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こほろぎ

提供:Wikisource


こほろぎ


いつぴきの蟋蟀は事務的󠄁に鳴いてゐる

間歇的にベルが鳴つてゐるやうだ


いつぴきの蟋蟀は笛を吹いてゐる

先生が子供を集めるあの笛

木のはしくれがはいつてゐてピリリリと鳴るやつ


いつぴきの蟋蟀は齒が痛むらしい

漬物樽のかげで


葉蘭の向うあたりで愚痴をいつまでも

やまない一むれがある

錢がないにきまつてゐる


例へば「おいどうしたい」とか

「は、てもなくやられちやつてね」などと

うまく喋舌るやつもゐる


遠󠄁くの方で何だか解らんが怒鳴つて

ゐるのもある。

何かをつてゐるらしい。


ひどく散文的󠄁に、國定敎科書を

やゝ表情󠄁をつけて讀むやうに

鳴いてゐるのもある


いつぴきの蟋蟀は女が編󠄁物をするやうな

鳴き方だ

三聲ばかり連󠄁續して鳴いては一句切つける


いつぴきの蟋蟀はさして大きくはないが

さびのある聲で四聲ばかり鳴いた

そいつの聲を待つてゐたが二度と鳴かなかつた。


例へばお茶の葉が半󠄁分ほどはいつてる

鑵を轉がしてやるとぢきとまつてしまふ

中のお茶がとめるのだ

そんな風の鳴きやみ方をするのもある


さあこつちの仕事は一片ついた

これから思ふ存分――といふやうなのびのびした

鳴き出し方で始めた

すぐ 鼻の先で

ひどく嗄れた聲で鳴いてゐるいつぴき


緣の下あたりで息も絕えだえに

末期の遺󠄁言をしてゐる

それがまた歌舞伎の愁嘆場のやうに

ながい 子供が見物なら倦くだらう

ふいと默つてしまつた

山で初茸を見つけた子供のやうに

こいつは茄子の切れつぱしを發見したらしい


はやくも僕を身近󠄁に感じた

聲をひそめてしまつた

僕は樹木や石と同じ樣な

存在であると思はせるため

長い間 ぢつとしてゐる

だが彼は騙されない

草のかげから叡智と恐怖をたゝへた眼で

僕を凝してゐる

その眼を探しても迚も見つからぬ

あまり小さいので。


朝󠄁起󠄁きて庭に下りて見るとまだ

主張してゐる 何か一身上の大問題らしい

だが その根氣のつよいのには顏負けする

この著作物は、1943年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。