もうじゃないか。
己は好くひとりで物案じをして、この石に腰を掛けていた。
断食や祈祷で身を責めていた時の事だ。
あの時は希望も
無理にも
あの恐ろしいペストの流行を止めてお
涙を流し、溜息を衝き、手の指を組み合せて悶えた。
今皆があんなに褒めるのが、己には嘲るように聞える。
君には己のこの胸のうちが分かるまいが、
親爺にしろ己にしろ、あの褒詞を受ける程に
親爺は行跡に暗い痕のある学者だった。
自然や、神聖なる自然の種々の境界の事を、
誠実が無いではないが、自分流義に
物数奇らしい骨の折方をして、窮めようとしていた。
例の錬金術の免許
道場と云う暗い
際限のない、むずかしい
気味の悪い物を煮交ぜたものだ。
大胆に言い寄る男性の「赤獅子」を、
それから二人を
ようよう
色の度々変る「若い女王」が見えて来る。
これが薬だ。病人は大勢死ぬる。
誰が直ったかと、問う人は一人もない。
そんな風で、この谷間から山奥へ掛けて
病人に恐ろしい
己達親子はペストより余計に毒を流したらしい。
己の飲ませて遣ったのでも何千人か知れぬ。
大抵衰えて死んだ。毒を遣った横著な
褒められると云う経験を、己はしたのだ。
ワグネル
そんな事を御心配なさらなくっても
人に授かった技術を、
誠実に、間違なくおこなって行けば、
正しい人が責を尽したと云うものではありませんか。
先生はお若い時、老先生を御尊信なさって、
喜んでそのお
それからお年をお
御子息が一層高い境界にお達しなさろうと云うもので。
ファウスト
いや。この迷の海から浮き上がることがあろうと、
まだ望んでいることの出来るものは、
なんでも用に立つ事は知ることが出来ず、
知っている事は用に立たぬ。
しかしこんな面白くない事を思って、
お互にこの刹那の美しい幸福を
あの青い畑に取り巻かれている百姓家が、
夕日の光を受けてかがやいているのを御覧。
日は段々いざって逃げる。きょう一日ももう過去に葬られ掛かる。
日はあそこを駆けて行って、また新しい生活を促すのだ。
己のこの体に羽が生えて、あの跡を
どこまでも追って行かれたら好かろう。
そうしたら永遠なる
静かな世界が脚下に横わり、
高い所は皆紅に燃え、谷は皆静まり返って、
そうしたら深い谷々を
神々に似た己の
己の驚いて
幾つかの入江をなした海原が、早くも広げられよう。
それでもとうとう女神は沈んでしまうだろう。
ただ新しい願望が目醒める。
女神の永遠なる光が飲みたさに、
空を負い波に俯して、己は駆ける。
ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。
幻に見る己の翼に、真実の翼が出来て
出合うと云うことは容易ではない。
兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隠れて、
樅の木の茂っている、険しい
鷲が翼をひろげて漂っているとき、
広野の上、海原の上を渡って
鴻雁が故郷へ還るとき、
感情が上の方へ、前の方へと
推し進められるのは、人間の
ワグネル
わたくしも随分気まぐれな事を思う時がありますが、
ついぞそんな欲望が起ったことはございません。
森や野原の景色をたんのうするまで見れば済む。
これからも鳥の羽が羨ましゅうなろうとは思いません。
それとどの位違うか知れないのは精神上の快楽で、
一枚一枚、一冊一冊と読んで行く心持と云ってはありません。
本を読めば、冬の夜も
神聖なる性命が手足を温めます。それが
珍奇な古文書ででもあると、あなただって
天上の生活が御自分の処へ
ファウスト
いや。君は人生のただ一つの欲望をしか知らない。
どうぞ生涯今一つの分を知らずにおらせたいものだ。
ああ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。
一つは荒々しい愛惜の情を以て、
搦み附く道具で、下界に搦み附いている。
今一つは無理に塵を離れて、
高い霊どもの世界に登ろうとしている。
ああ。この大気の中に、天と地との間に、
そこを支配しつつ漂っている霊どもがあるなら、
どうぞ黄金色の霞の中から降りて来て、
己を新しい、色彩に富んだ生活へ連れ出してくれい。
せめて魔の外套でも手に入って、
それが己を
己のためにはどんな錦繍にも、
帝王の衣にも換え難い宝だがなあ。
ワグネル
どうぞあの知れ渡った鬼どもをお
あの鬼どもは雲のうちにさまよいつつ広がっていて、
八方から人間に
千変万化の危害を加えようとしております。
北からは歯の鋭い、矢のように尖った舌の鬼共が、
先生の処へ襲って来ましょう。
東から来る鬼どもは物を干からびさせて、
あなたの肺の臓で身を肥やそうとします。
中央があなたの
沙漠の方から送って来れば、
西からはまた最初気分を爽かにするようで、しまいには
あなたをも田畑をも水に埋める鬼共をよこします。
ああ云う鬼共は愉快げにすばしこくお
仰ゃる通になります。それは先生を騙そうとするのです。
だがもう参りましょう。もうそこらが鼠色になりました。
風が涼しくなって、霧が降りて来ました。
夕方になって家の難有みは知れますなあ。おや。先生。
お
あの
ファウスト
君あの刈株や苗の間を走っている黒犬が見えるかい。
ワグネル
はい。さっきから見えていますが、何も大した物ではないようで。
ファウスト
好く見給え。君はあの獣をなんだと思う。
ワグネル
見失った主人の跡を捜しているのでございます。
ファウスト
君あれが
次第々々に我々の方へ寄って来るのが分かるか。
それに己の目のせいかも知れないが、あいつの歩く跡の道には
火花が帯のように飛んでいるじゃないか。
ワグネル
わたくしには黒い尨犬しか見えません。
それは先生のお目の工合でございましょう。
ファウスト
どうも己の考では、未来の縁を結ぶために、
微かな
ワグネル
いや。わたくしの見た所では、主人でない、知らぬ人を
二人見て、不安に恐ろしく思って、周囲を飛び廻るので。
ファウスト
圏が段々狭くなった。もう傍へ来た。
ワグネル
御覧なさい。犬です。化物ではございません。
うなって、疑ったり、腹這ったり、
尾を
ファウスト
こら。己達の所へ来い。ここへ来い。
ワグネル
尨犬らしい気まぐれな奴でございます。
先生がお
お物を仰ゃれば、飛び附いて参ります。
何かおほうりになったら、取って参りましょう。
水の中からステッキをも
ファウスト
なるほど。君の云う
総てが躾に過ぎないようだ。
ワグネル
いや。好く躾けてある狗なら、
賢い人にも気に入りましょう。
不断学生共の好い連になっているのだから、
先生の御愛顧を受ける値打は
(二人閭門に入る。)
書斎
[編集]ファウスト
ファウスト
何か物を暗示するような、神聖な恐怖を起させて、
我等の善い方の霊を呼び醒そうとする、
深い
田畑から己は帰った。
総て荒々しい振舞をさせようとする、
粗暴な欲望は寐入った。
今は博愛の心、
神の愛の心が動いている。
そこの出口の所へ行って、何を嗅ぎ廻っている。
その煖炉の背後へ行って寝ていろ。
己の一番
飛んだり跳ねたりして己達を喜ばせた代りに、
歓迎せられた、おとなしい客になって、
己の接待を受けるが
この狭い書斎に
ランプがいつものように優しく附くと、
己達のこの胸の中、
自ら知り抜いている胸の中が明るくなる。
理性がまた物を言いはじめる。
希望の花がまた咲き出す。
ああ。
この心があこがれるなあ。
尨犬。そんなにうなるな。今己の心の全幅を領している
神聖なる物の音には、
獣の声では調子が合わない。
人間が自分の解せぬ事を嘲り、
往々うるさい物に思う善や美を見て
ぐずぐず云うのには、
己達は慣れている。
狗もやっぱりそれをぐずぐず云うのかい。
ああ。しかしもうなんと思っても、
この胸から満足が涌いて
なぜまた
己達は渇に悩んでいなくてならんのか。
これは年来経験して知っている。
この欠陥を埋め合せようとして、
形而上のものを尊重するようになり、
啓示がほしいとあこがれる。
あのどの伝よりも尊く、美しく
新約全書の中に燃えている啓示がそれだ。
原本を開けて見て、
素直な感じのままに、一遍
神聖なる本文を
(一書巻を開き、翻訳の支度す。)
こう書いてある。「初にロゴスありき。
もう
己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。
なんとか別に訳せんではなるまい。
霊の正しい
こう書いてある。「初に
軽卒に筆を下さぬように、
初句に心を用いんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものが
一体こう書いてあるはずではないか。「初に
しかしこう紙に書いているうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。
はあ。霊の
安んじてこう書く。「初に
尨犬。己と一しょにこの部屋にいる
うなることを
吠えることを
そんな邪魔をする奴を
傍に置いて我慢して遣ることは出来ぬ。
お前か己か、どちらかが
書斎を出て
己は客を逐うことは好まぬが
あの通り戸は開いている、出て
はてな。妙に見えるな。
自然にありそうもない事だ。
あれは幻か。
あの尨犬は幅も広がり丈も伸びる。
勢好く起き上がって来る。
あれは狗の姿ではない。
己はなんと云う化物を内へ連れて来たのだろう。
もう火のような目、恐ろしい
はあ。もうお主は己の手の
お主のような、半ば地獄に産み出されたものには、
クラウィクラ・サロモニスの呪が
霊等(廊下にて。)
この中に
皆
地獄の
しかし気を附けて見ておれ。
あちらへ漂い、こちらへ漂い、
あいつはとうとう逃げて出よう。
あいつに手が貸されるなら、
あいつを棄て置かぬが
己達はあいつには
いろいろ世話になっている。
ファウスト
こんな獣に立ち向うには、
先ず
「火の
水の精 ウンデネ うねれ。
風の精 シルフェ 消えよ。
土の精 コボルド いそしめ。」
四大を、
その力、
その
知らぬものが、
なんで霊どもを御する
師になれよう。
「サラマンデルは
ウンデネは
さざめきて流れ寄れ。
シルフェは
インクブスは
木樵り水汲め。
進み出でて終を告げよ。」
四大のどれも
あの獣のうちにはいぬ。
平気で
この呪ではまだ痛い目を見ぬと見える。
も少し強い
聞せて遣ろう。
「
逃れ出たものか。
そんならこの印を見い。
これは暗黒の群が
はあ。もうとげとげしい毛を竪ててふくれるな。
「
これが読めるか。
かつて芽ざさず、
あらゆる
煖炉の背後に
象の大さにふくれ上がるな。
部屋一ぱいになる。
霧になって散ろうとする。
天井へ升ってはならぬ。
師の脚下に身を倒せ。
見い。己はいたずらに
神聖なる火でお前を焼こうか。
三たび燃え立つ火を
待つなよ。
己の術の一番の奥の手を
待つなよ。
(霧落つると共に、メフィストフェレス旅の書生の装して煖炉の背後より現る。)
メフィストフェレス
そうお
ファウスト
そんならこれが尨犬の正体であったのか。
旅の書生だな。笑わせる事件だ。
メフィストフェレス
改めて御挨拶をいたします。博識でいらっしゃる。
わたくしに汗をたっぷりお掻かせになりました。
ファウスト
名はなんと云うか。
メフィストフェレス
それは小さいお
あらゆる外観をお遠ざけになって、
ただ本体の深みをお
ファウスト
しかし君達のは名を聞くと、
大抵本体が読める。
蠅の神、
はっきり知れ過ぎるではないか。
そんなら
メフィストフェレス
常に悪を欲し、
却て常に善を為す、彼力の一部です。
ファウスト
ふん。その謎めいた
メフィストフェレス
わたしは常に物を否定する
そしてそれが至当です。なぜと云うに、
一切の生ずるものは滅しても
して見れば、なんにも生ぜぬに
こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、
破壊だの、
皆わたしの分内の事です。
ファウスト
君は一部だと
メフィストフェレス
それは少しばかりの真理を申したのです。
人間は、気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。
暗黒の生んだ
空間を略取しようとする。
しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、
光明が捕われて物体にねばり附いているからです。
物体から流れて、物体を美しくする。
そしてその行く道は物体に
あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と
一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。
ファウスト
そこで君の結構な任務は分かった。
君は大体からは物を破壊することが出来んので、
小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。
メフィストフェレス
そうです。勿論それが格別役にも立ちません。
即ち不細工な世界ですな。こいつには、
これまでいろいろな企をして見ましたが、
どうにも手が著けようがありません。
跡には陸と海とが依然としているですな。
それからあの禽獣とか人間とか云う
一層手が著けられませんね。
今までどれ程葬ったでしょう。
それでもやはり新しい爽かな血が
そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。
空気からも、水からも、土地からも、
乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、
千万の物の芽が伸びる。
もしわたしが火と云う奴を保留して置かなかったら、
これと云う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。
ファウスト
そんな風で君は、永遠に
恵深く製作する威力に対して、
君の陰険に、空しく握り固めた、
冷やかな悪魔の
実に混沌の生んだ奇怪な倅ではある。
何かちと外の事を始めてはどうだね。
メフィストフェレス
実際そうですね。少し工夫して見ましょうよ。
いずれこの次にもっと精しくお
きょうはこれで御免を蒙りたいのですが。
ファウスト
なぜそれを己に問うのだか分からんな。
まあ、これで君にお
いつでも君の気の向いた時にまた来給え。
そこには窓がある。そこには戸口もある。
君にはあの煙突なんぞも非常門になるのだろう。
メフィストフェレス
間が悪いが打明けて言いましょう。わたしが出て行くには、
ちょいとした邪魔があるのですよ。
あの敷居にあるペンタグランマの
ファウスト
ふん。あの印を君は気にするのか。
妙だね。あれに君は縛られるなら、這入る時は
どうして這入ったか。地獄の先生、それを言って見給え。
そんな霊のある印を、どうごまかして這入ったのだ。
メフィストフェレス
好くあれを御覧なさい。本当に引いてないのです。
御覧の
ファウスト
それは偶然の
そこで君は己の
これは意外な、旨い成功だった。
メフィストフェレス
実は尨犬は気が附かずに飛び込んだが、
今になって見ると少し工合が違っていて、
どうも悪魔はこの部屋を出にくいのです。
ファウスト
ところで君なぜ窓から出ない。
メフィストフェレス
悪魔や化物には掟があって、
這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。
初にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。
ファウスト
そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。
兎に角好都合だ。こうなると君達と
契約を結ぶことも、随分出来るわけだね。
メフィストフェレス
それは約束をする上は、あなたに十分の権利がある。
なんのかのと云って、それを狭めるような事はしません。
しかしそれはそう手短には行きませんから、
こん度の御相談にいたしましょう。
今度だけはお暇を下さるように、
切にお願申すのですがな。
ファウスト
それにしてもちょいと位好さそうなものだ。
面白い話が聞きたいのだが。
メフィストフェレス
いや。今度だけはお暇を下さい。
その時なんでもお尋下さい。
ファウスト
一体己が君を追い掛けたのではない。
君が自業自得で網に掛かったのだ。
悪魔なんと云うものが、手に這入っては手放せないね。
また早速掴まえようと云うわけには行かんから。
メフィストフェレス
いや。是非お伽をするのがお望だと云うことなら、
それはいてお
しかしお
御覧に入れても好いと云う条件附に願いましょう。
ファウスト
それは結構だ。君の勝手にし給え。
なるたけ気持の好い術にしてくれ給え。
メフィストフェレス
それは承知です。単調極まる一年間に、
あなたの官能の享けたよりは、
この一時間に享けた方がたっぷりだと思わせて上げます。
これから優しい霊どもが歌ってお聞せ申したり、
美しい形を
いたずらな幻の戯ではない。
鼻にも好い
舌にも好い味がしよう。
それから心にも好い感じがしよう。
別に用意なんぞはいらない。
仲間はもう揃っている。始めろ始めろ。
霊等
消えよ、目の上なる
暗き
蒼き
やさしく美しく
暗き
はや散り失せしよ。
星あまたきらめけり。
やさしき日等は
照りわたれり。
揺りつゝ身を曲げて
漂ひ過ぎよ。
あこがるゝ心もて
こなたへ続け。
その
ひらめく帯は
下界を覆ひ、
恋する二人が深き心もて
生涯を相委ぬる
四阿を覆へ。
四阿は四阿に並べり。
芽ぐむ
枝たわわなる葡萄は
籠み合ふ
桶に
泡立つ酒は
浄き宝玉の
川床にせゝらぎて、
山の上の高き処を
事足れる
緑なる岡の
日の
波間に
漂ひ浮ける、
晴やかなる
島々の方へ飛ぶ。
その島には合唱の群の
歓び歌ふが聞え、
踊手の野の上に
踊るが見ゆ。
舞ひ歌ふ人皆
岡のつかさに
湖の上に
空に
皆
愛する星の
メフィストフェレス
寐たな。身の軽い、やさしい小僧ども、好く遣った。
好く真面目に骨を折って寐入らせてくれた。
あの合奏のお礼は忘れはしないよ。
へん。悪魔を抑留しようとは、お前にはまだ過ぎた話だ。
小僧ども。こいつの夢に
迷の海に
ところでこの敷居の
鼠の牙がいり用だ。
呼ぶには手間は掛からない。
そこらをがさがさ云わせる奴に、もう己の詞が聞えよう。
こら。大鼠、小鼠、蠅に蛙に
南京虫、
そこの敷居をかじれかじれ。
ちょいと油を塗り附けると、
早速そこへ飛んで来る。
さあ、
その一番手前の
もう一かじりだ。それで
またお目に掛かるまで、たんと夢を御覧なさい。
ファウスト(醒めて。)
己はまた騙されたか。
夢に悪魔を見せられて、
尨犬に逃げられるのが、
意味の深い
――――――――――――
ファウスト。メフィストフェレス登場。
ファウスト
戸を
メフィストフェレス
わたくしです。
ファウスト
おはいりなさい。
メフィストフェレス
三度言って下さいまし。
ファウスト
はてさて。おはいりなさい。
メフィストフェレス
それで宜しゅうございます。
そこで大抵中好く交際が出来る
あなたの気晴らしをしてお
ちょっと貴公子と云うなりをして来ました。
赤い上衣に金の刺繍がしてある。
上に羽織ったのは、こわばる絹の外套です。
帽子には鳥の羽を挿しました。
そしてこんな長い、尖った
そこで早い話が、あなたの
こう云う支度をしてお
そこであらゆる
人生がどんなものだと云うことを御経験なさるのですね。
ファウスト
いや。この狭い下界の生活の苦は
どの著物を著ても逃れられまい。
一体己は当のない遊をするには、もう年を取り過ぎた。
あらゆる欲を断とうには、まだ年が若過ぎる。
世間が己に何を提供しよう。
人の一生涯時々刻々
誰の耳にも聞えて来る
永遠なる歌なのだ。
己は毎朝恐怖の念をして目を醒ます。
ただ一つの、ただ一つの願も
歓楽の暗示をさえ
かたくなな批評で打ちこわし、
活動している己の胸の創作を
凡百の世相で
日の目をまた見ることかと思えば、
己は
また夜闇が下界を包みに降りて来ても、
己は恐る恐る身を
そこでも
恐ろしい夢に驚かされる。
己のこの胸のうちに住んでいる神は
心の深い底の底まで掻き乱すことは出来るが、
己のあらゆる力の上に超然と座を占めている神は、
外界の物を何一つ動かすことが出来ぬ。
それで己には世にあるのが重荷で、
死が願わしく
メフィストフェレス
そのくせ死が真に客として歓迎せられることは決して無いのです。
ファウスト
いや。
死が血に染まった月桂樹の枝を
急調の楽につれて広間を踊り廻った揚句に、
少女の腕に支えられながら死を迎えた人は
ああ。己もあの高い精霊を
歓喜の余にその場に死んで倒れてしまえば好かったに。
メフィストフェレス
でも誰やらあの晩に
茶色な汁を飲み干さなかったようですね。
ファウスト
ふん。君は探偵が道楽だと見える。
メフィストフェレス
わたしは全知ではないが、大ぶいろんな事を知って居ますよ。
ファウスト
あの恐ろしい心の
馴れた優しい音色に
旧い歓楽の余韻に欺かれたとは云え、
餌や
目をくらましたり
この悲哀の
あらゆる手段を己は
人の霊が自ら高しとして我と我身の
その慢心を先ず咀う。
わが官能の小窓に迫る
現象の幻華を咀う。
わが夢の世に来て欺く
名聞や身後の誉の迷を咀う。
妻となり子となり
宝を見せて促して冒険の業をもさせ、
また
軟い
あの金銭を己は咀う。
葡萄から醸す霊液を咀う。
恋の成就の快楽を咀う。
希望を咀う。信仰を咀う。
何より切に忍耐を咀う。
合唱する霊等(目に見えず。)
強き
美しき世界を
世界は倒れ崩れぬ。
半ば神なる人毀ちぬ。
その
我等負ひ行きつゝ、
失はれし美しさを
歎く。
下界の子のうちの
力強き
そを再び建立せよ。
爽かなる目もて耳もて
新なる
始めよ。
さらば新しき歌
聞えむ。
メフィストフェレス
あれはわたしの仲間の
小僧どもです。
ませた
あなたに勧めるのをお聞なさい。
官能の
寂しい所から、
遠い世間へ
あいつ等はあなたを誘い出すのです。
「
最下等の人間とでも一しょにいたら、
人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。
こう申したからとて、何もあなたを
わたしはえらい人のお仲間ではない。
それでもあなたがわたしと一しょに
世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、
即座にわたしは甘んじて
あなたのものになってしまう。
まあ、兎に角お連になって見て、
わたしのする事がお気に入ったら、
ファウスト
そしてその
メフィストフェレス
そりゃあまだ急ぐことはありません。
ファウスト
いやいや。悪魔は利己主義だから、
人の
容易に只でしてはくれまい、
条件をはっきり言って貰おう。
そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。
メフィストフェレス
そんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、
休まずに頤で使われましょう。
そこであの世でお目に掛かった時は
あなたがあべこべに使われて下さるですね。
ファウスト
あの世なんぞは己は余り気にしない。
まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、
別の世界がその跡へ出来ようというものだ。
この大地から己の歓喜は涌く。
この日が己の苦痛を照す。
己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、
それから先はどうにでもなるが好い。
未来に愛や
あの世にもまたこの世のように
上と下とがあるかなどと、
己は問うて見る気がないのだ。
メフィストフェレス
そう云うお
お約束なさい。その上は早速
わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。
まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。
ファウスト
ふん。悪魔風情が何を見せる
向上の道にいそしむ人間の霊が
君なんぞに分かった
腹の太らない馳走か、
水銀のようにころころと
間断なく手のうちで散る赤い
勝つことのない
己の懐に抱かれていながら
隣の男を
名望の、神のような快さをでも授けるのか。
摘まぬ
茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。
メフィストフェレス
そんな御註文には驚きません。
そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。
しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を
食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。
ファウスト
ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、
その時は己はどうなっても好い。
己を甘い
己に
己を
それが己の最終の日だ。
賭をしよう。
メフィストフェレス
宜しい。
ファウスト
容赦はならぬ。
己がある「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云ったら、
君は己を縛り上げてくれても好い。
己はそれきり滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまいになるだろう。
時計が
己の一代はそれまでだ。
メフィストフェレス
だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。
ファウスト
己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、
どうぞしっかり覚えていて貰おう。
己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。
君のにしろ、誰のにしろ。
メフィストフェレス
そんならきょうの卒業宴会に
早速御家隷の役をしましょう。
ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように
一寸二三行書いて置いてお
ファウスト
男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。
口で言った己の詞が永遠に己の生涯を
自由にすると云うだけでは不満足なのかい。
一体世界のあらゆる潮流は
己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。
しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、
誰も好んでそれを
胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。
そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。
ところが、字を書いて印を押した巻紙を、
世間のものは皆化物のようにこわがっている。
いざ筆に
そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお
おい、
紙に書くのか、
鉛筆か、鵝ペンか、それとも
己は君の註文どおりにするのだがね。
メフィストフェレス
何もそんなにむきになって誇張した
言草をしなくったって好いでしょう。
どんな紙切でも好いのです。
ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。
ファウスト
それで君の気が済むことなら、
下らない
メフィストフェレス
血という奴は兎に角特別な汁ですからね。
ファウスト
己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。
平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、
君に約束する事とが一つなのだからね。
己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。
所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。
大なる霊は己を排斥して、
「自然」の戸は己の前に鎖された。
思量の糸は切れて、
あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。
どうぞ官能世界の深みに沈めて、
燃える情欲の渇を
未だかつて
一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。
さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に
この身を投げよう。
受用と痛苦と、
成就と失敗とが
あらん限の交錯をなして来るだろう。
活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。
メフィストフェレス
あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。
どうぞ到る処に
逃げしなに
たんとお
兎に角すばしこく手をお
ファウスト
いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。
最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。
恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。
物の識りたい欲を
これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、
人間全体の受くるべきはずのものを
この内の我で受けて味わって見よう。
この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、
歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、
この自我を即人生になるまで拡大して、
遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。
メフィストフェレス
まあ、お
この
この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。
わたしどもは知っています。この一切の御馳走は
神と云う奴でなくてはこなせない。
なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、
わたしどもをいつも暗い所に置いて、
あなた
ファウスト
しかし己は遣って見る。
メフィストフェレス
さあ、出来ないこともないでしょう。
だが、気になることが一つありますよ。
時は短くして道は長しですな。
お
一つ詩人と云う奴と結托なさるです。
そこでその先生が思想を
宇宙の物のあらゆる栄誉を
あなたの
足早きこと鹿の如く、
血の熱することイタリア人の如く、
堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。
その先生にお
温い青春の血を失わずに、
予定の計画どおりに恋をすると云う
秘法を授けてお貰なさるが好い。
わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。
そして小天地先生の尊号を
ファウスト
しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、
窮めようとしている人生の頂上が
窮められないものとしたら、己は一体何物だ。
メフィストフェレス
あなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。
何百万本の
何尺と云う高さの足駄をお
所詮あなたはあなたですな。
ファウスト
己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、
己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。
さてじっと据わって考えて見ても、
内から新しい力は涌いて出ぬ。
毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。
己は一歩も無極に近づいてはいぬ。
メフィストフェレス
いや、先生、それは
物を御覧になると云うものだ。
生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、
も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。
なに、べらぼうな。それは
手足や頭やし□だけでしょう。
しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、
それが自分の物でないとは云われません。
六匹の馬の
その馬の力が自分のではないでしょうか。
そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に
二十四本足のある男だ。
さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞは
御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。
わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、
牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を
圏なりに引き廻されているようなものです。
その
ファウスト
そこで手始にどうしろと云うのだ。
メフィストフェレス
出掛けるですね。
一体ここはなんと云う
こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、
生きていると云うものですか。
こんな事は御同僚の太っ腹に任せてお
なんだって
それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は
学生どもには言うことが出来ないのでしょう。
そう云えば、さっきから廊下に
ファウスト
今面会することは己には出来ないが。
メフィストフェレス
小僧大ぶ長く待っているのだから、
慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。
一寸その上衣と帽子とをわたしにお
こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。
(メフィストフェレス著換ふ。)
これで好い。跡はわたしの頓智に任せてお
十五分間もあれば沢山だ。
どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。
(ファウスト退場。)
メフィストフェレス(ファウストの服装にて。)
へん。これからは人間最高の力だと云う
理性や学問を馬鹿にして、
幻術魔法によって、
そうなりゃあ先生こっちのものだ。
なんの
精神を運命に授けられたので、
先生慌ただしい努力のために、
下界の
これから己が先生を乱暴な生活、
平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、
もがかせて、放さずに、こびり附かせて、
旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。
先生医し難い渇に悶えるだろう。
そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、
破滅せずにはいられまいて。
一学生登場。
学生
わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、
どこで承っても御高名な
先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、
わざわざ
メフィストフェレス
これは御丁寧な挨拶で痛み入る。
わしも
どうだね。少しはここらの様子を見たかね。
学生
どうぞ何分宜しくお
わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、
奮発して出て参ったものでございます。
母はなかなか手放しませんでしたが、
是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。
メフィストフェレス
それは君丁度好い土地へ来られた。
学生
実の所はなんだかもう帰りたくなりました。
この高い石垣や広い建物を見ますと、
余り
なんだかこう窮屈らしい所で、
草や木のような青いものも見えませんし、
講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、
なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。
メフィストフェレス
それは習慣ですよ。
生れたばかりの赤子に乳を含ませると、
すぐには吸い附かないものだ。
少し立てば旨がって飲む。
それと同じ事で今に君も知識の乳房に
かじり附いて離れないようになるさ。
学生
それはわたくしも学問の懐に抱かれないのは山々です。
どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。
メフィストフェレス
まあ、外の話は跡の事にして
何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。
学生
ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と学問とに
通じたいと存じます。
メフィストフェレス
それは至極のお考だ。
しかし余所見をしては行けませんよ。
学生
それは体をも魂をも委ねて遣ります。
しかし愉快な暑中休暇なんぞには
少しは自由を得て
遣られるようだと好いのですが。
メフィストフェレス
光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。
なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。
まあ、わしに御相談とあれば、
最初に論理学を聴くだね。
そこで君の精神が訓錬を受けて、
スパニアの長靴で
思慮の道を
改めてゆっくり歩くようになるのだ。
燐火が空を飛ぶように、
それから暫くはこう云う教育を受ける。
これまで何事も一息に、
一、二、三と秩序を経て遣るようにする。
一体思想の
機屋の工場のようなもので、
一足踏めば千万本の糸が動いて、
目に止まらずに糸を流れる、
一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。
哲学者と云う奴が出掛けて来て、
これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。
第一段がこうだ、第二段がこうだ。
それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。
もし第一段、第二段がなかったら、
第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。
そんな理窟をどこの学生も
しかし誰も織屋になったものは無い。
誰でも何か活動している物質を認識しよう、
記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを
エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。
自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。
学生
どうも仰ゃる事が皆は分かりません。
メフィストフェレス
それは君が複雑な事を単一に戻して、
それぞれ部門に入れて考えるようになると、
おいおい今よりは好く分かるようになる。
学生
どうも頭の中で
ぼうっとしてまいりました。
メフィストフェレス
それから君、先ず何は措いても、
形而上学に取り掛からなくてはいかん。
なんでも人間の頭に
あの学問で
頭に這入る事を
立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。
それはまあ、後の事として、最初半年は
講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。
毎日五時間の課程がある。
鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。
聴く前に善く調べて置いて、
一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。
そうすると、先生が本に書いてある事より外には
なんにも言わないのが、跡で好く分かって
しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。
学生
それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。
筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。
なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、
安心して内へ持って帰ることが出来ますから。
メフィストフェレス
ところで君、兎に角何科にするのだね。
学生
どうも法律学は遣りたくありません。
メフィストフェレス
わしもあの学科の現状は知っているから、
君が気の進まないのも無理とは思わない。
兎角法律制度なんと云うものは
永遠な病気のように遺伝して行く。
先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、
国から国へゆるゆると広められる。
そのうち道理が非理になって、仁政が
人は
さて人間生れながらの権利となると、
惜いかなどこでも問題になっていない。
学生
そのお話で厭なのが益々厭になりました。
先生のお指図を受けるものは、実に
そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。
メフィストフェレス
そうさな。君を方向に迷わせたくはない。
あの学問をして、
邪路に
あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。
それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。
まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、
その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。
概して詞に、言句にたよるに限る。
そうすれば不惑の門戸から
堅固の堂宇に入ることが出来る。
学生
しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。
メフィストフェレス
それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬが
なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、
詞が猶予なく差し
詞で立派に議論が出来る。
詞で学問の系統が組み立てられる。
詞に都合好く信仰を托することが出来る。
詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。
学生
どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、
も少し御面倒を願いたいのでございます。
どうぞ医学はどんなものだと云うことについても
しっかりした御一言を承らせて下さいまし。
三年の学期は短いのに、
学問の範囲は実に広いのです。
先生がちょいと一言方針を御
それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。
メフィストフェレス(独語。)
もうそろそろ乾燥無味な調子に
ちと本色の悪魔で行って遣るかな。
(声高く。)
医学の要旨は造做もないものだよ。
君は大天地と小天地とを窮めるのだ。
そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、
なるがままにさせて置くのさ。
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。
ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、
それが本当の男と云うものだ。
見た所が、君は大ぶ体格が
度胸もなくはないだろう。
そこで君に自信が出来て来ると、
世間の人も自然に君を信じて来るのだ。
殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。
女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、
いろいろな言葉の絶える時はない。
それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。
そこで君がかなり真面目に遣って行くと、
女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。
なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より
君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。
さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって
障られない
脈なんぞを旨く取るのだね。
そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、
熱心らしい、狡猾そうな
探って見て遣るのだね。
学生
そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。
メフィストフェレス
兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、
緑なのは
学生
正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。
また改めて先生のお説の極深い処を伺いに
参りましても宜しゅうございましょうか。
メフィストフェレス
なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。
学生
恐れ入りますが、お暇乞をいたすには
この記念帖にお
どうぞ先生の
メフィストフェレス
お易い事で。
(書きて渡す。)
学生(読む。)
エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
(爾等知二善与一レ悪。則応レ如レ神。)
(恭しく帖を閉ぢて退場。)
メフィストフェレス
その古語の
一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。
ファウスト登場。
ファウスト
さあ、どこへ行くのだ。
メフィストフェレス
お
先ず御一しょに小天地を見て、それから大天地を見ます。
まあ、一
なかなか面白くて有益ですよ。
ファウスト
しかしこの長い髯の看板どおりに、
気軽な世間の
所詮遣って見ても旨くは行くまいて。
己には世間に調子を合せると云うことが出来たことがない。
人の前に出ると、自分が小さく思われてならない。
己は間を悪がってばかりいるだろうて。
メフィストフェレス
そんな事はどうにかなりますよ。
万事わたしにお任せなさると、
ファウスト
そこでどうしてこの家を出て行くのだ。
馬や車や
メフィストフェレス
それはついこの外套を拡げれば
これに乗って空を飛んで行くのです。
この大胆な門出には
大きな荷物だけは御免蒙ります。
わたしが少しばかりの
そいつが造做なく二人を地から捲き上げてくれます。
そこで荷が軽いだけ早く
新生涯の序開だ。ちょっとおよろこびを申します。
ライプチヒなるアウエルバハの窖
[編集]面白げなる連中の酒宴
フロッシュ
おい。誰も飲んだり、笑ったりせんか。
陰気な
いつでも好く燃えるくせに、
きょうはなぜ湿った
ブランデル
それは君のせいだ、君がなんにも提供しないからだ。
いつもの馬鹿げた事か、下卑た事を遣れば好い。
フロッシュ(ブランデルの頭の上に一杯の酒を
そんならこれでどっちも済まそう。
ブランデル
フロッシュ
君が下卑た事を遣れと云ったじゃないか。
ジイベル
誰でも喧嘩をする奴は、戸の外へ出て行け。
胸襟を開いてルンダ・ルンダでも歌わんか。飲め、騒げ。
さあ、遣れ遣れ。ホルラア。ホオ。
アルトマイエル
溜らない。参った参った。
誰か綿があるならくれえ。あいつのお蔭で聾になる。
ジイベル
馬鹿言え。天井が反響をする位でなくては、
バッソオの根本的威力は発揮せられないのだ。
フロッシュ
賛成々々。苦情を言う奴は逐い出してしまえ。
アア。タラ。ララ。ダア。
アルトマイエル
アア。タラ。ララ。ダア。
フロッシュ
さあ、
(歌ふ。)
愛すべき、神聖なるロオマ帝国よ。
いかにして
ブランデル
僕なんぞは国王でもなけりゃあ、宰相でもないのを、
兎に角よほどの利益だと思っている。
しかし我々だって首領なしではいられない。
さあいつもの法皇を選挙しようじゃないか。
どんな資格が大事だとか、その人を高めるとか云うことは、
君方は知っているなあ。
フロッシュ(歌ふ。)
飛び立てや、鶯。
恋人に言伝てよ、百千度。
ジイベル
恋人に
フロッシュ
恋人に言伝をする。キスをする。君のお世話にはならない。
(歌ふ。)
門の戸
門の戸
門の戸させ。朝まだきに。
ジイベル
ふん。沢山歌うが
今に僕の笑って遣る時が来る。
僕を騙した
あいつの色には
夜の四辻でふざけるが
そこへブロッケンの山から駆けて帰る、年の寄った
通り掛かって、あいつに今晩はと挨拶すると丁度
正真正銘の血や肉を持っている立派な男は、
あいつの相手には惜しいのだ。
あいつに言伝なんぞをすることがあるものか。
窓に石でも
ブランデル(卓の上を打つ。)
東西東西。僕の言うことを聞き給え。
僕が
ここに女に迷った人達がいます。
その人達に今晩の告別に、身分相応の忠告を
僕がして遣ろうと思います。
東西。最新の調子の歌だぞ。
合唱の所をしっかり頼むぞ。
(歌ふ。)
牡鼠が穴倉に巣食って、
ルテル先生見たように
でっぷり太ってしまった。
そいつにおさんが毒を飼った。
鼠は世間が
胸に恋でもあるように。
合唱者(
胸に恋でもあるように。
ブランデル
そこらを廻って飛び出して、
どのどぶからも水を飲んだ。
かじる、引っ掻く、
どんなに荒れても駄目だった。
苦しまぎれに飛び上る。
とうとう程なく荒れ止んだ。
胸に恋でもあるように。
合唱者
胸に恋でもあるように。
ブランデル
昼の日なかによろよろと
台所まで駆けて出て、
びくつき、倒れて虫の息。
おさんは見附けて噴き出した。
お
胸に恋でもあるように。
合唱者
胸に恋でもあるように。
ジイベル
凡俗どものあの面白がりようはどうだ。
可哀そうに。鼠に毒を食わせる位が
丁度
ブランデル
君はひどく鼠が
アルトマイエル
太っ腹の禿頭奴。
運が悪くて気が折れて、お情深くおなり遊ばした。
病み腫れた鼠の姿が
丁度先生そっくりだ。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
極面白がっている連中を
何より
世間がどの位気楽に渡れると云うことがお分かりになる。
この連中にはどの日も同じ祭日です。
小才を利かせて、大満足をして、
てんでに狭い
頭痛でもする日の外は、
心配なしに楽んでいます。
ブランデル
そこに来た奴等の様子を見給え。
旅から来た奴等だと云うことがすぐ分かる。
まだ著いてから一時間も立つまい。
フロッシュ
なるほど、君の云う通だ。僕はライプチヒに謳歌する。
小パリイと云うだけあって、ここにいると品が好くなる。
ジイベル
君はあの旅人どもを何者だと思う。
フロッシュ
僕が行って来るから見てい給え。一杯飲ませて、
あいつ等の鼻の穴から
子供の歯を抜くより優しいのだ。
なんでも
高慢げで、そして物事に満足しない様子だから。
ブランデル
なに。僕は賭をしよう。あいつ等は山師だよ。
アルトマイエル
そうかも知れないなあ。
フロッシュ
気を附けて見ていろ。
メフィストフェレス(ファウストに。)
悪魔はあいつ等には分かりません。
うぬが
ファウスト
皆さん、今晩は。
ジイベル
今晩は。
(メフィストフェレスを横より覗き、小声にて。)
おや、あいつは片々の脚が短いようだぜ。
メフィストフェレス
どうでしょう。そちらへ割り込んでもお邪魔ではないでしょうか。
どうせ旨い酒なんぞはなさそうですから、
面白いお話でも
アルトマイエル
君達は大ぶ口が奢っていると見えますね。
フロッシュ
君達はおお方リッパハの
あの駅のハンス君と一しょに夕飯を食ってから立ったのじゃないか。
メフィストフェレス
生憎きょうは逢わずに通って来ましたよ。
この前の度にわたし共が逢って話した時、
あなた方の事をいろいろ噂をしましてね、
どなたにも宜しく申してくれと云いましたよ。
(メフィストフェレスはこの
アルトマイエル(小声にて。)
一本参ったな。向うが旨く遣りおった。
ジイベル
食えない奴だ。
フロッシュ
まあ、黙って見ていろ。今に遣っ附けるから。
メフィストフェレス
先刻大ぶお稽古の詰んだ声で
合唱をしていられたようでしたね。
ここでお歌いになったら、
あの円天井から旨く反響することでしょう。
フロッシュ
君達は音楽家ででもあるのかね。
メフィストフェレス
どういたしまして。下手の
アルトマイエル
何か一つ歌い給え。
メフィストフェレス
お
ジイベル
極新しいのでなくちゃあいけない。
メフィストフェレス
わたしどもは丁度スパニアから帰ったところです。
あそこは酒と歌を本場にしている美しい国ですからね。
(歌ふ。)
昔昔王がいた。
大きな
フロッシュ
聞いたか。蚤だとよ。諸君分かったかい。
蚤と来ちゃあ、僕なんぞは随分清潔なお客だと思う。
メフィストフェレス(歌ふ。)
昔昔王がいた。
大きな蚤を持っていた。
自分の生ませた子のように
可哀がって飼っていた。
ある時服屋を呼んで来た。
服屋が早速遣って来た。
「この若殿の召すような
ブランデル
服屋に好くそう云わなくちゃいけないぜ。
寸尺を間違えないようにして、
笠の台が惜しけりゃあ、
ずぼんに
メフィストフェレス
天鵞絨
仕立
上衣にゃ紐が附いている。
十字章さえ下げてある。
すぐ大臣を言い附かる。
大きな勲章をぶら下げる。
兄弟までも宮中で
立派なお役にあり附いた。
文官武官貴夫人が
参内すれば責められる。
お
ちくちく
押さえてぶつりと潰したり、
掻いたりしては相成らぬ。
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
合唱者(歓呼する如く。)
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
フロッシュ
旨い旨い。こいつは好かった。
ジイベル
蚤なんぞはそんな風に遣っ附けべしだ。
ブランデル
指を伸ばして旨くつままなくちゃいかん。
アルトマイエル
自由万歳だ。酒万歳だ。
メフィストフェレス
わたくしも自由の光栄のために一杯飲みたいのですが、
それにつけてもも少し酒が好ければ
ジイベル
そんな事は二度とは聞きたくないものだ。
メフィストフェレス
ここの主人が小言を言わない事なら、
わたくし共の酒蔵にあるのを、何か一つ
あなた方に献上したいのですが。
ジイベル
さあ、さあ、遠慮なしに出し給え。小言は僕が引き受ける。
フロッシュ
旨い奴を一杯飲ませてくれれば、僕は感謝するね。
ことわって置くが、あんまりぽっちりではいけない。
僕に利酒をさせようと云うには、
口へたっぷり一ぱい入れてくれなくちゃあ出来ない。
アルトマイエル(小声にて。)
なんでもあいつ等はライン地方の奴だぜ。僕の
メフィストフェレス
ちょいと錐を持って来させて下さい。
ブランデル
錐をなんにするのだね。
まさかその戸の外まで樽が来ているわけでもあるまい。
アルトマイエル
それ、あそこの
メフィストフェレス
(錐を手に取り、フロッシュに。)
あなたの飲みたい酒を伺いましょう。
フロッシュ
聞いてどうしようと云うのだね。そんなに色々あるのかね。
メフィストフェレス
どなたにもお
アルトマイエル(フロッシュに。)
ははあ。君はもう口なめずりをし始めたな。
フロッシュ
宜しい。僕が所望して好いなら、ラインの葡萄酒にしよう。
なんでも本国産が一番の御馳走だ。
メフィストフェレス
(フロッシュの坐せる辺の卓の縁に、錐にて穴を揉みつゝ。)
少し蝋を取り寄せて下さい。すぐに栓をしなくちゃあ。
アルトマイエル
ははあ。手品だね。
メフィストフェレス(ブランデルに。)
そこであなたは。
ブランデル
僕はシャンパンにしよう。
好く泡の立つ奴でなくてはいけない。
(メフィストフェレス錐を揉む。一人蝋の栓を作りて塞ぐ。)
どうも外国産の物を絶待に避けるわけにはいかんて。
好い物が遠国に出来ることがあるからなあ。
本当のドイツ人はフランス人は好かないが、
フランスの酒なら喜んで飲むね。
ジイベル
(メフィストフェレスの坐せる辺に近づきつゝ。)
正直を言えば僕は酸っぱい酒は
僕には本物の甘い奴を一杯くれ給え。
メフィストフェレス(錐を揉む。)
そんならあなたの杯にはすぐトカイ酒を注がせます。
アルトマイエル
ねえ、君達、僕の方を真っ直に見て返事をし給え。
君達は僕なんぞを騙すのに
メフィストフェレス
飛んだ事です。あなた方のような立派なお客に
そんな事をするのは、少し冒険過ぎますからね。
お早く願います。どうぞ御遠慮なく仰ゃい。
どんな酒を献じましょう。
アルトマイエル
なんでも宜しい。うるさく問わないで下さい。
メフィストフェレス
(穴を
「葡萄は葡萄の蔓になる。
角は
酒は水で、葡萄は木だ。
自然の奥を窺う一目。
これが奇蹟だ。信仰なされい。」
さあ、皆さん、栓を抜いて召し上がれ。
一同
(栓を抜けば各自の杯に所望の酒涌きて入るゆゑ。)
やあ。これは結構な噴水だ。
メフィストフェレス
兎に角
一同
(皆反覆して飲み、さて歌ふやうに。)
愉快だ、愉快だ。人の
五百の
メフィストフェレス
御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ。
ファウスト
己はそろそろ行きたいがなあ。
メフィストフェレス
いや。これから気を附けて見ておいでなさい。
盛んに獣性が発揮せられるのですからね。
ジイベル
(手づつなる飲み様をし、酒を床に飜す。
助けてくれ。火事だ。助けてくれ。地獄が燃える。
メフィストフェレス(
「鎮まれ。親しき
(人々に。)
まあ、こん度は一滴の
ジイベル
これはなんだ。待て。只では済まんぞ。
全体我々をなんだと思っている。
フロッシュ
もう一遍あんな真似をして見ろ。
アルトマイエル
僕はこっそりあいつ等を追っ払ってしまおうと思うのだが。
ジイベル
おい。そこの先生。利いた風な。
我々の目を
メフィストフェレス
黙れ。酒樽の古手奴。
ジイベル
なに。
我々に失敬な事を言う
ブランデル
待っていろ。拳骨が雨のように降るぞ。
アルトマイエル
(残りたる一つの栓を抜けば、火燄面を撲つ。)
やあ。僕は
ジイベル
魔法だ。
遣っ附けろ。そいつは無籍者だ。
(皆々小刀の鞘を払ひて、メフィストフェレスに掛かる。)
メフィストフェレス(真面目らしき態度にて。)
「
心を転じ、
ここにあれ。またかしこにあれ。」
(一同驚きて立ちをり、互に顔を見合す。)
アルトマイエル
ここはどこだ。好い景色だなあ。
フロッシュ
葡萄畑だ。本当か知らん。
ジイベル
それに葡萄に手が届く。
ブランデル
この青い屋根の下に
こんな
(ジイベルの鼻を
メフィストフェレス(同上の態度にて。)
「迷惑の
記念せよ。魔の遊戯の
(ファウストと共に退場。人々互に手を放す。)
ジイベル
どうしたのだ。
アルトマイエル
これはどうだ。
フロッシュ
今のは君の鼻だったか。
ブランデル(ジイベルに。)
僕は君のを撮まんでいたのか。
アルトマイエル
なんだかこうぴりっと来て、節々に響いたようだ。
その椅子を借してくれ。僕は倒れそうだから。
フロッシュ
一体どうしたと云うのだろう。
ジイベル
あいつはどこへ行った。こん度見附けたら、
生かしては置かない
アルトマイエル
あいつが酒樽に騎って、この店の戸を出て行くのを
僕はこの目で見たよ。
僕は足が鉛にでもなったように重くてならない。
(卓の方へ向く。)
ああ。酒はまだ出るか知らん。
ジイベル
皆
フロッシュ
僕は実際酒を飲んでいるような気がしたが。
ブランデル
それはそうとあの葡萄はどうしたのだろう。
アルトマイエル
どうだい。これでは不思議と云うものがないとは云われまい。
魔女の厨
[編集](低き竈の火の上に、大いなる鍋掛けあり。その鍋より立ち
ファウスト、メフィストフェレス登場。
ファウスト
己は気違染みた魔法
この物狂おしい混雑の中で
己の体がなおると、君は受け合うのか。
己に婆あさんの指図を受けさせて、
この
跡へ戻してくれようと云うのか。
これ以上の智慧が君にないなら、己はもう駄目だ。
己の希望の影はもう消えてしまった。
一体自然か哲人かがこれまでに
何か霊薬のようなものを一つ位見出さなかったのか。
メフィストフェレス
いや。あなたはまた理窟を言い出しましたね。
それはあなたを若返らせるには、自然的な方法もあります。
しかし全く別な本に書いてある
奇妙な一章ですよ。
ファウスト
己はそれが知りたい。
メフィストフェレス
宜しい。それは金も医者も
魔法もなしに獲られる方です。
すぐに野らへお
そして鋤鍬を使い始めるですね。
それから極狭い範囲の内に、
自己と自己の精神とを閉じ籠めて置くですね。
食物は
家畜になって生きる。自分の
自分で肥やしをするのを不都合とは思わない。
これなら八十になっても若くていられる
絶好の手段だと云うことを、御信用なさって宜しい。
ファウスト
それは己の慣れぬ事で、手に鋤を取るとまでは、
どうも己は身を落すことが出来ない。
その上狭い範囲の生活も己の柄にない。
メフィストフェレス
するとやはり魔女の厄介になるですな。
ファウスト
しかしなぜ婆あでなくてはならんのか。
君が自分でその薬を調合したって好いだろう。
メフィストフェレス
そいつは
魔の橋と云うのがあるが、わたしは橋を千位掛けます。
ああ云う薬は学術ばかりでは出来ない。
忍耐がなくては駄目です。
静かに落ち著いた奴が長の年月骨を折って、
その間にただ「時」が薬の発酵を強くするのです。
それに調合が複雑で、
中には不思議な物が這入るのです。
無論それも悪魔が授けた方ですが、
悪魔が自身で拵えるわけには行きません。
(獣等を見て。)
御覧なさい。なんと云う可哀らしい奴等でしょう。
あいつが女中で、あいつが
(獣等に。)
お上さんは留守らしいね。
獣等
内を抜け出て
馳走になりに行きました。
メフィストフェレス
いつもどの位の間ぶら附いて帰るのだい。
獣等
わたしどもが手をあぶっている間の留守です。
メフィストフェレス(ファウストに。)
どうです。あのきゃしゃな畜生どもは。
ファウスト
己の見た物の中で、この位ぶさまな物はないな。
メフィストフェレス
いやいや。今こいつ等と遣るような会話が
わたしは一番
(獣等に。)
おい。
そのどろどろした物を掻き交ぜているのはなんだい。
獣等
これですか。乞食に施す
メフィストフェレス
そんならお客はおお勢だな。
牡猿
(歩み寄り、メフィストフェレスに
どうぞすぐに旨い
わたしに儲けさせて、
わたしを金持にして下さい。
随分みじめな身の上です。
これで金さえ持っていると、
も少し智慧も出るのです。
メフィストフェレス
分かっているよ。富籤にでも
猿も
(この間小猿等大いなる
牡猿
これが世界だ。
上がったり降りたり、
こわれるのに
あそこは光る。
あそこは
己の好い子だ。
おもちゃにするな。
そちゃ死ぬるのだ。
丸は
かけらが出来る。
メフィストフェレス
あの
牡猿(篩を取り卸す。)
もしあなたが
これですぐに見あらわします。
(牝猿の所に持ち行き、透かし見さす。)
さあ、篩で透かして見ろ。
もし盗坊が分かっても、
うっかり口で言いっこなしだ。
メフィストフェレス(火に近づきつゝ。)
そんならこの鍋は。
牝牡の猿
馬鹿なお方だ。
鍋一つ御存じない。
釜一つ御存じない。
メフィストフェレス
失敬な畜生だな。
牡猿
この
その腰掛にお掛けなさい。
(メフィストフェレスを椅子に掛けさす。)
ファウスト
(この間大鏡の前に立ちて、半ばそれに歩み近づき、また半ばそれに歩み遠ざかりゐたるが。)
この己の目に見える、あれはなんだ。この魔の鏡に映るのは、
まあ、なんと云う美しい姿だろう。
愛の神に頼むが、お前の翼の一番早いのを貸して、
己をあの女のいる境へ遣ってくれい。
己がここに
鏡の傍へ寄って行くと、
姿は霧を隔てて見るようにぼやけて見える。
女と云うものの一番美しい姿はこれだ。
こうも美しい女の姿が世にあろうか。
この横わった体に
天と云う天の
所詮
メフィストフェレス
なんの不思議なものですか。神が六日の間働いて、
最後に自分で喝采したのだから、何か少しは
気の利いたものが出来ていなくてはなりません。
差当りあれをたんのうするまで御覧なさい。
今にあなたにあんな好い子を見附けて上げます。
運が好くてあんなのの壻になる奴は
(ファウストは依然鏡の中の像を見ゐる。メフィストフェレスは椅子の上にて
ここの所一寸王が玉座に著いたと云う形だ。
君主の杖も持っている。頭に
獣等
(これまで種々の怪しげなる動作をなしゐたるが、この時大声にて叫び交しつゝ冠一つ持ち来て、メフィストフェレスに捧ぐ。)
お願ですから
この冠を
汗と血とで著けて下さい。
(手づつなる
とうとうおしまいだ。
口でしゃべって目では見る。
耳では聞いて歌にする。
ファウスト(鏡に向ひて。)
ああ、どうしよう。己はどうやら気が狂いそうだ。
メフィストフェレス(獣等を指さす。)
もうこうなると己でさえ頭がぐらぐらして来る。
獣等
こっちとらに出来るなら、
こっちとらがして
そんならそれが
ファウスト(前の如き態度にて。)
ああ。己の胸は燃えて来た。
どうぞ一しょに早く逃げてくれ。
メフィストフェレス(前の如き態度にて。)
兎に角正直に告白する
詩人だとは認めて遣らなくてはなるまい。
(この間牝猿の等閑になしゐたる鍋煮え越す。大いなる
魔女
アウ。アウ。アウ。アウ。
咀われた畜生奴。
鍋はほうって置く。上さんには
咀われた畜生奴。
(ファウスト、メフィストフェレスの二人を見て。)
ここには何事がある。
お前達は何者だ。
ここへは何しに来た。
なぜ留守に這い込んだ。
お前達は骨々に
火で焼く
(魔女杓子にて鍋を掻き廻し、ファウスト、メフィストフェレス、獣等に
メフィストフェレス
(手に持ちたる払子を逆にして、柄にてあたりの土器、
粥は引っ繰り返れ。
硝子はかけらになれ。
これでも洒落だよ。
手前の歌に合せる拍子だ。
(魔女の憤り且つ驚きて退くを見つゝ。)
やい。骸骨奴。
檀那様、お師匠様を見忘れやがったか。
実は遠慮はいらんのだ。手前も猫の怪物も、
腕を出せば、敲き潰して遣るのだぞ。
いつ赤い胴著がこわくなくなったのだ。
帽子に挿した鳥の羽が見えんか。
己が
己に
魔女
やあ。檀那。飛んだ御無礼をいたしました。
蹄を隠していらっしゃるもんだから。
それに二羽の
メフィストフェレス
こん度だけは特別で
それは顔を合せないことが
大ぶ久しくなっているからな。
それに文化と云う奴が世の中を
悪魔をも只では置かねえのだ。
北国生れのお
それ、角や、
ただ足は無いと不自由だが、
見せては世間の
そこでもうよほど前から、若い奴等がするように、
魔女(踊りつゝ。)
サタンの檀那がおいでては、
わしゃ嬉しゅうて気が狂う。
メフィストフェレス
こら。そんな名を口に出すと云うことがあるか。
魔女
そりゃなぜでございます。あの名がなんといたしました。
メフィストフェレス
あれはな、もうお伽話に書かれてから久しゅうなる。
そのくせ人間のためには好くはならない。
一人の悪魔はいなくとも、悪人はおお勢いるからな。
兎に角これからは己を男爵閣下と云うが好い。
華族のうようよいる中の己も華族の一人なのだ。
まさか己の血筋が怪しいとは云うまい。
それ、己の紋所はこれだ。
(
魔女(
へ。へ。お前様のお
やっぱり今でも昔のままの横著者でいらっしゃる。
メフィストフェレス(ファウストに。)
どうです。覚えてお
これが魔女の
魔女
そこであなた方の御用向は。
メフィストフェレス
実は例の薬をたっぷり一杯貰いたいのだ。
だが一番年を食った好い奴でなくてはいけない。
一年
魔女
お易い御用でございます。ここに
わたくしのちょいちょい
もうちっとも臭くはございません。
これを一杯献じましょう。(小声にて。)
ですが、御承知の
一時間とは生きていられませんよ。
メフィストフェレス
いいや。大事な友達だ。好く利かなくてはならない。
手前の台所の一番好いものが飲せたいのだ。
手前例の
たっぷり一杯上げてくれ。
(魔女怪しげなる動作にて圏をかき、その中に種々の物を排置す。そのうち玻璃器、金属器自ら鳴りて楽を奏し始む。最後に猿等を圏の中に入れ、大いなる書籍を取り出し、一匹の猿を卓にしてそれを載せ、他の猿には炬を
ファウスト(メフィストフェレスに。)
君これはどうすると云うのだい。
こんな馬鹿げた真似、気違染みた
無趣味極まる
僕は
メフィストフェレス
何を気にするのです。ただ笑わせるまでですよ。
そんなに窮屈に考えなくても好いじゃありませんか。
あいつも医者だから、薬が好く利くように、
(ファウストを強ひて圏の中に入らしむ。)
魔女
(大袈裟なるこれ見よかしの表情にて、書の中より朗読し始む。)
「汝
一より十を
二は去るに任せよ。
而して
然らば則ち汝は富まむ。
四は喪失せよ。
五と六とより
七と八とを生ぜしめよ。
是の如く魔女は説く。
是においてや成就すべし。
九は則ち一なり。
十は則ち無なり。
之を魔女の九九と謂ふ。」
ファウスト
婆あさん熱に浮かされているのじゃあるまいか。
メフィストフェレス
まだなかなかあんな物じゃありません。
わたしは好く知っていますが、あの本は皆あんな調子です。
随分あれで暇を潰したこともあります。
なぜと云うと、まるで矛盾した事は
智者にも愚者にも深秘らしく聞えますからね。
あなたに言いますが、学術は新しいようで古い。
原来三と一だの、一と三だのと云って、
真理の
いつの世にもある
誰にも邪魔をせられずに
誰が馬鹿に構うものですか。
大抵人間はただ
何かそれに由って考えられるはずだと思うのです。
魔女(誦し続く。)
「夫れ学術の
崇高なる威力は
全世界に秘せらる。
然れども思量せざる者
贈遺の如くに得べし。
労苦することを
ファウスト
なんの無意味な事を己達に言って聞せるのだ。
もう
己にはなんだか馬鹿が十万人も
メフィストフェレス
もう
早く薬を持って来て、杯の縁まで
一ぱいに注いでくれ。
己の友達にはあの薬が障る気遣はない。
この人はこれまでにもいろんな薬を飲んで見て、
大ぶ位の附いている人だから。
(魔女複雑なる作法をなして薬を杯に注ぐ。それをファウスト受けて唇に当つるとき、軽き燄燃え立つ。)
構わずにぐいとお
すぐに
悪魔と君だの僕だのと云うあなたが、
火なんぞをこわがるのですか。
(魔女圏を解く。ファウスト脱出す。)
メフィストフェレス
さあ、すぐに出掛けましょう。じっとしていてはいけません。
魔女
もし、あなた、お薬が好く利くようにお
メフィストフェレス(魔女に。)
何か返礼に己に頼みたい事があるなら、
ワルプルギスの晩に遠慮なく言うが
魔女
それからこの歌の本を上げますから、時々お
不思議な利目がございますからね。
メフィストフェレス(ファウストに。)
さあ、わたしが案内しますから、早くおいでなさい。
薬が
汗を出さなくてはいけません。
これから高尚な
今にあなたの体の中で、愛の神が動き出して
折々跳ね廻るのを、面白くお感じになるのだ。
ファウスト
まあ、待ってくれ。一寸今一度あの鏡を見なくては。
あの女の姿があんまり好かったから。
メフィストフェレス
お
手本になるのを、正味で御覧に入れますから。
(聞えぬやうに。)
あの薬が這入っているから、
今にどの女でもヘレナに見える。
街
[編集]ファウスト登場。マルガレエテ通り過ぐ。
ファウスト
もし、美しいお嬢さん。不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお
マルガレエテ
わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(振り放して退場。)
ファウスト
途方もない
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。
(メフィストフェレス登場。)
おい。あの女を己の手に入れてくれ。
メフィストフェレス
どの女ですか。
ファウスト
今通って行った奴だ。
メフィストフェレス
あれですか。あれは今坊主の所から帰るのです。
わたしは坊主の椅子の傍を忍んで通ったが、
なんにも持たずに懺悔に行った、
ひどく罪のない娘ですよ。
あんなのはわたしの手に合いませんね。
ファウスト
でも満十四歳にはなっているだろうが。
メフィストフェレス
丸で道楽息子のような口の利きようをしますね。
どの美しい花をも自分の手に入れようとして、
自分の手で摘み取ることの出来ない
恋や情はないはずだと思う
ところがなかなかいつもそうは行きませんよ。
ファウスト
おい。道学先生。
どうぞ道徳の掟を己に当て
それから君に手短に言って置くがね。
あの旨そうな若々しい肌に
今宵己の手が触れることが出来なかったら、
夜なかまで待たずに君とお
メフィストフェレス
しかし出来る事と出来ない事とは考えて下さい。
探偵して機会を捕えるまでに、
少くも十四日は掛かるのです。
ファウスト
己なんぞは七時間遊んでいられると、
あんな物を騙して遣るには、
悪魔の手を借るまでもないがなあ。
メフィストフェレス
もうフランス人のような物の言いようをしますね。
だがお願ですから、気を悪くしないで下さい。
何もすぐに手に入れるのが面白いのではありません。
南の
先ずいろいろな前狂言をして、
あの人形をあっちこっち
却って手に入れた時より面白いものです。
ファウスト
そんな面倒をしなくっても、己は
メフィストフェレス
まあ、洒落や
言う代に、一度はっきり言って置きますが、
あの
一挙して抜くと云う砦ではない。
ファウスト
そんならあいつの持物でも己の手に入れてくれ。
あいつのいつも腰を掛ける場所へでも連れて行ってくれ。
あいつの胸に触れたことのある
メフィストフェレス
わたしがあなたの
お手伝をする気だと云うことが、あなたにも分かるように、
手間を取らせずに、きょうのうちに
あなたをあの娘の部屋へ連れて行きます。
ファウスト
そして逢われるのか。手に入れられるのか。
メフィストフェレス
いいえ。
当人は隣の上さんの所へ行っているでしょう。
その隙にあなたがひとりで
未来の
籠っている所にいるのを心遣になさるが
ファウスト
そんなら今から行かれるのか。
メフィストフェレス
まだ早過ぎます。
ファウスト
そんなら何かお土産に遣る物を心配して置いてくれ。
メフィストフェレス
方々の好い所に昔埋めて置いた
宝のあるのを、わたしは知っています。
まあ、少し調べて見なくては。(退場。)
夕
[編集]小さき清げなる室。
マルガレエテ
マルガレエテ
きょうのお
何か
大そうはきはきしたお方のようだったこと。
きっと
わたしお顔を見たら、すぐ分かってしまった。
でなくては、あんな不遠慮な事はなさらないわ。(退場。)
メフィストフェレス、ファウスト登場。
メフィストフェレス
さあ、這入るのです。そっと、構わずに。
ファウスト(暫く黙りゐて。)
どうぞ己をひとりで置いて行ってくれ。
メフィストフェレス(四辺を探るやうに見つゝ。)
なかなかどの娘でもこう綺麗にしているものではないて。(退場。)
ファウスト(あたりを見廻す。)
この神聖な場所を籠めてくれる、
優しい、薄暗い
渇して
優しい恋の
静けさ、秩序ある片附方、物に満足している心持が、
なんとなくこの周囲に浮動しているではないか。
この物足らぬ中になんと云う豊富なことだろう。
この人屋めいた中になんと云う祝福のあることだろう。
(寝台の傍の
この椅子はあれがまだ生れぬ世を、
己に掛けされてくれ。家の長老の座のこの椅子に、
幾度か取り巻く子等の群がぶら下がったことであろう。
事に依ったら、あの子がまだふくらんだ頬をしていた時、
神聖なクリストの恩を謝して、この椅子に
家の長老の萎びた手に、敬虔なキスをしたかも知れぬ。
ああ。
この卓の上に
足に踏む砂をさえ美しく波立つようにさせる、
その
身の辺に
まあ、なんと云う可哀い手だろう。神々の手のような。
お前のお蔭でこの小屋が天堂になるのだ。
そしてここは。
(手にて寝台の帷の一ひらを
まあ、なんと云うぞっとする嬉しさが襲うだろう。
己はたっぷり何時間もここに立ちもとおっていたい。
自然よ。お前はここで軽らかな夢の中に、
ただ一度しか生れぬ天使を育てたのだ。
優しい胸に温い性命の満ちている
物を織り成す、神聖な、清浄な力で、
あの
そこで貴様はどうだ。何がここへ連れて来たか。
己は心の底から感動させられてしまう。
貴様はここで何をしようと思う。なぜそう胸が苦しゅうなる。
恋の夢に己は解けて流れるように感ずるではないか。
空気の
もしこの刹那にあれがここへ這入って来たら、
己の無作法はどんなにか罪なわれるだろう。
大きなのろま男奴。なんと云う小さくなりようだ。
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
早くおしなさい。娘が下を遣って来ます。
ファウスト
行こう、行こう。己はもうここへは来ない。
メフィストフェレス
ここにある所から持って来た、
一寸目方のある箱がありますがな。
兎も角もこれをそこの
あの娘が見て気が遠くなる程欲しがることは
あいつの体のいろんな物があなたのおもちゃになるように、
わたしがこの箱にいろんなおもちゃを入れて置きました。
相手の子供は子供でもこっちの細工は細工ですから。
ファウスト
さればさ。そんな事をしたものだろうか。
メフィストフェレス
それに文句がありますか。
それともこの品物をあなたが持っていなさる
そんならあなたも色気なんぞを出して
結構な暇を潰すことをお
わたしにもこれから
まさかあなたは
あの可哀らしい小娘を
あなたの胸のお
わたしに、頭を掻かせたり、手を摩らせたりするのですか。
(小箱を箪笥に入れ、
さあ、早く逃げましょう。
なんです、その顔は。
今から講堂へでも出て行こうと云うのですか。
形而下学と形而上学とがさながら現われて来て、
灰色の顔をしてあなたの前にでも立っていると云うのですか。
さあ、逃げましょう。(退場。)
マルガレエテ燈を
マルガレエテ
なんだかここは鬱陶しくて、むっとするようだこと。
(窓を開く。)
そのくせ
わたしなんだか分からないが、変な心持がするわ。
早く
なんだかこう
まあ、わたしはなんと云う馬鹿げた、臆病な女だろう。
(著物を脱ぎつゝ歌ひ始む。)
「昔ツウレに王ありき。
遺してひとりみまかりぬ。
こよなき宝の杯を
この杯ゆ飲む酒は
涙をさそふ酒なりき。
死なん日近くなりし時
国の
杯のみは
海に臨める
王は宴を催しつ。
これを
盛れる杯飲み干して、
その杯を立ちながら
海にぞ王は投げてける。
落ちて傾き、沈み行く
杯を見てうつむきぬ。
王は宴の果てゝより
飲まずなりにき雫だに。」
(著物を納めんと、箪笥を開き、小箱を見る。)
おや。どうしてこんな美しい箱が這入っているのだろう。
わたし錠は
本当に不思議だこと。何が入れてあるのだろう。
誰か
質に入れて置いたのかしら。
おや。ここに鍵が紐で縛り附けてあるわ。
わたし
まあ、これはなんだろう。
わたし生れてからついぞ見たことがないわ。
装飾品だわ。どんな貴婦人がどんな宴会へでも
附けて行かれるだろうと思うわ。
わたしにでも似合うかしら。
一体誰のだろう。
(装飾品を身に附けて鏡に向ふ。)
この耳輪だけでもわたしのだと
別の顔のように美しく見えるわ。
ほんとに若くても綺麗でもなんにもなりゃしない。
それだけでも好いには好いのだけれど、
人もそれだけにしきゃ思ってはくれない。
褒めるにでも気の毒がりながら褒めるのだもの。
みんなに附いて来られるのも、
ちやほやして貰われるのも、お金次第だわ。
わたしなんぞのように貧乏では
散歩
[編集]ファウスト物を思ひつゝあちこち歩みゐる。そこへメフィストフェレス来掛る。
メフィストフェレス
ええ。食っただけの肘鉄砲とでも云おうか。地獄の
あらゆる景物とでも云おうか。これより胸の悪い事はない。
ファウスト
どうしたのだ。腹でもひどく痛いのかい。
己は生れてからそんな顔をしている奴を見たことがない。
メフィストフェレス
わたしはもし自分が悪魔でなかったら、
すぐに悪魔にさらって行って貰いたい位です。
ファウスト
頭の中で何かが
気違のように跳ね廻るのは君の柄にはあるが。
メフィストフェレス
まあ、思っても見て下さい。娘に遣ろうと思って捜した、
あの装飾品は坊主がふんだくって行きました。
お袋があれを見附けるや否や、
なんだか気味が悪くなったのですね。
一体あの女はいやに鼻の利く奴で、
いつも讃美歌集を嗅いでいたり、
道具は一々鼻を当てて、これは神聖な物だ、
これは世間の物だと嗅ぎ分けたりするのです。
そこであの
附いていないのを、
お袋はこう云いました。「お前、筋の悪い品物は
持っていても気が詰まる。苦労になって血まで
これは聖母様にお上げ申そうね。
そうすると天の蜜を下さるから」と云いました。
すると娘は口を
「まあ、貰った馬は何とやらと云うことがある。
それに誰が神様に背くかと云うと、
あれを親切にここへ持って来た人ではあるまい。」
そこでお袋が坊主を呼んで来る。
坊主は話を聞くか聞かぬに、
もう
その
欲しい物をお
お寺の胃の腑は大丈夫でござります。
これまで国を幾つも召し上がっても、
ついぞ食傷はなさりませぬ。
筋の悪い品物を召し上がって消化なさるのは、
お前様方にわしが言うが、お寺ばかりだ。」
ファウスト
それは天下通用の遣方だ。
メフィストフェレス
坊主は腕輪や指輪や鎖なんぞを、
三文もしない物のように引っ手繰って、
礼も言わずに、
いずれ
女どもはそれを
ファウスト
そこでマルガレエテは。
メフィストフェレス
気が落ち著かぬと云う風で、
何がしたいか、どうしたいか、自分で自分が分からずに、
思い続けているのです。
ファウスト
あの娘がそう胸を痛めては可哀そうだ。
君すぐに外の宝を捜し出して遣り給え。
初のはそう大した物でもなかったから。
メフィストフェレス
そうでしょう。檀那様が見れば万事子供の戯だ。
ファウスト
そしてさっさと己の考通にして貰いたい。
先ず君があの隣の女を手に入れなくちゃいかん。
悪魔が粥のようにべたべたしていては困る。
外の装飾品を急いで持って来給え。
メフィストフェレス
へえへえ。お易い御用でございます。
(ファウスト退場。)
女にのろい男と云う奴は、その女のためになら、
月でも日でも星を皆でも、
暇潰しに花火のように打ち上げでもします。(退場。)
隣の女の家
[編集]マルテ一人登場しゐる。
マルテ
まあ、内の檀那さんに罰が
わたしを随分ひどい目にお逢わせなされた。
自分は世間へ飛び出しておしまいなされた。
不断腹をお
どんなにも大切にしてお
(泣く。)
事によったらもうお亡くなりなされたかも知れぬ。
鶴亀々々。せめて死亡証でも手に入ったら。
マルガレエテ登場。
マルガレエテ
おばさん。
マルテ
グレエテさんかえ。なんだい。
マルガレエテ
わたしびっくりして膝を衝いてしまいそうだったの。
またこんな箱がわたしの
あったのですもの。箱は黒檀でしょう。
中に這入っているものと云ったら、
こないだのより、もっと、もっと立派なの。
マルテ
そうかい。それはおっ母さんに言わないが
また
マルガレエテ
まあ、見て御覧なさいよ。それ。
マルテ(マルガレエテを装飾す。)
まあ、お前さんはなんと云う
マルガレエテ
だって、こうして往来へ出たり、お寺へ行ったりすることが
出来ないのだから、詰まらないわねえ。
マルテ
いつだってわたしの所へ来て、
そっと体に附けて見るが
そして暫くの間、鏡の前を往ったり来たりして御覧。
わたしが一しょに楽んであげるからね。
その中にはお祭かなんかで、好い折が出来ようから、
目立たないようにぼつぼつ体に附けて出るさ。
最初は鎖を掛けて出る。それから耳に真珠を
おっ
マルガレエテ
ねえ、おばさん。この箱を持って来たのは誰でしょう。
なんだか気味が悪いじゃありませんか。
(戸を
おや。大変だわ。おっ母さんじゃないでしょうか。
マルテ(窓掛を透し視る。)
知らない男の
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
失礼ですが、ずんずん這入ってまいりました。
どうぞ御免なさって下さいまし。
(マルガレエテに敬意を表して
マルテ・シュウェルトラインさんにお目に掛かりたいのですが。
マルテ
マルテはわたくしでございます。なんの御用で。
メフィストフェレス(小声にてマルテに。)
お前さんですか。こうしてお目に掛って置けば
お客様はどちらの令嬢ですか。
どうも飛んだ失礼をしましたね。
いずれ午過ぎにでもまた来ましょう。
マルテ(声高く。)
あら、まあ。グレエテさん。お
この方がお前の事をどこかの令嬢だろうとさ。
マルガレエテ
まあ。わたし貧乏人の娘なのに、
このお方がそんな事にお
飾は皆わたしの物でもないのに。
メフィストフェレス
いえ。御装飾品だけを見て云ったのではありません。
御様子と、それにお目が鋭いので。
このままいて宜しければ、こんな
マルテ
御用はなんですか。早く伺いたいもので。
メフィストフェレス
さよう。もっとめでたいお知らせだと好いが。
持って来たわたしが怨まれなければ好いと思うのですよ。
御亭主が亡くなりましたよ。お前さんに宜しくと云うことで。
マルテ
おや、まあ。とうとう亡くなりましたの。
可哀そうに。本当に亡くなったでしょうか。ああ。
マルガレエテ
まあ。おばさんしっかりなさいよ。
メフィストフェレス
まあ、気の毒な最期を聞いて下さい。
マルガレエテ
だからわたし生涯男は持たなくってよ。
亡くなった時どんなにか哀しいでしょう。
メフィストフェレス
マルテ
どうぞ亡くなった宿がどうなったかお
メフィストフェレス
あのパズアの聖アントニウスのお傍で、
極難有い場所に
葬って貰われて、
そこを永遠に冷たい
マルテ
その外には何もおことづかりなすったことはございませんか。
メフィストフェレス
まだ大したむずかしい事があるですよ。
お前さんに三百度のミサを読ませて貰いたいそうで。
それから
マルテ
まあ。諸国を廻る職人の徒弟でも、
飾の一つや、
それは
メフィストフェレス
どうもお前さんには実にお気の毒ですよ。
しかし実際無駄遣をしたわけでもありません。
自分でも悪かったと云って後悔していました。
そう。それよりも
マルガレエテ
まあ。人間は不為合のあるものでございますね。
わたくしもその
メフィストフェレス
お
宜しそうでございます。愛敬のおありになる
マルガレエテ
あら。まだなかなかそんな事は出来ませんわ。
メフィストフェレス
それは御亭主でなくても、
御交際なさるが
抱き合うばかりでも、世の中の
マルガレエテ
そんな事はこの土地ではいたさぬ事になっています。
メフィストフェレス
そうなっていても、いなくても、すれば
マルテ
もし。まだお話がございましょうか。
メフィストフェレス
ええ。息を引き取りなさる所に、
わたしは附いていましたが、五味溜よりは少し好い、
腐り掛かった藁の上でした。でも信者として
死なれましたよ。まだ大ぶ
そう云われましたっけ。「己は自分が
こんな渡世のお蔭で、女房をああして置いて死ぬるのだから。
ああ。思い出すと溜まらなくなる。
どうぞこの世で己の罪を
マルテ(泣きつゝ。)
可哀そうに。わたしはもう
メフィストフェレス
「だが神様が御存じだ。己より女房が悪かったのだ。」
マルテ
譃ばっかし。そんな事を。死際に譃を衝くなんて。
メフィストフェレス
へえ。わたしには余りよくは分からないが、
断末魔の
そう云いましたっけ。「己はうっかりぽんとしていたことはなかった。
子供は出来る、パンを稼ぎ出さなくてはならぬ。
パンも極広い意味のパンだからなあ。
そして落ち著いて己の分を食うことも出来なんだ。」
マルテ
まあ。あんなにわたしは
万事親切に世話をして上げたのを忘れてさ。
メフィストフェレス
いいえ。その事は
そう云いましたっけ。「マルタ島を立つ時は、
己は女房子供のために、
丁度首尾好くスルタンの
宝を積んだトルコの船を
こっちの船が
骨折甲斐のある
貰うだけの割前は
己も貰った。」
マルテ
まあ。どうしたでしょう。どこかへ埋めでもしたでしょうか。
メフィストフェレス
ところがそれを東西南北、どこへ風が飛ばしたやら。
ナポリへ著いて知らぬ町をぶらついているうちに、
綺麗首が
死ぬる日までもあの男の骨に応える、
結構なおもてなしをしたのですね。
マルテ
まあ、ひどい人だこと。孫子の物を盗んだのだよ。
どんなに落ちぶれても、困っても、
浮気は止まなかったのかねえ。
メフィストフェレス
そうですよ。だがその
まあわたしがお前さんなら、
ここの所一年程おとなしく喪に籠っていて、
そのうちそろそろ替の人でも捜すですね。
マルテ
そんな事を仰ゃっても、先の亭主のような人は、
世間は広いが、めったに見附かりません。
ほんに可哀い気前の男でござんした。
よその女やよその酒に
お
メフィストフェレス
なるほど、なるほど。そこで男の
ざっとその位大目に見ていたとすると、
随分旨い話でしたな。
そんな条件の附く事なら、わたしなんぞも
難有くあなたの御亭主になりますなあ。
マルテ
おや。御笑談ばかし仰ゃいます。
メフィストフェレス(独語。)
おっとどっこい。そろそろこの場を逃げなくては。
本物の悪魔の
(マルガレエテに。)
ところで、あなたのお胸の御都合は。
マルガレエテ
へえ。なんと仰ゃいます。
メフィストフェレス(独語。)
ふん。憎い程おぼこだなあ。
(声高く。)
いや。どなたも御機嫌好う。
マルガレエテ
さようなら。
マルテ
あの、ちょっと伺いますが、
宿がいつ、どちらで、どんな風に亡くなったと云う
書附がありましたらと存じます。
わたくしは何事も
出来ます事なら新聞にも書いてお
メフィストフェレス
なに、お前さん。証人が二人あれば、
どこでも言分は通ります。
わたしには
そいつが一しょになん時でも裁判所へ出て上げます。
そのうち連れて来ましょうよ。
マルテ
そんならどうぞそんな事に。
メフィストフェレス
ええと、このお嬢さんもここにおいでになるのですね。
わたしの友達は
御婦人方に失礼な事はいたしません。
マルガレエテ
あんな事を仰ゃるのですもの。お恥かしくて。
メフィストフェレス
いえ。王様の前へお出になってもお恥かしがりなさいますな。
マルテ
そんならあちらの奥庭で、お二人のおいでを
お待申しておりましょう。
街
[編集]ファウストとメフィストフェレスと登場。
ファウスト
どうだい。運ぶかい。近いうちにどうかなるかい。
メフィストフェレス
えらい。大ぶ気乗がして来ましたね。
もう程なくグレエテはお手に入ります。
隣のマルテと云う女の所で今晩お
持って来いと云う女ですよ。
ファウスト
旨いな。
メフィストフェレス
所でこちとらも物を頼まれましたよ。
ファウスト
それは魚心あれば水心だ。
メフィストフェレス
なに。その女の亡くなった亭主の
パズアの
法律上に有効な証書を書いて遣るだけです。
ファウスト
メフィストフェレス
サンクタ・シンプリチタスだ。神聖なるおめでたさ加減だ。
それに及ぶものですか。知らずに書いて遣るのです。
ファウスト
外に智慧が出ないのなら、その計画は廃案だ。
メフィストフェレス
いやはや。おえらいぞ。そこで
一体偽証と云うものをなさるのが、
こん度が
これまであなたは仰山らしく、神はどうだ、世界や
その中に動いている物はどうだ、人間やその心の中で
考えている事はどうだと、定義をお
しかもしゃあしゃあとして大胆にお下しになる。
好く胸に手を置いて考えて御覧なさいよ。
正直のところ、そんな事をシュウェルトラインと云う男の
死んだ事より確かに知っておいでになったのですか。
ファウスト
ソフィスト
メフィストフェレス
そのあなたの腹をもっと深く知らなんだら、
恐れ入るでしょうよ。あしたになると済まし込んで、
あのグレエテを騙すのでしょうが。
ファウスト
それは心から愛しているのだ。
メフィストフェレス
宜しい。
それから何物にも打ち勝つ、ただ一つの熱情だの、
永遠に
いろいろ並べるのも心からでしょうか。
ファウスト
その感じ、その胸の
なんとか名づけようとして、
そこで心の及ぶ限、宇宙の間を捜し廻った挙句に、
最上級の詞を
己の体を焚くような情の火を、
無窮極だ、無辺際だ、永遠だと云ったと云って、
それが悪魔もどきの譃事かい。
メフィストフェレス
それでもわたしのが本当です。
ファウスト
おい。これだけは覚えていろ。
頼むから、己の
誰と議論をする時でも、ただ一言しか言わずにいれば、
それは勝つに
そろそろ行こう。もう己も
君のが本当だとも。己は外に
園
[編集]マルガレエテはファウストの肘に手を掛け、マルテはメフィストフェレスに伴はれて、園内を往反す。
マルガレエテ
あなたわたくしをおいたわりになって、ばつを合せて
いらっしゃるかと存じますと、お恥かしゅうございますの。
旅をなさるお方のお癖で、詰まらない事をも
お
いろいろな目にお逢になったお方に、詰まらないお話が
お
ファウスト
あなたが、一目ちょいと見て、一言ちょいと言って下さると、
それが世界のあらゆる知識より面白いのです。
(女の手に接吻す。)
マルガレエテ
あら、我慢してそんな事をなさらないが宜しゅうございますわ。
こんな手にキスを遊ばして。こんな見苦しいがさがさした手に。
それはいたさなくてはならない
(行き過ぐ。)
マルテ
そしてあなたはこれからも旅ばかりなさいますの。
メフィストフェレス
ええ。どうも職業と義務とに追い廻されるので。
土地によっては立って行くのがつらいのですが、
居据わることが出来ないから
マルテ
それはお若いうちに、そんなに世界中をあちこちと
所嫌わずにお歩きになるのも好いでしょう。
でもいつかお年がお
おいでになるのは、どなただっておいやでしょうに。
メフィストフェレス
そうです。それが向うに見えるから不気味です。
マルテ
ですから早くそのお
(行き過ぐ。)
マルガレエテ
だってお目の前にいなくなれば、お
お世辞を仰ゃり附けていらっしゃるのですもの。
わたくしなんぞより物事のお分かりになるお友達に、
これまで度々お
ファウスト
マルガレエテ
ええ。
ファウスト
実に無邪気と罪のなさとが、自分を知らずに、
自分の神聖な値打を知らずにいるのが不思議です。
一体謙遜だの卑下だのと云うものこそ、博愛な
自然の
マルガレエテ
本当にあなたがちょいとの
下さいますと、わたくしは生涯お
ファウスト
あなたは一人でおいでの事が多いのでしょうね。
マルガレエテ
ええ。わたくし共の所は小さい世帯でございますが、
それでもどうにかいたして行かなくてはなりませんの。
女中はいませんでしょう。煮炊やら、お掃除やら、編物やら、
それは母あ様は何につけても
几帳面でございますから。
本当はそんな倹約をいたさなくても済みますの。
余所よりはよっぽど暮らして行き好うございますの。
父がちょいといたした財産と、町はずれに
庭の附いた小さな家を残してくれましたものですから。
でも此頃は大ぶ落著いて暮らす日がございますの。
兄は兵隊に出ますし、
妹は亡くなりますし。
随分わたくしあの赤さんには困りましたわ。
そのくせあの世話ならもう一度いたしたいと思いますの。
本当に可哀い赤さんでしたもの。
ファウスト
あなたに似たら、天使でしたでしょう。
マルガレエテ
わたくしが育てたものですから、好く馴染んでいましたの。
お
お
ですからおひだちになるのもじりじりでございましてね。
ですから赤さんにお乳をお上げなさることなんぞは
思いも寄らなかったので、
わたくしが一人で牛乳に水を割って
育てましたの。ですからわたくしの子になりましたの。
抱っこして遣ったり、膝に載っけて遣ったりいたすと、
嬉しがって、跳ねて、段々大きくなりましたの。
ファウスト
あなたはきっと人生の最清い幸福を味ったのです。
マルガレエテ
それでも随分つらい時もございましたわ。
夜になりますと、赤さんの寝台を
わたくしの寝台の傍に置いて、ちょいと動くと
目が醒めるようにいたして置きましたの。
お乳を飲ませたり、抱っこして寝たりしましても、
泣き
ゆさぶりながら部屋の中を歩きました。
それでも朝は早く起きて、お洗濯物をいたします。
それから市場へまいったり、煮炊をしたりいたします。
毎日毎日そんな
ですからいつも気が勇んではいませんでしたわ。
その
(行き過ぐ。)
マルテ
女は本当にどうして
一人が好いと仰ゃる方は手の附けようがないのですもの。
メフィストフェレス
わたしなんぞを改心させるのは、
お前さんのような
マルテ
打ち明けて仰ゃいよ。まだ好い人をお見附なさらないの。
もうどこかの人にお
メフィストフェレス
諺がありますね。「じまえの
マルテ
どこかでその気におなりになったでしょうと云うのですよ。
メフィストフェレス
ええ。随分方々で丁寧にしてくれましたよ。
マルテ
でも真面目にお気に入ったのはありませんかと云うのですよ。
メフィストフェレス
婦人方に笑談なんか云っては済みませんとも。
マルテ
あら。お分かりにならないのですね。
メフィストフェレス
どうも申しわけがありません。
兎に角あなたが御親切だと云うことは分かっています。
(行き過ぐ。)
ファウスト
わたしだと云うことが、庭へ這入った時
すぐに分かりましたか。
マルガレエテ
わたくしの俯目になったのがお分かりにならなくって。
ファウスト
そんならこないだお寺からお
御遠慮もしないで、厚かましい事をしたのを、
堪忍して下さるでしょうね。
マルガレエテ
今までついぞない事ですから、びっくりしましたわ。
わたくし悪い評判をせられた事はありませんでしょう。
ですからどこかわたくしの様子に下卑た、不行儀な
処のあるのをお
どうにでもなる女だと、
すぐお
申してしまいますが、その時はあなたが好いお
思う心持がし始めたのには、気が附きませんでしたの。
でももっとおこってお
ファウスト
可哀い事を言うね。
マルガレエテ
ちょっと御免なさいまし。
(アステルの花を摘み、弁を一枚一枚むしる。)
ファウスト
どうするの。花束。
マルガレエテ
いいえ。遊事ですの。
ファウスト
え。
マルガレエテ
(マルガレエテ弁をむしりつゝつぶやく。)
ファウスト
何を言っているの。
マルガレエテ(中音にて。)
お
ファウスト
可哀い顔をしていることね。
マルガレエテ(依然つぶやく。)
お好。お嫌。お好。お嫌。
(最後の弁をむしりて、さも喜ばしげに。)
お好だわ。
ファウスト
好だとも。その花の
神々の
お前分るかい。男に好かれていると云う意味が。
(ファウスト娘の両手を把る。)
マルガレエテ
わたくしなんだか体がぞっとしますわ。
ファウスト
そんなにこわがるのじゃない。このお前を視る目、
お前の手を握る手に、口に言われない事を
言わせておくれ。
わたしは命をお前に遣る。そして
永遠でなくてはならない
もしこの心持が消える時が来たら、絶望だ。
いや。消える時は無い。終は無い。
(マルガレエテ手を強く締めて、さて振り放し、走り去る。ファウスト立ち止まりて思案すること暫くにして、跡に附き行く。)
マルテ(登場しつゝ。)
もう日が暮れます。
メフィストフェレス
そうです。わたくし共は行かなくては。
マルテ
も少しお
何分人気の悪い土地で、
近所のもののする事なす事を見張っているより外、
誰一人自分の用事は
ないかとさえ思われるのでございます。ですからどんなに
気を附けても、兎角彼此申します。
あのお二人は。
メフィストフェレス
あの道を駆けて行きましたよ。
夏の小鳥のように元気な人達だ。
マルテ
あの方のお気に入ったようですね。
メフィストフェレス
娘さんも気があるらしい。世間はそうしたものですよ。
四阿
[編集]マルガレエテ飛び込み、扉の背後に
マルガレエテ
いらしった。
ファウスト登場。
ファウスト
横着ものだね。わたしを
そら
マルガレエテ
(抱き着き、接吻し返す。)
あなた。
メフィストフェレス戸を
ファウスト(足踏す。)
誰だ。
メフィストフェレス
お
ファウスト
畜生。
メフィストフェレス
そろそろお
マルテ登場。
マルテ
本当に遅くなりますよ。
ファウスト
送って行ってはいけないかい。
マルガレエテ
それこそ
ファウスト
行かなくてはならんかなあ。
そんならこれで。
マルテ
御機嫌好う。
マルガレエテ
こん度はお早くね。
(ファウスト、メフィストフェレス退場。)
まあ。ああ云う男の方と云うものは
いろいろな事にお気が附くこと。
わたしぼんやりして立っていて伺って、
何を仰ゃっても、はいはいと云うきりだわ。
わたし、まあ、なんと云う馬鹿な子だろ。
わたしのどこがお気に入るのかしら。(退場。)
森と洞
[編集]ファウスト一人。
ファウスト
崇高なる地の精。お前は己に授けた。己の求めたものを
皆授けた。
己に向けてくれたのも、
美しい自然を領地として己にくれた。
それを感じ、受用する力をくれた。ただ冷かに
境に対して驚歎の目を
許してくれたばかりでなく、友達の胸のように
自然の深い胸を覗いて見させてくれた。
お前は活動しているものの
連れて通って、森や虚空や水に棲む
兄弟どもを己に引き合せてくれた。
それから
折れた樅の大木が隣の梢、
隣の枝に傍杖を
その音が鈍く、うつろに丘陵に
お前は己を静かな洞穴に連れ込んで、己に己を
自ら省みさせた。その時己の胸の底の
秘密な、深い奇蹟が暴露する。
そして己の目の前に清い月影が己を
差し
湿った
己の観念の辛辣な興味を柔らげる。
ああ。人間には一つも全き物の与えられぬことを
己は今感ずる。お前は己を神々に
近く、近くするこの
己に
道連で、そいつが冷刻に、不遠慮に
己を自ら
そいつが己の胸に、いつかあの鏡の姿を見た時から、
烈しい火を忙しげに吹き起した。
そこで己は欲望から受用へよろめいて行って、
受用の
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
もう今までの生活は此位で沢山でしょう。
そう長引いてはあなたに面白いはずがありませんから。
それは一度はためして見るのも好いのです。
これからはまた何か新しい事を始めなくては。
ファウスト
ふん。己の気分の好いのに、来て己を責めるよりは、
君にだってもっと沢山用事があるだろうが。
メフィストフェレス
いいえ。御休息のお邪魔はしません。
そんな事をわたしに真面目で言っては困ります。
あなたのような荒々しい、不愛想な、気違染みた
友達は無くても惜しくはありません。
昼間中手一ぱいの用がある。
何をして
いつも顔を見ていても知れないのですから。
ファウスト
それが己に物を言う、丁度好い調子だろう。己を
退屈させて、お負にそれを
メフィストフェレス
わたしがいなかったら、あなたのような
この世界の人間はどんな生活をしたのですか。
人間の想像のしどろもどろを
わたしが当分起らぬようにして上げた。
それにわたしがいなかったら、あなたはもう
なんのためにあなたは
洞穴や岩の隙間にもぐっているのです。
なぜ陰気な苔や雫の垂る石に附いた
結構な、甘ったるい暇の潰しようだ。
あなたの体からはまだ学者先生が抜けませんね。
ファウスト
うん。こうして人里離れた所に来ていると、
生活の力が養われるが、君には分かるまい。
もしそれが分かっていたら、そんな幸福を己に享けさせまいと、
悪魔根性を出して邪魔をするだろう。
メフィストフェレス
現世以上の快楽ですね。
闇と露との間に、山深く寝て、
天地を
自分を神のようにふくらませて、
推思の努力で大地の髄を掻き
六日の
時としてはまた溢れる愛を万物に及ぼし、
下界の人の子たる処が消えて無くなって、
そこでその高尚な、理窟を離れた観察の尻を、
一寸口では申し兼ねるが、
(
これで結ぼうと云うのですね。
ファウスト
ふん。怪しからん。
メフィストフェレス
お気に召しませんかな。
御上品に「怪しからん」
潔白な胸の棄て難いものも、
潔白な耳に聞せてはならないのですから。
手短に申せば、折々は自ら欺く快さを
お味いなさるのも妨なしです。
だが長くは我慢が出来ますまいよ。
もう大ぶお
これがもっと続くと、陽気にお気が狂うか、
陰気に臆病になってお
もう沢山だ。あの子は内にすくんでいて、
なんでもかでも狭苦しく物哀しく見ていますよ。
あなたの事がどうしても忘れられない。
あなたが無法に可哀いのですね。
あなたの烈しい恋愛が、最初
あの子の胸に流し込んだ。
そこであなたの川は浅くなったのですね。
わたくし共の考では、檀那様が森の中の
玉座に据わっておいでになるより、
あの赤ん坊のような好い子に、惚れてくれた
御褒美をお
あの子は溜まらない程日が長いと見えて、
窓に立って、煤けた町の廓の上を、
雲の飛ぶのを見ています。
「わしが小鳥であったなら。」こんな小歌を
昼はひねもす
どうかするとはしゃいでいる。大抵は
ひどく泣き腫れているかと思えば、
また諦めているらしい時もあります。
だが思っていることはのべつですよ。
ファウスト
蛇奴が。蛇奴が。
メフィストフェレス
どうです。生捕られましたか。
ファウスト
悪党。もうここにいてくれるな。
そしてあの美しい娘の名を言ってくれるな。
半分気の狂いそうになっている己の心の中に、
あの娘の体を慕う欲望を起させては困るからな。
メフィストフェレス
どうしようと云うのです。娘はあなたが逃げたと
思っている。実際半分逃げ掛かっているのですね。
ファウスト
いや。実は己はやはりあいつの傍にいる。よしや、もっと
遠く離れていたと云って、己は忘れはせん、棄てはせん。
己はあいつの脣が触れるかと思うと、
メフィストフェレス
そうでしょうとも。薔薇の下で草を食っている
鹿の
ファウスト
もうどこかへ行け。口入屋奴。
メフィストフェレス
沢山悪口をなさい。わたしは
男と女とを拵えた神様も、
自分がすぐに
こんな好い
まあ、行ってお
何も死ぬる所へおいでなさいとは云わない。
ファウスト
それはあれを抱いているのは、天国にいるように嬉しいがな、
あいつの胸で温まっている間でも、
あいつの苦労を察して遣らずにはいられぬ。
己は亡命者ではないか。無宿ものでは。
己は
岩から岩を伝って
それにあの子はどうだ。子供らしい、ぼうっとした
心持で、脇へ避けて、アルピの野の小家に住むように、
家の中でする程の事は、
皆小さい天地の間に限られている。
それだのに、神に憎まれた己は、
岩々に打ち当って、
それを粉な粉なに砕いても
まだ
あの娘を、あの娘の平和を埋めねばならんのか。
地獄奴。これ程の犠牲が是非いるのか。
悪魔奴。どうぞ己のこの煩悶の期間を縮めてくれ。
どうせこうなると云う事を、すぐさせてくれ。
あの娘の運命が己の頭に落ち掛かって、
己を
メフィストフェレス
また煮え立って、燃え上がって来ましたな。
早く行って
兎角小さい頭だと云うと、一寸出口が知れないと、
すぐに死ぬることを考えたがる。
なんでも我慢し通す奴が万歳です。
あなたなんぞはもう大ぶ悪魔じみて来ていなさる。
絶望のために狼狽している悪魔程
不似合なものは、先ず世界にありますまいぜ。
マルガレエテの部屋
[編集]マルガレエテ一人
マルガレエテ
心の
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
彼人まさねば、いづかたも
世の中は皆なりにける。
物狂ほしくもなれるかな、
あはれわがこの
ちぎれ/\になりしかな、
あはれわがこの心。
心の落著なくなりて、
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
小窓よりわが見出だすは、
彼人
門の
彼人迎へに行くばかり。
ををしき彼人の歩みざま。
けだかき彼人の姿。
その脣の微笑。
そのまなざしの力。
その物語の
我手取りますそのみ手よ。
さて、あはれ、その
心の落著なくなりて、
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
胸の願は彼人に
そはんとおもふ外ぞなき。
わが
捉へまつり、止めまつらばや。
さて心ゆくまで彼人に
よしやわが身は彼人に
口附せられて消えぬとも。
マルテの家の園
[編集]マルガレエテとファウスト登場。
マルガレエテ
あなた、お
ファウスト
うん。なんでも誓う。
マルガレエテ
あのお宗旨の事はどう思っていらっしゃるの。
あなたは大層お優しい方のようですが、
お宗旨の事は格別に思っていらっしゃらないようね。
ファウスト
そんな事は措いてくれ。己がお前を好いていることは
分かるだろう。己は好いている人達のためには血も肉も
惜まない。またその人達の感情や宗教を奪おうとはしない。
マルガレエテ
あなたそれは悪いわ。お信じなさらなくては。
ファウスト
信ぜなくてはならんかなあ。
マルガレエテ
ほんにどうにかしてお
あなた秘蹟だってお
ファウスト
敬っている。
マルガレエテ
でも
ミサや
神様をお信じなすって。
ファウスト
ふん。一体誰でも「己は神を信ずる」と
云うことが出来ると思うかい。
司祭にでも聖人にでもそんな風に問うて見るが好い。
その返事はただ問うた人を
嘲るようにしか聞えはしないのだ。
マルガレエテ
ではお信じなさらないの。
ファウスト
おい。はき
一体神の
「己は神を信ずる」と
告白することの出来るものがあろうか。
また自分がそう感じて、
「己は信ぜない」と云うことを
敢てすることの出来るものがあろうか。
万物を包んでいるもの、
万物を
お前をも、己をも、自身をも
包んでいて、保たせて行くだろうじゃないか。
天はあんなに上の方で中高になっているじゃないか。
地はこんなに下の方で堅固になっているじゃないか。
そして永遠な星は優しい目をして
こうして己とお前と目を見合せていると、
あらゆる物がお前の頭へ、
お前の胸へと迫って来て、
永遠な秘密になって、見えないように
見えるようにお前の傍に漂っているではないか。
それをお前の胸へ、胸はどれ程広くても一ぱいに
なる程入れて、その感じで全き祝福を得た時、
それを幸福だとも、情だとも、愛だとも、神だとも、
お前の勝手に名づけるが好い。
己はそれに附ける名を知らない。
感じが総てだ。
名は天の火を
霞と声とに過ぎない。
マルガレエテ
あなたの仰ゃる事は皆美しい、結構な事で、
牧師様の仰ゃるのも大抵同じようですが、
お
ファウスト
それはあらゆる場所で
あらゆる心の人が天の日の光を享けて、
それぞれの持前の詞で言うのだ。
己だって己の詞で言って悪いというはずがない。
マルガレエテ
それはただ伺っていますと、かなり
やっぱりどこか間違っていますのね。
あなたクリスト教ではいらっしゃらないのですもの。
ファウスト
そんな事を。
マルガレエテ
あんなお友達のあるのが、
わたくし
ファウスト
どうして。
マルガレエテ
あのいつも御一しょにいらっしゃる
あの方がわたくし
あの方の厭らしい顔を見た時ほど、
胸を刺されるように思いましたことは、
わたくし生れてからありませんでしたの。
ファウスト
好い子だから、そんなにあいつをこわがるなよ。
マルガレエテ
なんだかあの方がいらっしゃると血が落ち着きませんの。
一体わたくしどなたをだって悪くは思わないのですが、
あなたの事をおなつかしく思いますと一しょに、
あの方がなんだか不気味でなりませんの。
それに横著な方かとも存じますの。
もし間違ったら、済まないのですけれど。
ファウスト
やはり世間にはあんな変物もいなくてはならないて。
マルガレエテ
わたくしあんな
いつも戸口から這入っていらっしゃって、
なんだか人を馬鹿にしたような顔をなすって、
それに少しおこっていらっしゃるようね。
まあ、人なんぞはどうなっても
誰をも可哀がりたくなんざないと云うことが
お顔に書いてありますようね。
わたくしあなたにお
体をお
あの方がいらっしゃると
ファウスト
ふん。不思議に察しの
マルガレエテ
そしてそう云う感じに負けてしまいますと、
あなたと二人でいる所へ、あの方が来たばっかりで、
もうあなたとの中が元のようでないように思われますの。
それにあの方のいらっしゃる所では、お
わたくし気になってなりませんの。
あなただってそんなお心持がなさるでしょう。
ファウスト
詰まり
マルガレエテ
もうわたくし行かなくちゃ。
ファウスト
ああ。ただの一時間も
落ち著いてお前と一しょになっていて、
胸と胸、心と心の通うようには出来ないのかなあ。
マルガレエテ
ええ。それはわたくし一人で休むのですと、
今晩錠を掛けないで置くのですが、
ひょっと
わたくしその場で死んでしまってよ。
ファウスト
それか。それは
ここに
不断飲みなさる物の中に入れれば、
好い心持に寐て、何も分からなくなるのだ。
マルガレエテ
それはあなたのためですもの、なんでもしてよ。
毒になりゃしませんでしょうね。
ファウスト
毒になるようなものなら、己がしろと云うものか。
マルガレエテ
わたくしなぜだかあなたのお顔を見ていると、
なんでも仰ゃる
わたくしもうあなたのためにいろんな事をしてしまって、
此上してお上げ申すことはないかと思うわ。(退場。)
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
餓鬼奴。行ってしまいましたね。
ファウスト
また立聞をしていたのか。
メフィストフェレス
ええ。すっかり聞いていましたよ。
先生箇条
どうです、跡のお心持は。
一体女と云う奴は、相手が昔流に信心深くて
素直だかどうだかと、気にして
宗教にへこむ奴なら、自分の言いなりにもなると思って。
ファウスト
ふん。君には分からないのだ。
これでなくては祝福を受けられないと云う、
自分だけの信仰をたっぷり持っている、
あの可哀らしい、誠実な女心に、
自分の一番大切だと思う男が失われた子になって
いはせぬかと、ひどく苦労をしているのじゃないか。
メフィストフェレス
いやはや。出世間で、しかも世間で、色気のある
壻様には困る。娘っ子が手の平で円めますよ。
ファウスト
糞と火とから生れた
メフィストフェレス
それに、あいつ奴、いやに人相に精しいと来ている。
己がいると、なんだか変な気持がする。
己のこの
あいつ奴、己が少くとも天才で、
事によったら悪魔だと、感附いていやがる。
いよいよ今晩ですね。
ファウスト
大きにお世話だ。
メフィストフェレス
いいえ。こっちにもそれが嬉しいのですからね。
井の端
[編集]水瓶を持ちたるグレエトヘン(マルガレエテ)とリイスヘンと。
リイスヘン
あなたバルバラさんの事を聞いて。
グレエトヘン
知らなくってよ。人の出る所へ行かないのですもの。
リイスヘン
本当なの。ジビルレさんがきょうそう云ってよ。
とうとう騙されちまったのだってねえ。
上品振った挙句だわ。
グレエトヘン
どうしたと云うの。
リイスヘン
評判だわ。
グレエトヘン
まあ。
リイスヘン
随分長くあの男に
やれ散歩に連れて行く、
そりゃ村の踊場へ連れて行くと云う風で、
どこでも一番の女だと見せ附けて、
葡萄酒やパテを御馳走してねえ。
だもんだから
男に物なんか貰うのを
恥かしいとは思わない程、根性が腐っていたのだわ。
いつの間にか生娘ではなくなっていたのね。
グレエトヘン
可哀そうねえ。
リイスヘン
あなたなんかそう思って。
わたしなんか
おっ
暗い廊下に立ったり、戸口のベンチに
掛けたりしていて、時が立っても平気だったわ。
その
お寺へ行ってあやまるが好いわ。
グレエトヘン
でもきっとあの人がお上さんに持つでしょう。
リイスヘン
そんな事をすれば馬鹿よ。気の利いた
男だもの。余所でも
もう行ってしまったって。
グレエトヘン
まあ、ひどい事ね。
リイスヘン
もしお上さんになったら、ひどい目に逢うわ。
若い衆達は髪の青葉を引っ手繰るし、
わたし達は門口へ
グレエトヘン(家に帰りつゝ。)
今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪
わたしもどんなにか
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う。
今は自分も犯しているのに。
だけれど、だけれど、それまでになる道筋は、
まあ、あんなに好かったのに、あんなに美しかったのに。
外廓の内側に沿える巷
[編集]石垣の中に作り込めたる
グレエトヘン
どうぞお恵深く、お顔をこちらへお
わたくしの
お胸を刃に貫かれておいでなされ、
ちぢの
天にいます父をお
わたくしの骨々に
いかに
誰が覚えてくれましょう。
何をほしがっておりますか、
それを御承知なさるのはあなたばかりでございます。
どこへまいりましても、
胸のここがどんなにか
せつなく、せつなく、せつのうございましょう。
人目がないと思う度に、
胸が裂けるかと思う程、
泣いて、泣いて、泣き通します。
さし上げまするこの花を
けさわたくしが折った時、
窓の前の植木鉢が
わたくしの涙で濡れました。
わたくしの部屋の内へ
朝日が明るくさし込みます時、
わたくしはもう床の上で
悩に沈んでおりまする。
どうぞわたくしが恥と死とを逃れますように。
痛おおきマリア様、
どうぞお恵深く、お顔をこちらへお向遊ばして、
わたくしの悩を御覧なされて下さいまし。
夜
[編集]グレエトヘンが家の門前の街。
グレエトヘンの同胞兵卒ワレンチン登場。
ワレンチン
誰でも兎角自慢をしたがる
酒の
友達どもが声高に
町の娘の噂をして、
その褒詞を肴にして飲んでいると、
己は気楽に据わっていて、
頬杖を衝いて、
笑って鬚を撫でながら、
みんなの
先ず杯になみなみと注がせて、
それからこう云ったものだ。「それはそんな娘もあろう。
だがな、国中捜して歩いたって、
内の可哀いグレエテルのような奴が、
あの妹のお給仕でも出来る奴がいるかい。」
声が掛かる。コップが鳴る。一座がざわつく。
「そうだ。あれは女性の飾だ」と、
声を揃えて身方がどなる。
褒めた奴等が皆黙ったものだ。
それがどうだ。頭の髪を掻きむしっても、
壁に這い登っても追っ附かない。
どの恥知らずでも、鼻に皺を寄せたり、
己は筋の悪い借金でもある奴のように、小さくなって
据わっていて、人の詞の端々に冷たい汗を掻かせられる。
片っ端からそいつらをなぐってでも遣りたいが、
どうも
や。遣って来るのは、這い寄って来やがるのはなんだ。
この目がどうかしていなけりゃあ、あいつ等は二人連だな。
あいつがそなら、引っ
この場を生かしては逃さないぞ。
ファウストとメフィストフェレスと登場。
ファウスト
丁度あの寺の坊主の休息所の窓から、
常燈明の火がさしていて、
それが窓を離れるに連れて段々微かになって、
闇が四方から迫って来るように、
丁度あんな工合に、己の胸は闇に鎖されている。
メフィストフェレス
所がわたしの心持は、あの
そっと家の壁に附いて忍んで行く、
あの痩猫のような心持ですね。
あるにはあるが、先ず大体
なんだかこう節々に、結構な
ワルプルギスの夜の
もうあさっての晩がそれなのだ。
兎に角寐ずにいる甲斐のある晩ですからね。
ファウスト
あの遠い所に火が燃えているなあ。あの下で
例の宝がそろそろ地の底から迫り上げて来るのかい。
メフィストフェレス
ええ。もう遠からず壺をお
お
こないだちょっと覗いて見たら、ボヘミアの紋の
獅子の附いた、立派な金貨が這入っていました。
ファウスト
可哀い奴の支度にいる
指環とか髪飾とか云う物はないのかい。
メフィストフェレス
そうですね。なんだかこう真珠を繋いだ
紐のような物が見えましたっけ。
ファウスト
何かそんな物がなくては困るよ。
手ぶらで行くのは苦になるからなあ。
メフィストフェレス
そうでしょう。
あなたが
空に星の一ぱい照っている、今夜のような晩だから、
わたしが一つ真の芸術らしい処を聞せて上げましょう。
わたしは女に道徳的な文句を歌って聞せて、
あべこべに迷わせて遣るのですよ。
(キタラの伴奏にて歌ふ。)
夜の明け掛かる今時分
可哀お
カタリナ、お前は
何していやる。
そりゃ
娘で這入る。
娘では出て来ないぞえ。
気をお
済んでしまえば
おさらばよ。
気の毒な、気の毒な娘達。
自分の体が大事なら、
花盗人に
油断すな、
指環を
ワレンチン(進み出づ。)
こら。誰をおびき出すのだ。怪しからん。
その鳴物を先へこわして、
跡から
メフィストフェレス
しまった。キタラは二つになった。
ワレンチン
こん度は頭を割って遣る。
メフィストフェレス(ファウストに。)
先生。
わたしが遣って見せるから、ぴったり附いておいでなさい。
その
それお
ワレンチン
これでも受けるか。
メフィストフェレス
受けないでどうする。
ワレンチン
これもか。
メフィストフェレス
こうだ。
ワレンチン
や。相手は悪魔かしら。
こりゃどうだ。もう手が
メフィストフェレス(ファウストに。)
お突だ。
ワレンチン
参った。(倒る。)
メフィストフェレス
これで野郎おとなしくなりました。
ところでもう行かなくては。早速消えてしまわないと、
今におそろしく騒ぎ立てますからね。
わたしは警察をごまかすことは上手だが、
命を取られる裁判に引き出されるのは
マルテ(窓より。)
大変です。皆さん。
グレエトヘン
どなたか
マルテ(同上。)
大声で喧嘩をして
民
そこに一人は死んでいらあ。
マルテ(門より出でつゝ。)
殺した人は逃げましたの。
グレエトヘン(出でつゝ。)
殺されたのはどんな人。
民
お前のおっ
グレエトヘン
まあ。わたしどうしよう。
ワレンチン
おい。己は死ぬるのだ。口に言うのは一口で、
実際遣るのは
おい。女子達。そこに立っていて泣いたりわめいたりするな。
こっちへ来て、己の言うことを聞いてくれ。
(一同ワレンチンを取り巻く。)
おい。グレエトヘン。お前はまだねんねいで、
好く物事が分からない。
それでまずい事をするのだ。
己はほんの
兎に角お前はばいただよ。
それでまた丁度好いのだ。
グレエトヘン
まあ、
ワレンチン
よまい言を言うのは
出来た事は
これから
最初は
間もなく相手の数が殖える。
もう一ダアスとなって見ると、
お前は
それから恥の
人に隠してこっそり産んで、
頭の上からすっぽりと
闇の
悪くすると殺して遣りたいとさえ思うのだ。
それが育って大きくなると、
昼日中にも外へ出るが、
格別立派にはなっていない。
そのうち顔も醜くなるが、なればなる程
厚かましく、人中に出るようになる。
それ、ばいたが来たから
真面目な人が皆避けるのが、
もう己の目には見えるようだ。
人が顔をじっと見ると
お前の胸がびくびくする。
美しいレエスの領飾をして、
踊場で楽むことも出来ない。
乞食や片羽と一しょになって、
暗い
よしや神様はお
この世界では
マルテ
お前さん。自分の霊をお
そんな悪口などを跡に遺さずに。
ワレンチン
へん。恥知らずの口入婆々あ奴。
己はその萎びた体に攫み附いて遣りたいのだぞ。
そうすりゃあ、己の罪滅しが
たっぷり出来るわけだがなあ。
グレエトヘン
まあ、
ワレンチン
お前が名誉を棄てた時、己のこの胸は
一番痛手を負ったのだ。
己はこれでも軍人で、立派に死んで
天へ行くのだ。(死す。)
寺院
[編集]勤行、オルガン、唱歌。
多勢の中にグレエトヘン。その背後に悪霊。
悪霊
どうだ。グレエトヘン。
お前がまだ極無邪気で、
あの
半分は子供の戯、
半分は心の信仰から、
古びた本を繰り
讃美歌を歌った時はどうだった。
グレエトヘン。
お前の頭はどうなっている。
お前の胸に隠しているのは
なんと云う
お前の
死んで行かれた母親の霊のために祈るのか。
お前の家の門の閾は誰の血に
それからお前の胸の下で
未来を思い遣り顔に自ら悩み、
お前をも悩ませる物があるではないか。
グレエトヘン
ああ、せつない。ああ、せつない。
心の中を往ったり来たりして
わたしを責める、
この物思は忘れられぬか。
合唱者
ジエス・イレエ・ジエス・イルラ・
(怒之日。彼)
ソルウェット・セエクルム・イン・ファウィルラ。
(渙二散世界一作二灰燼一之日。)
(オルガンの響。)
悪霊
そしてお前の心の臓は
灰の眠から
再び造り成されて、
グレエトヘン
わたしはここにいたくない。
あのオルガンの音がわたしの息を
詰まらせるようで、
あの歌の声がわたしの心を
底まで解かしてしまうような。
合唱者
ユウデックス・エルゴ・クム・セデビット、
(判官既坐。則)
クウィットクウィット・ラテット・アドパアレビット、
(一切隠匿。
ニル・イヌルツム・レマネビット。
(無下事不二報復一。而遺存者上。)
グレエトヘン
ああ。身が締め附けられるような。
四方から寄って来て、
天井が
上から圧さえ附けるような。ああ。息が。
悪霊
身を隠せ。罪や辱は
隠し
息が詰まるか。目が
気の毒なやつめ。
合唱者
クウィット・ズム・ミゼエル・ツンク・ジクツルス。
(爾時陋者我。欲二何言一。)
クウェム・パトロオヌム・ロガツルス。
(爾時我尋二求何庇保者一。)
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス。
(何則正者猶且不二自安一也。)
悪霊
聖者達はお前に
お顔をお
浄い人はお前の手を握ろうとして
気の毒な。
合唱者
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス。
グレエトヘン
お隣の
ワルプルギスの夜
[編集]ハルツ山中。シイルケ、エエレンド附近。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス
どうです。箒の柄どもが欲しくなりはしませんか。
わたしも極丈夫な
この道をまだよほど歩かなくてはなりませんからな。
ファウスト
己は足の
この
道を縮めたって、なんになるものか。
谷合の曲りくねった道を辿って来て、
不断の泉の
この岩に
こう云う道を歩く人には、薬味のように利くのだ。
もう春が白樺の梢に色糸を
樅でさえ春の来たのに気が附いたらしい。
己達のこの手足にも利目が見えて来そうなものだが。
メフィストフェレス
わたしなんぞはちっとも感じませんなあ。
この体はまだ冬らしい心持がしています。
わたしの歩く所には雪や氷があれば好いと思うのです。
どうです。あの光の薄い、欠けた、
赤い月が
照しようをするので、一足毎に
木や石に躓きそうでなりません。
お
旨く燃えている奴が、あそこに一ついます。
こら。友達。己の方へ来て貰おうか。
何も無駄に燃えていなくったって好いじゃないか。
どうだい。頼むから、あっちへ登る案内をしないか。
鬼火
檀那が仰ゃるのですから、ひょこひょこする性分を
なるたけ直して遣って見ましょう。
でも稲妻
メフィストフェレス
いやはや。それは人間の真似の
一つ奮発して真っ直に行って貰おう。
そうしないと、その命の火を吹き消して遣るぞ。
鬼火
大ぶ檀那
それは仰ゃるとおりにいたして見ますが、
一寸お断申して置かなくては。何分きょうは
気の違ったようになっているのに、鬼火の御案内では、
少しの事は大目に見て戴かなくてはなりますまい。
ファウスト、メフィストフェレス、鬼火(交互に歌ふ歌。)
夢の中、
われ等入りぬと覚ゆ。
善く導きて、名をな
さらばこの広き
われ等
森の木々の
うしろざまに走り過ぐ。
おなじさまに走り過ぐ。
石を
広き川、狭き川流れ落つ。
聞ゆるは
優しき恋の
あはれわれ等、何をか願ひ、何をか恋ふる。
さて過ぎぬる世の物語と
わしみみづくの声近づきぬ。
ふくろふ、たげり、かけす等も、
皆いまだ眠らでありや。
おどろが
出づる木の根は、蛇の
怪しげなる帯を引きて、
われ等を怖れしめ、捉へんとす。
こは生きて動ける大いなる
道行く人を遮らんと、さし伸ぶる
毛の色ちゞに変れるが、群なして
苔の上、小草の上を馳す。
群毎にひたと寄りこぞりて
飛び行く蛍は、
人迷はせの導きせんとす。
はた
物皆
みる/\殖え、みる/\ふくらむ
あまたの鬼火も。
メフィストフェレス
わたしの上著の裾を
ここが中の峠と云うような所で、
山の中で地の底の
驚くほど好く見えますよ。
ファウスト
あの谷底が、朝日の升る前のような、
濁った光に照っているのが不思議だなあ。
しかもその光が底の、底の
深い穴までさし込んでいる。
蒸気のすぐに立つ所も、棚引いている所もある。
その火が糸のように細く這って行くかと思うと、
幾百条の脈の網のように、あの谷の
広い間を
この
忽ち離れて一つになっている。
そこにはまた近い所に、
振り
だがあれを見給え。あの岩壁は一面に、
下から上まで燃えているじゃないか。
メフィストフェレス
埋もれている
御殿の中へ立派に明を附けたのでしょう。
お目にとまったのは、あなたのお
這入りたがる客の多いのが、わたしには分かるようだ。
ファウスト
どうだ、この気の狂ったように空を吹いて通る風は。
己の
メフィストフェレス
そこの
あなた谷底へ吹き落されてしまいますぜ。
霧が立って夜闇の色を濃くして来た。
あの森の木のめきめき云うのをお
お
柱が砕けているのです。
枝がきいきい云って折れる。
幹はどうどうと大きい音をさせる。
根はぎゅうぎゅうごうごう云う。
上を下へとこんがらかって、
みんな折れて倒れるのです。
そしてその屍で掩われている谷の上を
風はひゅうひゅうと吹いて通っています。
あなた、あの高い所と、
遠い所と、近い所とにする声が聞えますか。
この山を揺り
おそろしい魔法の歌が響いていますね。
合唱する魔女等
ブロッケンの山へ魔女が行く。
苗は緑に、刈株黄いろ。
おお勢そこに寄って来る。
ウリアン様が辻にいる。
木の根、岩角越えて行く。
魔女は□をこく。
声
バウボ婆あさんがひとりで来ましたね。
合唱者
人柄次第で崇めにゃなるまい。
バウボのおば御に
大きな豕だよ。お負に身持だ。
ぞろぞろ跡から附いて
声
お前、どの道を来たのだえ。
声
イルゼンスタインを越して来た。
通り掛かりに梟の巣の中を覗いて見たら、
大きな目玉をしていたよ。
声
人を馬鹿におしでない。
なんだってそんなに急ぐの。
声
わたし爪で引っ掻かれてよ。
それこの
合唱する魔女等
道は遠いが広さも広い。
おし合いへし合いせいでも
熊手が
赤子は
男の魔。半数合唱
こっちは
女はお先へ御免と出掛ける。
悪魔の所へ見まいに
いつでも女が
他の半数
それにはこっちは格別構わぬ。
女が小股に
勝手に急げと、はたから見ていて、
一
声(上にて。)
おいでよう。岩淵からもおいでよう。
声々(下より。)
わたし達も上がって
水を浴び通しで、体はこんなに綺麗なの。
だが赤ん
双方の合唱者
風は吹き息む。星奴は逃げ出す。
兎角曇った月奴は隠れる。
魔法の
虚空に数千の火花が飛び散る。
声(下より。)
おうい。待ってくれ。
声(上より。)
岩の割目から呼ぶのは誰だい。
声(下より。)
己を連れて行ってくれ。連れて行ってくれ。
己はもう三百年掛かって登っているのだが、
どうしても峠に
仲間と一しょになりたいがなあ。
双方の合唱者
杖も載せるし、帚も載せる。
山羊も載せるし、熊手も載せる。
今夜上がられないのなら、
浮む瀬のない男だぞ。
半成魔女(下より。)
わたしちょこちょこ追っ掛けるのが、もう久しい事なの。
皆さんもうあんな遠い所を
内にいては気が済まないし、
来ても仲間には這入られないのだもの。
合唱する魔女等
どんな
あり合う
きょう飛ばないなら、飛ぶ日はないぞよ。
双方の合唱者
こっちが峠を廻って飛ぶ時、
勝手に地びたをいざってまごつけ。
見渡す限の草原に
今来てひろがる魔女の群。
(皆々降りて
メフィストフェレス
押し合ったりへし合ったり、すべったり、がたついたり、
しゅっしゅと云ったり、廻ったり、引っ張ったり、しゃべったり、
光ったり、火を吹いたり、燃えたり、臭い物を出したり、
これがほんとの魔女の世界だ。
ぴったり附いておいでなさい。すぐはぐれますよ。
どこです。
ファウスト
ここだ。
メフィストフェレス(遠方にて。)
もうそこまで押されたのですか。
ちっと檀那
おい。通せ。ウォオランド様だぞ。通せ。好い子だ。通せ。
さあ先生、お攫まりなさい。そこで一飛に
この
わたしなぞでさえ辟易しますよ。
あそこになんだか妙な色に光っていますね。
あの小さい木の茂った所へ行って見たいのです。
さあ、おいでなさい。ここを抜けて行きましょう。
ファウスト
だが随分気の利いた遣方だと思うよ。
ワルプルギスの晩にブロッケン山へ来て、
勝手にこんな方角へ避けてしまうと云うのは。
メフィストフェレス
まあ、御覧なさい。いろんな色の火が燃えています。
面白そうな集会を遣っています。
人数は少くても、一人ぼっちになるのではありません。
ファウスト
しかし己はあの上の方へ
もう火や渦巻く烟が見えている。
今おお勢が悪魔の所へ寄る時なのだ。
あそこへ行ったら、いろんな疑問が解けそうだ。
メフィストフェレス
ところがまた新しい疑問も結ぼれて来るのです。
まあ、おお勢はあっちでがやがや云わせて置いて、
御一しょにこっちの静かな所にいるとしましょう。
大世界の中に、幾つも小世界を拵えるのが、
昔からの習わしですからね。
そこに若い魔女が真っ裸になっていて、
年を取ったのが巧者に体を包んでいるでしょう。
まあ、
労少くして功多しと云う奴です。
おや。何か
さあ、おいでなさい、おいでなさい。外に
わたしが連れて行って、仲間入をさせて、
新しい縁を結ばせて上げます。
どうです。なかなか狭い
あっちを御覧なさい。どこまで続いているか知れません。
百箇所も火が並んで燃えています。
踊を踊る、しゃべくる、物を煮る、酒を飲む、色をする、
考えて御覧なさい、どこにもこれより
ファウスト
そこで己を引き合せるには、
君は魔法使とか悪魔とかになって見せるのかい。
メフィストフェレス
それはわたしは不断微行が
勲章のと違って、
蹄のある馬の足はここではもてます。
あの
わたしが只の奴でないのを、あの触角の尖の目で
もう嗅ぎ附けやがったのですね。
どうもここでは隠れていようと思っても駄目ですね。
さあ、おいでなさい。
わたしが媒で、あなたが壻さんだ。
(消え掛かる炭火を囲める数人に。)
どうです、御老人
ちっときばって真ん中の方へ出て、若い奴等の
飲んで騒ぐ仲間にお這入なされば好いに。ぼんやり
寂しくしていることは内ででも出来ますからね。
将軍
まあ、どこの国でどれだけの功があっても、
国民に依頼していることは出来ないな。
民心と云うものも女の心と同じ事で、
兎角年の若い奴を
宰相
此頃は輿論が大ぶ保守から遠ざかっているが、
己なんぞはやっぱり老成者の身方だ。
己達が無条件に信任せられていた時代が、
兎に角真の黄金時代だったて。
暴富家
わたしどももぼんやりしてはいないから、
随分して悪い事をしたこともありまさあ。
ところが丁度我々が逆に取って順に守ろうと
思う頃になって、世間が丸でわやになりました。
著作家
もう昨今かなり気の利いた事の書いてある
本が出ても、誰も読むものはありません。
青年どもが此頃のように
先ず古来無かっただろうと思いますね。
メフィストフェレス
(
さようさ。わたくしもブロッケンへお暇乞に登りましたが、
もう世は
なんでも内の酒が樽底になって来ると、
世の中も
古道具を売る魔女
どなたもそうさっさとお
買物は
品物を好く御覧なさいまし。
ここにいろんな物がございます。
そのくせ世間に類のある品や、
人間のため、天下のために、
一度も大した禍をしたことのない品は、
一つだってありませんよ。
血を流したことのないような
大丈夫でいた体へ、命を取る、熱い毒を
注ぎ込んだことのないような杯もございません。
身方を殺すとか、敵を暗打にするとか云う時、
用に立たなかった
メフィストフェレス
おい。おばさん。お前さんは時代が分からないのだ。
出来たことは出来たのだ。した事はしたのだ。
なんでも
新ものでなくては、こっちとらは買わない。
ファウスト
どうも自分で自分が分からなくならねば好いが。
己達は市にでも来ているのかなあ。
メフィストフェレス
この渦巻いている群集が皆升りたがって押すのだから、
あなた人を押す
ファウスト
そいつは誰だい。
メフィストフェレス
好く御覧なさい。
リリットです。
ファウスト
誰だと。
メフィストフェレス
アダムの先妻です。
あの綺麗な髪と、自慢そうに附けている、
あの、たった一つの飾とに、気をお著けなさいよ。
あれを餌にして若い男を攫まえようものなら、
めったに放しっこはありませんからね。
ファウスト
あれ、あそこに婆あさんと娘とが据わっているが、
あいつらはもう大ぶ踊り
メフィストフェレス
なに。きょうは草臥れなんかしませんよ。
また踊る気でいまさあ。おいでなさい。踊らせましょう。
ファウスト(娘と踊りつゝ。)
いつか
一本林檎の木があった。
むっちり光った
ほしさに登って行って見た。
美人
そりゃ天国の昔から
こなさん
わたしの庭にもなっている。
メフィストフェレス(老婆と。)
いつだかこわい夢を見た。
そこには割れた木があった。
その木に□□□□□□があった。
□□□□けれども気に入った。
老婆
足に蹄のある
踊るは冥加になりまする。
□□がおいやでないならば
□□の用意をなさりませ。
咀われたやつ
幽霊には決して立派な脚があってはならんと、
学者が
我々
美人(踊りつゝ。)
あの
ファウスト(踊りつゝ。)
あれかい。あれはどこへでも来る奴だ。
人が踊れば、それに
あれが
踏んでも踏まなかったと同じ事なのだ、
前の
あいつの内の水車で粉をひくように、
一つ所を踊って廻っていると、
まあ、かなり気に入るのだ。
なんとか言われた礼を云って遣れば猶更だが。
臀見鬼人
おや。まだ平気で遣っているな、
消えてしまえ。人智
悪魔の同類奴。物に法則があるのを知らんか。
こんなに世が開けたのに、テエゲルにはお
己の帚で迷信の塵をいつまで払き出せば好いのだ。
綺麗になる時はないのか。怪しからん。
美人
そんな事を言ってわたし達をうるさがらせちゃいや。
臀見鬼人
なに。己は貴様達化物共に面と向かって言うぞ。
化物の圧制を受けて溜まるものか。
はてな。己の力で取締まることは出来んかしらん。
(踊る人に押し除けらる。)
この様子ではきょう己は成功しないな。
兎に角
己が最後の一歩をするまでには、悪魔も
詩人も退治して遣るようにしたいものだ。
メフィストフェレス
今に、あいつ、水たまりに尻餅を
そうして気持を直すのが、あいつの流義です。
蛭が尻っぺたに
あいつは悪魔の祟も智恵の病も直るのです。
(踊の群と離れたるファウストに。)
踊りながらあんな可哀い声で歌っていた、
あの娘をなぜ放してしまったのですか。
ファウスト
でも踊っている最中に、あいつの口から
赤い鼠が飛び出したものだから。
メフィストフェレス
そう云う奴でしたか。そんな事を気にしてはいけません。
鼠色の鼠でなけりゃあ結構じゃありませんか。
二人で楽んでいながら、そんな
ファウスト
それにちょいと目に附いたものが。
メフィストフェレス
なんです。
ファウスト
あれ、あそこに
美しい、色の蒼い娘が一人離れているだろう。
歩くにひどく手間の取れるのを見ると、
本当の事を言えば、どうもあれが
可哀いグレエトヘンに似ているようだがな。
メフィストフェレス
打ち遣ってお
あれはまやかしです。影です。生きていやしません。
あいつに出くわしては溜まりません。
それ。メズザの話をお
あのじっと見ている目で見られると、人の血が
凝り固まってしまって、人が石になるのです。
ファウスト
そうさな。なるほどあの目は、死んだ時親類が
あの胸は己に押し附けたグレエトヘンの胸で、
あの体は己を楽ませてくれたあれが体だ。
メフィストフェレス
それがまやかしです。そんなにすぐ騙されては困ります。
誰の目にもその人の色のように見えるのです。
ファウスト
でも己は嬉しいようなせつないような気がして、
あの目を見ずにいることは出来ないのだ。
それに妙なのはあの美しい頸の頸飾だな。
小刀のみねより広くないような、
赤い紐が一本巻いてあるなあ。
メフィストフェレス
そうです。わたしにも見えています。
ペルセウスに切られた首ですから、
肩から卸して手に持つことも出来ます。
そういつも物に迷わされたくては困ります。まあ、
この岡の
ちゃんと芝居まで出来ている。
おい。何を遣っている。
口上いい
へえ。すぐ跡の
新作です。七つ出す内の七つ目です。
その位の数を出すのが、この土地の風でしてね。
これは作者もしろうとで、
役々もしろうとがせられます。
失礼ですが、ちょいと御免を蒙ります。
幕を開けなくちゃなりませんから。
メフィストフェレス
お前がたにこのブロッケンで出くわしたのは
至極好い。ここがお前
ワルプルギスの夜の夢
[編集]一名
オベロンとチタニアとの金婚式
(
座長
道具
きょうはあなた方はお
古い山に湿った谷が
そのまま舞台になりますから。
先触
金婚式をいたすには
五十年立たなくてはなりません。
それよりはお二人の夫婦喧嘩の
わたしには
オベロン
こら。眷属ども。己のいる所にいるのなら、
今が見せる時だ。
お前達の王が改めて
パック
そこへパックが飛んで出て、くるりと廻って、
持前の踊の足を踏みまする。
そのわたくしの跡からは、一しょにここで楽もうと、
百人ばかり附いて来ます。
アリエル
さて天楽のような声で
このアリエルが歌い出します。
歌の
中には綺麗な首もあります。
オベロン
夫婦中好く暮らしたければ、
己達の真似をするが好い。
互に恋しがらせるには、
二人を別けて置くに限る。
チタニア
夫がすねたり、女房がおこったりすると見たら、
手ばしこく
男は南、女は北の
空の
ツツチイの演奏団
(最も強く。)
蠅の
それからそいつの眷属
木の葉におるは雨蛙、草の蔭のは
これがわし等の楽人だ。
独吟
見ろ。あそこから木笛が来る。
低い鼻から出る声は
シュネッケ・シュニッケ・シュナックだ。
修養中の霊
小さい奴だが羽はある。
子は生まないが、
詩なら生む。
めおとづれ
蜜の露踏み、
小股大股、並んで歩く。
ちょこちょこあるきは精出すが、
飛んで
物好の旅人
こりゃあ仮装舞踏じゃないか。
オベロン様と云うのは美しい神様のはずだが、
きょうこんな処へおいでになったかなあ。
己の目がどうかしているのじゃあるまいか。
正信徒
爪もなけりゃあ、尻尾もないが、
やっぱりグレシアの神どもと同じ事で、
疑もなく
あいつも悪魔だ。
北国の芸術家
己が今手を著けるのは
無論習作に過ぎんのだが、
いずれそのうちイタリア旅行の
支度に掛かるよ。
浄むる人
己は飛んだ所へ来たものだ。
ここでは皆
このおお勢の魔女の中で二人しか
ちゃんと化粧をしてはいない。
若き魔女
おつくりをして著物を著るのは、
白髪頭の婆あさんの事よ。
わたし裸で
この
子持女
へん。ここでお前達と喧嘩をする程、
不行儀なわたしどもじゃないがね、
その若い、すらりとした、自慢の姿のままで、
お前達は腐ってしまいなさるが
楽長
蠅の嘴、蚊の鼻梁。
裸の女を取り巻くな。
木の葉に止まる雨蛙も、草むらにいる蛼も、
間拍子をまちがえるな。
風信旗(一方に向きて。)
願ってもない
よめ入盛の
男の
末頼もしい婿さんばかりだ。
(他方に向きて。)
もしこれでこの土地が口を
こいつらをみんな呑み込んでしまわなけりゃあ、
己は自分が駆足で
すぐ地獄へ飛び込んでも好い位だ。
クセニエン
わたし共は小さい
虫になって来ています。
身分相応に悪魔のお
お気に入るような事をいたす
記者ヘンニングス
どうだ、あの一つかたまりに引っ附き合って、
無邪気そうにふざけている様子は。
あれで随分情知だとも
云い兼ねないのだからな。
年報ムサゲット
実は己もこの魔女どもの中へ
一しょに交ってしまいたいのだて。
こいつ等を詩の女神にして持ち出すことなら、
己にも随分出来そうだからな。
なんにでもなれる。己の裾に攫まれ。
ブロッケンでもドイツのパルナッソスでも
山の上はなかなか広いからな。
物好の旅人
おい。あのぎごちない風をしている男は誰だい。
高慢ちきな歩附をして、なんでも
嗅ぎ出されるだけの事を嗅ぎ出そうとしている。
イエズイイトの捜索でもするのだろうか。
くろづる
わたくしは澄んだ川で釣るのが
濁った川でも釣らないことはありません。
ですから堅固な男が悪魔に交っていても、
何も不思議がりなさるには及びませんよ。
世慣れたる人
譃じゃありません。正しい信者には
凡ての物が方便です。
ですからこのブロッケンの山ででも
方々にこっそり寄り合っていまさあ。
踊の群
おや。あっちから新しい連中が来ますね。
遠くに太鼓が聞えています。
まあ、じっとしておいでなさい。あれは葦の中で
声を揃えて鳴いている「さんかのごい」です。
踊の師匠
みんな負けず劣らず足を挙げて、
出来るだけの様子をして見せているから面白い。
飛んだり跳ねたりしているなあ。
胡弓ひき
やくざ仲間奴。お互に憎みっ
出来るなら、息の根を留めたいと思っていながら、
ここではオルフォイスの琴に寄って来る獣のように、
あの木笛の取持で一しょになっているのだな。
信仰箇条ある哲学者
批評家や懐疑家がどなったって、
己は騙されはしないのだ。
悪魔も何かでなくてはならぬ。そうでないなら、
悪魔と云うものがあるはずがないではないか。
理想主義者
どうもこん度は己の心の中で
空想が余り専横になっている。
これがみんな「我」であるとすると、
己はきょうはどうかしているぞ。
実相主義者
どうもこいつらの「本体」と云う奴が始末におえなくって、
己にひどい苦労を掛けやがる。
ここに来て始て己の立脚地が
ぐらついて来たぞ。
極端自然論者
己は嬉しがってここに来ていて、
こいつらと一しょに楽むのだ。
なぜと云うに悪魔から
推論して行くことが出来るからな。
懐疑家
こいつらは火の燃える跡を追っ掛けて行って、
もう宝のありかが近いと思っているのだ。
「
己がここにいるのは所を得ているのだて。
楽長
お前達は
蠅の嘴、蚊の鼻梁。
お前達は兎に角楽人だ。
敏捷なる人等
快活な我輩どもの組は
「莫愁会」と云ってね、
もう腰が立たなくなったから、
頭で歩いて行くのです。
てづつなる人等
今まではお世辞を言って大ぶお
こうなればもう上がったりです。
踊っているうちに沓の底が抜けたから、
素足で歩いているのです。
鬼火等
わたし共は沼で生れて、
沼から遣って来たのだが、
すぐに踊の仲間に這入って、
どうです、立派な色男でしょうが。
星の光、火の光を
放って天から墜ちて来たが、
今は草の中に転んでいます。
誰か手を借して起してくれませんか。
肥えたる人等
踏みしだかれて草は
そら鬼が往くぞ。手足の太った
鬼が往くぞ。
パック
そんな、象の子のような
太った体をして来るなよ。
どしりどしりときょうなんぞ足踏をして
まあ、この体のがっしりしたパックさん位のものだ。
アリエル
恵深い自然に羽を貰ったお前達、
性霊に羽を貰ったお前達は、
軽く挙がって
薔薇の岡のすみかへ帰れ。
奏楽団
(極めて微かに。)
雲の
高き梢、低き葦間に、風吹き立ちて、
曇れる日
[編集]野原。
ファウスト。メフィストフェレス。
ファウスト
みじめな目に逢っているのだな。途方に暮れているのだな。苦み悩みながら、長い間この世にうろついていて、とうとう牢屋に繋がれたのだ。悪事を働いた女だと云って、あの可哀い、
メフィストフェレス
何も、ああ云う運命に、あの女だけが始て逢ったのではありませんよ。
ファウスト
メフィストフェレス
そこでお互様に、早速またお互の智慧の届く限界線に到著したと云うものです。そこまで来ると、あなた方、人間と云う奴は、気が変になってしまうのです。わたし共と一しょの共同生活が末まで遂げられんのなら、あなた、なぜその共同生活に這入ったのです。あなたなんぞは空が飛びたくはあるが、なんだか
ファウスト
まあ、その物を食い
メフィストフェレス
もうそれでおしまいですか。
ファウスト
あいつを助けて遣ってくれ。それが出来んと云うなら、容赦はない。何世紀立っても消えない、一番ひどい
メフィストフェレス
どうもわたしには、人間の裁判官の掛けた縄を解くことも出来ず、卸した錠前をはずすことも出来ませんね。○あなた助けてお
(ファウスト眼球を旋転せしめ、四辺を見廻はす。)
あなたは雷火を天から借りて来て、わたしを焼こうとでも思うのですか。死ぬることのある人間に、そんな力が授けてなくて
ファウスト
そんなら己をそこへ連れて行け。どうしてもあの娘は助けて遣らんではならんのだ。
メフィストフェレス
そこであなたの自ら好んでお
ファウスト
そんな事まで君の口から聞せるのかい。世界一つにあるだけの、常の死をも、非業の死をも、君に
メフィストフェレス
宜しい。それはあなたを連れても行くし、またわたしに出来るだけの事をしますから、まあ、お
ファウスト
さあ、行こう。
夜
[編集]ファウストとメフィストフェレスと黒き馬に乗り、疾駆しつゝ登場。
ファウスト
あいつらはあの
メフィストフェレス
何を
ファウスト
空を飛んだり、降りて来たり、
メフィストフェレス
魔女のわざくれですね。
ファウスト
灰を
メフィストフェレス
もう通り過ぎました。
牢屋
[編集]ファウスト手に一束の鍵とランプとを持ちて鉄の扉の前に立ちゐる。
ファウスト
もう久しく忘れていた
人間の一切の苦痛を己は身に覚える。
この湿った壁の奥にあれが住まっているのだ。
なんの悪気もない迷で犯した罪だのに。
貴様、這入って行くのをたゆたっているな。
あの娘にまた逢うのをこわがっているな。
遣れ。貴様の躊躇は女の死を促す躊躇だ。
(ファウスト
声(内にて歌ふ。)
あはれ、我身を殺しゝは
うかれ
あはれ、我身を
をそ
冷やかなる
小さき
我骨を埋めつ。
羽美しき森の小鳥とわれなりぬ。
われは飛ぶ、われは飛ぶ。
ファウスト(鎖鑰を開きつゝ。)
歌うのを、鎖の鳴るのを、
恋人が聞いているとは、夢にも知らんのだ。
(進み入る。)
マルガレエテ(床の中に隠れむとしつゝ。)
どうしよう。どうしよう。来るわ。いじめ殺しに。
ファウスト(小声にて。)
黙っておいで。黙っておいで。来たのは己だ。お前を助けに。
マルガレエテ
(ファウストの前にまろがり寄る。)
お前さんも人間なら、どうぞ難儀を察して下さい。
ファウスト
そんなに大声をしては、番人が目を醒ますじゃないか。
(女の鎖鑰を開かんとす。)
マルガレエテ(
まあ、首斬役のあなたが、わたくしを
自由になさるようには、誰がいたしましたか。
まだ夜なかなのに、もう連れにおいでなさる。
どうぞ堪忍して、生かして置いて下さいまし。
あすの朝だって遅くはないではございませんか。
(立ち上がる。)
わたくしはまだこんなに、こんなに若いじゃありませんか。
それにもう死ななくてはならないのですか。
これで美しゅうもございました。それが悪うございました。
青葉の飾は破られて、花はむしられてしまいました。
そんなに荒々しくお
御免なさい。あなたに何もいたした
これまで一度もお目に掛かったことがないじゃありませんか。
どうぞこのお願をお
ファウスト
ああ。この悲惨な有様を見てこらえられようか。
マルガレエテ
もうわたくしはあなたの思召次第になっています。
どうぞ赤さんにお乳を飲ませる間お
わたくしは夜どおし可哀がって遣っていましたの。
それを人が取ってわたくしをせつながらせようと思って、
わたくしが殺したのなんのと申します。
わたくしはもう面白い心持になることは出来ません。
わたくしの事を歌に歌うのですもの。意地の悪いこと。
あるお伽話のしまいがこうなったのでございます。
誰がそれをあの人達に
ファウスト(身を倒す。)
おい。お前をこのみじめな
救おうと思って、恋人がここに伏しているのだぞ。
マルガレエテ(共に身を倒す。)
どうぞ一しょに聖者様方を拝んで下さいまし。
御覧なさい。この踏段の下には、
この敷居の下には
地獄の火が燃えています。
悪魔が
おそろしくおこって、
ひどい音をさせています。
ファウスト(声高く。)
グレエトヘン。グレエトヘン。
マルガレエテ(注意して聞く。)
おや。あれはあの
(跳り上がる。鎖落つ。)
どこにいらっしゃるだろう。お
わたしは
あの方のお頸に飛び附いて、
あの方のお胸に抱かれたい。
お
どうどうがたがたと地獄の音がしている中から、
腹立たしげな悪魔の
あのいとしい、お優しいお声が聞えたわ。
ファウスト
己だよ。
マルガレエテ
あなたなの。どうぞもう一遍仰ゃって。
あなただわ。あなただわ。苦労はみんなどこへ行っただろ。
牢屋の苦艱は。あの鎖は。
あなただわ。助けに来て下すったのだわ。
わたしはもう助かった。
あれ。あなたに始てお目に掛かった、
あの町がもうそこに見えます。
マルテさんとわたしとでお
晴やかな庭もそこに見えます。
ファウスト(伴ひ去らんとして。)
さあ、一しょに来い、来い。
マルガレエテ
まあ、お
わたくしあなたのいらっしゃる所にいたいのですもの。
(あまえゐる。)
ファウスト
早くしなくては。
手間取ると、どんなに悔やんでも
及ばないことになるのだ。
マルガレエテ
まあ。もうキスをすることもお
あなたほんのちょっとの間別れていらっしゃって、
もうキスをすることもお
こうしてあなたに
何か仰ゃって、わたくしを御覧なすって、
息の詰まる程キスをして下さると、
キスをして下さいよう。
なさらなけりゃ、わたくしがいたしますわ。
(抱き附く。)
あら。あなたのお口のつめたいこと。
それに黙っていらっしゃるのね。
お
しまいましたの。
わたし誰に取られてしまったのだろ。
(背を向く。)
ファウスト
おいで。おれに附いておいで。しっかりしてくれなくちゃ。
跡でどんなにでも可哀がって遣る。
どうぞ附いて来てくれ。これだけがお願だ。
マルガレエテ(
本当にあなたなの。きっとでしょうか。
ファウスト
己だよ。おいで。
マルガレエテ
あなた鎖を解いて下すって、
またわたくしをお
なぜ気味が悪くは思召さないのでしょう。
一体どんな女を助けて下さるのだか、あなた、御存じ。
ファウスト
おいで。おいで。もう夜が明け掛かって来る。
マルガレエテ
わたくし
赤さんを水の中へ投げ込みましたの。
あれはわたくしとあなたとの赤さんじゃありませんか。
あなたも親だわ。本当にあなたなの。本当かしら。
お手に攫まらせて頂戴な。夢じゃないわ。
可哀らしいお手。でもつめたいこと。
お
血が附いているようだわ。
まあ、飛んだ事をなすったのね。
どうぞその抜身を
おしまいなすって。
ファウスト
もう昔の事は置いてくれ。
己は死んででもしまいそうだ。
マルガレエテ
いいえ。あなたは生きていて下さらなくちゃ困るわ。
わたくしお墓を立てる所をそう申して置きましょうね。
あしたすぐ
行って見て下さいましな。
兄いさんのを傍へ引っ附けて立てて、
それからわたくしのを少し離して。
あんまり遠くになすってはいやよ。
それからわたくしの右の胸の
その外の人は傍へ寄せないで下さいまし。
わたくしあなたのお傍に寄るのが、
本当に嬉しい、楽しい事でございましたの。
それが、なぜだか、もう出来ませんわ。
なんだか無理にお傍へ寄ろうとするようで、
なんだかあなたがお
でもやっぱりあなたなのね。好い、優しい目をなすって。
ファウスト
己だと云うことが分かったなら、さあ、おいで。
マルガレエテ
あちらへ。
ファウスト
外へ出るのだ。
マルガレエテ
外にお墓がございまして、
死が待っていますのなら、参りましょう。
わたくしここからすぐお墓へまいりますの。
それから
なさいますの。わたくし御一しょに参りたくて。
ファウスト
来られるのだ。来れば好い。戸はあいている。
マルガレエテ
わたくし参られませんの。どうせ駄目でございますから。
逃げてどうなりましょう。
乞食になります程みじめな事はございません。
それに良心の呵責を受けていますのですもの。
知らない国をさまよい歩くのはいやでございますし。
それにすぐ攫まってしまいますわ。
ファウスト
己が附いていて遣るのだ。
マルガレエテ
あ。お早くなすって。お早くなすって。
あなたの赤さんですから、お
あちらです。この道を
どこまでも川に附いて上手へ、
あの狭い道をおぬけになって、
森の中へお
あの左側の
池の中でございます。
どうぞすぐお攫まえなすって。
浮き上がろうといたして
まだ手や足を動かしています。
お
ファウスト
おい。気分をはっきりさせてくれないか。
つい一足出れば助かるのだ。
マルガレエテ
ほんにこの山を早く越してしまいましょうね。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃるわ。
わたくし髪の根元を締め附けられるようですの。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃって、
頭をぶらぶら振っていらっしゃるわ。
手真似も、合点合点もなさらないわ。お
お重いのだわ。長くお
わたくし共が楽むようにお休になったのだったわ。
あの頃の面白かったこと。
ファウスト
いくら言って聞せて、頼んでも駄目なら、
己はお前を抱えて出よう。
マルガレエテ
お
そんなにひどくお
外の事はなんだって仰ゃる通にしたじゃありませんか。
ファウスト
夜が明けて来た。おい。おい。
マルガレエテ
夜が明けましたって。そうですね。わたくしの
最期の日ですわ。婚礼をいたす日ですわ。
泊ったことがあるなんぞと、誰にも言わないで下さいまし。
青葉の飾が破れましたわ。
もう出来たことはいたしかたがございません。
またどこかでお目に掛かりましょうね。
踊場でないところでね。
今人が寄って来ますが、聞えないのですわ。
這入り切りませんのね。
鐘を撞いてしまった。杖を折ってしまった。
わたくしを攫まえて縛りましたわ。
もう
今の刀の刃がどの人の
わたくしの項にも打ち卸されて来ますわ。
そこいら中が墓の中のように静かになりましたこと。
ファウスト
ああ。己は生れて来なければ好かった。
メフィストフェレス戸の外に現る。
メフィストフェレス
おいでなさい。おいでなさらないと駄目です。
ぐずぐずしていたってなんにもなりません。余計な
話なんかしていて、馬が身慄をしています。
もう夜が明けそうだから。
マルガレエテ
あのそこへ
あれだ。あれだ。どうぞあれをいなせて下さいまし。
この
わたくしを連れに。
ファウスト
お前の命を助けに。
マルガレエテ
いいえ。いいえ。わたくしは神様の御裁判に任せます。
メフィストフェレス(ファウストに。)
おいでなさい。おいでなさい。女と一しょに置いて行きますぜ。
マルガレエテ
お
どうぞわたくしを取り巻いて、護っていますように。
ハインリヒさん。わたくしあなたがこわくてよ。
メフィストフェレス
あれが
声(
メフィストフェレス(ファウストに。)
早くこっちへ。
(ファウストと共に退場。)
声
(内より、遠く消え去らんとする如く聞ゆ。)
ハインリヒさん。ハインリヒさん。
〈[#改丁]〉
〈[#ページの左右中央]〉
悲壮戯曲の第二部
〈[#改ページ]〉
第一幕
[編集]風致ある土地
[編集]ファウスト草花咲ける野に横りて、疲れ果て、不安らしく、眠を求めゐる。
精霊の一群、空に漂ひて動けり。優しき、小さき形のものどもなり。
アリエル
(歌。アイオルスの箏の伴奏にて。)
「雨のごと散る春の花
人皆の
田畑の緑なる
かゞやきて見ゆる時、
身は
救はれむ人ある
幸なき人をば哀とぞ見る。」
この人の頭の上で、空に
いつもの優しいエルフの流義でこの場でも働いてくれ。
あれが胸のおそろしい闘を鎮めて遣れ。
身を焼くやうに痛い、非難の矢を抜いて遣れ。
これまでに受けた
今すぐにその句切々々を優しく填めて遣れ。
先づあの頭にそつと冷たい枕をさせて、
それから物を忘れさせるレエテの水の雫に
そこで疲が戻つて静かに夜明を待つうちに、
引き
さうしてあれを神聖な光の中へ返して遣つて、
エルフの義務の中の一番美しい義務を尽せ。
合唱する群
(或は一人々々、或は二人づつもしくは数人づつ、或は交互に入り変り、或は寄り集ひて。)
あたゝけき風の
緑に囲はれたる野に満てるとき、
霧の
楽しき平和を低く囁き、
寐さするごとく心を
かくて疲れたる人の目の前に
昼の門の扉はさゝる。
星は星と浄く群れ寄る。
大いなる火も、小さき光も
近くかゞやき、遠く照る。
澄みたる
いと深き
月のまたき光華は上にいませり。
幾ばくの時かは知らねど、その時はや消え失せぬ。
先だちて知れ。
たゞ新なる朝日の光を頼め。
谷々は緑芽ぐみ、岡は高まりて、
茂りて物蔭の
さて
波の形して
たゞかしこなる光を望め。
汝は軽らかに閉ぢ籠められたり。
眠は
自ら励ましてなすことをな忘れそ。
心得て
心高き人のえなさぬことあらめや。
アリエル
聞け。遷り行く時の神ホライの駆ける風を聞け。
霊の耳には音が聞えて、
もう新しい日が生れた。
岩の扉はからからと鳴って
日の神フォイボスの車はどうどうと響いて
まあ、光の立てる音のすさまじいこと。
金笛、
目はまじろいて、耳はおどろく。
耳も及ばない響は聞えない。
深く、深く、岩の
あの音に出合ったら、お前達は
ファウスト
天の
命の脈がまた新しく活溌に打っている。
こら。下界。お前はゆうべも職を
そしてけさ
もう快楽を以て己を取り巻きはじめる。
断えず最高の存在へと志ざして、
力強い決心を働かせているなあ。
もう世界が
森は千万の
谷を出たり谷に入ったり、霧の帯が
それでも天の
木々の大枝小枝は、夜潜んで寝た、
薫る谷底から、元気好く芽を吹き出す。
また花も葉もゆらぐ珠を一ぱい持っている深みが、
一皮一皮と剥がれるように色取を見せて来る。
己の身のまわりはまるで天国になるなあ。
もう晴がましい時を告げている。
あの巓は、後になって己達の方へ
向いて降りる、とわの光を先ず浴びるのだ。
今アルピの緑に窪んだ牧場に、
新しい光やあざやかさが贈られる。
そしてそれが一段一段と行き渡る。
日が出た。惜しい事には己はすぐ
背を向ける。沁み渡る目の
あこがれる志が、信頼して、努力して、
最高の願の所へ到着したとき、成就の扉の
その時その永遠なる底の深みから、強過ぎる、
己達は命の
身は火の海に呑まれた。なんと云う火だ。
この燃え立って取り巻くのは、
穉かった昔の
また目を下界に向けるようになるのだ。
己はあの岩の裂目から落ちて来る滝を、
次第に面白がって見ている。
一段また一段と落ちて来て、千の
万の流れになり、
高く空中に上げている。
しかしこの荒々しい水のすさびに根ざして、七色の虹の
常なき姿が、まあ、美しく空に横わっていること。
はっきりとしているかと思えば、すぐまた空に散って、
この虹が人間の努力の影だ。
あれを見て考えたら、前よりは好く分かるだろう。
人生は彩られた影の上にある。
ファルツの帝都
[編集]玉座の
帝
遠くからも近くからも寄って来た、
忠実な皆のものに己は挨拶をいたす。
そこで賢者は己の傍に来ているが、
阿房はどういたしたのだ。
貴公子
只今お
すぐ
太った、重い体は、誰やらがかついで行きました。
酒に酔ったのか、死んだのか、分かりません。
第二の貴公子
そういたすと珍らしいすばやい奴があるもので、
実に面白い、目に立つなりをいたしています。
しかしどうも異様ですから、誰も一寸見て驚きます。
それで御守衛が矛を十文字にいたして
敷居際で
や。でもあそこへまいりました、大胆な馬鹿が。
メフィストフェレス
(玉座の前に
来ねば
いつも待たれていて、来ると逐い出されるのは何か。
どこまでも保護を加えられるのは何か。
ひどく叱られたり苦情を言われたりするのは何か。
殿様のお
名を聞くことを皆が喜ぶのは誰か。
玉座の下へ這い寄って来るのは何か。
土地をお
帝
まあ、
この場ではそんな謎のような物は不用だ。
謎を掛けるのは、そこらにいる人達の
掛けられたら、お前解け。己が聞いて遣る。
前いた阿房はどうやら遠くへ立ったらしい。
お前そいつの
(メフィストフェレス階段を登りて左に侍立す。)
衆人の耳語
新参の阿房か。○新規な難儀だな。○
どこから来たのだろう。○どうして這入ったのだろう。○
あいつは酒樽だった。○こいつは
帝
さて、遠くからも近くからも寄って来た
忠実な皆のものに、己は挨拶をいたす。
丁度お前達は
然るに、この、いらぬ憂を棄てて、
舞踏の日のように
面白い事ばかり
この日に、一体なぜ評議なんぞをして
面倒な目を見んではならんのか。
まあ、兎に角お前達がせねばならんと云うから、
そんならそうとして、する事にした。
尚書
人間最高の徳が、聖者の
殿様のおつむりを囲んでいて、それを有功に
御実行なさることは、殿様でなくては出来ません。
それは公平と申す事でございます。人が皆
愛し、求め、願い、無いのに困るこの徳を、
民に施しなさるのは殿様でございます。
しかしこんな風俗が時疫のように国に行われて、
悪事の上に悪事が醸し出されては、
心には智慧、胸には慈愛、手には
敏活があったと云って、なんになりましょう。
どなたでもこの高殿の上から、広い
お
異形のものばかりが押し合って、
不法が法らしく行われて、
間違が世間一ぱいになっていますから。
家畜を盗む。女を盗む。
寺から杯や、十字架や、燭台を盗む。
そして長い間、
体をも損われずにいるのを自慢話にする。
そこで原告が押し合って裁判所に出て見ると、
判事はただ厚い布団の上に
怒濤のように寄せては返しているのに。
身方の連累者の
相手の罪を責めることは出来、
孤立している
却って「有罪」と宣告せられる。
そう云う風に世は離れ離れになって、
当然の事は烏有に帰してしまいます。
民を正道に導くただ一つの誠が
どうしてここに発展して参りましょう。
しまいには正直な人が
賞罰を明にすることの出来ない
裁判官は犯罪者の群に入ります。
これでは余り黒くかいた画のようでござりますが、
実はもっと厚い幕で隠したかったのでござります。
(
いずれ断然たる御処置がなくてはなりますまい。
民が皆
恐れながら帝位の尊厳も
兵部卿
まあ、此頃の乱世の
一人々々が殺しもし、殺されもして、
号令をしても皆
市民は壁の
岩山の巣に立て籠って、
公に背いて、踏みこたえようとして、
私の戦闘力の維持に力めている。
傭兵は気短に、
給料の
それを払ってしまったら、
皆逃げてしまいそうにしている。
皆の望んでいる事を、誰でも禁じたら、
それは蜂の巣をつついたようであろう。
その傭兵が守るはずの、国はどうかと云うと、
国は半分もう駄目になっています。
まだ外藩の王達はおられますが、
どなたもそれを我事とはなさりませぬ。
大府卿
もう誰が聯邦の
約束の貢は、水道の水が切れたように、
少しも来なくなりました。
それにこの広いお国の中でも、占有権が
どんな人の手に落ちたと思召します。
どこへ行って見ても、新しい人間が主人になって、
独立して
どんな事をしていたって、見ている外はありません。
あらゆる権利を譲って遣って、もう
残っている権利は一つもありません。
あの党派と云っているものなぞも、
今日になってはもう信頼することは出来ません。
賛成しても、非難しても、愛憎どちらでも
構わぬと云う冷澹な心持になっています。
身方のギベルリイネンも、相手のゲルフェンも、
手を引いて、
誰が隣国なんぞを援けようといたしましょう。
てんでにしなくてはならぬ事がありますから。
一人々々が掘り出して、掻き集めているだけで、
中務卿
わたくしの方も随分不幸に逢っています。
毎日々々節倹をいたそうとしていて、
毎日々々費用が
それにわたくしの難儀は次第に殖えて参ります。
まあ、お料理人の手元だけはまだ不足がありません。
鹿に
鶏にしゃも、
そう云う
まだかなりに這入ってまいります。
それでも酒がそろそろ足りなくなってまいります。
これまでは
樽を並べて積み上げて、穴蔵にありましたのに、
皆様が
もうそろそろ
此頃は町役所の
それ大杯に注げ、鉢に注げと、
皿小鉢を
その跡始末と勘定はわたくしがいたします。
歳入を引当にいたして、いつも翌年のを
繰り上げて納めています。
飼ってある
お
帝
(暫く考へて、メフィストフェレスに。)
どうだ。まだその外に難儀のあるのを知っているか。
メフィストフェレス
わたくしですか。存じません。こうして殿様はじめ
皆様の御盛んな様子を拝しています。帝位の尊厳で
いやおうなしにお命じなさるに、
なんで信用が足りますまい。
智慧と
お
こう云う星の数々が照っている所で、
何が寄って災難や暗黒になることが出来ましょう。
耳語
あいつ横着者だね。○巧者な奴だね。○
胡麻を磨り込みおる。○遣れる間遣るでしょう。○
分かっていまさあ。○内々何を思っているか。○
これからどうすると云うのです。○建白でもするのでしょう。
メフィストフェレス
一体この世では何かしら足りない物のない所はありません。
あそこで何、ここでは何が足りぬ。お国では金が足りぬ。
それだと云って
そこは智慧で、どんな深い所からでも取って来ます。
山の礦脈の中や、人家の
金塊もあれば金貨もあります。
そんならそれを誰が取って来るかとお尋ねなさるなら、
力量のある男の天賦と智慧だと申す外ありません。
尚書
天賦と智慧だの、自然と霊だのとは信徒は云わない。
そんな話はひどく危険だから、
無神論者を焚き殺すのだ。
自然と云う罪障と、霊と云う悪魔とが、
夫婦になって片羽な子を生んで育てる。
その子が懐疑だ。
ここにはそんな事はない。殿様の古いお国には、
それが玉座を支えている。
それは聖者と騎士なのだ。
この
その
ところが腹の
反抗が起って来る。
それが背教者だ。魔法使だ。
そう云う奴が都をも国をも滅すのだ。
そう云う奴を今お前は、臆面のない笑談で、
この尊い朝廷へ口入をしようとしている。
お前達は腐った根性を
そう云う奴は皆阿房の同類だ。
メフィストフェレス
お
なんでも手で障って見ない物は、何里も
握って見ない物は、まるで無い、
自分で鋳たのでない銭は通用しないと思召す。
帝
そんな話で物の足りぬのが事済にはならぬ。
断食の時の説教のような講釈でどうしようと云うのか。
こうしたらとか、どうしたらとか、際限なく云うのには
金が足りぬ。
メフィストフェレス
おいり用の物は拵えますとも、それより多分に拵えます。
術で、誰がその術に手を著けましょう。
一寸考えて御覧なさい。
土地も人民も溺れた、あの驚怖時代に、
どんなにか不本意には思っても、誰彼が
一番大事な物をあそこここに隠したのです。
ロオマ人が暴威を振った時から、そうでした。
それからずっときのうまでもきょうまでも、そうです。
それが土の中にじっとして埋もれている。
土地は殿様のだ。殿様がそれをお
大府卿
阿房にしてはなかなか旨く述べ立てるな。
勿論それはお家柄の殿様の権利だ。
尚書
悪魔がお前方に金糸を編み入れた罠を掛けるのだ。
どうも只事ではないようだぞ。
中務卿
少しは筋道が違っていても
御殿の御用に立つ金を拵えて貰いたいものだ。
兵部卿
阿房奴賢いわい。誰にも都合の好い事を約束しおる。
兵隊なんぞは、どこから来た金かと問いはしない。
メフィストフェレス
もしわたくしに騙されるとお
それ、そこにいます、あの天文博士にお尋なさい。
やれ
一つ言って貰いましょう。きょうの天文はどうですな。
耳語
横著者が二人だ。○以心伝心でさあ。○
阿房に法螺吹が。○御前近くにいるのです。○
聞き
阿房が吹き込む。○博士がしゃべるのですな。
天文博士
(メフィストフェレス
一体日そのものは純金でございます。
水星は使わしめで、給料を戴いて目を掛けて貰う。
金星と云う女奴は皆様を迷わせて、
朝から晩まで色目で見ている。
色気のない月奴は機嫌買ですねている。
火星はお前様方を焼かぬまでも、威勢で
木星は兎に角一番美しい照様をする。
土星は大きいが、目には遠くて小さく見える。
あいつが
値段は安くて目方が重い。
そうですね。ただ日に月が優しく出合うと、
金銀が寄って、面白い世界になる。
その上には得られないと云うものはありませぬ。
御殿でも、庭でも、小さい乳房でも、赤い
そんな物を得させるのは、我々の中で誰一人
出来ない事の出来る学者の腕でございます。
帝
あれが云う詞には己には二重に聞えるが、
そのくせどうもなるほどとは合点が出来ぬ。
耳語
あれがなんの用に立つだろう。○
跡のような洒落だ。○暦いじりだ。○錬金の真似だ。○
あんな事は度々聞きました。○そしていつも騙されました。○
よしや出て来たところで。○譃っぱちですよ。
メフィストフェレス
皆さんはそこに立って呆れていなさるばかりで、
大した見附物を御信用なさらない。
草の根で刻んだ人形をたよりにするとか、
黒犬を使うとか云うような、夢を見ていなさる。
あなた方の中には時たま足の
足元が
洒落でちゃかしてしまったり、魔法だと云って
告発したりなさるが、分からない話です。
あれはあなた方がみんな、永遠に主宰している
「自然」の
その生動している痕跡が、一番下の方から
上へ向いて縋って登って行くのです。
いつでも手足をつねられるような気がしたり、
いる場所が居心が悪くなったりしたら、
すぐに思い立って鍬で掘って御覧なさい。
そこには楽人の死骸がある。そこには宝がある。
耳語
わたくしなんぞは足に鉛が這入っているようだ。○
わたくしは腕が引き
わたくしは足の親指がむずむずする。○
わたくしは背中じゅうが痛い。○
こんな塩梅だと、ここなんぞは
宝が沢山埋まっている土地でしょうか。
帝
そんなら早くせい。もうお前は逃がさぬから、
その口から沫を出してしゃべった譃を
お前が譃を衝いたのでないなら、己は冠や
指揮の杖を棄てて、尊い、自分の
この手で、その
もし譃なら、お前を地獄へ遣って遣る。
メフィストフェレス
それはそこへ行く道はわたくしが知っていますが、
そこにもここにも持主がなくて埋まっている物の、
その数々は申し上げ切れない位でございます。
どうかいたすと、畝を切っている百姓が、
また外の奴は土壁の中から硝石を取ろうとして、
貧に痩せた手に、驚喜しながら、
立派な金貨の繋がったのを取り上げる。
まあ、どんな
どんな深い穴や、どんな長い坑道の奥を、
奈落の底の近所まで、宝のありかを
知った人は這入ったりしなくてはならないでしょうか。
さて広い、年久しく隠してある穴倉に這入ると、
ずらりと並べてあるのを見るでしょう。
紅宝玉で造った杯もあって、
それを使おうと思って見れば、
傍に古代の酒があります。
そこで、そんな事に明るいわたくしの申す事を
信じて下さらなくては駄目ですが、もう
桶の木は朽ちていて、酒石が凝って桶になって、
中に酒を湛えています。そう云う尊い酒の精も、
金銀宝石ばかりではなく、闇黒と
恐怖とで自分を護って
そう云う所を賢者は油断なく探っています。
昼間物を見知るのは笑談ですが、
深秘は闇黒を家にしていますからね。
帝
そんな闇黒なんぞがなんになるものか。それはお前に
任せて置く。役に立つものなら、日向へ
出んではならぬ。誰が
見分けよう。牝牛は黒く、猫は灰色だ。
その黄金がどっしり這入って、地の下に
埋まっている壺を、お前の
メフィストフェレス
いえ。御自身に鋤鍬を取ってお
百姓の
そうなさったら、黄金の
地の下から躍り出しましょう。
そうなると、御猶予なさることなしに、喜んで
御自分と
色と
帝
早くせんか。早くせんか。いつまで掛かるのだ。
天文博士(上に同じ。)
いえ。そのおはやりになるお心を少しお鎮めなさって、
華やかなお慰を先へお済ませなさいませ。
気が散っていては目的は達せられませぬ。
先ず心を落ち著けると云う
なりませぬ。善を欲せば、先ず善なれ。
喜を欲せば、己が血を和平にせよ。
酒を得んと欲せば、熟したる葡萄を絞れ。
奇蹟を見んと欲せば、信仰を
帝
そんなら面白い事で暇を潰すも好かろう。
幸な事には丁度灰の水曜日が来る。
その
四旬節の前の踊でもさせるとしよう。
(喇叭、退場。)
メフィストフェレス 太字文 労と功とは連鎖をなしていると云うことが、
馬鹿ものにはいつまでも分からない。
よしや聖賢の石を手にしたところで、
石はあっても聖賢はなくなるだろうて。
隣接せる
装舞踏を催さんがために装飾を尽せり。
先触
皆様。ドイツの境の内にいると思ってはいけません。
悪魔踊に阿房踊、また髑髏踊なんぞのある、
面白いお
殿様はロオマ征伐に御いでになって、
国のため、またあなた方のお慰のために、
高いアルピの山をお
晴やかな土地をお手に入れなさいました。
殿様は先ず
御威勢の本になる権利をお
それからお冠を貰いにおいでになったとき、
一しょに坊様の帽子をも持ってお
そこでみんなが生れ変ったようになった。
誰でも世渡上手なものは、その帽子を
頭から頸まですっぽり被る。
すると
その帽子の蔭では、どんなにえらくでも
なっていられる。あれ、もうそこらに寄って、
浮足をして分れたり、睦ましげに組んだり、
群の跡に群が続いて来るのが見えます。
機嫌を悪くしないで、出たり這入ったりなさい。
何をしたところで、せぬ前もした後も同じ事、
百千の馬鹿げた事を包んでいるこの世界は
庭作の女等
(マンドラの伴奏にて歌ふ。)
われ等若きフィレンチェの
君達に愛ではやされむと、
今宵皆粧ひて、ドイツの宮居の
御栄を追ひて来ぬ。
この
くさ/″\の晴やかなる花もて飾れり。
さて絹の糸、絹の
美しさを助くる料となれり。
なぞとや仰する。われ等はそを
褒めます値ありと思へり。
わら等が造りなせる、このかゞやく花は
四つの時絶間なく咲き
いろ/\に染めたる紙の
向き合ひて所を得させたれば、
一つ/″\をば笑止とも見たまはむ。
すべてには心引かれ給ふべし。
われ等庭作の
愛でたく、人懐かしげには見えずや。
なぞとや仰する。
さま見れば、手わざに似たれば。
先触
その頭の上に載せている籠や、手から
五色を食み出させて提げている籠に
盛り上げてある豊かな品物を見せるが
そして皆さんが気に入ったのを取りなさるが好い。
皆が取って、急いでこの仮屋の道を
花園に紛れるようになさるが好い。
売手も品物も、賑やかに
取り巻いてお
庭作の女等
さあ、お値段をお
ですけれど、市場の商ではございませんよ。
お
花だと云う、面白い
実れる月桂の枝
わたくしはどんな花でも妬みませぬ。
なんの喧嘩も避けまする。
それは性に合わないからでございます。
その性と申すのは、もと野山の魂で、
間違のどうしても出来ないように、
その土地々々の
どうぞきょうのお祭には、似つかわしい、美しい
髪に載せてお
穂の飾(黄金色。)
あなた方をお
さぞ優しげに、愛らしくお似合なさいましょう。
用に立つので、一番願わしいこれが、
あなた方のお飾としては美しゅうございましょう。
意匠の輪飾
苔の中から咲かせてある、
はでな花は不思議な
自然には常に無い物をも、
流行は生み出します。
意匠の花束
わたくしに名を附けることは、植物にお精しい
テオフラストさんも御遠慮なさいましょう。
ですけれど、皆さんのお気に入らないまでも、
どなたかには好かれようかと存じます。
そうした方のお目に留まりとうございます。
どうぞ髪にお編み込み下さいまし。
どうぞわたくしがお胸の中に
所を得ますようにお
勧誘の詞
その日その日の流行に
意匠の花は咲くが
自然にかつて無いような、
不思議な姿をするが
茎は緑に、
それが豊かな髪の中から見えるが
ですけれど、わたくしども
薔薇の莟
は隠れています。
それをちょっとお
夏のおとないが知れて、
薔薇の
なくて
誓いますこと、またそれを果しますことが、
花の国では一様に
目をも胸をも魂をも支配するのでございます。
(仮屋の屋根の下なる緑の道にて、庭作の女等美しく品物を飾り立つ。)
庭作等
(テオルベの伴奏にて歌ふ。)
見給え。花は静かに生い出でて、
美しく君達の髪を飾るを。
ただ味いて楽み給え。
桜の実、
皆
ただ召せ。
え堪えじ、よしあし定むる
来ませ。楽みて、味いて、もとも好く
林檎をば
おん身等のその豊かなる若き群に、
われ等の伴うを許せ。
隣にて、この
さわなるを、われ等も積み飾らん。
飾りたる仮屋の隅に、
面白き編物の下に、
あらゆる物皆備れり。
芽あり、葉あり、花あり、実あり。
(ギタルラとテオルベの伴奏にて、かたみがはりに歌ひかはす歌と共に、二つの群は貨物を段々に高く積み飾り、客を待つ。)
母と娘と。
母
嬢や。お前が生れた時ね、
帽子を被せて遣りましたが、
顔はほんとに可哀くて
体はほんとにきゃしゃでしたよ。
その時もうお婿さんが
大したお金のある内へ行くことになったように、
もうおよめさんになったように思いましたよ。
それにもう何年か
無駄に過ぎましたね。
お
ずんずん通り過ぎておしまいなさった。
あるお方とはすばしこくお
あるお方には目立たない相図を
肘でおしだったね。
いろいろな
これまで駄目であったのだよ。
質の
皆役には立たなかったのだよ。
きょうは皆さんが阿房になっておいでになるから、
お前襟を
お
(若き、美しき女友達来てこれに加はり、親しげなる会話聞えはじむ。漁者と鳥さしと数人、網、釣竿、
樵者
(
場所がいるのだ。
わたしどもは木を伐るのだ。
その木はめりめり云って倒れる。
それをかついで行くときは、
そこらじゅうへ衝き当たる。
自分の手柄を言うようだが、
これだけは御合点を願いたい。
荒っぽい奴も
土地で働かんでは、
どんなに智慧を出したって、
上品な人ばっかりが
どうして立ち行きましょうぞ。
御合点の願いたいのはここだ。
こっちとらが汗を掻かなんだら、
あなた方は凍えましょう。
道化方
(手づつに、ほとんどをさなく。)
あなた方は馬鹿だ。
腰を屈めて生れなすった。
わたしどもは利口だ。
重荷を
鳥打帽子も
ジャケツも
身軽な支度だ。
わたしどもは気持好く、
いつもなまけて、
上沓ばきで、
市場へも人込へも
駆け込んで、
物見高く立ち止まって、
お互にどなり合います。
さてその声が聞えると、
どんなに人が籠んだ中でも、
鰻のように摩り脱けて、
一しょになって跳ね廻り、
一しょになってあばれます。
お
悪口を仰ゃっても、
寄生虫
(
お前方、元気な、
御親類の
炭焼の男は
こっちの用に立つ人達だ。
全体腰を曲げたり、
竪にかぶりを振ったり、
紆余曲折の文句を言ったり、
人の感じよう次第で
暖めも
二重の息を
こんな面倒がなんになると思う。
それは天からだって
大した火が
来ることもあるだろうが、
かっかと燃え立たせる
真木や炭の荷が
なくては済まぬ。
そこで
ほんとに味の分かる男は、
皿までも
燔ける肉を嗅ぎ附ける。
肴のあるのを見ずに知る。
そこでお出入先の食卓で
手柄をする気が出て来るのだ。
酔人
(正気を失ひゐる。)
どうぞきょう己達にあらがってくれるな。
なんだか自由自在な心持がしているのだ。
涼しい風や気の晴れる歌も
己達が持って来て遣ったのだ。
そこで己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
杯を一つ
おい。そこの
ちりんと遣るのだ。それで
かかあ奴がおこってどなって、
立派な上衣を皺にしおった。
どんなにこっちで
掛けて置く台だと云って冷かしおった。
それでも己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
衣裳の台の仲間同士で杯を
音がしたなら、それで
己が
己は己の気持の
亭主が貸さないと云やあ、上さんが貸さあ。
どっちもいけなくなったって、女中だって貸さあ。
いつだって己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
一しょに飲め、飲め。ちりん。ちりん。
皆遣ってくれるぞ。それで好いようだ。
どうして、どこで己が楽んだって、
そうさせてくれて好いじゃないか。
どうぞ己の寝た所に寝させて置いてくれ。
もうそろそろ立っているのがいやになって来る。
合唱する群
誰も彼も飲め、飲め。さあ、頼むよ、
ちりん、ちりんの演説を。
腰掛の木の
机の下へころがった男はそれでおしまいだ。
先触種々の詩人等を紹介す。自然詩人、宮廷詩人、騎士詩人、温柔詩人、感奮詩人あり。皆自ら薦むるに急にして押し合ひ、一人も朗読の機会を得ずして
諷刺
喜ばむことを君知るや。
一人だに聞くことを
願はぬ詞を歌はしめよ。
(夜の詩人と
なさけの三女神グラチエ。
人の世に優しさをわれはもたらす。
優しさを物贈る手に籠め給へ。
引率る神ヘゲモネ
優しさを物受くる手に籠め給へ。
願ふこと
運命の三女神パルチェエ
糸引く人に傭はれぬ。
細き命の糸引けば、
物思ふこと多きかな。
しなやかなるが得まほしく、
いと善き麻をわれ
筋筋善く揃ひ、
その矩を越えむとき、
糸の限を思へかし。
心せよ、切れやせむ。
糸縒る神クロト
そは
飽かぬ節々あればなり。
何の甲斐あらじと思ふ幾筋を、
風のむた、照る日のもとに、曳き
得ることのさはにあるべき望の糸を、
断ち切りて
されどわが若きすさびもしどけなく、
あやまちて断ちし糸百筋ありき。
いちはやきこの手をけふは控へんと、
剪刀をば嚢に入れてわれ
かくてわれいましめに安んじをりて、
この
ゆるされたる日汝達は
戯れ遊べ、いつまでも。
糸分くる女ラヘシス
心得て過たぬわれひとり
筋々の
つねに醒めたるわれならば、
慌ただしさの
来る糸を
それ/″\の道に遣る。
一筋も
輪のなりに寄りて
われ
なりぬべき、心もとなき世の中は。
われ日を計り、年を計りて、
先触
皆さん、どんなに古い書物にお精しくても、
こん度来るものはお分かりになりますまい。
随分悪い事をしでかす女共ではありますが、
御覧になるには、好いお客様でございましょう。
怒の
愛らしくて恰好が好くて優しくて年が若い。
附き合って御覧になると分かりますが、
どんなにかあの鳩が蛇のように
一体陰険な奴ですが、きょうは誰でも
阿房になって、あらを手柄にする日なので、
あいつ等も天使としての名聞を思わずに、
都や鄙の厄介ものと
怒の三女神フリエユ。
かつて休まぬ神アレクトオ
どうせ諦めてわたし共におたよりなさらなくては。
こんなに綺麗で、若くて、小猫のようにあまえますもの。
あなた
わたしがじゃれ附いて、耳の
そしてお心安くなって、目と目を見合せてこう云います。
「あの女はあなたの外に誰さんにも愛敬を
振り
そんな風に女の方へも水を指します。
「二三週間前でしたが、あの方はあの女に
あなたの事を下げすんで話していてよ」などと
云うのです。仲直りをしても、何かしら残ります。
不親切の神メガイラ
そんな事は笑談です。婚礼をしてしまうと、
わたしが引き受けて、どんな場合にも
一体人は変るもので、時によって変ります。
それで誰一人願って得たものを手にしっかり持って
いないで、慣れてしまった一番大きい幸福を忘れて、
おろかにもそれより願わしいものにあこがれます。
凍えて煖まろうとして、日を跡に逃げるのです。
そう云う人の扱をわたしは一切心得ていて、
悪魔と云う、お馴染のアスモジを連れて来て、
二人ずつになっている人間を腐らせます。
復讐の神チシフォネ
二心のある人を害する
毒を調合したり、
余所の女に気を移した方は、早かれ遅かれ
お体に毒が廻るようにいたします。
そういたすと、ちょいとした
泡立つ毒、
そこには掛値もなければ、負けることもありません。
お犯しなすった罪だけは、お
わたしの訴は岩に
お
女をお取換なすった方のお命はありません。
先触
どうぞ、皆さん、少し脇へお寄なすって下さい。
今ここへ来るのは
御覧の
頭から長い歯や蛇のような鼻が出ている。
なんだか秘密らしい物ですが、お分かりになるように、
鍵を見せて上げましょう。
乗っていて、小さい鞭で巧者に使っています。
今一人上に立っている、立派な、上品な女は、
一人はせつなげな、一人は嬉しげな目をしている。
一人は自由を求めていて、一人はそれを得ている。
さあ、一人々々自分の身の上を
入り乱れたる祭の群を照せり。
この幻の姿の中に、あはれ、
鎖は我を繋げり。
その崩れたる顔のさまこそ怪しけれ。
我を謀らんとする人等皆
今宵我に迫り
見よ。あれは仇となれる身方の一人なり。
あの
またあの男は我を殺さんとしつるなり。
われに見知られて、今逃げ去らむとす。
あはれ、いづ方へまれ逃れて、
世の中に隠れ避けばや。
されどかなたよりは死の我を
我は
わが
きのふけふこそ、おん身等皆
姿を変へて楽み給はめ。
あすは必ず仮の
解き給はん。
松の火の照らす下は、
わきて楽しとおもはねど、
晴やかなる日の昼に、
おのがじし心のまにま、
あるはひとり、あるは打ち群れて、
美しき野をそゞろありきし、
せまほしき事して、疲れて憩ひ、
憂を知らで日をくらし、
よろづ事足り、つねにいそしみ、
いづくへも、まらうどと
迎へられて行かばや。さらば
いづくにてか、
見出ださでやはあるべき。
智
人の世の大いなる仇二つあり。
そは
御身等の群に近づかしめず。
道を
塔負へる、活ける大いなる獣を、
見給へ、われは
獣は険しき道をば
一足づつ進み行けり。
塔の上にはしなやかに羽搏つ、
広き翼ある女神いまして、
いづ方へも向きて、
女神の身のめぐりには光ありて、
遠く
人の世のあらゆる
勝利の神と名告らせ給へり。
テルシテス、ツォイロスの合体
いやはや。己は丁度
お前さん方は皆悪いから、小言を言わねばならん。
だが、その中で己の目星を附けているのは、
あの上にいなさる勝利の神さまだ。
あんな真っ白な羽を
鷲かなんかのような
自分が顔を向けさえすりゃあ、土地も人間も、
我物になると思っていなさるのだろう。
ところで、どこで誰が誉められて幅が利くのでも、
己はすぐに癪に障ってならないのだ。
なんでも低い奴を持ち上げて、高い奴を
押し落して、曲ったのを
云うことにしなくては、己の虫が承知しない。
己は世の中の事をそうあらせたいのだ。
先触
こら。やくざ
誉ある一打を
背中を曲げて、のた打ち廻るが
はあ。一寸坊の二人寄って出来た片羽者奴が、
見る見る胸の悪い
や。不思議だ。塊が卵になる。
そいつが
中から飛び出す二匹の獣は、
獺は
蝙蝠の黒い奴は天井へ飛び上がりおる。
はあ。一しょになって外へ逃げ出しおる。
あの三匹目の仲間には、己はなりたくないなあ。
耳語
さあ。奥ではもう踊っていますぜ。○いや。わたしは
もう帰ってしまっていたらと思っています。○
そろそろ怪しい物共がはびこって来て、
我々の
髪の毛の上をしゅうと云って通りますぜ。○
なんだか足にちょっと障ったようです。○
誰も怪我はしやしません。○
でもみんな気味を悪がっています。○
もう
畜生奴等がこうしようと思ってしたのです。
先触
わたしは仮装の会で
先触の役を仰せ附けられてから、
御門で真面目に見張っていて、
この慰の場所へ、あなた方に禍を及ぼすものが
忍び込む事のないようにしています。
わたしはぐら附きもせねば、怪しい物を
化物が這入るかも知れません。あなた方の
魔法にお掛かりになるのを、
防いでお
なるほどあの一寸坊も少し怪しゅうございましたが、あれ、
あの奥の方からもまたどやどや遣って来ますね。
あいつらがなんだと云うことは、
役目ですから、説明をしてお
しかし理解の出来ない事は、
説明も出来兼ねます。
皆さんに教えて戴きたいものです。
御覧なさい。あの人の中を遣って来るものを。
四頭立の立派な竜の車が
どこでも構わずに通って来ます。
そのくせ人を押し分ける様子はなくて、
どこにもひどい混雑は起りませんね。
丁度幻燈でもしているように、
遠い所でぴかぴかしている。色々の星が
迷い歩いて光っている。や。竜の車の竜が
鼻を鳴らして駆けて来る。道をお
わたしも気味が悪い。
竜ども。少し羽を休めい。
己の馴れた
制するから、お前達も自分の体を制するが
そして己が励ますとき、また走って行け。
この場所で粗忽があってはならないのだ。
それ、そこらを見廻せ。お前達を感心して
御覧になる方々が、幾重にも圏をかいていなさる。
さあ。先触の先生。あなたのお流義で、
わたしどもの
わたしどもの名を指して、講釈をなすって下さい。
御如才はありますまいが、
わたしどもはアレゴリアです。象形です。
先触
お前さん方の名を言うことは出来ないが、
見た所を説明することなら出来るでしょう。
童形の馭者
さあ。遣って御覧なさい。
先触
さよう。どう云おうか。
先ず、お前さんは美少年だ。
だが、まだ一人前にはなっていません。御婦人方は
お前さんが立派な男になった所が見たいでしょう。
どうも見受ける所が、お前さんは数奇者になって、
女を迷わすには持って来いと云う様子だ。
童形の馭者
その辺は可なり受け取れますね。跡はどうです。
面白い謎の
先触
目から黒い稲妻が出ている。髪の毛の闇夜に、
宝石で飾った紐が、晴やかな趣を添えている。
そしてその肩から
濃い紫の縁を取った、宝石の飾のある上衣は、
なんと云う美しい著物だろう。
意地悪く出れば、女のようだとも云いたくなるが、
なんのかのとは云うものの、今でもお前さんは
もう娘子達には好かれていますね。
恋のいろはを教えてくれたでしょうね。
童形の馭者
そこでこの車の上に座を占めておいでになる、
お立派な方をどなただと思うのですか。
先触
どうしてもお国が富んでいる、仁徳をお
王様と見えますね。御寵遇を受けるものは
どこかで何かが足りなくはないかと、捜すように
見渡して、人に物を遣る浄い
我富よりも
童形の馭者
まだその辺で止めては行けません。
もっと精しく説明なさらなくては。
先触
どうも威厳は説明がせられませんな。
しかし月のようなお顔はお丈夫そうで、
脣はふっくりとして、血色の
冠の飾の下にかがやいている。襞のある
お召物を召した所が、お気持が好さそうだ。
行儀作法はなんと申して
あって見れば、申すまでもありますまい。
童形の馭者
これは富の神と名に呼ばれておいでになる、
プルツス様が
この国の
先触
そしてお前は誰で何をしなさるのか。
童形の馭者
わたしですか。わたしは物を散ずる力だ。詩だ。
自分の一番大事な占有物を
そして自分の器を成す詩人だ。
わたしも無限の富を有している。
自分で値踏をして、プルツス様に負けぬ
富の神の饗応や舞踏を飾って賑やかにして、
神の持っておられぬ物を、わたしが蒔き散らします。
先触
なるほど。その自慢話はお前さんの柄にある。
しかし腕前が見せて貰いたいものですね。
童形の馭者
さあ、御覧なさい。ここでわたしが指をこう弾く。
するともう車の
それ、そこから真珠を繋いだ緒が出て来た。
(指を弾くことを停めず。)
さあ、お取なさい。金の耳飾に頸飾だ。
指環に
どうかすると、ちょっとした火も出します。
どこかへ燃え附かせて遣る積で。
先触
はあ。あのおお勢が争って拾っていること。
これでは蒔く人が押し潰されそうだ。
夢を勝手に見させるように、指で宝を
弾き出すのを、みんなはこの広場一ぱいになって、
拾い廻っている。や。新しい手を出したな。
誰かが急いで手に取ると、
取った物が飛んで行く。
これはほんの無駄骨折だ。
真珠を繋いだ緒は解けて、
手にはかなぶんぶんがむずむずしている。
や。可哀そうに。棄ておった。棄てた虫が
頭のまわりを飛び廻っている。
外の奴は
軽はずみな蝶々を
横著小僧奴、前触だけが大きくて、
ただ
童形の馭者
見受ける所、お前さんは仮装だけの事は
披露してくれなさるが、殻を割って
宮仕をする先触の
それにはもっと鋭い目がいる。
だが、喧嘩にはわたしはしない。
さて、王様、わたくしはあなたに伺います。
(プルツスに向きて。)
あなたはわたくしにこの四頭曳の竜の車を
お
思召どおりに旨く馭しましたでしょう。
お望の場所に来ていますでしょう。
大胆な翼を振って、あなたのために
成功の
あなたのために働いた度ごとに、
これまで成功しなかったことはありません。
そこであなたの額を月桂冠〈[#「月桂冠」は底本では「月柱冠」]〉が飾るなら、
それを編んだのはわたくしの心と手とでしょう。
富の神プルツス
うん。己に証明をして貰いたいと云うなら、
己は喜んでこう云って遣る。「己の心を獲た奴だ。」
お前は己の意図のとおりに働く。
お前は己より富んでいる。
功を賞してお前に遣る緑の枝は、
あらゆる己の冠よりも尊いのだ。
己は皆に聞えるように、本当の事を言う。
「愛する我子よ。お前は己の気に入っている。」
童形の馭者(群集に。)
皆さん御覧。わたしの手で蒔かれるだけの
最大の宝をわたしは蒔いた。
そこここの皆さんの頭の上に、
わたしの附けた火が燃えています。
一人の頭から余所の頭へ飛ぶのもある。
あの人には
稀にはぱっと燃え立って、
短い
だが大抵はその人の知らぬ間に、
悲しく燃えて消えるのです。
女等の耳語
あの四頭立の竜の車に乗っているのは、
あれはきっと山師よ。
あの
ついぞ見た事のない程、
きっとつねっても覚えない位よ。
痩せたる人
胸の悪い女ども。寄るな、寄るな。
己はいつ来てもお前達の気には入らないのだ。
まだ女と云うものが
己の名はアワリチアだった。倹約だった。
その頃は家の工面が好かったよ。
なるたけ多く取り込んで、外へはちっとも出さない。
己は
それが悪い道楽だったとでも云うのかい。
ところが近年になって見ると、
女は倹約なんぞはしなくなって、
悪い
欲しい物が
そこで亭主の難儀は一通でない。
どっちへ向いても借財だらけだ。
女は引っ手繰られるだけ引っ手繰って、
著物にする。好いた男に遣る。
前より旨い物を食う。世辞たらたらの
男連中と、食うより一層余計飲む。
そこで己は
己はもう倹約ではなくって、吝嗇だ。
女の
お前のような毒竜は、毒竜仲間で
けちにしていなさるが
そうでなくても、男は扱いにくくなっているのに、
こいつは男をおだてに来たのだよ。
群をなせる女等
あの
あいつの
竜は竜でも、木に紙を貼った竜だわ。
さあ、行って退治て遣りましょう。
先触
東西々々。己はこの杖に掛けて取り鎮める。
や。己が手を出すまでもないな。
皆さん御覧なさい。あの恐ろしい獣が
瞬く隙に
前後二対の羽を拡げました。
鱗で囲んだ、火を噴く口を、
竜奴、おこってぱくつかせおる。
人は皆逃げてしまって、場は
(プルツス車を下る。)
おや車をお
相図をなさると竜が動く。
櫃を車から卸して
金と吝嗇と一しょに
あのお方の足の下に据えて置く。
どうして置いたか、不思議ですね。
富の神(馭者に。)
これでお前はうるさい重荷を卸した。
お前は自由自在の身だ。さあ、自分の世界へ往け。
ここはお前の世界ではない。乱れて、交って、
荒々しく、醜い物共が己達を取り巻いている。
あのお前が澄み渡った空を見渡す所、
自分を自由にして、自分だけを信用している所、
善と美とだけが気に入る所、
あの寂しい所へ往け。あそこで自分の世界を作れ。
童形の馭者
そんならわたくしは
そしてあなたを近い親類のように敬っていましょう。
あなたのいらっしゃる所には富有がある。
わたくしのいる所の人は大した利益を得た気でいる。
中にはむずかしい境界に迷うものもあります。
あなたに附こうか、わたしに附こうかと云うのですね。
あなたに附けば、勿論遊んでいられる。
わたくしに附けば、いつも
わたくしはどこでも隠れて働きなんぞはしません。
ちょっと息をすると、人がすぐに勘付きます。
どれ、お暇をいたしましょう。楽をさせて戴きますが、
小声で一寸お
富の神
さあ、これで宝の
錠前は先触殿の杖を借りて
それ、
解けて、
真っ先に出るのは、冠、鎖、指環の飾だ。
しかし次第に盛り上がって、自分をとろかして埋めようとする。
交互に叫ぶ群集
あれ見ろ。そこにもここにも沢山に涌いて出て、
櫃の縁まで盛り上がって来るじゃないか。○
繋がった貨幣がのた打ち廻る。○鋳型から
飛び出すようにズウカスの金貨の跳るのを見ると、
己の胸はわくわくする。○
己の欲しい程の物が皆目に見えている。
あれ、地の上をころころ転がって来おる。○
己達にくれるのだ。すぐに利用するが
皆しゃがんで取って、金持になろうじゃないか。○
己達の方ではいっその事、電光石火の早業で、
あの櫃をそっくり取るとしよう。
先触
それはなんたる事だ。馬鹿な人達だ。どうするのだ。
仮装会の洒落ではないか。
今晩はもう方外の慾を出して貰いますまい。
お前さん方に
この遊山でお前さん方に上げるには、
小銭にしろ、好過ぎるのだ。
馬鹿な人達だ。巧者な洒落がそのまま
野暮な真実でなくてはならんのですか。
真実が分かりますか。お前さん方はぼやけた
仮装会の大立物の
この連中をこの場から追い出して下さらぬか。
富の神
お前さんのその杖はこう云う時の用意だろう。
ちょっとの間それを己に貸して貰おう。
どれ、ちょいとそれを
さあ。仮装の連中御用心だぞ。
ぴかぴかぱちぱち火の子が飛ぶぞ。
杖はもうすっかり焼けているのだ。
誰でも傍へ寄るものは、
容赦なしに焼かれるのだ。
どれ、これを持って一廻しよう。
叫喚
やあ、溜まらん。己達は往生だ。○
逃げられるものは皆逃げろ。○
己の顔はもう熱くなって来た。○
己はあの焼けている杖の目方で圧されている。○
己達はもう皆助からないぜ。○
仮装連中、退いた、退いた。お先真っ暗で
うようよしている人達。退いた、退いた。○
羽があると、己は飛んで逃げるがなあ。
富の神
もう
群集は跡へ引く。
もう追っ払われた。
だがまた秩序の
目に見えぬ鎖を引いて置こう。
先触
これは大した御成功でした。
旨く
富の神
いや。あなたはも少しこらえて見ていて下さい。
まだいろいろな混雑が出来て来そうです。
吝嗇
こうなればもう、
気楽にこの場のお客達を見ていられる。
やはり何か見るものや食うものがあると、
真っ先に出るのは、いつまでも女だな。
己もまだ
別品はやっぱり別品だ。
きょうは別に物のいるわけでもないから、
己達も安心してからかいに行かれそうだ。
だがこんな人籠の場所では、言うことが
皆誰の耳にも聞えると云うものでないから、
一つ旨い事を
行くだろう。
それも顔や手足だけでは間に合わない。
一狂言書かずばなるまい。
一体
こいつを湿ったへな土のようにして見せよう。
先触
あの痩せた阿房は何を始めるのだろう。
あんな腹の
あいつは
それでも手が障ると軟になるのが妙だな。
しかしどんなに潰しても、円めても、
やっぱりいかがわしい恰好をしているなあ。
やあ。女の方へ見せに行くぞ。
みんなきゃっきゃと云って、逃げようとして、
随分見苦しい風をしおる。
横著者奴、一とおりの奴ではないと見える。
どうもあれは風俗壊乱になる事をして、
面白がっているのではあるまいか。
そうだと、己が黙って見てはいられない。
追っ払って遣りますから、その杖を下さい。
富の神
今どんな事が外から起って来掛かっているか、
あいつは知らずにいるのだ。馬鹿をさせて
お
法律の力は大きい。しかし困厄の力は一層大きい。
唱歌雑遝
山の高きより、森の低きより
防ぎ難き勢もて進めり。
パンの大神を祭れるなり。
誰一人知らぬ事を、彼人々は知れり。
かくて空しき境に進み入るなり。
富の神
己はお前達を知っている。パンの神も知っている。
お前達は団結して大胆な企を始めたのだな。
誰にでも分からぬ事をも、己は知っていて、
謙遜してこの狭い場所を明けて遣る。
己はお前達の好運を祈る。
これからはどんな不思議が現れるかも知れぬ。
あいつ等はどこへ歩いて這入るか知らないのだ。
用心なんぞはしていないのだ。
あらあらしき歌
やよ。粧へる群。
こなたは
あららかに、はららかしに来たり。
森の神等ファウニ
ファウニの群
面白く踊りて出づ。
檞の葉の
細き、尖れる耳
波立つ髪を抜け出でたり。
鼻低く、
されどそは皆
手をさし伸ぶるファウヌスには
美しき限の女、舞を辞むことあらじ。
森の神サチロス
サチロスもまた跡に附きて跳り出づ。
痩せたる
その脛は
そはシャンミイと云ふ
山々の
さて自由の風に心
かの烟
「我も生けり」とのどかに思へる
男、
そはさながらに、物に
かしこなる高き境の我物にのみなれればなり。
土の神等グノオメン
こゝに小走に馳せ出づる小さき群あり。
苔の
一人々々離れて
縦に横に忙はしげに、
かなたこなたといそしみまどへり。
人の家に
近き
高き山に
満ちたる脈より汲み出せり。
「
こは素より世のためを思ひてなり。
われ等は善き人の友なり。
さはれ惑はし盜ませんためにも、
人多く殺すこと思ひ立てる、
心
かの
三つの
その外の戒をもないがしろにせざらむや。
そは皆われ等の
われ等の忍べるごと、おん身等も忍べかし。
巨人
ハルツの山にては知られたる物共なり。
もとより裸にて、力強し。
皆巨人の様して来れり。
粗き
法王の
群なせる水の女
(パンの神を
君も今来ませるよ。
大いなるパンの神は
世界の万有に
厳かなれど、
人の遊び楽むを好み給ふ。
されば
青き
神は常に醒めておはす。
されど
軽き風は優しく君を休ませまつらんと吹けり。
真午時にまどろみ給へば、
すこやかなる草木の芳しき香は
声もなく静かなる空に満ちたり。
その時は水の女もまめやかにあるべきならねば、
たま/\立てりし所にぞ
さてゆくりなく、君が
力強く鳴り響けば、
人皆
戦の
入り乱れたる人等の中に立てる
されば敬ひまつらばや、敬ふべきこの神を、
われ等をこゝへ
土の神等の代表者
(パンの神の許へ遣されたるもの。)
かの
糸引けるごと岩間に流れひろごりて、
たゞ宝を起す奇しき杖にのみ
おのが迷路を示せり。
その時われ等、
暗き岩間に営み起せり。
おん身は恵深くも宝の数々を
清き日影のさす所に分ち給ふ。
さてわれ等近きわたりに
驚くべき泉を見出でつ。
その泉かつて掛けても思はざりし宝を、
たはやすく涌き出でしめむとす。
この事はおん身能く
おん身の
「いづれの宝もおん身の手にあれば、
あまねく世の中に用ゐられむ。」
富の神(先触に。)
これはお互に腹を大きくして考えんではならん。
そして出来て来る事は、出来て来させるが
一体あなたはえらい度胸のある人ではないか。
この場で今恐ろしい事が出来て来るのだ。
現在の人も後の人も、譃だと言い消すだろうから、
あなたの記録にしっかり留めて置いて下さい。
先触
(富の神の猶手に持ちたる杖を握りて。)
一寸坊どもがパンの神様をそろそろと
火を噴く穴の傍へ連れて行きますね。
深い底から高く涌き上がるかと見ると
またその底までずっと沈んでしまって、
穴の口が暗く
そうかと思うと、また真っ赤に
パンの神様は平気で立って、
この不思議な有様を見て喜んでおられる。
真珠のような泡が左右へ飛ぶ。
どうして疑わずにこんな事をさせておられるだろう。
穴の中を見ようとして、低く身を屈められる。
や。お髯が穴に落ち込んだ。
あの綺麗に剃った
お手で我々にお顔を隠しておられる。
や。大変な事になった。
髯に火が移って舞い上がって来る。
被っておられる輪飾に、髪に、お胸に火が移る。
歓楽去って憂愁来るというのがこれだ。
群集が消しに駆け附ける。
しかし誰一人
手に手に打っても叩いても、
新しい燄が燃え立つばかりだ。
火の中に入り乱れて、
仮装の一群は焼けてしまう。
や。口から耳へ囁き交して、
己に聞えて来るのは何事だ。
まあ、なんと云う不幸な夜だろう。
こんな
誰も聞きたく思わぬ事を、
あすの日は触れ散らすだろう。
兎に角所々で叫ぶ声が聞える。
あの御難儀なさるのは「帝」だと。
どうぞ本当でないと
帝とお側の方々が焼けておいでになる。
吠えるような歌いざまをして、
一しょに滅びにおいでになるように、
惑わし奉った奴は
ああ。歓楽も度を
戒を、若いもの共は所詮守ることは出来ないのか。
ああ、全能でおいでなさる
全智でおいでなさることは所詮出来ないのか。
もう火が木立に燃え移った。
尖った燄の舌で舐めるように
木を結び合せた屋根へ燃え上がる。
仮屋全体の火事になりそうだ。
不運はもう十二分だ。
誰が己達を助けてくれるだろう。
さしも一時の盛を極めた、帝王の栄華は
一夜の灰燼になるだろうか。
富の神
もう恐怖も広がって
そろそろ救助に掛からせなくてはなるまい。
大地が震い動き、鳴り響くように、
その神聖な杖を衝き立てて貰おう。
おい。そこの広々とした「
一面に冷たい
水を含んで棚引いている霧を
呼び寄せて、そこらへ漂わせて、
燃えている群集を覆って遣れ。
漂いながら滑って、
そこでも、ここでも火を消しながら闘ってくれ。
苦艱を緩める力のある、湿ったお前達は、
あの虚妄の燄の戯を、
熱くない稲妻に変ぜさせてくれ。
悪霊どもがわれ等を侵そうとする時には、
魔法が
遊苑
[編集]朝日。
帝と殿上人等とあり。ファウスト、メフィストフェレス上品にして目立たざる
ファウスト
そんならあの
帝
(二人を
ああ云う笑談は己は
突然
己は地獄の神のプルトンにでもなったかと思った。
見れば暗黒と煤炭との中に、岩で出来た底が
現れていて、そこに火燄が燃えていた。数千の
猛火はかしこ、ここの裂目から渦巻き上がって、
上の方で円天井のような形に出合っていた。
閃く火の舌で作られている、その絶頂は
合って閉じるかと思えば、また離れて開いていた。
よじれた柱の並んで立っている広間の中を、
人民が長い列を作って歩くのが見えた。
それが大きい
いつもの様に己を敬ってくれた。
中には己の宮中のものも幾人か交っていた。
己は数千の「火の霊」の君主のようであった。
メフィストフェレス
畏れながらあなたが実際そうでいらっしゃいます。
なぜと云うに四大
それで服従している火だけはお験になりましたが、
今荒れられるだけ荒れている海に飛び込んで
御覧なさい。真珠の多い水底をお
明るい緑の波が、自然にふくらんで、立派な
御殿になる。どちらへ向いてお
その御殿は一足毎に附いて行く。
壁は皆活動している。矢を射るように早く、
入り乱れて動く。寄せたり返したりする。
新しい、優しい光を慕って、驚くべき海の化物が
寄って来て、
鮫の
今でもお側にいる御殿のものは楽しく暮らして
いましょうが、海の底の人気は未曾有です。
それでいて、一番お
おいでなさらない。とわに爽かな、立派な御殿を、
物数奇なネレウスの娘どもが覗きに来る。
若いのはこわごわそっと来る。年上のは
横着に出掛ける。
あなたを二代目のペレウスにして抱き着いて
キスをする。それからオリンポス領の御座に。
帝
そんな虚空な領分はお前に任せて置く。
その玉座には
メフィストフェレス
それから
帝
千一夜の物語から、すぐに抜け出したような
お前がここに来たのは、実に
あの宰相の娘のシェヘラツァデのように
お前も才に富んでいるなら、最上の褒美を遣ろう。
随分この現実世界は己の気に入らぬことが
度々あるから、お前は己の召すのを待っていろ。
中務卿(急ぎて登場。)
わたくしの
このお知らせのような、最上の幸福と申すべき
お知らせを、御前で喜んで奏聞いたすことが
わたくしの生涯にあろうとは存じませんでした。
借財は皆片附けました。
爪の鋭い高利貸どもも黙らせました。
わたくしは地獄の苦を免れました。天に
こんな好い気持の事はありますまい。
兵部卿(続きて急ぎ登場。)
給料を割払にいたして遣しまして、
全軍に新規に契約をいたさせました。
槍兵どもは新しい血が
酒保や
帝
お前方、
皺の寄った顔まではればれしているな。
それにひどく
大府卿(
どうぞこの
ファウスト
いや。それは尚書様から奏聞なさるが
尚書(緩かに歩み近づく。)
長生をいたした甲斐に、嬉しい目に逢いました。
そんなら、あらゆる苦艱を歓楽に変えた、
この大切な
(朗読。)
「凡そ知らむことを願うものには、悉く知らしめよ。
この一枚の紙幣は千クロオネンに通用す。
帝国領内に埋もれたる無量の宝を
これが担保となす。その宝は
直ちに発掘して、兌換の用に供すべき
準備整えり。」
帝
不届な、
ここにある己の親署は誰が贋せた。
こんな罪を犯したものが刑罰を免れたのか。
大府卿
それはあなたのお筆でございます。お
あるはずです。つい昨晩でした。パンの神になって
いらっしゃる所へ、尚書がわたくし共と
一しょに参って、「この祭のお祝に、万民の
幸福になる件に、一筆お染下さるように」と
申すと、お
奇術を心得たものに申し附けて、
御慈愛が国中に行き渡るように、
わたくしどもが千万枚紙幣を刷らせました。
十、三十、五十、百クロオネンが別々に出来ました。
人民の喜はどんなだか、御想像が出来ますまい。
あの半死半生で、黴の生えたようであった
都を御覧なさい。皆生き上がって、楽んで
上を下へといたしています。これまでも世に
幸福をお
喜んでお名を見たことはありません。人が皆
助かる、このお名の外の
帝
そして人民は金貨の
宮中や軍隊の給料の全額払が出来るのか。
そうだと、奇怪だと思うが、認めずばなるまい。
大府卿
受け取って走って行ったものを、支えることは
所詮出来ません。稲妻のように駆け散りました。
銀行の門口は
無論手数料は取るが、一枚一枚
金銀貨と引き換えて遣っている。
それを受け取って肉屋、パン屋、酒屋へ行く。
なんでも世間の人間が半分は食奢、半分は
着奢に浮身を
商人は反物を切っている。
「帝王万歳」を唱えては、どこの穴蔵も景気好く、
メフィストフェレス
誰でも公園の階段あたりを散歩すると、
別品が立派にめかして、人を馬鹿にしたような
孔雀の羽で、片々の目が隠れるようにして
通るのを見るでしょう。それがわたくし共に笑顔を
見せて、札に横目を使います。才智や弁説で
口説くより、早く
もう誰も財布や
及ばない。札一枚なら楽に懐中に入れられる。
色文と一しょに持つにも便利だ。
坊主は
兵隊は「廻れ右」が早く出来るように、
胴巻を軽くする。あなたのなすった
大事業が、下々の小さい所へどう響くかと
云う話が、下卑て来まして済みません。
ファウスト
お国中で地の底深く動かずに、待っている
宝の有り余る数々は、用に立たずに
寝ています。どんな大きい計画も、
そう云う宝のためには、
空想を馳せられるだけ馳せさせて、
努力を尽しても、至らぬ勝である。
しかし深く物を察することの出来る達人は、
無際限なるものに無限に信を置きます。
メフィストフェレス
金銀珠玉の
便利です。値を附けたり、両換したりせずに、
持っているだけの物が分かる。酒と色とに
浮かれたいだけ浮かれられる。そして硬貨が
欲しくなれば、両換屋が待っている。
そこになくなれば、ちょいとの
出て来た杯や鎖を競売にして、
すぐに紙幣を償却する。そして厚かましく
悪口を言う、疑深い奴に恥を掻かせて遣る。
馴れてしまえば人は外の物を欲しがりはしない。
そうなれば、御領分の国々に
宝も、金銀も、札も有り余って来ます。
帝
いや。己の国はお蔭で大した福利を得た。
出来る事なら、功に譲らぬ賞が遣りたい。
領内の地の底はお前方に任せて置く。
お前方は宝の立派な番人だ。宝の
広い場所を知っていることだから、
掘る時はお前方の指図で掘らせる。
宝の
下の世界が上の世界と、相呼応して
福利を致すような位置に立っている
この場合の役目を、楽んで勤めてくれい。
大府卿
この人達とわたくしは少しも喧嘩はしますまい。
魔法使を同役にするのは
(ファウストと共に退場。)
帝
そこで御殿にいるものに、一人々々札を遣るが、
それをなんに使うか言って見い。
舎人(金を受く。)
面白く、
他の舎人(同上。)
すぐに女に鎖と指環を買って遣ります。
侍従(金を受く。)
これまでよりも倍旨い酒を買って飲みましょう。
他の侍従(同上。)
もうかくしの中の
旗手(沈重に。)
質に入れた邸や田畑を受け出します。
他の旗手(同上。)
これまでの貯蓄の中へ、これもやはり入れて置きます。
帝
己は愉快に、大胆に新しい事でもするかと思った。
しかしお前達の人柄を知っていれば、大抵分かる。
それで己も分かったが、幾ら宝が
お前達は
阿房(進み出づ。)
下され物があるのなら、わたくしにも下さいまし。
帝
また生き戻った所で、飲んでしまうのかい。
阿房
この魔法の紙切はどうも好く分かりません。
帝
そうだろう。どうせろくな使いようはすまい。
阿房
また一枚落っこちました。これはどういたしましょう。
帝
お前の手に落ちたなら、お前が取って置くが
(退場。)
阿房
やあ。五千クロオネン手に入った。
メフィストフェレス
二本足の酒袋奴。生き戻ったか。
阿房
これまで度々遣りましたが、今度が一番上出来です。
メフィストフェレス
額に汗を掻いて喜んでいるな。
阿房
ちょっと見て下さい。これが
メフィストフェレス
うん。お前の咽や腹の欲しがる物は皆買える。
阿房
では田地や家や牛馬も買えますか。
メフィストフェレス
知れた事だ。出しさえすれば、不自由はない。
阿房
では山林や猟場や
メフィストフェレス
無論だ。
お前がその城の殿様になった顔が見たいな。
阿房
はあ。今度は一つ大地主の夢でも見るか。(退場。)
メフィストフェレス(一人。)
これでも阿房に智慧がないと、誰か云うだろうか。
暗き廊下
[編集]ファウスト。メフィストフェレス。
メフィストフェレス
なぜこんな暗い廊下へ連れて来るのですか。
あの中で面白い事が足りないのですか。
いろんな人の押し合っている御殿の中で、
洒落や目くらがしの種子がないのですか。
ファウスト
そんな事を言ってくれるな。君は昔あんな事は
それに今、あそこで往ったり来たりしているのは、
己の言うことに返事をすまいと云うのだ。
己はしかし
大府卿と主殿とで己をせつくのだ。
なんでもお上が、ヘレネとパリスとを目の前に
出して見せろ、すぐでなくてはならない、
男と女との模範をはっきり
見たいのだと仰ゃるそうだ。
すぐに掛かってくれ。己は違約は出来ないから。
メフィストフェレス
そんな約束を軽はずみにしたのがむちゃです。
ファウスト
それは君の術がどんな成行になると云うことを、
君が前以て考えなかったのが悪い。
お上を金持にして上げたからには、
メフィストフェレス
そんな事がすぐばつが合せられると、あなたは
思っていますね。クロオネンの紙の化物を
出すように、ヘレネが出されると思っていますね。
所がわたし共は今嶮しい阪の下に立っています。
非常な、縁遠い境界へ、あなたは手を出すのだ。
事に依ると、また新しい借金をしなくてはならない。
魔女や、化物や、
なん時でも御用を仰せ附けられますが、
棄てた物ではないとしても、悪魔の色女を
グレシアの女だと云って連れ出しては通りません。
ファウスト
またいつものだらだら拍子のお講釈を聞くのか。
君を相手にすると、万事きっと曖昧な所へ落ちて行く。
君はあらゆる故障の親元だ。
そして一帳場毎に褒美がいる。己は知っている。
君がちょっと呪文を唱えると、出来るのだ。
背後を向いている隙に、すぐ連れて来られるのだ。
メフィストフェレス
いいえ。あんな異端の民にはわたしは関係しない。
あいつ等は別の地獄にすんでいるのだ。
ファウスト
それを聞こう、すぐに。
メフィストフェレス
実は極の深秘は言いたくないのです。寂しい所に
こうごうしく住んでいる女神達がある。
その境には空間もなければ時間もない。
その事を話すのは一体不可能なのだ。
それは「母」達だ。
ファウスト(驚く。)
母達か。
メフィストフェレス
身の毛が弥立ちますか。
ファウスト
母達、母達。なんと云う異様な名だろう。
メフィストフェレス
実際異様な連中ですよ。無常の人間に知られずに
隠れていて、わたし共も名を言いたくない神です。
その家へ往くには、あなたよほど深く
そんな物に用が出来たのは、あなたのせいだ。
ファウスト
そこへ往く道は。
メフィストフェレス
道はありません。歩いたもののない、
歩かれぬ道です。頼まれたことのない、頼みようのない所へ
往く道です。思い切って往きますか。
あなたは寂しさに附き
一体寂しいと云うことが分かっていますか。
ファウスト
まあ、そんな言草は倹約したが
ずっと前に出合った、
あの魔女の台所の
これまでも己は世間に附き合って、空虚な事を
習いもし、教えもしたではないか。
たまに己の目に映じたままを言うと、
人は却っていつもの倍やかましく反対したものだ。
己は厭な目に逢うのを
寂しい山の中へ逃げさえした。
それから丸で棄てられて、一人でいたくなさに、
悪魔に体を任せたじゃないか。
メフィストフェレス
しかし大洋に泳ぎ出して、その沖で
際限のない処を御覧になるとした所で、
溺れて死ぬる
波の
見られますね。凪いだ海の緑を
鯨のようなデルフィインも見えましょう。
雲のたたずまい、月日や星の光も見えましょう。
それと違って、とわに空虚な遠い境には
なんにも見えません。自分の
体を
ファウスト
昔から新参を騙し騙しした、魔法の師の中の
一番の先生のような話振をするね。
ただあべこべだ。伎倆や力量を進めさせに、
君は己を空虚の中へ遣る。
火の中に埋めてある栗を取りに遣られた、
あの猫のように、君は己を扱うのだ。
宜しい。一つその奥を窮めて見よう。
君の謂う空虚の中に、己は万有を見出す
メフィストフェレス
いや。お
兎に角あなたは悪魔の腹を知っていますね。
さあこの鍵をお
ファウスト
こんな小さな物をか。
メフィストフェレス
まあ、馬鹿にしないで、手にお
ファウスト
や。手に取れば大きくなる。光って来る。
メフィストフェレス
どんな貴重品が手に入ったか、分かりますかい。
その鍵が道を嗅ぎ附けて、あなたを連れて
母達の所へ行くのです。
ファウスト(戦慄す。)
母達の所へ。ああ、聞く度に身に応える。
こんなに厭に聞えるのは、どうした
メフィストフェレス
聞き慣れない詞を嫌う程、料簡が狭いのですか。
聞いた事のある詞ばかり聞いていたいのですか。
あなた位
これからどんな詞が聞えたって、平気でなくっては。
ファウスト
いや。己だって凝り固まっている所に福を
求めはしない。戦慄は人生の最上の徳だ。
世間がどんなにあの感じをおっくうにしても、
人間はあれで非常な事を深く感ずるのだ。
メフィストフェレス
そんなら
云っても
もう疾っくに無くなっているものを見て
お
事にお
ファウスト(感奮す。)
宜しい。こう鍵を握ると、力が増して、
胸が拡がるように感じる。どりゃ、
メフィストフェレス
一番深い、深い底に届いたと云うことは、
焼けている五徳を御覧になると分かります。
その火の光で母達が見えるでしょう。その折々で
据わっているのも、立ったり、歩いたりして
いるのもありましょう。
永遠なる意義を永遠に語っておられるのです。
神達には
随分あぶない事ですが、腹を据えてずっと
五徳の所へ往って、その鍵で五徳に障って
御覧なさい。
(ファウスト鍵を持ちて厳かに命ずる如き
それで好いのです。そうすると、
五徳があなたの従者のように附いて来ます。
そして平気でお
神達の心附かぬ間に、五徳を持って帰られます。
旨く持ってお
大胆に始てなさったあなたの手で、例の
男と女とを夜の国からお呼になる事が出来ます。
出来た為事はあなたの功です。
それからは五徳から立つ烟が、魔法の
扱えば、神々に化けるのです。
ファウスト
そこで先ずどうするのか。
メフィストフェレス
下へ
力足を踏んで、段々降りて行くのです。
(ファウスト足踏して降り行く。)
鍵が旨く先生の用に立ってくれれば
この世へ戻って来られるか知らんて。
燈明き数々の広間
[編集]帝、諸侯、殿上人等動揺せり。
侍従(メフィストフェレスに。)
まだ幽霊を出して見せるお約束があるのですぜ。
早くお
中務卿
今もお上がお尋があった。殿様のお顔にも
掛かる事だから、延び延びにしないで下さい。
メフィストフェレス
そのために仲間が行っているのですよ。
あの男がどうすれば好いか知っていて、
どこかへ籠ってこっそり働いているのです。
なかなか一通の骨折ではありません。
なぜと云うに、「美」と云う宝を持ち上げるには、
最高の技術、哲人の秘法がいります。
中務卿
それはどんな術をなさるとも勝手です。
お上はただ早く遣って貰いたいと仰ゃるのです。
明色の女(メフィストフェレスに。)
あなた、ちょいと。わたくしの顔はこんなに
綺麗ですが、夏になるとこんなでなくなりますの。
この白い肌一ぱいに、茶色なぽつぽつが出来て、
下さいな。
メフィストフェレス
お気の毒ですね。あなたのような
別品さんが、五月にはお内の猫のように
なるのですか。青蛙の卵と
水に漬けて、汁を澄ませて、満月の夜に丁寧に
春になってから、斑は出なくなりますよ。
暗色の女
まあ、あなた一人をみんなで取り巻きますこと。
わたくしにもお薬を下さいな。歩いたり、
踊ったりする時もそうですが、ちょっとお辞儀を
いたすにも、足の
メフィストフェレス
わたしのこの足で踏んで上げましょう。
暗色の女
それは恋人同士でいたす事でしょう。
メフィストフェレス
わたしが踏むのは、もっと意味が深いのです。
どこの病気でも、同じ所で直します。
足で足を直す。外の所で外の所を直す。
いらっしゃい。
暗色の女(叫ぶ。)
あ、
踏まれたように。
メフィストフェレス
もうそれで直っています。
踊りたい程お
食べながら、好い人と踏みっこをなさい。
貴夫人(摩り寄る。)
ちょっとお通しなすって。本当にせつないので
ございます。胸が
わたくしを大事にしていた
気が移って、わたくしに背中をお
メフィストフェレス
ちっと難症だが、まあ、お
そっとその男の傍へ寄って、
この炭で筋を附けてお
すると男が後悔して、ぎくりとします。
炭はすぐにあなたが丸呑にするんです。
水や酒で飲むのではありませんよ。今夜のうちに
お寝間の前へ来て溜息を衝きます。
貴夫人
毒にはなりませんの。
メフィストフェレス(怒る振をなす。)
なんですと。失敬な。
その炭はめったに手に入らない炭です。
随分わたし共が骨を折って
あの罪人を焼き殺す火の炭です。
舎人
メフィストフェレス(傍白。)
もうどいつの言う事を聞いて好いか分からない。
(舎人に。)
それは余り年の行かないのに掛かっては駄目だ。
(他の人々寄り集る。)
また
とうとう本当でも言って切り抜けずばなるまい。
ああ。母達、母達。ファウストを返して貰いたいなあ。
(見廻す。)
もう広間の
御殿中のものが一度に動き出す。
皆おとなしく行列を作って、ここの長い
廊下をも、あそこの遠い渡殿をも歩いて行く。
はあ。あれは古い騎士の広間の大きい処に
集るのだ。ほとんど這入り切らない位だ。
大きい壁に
隅や
ここでは
化物どもがひとりでに出て来そうだ。
騎士の広間
[編集]燈の薄明。
帝と殿上人等と入り籠みあり。
先触
化物どもの秘密の働が、狂言の先触をすると云う、
わたしの昔からの役目を、兎角妨げて困ります。
この入り組んだ
説き明そうとするのは、なかなか難儀だ。
椅子や腰掛はもう出ている。
殿様を丁度壁を前にしてお据わらせ申した。
暫くの間は壁紙にかいてある昔の戦争の
絵でもゆっくり御覧になるが好い。
殿様もお側の方々も、皆さんぐるりと
おいでになる。背後はベンチで一ぱいになる。
化物の出る、気味の悪い場でも、好いた同士は
それぞれに隣になるように都合して据わった。
さてこう一同程好く陣取って見ますれば、
支度は宜しい。化物はいつでも出られます。
(金笛。)
天文博士
さあ、狂言を始めた始めた。殿様の
仰だ。壁になっている所はひとりでに
何の邪魔もない。ここでは魔法がお手の物だ。
垂布は火事に燃えてまくれ上がるように消える。
石壁も割れて、ひっくり返る。
奥行の深い舞台が出来るらしい。どこからか
不思議な
そこでわたしは舞台脇へ行っている。
メフィストフェレス
(黒ん坊のゐる穴より現る。)
ここで己は
吹き込んで物を言わせるのが悪魔の談話術だ。
(天文博士に。)
あなたは星の歩く拍子が分かるのだから、
わたしの内証話も旨く分かるでしょう。
天文博士
不思議な力で、ここにかなりがっしりとした、
古代の宮殿が目の前に見えて来る。
昔天を
柱が沢山列をなして、ここに立っている。
二本位で大きい屋根を持つことの出来る
柱だから、これならあの石の重みに堪えよう。
建築家
これが古代式ですか。褒めようがありませんね。
野暮でうるさいとでも云うべきだ。どうも
荒っぽいのを高尚、不細工なのを偉大としている。
わたしどもはどこまでも上へ上へと昇る狭い柱が
わたしどもにはそう云う建物が一番
天文博士
美しい、大胆な空想を
広く自在に働かせるのです。
思い切った、大きい
不可能な所が信ずる価値のある所です。
(反対側の舞台脇よりファウスト登場。)
天文博士
や。術士が司祭の服を著て、青葉の飾を戴いて出た。
大胆に遣り掛けた事を、これから遣るのですね。
うつろな穴から五徳が一しょに上がって来た。
もうあの
この難有い
これから
ファウスト(荘重に。)
無辺際に座を構えて、永遠に寂しく住んでいて、
しかも
生きてはいずに、動いている性命の
おん身等の
ここに動いている。永遠を期しているからである。
万能の権威たる御身等は、それを日の天幕の下、
術士が貰いに行く。そしてその術士は
人の望むがままに、赤心を人の腹中に置いて、
おおように、
天文博士
あの焼けている鍵が鼎に触れるや否や、
暗い霧がすぐに広間を
這い込んで、
並び合ったりして、雲のように棚引く。さあ、
鬼を役する巧妙な術を御覧なさい。物の
動くに連れて、楽の声が聞える。浮動する
音響から、何とも言えぬ物が涌く。その音響は
延びて旋律になる。柱はもとより、その上の
宮殿全体が歌っているかと思います。霧は沈む。
その軽い