カシノの昂奮

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動


カシノの昂奮――上海奇聞 甲賀三郎


グッド・ルーザー


 国際都市上海のカシノ――といっても堂々と公開しているのではない、共同租界の或るビルジング内のダンスホールに隣合って秘密に開かれているのだが、経営者はガートリという英系ユダヤ人で、租界切っての顔役なので、工部局の役人達も見ぬふりをしている為に、かえって安全というわけで、ひどく繁昌ママしている。もつともここではタキシードや夜会服に着飾ったいわゆる紳士淑女は余り見られない。それ所ではない、ネクタイなしの労働者風の男さえ交っていようというほどで、半分はプロフエツシヨナルばくち打ちである。従って柄は至って悪く、賭博の手段も「ルーレツト」のような悠長なものではなく、カルタの勝負だが、それもブリッジとか、ポーカーとか多少頭脳を使う「ゲ―ム・オブ・ゲス」でなく、手取早い一か八かの「ゲーム・オブ・チヤンス」である。

『あのジャップはひどく気前がいいじゃないか。』

イエスヒー・イズ・エママ・グツド・ルーザー。』

 こんな囁きがカシノの一隅のテーブルを取巻いて見物している人達の間に交された。

 支那事変や欧洲の戦乱も忘れたように、いや、そういうものを忘れようとしてなのかも知れぬ、今宵も国際都市の名にふさわしく、英米仏独伊各国の人間が集まって、勝負に熱中している。勝負に倦きた者や、ありがねを取られて、もう勝負に加われない者が、そのまわりで見物しているのだ。

 勝負の仲間に珍らしく一人の日本人がいた。年はやっと三十を越えた位の青年で、インテリにしては筋骨が逞しく、服装もキチンとしていない所があり、労働者にしては手が白く、態度もしつかりしている。一見得体の知れない青年だが、その賭けぶりが又変っているのだ。彼の賭けっぷりは全然勝とうとしているのではなく、又勝負そのものに興味があるのでもない。時々勝つ事はあっても、少しも昂奮しないし、負けても少しもせらない。負けようが勝とうが、いつも詰らないといったような顔をしている。「ゲーム・オブ・チヤンス」でも勝負はやはり気合だ。そんな賭けぶりだから、いい結果はありそうな事はなく、一進一退はあっても、結局、青年の前に積まれた金はグングン減って行く。しばらくの間に二三千ドルは失ったようである。

 青年がもう一勝負しようとした時に、横腹をグイグイと押すものがあった。見ると、赤毛のドイツ人らしい男である。

 彼は横眼でグイと青年にウインクして、立てという合図をした。

 青年は立ち上った。ドイツ人はグングン歩いて行った。そうして人気の少いママ片隅に立止ると青年が追つくのを待った。

 青年が追ついて立止って、何の用か、という顔をすると、ドイツ人はブロークン・イングリツシユで、

『おい、もう勝負はせよ。』

『どうして。』青年は相変らず大した興味のなさそうな様子でやはりまずい英語で反問した。

『どうして? お前、お前の相手をしている男を、誰だか知ってるのか。』

『いいや、知らんよ。』

『奴アお前、なうてのイカサマ師だぜ。ガートリのカシノ切っての、いや上海中の賭博場で、インチキに掛けちゃ、奴に並ぶものはない。ジム・スペンスてえのが奴の名だが、誰一人本当の名を呼ぶものはない。「稲妻ジム」で通ってるんだ。』

『そうですかね。』

『そうですかって澄ましてる手はないぜ。あだなの通り奴の手先の早業と来ちゃ、何とかして尻尾を押えてやろうと思ってどんなに見張っていても駄目なんだ。だ一度もポロを出した事がないんだ。お前の国の者は手先が器用で、随分凄い腕の者があるてえ話だが、稲妻ジムにかなう者はあるまいよ。』

『そうかなア、インチキなんて、分らないなア。全然。』

『稲妻ジムに掛かっちゃ、しやつちよこだちしても敵いっこないよ。まア、止めとき給え。』

『有難う、御忠告有難う。だが、僕は――』

『思い出して見給え。』ドイツ人は遮って、『君が勝つ時はいつも金額が少いだろう。大きく賭けた時はきっと取られるだろう。大分やられたようだね。少くとも二三千弗』

『未だ二三千弗残ってるんだ。僕ア、何とかして――』

『駄目々々、その何とかして取返そうという気持ママが一番いけないんだ。賭博にゃ禁物だよ。』

『そうじゃないんだ。僕ア何とかして負けちまいたいんだ。』

『えッ。』ドイツ人はびつくりして青年の顔を覗き込んだ。

『実ア、溝ン中へ棄てちゃってもいいんだが、金は金だから人に渡した方がいいと思って――僕ア賭博なんて大嫌いなんだ。せめて酒でも呑めりゃ、グデングデンに酔って暴れ廻るという手もあるが、僕アそれほど呑めないんだしなア。』

『そうか。』ドイツ人は探るように青年を見ていたが、大きくうなずいて『お前失恋したな。』

『失恋?』青年は自嘲するように反問して、『そんな気のいた事じゃないんだ。有難うよ、おおそうだ、君の名は?』

『オットてえんだ。ドイツ人だよ。』

『僕ア名乗るほどの者でもない、名乗っても仕方がないんだが、まア礼儀だ。高橋てえんだ。高橋友吉、オットさん、忠告有難うよ。又御縁があったら会おうぜ。』

 そういって友吉は元のテーブルの方に歩いて行った。

 オットは暫く見送っていたが、やがてひとの事だ、というように肩をちよつとそびやかして、部屋の外に出て行った。


椋鳥


 友吉がオットに目配せされて立上った空席へ掛けるでなし、立ったままでテーブルを覗き込む小柄な男があった。見ると、これもどうやら日本人らしい。今夜は妙な晩である。二人も日本人の客があったのだ。

 小柄な男はキチンとした紳士風はしているが、どことなく下品な所があって、一口にいえば芸人といったような所がある。田舎者が東京に来たように、キョトキョトしている。どうやらこういう所は始めてで、場馴れがしないようである。

「稲妻ジム」はひょいと顔を上げたが、いい椋鳥が来たと思って、『おい、お客さん、一勝負行かないか。』

 相手の日本人は英語が少しは分ると見えて、そういわれた途端に、ビクッとしたが、すぐきれぎれの英語で、

『駄目々々、私、見物ある。勝負しない。』

『何もむつかしくはないんだぜ。何でもないんだ、子供でも出来るんだよ。いいかい、種も仕掛もねえ。このカードを調べて呉ンな。』ジムは一組のカードを差出した。

 小柄な男はモジモジしていたが、カードを手に取ろうとせず、分ったという風にうなずいて見せた。

『じゃ、いいかい、「シヤツフル」するぜ。』

 ジムは器用な手つきでパラパラとカードを混ぜ合せた。

 やがて、ジムはそのカードを小柄な日本人の前に置いて、

『そいつを好きな所から二つに切って呉ンな。』

 日本人は相変らずモジモジしていたが、やがてオズオズとカードを二つに切った。

『そっちの方の上のカードを取るんだ。』

 ジムは二つに切られたうち、下の方だった半分のカードを指した。

 いわれた通り取って開けて見ると、スペードの十だった。

『まア悪かねえや。』ジムはいった。『十だから、九から二まで、下が八つあるし、上はエースまで四つしきゃねえ。八対四だ。今度はお前さん、混ぜ合ママして呉ンな。』

 ジムはカードを小柄な男に渡した。

 小柄な男は少し興味が出て来たと見えて、カードを受取って、不器用な手つきで「シヤツフル」した。

『よく混ぜ合せて呉ンな。混ぜ合いが済んだら、ここへ置いて呉ンな。』と、ジムはテーブルを指して、『そこで俺が二つに切って、下の半分の上の一枚を取るんだが、そこでどうだね、お客さん、いくら張るね。』

『私、賭けない。』小柄な男は手をふった。

『そんなのないぜ。お前さんはもう引いたんだからな。しかも十をさ。したのカードが八枚、うえのカードが四枚、ねえ、お客さん、このカードはお客さんが混ぜ合したんだから、種も仕掛けもねえさ。俺だって何を引き当てるか分りゃしねえ。運賦天賦だよ。全くの話、十を引かれてるんだから、俺の方はとても辛いんだぜ。いくら賭けるね、お客さん。』

 小柄な男は巧みに持ちかけられて、少し意が動いたと見えて、

『十ドル位なら――』

『十弗じゃあね、お客さん、俺ア、百弗以下の勝負はしないんだ。ねえ、お客さん、お前さんはもう十を引いてるんだよ。強いじゃないか。俺ア絵札かエースを引くよりないんだ。』

 小柄な男は暫く考えていたが、やがてポケットを探って、百弗紙幣を出して、ためつすがめつした末、やっとテーブルの上に置いた。

『百弗行きますかい。』

 稲妻ジムはニヤリと笑って、同じく百弗紙幣を出した。

『さア、千番に一番のかね合だ。鬼と出るか、蛇と出るか。』

 と、大袈裟な事をいいながら、ジムは眼の前に置かれたカードを、力を籠めて二つに切った。

『さア、もう泣いても笑ってもこの札だ。』

 切った下の方の一番上の札を取ると、ジムはパッと表向けた。

 クラブのジャックだった。

『おっと、済まねえ、済まねえ。ああ、危なかった。』

 と、ジムはテーブルの上のさつを手早く摑んで、片づけて終った。

 小柄な日本人は丸で狐につままれたような顔をして、暫くポカンとしていた。

 所へ、友吉が帰って来た。

 友吉は小柄な日本人には眼も呉れず、席につくと、すぐジムに勝負を挑みかかった。

 旗色は相変らず友吉に悪かった。

 彼は見る見る千弗、二千弗と失って行った。

 小柄な男は暫く勝負を見ていたが、やがてスゴスゴと引上げて行った。


この煩悶


 カシノ附属の酒場は大勢の客が群れていた。勝った者は威勢よくおごるし、負けた者はやけ酒という訳で、ガブガブと煽っている者もあれば、チビチビ盃をめている者もあり、大声でくだを巻いている者もあれば、ウツラウツラ眠っている者もあるという各人各様の大混雑である。

 そこへ友吉が二度目の勝負を切上げて、フラフラと這入って来た。

 いちはやく見つけたのが、カウンターの所にいたオットであった。

『ハロー、ヘル・タカハシ!』彼は叫んだ。

 友吉はカウンターの所に来て、オットの隣に割込んだ。

『ヘル高橋、どうです、スッカラカンになりましたか。』


 オットはおぽつかない日本語でいった。

『未だ千弗ばかし残ってらア。』友吉は嘲けるようにいった。

『時々勝つもンだからね、案外急にゃ負けられないんだよ。』

『シニョル・ステファニ。』オットは隣にいたイタリー人に向いて、『このヤパナーは何とかして賭博に負けたいんだそうだ。』

『そいつは素敵だ。』ステファニは大分酔っていた。『だが、賭博てえものは逆に出るものだぜ。そういう気持でやりア、却って勝つもンだぜ。』


『所がお前、相手が悪いや。稲妻ジムだからね。』

『稲妻ジムには勝てねえや。そいつア止めた方がいい。』

『所が負けたいてえんだ。』

『変ってるなア。おイ君。』とステファニは友吉に、『君の国の人は皆そうかい。慾がねえてえ話だなア。』

『そうでもねえさ。』と、友吉は片言の英語で、『僕ア別だよ。』

『何だって、又そんなに銭が邪魔なんだい。』

『俺ア。』とオットが引取って、『大方失恋の結果だと思うんだ。』

『僕ア、女を探しに来たんだ。』友吉は突然叫んだ。

『え、女を探しに。』ステファニは怪しいろれつで、『ふうん、お前の国はそんなに女が少ないかい、上海くんだりまで――』

『止せやい。毛唐の女なんかにゃ用はねえんだ。日本の女を探してるんだよ。』

『ハハア。』オットはうなずいて、『お前、逃げた女を探してるんだな。』

『お前可哀想にふられたのか。』ステファニがいった。

『そうだよ、僕ア女に逃げられたんだ。だが、嫌われたのじゃない。僕ア信じてる。嫌われたんじゃない。』

『へえ、お前の国じゃ、嫌わないで、女が男から逃げるのかい。』

『女は売られたんだ。しかも親と名のつく人間に。親といっても只紙の上だけの親だが、やっぱり親にゃ勝てない。女は黙って行ってしまった。きっと泣いていたに違いない。きっと心の中じゃ僕にびていたに違いないんだ。』

 友吉は次第に昂奮して来て、多く日本語で喋るようになった。従って、オットやステファニにはよく分らないのだが、それでも友吉の情熱的な態度のうちに、何か感ぜられるかして、僅かに首を上下しながら黙って聞いていた。

『純真な娘だった。未だホンの子供だったんだ。僕ア上海の空を眺めて、幾晩泣き明したか知れやしない。胸が張り裂けるようだった。オットさん。』と、急に呼びかけて、『お前さんの国の人はこういう時にどうする?』

『どうするって、何の話だかよく分らない――』

『好きな女が無理に遠い土地に連れて行かれた時の話さ。』

『無論追ママかけて行くさ。』

『空手でかい。』

『そうだ.』ステファニが急に大きな声を出した.『そいつア、ヘル・オットが間違ってる。空手じゃいけない。いくらかなくちゃ。』

『シニョル・ステファニ、俺は未だ何ともいってやしないよ。』オットな不服そうにいった。

『僕は働いた。』友吉は関わず喋り続けた。『労働もした。外交員もした。その時まで親のすねかじって学生生活をしていた僕にア、かなりの負担だった。僕ア、屈しなかった。金になる事ならどんな苦労もいとわなかった。』

『ば、賭博はどうだい。』ステファニがいよいよ舌を縺らしながらいった。

『賭博なんかやるもンか。第一日本にゃ、こんなカシノなんてものは全然ないんだ。』

『え、カシノがねえって。ふん、日本人はよくそれで辛抱しているなア。』

『シニョル・ステファニ。』オットがやや鹿爪らしくいった。

『君は知らないのか。日本の社会制度はとても健全なのだ。君は少し学問をする必要があるぞ。』

『それで、君。』ステファニは友吉に、『先を話して呉れ。君は稼いで金を溜めたんだね。』

『五年かかった。カッキリ五年で、五千ドルの金をこさえる事が出来たんだ。』

『堅気でそれだけ作るにゃ、相当骨が折れたろうなア。』

『僕ア、五千弗の金が出来ると、矢のように上海へ飛んで来た。』

『五年ぶりで好きな女に会えるんだから、さぞ飛び立つ思いだったろうなア。』

『それで、どうしたんだ。』オットは促した。

 友吉は黙ってうな垂れた。

『ふむ、そうか。』オットはうなずきながら、『女が心変りしたんだな。』

『よくある奴さ。』ステファニが慰め顔に、『女てえ奴はほうっときゃ半年は持たないからなア。五年は無理だよ。』

『違う。』友吉は突然叫んだ。『それは君達の国の女の話だ。日本の女は違う。五年は愚か、十年でも心変りなんかしない。』

『それじゃ、どうしたというんだ。』ステファニは少しむっとしたように、『何も しよげる事アないじゃないか。』

『死んだんだ。』友吉は又力なくうな垂れた。

『えッ、死んだ。』オットが驚いたように反問した。

『はっきりそう決った訳じゃないんだ。だが、死んだとより思えないんだ。上海に来てから三月の間、必死になって探したけれども、てんで知れないんだ。女のいそうな所は残らず訪ねたし、あらん限りの手段を尽したけれども、何の手掛りもないんだ。』

『上海にいないのじゃないか。』

 オットが慰めるようにいった。

『どこかの土地へ行ったという手掛りがないんだ。もしそうなら誰かが知っていそうなものだが、誰一人知らないんだ。さよちゃんはもうこの世にいない、そんな気がするんだ。』

『その諦めは少し早すぎはしないか。』

『本人がそういうんだからね。』ステファニが口を出した。『三月も尋ねて皆目消息が知れねえと来ると、やっぱり死んだかな。』

『僕ア、誰の為に金を拵えたんだ。』友吉は叫んだ。『誰の為に働いたんだ。五年間、あらゆる慾望を棄て、肉体をさいなみ、ひとから爪弾きされ、あらゆる困苦と侮辱に堪え、そうして得たものは何だ。オットさん、僕が五千弗の金を溝の中に叩き込みたくなった訳が分って呉れますか。』

『分らんな、俺にゃ分らん。』ステファニが叫んだ。『どんな好きな女でも死んで終えばそれっきりだ。折角稼ぎ溜めた金を、稲妻ジムに献上する事はない。俺は不賛成だ。』

『俺は少し分るような気がする。』オットがいった。『それがヤパナーの気持なんだな。金に溺れないというか。はっきりいい現ママわせないが、どこか尊いような気がする。』

『ヘル・オット。』ステファニは呆れたように、『稲妻ジムに五千弗献上するのが尊いというのかい。』

『シニョル・ステファニ、君には分らんよ。』

『確かに俺には分らない。死んだ女の事をいつまで思っていたって、始まらんよ。』

 友吉の昂奮は頂上を越した。彼は夢から醒めた人のように、極り悪そうにあたりを見廻して、『さア、最後の勝負だ。』

 といって、一足二足歩き出した。

 と、その時、入口から五六人の男女の群がなだれ込んで来た。

 男の方はいずれも外人で、やはりカシノの客らしい。女の方はダンサーらしく、中に一人、東洋人が交っている。支那人か日本人か、どうも日本人だ。色の白いきりっと締った明朗そのもののような女性だ。踊子にしては珍らしい、どこかに汚されない美しさがある。


 一二歩踏み出した友吉はそこに棒立ちになっている。彼はダンサーの一人を凝視しているのだ。信じられないという風に、夢を見ているのではないかという風に、ぼうぜんと眺め続けているのだった。

 日本人らしいダンサーは蒙々とたちこめる煙草の煙の中から、酔い痴れて大声を張り挙げている客の喧騒の中から、すべて自分を凝視している日本人を認めた。

 瞬間に彼女も棒立ちになった。

 が、やがて彼女は始めはオズオズと、終りにはツカツカと友吉の傍によった。

『と、友吉さんじゃない――』

『小夜ちゃん、やっぱり。』

 友吉は大きく息を弾ませて、グッと女を抱き寄せた。


最後の百弗


 真夜中をやや過ぎていた。

 さすがカシノの客は宵に比べると半減していた。

 その一隅で、友吉は稲妻ジムと最後の勝負を争っていた。

 今度は友吉の形相が変っていた。前二回は友吉は勝敗は眼中になかった。只胸中悶々の情をやる為に、勝負を争っていたのに過ぎなかった。五千ドルの金は一文残らずなくなっても悔はなかったのである。

 然し、今は違う。彼は残った千弗足らずの金で、何としても五千弗の金を取戻さなければならないのだ。

 友吉は軽率だった。尤も上海であらん限りの手段を尽して三月も探し廻って、何の手掛りも得られなかったとすれば、諦めるのも無理はなかったが、小夜子は五年以前に上海に来ると間もなく北京に連れて行かれ、そこでその多くの日を送って、上海へはく最近に舞い戻って来たのだった。のみならず、今から三月まえに、丁度友吉の上海に来た頃から、彼女は再び北京に赴いていた。ようやく二三日以前に帰ってきたのである。つまり、彼女は上海には極く馴染が薄かったのである。その上に、友吉の探し廻っている間は、彼女は上海にいなかったのだから、全く消息が得られなかった訳であった。

 友吉の眼は血走っていた。彼は懸命に稲妻ジムの手許を見つめていた。もし、イカサマを見つければ、叩き斬って終う意気込みである。従って、ジムも慎重だった。ジムにも友吉の凄い意気は感ぜられるのだ。

 友吉は前の二回の時ほどたやすくは負けなかった。三回に一回位は勝ちを占め、一時は多少盛返した事もあった。然し、今は友吉は焦っている。冷静でいても稲妻ジムには勝味はないのだ。彼はジリジリと追込まれて来た。彼は益々焦り出し、あたりのものもよく見えないほど逆上して来た。こうなっては、もう勝負は見えている。

 友吉は最後の百弗をテーブルの上に置いた。

 これを取られればもう一文なしである。再び勝負を争うべきもとでがないのだ。これに勝てば又運に乗じて盛り返すことも不可能ではない。然し、これを失えばもう万事休すである。りゆうりゆう辛苦して溜めた五千弗、折角小夜子に会って、それだけの金があれば、十分彼女と手を取って日本に帰れるのに、この百弗を最後に、すべての事は水泡に帰するのだ。

 南無八幡! 苦しい時の神頼みで、心に弓矢の神を念じながら、友吉はカードを引いたが、結果は遂いに負けであった。

 友吉はあたりが急に真暗になったような気がした。が、漸く勇気を取戻して、強いて作り笑いをしながら、席を立とうとした。

 と、静かに彼の肩を押える者があった。

 見上げると、例の小柄な芸人風の日本人だった。友吉は掛け違って会っていないが、向うでは様子を見ていたと見えて、ニコニコしながら、

『後を私がやらして貰いますから、見ていて下さい。一人じゃ心細いから。』

 と、いって、友吉が突然の事で止めようとする言葉を出し遅らしている暇に、彼は友吉の席を占め、稲妻ジムに、ブロークン・イングリツシユで、

さつき百弗取られた。あれ、インチキ、人がそういってる。』

『何を。』と、ジムはいきまいたが、相手は素人と考え直して、『冗談いっちゃいけないよ。インチキなんて、飛んでもないいい掛りをつけちゃ困るよ。』

 小柄な男は手真似と身振りを交ぜて、

『私、スペード十引く。すると、君、五十二枚共ジャックのカードとスリ変える。私に混ぜ合わさせる。いくら混ぜ合してもみなジャック、どこ取っても君勝つ。』

『ワハハ……。』哄笑した。『こいつア、妙案だ。だが、そうすると、何だぜ、お前さん。お前さんはまとものカードを切るんだから、何を引き当てるか分りゃしねえ。仮りにジャックを引いて見ねえ。俺は五十二枚共クイーンのカードを、フ……、笑わしちゃいけねえ。そうなりゃ、俺ア、キングばかりのカードだの、何組と持ってなくちゃならないのじゃないか。お前さんの方だって、めくらじゃねえぜ、カードをそっくり取換えられて、てんで気がつかねえというのかい。冗談じゃねえ。』

『君がいつでも高い札カットする。それが不思議ある。』

『俺の指にはな。』ジムはニマリと笑って、、神様が宿ってるのだ。いつでも思う札が切り出せるんだよ。』

『それ嘘ある。君のカード仕掛けある。』

『冗談いうなというのに。お前さんは俺に喧嘩売る気か。俺のカードに仕掛けがあるというなら、誰のカードででも勝負してやらア。』

『それが宜しい。新しいカードでやる宜しい。』

『おい、「あごひげ」』と、稲妻ジムは傍にいたこぶんのフランス人らしい男を呼んで、『帳場へ行って、新しいカードを持って来い。』

 「頤髭」と呼ばれたフランス人はすぐ帳場の方へ飛んで行って、やがて新しいカードを持って来た。

 ジムはチラリとカードを見ただけで、手に取ろうとせず、相手に、

『これなら文句はねえだろう。俺は触らねえから、お前、「シヤツフル」しろ。そしてテーブルの上に置け。俺ア、お前のいう札をカットして見せらア。』

 小柄な男は新しいカードの封を切ると、前回と違って巧みな手つきで「シヤツフル」した。思いなしか、田舎者のようにオドオドした態度も消え失せて、眼の玉がクルクルと鋭く動いて見えた。

 彼は十分に「シヤツフル」すると、カードをテーブルの上に置いた。

 ジムは速る心を押ママえて、わざと冷静を粧いながら、ニヤリと笑った。

『さア、どのカードを切り出すのかい。』

『ハートのエースだ。』

『よし。』ジムはうなずいて、『それで賭はいくらだ。断って置くが、今度は、百弗やそこらじゃ承知しねえぞ。千弗より下はお断りだ。』

『あなた。』小柄な男はボンやりしている友吉に向って、『いくら負けましたか。』

『五千弗です。』友吉は小さい声で答えた。

『五千弗ですか。』といって、小柄な男はジムの方に向き直って、『五千弗行こう。』

『よろし。』

 ジムは五千弗のさつを取出してテーブルの上に置いた。小柄な男もそれに倣った。

 この時に、二人の争いはカシノ中に知れ渡っていた。賭博場に居合せた人達は、みんな勝負を棄てて、稲妻ジムと小柄な日本人との相対しているテーブルの周囲に集った。酒場にいた客も伝え聞いて、ドヤドヤとやって来て、その外側を取巻いた。オットもステファニの顔も見えた。ダンサー達もいた。誰の眼も昂奮で光っていた。只、小夜子だけは気遣かわしそうに、オドオドと見守っていた。

『さア、いいか。』ジムはあたりの人達に聞えるように大声を出した。『このカードを切って、ハートのエースを出せば俺の勝ママだぞ。』

『もし切れなかったら、俺の勝ママだ。』小柄な男は落着き払っていった。彼のブロークン・イングリツユはいつの間にか歯切りママのいい英語に変っていたが、誰も疑念を起す余裕のあるものはなかった。

『よし、じゃ、よく見てろ。後で文句をいうな。このカードは今新しいのをお前が封を切って、お前が調べて、お前が混ざ合ママしたのだぞ。俺は未だ指一本触れてないのだ。種も仕掛も、インチキもありようがねえんだぞ。』

『分った。能書は止しにして、早く切れ。ハートのエースを出せばお前の勝ママだ。』

『さア切るぞ。』

 稲妻ジムは右手をカードに掛けたが、たちまち眼にも留まらぬ早業で、左手を延ばして、カードに持ちえようとした。

『待て。』小柄な男はりんとした声を張り上げた。『左手を使うな。カードを二つに切るのは右手だけで沢山だ。』

『うむ。』

 ジムは唇を噛んで、いまいましそうに小柄な男を見上げた。

『どうした、早く切らないか。』小柄な男は嘲けるように促した。

『うむ。』

 ジムはもう一度唸って、額にあぶらあせをにじませたが、突然、

『さあ、切るぞ。』

 と叫ぶと、たちまち身体をひねらして、ズボンのポケットからかみそりを取り出し、アッという暇もなく、テーブルの上のカードの束に刃を当てて、

『うん。』

 と、力を入れると、上から下までカードを残らず真ニツに切り放して終った。

 まわりの見物はその物凄い意気込みに押されて、声を出す者もなかった。

『さア、どうだ。』ジムは威丈高になって、『これでハートのエースを確かに切ったぞ。どうだ、これでハートのエースが切れねえというか。確かに真二つだぞ。』

 まわりの見物はわアと喚声を上げた。それはジムの度胸と機智を賞讃する声と、ジムの横車を非難する声との交錯であった。喚声がやや静まった時に、小柄な男はきっぱりいった。

『切れねえ。』

『え、何だと。』ジムは相手を睨んだ。

『ハートのエースは切れねえって事よ。』

『な、なにを負惜しみをいってやがんだ。賭けは俺の勝だ。』

『待て。』小柄な男は力の籠った声でいった。『ハートのエースはお前のポケットの中にある。』

 小柄な男は、ツとジムの傍に寄って、彼のポケットに手を突込んだと見ると、一枚のカ ードを引出した。それはハートのエースであった。

 まわりの客はあまりの意外な出来事に、互いに顔を見合せるばかりだった。

 ジムはあわてて、今しも真二つにしたカードをふるえる手で一枚々々調べた。ハートのエースはその中になかった。

『うむ。』

 ジムが口惜しそうに唸っている間に、小柄な男はテーブルの上の賭金を摑んで、自分の分はポケットに蔵い、ジムの分の五千弗を友吉に握らせながら、

『さア、これを持って行きなさい。これからはどんな事があっても、ばくちなんかに手を出すんじゃありませんぜ。』

 この時に、まわりの客は堤の堰を切ったように、一斉にドッと賞賛の喚声を張り上げた。

『あ、あなたは一体――』友吉は感激で言葉がよく出なかった。

『なに、私は名もない手品師ですよ。稲妻ジムというのが評判だから、どんな手並かと、 さつき百弗のもとを下して一寸当って見たんです。その時にゃ、別にあなたの為にどうするって気はなかったんだが、なにね、大した腕じゃないんで、左手に隠したカードを持って行って、切り出したように見せるだけでさあ。まア、毛唐にしちゃ、業が早い、という位の所ですよ。新しいカードといった所で、帳場にある奴だから、同じのが用意してある訳で、ジムの奴は私が指定するカードをテーブルの下から持って来るつもりの所が、私に見破られたので、切るという言葉から思いついて、剃刃で真二つにして、度胆を抜こうとしたんでさ。』

『カードがジムのポケットから出て来たのは』

『なに、詰らない古風な手品でね、初め「シヤツフル」する時に、ハートのエースを抜いて置いて、小手先のアヤで、相手のポケットから抜き出したように見せたのでさ。』

『そうですか、僕は又、ジムが胡麻化して隠して置いて、出し損ったのを、あなたが見つけたのかと思って――』

『ハハハハ、まわりの見物はみんなそう思っているでしょうよ。』

 分らないながら、二人の日本語の会話を聞いていたまわりの見物は、又この時、思い出したように、わアと声を上げた。

 オットとステファニの二人は夢中で手を叩いていた。

 小夜子は椅子につっ伏して、肩を激しく震わせていた。

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。