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民法商法の実施延期に関する意見

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閣下は従来好意を以て余が諸事件に関して進呈せし意見を聴納せられたり。依て余は今日又た新民法商法の実施延期に関する卑見を進めんとす。

政府は此事に就き未だ確乎たる意向あらざるものの如し。依て余は其決断は未定なりと思惟し閣下に呈するに右延期に反対するが如く見うる諸理由の大要を以てし、敢て閣下の之を海容することを信ずるものなり。

司法大臣には卑見を呈せず。余は同大臣の該延期に反対なることを知了すればなり。

然るに閣下の右に同意なるやは余の未だ確知せざる所なり。且つ該延期を拒む理由の一は殊に外務大臣の参考となる可きものの如く見うれば、余は司法大臣の同意を経て敢て之を閣下に陳せんとす。

然れども先づ該延期を拒む他に理由の二三を概述す可し。

第一 新法典に反対する人々の種別は如何

新法に反対する人々は種々あり。

一 法官及び代言人の一部
二 大学及び私立法律学校の教員の一部
三 商人の一部
四 新聞紙の某種

右各種の人々が共に主唱する所の反対説は、新法は日本の習慣に一致せずと云う大体上の議論にして曖昧たるを免がれず。然れども右各種の人々に関係する一身上の利害は之を発見するに難からず。

一、反対に属する法官及び代言人は一般に日本、英国又は米国に於て唯た英吉利法律のみを学修せしものなり。故に仏伊及び米国法律に準じて編成せし法典の発布は彼輩をして更に其講究に従事せざるを得ざらしむるものなり。

斯る境遇は恐くは難渋なる可し。然れども是れ該法典の編成を始めし時より既に明かなりしことなり。且つ右法典実施の如き一般の利益に関することに於て一個一個の便宜を謀るは為し得べからざるなり。且つ此種に属する法律家は日本又は外国に於て仏或は独の法律を学修せし法官又は代言人に比すれば数なり(而して仏独の法律は旧羅馬法の精神に基づきたるものにして欧州の普通法律なり)且つ又英国の法律及び習慣に據り日本の法典を編成したりとて一層能く日本の習慣に適すること無かるべきなり。

故に此点に於ては毫も反対者に譲ることを要せざるべし。

二、大学及び私立法律学校に於ける反対者の多くは英米法律の教員にして其憂うる所は曽て己に従うて修学せしもの(即ち法官及び代言人等を云う)と同様なることは明白なり。其他少数の教員は仏国法律学士にして其憂とする所の解するは頗る困難なり。或人は其理由を説明して右等の教員は新法典編纂の事業に与からざりし故なりと云えり。故に其反対も亦た私情より出づるものにして真実に国家の利害を慮るに基かざるものなり。

然るに右等の反対者は余の友朋なれば余は其意志の在る所に就き自ら判断を下すことを肯せざるなり。

三、商人には亦た商法実施を拒むもの多し。而して其不平を感ずる諸種の理由を発見するは甚だ容易なりと雖ども、此等は深く顧慮するの価値なきものなり。

商法を実施せば商人は一定の簿記法を守り破産処分に際しては其財産を自由にすることを得ざるなり。組合及び会社の発起人及ひ取締人等は厳密なる監督並に臨検を受くるを以て目下屡は行はるる所の悪弊は之を除去するを得べし。右等の理由は商人が商法実施の近きに在ることを望まざる所以を明にするに足るなり。

四、某種の新聞紙及び雑誌は法典の延期及び修正を要求す。

新聞紙の多くは確かに前顕書諸輩の誘導及び賛成に由るものにして其反対の価値は其誘導者の反対に優る筈なし。

其他は政府攻撃の一手段として諸法典に反対し政府を阻碍し之を困却せしめんとせり。而して其論ずる所は曖昧にして精確を欠くこと最も多く其法典に就き欠点とする所の実例を挙ぐる如きに至ては自ら其論ずる事項に徹頭徹尾誤解することを示すものなり。此種の一新聞紙は頃ろ、民法中の或る条項は憲法に矛盾せりと揚言せり。然るに斯る条項全く該法典中に存せざるものなり。

第二 新法典に関する大体上の反対

新法典に対する大体上の故障は日本の習慣に適せずと云うに在ることは余が既に開陳せし所なり。而して此反対は毫も確乎たる基礎なきものなり。所有権、義務、契約、担保及び証拠等に関する事項に就ては新法典は総て文明国の多数に行わるる法理、道理及び経済の主義に従うて之を編成せり。故に日本は今日右等の主義に背反する法律又は習慣を遵守する国なりと云うは即ち日本に害あるものなり。 実際日本は民法の原則にして其新法典に戴する所のものと殆にと相い異ならざる習慣を有すれども唯た封建制の行われし以来、其統一を欠きしのみ。而して現今に至りては日本は政権統一の帝国なるに依り、其法律の一様なることを必要とするものなり。

且つ又た前顕の諸習慣には種々の欠典ありたれば、新法典に於ては之を補充し完全ならしむることを務めたり。而して此新設の規程は別に国民習慣の精神に矛盾することなし。

且つ新法典は其箇条中、地方的習慣を遵循する為め特例を設けたる所亦た多し。例えば地所、家屋、貸借、徒弟に関する事項等是なり。

相続に関しては新法典は長男の特権を存し置き全く日本封建時代の習慣を固守するものなり。亦た家族の組織並に制規に於ても大に日本の習慣を斟酌せり。

且つ又た相続、人事、家族等に関する箇条に至ては其編纂は全く日本法律家の手に成り外国法律家の毫も与り知る所に非ず。殊に余に於ては今日までは決して民法第一編の外国文を見たることなし。今日初めて其英文の写本を得たり。

故に新法典に対する大体上の反対は事実と相異し、全く根拠なきものなり。

然るに新法典の欠点なきに非ざること(外国法律に於ても多くは皆な之れ有ることなり。)は姑く之を許すも之を実施し之を経験に付し以て其改正を待つは自然にして便利なることに非ずや。

該法典は其現在の侭にても日本の現行法律に比すれば少くも一層精確完全にして遥かに之に勝れり。

余は該法典第一着の草案者として自負の譏を恐れざるに非ざれども爰に仏国の諸学者及び法律評論が公然日本の民法に与えたる称賛を掲ぐ可し。曰く「仏国の法典が何時か改正せられたることあるときは日本の法典より利益を得ること多かる可し」と。

政府は法典実施後数年を歴て裁判所及び代言人組合に対して其活用如何を諮問して益を得ることある可し。即ち若し其中に不便不完全又は曖昧なる所あるときは其全体を改正するに及ばずして彼の部分を補修すること容易なる可し。

右の方法は刑法に関しては既に之を行えり。即ち刑事訴訟法は実施後十年を歴て二年前に之を修正せり。且つ亦た刑法に関しても将に同様の方法を行わんとす。即ち司法省に於ては其改正案を調製する為め目下委員の会議を開けり。商法及び民法に対しても同方法を用うるの最良策たるは勿論なり。

第三 延期に反対する理由

余は既に新法典実施に関する反対説を駁せり。是より其延期に反対する三大理由を陳述す可し。

第一、民法商法は議会の解説以前に天皇陛下の大権を以て之を発布せり。而して此大権は当時全く無制限なりき。然るに今ま若し該法典の修正をせんとするときは必ず議会の協賛を得ざる可からず。而して今ま若し其実施に先だち欠点ありとの口実を以て之を議会に付し其全体の修正を為すときは天皇陛下の威厳を損ずること勿論なり。然るに若し其実施後数年を待ち且つ裁判所に諮問して其改正案を提出するときは右の如き不都合は起らざる可きなり。

第二、人民をして一定一様の民法及び商法の成文を周知せしむることは日本国民の渇望する所なり。些少たりとも新法典の実施を延期するは大に本邦の社会上、商業上及び経済上の進歩を害するものなり。

今ま一たび該法典を延期するときは其改正の成るを告ぐる迄には必ず多年を歴せざるを得ざる可し。盖し議会両院の委員は其各項を討議す可し。而して委員報告の終結後各院に於ける討議も亦た大に時間を費やす可し。且つ若し両院一致せざる箇条の多きときは法案は屡は両院の間に往復す可し。而して斯る錯雑なる協議の結果は果して如何りや。前の草案者をして多少の勤労及び時日を費さしめたる該法諸部の調和は終に何くに帰す可きや。

且つ又た議会両院に於て此事業に関して(明治十四年より廿三年に至るまで、)十年間引続き司法省の委員たりしものより一層適当なるものを求むるに難からずとは果して望み得べきことなるや。但し該委員は帝国最高等の判事法制局参事官及び元老院議官の中より之に任せり。而して其草案は確定の後元老院、枢密院及び内閣の議を経たり。

若し右等重要の官府にして此邦に適当なる民法商法を編纂する能わずとするときは議会の委員は之より一層博学にして一層熟練なる可しとは望み得べきことなるや。

第三、延期反対の第三理由は余の見る所にては外務大臣たる閣下に対し特別の注意を煩す価値あるものの如し。

本邦は其威厳並に自主権に準じ外国条約を改正することを熱心に要求するものなり。若し外務大臣にして条約国に示すに日本人民と共に其人民に適用すべき民法及び商法を以てすること能わざるときは如何にして右改正を談判するに相当なる位置に立ち得べきや。条約改正が先に其功を奏せざりしは日本が未だ確固一定の法律及び適当なる裁判官を有せざりしが故なり。当時条約国は日本将来の法律は彼の人民に適用せらるるに先だち其承諾を経ざる可からざることを主張し且つ日本の法廷に外国判事を置くことを要求せり。現今に至ては右等の要求は無し得べからざるものにして必ず再発することなかる可し。

日本は今ま其神聖なる法廷中に強剛独立の判官あり。又た文明諸国に普通なる法律に準じて編成せし五大法典あり。而して其中三種は既に反対なく実施せり。他の二種は二年以前に

〔落丁〕

なる事件に対する余の感触を挙て隔心なく吐露せざるに於ては、余は閣下に対し日本に対し日本の施治者に対し余の本務を尽さざるものなりとし思惟せり。ここに謹で卑見を呈す。

千八百九十二年四月三十日神奈川に於て
ジー・ボアソナード

榎本大臣閣下


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