コンチリサンの略

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御出生以来千六百三年 慶長八卯四月下旬
コンチリサンのりゃく (一に十七ヶでうともしょうす)

ひとうへだいなかいちだいというは、アニマたすかりということこれりていっさいにんげんおんたすけにてましまおんゼズスきんげんに、「いかにひとへいがいたなごころにぎるといふともそののアニマをうしなはば、なんえきぞ」とのたまへり。また「アニマのたすかりをいかなるざいほうにもあにかへんや」とのたまへり。さればこのアニマのたすかりのためすぐれたるつとめといふは、コンチリサンとてしんじつこうくわいなり。かるがゆゑに、このしょふたさまのことをこころざしてしるすものなり。一つにはこのかくいづれのキリタンためにもなるといへども、べつしてコンピサンきかるべきパテルのなきところは、とがちたるキリタンこのしょよみあきらめ、をしへごとつとめば、そのとがゆるされ、デウスのガラサをかうむたてまつり、つひてんらくうけたてまつるべきみちらせんためなり。二つには、いづれのみちにてもするにおいては、ひとさいすすめをなすべきひとこのしょよみかするか、またこのおもむきかたかするかをもつて、ひとのアニマをみちびかしめんためなりこれべつしてコンヱソル[1]なきところにてすぐれたるつとめなり。こここころべきことあり、するにちかひとは、いまそのひまあらば、このいつかんことごとしめすべし。はやとききはまり、ひまなきにおいては、はじめの一ヶでううちだいだい四のこころと、だい二ヶでうだいでうことわりよみかするべし。ただまたあひかなはぬほどきふならば、めてだいでうもくするところのオラシヨをすすむべし、そのひとくちごもり、このオラシヨをまをことかなはぬにおいては、しんちゅうとなへよとしめすべし、かくごとさいちかきアニマにちからへ、すすめをなすことデウスおんまへにてそのどくしんじんりやうなり。れをいかふに、これしょは、ゼズスひとのアニマをたすたまみちふなはしとなることなりあになほざりならん

第一 コンチリサンのうへおいてなすべき四ヶでうこころこと

だい一のこころといふは、ゼズスはおんあはれふかましまわれにんげんおんおやなるがゆゑに、いかなるざいにんも、そのとがくやかなしみ、あくあらため、ぜんして、たすかれがしとおぼしめすのみなり。これにりて、ゼンチヨ〈異教者〉ときつくりとつくりしつみとがゆるたまはんために、バプチズモのサガラメントをおんさだめたまひ、そのおんどくたてまつるをもつて、つみしづみしものをのこらずせうめつして、つみかはりにくべきげんをもたつしておんゆるたまふものなりなほこのうへに、ひとあさましき、ならはしにて、バプチズモのいごまたとがつべきことあはれたまひて、そのこうくわいためにコンピサンのサガラメントさだたまふものなり。かるがゆゑに、いかなるつみとがなりといふとも、みょうだいさだたまふコンヱソルにをしへのままにたつして、コンピサンをまをすにおいては、あらゆるつみとがことごとゆるたまふべきことなんうたがひあらんや。これりてたれなりとも、バプチズモのいご、モルタルとが〈重罪〉ちたらんほどひとは、そのとがおんゆるしかうむるべきために、コンチリサンをまをさずしてかなはぬといふことをわきまへよ。しかれどもときとしてそのところにパテルありあひなきか、またパテルごんいまつうぜざるか、そのほかコンピサンののぞみありてもかなはざるあはるときのために、このコンチリサンのみちもつさだたまふものなり。コンチリサンとは、しんじつふかこうくわいことなりれば、いかなるあくぎゃくきはまりたるキリシタンなりといふとも、こころしんじつのコンチリサンをもよほし、コンピサンをまをすべきあはせあらんときかならずまをすべしとおもさだむるにおいては、たとひとうにコンピサンをまをさずともあるほどつみとがことごとゆるたまひて、ガラサをたまはるべきものなりかくのごときふかこうかいたつして、かさねてモルタルとがちざるうちするにおいては、そのひとのアニマたすかるべきことうたがひなし。これいていつはたまことかなたまはざるゼズスのおんことばに「なんどきにてもあれ、あくにんそのとがこころそこよりくやかなしむにおいては、そのとがしゃめんたまふ」とのおんやくそくなり。しかればいづれのキリシタンも、しんじつのコンチリサンのもよほしをよくよくるべきことかんえうなり。このすなはこのまきだい二ヶでうもくにあり。

だい二のこころといふは、ひとあるひびやうをかさるゝか、あるひじんとうおもむくか、あるひふなわたりするか、いづれにてもかくのごときいのちあやふことかからんとき、そのにモルタルとがありとわきまへ、コンピサンをまをさんとのぞめども、コンヱソル[1]あはせなきにおいては、すなはこのコンチリサンをもよほさずしてかなはぬことなり。一つにはたれもアニマのたすかりをなげもとめずしてかなはざることなればなり。二つにはいづれのひとかんえうなるときはコンチリサンをなせとのおきてなればなりかんえうなるときといふはみぎにいひしときことなりここにまたこころべきいちだいあり、たとするにちかからずといふとも、なんどきにてもとがちたりとこころるにおいては、じつうつさず、そくぜんたちあがるべきことなりそのゆゑはモルタルとがありながらせば、たすかることかつかなはざれば、ひとうへにいつなんどきしごきたるべきもしれざればなりそくぜんたちあがるべきみちといふはコンピサンかなはぬにおいては、コンチリサンのほかになしとこころよ。しかときしやうねがふべきほどのものは、おのおのこのみちこころにかけずんばあるべからず。

だい三のこころといふは、このコンチリサンをもつて、とがおんゆるしかうむるべきためには、づヒデス〈信仰〉けんなくしてかなはぬことなり。ヒデスなくしてとがをゆるされ、ないしようかなたてまつるといふことかつてなし。このヒデスはつねになくしてかなはざることながら、とりかんえうなるときなほつよくあるべし。れといふはさいときてんべつしてヒデスをうしなはせんとなげものなり。これによりてしんちゅうにか、こといだしてかふべきには「エキレンジヤのおんをしへみなまことなりとヒデスにたてまつなりこのたびしごさしべらるゝとも、またりんじうきはまでこのおんをしへてることあるべからず」とまをして、あらたそのかくうべきものなりそのしんずべきひとつでうもくといふは、りとあらゆるものさくしゃおんあるじデウスいつたいにてましますといふことならびこのデウスばんはからひ、なかにもいつさいにんげんしやうおんたすけにてまします、すなはちパライゾにいたるべきみちをしみちびたまふといふことまたこのおんあるじわれぜんしやうぜんあくしたがつてらいらくしやうばつおんあたへてなりかみほとけといふはいづれもわれにひとしきにんげんなれば、ぜんこうはからひ、ぜんあくしやうばつあたふることかつかなはずとことまたこのばんぶつさくしゃおんはからひにてましまデウスしやうたいは、ただいつたいましませども、パテルリヨスピリトサンとて、三ツのペルソナとまをたてまつことあり。パテルとはおんおや、ヒリヨとはおん、スピリト サントとは、おんおやおんとよりたまふペルソナにてましまなり。かるがゆゑに、デウスパテルも、デウスヒリヨも、デウススピリト サントも、デウスにてましませども、デウスさんたいにてましますにあらず、ただいつたいなりといふことまたデウスヒリヨはひとたすたまはんがために、にんがいけさせられ、ビルジンのサンタマリアよりうまたまひ、ひとたすかるみちをしへさせられ、つひにはわれにんげんざいしやうかはりとして、おんいうおんうへより、あくにんわたたまひ、しゅじゅごくげんしのたまひ、クルスかかたまふとことまたをはりに、いつさいにんげんもとにくしんよみがへらせたまひ、おんぢきあまくだりたまひて、一にんづつぜんあくおんただりて、らくそれぞれあておこなはるべきといふことしょせんデウスひととがゆるたまひ、ガラサをあたたまひ、アニマをたすたまことらいは、このおんたすけにてましまますゼズスごくりきことなりことさてこのゼズスまをたてまつるは、まことデウスまことおんひとにてましますとことこれみなヒデスにたてまつるべきでうでうなり。

だい四のこころといふは、このコンチリサンをもつて、とがおんゆるしかうむらんとおもひとは、まづデウスないしようふかたのもしくぞんじ、ゼズスのどくふかたのみをかけたてまつるべきことかんえうなり。たとをかせるとがうみよりもなほふかく、またそのとがかずさごよりもおほく、すでにヒデスもうしなほどのことたりといふともしんじつのコンチリサンありて、それとがこうくわいするにおいては、うたがひなくゆるたまふべしとふかたのみたてまつるべきことなり。ゼズスのごじひふかましますこと、さらそのへんさいもなく、またおんたすけゼズスのながたまおんどくくわうだいにましますことをまをさば、いませんまんりやうかいしゅつげんして、れにぢゅうするほどにんげんつみとがなりとものこさずもらさずせうめつたまふべきためにも、おんてきどくなほあまりあることなるに、いかにいはんなんぢにんつみゆるたまはんに、一てきにてもましまさず、りやうおんくるしみをしのたまひたるうへに、おんことごとしたつくしてながたまことなれば、そのおんどくにて、なんぢつみめつたまふべきに、なんぞうたまふべきや、このふかたのしくぞんじたてまつるべきなり

第二 コンチリサンとはなにごとぞといふこと、
ならびにコンチリサンをつとむるみちこと

いまここすべきことわこれかんえうなりこのむねたつしてつとむるにおいては、コンチリサンのほんいたるなり。あるほどつみとがことごとめつして、デウスかんゆるされたてまつことなりまづコンチリサンといふは、わがをかせしほどつみとがは、みなデウスそむたてまつらうぜきなるところふかくいかなしみ、そのとがこころそこよりにくきらひ、われこころくるしめ、いかなることたいしてもせまじかりしものをとおもひ、こんいご、モルタルとがもつデウスふたたそむたてまつことるべからずとかたおもさだむることなりまたせつてコンピサンをまをすべしとのかくもなすべきものなりこれすなはちコンチリサンなりこれなほひろくいふときは、コンチリサンのためかんえうなることすうでうあり。

一つには、こしかたしんたいかへりみ、モルタルとがちたることりやいなやをおもすべし。あるひはヒデスをうしなひ、かみほとけおがみしことまたはゼンチヨ〈異教者〉をしへしんじ、たのもしくおもひしことありや、またひとにくみ、そねみ、あくこうざふごんし、ぐわいぶんうしなはせ、あだをなしたることりや。またわがつまにあらざるをんなをかしたることりや、そのほかデウスおきてそむき、おほきにみちはづれたるあくをなしたるや、とわがうへきうめいするべし。

二つには、かくのごとくをかせしとがおほかたおもだしてのちそのとがはいふにもおよばず、わすれたるとがをもどうぜんこうくわいすべし。そのこうくわいまたかるぐわいめんすべからず、デウスひとこころのうちたまへば、そとばかりにてはかたてまつことかなはず、こころそこよりをかせしとがふかかなしみくやみて、いかなるとくるといふとも、またしんめいはたすとふとも、すまじきものをとくやみ悲しむべし。こここころべきことあり、ときとしてうへしゅじゅあんしてみれども、モルタルとがを一つもおもひいださぬことあり。これあるひとがよくわきまへざるか、あるひしつねんしたるいはれなるべし。たとひありといふとも、とがなしとあんしてことなかれ。わきまへざるとがと、しつねんしておもいださぬとがをもこうくわいするべし。そのゆゑとがりながらしとおもひて、そのこうくわいなくんば、インヘルノにおとさるべきにりてなり

三つには、コンチリサンのこころあてといふは、とがゆゑにインヘルノにつべきことかなしむにもあらず、またとがゆゑにパライゾのらくうしなふべきとことかなしむにもあらず、そのほかそんしつかへりみてかなしむにもあらず。だいなげかなしむべきこころあてといふは、ひとしんしんこればんにこえて、(?ママこころおよちからつくしてたいせつおもたてまつるべきくわうだいへんおんあるじゼズス キリストを、かぎりなくきらたまとがもつそむたてまつりしところをせんいちかなしむことこれまことのコンチリサンなりこれよくわきまへるべきためるべきことあり。インヘルノのくるしみをおそれ、パライゾのらくうしなはんことかなしみてこうくわいかなしこともっともなれども、これいつぺんデウスたいせつよりづるこうくわいにあらず、ただはっおそれ、とくうしなひしとくしつかへりみるよりおこるがゆゑたつしたるこうくわいにあらず。ゆゑこれこうくわいにて、そのとがゆるたまことるべからず、ただかくのごとくこうくわいたりとも、コンピサンをまをすにおいては、そのこうくわいそくなるところおぎなへて、たつしたるおんゆるしをなしたまふものなりしかりといへども、コンピサンなきにおいては、やうあさこうくわいのみにては、そのとがゆるたまことなしとれ。たとへばこれしんたるものの、しゅめいそむき、ろうぜきけんぜしときふちはなさるゝうへつみせらるべきことおそれて、さてもすまじきことをしたるものかなととがくゆるのるゐなりこれさらしゅくんおもこころよりでず、ただわがをおもふいっぺんなり。しかるにこのコンチリサンといふは、デウスおもたてまつたつしたるたいせつよりづるなり。たいせつごじひおんおやにてましまデウスそむたてまつりしところなによりもだい一にくやかなしむことなりたとへばかうなるおやめいそむきてのちとがかなしむにおなじきことなりせっかんおそれてのことにもあらず、ただばんこえて、かうつくすべきあはれみのおやゆゑなくそむきしところくちしくくやしくおもうて、なくしゃめんふがごときなり。

四つには、ぎしとがかなしむのみならず、いまよりいごふたたびモルタルとがをかさず、おきてまゝぎやうまもるべしとけんかくうるべしとのことぎしとがをいかほどくやしくおもふといへども、かさねてとがつることるまじきとのかたさだめなきにおいては、とがおんゆるしあるべからず。かるがゆゑに、コンチリサンをなすべきひとほんさいほかおもひものをつか、そのほかなににてもかくのごとくさまたげあるにおいては、すみやかれをて、ふたたこのみちたちかへることあるじくかたおもり、もしまたひとこんふくことあらば、いそおもなほし、またひとぐわいぶんうしなはせ、そのほかひとそんをさせたることあるにおいては、デウスおきてにまかせ、たうそのつぐのひをなすものか、きふそくかへことかなはずばおひかへすべきものなり。いづれもゆるかせにすまじきとこころおもさだむべし。またびやうしやうへに、かくのごときアニマにかかさはりあらば、たしかなるときそのととのへをなすべきことなりこれそくととのへがたきにおいては、こころただしきうちかきおきをせよ、ひとにはかくちごもり、ほんしやうみだるゝこともあれば、しやうねんなるときととのふべし。

みぎでうほかまたゼズスのおんさだめのごとく、ときのぞみてコンピサンをまをし、さづたまとがおくりつぐのひ〉たしかつとめんとのかくかんえうなりただしこのコンチリサンをなすときにわするゝこともあるべしそのときかくごとおもひさだめずといふとも、とがをゆるされ、ガラサをかうむたてまつさはりとならぬとわきまへよ。ふたたとがをかことなく、あるほどおきてたもつべしとのかくをなさば、そのうちにコンピサンのでうこもるなり。これみなしんじつのコンチリサンのでうなり

ここひとありてふべきには、ひとみなコンチリサンのじやういたがたし、なかにもひさしくあくてたるものは、なほもつかたかるべしと、これもっともなれども、それとてちからおとすべきことにあらず。デウスおんちからたまときは、なににてもあれ、ならずといふことなし。またこのかふりよくいかにもたくさんましませば、われはうよりたまはんとつねたまふものなりしかときいかほどざいしやうふかなりとも、すこしもちからおとすことなかれ。きんげんあらはたまふごとく、「デウスわがこころもんたたたまひ、こうくわいもつこころひらものあらば、よろづつみとがゆるたまはん」とのおんやくそくなり。かるがゆゑに、デウスかふりよくたのたてまつり、しんじつのコンチリサンのじやういたるべきことわれいうなることれ。ただデウスあたたまふべきガラサをのみたてまつるとて、いっこういたづらるべきことにもあらざれば、コンチリサンをおこたよりとなるくわんねんことせうにあらはすべきものなり。

第三 コンチリサンをおこたよりとなるくわんねんこと

コンチリサンといふはみぎしるごとく、とがもつデウスないしようそむたてまつりしところせんいつくやかなしむにきはまれば、こうくわいおこところは、デウスたいせつおんうやまひをすすむるくわんねんは、すなはちコンチリサンをおこたよりとなるべければせうここしるすなり。

だい一、くわんずべきことといふは、デウスおんうへなりこのきみはかりなきごゐくわうおんちからかぎりなきおんちゑおんじひおんあはれみみなもとにて、ていわうしゅくんなかしゅくんてんさくしゃこんじやうしやうおんはからひてにてましますといふことかぎりなきおんちえもつて、ばんおさはからひたまひ、もろものだいもろぜんとくもろうつくしきのみなもとにてましませば、よろづさくものこめはいせられ、つかおもはれたまひ、ばんおぼしまましたがたまふべきたっときみにてましますとくわんずべし。これひきかへてモルタルとがといふは、デウスないしょうそむたてまつぎゃくしんおきてやぶたてまつぢゅうくわなれば、デウスたいたてまつらうぜきなるがゆゑに、そのとがまたはかりなくにくきらはずしてかなはぬことなりとくわんずべし。ここもつはかるに、ほどかうじやうデウスつみをもつてそむたてまつりしこといかほどにもかなしみ、こころそこよりこうくわいし、ふたたそむたてまつるまじくとかたおもさだむることかんえうなりといふことわきまへよ。またこのおんあるじごじひかぎましまさねば、ひとのアニマのたすかりにえて、べつのぞたまことましまさず。ほどふかないしょうそむたてまつりしものわれなりといへども、たいせつもよほされ、ぜんい、こんいごしんたいあらたむべしとぞんたつ(?ママたんてきもろつみとがゆるたまひて、ちょうあいにんめしくはへられんといつもたまふものなり。かるがゆゑひとデウスしかたてまつらうぜきといふは、わがとがゆるたまじくといふたのしきこころをうしなことなりしかればいまこのくわんねんさきとして、しるすべきくわんねんにも、デウスおんあはれふかましまところもくぜんきて、コンチリサンをいたすにおいては、とがゆるたまひて、アニマをたすたまはんとふかたのしくおもふべし。されば、このたのしくおもふこころはへいぜいかんえうなりといへども、とりさいのぞみてせんえうなり。そのゆゑてんたばかりは、ぞんめいあひだデウスごじひしんじにたのませてとがすすめしごとく、いつそくせつだんみぎりは、ふかせつるごじひをいかにもあさおもはせて、たのしきこころうしなはせんとするものなり

だい二のくわんずべきことは、いつぱうよりはデウスわれあたたまおんしなくわんじ、いまいつぱうよりはそのふかおんわきまぞんぜざりしところくわんずべし。まづデウスあたたまおんといふは、さくなされしもろじやうじやうほどこたまとくかねそなたまひて、そのうへにアンジヨ〈天使〉たるアニマをあたたまふものなりこのアニマにちゑふんべつならびにいうとくあたたまひて、なほまたデウスわきまたいせつぞんじ、ぢきをがたのしみたてまつるべきじやうあたたまふものなりしかのみならずとがもつおんそむたてまつりしばつとして、にくしんおこなひたまひ、アニマをばインヘルノのげんしづたましあはせいくほどおよぶべきといへども、ほどさしたまひて、かへつげんざいにてはゆうけんそくさいながらへさせたまひ、しやうにては、こころにもことにもおよばざるをはりなきらくじゆうまんのパライゾをととのおきたまふものなり。またこのきみわれらをたすたまはんために、にんがいけさせられ、クルスかかたまひ、ながたまおんどくもつて、われてんやっこよりのがたすたまふものなりこれみなデウスよりひとあたたまひしおんかずなり。しかるにまたひとよりはそのふかおんわすたてまつり、そのおんれいかはりとして、まことかずつみもつそむたてまつるよりほかことなし。これくわんじてれば、たれかはこのきみばんえてたいせつぞんたてまつらずしてあるべき。たれこのたいせつわたりてそむたてまつりしところこころそこよりかなしまざることるべき。たれいまよりふたたそむたてまつるべからずとかたおもさだめざらんや。

だい三のくわんずべきことといふは、おんあるじゼズスなんぢたいたまひてなしたまおんことこまかにあんすべし。これすなはおんあはれみおんおやふたこころなきいん、アニマのためなさけふかおんつまごとくなるおんわざをしたまことよ。おやみてよりやしなそだて、のちにはばんゆづりあたへるがごとく、まことおんおやにてましまデウスなんぢをバプチズモよりガラサのいのちたまひ、デウスやうめさせられ、たっときユカリシチヤにたまけつにくもつやういくたまひ、つひにはパライゾをゆづたまはんとたまふものなりまたまこといんごとくなることをみよ。ならびなきいんしるしといふは、そのひとためいちめいかろんずるよりほかことなし。しかるにこのきみなんぢためひゃくせんなんしのたまひ、つひにクルスにかかおんながつくたまひて、いちめいはたたまふものなりまたこのきみなんぢがアニマのたしかなるおんつまにてましますゆゑに、なんぢいくたびこのきみないしょうとがもつそむたてまつり、ていしんまもらずといへども、このおんなさけふかましまおんつまは、それにてもなんぢたまはず、そのとがひるがへし、こうくわいをだにもつかまつればそくおぼしめなほされ、もとごとくにまたしたしくおぼしめす。はやこれことわこのきみながそむたてまつらず、たいせつぞんぜずしてかなはずといふごくだうにあらずや。しかるになんぢこれあひかはりて、かうなるおやめいそむごとく、モルタルとがをかしておきてそむたてまつるをもつて、てんりきし、おんてきとなりたてまつり、りやうにまみゆるをんなのごとく、さくものこころうつし、このきみうしろになしたてまつなりこれデウスにくたまひて、あるポロヘタ〈預言者〉もつて、あくにんのアニマをあまをっとあくにんにょにんたまふものなりしかときいかなるあくにんなりといふとも、デウスよりおぼしめたまたいせつと、われデウスはこたてまつたいせつうすく、しかもしんおほことおもあはせてば、たれかはをかせしとがかなしみ、いまよりしんたいあらためんとおもさだめざらんや。

だい四、みぎ三さまのほかに、いまひとたよりといふは、コンチリサンをこころおぼえさせたまへとデウスたてまつことなりこのしょうおんとりつぎには、おんははサンタマリアたのみたてまつるべし。このおんあはれみおんははすなはあくにんおんとりつぎにてまします。デウスこのおんとりあはせをよくきこしめたまふものなりまたデウスのぞたてまつりては、このおんははほどわれのアニマのたすかりをなげたまおんかたべつになし。またこのしるすオラシヨをこころめてまをすにおいては、コンチリサンのふかたよりとなるべし。このオラシヨにコンチリサンのじやういちこまかにあらはすものなりこれつねにもまをすべきオラシヨなりといへども、べつしてするにおよばんときは、くりかへこころをとめていくたびまをすべし。

だい四 デウスたちかへりたてまつるざいにんまをしぐべき
コンチリサンのオラシヨのこと

ばんかなたまはじをはましまさぬデウスおんまへに、かいざんとしてまかりづべきりきなしといへども、はかりなきおんじひたのみをかけ、しょあくつなからけられながら、ただいまおんまへたてまつるなり。さておんはじをはましまさぬへんくわうだいおんあるじきはまりなきぜんとくみなもとにてまします。われあたたまひしあつおんかずまことさいげんなければ、ばんえてふかたいせつぞんたてまつるこそほんなるべきに、はなくしてかへりてざいくわいろしなつくしてそむたてまつりしなれば、いまさらそのしゃめんかうむたてまつるべきにもあらずとわきまたてまつなりわれかつをかせしとがちんたてまつらず、ただざいくわはなはおもく、しかもかずかぎりなきことはくじやうたてまつる。しかりといへども、ごじひわがとがよりもふかく、おんゼズ・キリシトのながたまおんどくわがつみよりもなほくわうだいましますとわきまたてまつるなり。しかときいかおんあるじぢきおんことばに「ざいにんならばわがとがくやむにおいてはなんどきゆるたまはん」とのおんやくそくいまおぼしめいだたまひて、わがつみとがゆるたまへ。すぎとがいまこころそこよりふかくやかなしみたてまつなりごんじやうつかまつことあながしやうにてくべきげんおそれてのことにもあらず、ただひとへたいせつもよほされ、くわうぜんとくはかましまさぬおんそむたてまつりしことかなしみまをなりいまよりわれしんたいあらため、ふたたびモルタルとがをかして、ないしょうそむたてまつことあるまじくかたおもさだたてまつなりしかればいまおんあはれみまなじりざいにんなるわれめぐらせたまへ。わがとがかはりとしてパツシヨはかりなきどくささたてまつれば、これもつかんゆるたまへ。ゼズスのおんどくと、おんふかおんあはれみたのみをかけ、をかせしとがおんゆるしたてまつなりまたこのしょうおんとりつぎには、おんははサンタマリアたのたてまつれば、そのおんとりあはせきこしめらせたまひ、われかんゆるたまひ、そのりきおよばざれどもおんいちぶんふたためしくはたまへとつつしんでたのみたてまつる。アメン。

だい五 バプチズモさづからざるひとも、コンチリサンを
もつとがおんゆるしかうむことかなふとこと

バプチズモをさづかりてのちとがちたるひとは、コンピサンをまをさずしてかなはざるなれば、せつもつてコンピサンをまをすべしとのさだめなして、コンチリサンをいたせば、とがおんゆるしかうむなりかるがゆゑにコンチリサンるにおいては、あはせなくしてコンピサンをまをさずしてするといふとも、パライゾのらくいたるべきことうたがひなし。そのごとキリタンおんをしへちやうもんしたらんゼンチヨ、バプチズモののぞみふかしといへども、さづけなきゆゑちからおよばざるときは、あはせあらばバプチズモをくべしとのさだめをもつみぎのコンチリサンをなすにおいては、すぎつみとがことごとおんゆるしありて、たすたまふべきものなり。但しまづこのまきはじめだいいっぺんうちだい三のこころしるあらはでうたしかにしんぜずしてかなはず。そのうへまたおなへんうちつぎだい四のこころしるたのしきをもたいせずしてかなはざるなりひつきやうだい二ヶでうするところのコンチリサンのでうたつしてつとむべきことかんえうなりすべゼンチヨキリタンとのあひだのコンチリサンのしゃべつといふは、キリタンせつコンピサンをまをすべしとのさだめをなし、ゼンチヨあはせあらばバプチズモをくべしとのさだめあることなり。このほかべつしゃべつなきとわきまふべし。

〈終わり〉

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 投稿者註:confessor / 聴罪司祭、告解師

出典 [編集]

日本に於ける公教会の復活. 前編 国立国会図書館デジタルコレクション

この著作物は、1955年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は1925年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。