越国内輪弓箭老師物語
【 NDLJP:217】越国内輪弓箭老師物語 老師物語聞書付
一、永正二乙丑年、長尾越後守道室為景公、七千の勢を率ゐて、越中国へ御働なされし処に、石田右衛門〈北条といふ所六千貫を領す〉・大須賀内膳〈伊夜彦といふ地三千貫を領す〉・五十嵐〔〈三字欠〉〕、渠等三人申合せ、逆心仕り、石田・大須賀は敵方〔〈三字欠〉〕なる。五十嵐は裏切の手段仕り、滑川表に〔〈三字欠〉〕味方の諸手敗軍に及び、人数あまた亡び、為景公も、既に生害せらるべき所に、飯沼源太・高梨源五郎、粉骨を砕きて、敵兵を切崩し、御命に代り、其場を退かず討死を遂ぐる。此隙に為景公、大津より小舟に取乗りて、佐渡国へ退き給へり。佐渡の高徳〈為景公の娘壻なり〉馳走ありて、翌年まで、佐州の内に御逗留なり。
一、此時府中の御城には、越の駿河守〈城代並なり〉・飯沼日向守を差添へ、御留守居なる故、危なげなし。誠に秀景は、為景公の伯父にて、然も弓箭功者の士大将なる故、五十嵐等案内仕り、能登・越中両国の勢を手引致し、越後へ取懸け、迫合・合戦度々に及ぶと雖も、御城丈夫に持詰め申され候。
一、中郡与板筋は、高梨播磨守人数を以て、次の年粉骨を励めば、長尾蔵人は、米山・田尻の人数を引付け、播磨守と手を合せ、防戦隙なく、忠節致され候。
一、右の如く御譜代の面々、忠勤を抽んでられ候に付きて、永正七年に、終に逆徒悉く御退治ありて、帰国の御本意を遂げられ候。
一、胎田常陸介と申す者、元来越前半国持ち、朝倉に打負け、浪人仕りて、越後へ罷下り、御家を望み申すに付きて、父子三人共に召出され、総領久三郎は、御側に、少年の時召仕はれ、五十嵐の地八千貫給はり候。二男久五郎は、頸城郡の内にて、三千貫給ひ、父常陸は、三条の地にて、六千貫宛行はれ候。玆に因り、胎田、本国越前より、追々譜代の輩呼越し、手勢一万計りを持つ身代に罷成候。
一、文亀二壬戌年正月、御誕生の若君、犬千代丸と申す。永正五年、御七歳にて元服。平蔵【 NDLJP:218】景康公と申し、長尾蔵人を親父としてかしづき申す。此蔵人、程なく卒去に付きて、其後胎田常陸介を、景康公の御親父に仰付けられ、大永四甲申年、御誕生ありし猿千代殿の親父には、久三郎を仰せ付けらる。猿千代殿、享禄元戊子年、七歳にて元服ありて、左平次之助景房公と申す。其後三年庚丑八月十五日、御誕生の若君を、虎千代君と申す。天文五丙申年、七歳にて元服ありて、喜平次景虎公と申し、御親父には、久五郎を仰付けられたり。斯の如くなれば、胎田家門いよ〳〵時を得て、栄え蔓り、国政皆、彼の胎田家の計らひにて、誰一人否む者なし。
一、天文七戊戌年、道室為景公、越中国仙段野の合戦にて御討死。それより五年目、天文十一年寅の三月十三日、胎田父子謀叛を企て、平蔵景康公を討ち参らす。此時景康公、年四十一歳にして、逆臣胎田が手に懸り、はかなくなり給ふ。景房公十九歳、景虎公十三歳。先づ二の丸迄御退きなさるゝ所に、討手の者共、透間なく追懸くる故、景房公返し合せ、逆徒あまた切亡し、主従六人、枕を並べ討死なり。景虎公にも、共に働き給ふべしとて、返し合させられけるを、小島勘左衛門といふ忰者、走り寄りて御袖を控へ、大将の公達たらん人は、御身を全くせられ、時を待ち、思ひの儘に逆徒を討亡し給ひ、二兄の尊霊に御備へあらん事こそ、御本意なるべけれ。然るを斯かる御振舞は、未練の御業なりとて、人紛れに誘ひ参らせ、除けんとしけれども、敵勢群り来り、前後の透間を窺ひし。門番に居合せたる岸六助といへる足軽、小賢しき男にて、番所の敷板引起して、隠し入れ参らせたり。程もなく夜に入りしかば、騒動の紛に、林泉寺といへる禅閣へ落し参らせ、折節栃尾の常安寺住持、見参に来り合され、則ち其夜中、彼栃尾の本庄美作守が館へ、御座を移されける。
一、胎田は思ひの儘に、御家を覆し、頓て御本城に入代る。之に依りて愈々猛威に募り、扨親族・縁辺の者共呼集め、それ〴〵所領を割き与へ、方々の城に守衛させける。殊更逆心を発す。一両年前方に、佞奸の分別を以て、柿崎和泉守が弟弥三郎と申すを壻に取り、御譜代迄を語らひ込めたり。誠に斯かる大望、冥加憚らず、不敵の振舞なり。
一、景虎公は、真海と申す湯殿の行者〈本書尭太公の御事なりとあり〉を、案内者となされ、諸邦を行脚し給ふとも聞ゆ。斯かる所に、山本郡の内、宮本村肝煎が門屋に居る永井浪人茶売文七といふ者、訴人仕り、喜平次様は、本庄の館に忍びおはします由、密に申す。之に依りて天文十三年甲辰年、【 NDLJP:219】胎田が一族たる戸田讚岐、新藤・松尾を先手として、其勢五千余の人数を催して、栃尾へ押寄する所に、上田入道より加勢として、樋口主税・金子新助・斎木・栗林等、合せて二千三百の勢にて、後詰を果し、敵を討取りける。其数三百七十二。其内戸屋頭は、栃尾の金井討捕る。松尾頭は、上田衆星野といふ者討捕り、味方の大利に罷成りける。然れども胎田、右申す如く親族一類を取立て、方々の詰々に入渡り罷在る故に、少しも弱げを見せ申さず。先は黒滝の城には、胎田が親類森備前守、新山の城には家老山下又左衛門、村松の城には野木大膳、安田の城には篠塚惣左衛門、菅谷の城には三輪堂式部少輔、新潟に森岡十左衛門。斯くの如く一族・親類城を蹈へ、半大〔大半カ〕越後を手に入れ申す故、殊の外六かしき敵に罷成候。
一、国中の逆徒、斯の如く威を震ひ、地〔〈二字欠〉〕は、明暮止む時なき由、神保良衡之を聞伝へて、弥悦び思ひて、胎田と内通申交し、市振・糸魚川の辺迄度々押寄せ、働きけれども、山本伊予・山浦〔〈三字欠〉〕両大将、北陸筋を押へて軍忠を抽んで、我請取の越中口を、堅固に持固め、終に敵を入立てず、忠戦を励ます。
一、天文十四己巳年九月上旬、胎田父子三人、己が持分を触催し、一万八千の着到を記し、栃尾へ働く。大将には〔〈五字欠〉〕に、七千の兵を添へて差向くる。久三郎は、五千石の勢を率ゐ、上田が兵を押へ罷在る。父常陸介は、諸方手合の為めとて、手余の人数を随へて、三条の城に差控へ罷在る。森備前守・山下又左衛門両士大将をば、芥羽の城へ籠め置き、中郡の御味方を防ぐ。斯くの如く方々手を分け調へ、栃尾を取巻き申す所に、府中本城の留守居林崎弥三郎、御忠節として、胎田監物を討手に立て、者共四十余人討取り、其外雑兵・男女は、皆撫剪に仕り、御本城堅固に持抱へ申され候。彼胎田監物は、常陸介が従弟なるを選出し、留守を申付け、其上柿崎弥三郎を、去る天文十年壻に致し、加増を出し、監物に相添へ、出陣の□□□に預け申候。弥三郎は、是非なく逆徒に与する事、本意なく存じ詰め、此度常陸が出陣仕ると其儘、断を述べ、妻女へ永く隙を出し、胎田方へ送り返し、其返書を取りて後、斯く忠節を仕るなり。然して米山・町田・笠島等の軍勢并に庄官・社家以下迄駈催し、八千余の着到を記し、泉州兄弟家の子等、山田主税・山口縫殿・藤田長蔵を武主として、以上五手に作り、山東郡に出でて、何れも能く働きけるに依り、敵、退散致し候所を、城中より突いて出で、悉く追討に討取る。美濃守は、漸くに其場を遁れ、新山へ引いて入る。久三郎は黒滝つぼみ、常州は三条に楯籠る。本【 NDLJP:220】庄弥三郎・加治七郎〈後に遠江守と改む〉中条越前・黒河・竹俣など、若年といひ乍ら、近年能く弓矢に鍛錬を尽し、昼夜の迫合、粉骨を砕き、忠戦有㆑之に付、味方次第に御勝利なり。胎田方、一両年此方より、色に見え申候。
一、天文十五丙午年五月十五日、新発田尾張守を旗頭として、右の衆申合せ、三手に分れ、菅谷・安田・村松へ、同日に押寄せ、三箇日の間に、三箇所の城を攻め落し、勝利を得られ、同十九日に本庄美作守一手を以て、刈羽の城へ押詰め、同廿一日に、終に攻め落す。斯くの如く逆徒等、大半仕詰められ、屋形様、府中の御城へ御本座を移され候。
一、天文十六丁未年二月、胎田を御誅戮の為め、御馬を出され、越の郡に御陣を居ゑられ候て、新山・黒滝を押へ、三条の城へ御取詰めなされける。大手の大将には、新発田尾張守、相備に本庄弥次郎・加治遠江守・色部修理大夫・竹俣筑後、同二の見の大将には斎藤下総守、相備中条越前守・黒河左衛門・直江新五、搦手の御先は、越の越後守秀景・新津孫次郎・平賀久七郎〈後志摩と改む〉 ・高梨源三郎・枇井清七、〈後讚岐と改む〉・同三の見の大将、と改む本庄美作守、相備高梨日向守・唐崎左馬助・新津丹波・大関阿波、右の外の衆中は、御旗本に附従ひて、三条のねごやを取巻く。斯かる所に、敵、人数を三手に分けて、一手は城を守り、残る備を以て、大手・搦手へ突出しける所を、透さず押寄せ追崩し、附入に乗取りて、敵徒悉く切崩し、忽に本意を遂げさせらる。此勢に、新山・黒瀬をも押詰め給ひ然るべしと、各申上ぐると雖も、如何思召しけん、三条へ、番手丈夫に入置かれ、同三月初に、御馬を入れらるゝなり。
一、天文十七年戊申正月一日の夜、高梨源三郎一分の覚悟を以て、新山の城へ押寄せ、夜込に乗取り、城中の男女悉く切捨て、比類なき忠節なり。残党黒滝、一所に楯籠り罷在るなり。
一、同年五月廿六日、御出馬ありて、黒滝の城を御攻めなされ、二夜三日の間に揉落し、胎田が一族を、悉く誅罰なされ、景康公の御追善に備へられ、越後は平均に治まるなり。
一、飯沼頼清身構して出仕、〔〈五字欠〉〕両使を立てられ、御不審候へども、村上天皇より、越後国山東郡の地、永代守護不入の御判御座候間、向後互に仰付けらるべきならば、此方申分無㆑之との返答なり。右近年の御働、度々の合戦にも出合はず候事、不届なる上に、右の返答、旁以て拾置くべからずとて、則ち御攻潰し、其跡所領を、直江大和守に仰付けられ候。
一、天文廿三甲丑年、越中国へ御発向なされ、岩瀬・滑川迄御手に入れられ、八月に至り、川【 NDLJP:221】中島御陣なり。
一、関東の管領上杉則正〔憲政カ〕、居城平井の北条に取られ、当国へ予参なされ候に付きて、永禄元戊午年より、関東へ御出勢の所に、佐竹殿并に太田三楽入道御味方申され、出仕ありて、忠節を抽んでられ候故、関八州大半御手に属す。
一、永禄六年より、越中へ御出勢、度々に手並を見せ、同十年には、無二にはみ入り、有無の合戦を遂げられ、終に旧敵の神保良衡が一族、悉く御追罰なされ、亡父道室公の御追善に備へられ、然して越中は申すに及ばず、能登国も、残らず御手に入れられ、加賀国は、松任まで御一遍なり。
一、此以後、関東表の御働、并に甲斐の国主武田晴信と取合の事は、国〔〈一字欠〉〕乱撃の弓矢になり候故、四国・九州迄も、其隠れこれなく、心懸の武士は、委細に聞及び存じ罷在るもあり。又其身直に走り迫り覚えたるも、普く有㆑之と見えたり。越国内輪弓箭の儀は、世間に聢と知らせ申さず候間、依つて子孫の為めとて、
正保三丙戌十一月廿三日 加治七郎兵衛
延宝八年五月十一日 沢崎門入
以上。
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