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コンチリサンの略

提供:Wikisource


御出生以来千六百三年 慶長八卯四月下旬
コンチリサン〈悔い改め〉りゃく (一に十七ヶでうともしょうす)

ひとうへだいなか一大いちだいというは、霊魂アニマたすかりということこれりて一切いっさい人間にんげんおんたすけにてましまおん耶蘇ゼズス金言きんげんに、「いかにひと偏界へいがいたなごころにぎるといふともそののアニマをうしなはば、なんえきぞ」とのたまへり。また「アニマのたすかりを如何いかなる財寳ざいほうにもあにかへんや」とのたまへり。さればこのアニマのたすかりのためすぐれたるつとめといふは、コンチリサンとて真実しんじつ後悔こうくわいなり。かるがゆゑに、此書このしょ二様ふたさまのことをこころざしてしるすものなり。一つにはこのかくいづれのキリタンためにもなるといへども、べつしてコンピサン〈告解〉きかるべき神父パテルのなきところは、とがちたるキリタン此書このしょ読明よみあきらめ、をしへごとつとめば、其科そのとがゆるされ、天主デウスのガラサをかうむたてまつり、つひてんらくうけたてまつるべきみちらせんためなり。二つには、いづれのみちにてもするにおいては、ひとさいすすめをなすべきひと此書このしょよみかするか、またこのおもむきかたかするかをもつて、ひとのアニマをみちびかしめんためなりこれべつしてコンヱソル[1]なきところにてすぐれたるつとめなり。こここころべきことあり、するにちかひとは、いま其隙そのひまあらば、この一巻いつかんことごとしめすべし。はやとききはまり、ひまなきにおいては、はじめの一ヶでううちだいだい四のこころと、だい二ヶでうだいでうことわりよみかするべし。ただまたあひかなはぬほどきふならば、めてだいでうもくするところのオラシヨをすすむべし、其人そのひと口禁くちごもり、このオラシヨをまをことかなはぬにおいては、心中しんちゅうとなへよとしめすべし、かくごとさいちかきアニマにちからへ、すすめをなすこと天主デウス御前おんまへにてそのどく信心しんじんりやうなり。れを如何いかふに、これしょは、ゼズスひとのアニマをたすたまみち船橋ふなはしとなる事也ことなりあに等閑なほざりならん

第一 コンチリサンのうへおいてなすべき四ヶでうこころこと

だい一のこころといふは、ゼズスはおんあはれふかましまわれ人間にんげん御親おんおやなるがゆゑに、如何いかなる罪人ざいにんも、其科そのとがくやかなしみ、あくあらため、ぜんして、たすかれがしと思召おぼしめすのみなり。これにりて、ゼンチヨ〈異教者〉ときつくりとつくりし罪科つみとがゆるたまはんために、バプチズモのサガラメントを御定おんさだめたまひ、そのおんどくたてまつるをもつて、つみしづみしものを不残のこらず消滅せうめつして、つみかはりにくべきげんをもたつして御赦おんゆるたまふものなりなほ此上このうへに、ひとあさましき、ならはしにて、バプチズモの以後いごまたとがつべきことあはれたまひて、その後悔こうくわいためにコンピサンの秘蹟サガラメントさだたまふものなり。かるがゆゑに、いかなる罪科つみとがなりといふとも、名代みょうだいさだたまふコンヱソルにをしへのままにたつして、コンピサンをまをすにおいては、所有あらゆる罪過つみとがことごとゆるたまふべきことなんうたがひあらんや。これりてたれなりとも、バプチズモの以後いご、モルタルとが〈重罪〉ちたらんほどひとは、其科そのとがおんゆるしかうむるべきために、コンチリサンをまをさずしてかなはぬといふことをわきまへよ。しかれどもときとしてそのところに神父パテル在合ありあひなきか、また神父パテルごんいまつうぜざるか、其外そのほかコンピサンののぞみありてもかなはざるあはるときのために、このコンチリサンのみちもつさだたまふものなり。コンチリサンとは、真実しんじつふか後悔こうくわいことなりれば、いかなる悪逆あくぎゃくきはまりたるキリシタンなりといふとも、こころ真実しんじつのコンチリサンをもよほし、コンピサンをまをすべきあはせあらんときかならずまをすべしとおもさだむるにおいては、假令たとひとうにコンピサンをまをさずとも有程あるほど罪科つみとがことごとゆるたまひて、ガラサをたまはるべきものなりかくのごときふか後悔こうかいたつして、かさねてモルタルとがちざるうちするにおいては、其人そのひとのアニマたすかるべきことうたがひなし。これいていつはたまことかなたまはざるゼズスのおんことばに「何時なんどきにてもあれ、悪人あくにんそのとがこころそこよりくやかなしむにおいては、其科そのとが赦免しゃめんたまふ」とのおん約束やくそくなり。しかればいづれのキリシタンも、真実しんじつのコンチリサンのもよほしを能々よくよくるべきこと肝要かんえうなり。このすなは此巻このまきだい二ヶ條目でうもくにあり。

だい二のこころといふは、ひとあるひびやうをかさるゝか、あるひ陣闘じんとうおもむくか、あるひ船渡ふなわたりするか、いづれにても如此かくのごときいのちあやふことかからんとき、そのにモルタルとがありとわきまへ、コンピサンをまをさんとのぞめども、コンヱソル[1]あはせなきにおいては、すなはこのコンチリサンをもよほさずしてかなはぬことなり。一つにはたれもアニマのたすかりをなげもとめずしてかなはざることなればなり。二つにはいづれのひと肝要かんえうなるときはコンチリサンをなせとのおきてなればなり肝要かんえうなるときといふはみぎにいひしとき事也ことなりここにまたこころべき一大いちだいあり、たとするにちかからずといふとも、何時なんどきにてもとがちたりとこころるにおいては、じつうつさず、そくぜん立上たちあがるべき事也ことなり其故そのゆゑはモルタルとがありながらせば、たすかることかつかなはざれば、ひとうへにいつ何時なんどき死期しごきたるべきもしれざればなりそくぜん立上たちあがるべきみちといふはコンピサンかなはぬにおいては、コンチリサンのほかになしとこころよ。しかときしやうねがふべきほどのものは、おのおの此道このみちこころにかけずんばあるべからず。

だい三のこころといふは、このコンチリサンをもつて、とがおんゆるしかうむるべきためには、づヒデス〈信仰〉けんなくしてかなはぬ事也ことなり。ヒデスなくしてとがをゆるされ、ないしようかなたてまつるといふことかつてなし。このヒデスはつねになくしてかなはざることながら、とり肝要かんえうなるときなほつよくあるべし。れといふはさいときてんべつしてヒデスをうしなはせんとなげものなり。これによりて心中しんちゅうにか、こといだしてかふべきには「エキレンジヤのおんをしへみなまことなりとヒデスにたてまつなり此度このたび死期しごさしべらるゝとも、また臨終りんじうきはまでこのおんをしへてることあるべからず」とまをして、あらたそのかくうべきものなりそのしんずべき一々ひとつ條目でうもくといふは、りとあらゆるもの作者さくしゃおんあるじ天主デウス一躰いつたいにてましますといふことならびこの天主デウスばんはからひ、なかにも一切いつさい人間にんげんしやうおんたすけにてまします、すなはちパライゾにいたるべきみちをしみちびたまふといふことまたこのおんあるじわれぜんしやう善悪ぜんあくしたがつてらいらく賞罰しやうばつ御與おんあたへてなりかみほとけといふはいづれもわれにひとしき人間にんげんなれば、ぜんこうはからひ、善悪ぜんあく賞罰しやうばつあたふることかつかなはずとことまたこの萬物ばんぶつ作者さくしゃおんはからひにてましま天帝デウスしやうたいは、ただ一躰いつたいましませども、罷徳助パテルリヨ斯彼利多スピリトサンとて、三ツのペルソナとまをたてまつことあり。パテルとは御親おんおや、ヒリヨとはおん、スピリト サントとは、御親おんおやおんとよりたまふペルソナにてましまなり。かるがゆゑに、天主デウスパテルも、天主デウスヒリヨも、天主デウススピリト サントも、天主デウスにてましませども、天主デウス三躰さんたいにてましますにあらず、ただ一躰いつたいなりといふことまた天主デウスヒリヨはひとたすたまはんがために、人骸にんがいけさせられ、童身ビルジンのサンタマリアよりうまたまひ、ひとたすかるみちをしへさせられ、つひにはわれ人間にんげん罪障ざいしやうかはりとして、おんいう御上おんうへより、悪人あくにんわたたまひ、種々しゅじゅ御苦ごくげんしのたまひ、十字架クルスかかたまふとことまたをはりに、一切いつさい人間にんげんもと肉身にくしん復活よみがへらせたまひ、おんぢき天降あまくだりたまひて、一人宛にんづつ善悪ぜんあく御糺おんただりて、らく夫々それぞれあておこなはるべきといふこと所詮しょせん天主デウスひととがゆるたまひ、ガラサをあたたまひ、アニマをたすたまことらいは、このおんたすけにてましまます耶蘇ゼズス御功ごくりき事也ことなりことさてこの耶蘇ゼズスまをたてまつるは、まこと天主デウスまこと御人おんひとにてましますとことこれみなヒデスにたてまつるべき條々でうでうなり。

だい四のこころといふは、このコンチリサンをもつて、とがおんゆるしかうむらんとおもひとは、まづ天主デウスないしようふかたのもしくぞんじ、ゼズスのどくふかたのみをかけたてまつるべきこと肝要かんえうなり。たとをかせるとがうみよりもなほふかく、また其科そのとがかずさごよりもおほく、すでにヒデスもうしなほどのことたりといふとも真実しんじつのコンチリサンありて、それとが後悔こうくわいするにおいては、うたがひなくゆるたまふべしとふかたのみたてまつるべき事也ことなり。ゼズスの御慈悲ごじひふかましますこと、さらその邊際へんさいもなく、またおんたすけゼズスのながたまおんどく廣大くわうだいにましますことをまをさば、いま千萬せんまんりやうかい出現しゅつげんして、れにぢゅうするほど人間にんげん罪科つみとがなりとものこさずもらさず消滅せうめつたまふべきためにも、おんてきどくなほあまりあることなるに、いかにいはんなんぢにんつみゆるたまはんに、一てきにてもましまさず、りやうおんくるしみをしのたまひたるうへに、おんことごとしたつくしてながたまことなれば、そのおんどくにて、なんぢつみめつたまふべきに、なんぞうたまふべきや、このふかたのしく可奉存ぞんじたてまつるべきなり

第二 コンチリサンとは何事なにごとぞといふこと、
ならびにコンチリサンをつとむるみちこと

いまここすべきことわこれ肝要かんえうなり此旨このむねたつしてつとむるにおいては、コンチリサンのほんいたるなり。有程あるほど罪科つみとがことごとめつして、天主デウスかんゆるされたてまつ事也ことなりまづコンチリサンといふは、わがをかせしほど罪科つみとがは、みな天主デウスそむたてまつ狼藉らうぜきなるところふか悔悲くいかなしみ、其科そのとがこころそこよりにくきらひ、われこころくるしめ、如何いかなることたいしてもせまじかりしものをとおもひ、こん以後いご、モルタルとがもつ天主デウスふたたそむたてまつことるべからずとかたおもさだむる事也ことなりまたせつてコンピサンをまをすべしとのかくもなすべきものなりこれすなはちコンチリサンなりこれなほひろくいふときは、コンチリサンのため肝要かんえうなることすうでうあり。

一つには、越方こしかた進退しんたいかへりみ、モルタルとがちたることりやいなやをおもすべし。あるひはヒデスをうしなひ、かみほとけおがみしことまたはゼンチヨ〈異教者〉をしへしんじ、たのもしくおもひしことありや、またひとにくみ、そねみ、悪口あくこう雑言ざふごんし、外聞ぐわいぶんうしなはせ、あだをなしたることりや。また我妻わがつまにあらざるをんなをかしたることりや、其外そのほか天主デウスおきてそむき、おほきにみちはづれたるあくをなしたるや、とわがうへ糾明きうめいするべし。

二つには、かくのごとくをかせしとが大方おほかたおもだしてのち其科そのとがはいふにもおよばず、わすれたるとがをも同然どうぜん後悔こうくわいすべし。その後悔こうくわいまた軽々かる外面ぐわいめんすべからず、天主デウスひと心中こころのうちたまへば、そとばかりにてはかたてまつことかなはず、こころそこよりをかせしとがふかかなしみくやみて、いかなるとくるといふとも、また身命しんめいはたすとふとも、すまじきものをとくやみ悲しむべし。こここころべきことあり、ときとしてうへ種々しゅじゅあんしてみれども、モルタルとがを一つもおもひいださぬことあり。これあるひとがよくわきまへざるか、あるひ失念しつねんしたるいはれなるべし。假令たとひありといふとも、とがなしとあんしてことなかれ。わきまへざるとがと、失念しつねんしておもいださぬとがをも後悔こうくわいするべし。其故そのゆゑとがりながらしとおもひて、その後悔こうくわいなくんば、インヘルノにおとさるべきにりてなり

三つには、コンチリサンのこころあてといふは、とがゆゑにインヘルノにつべきことかなしむにもあらず、またとがゆゑにパライゾのらくうしなふべきとことかなしむにもあらず、其外そのほか損失そんしつかへりみてかなしむにもあらず。だいなげかなしむべきこころあてといふは、ひと心身しんしんこればんにこえて、(?ママこころおよちからつくして大切たいせつおもたてまつるべきくわうだいへんおんあるじゼズス キリストを、かぎりなくきらたまとがもつそむたてまつりしところを専一せんいちかなしむことこれまことのコンチリサンなりこれよくわきまへるべきためるべきことあり。インヘルノのくるしみをおそれ、パライゾのらくうしなはんことかなしみて後悔こうくわいかなしこともっともなれども、これ一偏いつぺん天主デウス大切たいせつよりづる後悔こうくわいにあらず、ただはっおそれ、とくうしなひし得失とくしつかへりみるよりおこるがゆゑたつしたる後悔こうくわいにあらず。ゆゑこれ後悔こうくわいにて、其科そのとがゆるたまことるべからず、ただ如此かくのごとく後悔こうくわいたりとも、コンピサンをまをすにおいては、その後悔こうくわいそくなるところおぎなへて、たつしたるおんゆるしをなしたまふものなりしかりといへども、コンピサンなきにおいては、やうあさ後悔こうくわいのみにては、其科そのとがゆるたまことなしとれ。たとへばこれしんたるものの、主命しゅめいそむき、狼藉ろうぜきけんぜしとき扶持ふちはなさるゝうへつみせらるべきことおそれて、さてもすまじきことをしたるものかなととがくゆるのるゐなりこれさら主君しゅくんおもこころよりでず、ただわがをおもふ一偏いっぺんなり。しかるにこのコンチリサンといふは、天主デウスおもたてまつたつしたる大切たいせつよりづるなり。大切たいせつ御慈悲ごじひ御親おんおやにてましま天主デウスそむたてまつりしところなによりもだい一にくやかなしむことなりたとへば孝行かうなるおやめいそむきてのちとがかなしむにおなじきことなり折檻せっかんおそれてのことにもあらず、ただばんこえて、孝行かうつくすべきあはれみのおやゆゑなくそむきしところくちしくくやしくおもうて、泣々なく赦免しゃめんふがごときなり。

四つには、ぎしとがかなしむのみならず、いまより以後いごふたたびモルタルとがをかさず、おきてまゝぎやうまもるべしとけんかくうるべしとのことぎしとがをいかほどくやしくおもふといへども、かさねてとがつることるまじきとのかたさだめなきにおいては、とが御赦おんゆるしあるべからず。かるがゆゑに、コンチリサンをなすべきひと本妻ほんさいほかおもひものをつか、其外そのほかなににても如此かくのごとくさまたげあるにおいては、すみやかれをて、ふたた此道このみち立返たちかへることあるじくかたおもり、もしまたひとこんふくことあらば、いそおもなほし、またひと外聞ぐわいぶんうしなはせ、其外そのほかひとそんをさせたることあるにおいては、天主デウスおきてにまかせ、たうそのつぐのひをなすものか、急速きふそくかへことかなはずば追々おひかへすべきものなり。いづれもゆるかせにすまじきとこころおもさだむべし。また病者びやうしやうへに、如此かくのごときアニマにかかさはりあらば、たしかなるときそのととのへをなすべきことなりこれそくととのへがたきにおいては、こころただしきうち書置かきおきをせよ、ひとにはか口禁くちごもり、本性ほんしやうみだるゝこともあれば、正念しやうねんなるときととのふべし。

みぎ條々でうほかまたゼズスの御定おんさだめのごとく、ときのぞみてコンピサンをまをし、さづたまとがおくりつぐのひ〉たしかつとめんとのかく肝要かんえうなりただしこのコンチリサンをなすときにわするゝこともあるべし其時そのときかくごとおもひさだめずといふとも、とがをゆるされ、ガラサをかうむたてまつさはりとならぬとわきまへよ。ふたたとがをかことなく、有程あるほどおきてたもつべしとのかくをなさば、其中そのうちにコンピサンの條々でうこもるなり。これみな真実しんじつのコンチリサンの條々でうなり

ここひとありてふべきには、ひとみなコンチリサンのじやういたがたし、なかにもひさしくあくてたるものは、なほもつかたかるべしと、これもっともなれども、それとてちからおとすべきことにあらず。天主デウスおんちからたまときは、なににてもあれ、ならずといふことなし。またこのかふりよくいかにも澤山たくさんましませば、われはうよりたまはんとつねたまふものなりしかとき如何いかほど罪障ざいしやうふかなりとも、すこしもちからおとすことなかれ。金言きんげんあらはたまふごとく、「天主デウスわがこころもんたたたまひ、後悔こうくわいもつこころひらものあらば、よろづ罪科つみとがゆるたまはん」とのおん約束やくそくなり。かるがゆゑに、天主デウスかふりよくたのたてまつり、真実しんじつのコンチリサンのじやういたるべきことわれいうなることれ。ただ天主デウスあたたまふべきガラサをのみたてまつるとて、一向いっこういたづらるべきことにもあらざれば、コンチリサンをおこ便たよりとなる観念くわんねんこと少々せうにあらはすべきものなり。

第三 コンチリサンをおこ便たよりとなる観念くわんねんこと

コンチリサンといふはみぎしるごとく、とがもつ天主デウス内證ないしようそむたてまつりしところ専一せんいつくやかなしむにきはまれば、後悔こうくわいおこところは、天主デウス大切たいせつおんうやまひをすすむる観念くわんねんは、すなはちコンチリサンをおこ便たよりとなるべければ少々せうここしるすなり。

だい一、くわんずべきことといふは、天主デウス御上おんうへなり此君このきみはかりなき御威ごゐくわうおんちからかぎりなきおん智慧ちゑおん慈悲じひおん哀憐あはれみみなもとにて、帝王ていわう主君しゅくんなか主君しゅくんてん作者さくしゃ今生こんじやうしやうおん計手はからひてにてましますといふこと無限かぎりなきおん智慧ちえもつて、ばんおさはからひたまひ、諸々もろものだい諸々もろ善徳ぜんとく諸々もろうつくしきのみなもとにてましませば、よろづさくものこめはいせられ、つかおもはれたまひ、ばんおぼしまましたがたまふべきたっときみにてましますとくわんずべし。これ引替ひきかへてモルタルとがといふは、天主デウス内證ないしょうそむたてまつ逆心ぎゃくしんおきてやぶたてまつ重科ぢゅうくわなれば、天主デウスたいたてまつ狼藉らうぜきなるがゆゑに、其科そのとがまたはかりなくにくきらはずしてかなはぬことなりとくわんずべし。ここもつはかるに、ほど高上かうじやう天主デウスつみをもつてそむたてまつりしこと如何いかほどにもかなしみ、こころそこより後悔こうくわいし、ふたたそむたてまつるまじくとかたおもさだむること肝要かんえうなりといふことわきまへよ。またこのおんあるじ御慈悲ごじひかぎましまさねば、ひとのアニマのたすかりにえて、べつのぞたまことましまさず。ほどふかないしょうそむたてまつりしものわれなりといへども、大切たいせつもよほされ、ぜんい、こん以後いご進退しんたいあらたむべしとぞんたつ(?ママ端的たんてき諸々もろ罪科つみとがゆるたまひて、ちょうあいにん召加めしくはへられんと毎常いつもたまふものなり。かるがゆゑひと天主デウス仕掛しかたてまつ狼藉らうぜきといふは、我科わがとがゆるたまじくといふたのしきこころをうしなことなりしかればいまこの観念くわんねんさきとして、しるすべき観念くわんねんにも、天主デウスおんあはれふかましまところ目前もくぜんきて、コンチリサンをいたすにおいては、とがゆるたまひて、アニマをたすたまはんとふかたのしくおもふべし。されば、このたのしくおもふこころは平生へいぜい肝要かんえうなりといへども、とりさいのぞみて専要せんえうなり。其故そのゆゑてんたばかりは、存命ぞんめいあひだ天主デウス御慈悲ごじひしんじにたのませてとがすすめしごとく、一息いつそく截断せつだんみぎりは、ふかせつる御慈悲ごじひをいかにもあさおもはせて、たのしきこころうしなはせんとするものなり

だい二のくわんずべきことは、一方いつぱうよりは天主デウスわれあたたまおん品々しなくわんじ、いま一方いつぱうよりはそのふかおんわきまぞんぜざりしところくわんずべし。まづ天主デウスあたたまおんといふは、さくなされし諸々もろじやうじやうほどこたまとく兼備かねそなたまひて、其上そのうへにアンジヨ〈天使〉たるアニマをあたたまふものなりこのアニマに智慧ちゑ分別ふんべつならびにいうとくあたたまひて、なほまた天主デウスわきま大切たいせつぞんじ、ぢきをがたのしみたてまつるべきじやうあたたまふものなり如之しかのみならずとがもつおんそむたてまつりしばつとして、肉身にくしんおこなひたまひ、アニマをばインヘルノのげんしづたま仕合しあはせ幾程いくほどおよぶべきといへども、ほどさしたまひて、かへつ現在げんざいにては勇健ゆうけん息災そくさいながらへさせたまひ、しやうにては、こころにもことにもおよばざるをはりなきらく充満じゆうまんのパライゾをととのおきたまふものなり。また此君このきみわれらをたすたまはんために、人骸にんがいけさせられ、十字架クルスかかたまひ、ながたまおんどくもつて、われてんやっこよりのがたすたまふものなりこれみな天主デウスよりひとあたたまひしおん數々かずなり。しかるにまたひとよりはそのふかおんわすたてまつり、その御禮おんれいかはりとして、まこと數々かずつみもつそむたてまつるよりほかことなし。これくわんじてれば、たれかは此君このきみばんえて大切たいせつぞんたてまつらずしてあるべき。たれこの大切たいせつわたりてそむたてまつりしところこころそこよりかなしまざることるべき。たれいまよりふたたそむたてまつるべからずとかたおもさだめざらんや。

だい三のくわんずべきことといふは、おんあるじゼズスなんぢたいたまひてなしたま御事おんことこまかにあんすべし。これすなはおんあはれみ御親おんおやふたこころなきいん、アニマのためなさけふか御夫おんつまごとくなるおんわざをしたまことよ。おやみてよりやしなそだて、のちにはばんゆづりあたへるがごとく、まこと御親おんおやにてましま天主デウスなんぢをバプチズモよりガラサのいのちたまひ、天主デウスやうめさせられ、たっときユカリシチヤにたま血肉けつにくもつ養育やういくたまひ、つひにはパライゾをゆづたまはんとたまふものなりまたまこといんごとくなることをみよ。ならびなきいんしるしといふは、其人そのひとため一命いちめいかろんずるよりほかことなし。しかるに此君このきみなんぢためひゃくせんなんしのたまひ、つひにクルスにかかおんながつくたまひて、一命いちめいはたたまふものなりまた此君このきみなんぢがアニマのたしかなる御夫おんつまにてましますゆゑに、なんぢ幾度いくたび此君このきみないしょうとがもつそむたてまつり、貞心ていしんまもらずといへども、このおんなさけふかましま御夫おんつまは、それにてもなんぢたまはず、其科そのとがひるがへし、後悔こうくわいをだにもつかまつればそく思召おぼしめなほされ、もとごとくにまたしたしく思召おぼしめす。はやこれことわ此君このきみながそむたてまつらず、大切たいせつぞんぜずしてかなはずといふごくだうにあらずや。しかるになんぢこれ相替あひかはりて、かうなるおやめいそむごとく、モルタルとがをかしておきてそむたてまつるをもつて、てんりきし、怨敵おんてきとなりたてまつり、りやうにまみゆるをんなのごとく、さくものこころうつし、此君このきみうしろになしたてまつなりこれ天主デウスにくたまひて、あるポロヘタ〈預言者〉もつて、悪人あくにんのアニマをあまをっと悪人あくにん女人にょにんたまふものなりしかとき如何いかなる悪人あくにんなりといふとも、天主デウスより思召おぼしめたま大切たいせつと、われ天主デウスはこたてまつ大切たいせつうすく、しかもしんおほことおもあはせてば、たれかはをかせしとがかなしみ、いまより進退しんたいあらためんとおもさだめざらんや。

だい四、みぎ三さまのほかに、いまひと便たよりといふは、コンチリサンをこころおぼえさせたまへと天主デウスたてまつことなりこのしょうおん取次とりつぎには、おんははサンタ瑪利亜マリアたのみたてまつるべし。このおんあはれみ御母おんははすなは悪人あくにんおん取次とりつぎにてまします。天主デウスこのおん取合とりあはせをよく聞召きこしめたまふものなりまた天主デウスのぞたてまつりては、この御母おんははほどわれのアニマのたすかりをなげたま御方おんかたべつになし。またこのしるすオラシヨをこころめてまをすにおいては、コンチリサンのふか便たよりとなるべし。このオラシヨにコンチリサンのじやう一々いちこまかにあらはすものなりこれつねにもまをすべきオラシヨなりといへども、べつしてするにおよばんときは、繰返くりかへこころをとめて幾度いくたびまをすべし。

だい四 天主デウス奉立帰たちかへりたてまつる罪人ざいにんまをしぐべき
コンチリサンのオラシヨのこと

ばんかなたまはじをはましまさぬ天主デウス御前おんまへに、かいざんとしてまかりづべきりきなしといへども、はかりなきおん慈悲じひたのみをかけ、諸悪しょあくつなからけられながら、ただいま御前おんまへたてまつるなり。さておんはじをはましまさぬへんくわうだいおんあるじきはまりなき善徳ぜんとくみなもとにてまします。われあたたまひしあつおん數々かずまこと際限さいげんなければ、ばんえてふか大切たいせつぞんたてまつるこそほんなるべきに、はなくしてかへりて罪過ざいくわ色品いろしなつくしてそむたてまつりしなれば、今更いまさらその赦免しゃめんかうむたてまつるべきにもあらずとわきまたてまつなりわれかつをかせしとがちんたてまつらず、ただ罪過ざいくわはなはおもく、しかもかずかぎりなきこと白状はくじやうたてまつる。しかりといへども、御慈悲ごじひ我科わがとがよりもふかく、おんゼズ・キリシトのながたまおんどく我罪わがつみよりもなほ廣大くわうだいましますとわきまたてまつるなり。しかとき如何いかおんあるじぢきおんことばに「罪人ざいにんならば我科わがとがくやむにおいては何時なんどきゆるたまはん」とのおん約束やくそくいま思召おぼしめいだたまひて、わが罪科つみとがゆるたまへ。すぎとがいまこころそこよりふかくやかなしみたてまつなり言上ごんじやうつかまつことあながしやうにてくべきげんおそれてのことにもあらず、ただひとへ大切たいせつもよほされ、くわう善徳ぜんとくはかましまさぬおんそむたてまつりしことかなしみまをなりいまよりわれ進退しんたいあらため、ふたたびモルタルとがをかして、ないしょうそむたてまつことあるまじくかたおもさだたてまつなりしかればいまおんあはれみまなじり罪人ざいにんなるわれめぐらせたまへ。我科わがとがかはりとして受難パツシヨはかりなきどくささたてまつれば、これもつかんゆるたまへ。ゼズスのおんどくと、おんふかおんあはれみたのみをかけ、をかせしとがおんゆるしたてまつなりまたこのしょうおん取次とりつぎには、御母おんははサンタ瑪利亜マリアたのたてまつれば、そのおんとりあはせ聞召きこしめらせたまひ、われかんゆるたまひ、そのりきおよばざれどもおん一分いちぶんふたた召加めしくはたまへとつつしんでたのみたてまつる。アメン。

だい五 洗禮バプチズモさづからざるひとも、コンチリサンを
もつとがおんゆるしかうむことかなふとこと

バプチズモをさづかりてのちとがちたるひとは、コンピサンを不申まをさずしてかなはざるなれば、せつもつてコンピサンをまをすべしとのさだめなして、コンチリサンをいたせば、とがおんゆるしかうむなりかるがゆゑにコンチリサンるにおいては、あはせなくしてコンピサンをまをさずしてするといふとも、パライゾのらくいたるべきことうたがひなし。そのごとキリタンおんをしへちやうもんしたらん異教者ゼンチヨ、バプチズモののぞみふかしといへども、さづけなきゆゑちからおよばざるときは、あはせあらばバプチズモをくべしとのさだめをもつみぎのコンチリサンをなすにおいては、すぎ罪科つみとがことごとおんゆるしありて、たすたまふべきものなり。但しまづ此巻このまきはじめ第一篇だいいっぺんうちだい三のこころしるあらは條々でうたしかにしんぜずしてかなはず。其上そのうへまたおなへんうちつぎだい四のこころしるたのしきをもたいせずしてかなはざるなり畢竟ひつきやうだい二ヶでうするところのコンチリサンの條々でうたつしてつとむべきこと肝要かんえうなりすべ異教者ゼンチヨキリタンとのあひだのコンチリサンの差別しゃべつといふは、キリタンせつコンピサンを可申まをすべしとのさだめをなし、異教者ゼンチヨあはせあらばバプチズモをくべしとのさだめあることなり。此外このほかべつ差別しゃべつなきとわきまふべし。

〈終わり〉

脚注

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  1. 1.0 1.1 投稿者註:confessor / 聴罪司祭、告解師

出典 

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日本に於ける公教会の復活. 前編 国立国会図書館デジタルコレクション

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