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たはむれ

提供:Wikisource
  • 底本:1908(明治41)年獅子吼書房発行『チエホフ傑作集 露国文豪』
  • 一部本文中、不適切な言語が入っております。ご了承ください。

本文

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空は冴返つて、ぱり\/と云ふやうな、冬の日の午……、
厳寒肌を擘く許り、余が手を取つてゐるナアデンカは、額の生際から、髪の後れ毛、鼻の下の尨毛まで、銀色の霜に光つてゐる。二人は今高い氷山の絶頂に立つてゐるので。余等の足の下から遙か下の地面までは、眼のまわるような滑かな氷の坂が、奈落の底までもと續いて、其に正午の太陽が鏡のやうに反射してゐる。側には眞赤な羅紗を張つた、美麗な小さい手頃の橇が控へられてある。
『下へ乗つて降りませう、ナデジダ、ペトルロウナー、』
余は頼むやうにして勸めた。『たつた一度丈け、大丈夫です、間違はありませんよ、怪我なんかする気遣があるものですか。』
ナアデンカは怖がつて聞き入れぬ、彼女に取つては、自分の此の小さい靴の足下から、氷山のずつと下までの其距離は、いかに謂ひ知らぬ深い、恐ろしい、谷底と見えてゐるのであらう、彼女は余に勸められて、餘儀なく此處に立ちはしたものの、もう下を見た許で身顫ひして、息をはづませてゐる。が、若し彼女が遂に思ひ切つて、此谷底に辷り下りたら奈何であらう!、死んで了ふだらうか、氣でも違つて了ふだらうか!
『是非一所に乗つて下さい!』と余は云ふた。『怖いことはありません!屹度私が請合ひます、決して何ともないですよ、那様臆病な!。』
さま\゛/に慊したので、彼女はやつとの事で承知した。然し其顔色と云つたら、全で死人のやうに眞青になツて、ぶる\/と顫へてゐる。屹度彼女は必死の思で、生命懸で承知をしたものと見える。で余は彼女を橇に座せしめ、片手で彼女をしつかり抱へて、遂に共に谷底に下つた。
小さい橇は恰も彈丸の如くに飛ぶ。身を切る風は顔を打つて、虚空に鳴り嘘ぶき、兩耳の中はガンとして、身は引き裂かるゝやうに、掻き毟られるやうに、肩から首も捩ぎ取られはせぬか。強い風の壓迫に呼吸さへも出來ぬ。さながら惡魔の兩手の爪に掻浚はれて、其怒號の惡聲と共に、奈落の底に引き入れられるかのやうである。周圍のものは總て皆一本の長い疾驅してゐる線のやうに合して見える……。今、此の一瞬間、余は消失せて了ひはせぬか!
『ナアヂャ私は貴嬢を愛します。』と、余は其時小聲で云ふた。
橇はだん\/遅くなつて、風の嘯きと、橇の唸りとは、もうさのみに恐ろしくはなくなつた、息ももう其程にははずまなくなつて、余等は遂に下迄降り切つた。然るにナアデンカは死にも生きもせぬ、眞青になつて、僅かに肩で息をしてゐる……
余は彼を助け起して立上らせた。
『もう\/決して死んでも私は二度とは乗りません』と、彼女は驚きに滿ちた眼をパツチリと見開いて余を見ながら言ふた。『甚麼事があつたつて、もう、決してもう、私はもう少しで死んで了ふ所でしたわ。』と云ふて、彼女は少時經つて、初めて我に返つたやうに、而して更に余に問ふものゝ如く、余が顔をじつと視入る。――つい今方、橇の中で聞いた嬉しい言を、果して余が云ふたのであらうか、或は風の嘯きで、何處ともなく聞えたのであらうか、と云はぬ許りに。然し余は彼女の側に立つて、煙草を喫ひ手袋を見廻しなどして、素知らぬ顔でゐる。軈て余等は互に手を取り合つて暫らく氷山の側を散歩する、彼女が腦裡の疑問は、更らに一段と歩を進めて、不安の念に心もおちゐぬさま、其の言が口に出して謂はれたのか、或はさうで無からうか?さうであらうか、無からうか?さうであらうか、無からうか?是は自愛心と、名譽心と、生活と幸福の問題である。最も重要な問題である、世界の中で最も重要な問題なのである。
ナアデンカは、堪へ切れぬやうに、悲しいやうに、何をか見抜かうと云ふやうな眼色で、余の顔を又しても見つめる。而して問にもつかぬ挨拶などして、何やら、そは\/と余が何をか云出しはせぬかと、待ち搆へてゐる様子。あゝ此の愛くるしい顔に、思ひまどふ心の閃きが、あり\/と讀まれる、あゝ何とも云へぬ此の心の閃き。彼女が自分と戰つて、思い惑ふてゐる眼色、何か云ひたさうな、何か問ひたさうな、何と云つたら可いか言を知らぬと云つたやうな、又きまりが悪いやうな恐ろしいやうな、何とも言はれぬ嬉しさが、心を動顛させてゐるやうな……』
『あのね、貴方!』彼女は余が顔を見ないで云ふてゐる。
『何です』と余は問ふた。
『もう一度爲ませうか……辷りませんか』
余等は階段を踏んで氷山の上に登る。
余は再び青くなつて、顫へてゐるナアデンカを橇に乗せ、舊の如く先の恐ろしい奈落の底に辷り下りる。又も風は嘯ぶき、橇は呻吟り、何とも譬へやうのない恐しさの加はり行く最中、余は小聲で又云ふた。
『ナアデンカ私は貴方を愛します』
橇が辷つた時ナアデンカは、今辷つた氷山を見上げてゐたが又意ありげに余が顔を窺き込む、而して余が尤も冷淡に、且つ一向に情の籠らぬ物云ひざまに、思ひ惑ふものゝ如く、耳を峙てゝ居る。彼女の手巻も彼女の頭巾も云はゞ彼女の姿全體が、極めて訝しいと云ふさまを顕はしてゐる。彼女の顔には恁う書いてあるかのやうで。
「何と云ふ事だらう、誰が那麼言を云ふたのか、彼であらうか、それとも、私にたゞさう聞えたのか」。
此の疑問は、彼女の心を堪へ切れぬ程に亂してゐる、可憐な少女は問ひ掛けても答へぬ、物案じ顔の、今にも泣出しさうな氣色。
『家へ歸りませんか』余は問ふた。
『私……私は此の氷辷りが氣に入つたわ』彼女は顔を赧らめて云ふて居る『もう一度乗りませんか』
彼女には此の氷辷が氣に入つたのである、が、いざ橇に乗ると云ふ眞際になると、猶且青くなつて、呼吸をはずませて、怖いので顫へてゐる。
余等は遂に第三回目、又も氷山から乗り下つたのである、余は密かに彼女を覗ふに、彼女は余が顔を見て、余が唇の動きに注意をしてゐる樣子、然し余は唇にハンケチをあて、咳などしてまぎらした。軈て山の中程に橇の逹せんとせる刹那。
『ナアヂヤ私は貴方を愛します』と云ふた。疑問は依然として疑問である!ナアデンカは默したまゝ何事をか考へ込んでゐる……余は彼女と氷辷塲から家に歸つて行く。彼女は道でも可成靜かに行かうと務め、歩調を遅くして、何とか其の中にも余が謂ひ出しはせぬかと待つものゝやうである。彼女の心は如何にも苦んしで居るやうで、且又自分を強ひて、恁う謂ひたいのを我慢してゐるやうにも見える。
『之をまさか風が云ふつてことは、それに風などに那樣事を云はれたつて……』
翌朝余はナアヂヤから書面を受取つた。若し今日氷辷塲にお出になれば、私の所へお立寄下さい、との文意であつた。此の日からして余は、毎日ナアデンカと氷辷塲に行き初める。而して橇に乗つては下に降りる度毎に、余は猶且前の言を操返した。
『ナアヂヤ私は貴方を愛します』
其れよりナアデンカは此の嬉しい言に、酒か、モルヒ子注射、のやうに慣れて來る。暫時ももうこれなくしては生きてゐられぬ。勿論山の頂上から橇を飛ばすことは、前のやうに怖いのであるが、然し今は此の危險と、恐怖とが、却つて戀の言に一種特別の意味を彼女に添へつゝあるので、とは云へ未だ此の言は舊のまゝ疑問となつて、彼女を苦しめてゐる。此の疑問、心は双方に惑つてゐる、余と風と……此の二つの中の誰が彼女に愛を打明けてゐるのか、然れども彼女はもう、其れはどうでも可い、と云ふやうに見えてゐる。何の器から呑まうとも、醉ひさへすれば同じ事であると云ふやうに。
或日丁度正午、余は一人で氷辷塲に赴いた。すると群衆に紛れてナアデンカが、山に近づきながら、頻に余を眼で捜して居るのを見た……。それから彼女は怖々階段を登つて上に往く。一人で乗るのは怖い……。と云ふやうに彼女は猶且顔色を無くして顫へてゐる、さながら死刑の塲所にでも往くやうに。然し一生懸命に行く、振向きもせず、勢よく。彼女は屹度余が居ない時に、例の不思議な嬉しい言が、聞えるか、奈何かを試さうと決心したのであらう。而して彼女は蒼褪めて、怖ろしさの爲に口を開いたまゝ、橇に坐り、眼を閉ぢて、永遠に地と別れて動き始めるかのやうであつた……シユー……と橇は鳴る。ナアデンカは例の言を聞いたらうか、余は知らぬ……。只余は彼女が疲れ果てゝ、力なく橇から降るのを見た。彼女の顔の樣子では、彼女自身も何か聞えたか、奈何であつたかを知らなかつたらしい、大方、橇の飛ぶ怖ろしさに彼は音を聞くことも、聞き分けることも、一切夢中であつたのであらう。
恁くて春の三月になつた……日影は暖く。我が氷山は黒ずんで、次第に其光澤を失ひ初め、終に解けて來たのである。余等は辷ることを止めた。可憐なナアデンカも最う再び例の言を聞くことは出來なくなつた。風の音も聞えずなり、又余もペテルブルグに出發することになつたので、もう永劫彼女は誰からもそれを聞くことは出來ぬ。
或日のこと出發の二日程前、余は薄暮、庭に腰を掛けてゐたが、ナアデンカの住んで居る家の屋敷から此庭は、釘打ち並べた高い板塀に、たゞ一重仕切られてゐるのみで。……まだ餘寒は随分身にしみて肥料の下には殘んの雪がまだらに見える。樹々は死んだやうである。が、又もう何處やらに、さすがに春の氣配もして、烏は塒に歸りつゝ噪がしく鳴き叫ぶ。余は板塀に近寄つて、久しく隙間から窺つて居ると、丁度ナアデンカは戸口に出て來て、さりとも知らず悲しさうな、悶えて居るやうな、眼を上に擧げて居た……。春の風は眞向に彼女の青い、力なげな顔を弄んでゐるやうに吹いて居る……。彼女には、一入、嬉しい言を聞いた氷山の鳴る風を想起さしめたのであらう。彼女の顔はみるみる悲いやうに曇つて來て、頬の上には涙さへ傳はつた……。可憐の少女は、兩の腕を伸ばして、恰も此風に、吹けよ風、もう一度、切めて彼の言を送り來よ、と云はぬ許りに。
余は風の吹いて來るのを待つてゐた、而して又も小聲に言ふて見る。「ナアヂヤ!私は貴方を愛します」。
此の時、ナアデンカの樣子と言つたら、彼女は跳上つて、につこりと微笑を顔に泛べ、嬉しさうに、喜ばしさうに、如何にも美しくなつて、兩手を風に向けて伸ばして居た。
然し余は荷物の仕度をするので彼方へ去つた。
これはもうずつと前の事なので。今はナアデンカはさる貴族扶幼局書記に嫁いて、三人の子供さへある身。だが彼女は、余等と共に以前氷辷塲に行つたこと、又風が「ナアデンカ!私は貴方を愛します」との言を吹き送つたことどもは必ず忘れられないであらう。彼女に取つてはこれが生涯の中で、最も幸福な、最も感動の深い、美しい記念である……。
だが今恁く年も深た今日、余は何の爲に彼の言葉を言つたのやら、又何の為にたはむれ(たはむれに傍点)たのやら、更に解らぬ。((完))

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。