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秦辺紀略の嘎爾旦伝

 
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秦辺紀略の嘎爾旦伝
 
 
一、緒言
 

 秦辺紀略一書は其の著者が既に一種の訴弛不独の士なると共に、其の書中の​ガルダン​​嘎爾旦​伝は又清の聖祖と一時覇を朔漠に争ひし​エルト​​厄魯特​の英雄が半生を記述したる正確なる史料たるに於て尤も興味ある者なり。然るに此書は其の板本の流布已に甚だ罕にして、而かも板本には其の最も重要なる​ガルダン​​嘎爾旦​伝を逸したれば、此の珍らしき史料も、学者の眼に触れずして、全く湮没せんとし、余が知る所にては、此書の原足本たる写本に就て注意せるは、独り現今支那の碩学たる沈子培氏あるのみなり。且つ其の著者の氏名も僅かに陳康祺の郎潜三筆に出でしのみにて、其の人と為りの如きは、殆ど世に知られず。随て著述の年代、内容の価値に就ても、未だ研究せられしことあらず。一代の奇士が志望全く敗れし余りに、心血を灑ぎて著作せし奇書も、空しく蠢残に附せられんとするを悲しみ、聊か此書並びに著者に就て、余オープンアクセスNDLJP:114 が考へ得たる所を述べ、併せて朔漠の英雄が伝記に就て、従来の史籍に載せたる叙述の精粗をも論証せんとす。

 
二、秦辺紀略の著者
 
 此書に関する郎潜三筆の記事は左の如し。

顧処士所著読史方興紀要。博聞宏弁。嚢括古今。寧都魏禧叔子称為数千百年絶無僅有之業。江夏劉湘煃者。嘗校願書十余年。愛其精博。而微疵其縦横。著読史方興紀要訂若干巻。禧弟子梁份嘗著秦辺紀略。有書無図。湘灯得図以校梁書。宛合。知即份旧本。顧与処士書頗齟齬。湘灯因合訂為秦辺紀略異同攷。士人乗兼人之才。窮老尽気。顳精一書。終不能免後世之誉議。著作之事。真非易言。〈按份伝禧学。不仕。為西辺大神上客。其書僅存。湘炉受業梅文鼎。以諸生終。所著書多零落。均可慨也。〉

 元来陳氏の郎潜紀聞は、前人の著書より抄録したる材料多ければ、此項も何か拠る所あらんと思へども、今之を知るに縁なきを遺憾とす。此の紀事は其の書の価値を認めたる点に於て、劉湘煃に拠りしとはいへ、十分の称揚を為したるものと謂ふべし。何となれば、顧祖禹の方与紀要は支那に於る地理に関する著書中、不朽の盛業として推称せらるゝ所の者にして、単に甘粛西辺の一部分を記述したる秦辺紀略にして、之と比並せらるゝは、名誉と謂ふべければなり。且つ二書の異同を校したる劉湘煃も亦一時の奇士にして、尋常の書を読むことを屑しとせず、古今の孤詣絶学を求め顧炎武、梅文鼎等の書を喜び、六書世臣説を作りて、其の尊崇する所を示せり。六書とは日知録〈顧炎武の著〉通雅〈方以智の著〉暦法〈明の朱仲福の撰せる折衷歴法を指すか〉天学会通〈薛鳳祚の著〉方輿紀要 〈顧祖禹の著〉歴算叢書〈梅文鼎の著にして孫梅瑴成の改編せし者〉なり。遂に業を梅文鼎の門に受け、剏獲する所多かりしが、大将軍年羹尭に知られて、其の幕客たりしも、年が驕悖にして必ず身家を敗らんことを知りて辞し去りたり。其の著書は伝はらざれば、秦辺紀略と方輿紀要との異同に就ても、如何の所見ありしかは詳かならず。但だ之によりて此書が巳に当時の奇士に知られたりしことを見るべきのみ、

 尤も秦辺紀略の著者の知已としては、已に其の同時に劉継荘、名は献廷の如き有名の学者ありき、劉献廷は清初に於て、心を前明に存せし幾多の学者中、若し風雲の会さへ許さば、大事を挙げん企望ありし疑ある一人にて、顔習斎、王崑縄等と趨嚮をオープンアクセスNDLJP:115 同じうせり。されば其の新朝に仕へずして身を没したるは、黄宗義、願炎武、王夫之、万斯同、顧祖禹、黄儀等と等しけれども、単に樸学の徒と目すべき者にあらずして、頗る危険なる人物なり、全祖望の撰せる劉の伝によれば、梁質人、王崑縄を称して劉の同志と為し、王崑縄が撰せる劉の墓表にも知已を以て相許せること見えたり。質人とは份の字なり。然るに劉の著せる広陽雑記によれば、梁份は康熙年間、呉三桂に援兵を乞ふ使命を帯び、親しく呉軍と清軍との接戦を目撃せるが若し。雑記に云く。

呉三桂拠湖南。兵駐松滋久。乙丙之間。和碩安親王統大兵。自江西袁州直趨湖南。兵至長沙之東。三桂聞穆将軍為戦将。不敢軽敵。丙子二月。自松滋退軍長沙距戦。梁質人自江西為韓非有求援。三桂之意。先敗安王而後援吉安。訂於三月初一日合囲。留質人曰。汝於壁上観吾軍容。帰以語東方諸豪傑也。官山在長沙東。南与瀏陽相値。安親王軍長沙東官山之後。三桂軍長沙西。連営岳麓山。亘数十里。軍容之盛。近古未有也。三桂欲自与安親王決戦。諸将苦諫而止。皆誓死以戦。三桂坐瀏陽門楼。質人以三桂命立城上。安親王発兵十九路。自城北鉄仏寺後。布陣至城之西南。長数十里。三桂亦発兵十九路以応之。将軍王緒先陥陣。清兵合囲之数重。旅幟尽偃。金皷無声。城上人尽失色。以為此軍全没矣。少頃聞交鎗連発如急皷。清兵紛紛堕騎。王緒軍衝突無前。莫有桜其鋒者。深入敵境。獲全勝而返。偽将軍呉応貴者三桂之姪也。搏戦為流矢所中。貫顕堕馬。夏国相力戦救之而帰。穆将軍追至城下。三桂于近城設伏以防。巨象伏岡下。敵至。起而衝之。清兵披靡而走。交鋒者凡三路。馬宝軍大捷。余殺傷略相当。呼声動天地。血戦至日中。天忽大雨。交鎗不得開。各歛軍而退。三桂初意気呑官山。先発十九路。余軍駐岳麓。留為更番地。不勝則後軍継之。必平官山而後己。及見応貴傷。復値大雨。為之奪気。曰天意不測。遂入城而守。清兵亦掘濠不復出。未幾応貴死。

 乙丙は乙卯丙辰にして即ち康熙十四十五両年に当る。故に其の丙子二月とあるは丙辰の訛りなり。此外広陽雑記には梁份に関する記事数条あれども其の著書に関する者は只一条なり。曰く

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梁質人留心辺事已久。遼人王定山諱燕賛為河西靖逆矦張勇中軍。与質老相与甚深。質人因之徧歴河西地。河西番夷雑沓。靖逆以足病。諸事皆中軍主之。故得悉其山川険要部落遊牧。曁其強弱多寡離合之情。皆洞如観火矣。著為一書。凡数十巻。曰西陲今略。歴六年之久。寒暑無間。其書始成。前在都中。余見其稿。果有用之奇書也。方与之学。自有専家。近時若願景范之方与紀要。亦為千古絶作。然詳于古。而略于今。以之読史。固大資識力。而求今日之情形。尚須歴錬也。此書雖止西北一隅。然今日之要務。孰有更過于此者。在都門忽忽衰衰。無片刻之暇。不得録一通為恨。蓋其書規模雖定。尚未脱稿。塗乙改竄満紙。須余自録。不可仮手他人也。地北天南。会合莫必。毎与宗夏言而恨之。壬申之春。余与質人。遇于星沙狭路。相逢而其書在麓。別来一載有半。質人亦鹿鹿道途。未甞改訂一字。余留星沙。尚有旬余。趁此光陰。夜以継日。了此一願。則河西五郡。即為我嚢中物矣。書凡五冊。冊各百余紙。共計五百余紙。思欲節其繁文。撮其綱要。然不敢太略。亦不下四百余紙。乃縮為蠅頭小草。草草成形。一紙可括其三四紙。不過百余紙耳。遂奮然下筆。与日競先後。夜焚膏以継之。経始于辛未二月初一日。至二十二日。近疆夷地。曁諸夷小伝。皆録畢矣。尚有一冊。乃西域諸遠国。及籌辺方略。皆質人未定稿也。此則俟之異日。縦有余力。亦不必写。而余全書已成全壁。楽何如之。云々

とあり。此条記す所によれば、劉献廷が此書を写録せるは、辛未の歳、即ち康熙三十年に在るが如し。但し此記事中、壬申と辛未と前後せるは疑ふべきも、或は伝抄の訛に出でたるならん。而して其書は又西陲今略の別名あるが如し。意ふに其の著書の年月も、略ぼ推定し得べし。王崑縄が撰せる劉の墓表によれば、

留京師四年。有奇遇而訖不見用。庚午復至呉。

とあり、又雑記中に其の丁卯入都の事を記せるを見る、丁卯は即ち康熙二十六年なれば、献延が始めて其書を都中に見たるは、蓋し亦康熙二十六七年頃に在りしなるべし。靖逆侯張勇が死は康熙二十三年に在りて、梁份が河西に在りし六年間は、其の晩年なるべく、二十三年より六年測れば、梁の始めて河西に至りしは康熙十七八年の間に在るべし。康熙十七年には呉三桂既に死して、西南の事、復為すべからざオープンアクセスNDLJP:117 るに至りたれば、梁份は其の雄図を擲つて辺疆に余生を送ることゝなりしならんか。張勇は当時の名将にして、趙良棟、王進宝と三人並びに三藩の乱の大功労者なるが、其の幕中には往々跅弛不羈の士ありしこと、広陽雑記に載せたる蔡世科等の如きを見ても知るべし。以上の事実を綜合すれば、著書の年代は康熙十七八年より二十三四年間に在ること疑なし。即ち梁份の一生を概括すれば、少くして魏叔子の門に入り、中年韓大任の軍に従つて、清朝反対の挙に力を尽せしが晩年専ら意を辺事に留めて著述を以て自ら表見せし者なり。

 然るに余が蔵せる写本に、何人の記せる所なりやを知らざるも此書を以て江右の黄君〈其の名氏を忘れたりとあり〉の集むる所とし、黄は久しく秦督仏公の幕府に居り、与図辺報、番土彝情を熟識し、猶ほ秦督に請ひ、身親ら閱歴して、彙めて是書を成すことを言ひ、劉献廷は己亥の歳、此書を祝棠村に示し、姜子発見て之を録せりとあり。仏公は仏論のことなるべければ、其川陝総督に任ぜられたるは、康熙三十一年壬申に在りて、己亥は乙亥の訛と見るべく、姜子発の名も亦広陽雑記中に畳見せるを考ふるに、此説の由来する所も亦拠なきにあらず。但だ其の著者の梁份たることは、疑ふべき余地なければ、此説あるによりて之を動かすべきにあらざるなり。印本叙には撰者の主名を攷ふる能はずといひ、而かも其の紀年乾隆に及ぶを以て、作者を其時代の人ならんと推定せるは誤れり。蓋し乾隆に及ぶ紀年は、後人の竄入なることを思はざるなり。〈接ずるに劉獣廷の高弟に黄宗夏あり、劉の学術は黄之を伝へたれば、或は此書の流布も黄の手より出で、遂に誤て写本の説の如きを生ぜしにあらざるか〉

 
三、秦辺紀略の内容及異本
 
 秦辺紀略は其の名称の如く甘蕭の辺疆、即ち河西各郡の建置始末、及び形勝を叙述せる者にして印本に見ゆる呉坤修の序に、毎条府衛を以て綱と為し、山川城堡官司戎伍、其下に件繋し、道里程站、正たり間たるも即ち一墩一場も必ず詳かに之を著し、未だ身其地を履まざる者と雖も、籍を按じて稽れば、瞭瞭として掌紋を数ふるが如し、其の叙述の該胆知るべしといへるが如く、一地方の志乗としては其の能事を極めたる者なり。然るに印本と写本とは其記事の次序、甚だしき相違あり。其書には元来目次なきも、今試みに目次を製して、印本の目次を上層に列し写本の目次を下層に列して、之を対照すること左の如し。
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印本目次 写本目次
巻一 巻一
全秦辺衛 全秦辺衛
河州 河州
西寧衛 西寧衛
西寧辺堡此章錯簡あり 荘浪衛
西寧近辺 凉州衛
荘浪衛 甘州衛
荘浪南衛 粛州衛
荘浪北衛 靖遠衛
荘浪近疆 寧夏衛
巻二 延綏衛
凉州衛 巻二
凉州南辺 西寧辺堡
凉州北辺 荘浪南辺
凉州北辺近疆 荘浪北辺
凉州近疆 凉南辺堡
巻三 凉州北辺(此章は錯前なり今意を以て止す甘州北辺一章も亦然り
甘州衛 甘州南辺
甘州南辺 甘州北辺
甘州北辺 粛州南辺
甘州北辺 近疆粛州北辺
甘州近疆 靖魯辺堡
巻四 寧夏辺堡
粛州衛 延綏辺堡
粛州南辺 巻三
粛州北辺 西寧近疆
粛州近疆 巻四
オープンアクセスNDLJP:119 靖遠衛 荘浪近疆(原本標題なし今意を以て之を補ふ
靖虜辺堡 涼州近疆(同上
巻五 凉州北辺近疆(同上
寧夏衛 甘州近疆(同上
寧夏辺堡 甘州北辺近疆(同上
寧夏近疆 粛州近疆(同上
延綏衛  附嘉峪関外至哈密路程
延綏辺堡 寧夏近疆()(以上数章錯簡あり意を以て正す
巻六 河套
河套 巻五
外疆 外疆
嘉峪関至​ハミ​​哈密​路程 近疆西彜伝
近疆西夷伝 河套部落原本云当附在河套之后
河套部落 附蒙古四十八部落考略
附家古四十八部落考略西城土地人物略 ​ガルダン​​嘎爾旦​列伝

此の如く参差として、殆ど執れか是なるを知るに苦しむ。然るに劉継荘が此書の内容を概説するに

  始而九衛大局已定。継而辺堡。内地已周。終而辺疆諸夷。全書巳竟。

といひ、又書凡五冊といふを見れば、写本を以て原書の体制に近しと断ずべきに似たり。所謂九衛とは即ち写本第一巻に収めたる河州より延綏衛に至る九章を指すべく、継而辺堡とは第二巻の収むる所全部を指し、辺疆諸夷とは第三四五巻に収めたる各章を言ふ者なるべし。余が蔵せる写本にも頗る訛脱多きも、其の寧字は皆寧に作らず、夷字は皆彜字に作るより推せば乾隆初年を下らざるに似たり。

 印本と写本との最大相違は、最後の一章に在り。但だ印本に収むる西域土地人物略は、已に顧炎武の天下郡国利病書〈巻一百十七〉にも収載し、又余が記憶する所によれば、清の内閣旧蔵書中〈明治四十三年中調査せる者〉甘粛鎮戦守図略といへる一抄本ありて、其図説中の年号は嘉靖八年に至り表紙裏に用ゐたる文書には嘉靖二十三年のものありしが、其書末に西域土地人物略、及び西域沿革略の二篇を載せ、前者は亦天下郡国利病書にオープンアクセスNDLJP:120 収むる所と同一の者なりき。されば西域土地人物略は明代より已に存せし者にて、梁份の撰著にあらざること明白に、秦辺紀略の原書は、​ガルダン​​嘎爾旦​伝を以て終りしを、後人が其の清朝の敵たる人物を記して、之に与へたる辞多きを忌み、之を删り去るに当り、妄りに前人の撰著を取つて之に代へたる者ならん。此は印本の最も劣れる処なり。秦辺紀略に収めたる近疆西夷伝、其他の記事中、​エルト​​厄魯特​部落に関する者は、多く史料たる価値ある者なれども、そは皆異日の研究に譲り専ら​ガルダン​​嘎爾旦​伝に就て、少しく所見を述べんとす。

 
四、嘎爾旦伝の研究
 
 ​ガルダン​​嘎爾旦​の事蹟を記せる書余が目睹せる者は魏源の聖武記、趙翼の皇朝武功紀盛、祁韵士の皇朝藩部要略等にして、康熙実録は全く見るを得ざれば、東華録によりて、其の一斑を知るのみ。然れども能く其の始終を綜べ、詳実を極めたるは平定朔漠方略を以て最とすべく、而して藩部要略の質実にして正確なるは、実に他の諸書に愈れり。西洋人の記する所は余僅かにブールジャー氏の支那史を見るを獲るのみ、蓋しブールジャー氏の​ガルダン​​嘎爾旦​に関する記事は、ジエスイト宣教師等の記述に出でたるべきも、余は未だそれらの資料を獲るに至らず。此等の資料によりて、梁份の​ガルダン​​嘎爾旦​伝に参稽するに、既に其の異同の少からざるを見、而して之によりて各資料の値直をも決することを得。但だ梁氏の​ガルダン​​嘎爾旦​伝は其の初年に詳かにして、未だ清朝と衝突せる中年以後の事に及ばず。故に其の勢力蒸々として日に上り、将に全盛に達せんとするの状を叙して、少しも貶詞なし、是れ反つて其の清朝と抗争して失敗せる後、あらゆる悪罵を蒙りて、一生を掩はれたる各資料に比して、一面の事実を伝ふる者と謂ふべし。因りて以下に其の本文を引き、他の資料によりて之を疏釈し、討讎し以て一々其の異同を著さんとす。

​ガルダン​​嘎爾旦​​ブシカトハン​​卜失可兎汗​于西域者也。​ガルダン​​嘎爾旦​亦作​ガルダン​​噶爾丹​​ブシカト​​卜失可兎​亦作​ボシクト​​博碩克図​。即大​カハン​​可汗​之称。〉

皇朝藩部要略巻九に曰く、初​グシハン​​顧実汗​卒。​オバルチルト​​鄂斉爾図​嗣。為​エイラト​​衛拉特​首。​ガルダン​​噶爾丹​既状​オバルチルト​​鄂斉爾図​。自称​ボシクトハン​​博碩克図汗​。因脅諸​エイラト​​衛拉特​奉其合。即此人なり。

其王大父曰​トイン​​脱頴​台司。大父曰​ハラクラ​​哈剌忽剌​。父曰​バトル​​把都児​。世襲​ホンタイギ​​黄台吉​〈華言王也〉

​ガルダン​​嘎爾旦​の曽祖父及び祖父の名は、諸書皆見る所なし。藩部要略には​バトル​​巴図爾​オープンアクセスNDLJP:121 ​フンタイギ​​琿台吉​者名​ホトホチン​​和多和沁​​ボハン​​孛罕​十四世孫。​シジヤンオヂユ​​恃強侮諸​​エイラト​​衛拉特​といひ、又姓​チヨロス​​綽羅斯​といひ、平定朔漠方略には​ガルダン​​嘎爾丹​之父曰​ホトホチン​​和多和親​、自号​バトルタイギ​​巴図魯台吉​。駐牧北方​アルタイ​​阿爾台​之地。是之謂北​エルト​​厄魯特​といへり。聖武記に​チヨロス​​綽羅斯​​イリ​​伊犂​といひ、又​チヨロスト​​綽羅斯特​則拠​イリ​​伊犂​。兼脅旁部。​ユカルカリン​​与喀爾喀鄰​といふ者、亦皆​バトル​​把都児​の事を指すに似たり。

​イヂヤンタイ​​彜咸推​為故元苗裔。世擁部落。土着金山。夷名​アルタイ​​阿爾太​。訳者曰金嶺也。〈金山在沙陀東。馬行六十日。至粛州〉

此に元の苗裔といふは、​チンギスハン​​成吉斯汗​の子孫と為す者なるべく、藩部要略に以て元の臣​ボハン​​孛罕​の孫と為す者と同じからず。

​バトル​​把都児​生六子。曰積欠。〈亦作七慶〉​ヂヨロホシヤオキ​​卓羅火焼気​。曰​バトルス​​把都児司​。曰​ワンチヨン​​宛冲​。曰​センゲ​​僧格​。其幼則​ガルダン​​嘎爾旦​

藩部要略に曰く、初​チユンガルダントルリタイギ​​準噶爾巴図爾理台吉​卒。子​センゲ​​僧格​嗣。其異母兄​チエチエン​​車臣​、及​ヂヨトババトル​​卓特巴巴図爾​与争属産。遂殺​センゲ​​僧格​。有​ガルダン​​噶爾丹​​センゲ​​僧格​同母弟也と。​チエチエン​​車臣​は即ち​ヂチヤン​​積欠​​ヂヨトババトル​​卓特巴巴図爾​は即ち​バトルス​​把都児司​なり。平定朔漢方略にも亦​センゲ​​僧格​の異母兄​チエチエン​​車臣​​バトル​​巴図爾​以争属産与​センゲ​​僧格​有隙。乗夜劫殺之。部内大乱と書せり。​ヂヨロホシヤオキ​​卓羅火焼気​は、藩部要略に​ヂヨトババトル​​卓特巴巴図魯​の弟​ヂヨリクトホシチ​​卓哩克図和碩斉​とせり。宛冲が事は諸書に所見なし。

​ガルダン​​嘎爾旦​母夢身毒僧言寄霊。及有身。多異徴。金山時有五彩雲気。​バトル​​把都児​喜。始寵其母。​阿哥​​嘎爾旦​生而神異。〈歳在己丑〉長喜奉釈氏。有大志。好立奇功。父母深愛之。欲立為​ホンタイギ​​黄台吉​​ガルダン​​嘎爾旦​曰。​アゲ​​阿哥​在。乃尽髠其髪。独身往​ウスツアン​​烏思蔵​。東馳五六日。黄衣僧十数輩迎而問曰。小​アゲ​​阿哥​​ガルダン​​嘎爾旦​耶。曰然。何従知。中有提短鎗者。顧而受鎗曰。此七生旧物。今​ダライラマ​​達頼喇嘛​使見還。​ガルダン​​嘎爾旦​驚喜。亟下馬。拝而受之。遂借往​ウスツアン​​烏思蔵​。乃師事​ダライラマ​​達頼喇嘛​之徒[1]。徧西域。而​テチユンガルダン​​特重嘎爾旦​。所語密。雖大宝法王。二宝法王。不得与聞。〈按明時封大賽法王二責法王子​ウスツアン​​烏斯蔵​皆給金印世襲。今二法王皆称活仏。乃​ダライラマ​​達頼喇嘛​之徒〉​ウスツアン​​烏斯蔵​日久。不甚学梵書。唯取短鎗摩弄。黄衣僧常嘆息西方回紇不奉仏教。護法如韋駄。僅行于三洲。​ガルダン​​嘎爾旦​笑曰。安知護法不生今日。

生時の神異を説くは、嘎爾旦が四方に人望ありし時の記述なるが故なるべり。生年を己丑(順治六年)に在りとするは、朔漠方略の申年(蓋し甲申即ち順オープンアクセスNDLJP:122 治元年)説と同じからず。顧而受鎗は授鎗の訛なり。藩部要略に曰く、有​ガルダン​​噶爾丹​者。僧格同母弟也。居​タングト​​唐古特​。習沙門法。又朔漠方略に曰く、​ガルダン​​噶爾丹​​センゲ​​僧格​同母弟。時尚幼。棄家投​ダライラマ​​達頼喇嘛​。習沙門法。皆過簡にして梁氏の伝の詳密なるが如き者あらず。​ウスツアン​​烏思蔵​とは元明の時、西蔵を指すの語、清人の​エイツアン​​衛蔵​と同一対音なり。

​ハライフラ​​哈頼忽喇​娶後妻生子。曰七清。〈亦作乞慶〉独有寵。欲立為​ホンタイギ​​黄台吉​。然​バトル​​把都児​長。久握兵。乃分所部属七清。使居​シヤダ​​沙陀​西偏。七清勇而善戦。捉野馬如騎羊。彜威称之為​シヤイハン​​篩漢​。為豎一拇指。​シヤイハン​​篩漢​華言好漢。​シユムヂエ​​竪拇者​。云第一好漢也。〉不愛于昆弟。其天性則然。得引弓之士万余。勢日張。​ハライフラ​​哈頼忽喇​死。​バドル​​把都児​襲。​バドル​​把都児​死。長子​ヂベイ​​集貝​襲。未幾死。無子。以次伝​センゲ​​僧格​。皆居金山。称​ホンタイギ​​黄台吉​。七清部落日多。親党日甚。称為​ホンタイギ​​黄台吉​​センゲ​​僧格​弗能禁。​センゲ​​僧格​同母​ドガルダン​​独嘎爾旦​。既以為僧。益孤立無助。于是七清殺僧格。併其衆。収其妻妾。釈​ホンタイギ​​黄台吉​而称汗。

藩部要略、朔漠方略、皆​センゲ​​僧格​を殺せる​チエチエン​​車臣​を以て、其の異母兄とす。然るに梁伝によれば七清亦​チエチエン​​車臣​と同一対音は​センゲ​​僧格​の叔父にして異母兄にあらず。但だ梁伝も亦​センゲ​​僧格​の兄に積欠あることを記せるより推すに、七清、積欠、叔姪同名なるを以て、藩部要略、朔漠方略、並びに此の錯誤を致せるが。抑も積欠は或はこゝに出せる​バトル​​把都児​の長子​ヂベイ​​集貝​の対音なるか。但梁伝前節​バトル​​把都児​の子に​ヂベイ​​集貝​なし、意ふに​ヂベイ​​集貝​​ヂシヤン​​集見​の訛なるべし。聖武記に​チヨロストフンタイギ​​綽羅斯特琿台吉​死。子​センゲ​​僧格​立。​センゲ​​僧格​死。子​ソノムアルブタン​​索諾木阿拉布担​立。​センゲ​​僧格​​ガルダン​​噶爾丹​殺之。自立為​ヂユンガルハン​​準噶爾汗​。旋取青海​フトトチエチエンハン​​和碩特車臣汗​女而襲殺​チエチエンハン​​車臣汗​。とあるは頗る事実の前後を顛倒し、且つ混同せり。ブールジャーも亦​ガルダン​​嘎爾旦​が西蔵に赴く前に兄弟と争ひ、尋で兄​センゲ​​僧格​を殺したりとし、其の西蔵に赴きしは之が為に逃走せしなりといへるは、聖武記と同じき誤謬に陥いれり。

​センゲ​​僧格​〈名阿奴〉慧而美。深愛​ガルダン​​嘎爾旦​。使人懐相服。間至西域。〈即​ウスツアン​​烏斯蔵​​ガルダン​​嘎爾旦​初微聞。遽入告​ダライラマ​​達頼喇嘛​。下高楼。釈僧服。向金山去​ガルダン​​嘎爾旦​将行。​ダライラマ​​達頼喇嘛​多秘語。膜拝別。曰殺運方与。汝乃出也。〉​センゲ​​僧格​遇害。部落有衆而結聚者百十騎。屯大磧東。未知所附。久之。夜忽見火光千百遠遠従東方来。皆大驚。群起勒馬。持満以待。比至。則​ガルダン​​嘎爾旦​手持一鎗。衆審視驚喜。下馬羅拝。以為神。​ガルダン​​嘎爾旦​益集合燼余。故部落聞​ガルダン​​嘎爾旦​オープンアクセスNDLJP:123 帰。稍々集聚千余騎。欲進。衆曰。兵寡地険。姑少留俟景。​ガルダン​​嘎爾旦​曰。進汝第視吾鎗所向。衆皆曰。​ヂエ​​者​〈華言諾也。〉進次金山。七清汗易之。率万騎接戦。三分其軍。馳向東。塵翳障天日。​ガルダン​​嘎爾旦​独当先。躍馬挺鎗。最深入。斬殺百十騎。潰其軍。身不著一矢。七清汗退金嶺口。嶺高転石如雨下。​ガルダン​​嘎爾旦​命更番仰攻。衆莫敢往。​ガルダン​​嘎爾旦​立斬宰僧数人狗于軍。身率二十騎先登。呼声振天地。遇七清汗。入其軍手縛之。左右皆走散。莫敢当。皆大驚異以為神。棄弓矢。下馬芻拝降。​ガルダン​​嘎爾旦​既伏金山。乃招徠帰附。礼謀臣。相土宜。課耕牧。修明法令。信賞罰。治戦攻器械。

​アヌ​​阿奴​は有名なる婦人にして、​ガルダン​​嘎爾旦​​カトン​​可敦​たり後に​ヂヤオモド​​昭莫多​の戦に陣歿せし者なり、藩部要略には之を以て嘎爾旦が康熙十六年に殺せし​フトト​​和碩特​​オバルチルトハン​​鄂斉爾図汗​の孫女なりとせり。​ガルダン​​嘎爾旦​が勃興の時の事は、藩部要略に​ダライラマ​​達頼喇嘛​遣帰轄​エルト​​厄魯特​衆。因執​チエチエン​​車臣​戕之。​ヂヨトババトル​​卓特巴巴図爾​与弟​ヂヨリクトホシチ​​卓哩克図和碩斉​奔青海。​ガルダン​​噶爾丹​遂為所部長といひ、朔漠方略に、​ダライラマ​​達頼喇嘛​​ガルダン​​噶爾丹​帰。統其衆。​ガルダン​​噶爾丹​性既狡𭶑。且険狼好闘。外仮​ダライラマ​​達頼喇嘛​為援。内以結其父兄旧属臣民籍名報警。殺​チエチエン​​車臣​​バトル​​巴図爾​。遂自襲為​タイギ​​台吉​。肆其兇鋒。稍々蚕食西北諸部。漸至猖獗といふに過ぎず。聖武記の若きは​オバルチルトハン​​鄂斉爾図汗​の事と、​チエチエンハン​​車臣汗​の事とを混同し、一も信を取るに足るものなし。ブールジャーも​ガルダン​​嘎爾旦​が兄を殺せるが為に、​ダライラマ​​達頼喇嘛​に西蔵の僧侶に列するの恩典を拒絶せられて、其の種族の幕営に帰り、​ダライ​​達頼​の宮殿に居りしとの風説により、罪悪を滅せる者として歓迎されたりといひ、又僧格の後に代り立ちし汗を黜け、其の一族を鏖殺して、其の部族を服従せしめたりといへるは、恐らく康熙帝と対抗せる当時、清廷に流布せられし悪評を伝聞せし宣教師の記述に拠れる者ならん。只だ梁伝のみは其の英姿を叙して生気あり、此の朔漠の豪傑に負かずと謂ふべく、加ふるに事実も亦やゝ誇張せられたる外、甚しき誤謬なき者なるべし。

乃西拠​オロス​​俄羅斯​。徒国居之。因以​オロス​​俄羅斯​名其国。​オロス​​俄羅斯​周城皆水。城有門四十。人皆回回。東南行十日。至金山即唐書​ドロス​​多羅斯​。南至四州千五百里。泰西蔵方外紀有峩羅斯。峩即俄。多亦俄也〉

梁伝の此段は誤れり。​オロス​​俄羅斯​​トロス​​多羅斯​とを混同するが如きは、最も無稽のオープンアクセスNDLJP:124 言たり。​ドロス​​多羅斯​は、即ち​エリユチウツアイ​​耶律楚材​西游録の​タラス​​塔剌思​、劉都西使記の​タラシ​​塔剌寺​なれば、本伝の​オロス​​俄羅斯​は原と​ドロス​​多羅斯​に作るべかりしを、梁份が誤解よりして、強て​オロス​​俄羅斯​に作りしならん。然るに聖武記に​ガルダン​​噶爾丹​遂籍詞報復。揚言借​オロス​​俄羅斯​兵且至。​カルカ​​喀爾喀​探之無其事。守備解。而​カ​​噶爾丹​言之不已といふを見れば、当時実に​オロス​​俄羅斯​に関する訛伝ありしが如し。蓋し此時、​オロス​​俄羅斯​の黒龍江に於ける侵略は漸やく著るく、​ニブチユ​​尼布楚​条約未だ成らざるの際なれば、此の訛伝を起し易き事情の下に在りしなり。ブールジャーの記する所によるも、​ガルダン​​嘎爾旦​は清俄の葛藤を利用せんと務めたるが如く、又俄国より​ガルダン​​嘎爾旦​に使者を送りしこともありといへり[2]

又併​チヨクトウバシ​​綽庫兎呉巴什​万余騎。凡附七清汗者誅之無遺類。于是富庶甲子西域。而使命往来無虚日。

藩部要略に曰く、有​チユフルトバシ​​楚琥爾鳥巴什​者、​ガルダン​​噶爾丹​叔父也。子五。長​バハバンヂ​​巴哈班第​。次​アナンダ​​阿南達​。次​ロブツアンフトフト​​羅卜蔵呼図克図​。次​ルオヂヤン​​犖章​。次​ロブツアンエリンチン​​羅卜蔵額璘沁​​ガルダン​​噶爾丹​以私憾。襲殺​バハバンヂ​​巴哈班第​。執​チユフルトバシ​​楚琥爾鳥巴什​。及​ロブツアンエリンチン​​羅卜蔵額璘沁​等禁之云々と。​チユフルトバシ​​楚琥爾鳥巴什​は即ち​チヨクトウバシ​​綽庫兎呉巴什​なり。朔漠方略には​チユフルウバシ​​楚呼爾呉巴什​に作る。

​ウスツアン​​烏思蔵​時有黄衣僧来。人威莫測其所以。​ガルダン​​嘎爾旦​取沙油汁成硫黄。取瀉鹵土煎硝。色白于雪。銅鉛鉱鉄之属。出地中。磧岸産金珠。則屏而不用。馬駿而蕃庶。四方莫或過之。〈諸夏餉以絵帛赤金盤。嘎爾旦日。路遠。他物不能去。然不可無報徳者。乃令一台吉出一馬。使者遂駆名馬数百以帰。又与以織金大蟒立蟒刺繍請彩色。嘎爾且願指之日節。諸鼻合声曰篩。嘎爾且日。我国独少此。此中国物也。諮舞威変慕之。盖示以中国之美也〉資用極備。不取給遠方。乃悉巧思。精堅其器械。作小連環鎖子甲。軽便如衣。射可穿。則殺工匠。又使回回教火器。教戦先鳥砲。次射。次撃刺。令甲士持鳥砲短鎗。腰弓矢。佩刀。彙駝駄大礮出師則三分国中人相更番。遠近聞之咸懾服。

朔漠方略に康熙十八年理藩院奏曰。噶爾丹称為博碩克図汗。遣使貢献鎖子甲、鳥鎗、馬駝貂皮等物とあり、当時​ガルダン​​嘎爾旦​が武備充実せしことを見るべし。

是時諸夏有滇黔変。秦蜀間蜂起。​ガルダン​​嘎爾旦​請所向。​ダライラマ​​達頼喇嘛​使高僧語之。曰非時非時。不可為。​ガルダン​​嘎爾旦​乃止。其謀臣曰。立国有根本。攻取有先後。不可紊也。李克用之先世。発跡金山。本根不立。遂不能成大事。我太祖初興。滅国四十。奄有西方。然後捉夏執金。混一称尊。〈元太祖​テムヂン​​鉄木真​。称​チンギスカハン​​成吉思可汗​。事見宋史。〉​ガルダン​​嘎爾旦​善其オープンアクセスNDLJP:125 言。乃為近攻計。西北鄰国。称​ホンタイギ​​黄台吉​有六七部。尽擒其名王。収其兵。東則​トルフアン​​土魯番​​ハミ​​哈密​諸国。尽蚕食之。所過無強敵堅城。

溟点の変とは、即ち呉三桂の叛乱にして、秦蜀間の蜂起は、王輔臣等の之に応じて兵を挙げたるを云ふ。朔漠方略によるに、康熙十八年七月甲辰。将軍張勇奏報。​ガルダン​​噶爾丹​発兵侵​トルフアン​​土魯番​。張勇疏言。准提督​ソンスク​​孫思克​移杏云。通丁白金印。報称​ガルダン​​噶爾丹​委其属下​アルダルフシチ​​阿爾達爾和碩斉​等三頭目。領兵三万。将侵​トルフアン​​土魯番​。前哨已至​ハミ​​哈密​云々と。

又檄塞下諸彝。〈即今河西之南北辺部落〉諸彜威頓首称臣。献琛恐後。後分命所親信居沿辺。 〈即宛卜等〉又使其黄台吉居瓜沙二州間。〈索嚢、王建児、​チヨリトカシヨウキ​​綽力兎合首気​等使控制各​ホンタイギ​​黄台吉​。且以詗剌喀爾喀焉。​カルカ​​喀爾喀​在諸夏之北。蓋北舞也。有七部。部有一汗。曰​トシエトハン​​土謝図汗​。曰​チチンハン​​七清汗​。曰​サイインハン​​賽応汗​。曰​チエチエンハン​​車陳汗​。曰​ヂヤシヤクトハン​​礼沙克図汗​。曰那木厄金汗。曰巴図爾額勒得汗。其地方数千里。帯甲五六十万。南至山西之大同。西距斡難河。称汗已久。且作賓中土。未甞臣服子人。凡変之在西者。中国目為額得式。在北者指為​カルカ​​喀爾喀​。中国之外。唯二部為大。若四十七旗及河套。皆渺乎小矣。​カルカ​​喀爾喀​既富庶。多馬多皮革。往来大同宣府之口相貿易。亦貿易于陝西之寧夏市口。自嘎爾且使人住牧瓜沙問。于是​カルカ​​喀爾喀​之人。無復至四率市口矣〉

朔漠方略に康熙十八年三月、​カルカビマラギリヂタイギ​​喀爾喀畢馬拉吉里第台吉​の奏報内に滾布の名あり、即ち此書の宛卜なるべく、​チヨリトカシヨウキ​​綽力兎合首気​は即ち​ヂヨリクトホシチ​​卓哩克図和碩斉​なるべし、索嚢、王建児は未だ考へず。​エデテ​​額得忒​即ち​エルト​​厄魯特​なり。

東方既臣服。乃西撃回回。下数十城。回回有密受馬哈納非教者。​マハナフエイ​​馬哈納非​。泰西以為​マハモ​​馬哈黙​。〉 初迎降。雪夜襲撃之。殺傷至十余万。馬匹器械。失亡無算[3]〈壬戌年。入回回国。其国請降。納添巴。奉浮図教。許之。歛兵入其城。夜半回回外援至。城中応之。内外合攻。火光燭天。​ガルダン​​嘎爾旦​部落皆潰。是時積雪平坑塹。人馬陥不可脱。城中尾撃。死者無数。唯​ガルダン​​嘎爾旦​躍馬持鎗。脱身去。同回削然奏凱。有事駱駝(此下欠)〉馬哈納非天方国以為聖人者。​ガルダン​​嘎爾旦​喪師返国。未嘗挫鋭気。益徴兵訓練如初。 〈嘎爾且敗帰。集未教之兵。勒新羈之馬。欲試之。聞極西地有人(此間欠)而形如犬。能日馳数百里其婦女絶美好。乃携兵多(此間余)駆馬直入其国。挟婦女数人帰。其人帰追之。不能及云。〉使人謂回回曰。汝不来降。則自今以往。歳用兵。夏蹂汝耕。秋焼汝稼。今我年未四十。迄至于髪白歯落而後止。城中人聞威股栗。門嘗画閉。其明年大破之。回回悉降。不敢復叛。

此の回回を伐つ一事は、支那の史書に全く見えざるのみならずブールジャーの記事も更に之に及ばず、僅かに此の梁伝によりてかゝる事実ありしを知るのみ。其所謂回回は何の地方なるやを明記せざるも意ふに​ダロス​​怛羅斯​地方に於ける出来事なるべし。

于是益強甚。兵之在​オロス​​俄羅斯​与屯于金山者有五十万。属国不与焉。​ガルダン​​嘎爾旦​遺人至河西。河西陳兵五オープンアクセスNDLJP:126 千使観之。与職鮮靡。甲冑刀戟之光燦日。且謂之日。兵俱屯塞上。此但護身親軍耳。曰諾。我固疑兵太少也。曰​エルト​​額魯得​何如。曰較此頗多。唯絵品彩画等差不及耳。〉

こゝに俄羅斯といへるも、亦​ドロス​​多羅斯​として看るべし。​ハシ​​河西​とは即ち張勇を指して言へる者にして張勇が​ガルダン​​嘎爾旦​の使者に兵を観せしなり。

西域既定。咸願奉為汗。​ガルダン​​嘎爾旦​乃請命​ダライラマ​​達頼喇嘛​。始行​ブシクトハン​​卜失克兎汗​事。西北諸国。唯​カルカ​​喀爾喀​為大。称汗久。莫之与京。〈按汗自万替間。有​チヤハルエインダンハン​​察哈爾林丹汗​。称​チンギスハン​​青吉思汗​。自此之后唯​カルカ​​喀爾喀​七部七汗而己。至于四十七旗。不過称王称公称貝勒而己。不敢与喀爾喀抗也。〉​ガルダン​​嘎爾旦​盛。顧亦視北方。恥与並為雄長。有遠攻之心。而日簡練部落。若将赴闘者。其事多秘而不宣。​カルカ​​喀爾喀​于是有戒心焉。西域窮髪之国。莫不奔命于​オロス​​俄羅斯​。日以益盛。或謂亦​ダライラマ​​達頼喇嘛​為之期会云。

​ガルダン​​嘎爾旦​​ボシクトハン​​博碩克図汗​と称し、入貢せることは、朔漠方略に於て之を康熙十八年九月戊戌の下に載せ、訊之来使。言​ダライラマ​​達頼喇嘛​​ガルダンタイギ​​噶爾丹台吉​​ボシクトハン​​博碩克図汗​之号といへり。梁伝にては壬戌即ち康熙二十一年に回回を撃て敗北し、明年再び撃て之を破りし後とすれば、其の二十二年ならざるべからず。但だ方略の記事は理藩院の奏疏によりたれば誤りあるべしとも覚えず、豈に梁氏が記憶の誤りに出づる乎。此伝によれば、秦辺紀略の成れるは、康熙二十二年以後にして、二十七年嘎爾旦が喀爾喀を侵略する以前に在りしこと明白なり。意ふに梁份は張勇が二十三年に死せしを以て、其の未定稿本を携へて、北京に赴きしなるべし。

 梁份が嘎爾旦伝はこゝに尽く。其史料としての価直は以上の考証によりて、粗ぼ之を知るを得るべく且著者は已に清朝に慊らざるを以て、其の敵たる​ガルダン​​嘎爾旦​には、願る同情を有せるが如く、此伝を仮りて著者が仏欝の念を寓せたる者ならん。且つ余は亦此伝の研究によりて、朔漠方略、藩部要略が最も確実なる史料を採集し、編次したる者なることをも知り、聖武記がブールジャーと同じく伝聞に取る所多くして、史実に於ては精確を欠ぐ恐あるも、而も当時人心の情偽に触るゝ所あることを推断し得たるは、意外の幸なりき。異日機を相て、更に秦辺紀略中に包有せる他の西夷史料を研究せば、再び正に同好の士に就かんとす。

(大正七年七月史林第三巻第三号)



  附註

  1. 乃師事達頼喇麻之徒。徧西域。は宜しく乃師事達頼喇嘛。達頼喇嘛之徒編西域。に作るべし。
  2. 聖篤親征嘎爾旦方略、康熙三十五年五月初八日の条に云く、朕親即注克魯倫閱視。並無敵人。因顕左右。嘆曰。謂噶爾旦練習戦事。攻取西辺𤞑子千有余城。収服四部落之厄善特。尽殺其兄弟。勤滅七部落之喀爾略。所向無敵。今在克魯倫河。不待戦而遁。由此観之。其怯弱顕然。所云俄羅斯之兵亦属虚語。今我兵無望其戦矣。但以追為要着。とあり。又平定期漢方略には康熙三十五年五月癸亥(即ち初八日)の条に、駕先抵克魯倫河。見無賊㓂。河北界有賊安営之跡。賊去未久。上顕左右諭曰。向言噶爾丹熟練戎行。攻抜四方囘子千余城。収服四厄魯特。殺其兄弟。全滅七旗喀爾喀。所向無敵。今観其不拠克魯倫河拒戦。則其怯懦顕然。所言俄羅斯六万亦偽也。今我軍不復有与職之期。但追之為急耳。とあり。これによりて見るも、嘎爾且が俄羅斯の兵を連ぬるの説は、当時実に之ありしを知るべし。
  3. 注中に納添巴の語あり。本書近細四彝傅によれば、添巴は即ち賦税の謂とあり。

  附記

嘎爾旦伝中の「東方既臣服。乃西撃囘囘。」の条に就て、和田清君は東洋学報第十一巻第二号(大正十一年四月)「明末清初に於ける蒙古族の西征」といへる論文中に、此の事は王先謙の東華録康熙三十七年夏四月壬戌条に見えたる策妄阿喇布坦の奏言中に、昔噶爾丹擒哈薩克頭克汗之子、以界達頼喇嘛云々といへるが、それなるべく、頭克汗とはホウオース氏もいへる、カザックの名王Tiavka Khaghanに比定すべしと説かれたり。

(同年同月記)

 
 

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