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川角太閤記

 
 
 
 
 
 
 
 

 
オープンアクセス NDLJP:2無名氏著

川角太閤記

古書保存書屋


オープンアクセス NDLJP:3

三墳五典八索九邱不限古今与中外記録撰
集草紙物語不問雅俗兼小大探奇闡秘綴断
拾零欲以久保于世永存于家庶幾乎有補於
昭代文化之万一焉雖然排字易謬校警闕精
魯魚亥豕請同人訂之大日本東京京橋区西
柑屋坊第九号地基我自刋我書屋主人謹識

 

 
オープンアクセス NDLJP:3
 
川角太閤記 巻一
 

天正十年午の年信長公甲斐国武田の四郎勝頼を御追罸の其ために江州安土の御城より御馬を被出候但御先手は信忠公に被仰付候城之介殿は岐阜より御出陣なり家康卿駿河口より御入被成候其外方々口々より飛入候得は勝頼は甲府家城を被明退同国野里山林にて被打果候其後御仕置無残所被仰付候駿河国をは家康卿に被進之候同年四月初頃に安土の御城へ御馬を被納候然るに家康卿は駿河国御拝領の為御礼穴山殿を御同道被成御上洛之由被聞召付御宿には明智日向守所御宿に被仰付候処に御馳走のあまりにお肴なと用意の次第御覧可被成ために御見舞候処に夏ゆゑ用意のなまさかな殊の外さかり申候故門へ御入被成候とひとしく風につれ悪き匂ひ吹来候其かほり御聞付被成以之外御腹立にて料理の間へ直に御成被成候此様子にては家康卿馳走は成間敷と御腹立被成候て堀久太郎所へ御宿被仰付候と其時節の古き衆の口は右の通とうけ給候信長記には大宝坊所家康卿御宿に被仰付候と御座候此宿の様子は二通に御心得可被成候日向守面目を失ひ候とて木具さかなの台其外用意のとり肴以下無残ほりへ打こみ申候其悪にほひ安土中へふきちらし申と相聞え申候事

家康卿は同年五月十五日安土に至りて御着被成候事

日向守に被仰出之旨羽柴筑前守秀吉当三月下旬より安芸の毛利輝元に被指向候処に備中の国に輝元取出のつかの城乗崩しそれよりつかの城へ押よせ其威風にやおどろき旗を巻降人にならん事を乞けるに依て城を請とり一命をたすけ彼勢を合また高松へ押寄せ城主志水長左衛門立籠候を幾重ともなく取囲候処彼城けんなんにして一たんに可攻破事難得と見及さらば水攻にと議定仕候よし注進有之事

オープンアクセス NDLJP:4此上は毛利家より後詰可有之とて堤を丈夫につき其上にへいをかけ陣屋をかけならべ堤の外にはしやくをゆひらんくひさかもきをふり水も過半たまり候之由筑前守所より注進候為加勢中川瀬兵衛高山右近長岡与一郎只今の三斎の事也津の国塩川党備中へ陣用意可仕と被仰付国へさし戻され候間日向事但馬より因幡へ入彼国より毛利輝元分国伯州雲州へ成程乱入可申者也毛頭不可有油断候早々丹波へ罷帰陣用意仕候とひとしく打立可申と被仰付惟任日向守御返事には畏入候急度陣用意仕打立可申候於御吉左右は輝元領分の国へ乱入先様の様子可申上候と領掌仕安土を罷立丹波居城亀山へ入被申候事

於安土に家康卿御馳走無残所山海の珍物を被調其上御能梅若太夫に被仰付候まひは幸若太夫と相聞申候幸若八郎九郎まひ殊の外家康卿御感被成さらば幸若今一番仕候へと楽屋へ御使を被立候其舞は和田さかもりをまひ申候右より猶出来候とて金子百両帷子五十被遣候梅若にも御音物は同様なり乍去梅若能不出来故重てどふわすれなと仕候其頸を可被成御刎と後に宿へ御使被立候と承候事

備中表様子毛利一家大軍を卒し後請に罷出候と筑前守所より飛脚到来之事

信長公御分別には輝元幸の所へ出来候上は此次てを以可被討果と被思召総御馬廻百六十七騎の為体にて御父子御上洛被成候信長公は本能寺御宿也城之介殿は二条の御所は御入被成候事

家康卿を京まては同道司申候大坂堺其次てに御覧候へとて穴山殿も被召連候それより大坂堺御見物とて御下被成候家康卿御時宜には一人御添被成候様にと御理被成候さらば長谷川お竹を案内者に御付被成候大坂御見物被成それより堺へ御見物とて御出被成候処に信長公御切腹堺へ注進と承候右の長谷川お竹家康卿の御供いたし浜松まて被参候伊賀越に伊勢へ御出被成候其次第の儀は古き衆御旗本にも可有御座候御尋可被成候事

羽柴筑前守天下に成申後長谷川於竹をは家康卿より被進候後羽柴藤五郎に被罷成候越前にて十二万石拝頑候惟澄五郎左衛門殿御果被成候後之事

堀久太郎を京都より備中へ御使に被遣候様子は此次でに毛利を退治可被成候御馬を被出事可然か筑前守能見及久太郎に可申含もの也一左右次第に京都より直に御馬を可被出と被仰遣候所に久太郎備中へ参着候とひとしく信長公御切腹之様子申来候故筑前守へ一味同心あり後に越前国にて十八万石拝領あり丹羽五郎左衛門殿御果し後也羽柴左衛門正と申は右之久太郎殿事なり

惟任日向守居城丹波亀山へ入候哉否陣用意夜を日につくと相聞え申候五月廿八日に愛宕へ社参あり西の坊を宿と定連歌興行と相聞え申候是は信長記に御座候間不入儀まて御座候へとも乍去次第不同無之ために如此書付申候事

  時はいま天下下しる五月哉 日向守  水上まさる庭のまつ山 西之坊

  花おつる流の末をせき留て 紹巴    それより百韻事おわりて亀山へ被下候事

太閤様天下御取候て後此発句の次第被聞召紹巴へ御意にはか程の事なりたる儀に候処惟任の悪人にくみし候事不似合儀とて御しかり被成候へば江州三井寺へ山林候而罷居候後は赦免にて被召出候

日向守謀叛之様子家中の衆此五人へ云聞せられ候と信長記には御座候この五人は明智左馬助弥平次事也同次郎左衛門藤田伝五斎藤内蔵助溝尾少兵衛日向守心中無残所談合候て各於同心はこの牛王の裏に起請を好当坐に書せ則人質を取かため右之評定相澄申候と信長記には御座候

オープンアクセス NDLJP:5明智殿家中に被罷居候つる加州肥前殿に被召置候武者奉行被仰付山崎長門守後は閑斎と申候大坂両度御陣之時も右之通にて御座候此人の雑談又林亀之助と申て関白殿御切腹の後福島大夫殿に被召出候其後大和の下総殿へ被召出候近ころ下総殿にて相果申候是も日向守殿に罷居候つる正龍寺の合戦に痛手おい味方の死人を引かふり合戦さんし候て後京の八幡へ参たんな坊主にかこわれ命たすかり申候おほへの者とて関白様被聞召付被召置候右之山崎長門守林亀之介此両人雑談は度々承候右之五人衆と談合とは不被申候事

山崎長門守林亀之介度々雑談には日向守殿仰出しには中国へ出陣候明日よりなと出候へとて五月廿九日に鉄砲の玉薬其外長持なと亀山を廿九日に荷物百荷計西国へ被指出候是は三日先の事也

六月朔日中の刻計に家中の物かしら共に申出しには京都森お乱所より上様御詫には中国への陣用意出来候は人数のたきつき家中の馬とも様子可被成御覧候間早々人数被召連罷上候得とお乱所より飛脚到来候問其分相心得られ自是武者立へき事尤に候と被申出則亀山の東の柴野へ被打出候時ははや酉の刻に罷成候自身乗廻人数三段に備へ此人数何ほと可有候哉斎藤内蔵助に被仰聞せ候へは内々御人数のつもり一万三千は可有御座と見及申候と御請申上候事

日向守殿それより南へ馬を乗出し備へと一町半許隔て聟弥平次を呼よせ五人の者とも談合すへき子細候間急き我前へ来候へとて弥平次使に参候以上五人被召寄此外あたりに一人も無之日向守殿はしやうきよりおり敷皮をのへさせ其上に居なをり存胸申出す也上様かほとに御取立被成候儀は各被存候通也我身三千石の時俄に廿五万石拝領仕候時人一円に持不申候故に大名衆の者呼取候処に於岐阜三月三日の節句大名高家の前にて而目失ひし次第其後信濃の上の諏訪にての御折檻又此度家康卿は上洛の時安土にて御宿被仰付候処に御馳走の次第油断の様に御叱被成俄に西国陣と被仰候条数再三に及ひ候上は終には我身大事に可及と存候又つら事を案るに右之三ケ条の遺恨の次第目出度事にもや可成世間うゐてんへんの習ひ一度は栄へ一度は衰るとはよくこそ伝へたり老後の思出に一夜成とも天下の思出をすへきと此程光秀は思切候各無同心候は本能寺へ一人乱入腹切て可思出す覚悟也各いかにと被申しかは弥平次進出て申様子は御一人御胸に思召立候とも天知地知我知人知と申たとへの御座候にましてや五人の者に被仰聞上は思召被留事全御無用に候と申上候なや溝尾内蔵助を初として目出度御事思召被立候明日よりして上様と可奉仰事案の内に候はや別に御談合一言も不入事に候当月は殊の外短夜にて御坐候間其上自是五里の道すがらにて御座候ほの明には本能寺をひたと御取巻可被成候事御尤に候本能寺を五ツゟ前に御かたつけ被成それより二条の御所御討果し被成候扠御尤に奉存候はやとて其後談合一言も無御座候駒をはやめ老の阪へかゝり谷のたう峯のたうを打すきてくつかけの在所にて各兵粮をつかひて申候替馬に息をつかせ候所に天野源右衛門をよひ出自是先へ早〻可急もの也其子細は味方勢より本能寺へ此事注進可有者もやありなん左様なるいやしき者をは見及討すてにせよとて御先へ被遣源右衛門畏て承り急き御先へ参り夏故東寺辺の野に瓜を作るものども其畠 よ有之候へしか武者を見付方々へ逃ちり候所にもしもや本能寺に可申上かとて押付追廻二三十人を切捨候科なきものにては候へとも天野源右衛門ねんのために如此とうけ給候事

光秀は桂川に着しかは家中へ触の様子馬の沓を切捨かち立の者共新きわらじ足半をはくべき也鉄砲のオープンアクセス NDLJP:6者共は火縄一尺五寸にきり其口々に火をわたし五つ宛火先を逆様にさげよとの触也扠桂川を乗越候事一そこにての触には今日よりして天下様に被成御成候間下々さうり取以下にまていさみ悦候へとのふれなり侍共は彼二ケ所にてのかせき手柄此度儀にて候間願可申候兄弟子有るものは跡職之儀は不及申又は兄弟子なき者共に其筋を尋出し跡職少も相違有間敷候事忠節の次第は其高下を可計者也

京中町近成しかは斎藤内蔵助町あたりにて下知の様子はいつものことくく〻りはあき候て可有之候戸ひらを押あけよく〻り迄にてはのほりさし物かまふべきぞ其うへ人数くり入事はかゆき申間敷町々の戸ひらを押ひらけよ一筋にてはかなふまし其組々おもひに本能寺の森さいかちの木竹数を雲すきに目あてにせよ夜はその通りまてを目当にすればふみちかへる事もやありなん其分心得候へと調子高に下知仕まはりたると聞え申候事

自是先の次第は信長記に委しく御座候信長記と世間の取沙汰相違の事は是迄に御座候二ツに可被成御覧候是迄の次第は右に如申上候肥前殿御内山崎長門守関白様御馬廻林亀之助其時明智殿供に参り御此両人の直口は如此候と承候事

羽柴筑前守殿右の備中高松の水攻のとき輝元と陣和談に御取あつかひ被成無恙御上次第

信長公御切腹天正十年午の六月二日備中へ御切腹の注進は同三日の亥の刻其早飛脚は蜂須賀彦右衛門に御預被成其したゝめ様は一間所へ押籠人に合なに能々彦右衛門念を可入もの也定跡より知音の方より追々注進可有之候右に一人の到来にて上様御切腹は相聞え候自是二三里人を御出し置候処に如案注進状雨のふることく也その状迄を取飛脚をはそれより跡へ追返よ高松の城主長左衛門所より明日四ツ五ツの頃御陣の下へ舟をつけ切腹可仕候間下々以下御たすけ被下候へとの約束に候定明日陣の前へ長左衛門船を着切腹に可及候に自上方の注進の早打飛脚上様の様子所々に沙汰仕候は陣中さわぎたち可申事案の内なりと被思召方々の飛脚道々より追返し被成候志水長左衛門の約束を不違小姓一人組松本平蔵と申もの也其外梶取二人御陣の下へ船を押よせ如御約束下々以下御助可被成候様にと申上候処に秀吉御意には約束不和違舟を被若候事神妙なりさらは舟を城へ只今押若人数無残其方無切腹以前に毛利家へ可相渡者也其方神妙の次第感入候とて御使蜂須賀彦右衛門森勘八此両人被遣候志水長左衛門うけ給此上は御助可被成事何の疑か可有御座候見局不及申に御両人慥に御覧被成候得と申もあへす腹十文字にかき切候ところに松本平蔵介錯仕候其頸両人に相わたし其身も同前に腹きり梶取のうち侍一人御座候介錯さすへきためと相きこゑ申候小姓の介錯は梶取仕候其頸二ツ両人御目に被懸候さらは陣中かちどきをあけよとてとき三度あかり申候事

陣中御しづめ可被成ためと相聞え申候頸二ツ桶に入塩つけにして如此仕候毛利家もいまた引不申よき御次而のことにて候間今少見及堀入太郎事此おもての標子くはしく申含やかてさし上せ可申候此頸御披露被成候得とて先は森お乱福澄平左衛門所まて陣中をは上様への進上とて早打三人に候上せ被成候事

御内証には上様は御切腹の事に候へば此頸の実検可有君なしとて播州姫地に被召置候御留守居三吉武蔵殿へ此頸姫地のらんかん橋に被掛候へ心持候事

四日に城主切腹彼仕候やいなや御手前の大知坊と申陣僧を毛利殿陣吉川駿河守元春小早川左衛門允隆景完戸備前守元次此三人へ被仰遣次第城主志水儀は今朝拙者陣の前へ舟を着切腹に及候如約束家中のオープンアクセス NDLJP:7者一人も不残武道具以下に至まて進之置候迚毛利陣へ被相渡候此上は互の長陣の事に候間無詮事と被思召候は互に今一先退可申候為其に霊社の起請を進之候右之通於御同心は御陣僧一人此使に御添被成可給候者也と被仰遣候所に毛利家も城をは見捨候上は無詮事とや三人被思けん一先輝元も御馬を被入また重て御出陣も被成候様にと談合評定かためられ候事

其時安国寺を御使に被添筑前守殿筆本見候へとて被進候筑前守殿は返事今やあると陣より一町計前へ被出長刀一ツにて上下十四五入被召連其身はあみかさを召かせ杖にすかり御待候所に右の陣僧に安国寺一人添申御被成候所へ参候へは御手前の陣僧は遠より見付奉り候安国寺は下地上方ものにて東福寺にて学もん仕候得共筑前殿を見知不申候其上に小ほくの御供にて候へは一円にかゝみ不申候所に秀吉御意には毛利家の陣僧にて候哉則我は羽袋筑前守にて候とたからかに御名乗被成候こ〻ろには誠しからすとは存候へと畏て候毛利家の僧にて候と申上候御意にはさらは我陣屋へ可被召連候とてそれより御供仕参候所に殊外目を驚したる陣屋へ御入被成候毛利家陣僧是へとせうし被成おくふかき御座敷まて被召寄せ候事

次第の有様は僧はさいたいかせい僧かと御尋被成候所に安国寺御返事にはせい僧の学びを仕候借にて候と申上候去なから祝の為にと御意被成さんほうに引渡し御出被成候それは一たんの事とておくへ御入被成候と見え申候所にこぶかち栗みのかき持候て小姓出候御手つから御取被成先祝のためにとてこぶかちぐりかき一ツに御つかみ候て直に被遣候安国寺請取戴懐中へおさめ候事

毛利家大形合点に候は我身の筆本を見せ候はんと御意にて其上今朝よりその心かけあり精進けつさいあきらか也それに被待候へと行水被成御身をきよめられやかて御出被成候毛利家は兎も角も候へ拙者心中におゐては此起請の面少も相違有ましきとて目の前にて書判を被成其上に白きさらをは取寄せ被成左の小指より血を御出し被成書判の上に押付被成候事

陣和談あはを首尾仕候て此上はまた右の様子をゑんに結ひ己来は互に入魂可仕事もや可有目出度〻〻〻さらはすい物をと御意にてその上に盃にかはらけ出被召上安国寺に被遣候其かはらけ又被召上に言葉には手前にておさめ置候拙者陣僧を貴僧被召連候へ毛利家の筆本見可申ために候とて則御手前の御陣僧安国寺に被添毛利家へ被遣候事

毛利家先手は右の三人なり輝元は同国猿持の城にかうへ川と申大河を隔て但道は三里なり三人より輝元への注進志水長左衛門はや切腹に及候筑前守所より高松の城に立籠下〻武道具家財以下に至まて無残所味方の陣へ送り若被申候其上陣和談に仕一先互に馬を可納候由申来候左候はゝ引退候時互の表裏仕間敷とて霊社の起請を持せ陣僧参候此上は先右之通に被成義兵は重ての御事に被成候て可然候はんと三人より被申上候所に輝元返事にも何様よも三人分別次第たるへきと返事に候其返事慥に被聞届候事

筑前守殿より来候陣僧の前にて霊社の起請判をかためられ候大形下〻へ聞え申通も筑前守殿御登候とも表裏有ましく候また毛利家被退候とも筑前守殿よりも表裏あるましくとの揚紙と相聞候事

同日四日成刻計に森勘八を召夜に入なは引退へきものなりさあるにおゐては勘八残可申候その様子は信長公御切腹の到来毛利陣へもはや相聞え可申候候今朝の誓紙を破り可被付候事も尤に候其子細はオープンアクセス NDLJP:8毛利家陣へは未聞先の誓紙なり表裏は秀吉こそ仕毛利家の表裏にては有間数ものなり但かためたる起請文にて有と心得秀吉国本へ帰城迄の誓紙を被立候はゝりちき第一たるべき儀也

勘八敵陣見及可申目聞は毛利陣色立人数くり可出や夜を一時籠せきの堤幾所も切放しなは河下たんほうは則時に海に可成そや毛利家人数此海押渡る事一両日はおもひもよる間敷也山の手よりはほそ道の柴人かよふ道なれは是又一日に一万くり可出様共見へす其次第を明五日の八ツ時分まて見及よそれに子細なくははや可罷登もの也と勘八に被仰置候事

其夜暮合より備前の宇喜多八郎殿を戌の刻のかしらに御退被成候御身は夜の丑の刻に御引被成候事

毛利家上方に被付置候早打四日の七ツさかりに参着候信長公二日の卯の刻に御切腹候何とて遅々候やとせんさく有しかは四条堀川の通りに鉄炮きひしくなり申候町人もはいかにと計あきれはてたる迄にて町々のくきぬきをかため一円に人を出し不申候本能寺事おはり明智殿内溝尾少兵衛殿町々しつまり候へ別の子細ならす惟任日向守殿今日より天下殿に御成候間洛中の地子を御免被成候と町々をふるるにこそ明智殿の謀叛とはしれ申候と申分たち申候事

それより吉川駿河守元春陣屋へ小早川左衛門允隆景完戸備前守寄合談合の次第は今日の哲紙は破りても不苦候だまかされ候ての儀にて候と吉川駿河守被申様にはか様の時にこそ馬を乗殺せよはやと進め給ふ事

舎弟小早川左衛門允隆景は右には一言も不出す暫工夫して被申出様子は元春御意御尤にては御座候へ共昔より今に至まて何事にも付ものゝかためは書物誓紙を鏡に仕ものにて候へ父にて候元就公御死去の時仕候整紙には只今の輝元公を兄弟共として取立よとの誓紙被仰付候時日の下の判は元春公被成候其次には私仕候さて兄弟四人仕元就公御命の内に御目に懸候事は昨今の様に覚候其誓紙元就公戴一ツは元就公の御遺言に我くはんへ入よ一ツは厳嶋の明神へ奉籠よ一通は輝元公へ上ケ置申候此二通は只今も御覧候へよ条数の内に毛利家より我死して後天下の不可心懸と一の筆に御座候事

今日の起請文を破り候得者めいとに被成御座候父元就公への別心也一は厳嶋の明神の御罸又は五常の礼儀の二ツをも破に似たり羽柴筑前守国本播磨へ帰城候との一左右を聞召届られ其上にては御馬を被出候ても不苦と達而兄の元春へ異見被申ける元春も隆景に道理に被攻なま合点に納申候小早川はそれより我陣へ被戻候事

小早川隆景舎兄元春の陣屋へ目付を被出候其目付罷帰申上様子は何かは不存候御馬屋には鞍をおかせ家中も又其通と相見之申候宍戸備前守も右の通に相見之申候と申候所に隆景異見を申上すてに座敷を立帰候条それは御立腹もやあるらんそれは兎も角もあらばあれ不及是非次第也去なから誓紙御破り候は定一通の御使は我等所へ可有御立事

小早川左衛門允隆景陣中しつめられんためにや鵜飼新右術門井上又右衛門此両人を被召役者の者召出せよ肴の台なとは何にても不苦候皷共をしらべさせよはやと被仰付候両人畏り候と申上則役者の者を召出す家中には是はいかなる事にやあらん信長公に切腹を満足と思召その祝か不審不晴と下々へ沙汰仕候事

役者のもの御前祇候仕はや乱舞初る計と見え申候所に目出度所かまそ修羅なとの様成所かうたひ可申オープンアクセス NDLJP:9と心にあきれ申候所に鵜飼新右衛門やかて指心得小謡を一番うたひ出し候四海波静にて国もおさまる時津風と申候扠役者のものなと目出度と心得高砂彼是五番その内三輪御座候右の鵜飼新右衛門次の間へ立見まわし候へはさおうのやふれ衣一くわんありけるをおつ取打かけ俄の事に候へははなかみをさきかけ木の切れにはさみ付御幣の心持にして次の間よりまひ出三輪一番まひ納候此新右衛門は何事にも付殊の外しほらしき仁にて候其座敷のふりよく相聞え申候事

羽柴筑前守殿天下に罷成陣中隆景乱舞にて毛利陣を相しつめられ候事後に聞召被及候鵜飼小謡始仕三輪まひ申候事まても委数被成御聞と相聞え申候事

上様より小早川左衛門允に五十二万石被下候事は備中陣の時毛利家陣中を乱舞を以てしつめし故と後慥に相聞え申候小早川大名に成申候子細は此すへに委敷書付可申候先か様に仕候はねはすへの儀理聞へ不申候間先々如此候

吉川陣完戸陣には先馬のはるひをかためひしめき候か小早川には能始り候と取に申候さらは聞届よとて両陣より人を遣し被聞候へは能にて御座候やらん又御座敷のはやしにて御座候か内の体は不見候乱舞は必定に御座候上下ともさゝめき渡りて見え申候と使罷帰り申候へは吉川もさすがすゝむは不及事なきねいりよに両陣罷成候事

右に如申上候四日の夜の丑の刻に御引払ひ被成備中の国をばはるかにのびさせ給ひ備前国へ被成御入候処に福岡の渡りにて大水出申無左右御越可被成様無之と御見及福岡の在所を御陣取候て在々の庄や大百姓の人質をひしと御取かため候竹かいの一つも吹候へは八郎殿もきみ悪くも可被思也為其人質と相聞え申候扠国中の川たちをそくたくにて御やとひ被成先備前の八郎殿まつ先に人数一人も取おとさす御越候事

御自分の御人数一人も御取落しなく御道具以下迄恙なく被成御越候次第は先又さうり取其次に又若たうさて次第に御くり越被成候御意には加様の時は人一人取おとし候得は五百も三百も損したる様に申なすもの也荷物は一荷取おとし候得は百荷も二百荷も流し候様に申なすものそや心静に川越しせよとて下知被成川はたに被成御座候処へ森勘八馳着毛利家も無子細五日の四ツ過に引退申候少しも子細無御座候如御意堤をば十二三ケ所も切放し申候事

それより毛利家へ早飛脚御立被成候今度其表におゐて陳和談と申かはし互の誓紙をかため罷上候事ふりやくの様に可被思召候へとも弓馬にはかよふの事も互の事に候と可被思召候我君信長公を明智日向守光秀無道の故により当月二日に奉討候間この上は光秀と君の吊合戦仕打死の覚悟に御座候若又拙者武運もなからへ候はゞ右の申談も候処は目出度以来は可得御意覚悟に候天下の御望御尤かと存候猶自是可得御意候吉川駿河守殿小早川左衛門允殿宍戸備前守殿へと御状に候早飛脚毛利家へ被進候それより彼渡り御越被成と相聞え申候事

備前の国岡山近く成しかは八郎殿ははや城へ御入被成候へ尤立寄可申候へとも急の事に候間御馳走には相申間敷候八郎殿内五人の年寄衆岡豊前明石飛弾正戸川平右衛門花房助兵衛長船又左衛門此五人被召寄せ被仰聞候様子は八郎殿を同道仕罷上り度候へとも安芸の輝元此度幸と可被思立と存候大軍たるべく候間あれにみゆる見こしと此あたり迄先勢六七千つゝき来る時分五人衆被出有無の一合戦せオープンアクセス NDLJP:10られよかちまけは兎も角もあれ城下の合戦は大事の物にて候被引取候時はいかにもしつかに付送る敵手痛く二三度被込返候はゝ別に子細有問敷候敵との間とをのくよと被見及候はゝ味方そなへは𭙛の小巻にたて静々と可被引取者也此城毛利一たんに攻破る事は中〻おもひよらさる事たるへき也

付城を定て二つ計は付可申候其内に夜討大将人数五百を頭とし三百二百はかり三組に分て付城普請中にはしへ夜討を被討よ皆々功者にて候間不申及候姫地へ帰城候とても三日と逗留仕間敷候其ま〻打出光秀と可打果覚悟也吉左右は自是可令中者也さらはと御意にて岡山へは無御寄直に御通候事

それより御馬をはやめられ御登の道すから方〻よりの早飛脚到来候其中にも津の国大名衆中川瀬兵衛高山右近塩川党以下の人々より注進状文体は有増同辺に相聞え申候惟任日向守事江州安土の御城へ仕置に被罷下候西国を無難御のかれ候事拙者式におゐてうとんげと奉存候光秀何事付引つのらさる先に御吊の合戦御尤に候私体も其心掛の事に御座候津の国の於国中は御馳走可仕候間早速御登奉待候其上御先手は高山右近中川瀬兵衛其外塩川党に御まかせ可被成との追々の早飛脚到来候と承候事

大坂には三七殿惟澄丹羽五郎左衛門殿織田七兵衛殿此三人其外小大名衆四五人御座候惟澄五郎左衛門所より承り候得ば近日姫地へ御帰城のよし承候早々御馬を被急候へよ拙者式も御吊合戦一ツ心指候得とも如御存七兵衛とのは日向守聟の事に候問定て内証は一味同心可有候と推量仕まへ疑はて不申候ゆへ大坂不罷出事右の故に候跡より様子におゐては追々可令注進候と五郎左衛門殿より道中への早飛脚と相聞え申候事

御家城姫地へは八日の四ツの頭に御帰城候直に御風呂へ御入被成候とて堀久太郎への御時宜には先御入候へと可申候得とも母にて候もの〻所より早々対面申度との使度々に及候間先風呂へ入申候信勝と一つに緩々と可有御入候とて先へ御入被成候

風呂御入被成候てあかり屋に御腰を被掛御伽に入申候小姓衆に仰出の様子は年より共または物頭 へ触可申もの也明日可打立覚悟也てんしゆまて一番かい立と食を焼せよ二番かいには人夫以下を可出者なり三番かいたつならはいなみ野におゐて人数を立させ可有御覧と計に小姓衆うけ給ふれ申と相聞え申候事

かね奉行蔵預米奉行とも召寄よ可被仰渡事ありとありしかは則祇候仕たると披露仕候所に御前へ被召出先かね奉行に御尋被成様子はてんしゆに金銀何程あるやらん畏て承候銀子は七百五十貫目ほと可有御座候金子は千枚迄は無御座候八百枚の少し外可有御座候金銀一分一りん跡に不可残蜂須賀彦右衛門所へ遣よ番頭鉄砲弓預置物頭を彦右衛門所へよひよせ知行におうして分取せよとの御意にて金銀無残御払候事

其次に蔵奉行被召出蔵〻の米は何ほと可有之哉各蔵奉行共御返事よは八万五千石程可有御座候日頃扶持方取申ものに今日より大晦日まてに五さうはいの算用取せよ其故は籠城の覚悟無之故兵粮米曽て不入也足軽弓鉄砲の者の妻子は扶持方まてのたのみ也せんし茶をもゆるとのむへきため也はや との御意にて其日より御蔵をひらき御諚の通に大晦日迄の算用に相渡申事

今度西国への金奉行被召出候御前祇候仕候今度西国へ持せたる金銀何ほと遣ひあましつらんと御尋候得は銀子はわつか十貫目程も御座候はんや金子は四百六十枚御座候其金銀も不入事まてありなから是オープンアクセス NDLJP:11をは明日持せよ他所よりも使者飛脚なとに出し度事もやありなん其上褒賞にとらすへき為なり明日路次へ持せよとの事

御風呂より御あかりにて御かゆ被召上候事

久太郎殿への御意には籠城の用意一円に仕間敷覚悟にて候故只今金奉行蔵奉行ともを召寄堅申付候此度大博奕を打候目に可懸候と御意候得は久太郎殿御あいさつには如御意世間の為体博奕も成目に来り風も順風と見え申候帆を御上け可被成候こなたなとの御身上からは加様の時二ツものかけの御分別御尤かと奉存候其次に御放之衆幽古御あいさつ被申上候言葉には御意のことく世間の様子物にたとへ候得は名花の桜唯今花盛と見え申候御花見御尤かと奉存候此幽古はげてん第一と中歌道ふかきと相聞え申候幽古にはさすかに似合申たるあいさつと人々感入候後の御沙汰と相聞え申候事

黒田官兵衛指出被申上候事主には申上にくき事を被申たなと人々申あへると承候殿様には御愁歎の様には相見え申候得とも御そこ心をは推量仕候目出度事出来るよ御博奕をも被遊幽古被申上候通吉野の花も今盛そや桜の花寒のうちに御覧被成度と被思召候ても時きたらてはみられぬ花也春の雨風の陽気を請おのかまゝに咲出るものなれは心にまかせぬと相見之申候此上は光秀と分目の御合戦被成御尤に候目出度そや御花初と覚申候とたわむれ被申上候秀吉御心のうちには我心中と一ツと被思召けんにつこと御笑ひ被成候と承候事

常々御祈祷なと被仰付候真言の護摩堂の僧被申上候其様子は明日の御出陣殊外日折あしく御座候出て二度不帰悪日と被申上候秀吉ために一段と吉日也それといかにとなれば君の為に討死の覚悟なれば此城に二度生て帰る事有としき也また光秀天命につきなば秀吉大利を得おもひのまゝの国の城に居城をかまへゝきなれは此下国へ可下に及ましきなり明日は我為には吉日そやと被仰出候得はその僧も目出度御きてん被仰出候と御あいさつ無残所御座候と相聞え申候事

右筆の者とも不煩供仕罷上候哉と被仰出候得は四五人の御右筆皆々御供候と申上候処に其外馬廻の者ともに物書侍とも十人計明朝着到を付させへきためにやとへやと御意にて左候はゝ番廿丁程の帳を作り面々是をたいし人数揃の所まて罷出候へとの仰出に候黒田官兵衛承にて手のよき衆十四五人に申渡候右之通の意にて候負来迄の御右筆とは被存ましく候明朝まての御雇の分にて御座候と被申渡候事

それより御袋様所へ御対面とて被成入候事

御風呂より御触被成候一番貝其夜の四ツのかしら二番かい九ツの頃なり三番かいよは野にて人数揃のかいと御意候二ツめの貝は如御約束殿主にて立させ被成候三ツめのかいは御だまし被成御城の大手口のらんかん橋迄にやく御自身御出被成候かいをたてよとの御意にて右のはしの中ほとにてかい御立候それより海道の野へ候出被成床机に御腰を被掛其左右に御ちやうちんまんとうゑのことくに見え申候夜の頃は八ツ時分なりはやよろひ武者おくれはしり来とひとしくあれは何者そと御意候てはや着到初一の筆に付よ御意候を承るやいなやは着到こそはや事初候へとそれより面々の知音近つき共の所へ若とうさうり取以下をしのひに遣し候と相聞え申候是を聞とる物を取あへす鎧をなまかために仕やからもありそれよりおもひに肝をつぶしかけつけ申候へは着到は即時に事かわりけれは着到の帳御取あつめ御自身ちやうちんのあかりにて御書判をすへられ候御黒印を被取出御判の上ことに御オープンアクセス NDLJP:12自身御押被成候此着到にて後に委数穿鑿すへき事ありよくおさめ置よと御意にてはや床机を御はなれ被成候事

彦右衛門官兵衛勘八其外又二三人に人数引分五段に立よとて自身御下知の事

其間に時刻も移りけれは夜もほのと明方に成けれは人々よろひの毛もさたかに見えわたり候事

御はた御のほり人々のさし物以下御覧被成候処に西のこかせそよめき来り候へは御はたのほりさしもの以下こかせあたり候得は旗きぬともいうとにぎやかよ見え申候のほりのまねきは頻りに京のかたへ吹なびき申候を御覧被成御心地よけに見えさせ給ふ事

三吉武蔵守殿小出播磨守殿此両人を被召寄いかにもひそかに被仰聞候様子は一円にしれ不申候此二人御城に被残置候御合戦目出度相おさまり候後此両人雑談にて其時の有様さたかにしれ申候それまては人々推量まてにて御座候と聞え申候其次第は合戦まけに成打死候はゝ御袋様御前所しつとかたつけ申城中に家一宇も残さす様に焼払へとの御諚にて候つるがか様に目出度相おさまり候とて両人後よ悦雑談被仕候と相聞え申候事

其後早晩のことく人数くり出せとの御意にて御鉄砲大将先手中村孫平次其次堀尾茂助是は近年出雲拝領被仕候堀尾帯刀殿事さて其外の衆中如軍法次第に御くり出し候事

御馬より三町程先は信勝様秀吉御馬のあたりは堀久太郎其外常の御伽衆まてと相聞え申候事

御馬より御跡八町計りも相隔と見え御舎弟羽柴小一郎殿後には大和大納言殿と申候事

津の国地へ被成御入候右に再三御馳走可申上と被申候茨木よりは中川瀬兵衛八ツはかりなる御息女を先にたて是は人質心と相見え申候其次に髙築よりは高山右近是も同年程なる子息一人先にたて人質心と見え申候さて目出度に上洛とて互の御涙と見え申候此衆被申上候儀は惟任日向守運のつきはてかと相見え申候よくにほたされ安土の御城へ罷下金銀其外御たから物ともせんさく仕候とて罷下候と承り候去なから秀吉様は上洛と承り候はゝ里々山城か津の国当国辺まて只今にも入可申と申所に如案正龍寺に物花見え申と注進方〻より御座候事

秀吉御意には御両所の人質はや入不申候其子細は無道者の光秀と御同心は有ましく御幼少の子とも達はや城へ御戻し候得との御意にて人質を城〻へ御返の事

中川瀬兵衛殿高山右近殿さて其外塩川党二三人御馳走に被参候此衆中の人数押合五六千に和見え申候面々の知行所御通候時御馳走兵粮以下馬のはみまて丈夫に御さはき候と聞え申候事

尼崎に御着にて禅寺はなきかと御尋の処に小庵一ツたつね山し御腰を被掛暫御やすらひ有て御諚には信勝久太郎殿の被聞はへ上横御切腹の通備中高松へ注進の時より精進けつさいあきらかに仕候はや敵相中間も程近く罷成候上は可及合戦まて也年寄故此中は腹中も相違力おち申候様に覚候精進をたち可申候御奉公には力付鎗をもとり太刀打の覚悟也信勝久太郎殿はわかく御座候間精進を御たち被成ましく候とて其次に台所衆へ魚鳥可成程料理仕我前へ出せよさらは亭主の僧をよひ出せよとて御行水を被成御くしをおろされ候信勝はさまを被替候事わかく候間無用に候みしかくちやせんに髪さきを被切候へと御意候得は久太郎殿もさまと可替と被申候処にたゝ信勝と同前に髪先御切候得と御教訓ありしかは信勝同前の体と相定候事

オープンアクセス NDLJP:13右之御くしをかみに御包ませ三人の御かみを仏前に御おさめ被成其僧に被仰出候事は合戦利運に罷成候はゝ五拾石地末代仕置可申候おほく付候はゝ代替の時皆引おとし可申候為其少付置候御祝のためとて金子三枚被遣候承り候へは彼五十石の地御所様の御代にも今迄も無恙と相聞え申候事

御膳そへり候ては御盃を信勝へ御さし被成候止意には惟任日向守は親のかたき又は主のかたきと是二ツなれは我等より先に討死被成候へ其体見届秀吉討死相定候との御意にて盃御取かわし候事

瀬出の山岡筒井順慶此衆中よりの早飛脚到来惟任安土の城へ打通る上下見及承候も上様は切腹の本能寺にてはあまりに手間をとり不申候へとも二条の御所城之介様所にては寄手押入れはこみ出し火花を散したる御戦ゆへ惟任者も数をつくし手おひ死人数多御座候と聞え申候其故よ日向守馬廻りもまはらに成候と承候於は登は随分御馳走可申上候と加様の文体の注進状頻りにおほく候と聞え申候事

それより日向守殿陣取正龍寺近き其間一里程へたて御陣取被成候それより物見御出し被成方々に付被置候先手は鉄砲頭中村孫平次堀尾茂介其外四五人なり暫ありてしのひのもの四五人被召寄候此あたりの在々所々の百姓はら小屋あかりと見え悉く明屋に成なり是より南地へまわり京のかたより日向守陣へは人の往来かきり有間敷也日向守者の様に紛入それより夜に入在々の明屋へしのひ入敵陣の物音を夜の七ツ時分まてはよくきけよ夜討を入なば海道筋へ軍兵押出すへしすは夜討よと心得自然入来る様にちいさき家に火をかけ焼上に必家こみに火をかくへからすちいさき家一ツにても火は是へ見ゆるなり是は相図のゝろしと聞え申事

正龍寺のあてに在郷へ心を付よ火先見ゆる事もや有夜明迄心にかけよとて番の者と御出し候昼の御触には夜討には大畧相印にはかみこはをりかしめたしきかのもの也敵と一ツ様に是有ものならはやくもたいも有ましきそや味方は刀のさやにしてをきり三所に付へし其上具足の左のわたかみにもにたるしてを付させよすはた者かち者には左のゑりに是も刀のさやのことくしでを付させよ夜明なば此しでは不入常のごとくにと被仰付候事

それより御供十騎ばかり被召連光秀夜討を入なば道よき海道すじたるべき也さ有におゐては返り夜討すべき也味方の勢二町ばかり御引のけ悉人数を備壱人も不立様にのほりさし物無用也道具以下も伏させよ鉄砲の火縄の炎不見様にかくし置敵の人数二千計も味方の方へやり過しつるへ鉄砲を討掛よときをあげ追崩せよ見合は彦右衛門官兵衛はからへとの御意候て御陣取の所へ御帰破成候事

それより先手の大将中村孫平次所へ早打を被立被召寄被仰渡次第明日の合戦は山ざきの町の上正龍寺近きこもりの松山を定め光秀方より可取也敵不取先にほの明には松山をとれよとの御意なり明日の合戦のかちまけはあの山取次第と覚えたり敵あの山を取ならば正龍寺へ仕懸事難成かさより横矢に討立る程ならは人数無左右押よせられまじきなり

孫平次承り御返事には是迄の御諚にて御座候や御意とも覚不申抑々あの松山を明日ほのあけに取申ものにて御座候哉はや参かけに取申候さし物のほりはいかに其儀にて御座候敵陣より見出されぬ様にのほりさし物きぬしほりして山八分め程に置申候それより木のしげみへつき二三十人召連山の峠にあがりそれより二十問程敵の可上とおほしき山人のかよひ候ほそ道なといくらも見え申候此あたり矢所とかほしき所にひるかみをつけ置目当所と可定と存候得ども木の枝を二町計りが間横切オープンアクセス NDLJP:14におりかけ味方の鉄砲の目当と定め置よく野印を仕置候参候跡にも敵上る程ならは右の目当所へ敵を引掛鉄砲矢先さがりに討かけよと堅申付候明日の軍とおほしめされ候事是は以の外の御油断かと奉存候只今にも松山の鉄砲はしまり候は〻たんほうより御馬を被出候へ別に御用無之候は〻早々私儀は可罷帰候と申上候処に御意には仕様無残所仕合也

孫平次に被仰聞様子もし夜討にやすへきとおもひ付正龍寺近き辺にしのびを付置候百姓のちいさき明屋に火をかけよ是は敵夜討の合戦に秀吉陣へ夜討入なば此のろし可上也其時夜討の返討のはかりこと仕置候其心得あるへきと御意にてはやと被仰候それより御前を罷立御馬屋へはしり入申候へは御馬は油断なくはるひをかため置申候それより孫平次御旗本を走り廻り少も油断有ましくと申度候得ど跡無覚束候間急罷帰申と皆々へは言伝のやうに申おかれそれより駒をはやめ本の所へ帰着被申候と相聞え申候事

其夜は夜討も無之事静に相聞え申候さて六月十三日にいまだ夜ふかく秀吉御陣屋を御立被成候御馬の先手は中川瀬兵衛高山右近塩川党二三人但是は小身人也此衆中は何も功者人なりされども下知見合は久太郎殿に被仰付大形此さいと聞え申候そわに御舎弟小一郎殿信勝様一手に御加はり候事

御旗本は御小姓衆は馬廻り蜂須賀彦右衛門黒田官兵衛さて其外の衆中なり

光秀方よりも山さきの東町のかしらまて人数を打出し互に備をたて候処に山崎松山へ明智鉄砲大将を彼松山へさし登せし所にはや孫平次見出し件のおりかけの目当所へ引かけしばしがためて五匁すはひを孫平次能時分と計ひまん中とおほしき所に孫平次鉄砲をかけ自身討留たちあかりざいをとり弓手め手へ言葉をかけはやうてや者どもと下知してさいをふりければ左右一度につるへかけ矢先下りに討かけゝれは明智方の鉄砲は一討もなしかはたまるへきまつさかさまに足なみを立て敗北すそれより孫平次鎗とうち入ときをどつとあげゝる秀吉は馬の先手衆槍合申とひとしく日向守備つき被崩一町計り引しりそく所へまた先手詰懸戦候処へ秀吉味方もしもや可押掛とおほし召味方の鎗の石つきの不働程に御馬印ふくへを御詰かけ被成それより又敵をつきたて候へは御自身右之ことく後詰を被成正龍寺に少かまへのやうなる所まて押込みそこにて半時ばかりの戦と聞え申候然は山の手の孫平次と一ツになり光秀人数も十文字に被掛破思ひに散々に罷成候所に追討に押つけかいまわし討取申候其後桂川へおひはめ川にての死人数をつくすと聞え申候事

日向守光秀は馬廿騎計にて川を乗越し江州坂本家城を心掛小八幡へかゝりしる谷越馬のかしらを引向かけ被登候其時は主従三騎に成候処を仕々の日姓はら先をしきり物とりの者とも馬上の光秀を鎗にてつきおとし三人の頸を取申候事

秀吉は淀をのほりに追討をうたせ三十三間たうに御腰を被掛人馬の息を暫御休め候所に方々より追討の頸御馬印ふくべを見かけ持参仕頸数六七百もや可有とおほしき処へ明智頸溝尾少兵衛頸そはまわりの小性の頸以上三ツ百姓持て参是を御覧付これいかに何方にて討候やらんとば尋ありけれは忘る谷越にかゝり候所を三本松の下にて如此仕候と申上候処にさらはむくろを取よせよやとて則取よせ頸をつきかそがひつけのはた物よせよとて所は栗田口河原送にかけよと御意なりさて其後悦の勝ときをあけよとて三度聞あかり目出度相おさまり候事

オープンアクセス NDLJP:15堀久太郎殿を御召被成御意には明智弥平次事安土の仕置に光秀残し置と聞えたり若坂本の城へもやかけ入へきなり大津の町を陣被取ひそかにして待玉へ弥平次打てのほるならは町にて取巻被討果よはやはやとありしかは久太郎殿大津をさして急き給ひそれより御身は淀へ御引下其夜は淀に御陣とりなりそこにて姫地を出野にての侍着到被召出番頭衆に被仰出候子細は組〻とせんさくせよ煩なとゝて着到に不相侍共可有そ有のまゝに申上との御意なり組〻は着到に不相侍数七人なり御意には煩には不審無之なりたとへ着到に不乗事は不苦候出陣の日乗物またはあをふたになりともすかり其日罷出候はゝ一入感をも可立物を行歩不叶と申不罷出事世間への聞え自今以後の見せしめのためなれは腹をきらせ頸を取て参との御意なり此者は煩ふかく前後をも不存候なとゝて誰々の兄弟のおちのなとゝて不可申分跡枕不知病人をは察をかけよとの堅御意にて承候衆罷下候処津の国一の谷にて乗物あをたにのり罷上者ともに行合暫是にて御やすらひ候得とて跡よりのほる煩之者を待請痛敷は御座候得とわりなき御使にこそ罷下候得とて七人の頭を取罷上候かくと申上候得は我者とは乍思敵そや三十三間の前にて実検したりし明智者の頸に押ませ捨に其後時とあけよとの御諚にて其頸三十三間に敵の頸と一ツにさらされ候事

明る十四日弥平次安土の城より坂本の城へかけ入るへきために打登所を瀬田より山岡殿被出向瀬田の橋中程に焼草をかけ候処に日の程五ツの頃に瀬田まて弥平次登り橋を隔て互の鉄砲軍きひしく能成候所に弥平次下知していわく町の桶鉢たこ幾取よせよ煙に紛水をかけよ其内町屋とこほさせよ柱たゝみと取よせ東地の手前つよくもみたてけれは西の山岡方は少し引退候得は橋は二間はかり歩の板崩かゝり申候其内町のものほしさほ取よせ水つきをこしらへ水とふくませつきかけさすさてものほしさほの先に弓鉄砲の者ともの着たる対のはをりなと取あつめさほ先に堅ゆひつけ彼羽をりに水をふくませもみたり所を二間も上も有さほともなれはさしのそき水をつけ打けれは火もよわるとひとしく柱二三本も縄にてつきたてひたと打かけ其上へたゝみを打掛なんなく人馬を打渡し勝ときをあけそこを難なくはせぬけ打のほるほどに大津の町へかゝりけるが請手の堀久太郎殿まちかまへ堀監物下知して取籠候所に鎗太刀討中々互に火花をちらすと聞え申候されども大勢に小勢弥平次残りすくなに被討果不叶とやかもひけん弥平次東より入口の町はづれへ馬の頭を引向海へさつと馬を乗こみうきぬ沈におよかせける久太郎殿方にはいまや沈と面白けに見物してありける所に弥平次馬の鞍つほをはなれさんすへ乗さかり鞍の後輪に手縄を取付志賀唐崎の一つ松をめてへなし弓手へ近く馬の頭を引むけはや陸も近く見えしかは久太郎殿下知にははや見物所にてはなきそや海道筋へまわし急乗着よあますなもらすなと下知して追掛させ給ふ所に弥平次なんなくはまへ乗上前へとんでおりかい道を見渡せは馬上の者四五十騎にて我先にと駒をはやむるを見及けれは敵の間八町計りと見及候事

弥平次心に思ふやう此馬逸物なりといへとも安土山より乗山したる馬なれははやつかれなんかんよき馬は乗殺まて草臥たる気しき見えぬ物なれは是よりまた急に乗ならは一度屏風返しにひつたとやたをるへきなれは敵三町程近付てくらつほへなをるへきと定息合を取出しゆるとかひ馬の息をつかせ敵三町ほどにも見えしかは又打乗ふけさはをきらはす一文字に坂本の城へのり入城に有ける中間なと二三人よびよせ此馬さため敵へ可渡なりこの馬の思情後世まても忘れましき也物を不可飼頭高に暫たオープンアクセス NDLJP:16てゝ置鐙をははづすへしとて其まゝ内証へかけ入かためたる鎧をとこの上にぬき置候事此後身を自由に可働ためしと相聞え申候事

此馬は信濃たち也黒鹿毛にてたけ弐寸七八分あり井上鹿毛と云也後にはいたや鹿毛と申也

城中には弥平次を見付上下に至まていさみよろこび申ことかぎりなしそれより役所くばりあら仕候へと人数丈夫には無之候去なからそこへはめ申候其後ゆつけを取よせゆると食しててんしゆへ鉄砲の薬をあけさせてんしゆより寄手を見渡せははや城を半分程は取巻なり寄手は堀久太郎殿なり弥平次てんしゆよりかりへいまわりをかけまわり自身あそこ爰にて鉄砲を討城を持かためたる様に敵に見せかけ又てんしゆへ取て返し道具とも取出しあら身国行の刀吉光の脇指きたふの墨跡是を夜の物に包みは録を添いかによせ手の人へ申候堀監物殿へ是を被渡よ此道具は私ならぬことと天下の道具なれは是にてめつし候事は弥平次はうしやくぶしんと可思召候間相渡し申候とて殿主より下へおとし申候事

稍有て堀監物返事には如候目録少しも無相違請取申候申度子細の候ぞや日向守殿内々御秘蔵被成候しんのくりからの吉広江の御脇指はいかにと尋申候処に弥平次返事には右の道具は上様より日向守拝領被仕候御道具也秘蔵の吉広江の脇さしは久大郎殿其外の大名衆如御存越前の国破候時に朝倉殿御物奉行はだにさして出候を後に日向守ひそかに聞出し是ともとめ被置候相渡可申候得共光秀命もろともと内々秘蔵被仕候問我等腰に指日向守にしでの山にて相渡可申ためなり其分可被成御心得候堀監物と申は只今の丹後守殿視の事にて候

後人のさんだんには是は松永殿大和のしぎ山の城にて切腹の時矢倉下へ付申佐久間右衛門手より城の内へよばわりかけ申にちつとも不違申人々後に被申けるとかや其子細は佐久間右衛門存被出被申付こと葉と聞え申候此度事にて御座候間内々のゝ秘蔵のひらくもの御釜上様も常々御望候様に被思召候条御出し候はゝ尤に候それにてめつし申事はあまりほひなき次第と奉存候右之通松永殿へ披露有之とおほしくて稍有て内より返事にはひらくもの釜つくもかみの茶入是は後世まて持せ伽にと存候所於安土の御城御手前にて御茶下され候時信長殿御意にはいつまても御手前之つくもかみの茶入にて数奇に相可申と被仰候とき数奇屋新敷たて置つくもかみにて一服可申上と存候つるところにその時分は方〻へ御手遣ゆへ打過申候間つくもかみをは安土のは城にて進上ひらくもの釜と我等の頸と二ツは信長殿御目に懸ましきとてみしんこはいに打とる言葉少も相たかわす頸は鉄砲の薬にてやきわりこしんにくたけゝれはひらくもの釜と同前也

此つくもかみはいにしへ九十九石の田地にかひ取申故と承候信長殿御秘蔵被成御最期之時本能寺にて焼はれ申候と相聞え申事

弥平次しんのくりからのきり物の有之吉広江言葉をたかへす其時失にけり

時刻移りなは敵乱入候はゝ外聞見くるしかるへきと覚悟相定日向守殿御所前其身の内儀弥平次手にかけひたと指殺し其脇指取直してんしゆの戸をひらきよせ手の人々御覧候へ弥平次自害の様子見習手本にせよとて腹十文字にかさ切伏さまに鉄砲の薬に火をかけゝれはけふりとなり一天のそらへあかるとかや

オープンアクセス NDLJP:17後に焼たる跡のはいをさがし見せけるに残りの刀脇さし其外道具のかたちはありけれとも吉広江の脇指なかりけり後にふる井戸より取出し候へともはやくさり其形も不見分定め吉広江にてあるかと人〻推量計と聞え申候松永殿頸とひらくもの釜不見と此脇指のおさめ様よく似たりと人申あへると承候事

其比織田三七殿同七兵衛殿丹羽五郎左衛門殿此三人は大坂に御座候其内織田七兵衛殿は明智殿聟にて御座候中国毛利家の様子羽柴筑前守所へ被遣候堀久太郎殿備中高松より敵陣の様子見及罷上次第中国へ御馬可被出と被思召候右の三人は大坂より四国へ出船いたすへき者也但御見合自是御吉左右次第と被仰出候所に日向守謀叛ゆへ四国の渡海は相留り申候事

羽柴筑前守殿所より丹羽五郎左衛門殿へ御内証と聞え申候織田七兵衛殿は日向守とおく意は一味同心たるへきと存候三七殿と被仰談七兵衛殿を御討果可被成事御尤に存候五郎左衛門殿も内〻は筑前守分別と同前也けれは七兵衛殿御座所大坂本丸の外千貫矢倉へおしせよ鉄砲すくめに調儀いたされあや表裹なく打果し申と聞え申候扠こそ明智軍はおさまれより

 

 
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川角太閤記 巻二
 

筑前守殿所より大坂の御番衆へ被仰聞御内証は其御城何方へも被相渡ましく候其子細は上様の御跡御次可被成天下人へ目出度可被相渡候其内は御番御油断不可有候事御尤に候と被仰渡候故御留守居衆御門々を相かため中々聊示に可相渡共見えさりければ三七殿も丹羽五郎左衛門殿も国〻へ一先御入候事丹羽五郎左衛門殿へ卒度御内証と聞え申候事

秀吉は播磨へ御帰城候所に丹後ノ国長岡兵部少輔殿父子より松井佐渡守を使者に被立候与一郎事は日向守聟の儀に候間定明智とおくい一ツにてもやと可思召候間起請文を以下上候とて右の松井佐渡守参候と聞え申候事

其返事霊社之起請文之面凉敷相見え申候人〻覚悟にはより申物にては候へとも法にも不任振舞候ほうしやくふしんの無道者の惟任と御一味は御座有間敷と於秀吉は疑無御座候各へも可被仰理事御尤に候猶御使松井佐渡守殿へ申達候と御返事被成候由御家中風聞候事

それより近国他国の大名小名に至まで播州姫地之御城への使者早飛脚大手の門は駒のたてともなく道も押分られざる様にこそると人々の見及も四方へ聞えも同前と聞え申候事

御いくわう日をおつていやましに罷成候と見え申候事不斜候秀吉もきやうに乗しさせ給ふ所へ

越前の国より柴田修理勝家岐阜の御城へ祇祇被依仕三七殿をかんへの城より岐阜へ奉移御分国の大名小名に至るまて岐阜へ被詰候へ談合可申子細有とて被触けれは各無残直参候ど相聞え申候筑前守殿も姫地を打立岐早へ参着候大名衆の其中には越中国拝領被仕候佐々内蔵助一人は柴田殿内証にて国に被居オープンアクセス NDLJP:18其子細は越後の景勝おさへの為と相聞え申候事

筑前守殿岐阜へ御通りの刻信勝様を御同道被成丹波の国明智殿居城亀山へ御番のために入被置候事

柴田修理殿惣大名衆へ御触には明日容城候へ於御城各申談天下人を可相定との前日のふれと聞え申候翌日柴田殿如指図御城へ被詰候処に柴田殿被申出候様子は上様御父子の儀は不及是非次第也目出度天下人を定め上様と可奉仰と被申出候事

惣大名衆も御尤に存候と計にて誰を可然と被申出衆中一人も無御座候それより互に目を被見合たると聞え申候稍有て勝家被申出けるは三七様可然からんと存候御年の比と中御覚は利はつの有機残所無御座候と被申出候処に筑前守殿勝家御見合は無残所候乍去御筋目を被立候は御嫡男御尤かと存候其子細は城之助様の若君御座候上は吉法様を御取可被成事御尤かと存候只今は御幼少たりとは申ながら御一門中勝家扠其外於同心仕は御幼少なるはくるしからずなしかは不奉仰者下万人としては御座有ましく候只御筋目を被立候は以下に至まて不足御座ましと於拙者はか様に奉存候事

勝家は内証気に不合と見え申候へと色には不被出候惣大名衆それより猶以無言の仕合なり稍暫あり丹羽五郎左衛門殿被申出様子は勝家又は各も被成御聞候へ筑前守申条も筋目涼歎相聞え申候その子細は城之助様に若君無御座候へは不及是非候たとへ御息女にて御座候とも御一門中に御緑辺可被仰合にましてや御二つの若君様也と被申出候は筑前守殿追て被申けるは城之助様御前方なとには懐妊の方も御座候はゝ御産のひほを御とき被成候を御待被成男女の次第御見分可被成事こそ五常筋目も可然かと存候処ましてや若君御座候上は御取立可被成事御尤かと存候事

柴田殿をはしめとし其外の大名衆筑前守申通筋目立申候とは各被存候へとも又被申出衆もなく相見え候処の為体秀吉御覧被付いや此座敷に秀吉於有之は惣談しにくかるべき也と思召候つもの虫気少し指出申候と被申出候而に座敷と被立候てそれよりたいすの間へ御座候而茶坊主共に枕を御取よせ被成御やすみ候て湯なと御取よせ香薫散なとまいりゆるとは休足被成候御心には定めし跡にてせんきまちたるべきと被思召候処に如案評定はとり也其中に丹羽五郎左衛門殿被申出様子は勝家か様に申候とて御腹立被成間敷候筑前守申条筋目たゝしきかと存候事

五郎左衛門殿又被申次第右に如申候勝家的腹立被成ましく候上様於京都御切腹被成候、折節筑前守は中国備中に大敵の輝元と指向其身指当る大事をのかれ播州へ帰城し三日とも休足不遂して則時に打てのほり我人の主のかたき無道人を討果事天命にもかなひ申筑前守かと存候勝家と筑前守をたくらへ候得は半分にも不及身上也上様御切腹勝家御聞付被成候とひとしく御かる羽をもつかはれ早速御登被成候はゝ惟任程なるもの二三人は御ふみつふし可被成ものを御油断故と存候と五郎左衛門殿被申候得は勝家も理につまりあやまりて候五郎左被申通に候とこそあひさつと聞え申候勝家暫工夫していや善は急けと申たとへをおもひ被出けるか筑前守被申出通筋目立候間吉法師様を天下人に可奉仰者也筑前守虫気も能候はゝ是へ被出よ談合可相澄と儀定候事

五郎左衛門殿是を聞座敷遥に相隔申処のたいすの間へ御出候而筑前守被起候へ鶴乱もよく候哉貴所御存分之通に勝家合点候はやとて五郎左衛門殿と打連本の座敷へ御帰候勝家被申出候は虫気もよく候哉先程貴所被仰出筋目可然と各も同心候間目出度吉法師様を天下人に各我等をはしめとして可奉仰オープンアクセス NDLJP:19覚悟也目出度と被申出候事

筑前守殿被申候は扠は勝家を始と被成各さも思召候哉らん我等存より候通は如右にて御座候乍去この上もよく御談合を御しめ被成候へ存より申一通は如此申上候と御申候之処に勝家のあいさつ各も貴所被申通可然と我等も始として存候はや此上は心置有ましく候事

柴田殿三七殿を天下の主に取立申度との分別は三七殿へ御具足はしめを被仕たる故と相聞え申候此は契約故後に御懇と聞え申候。秀吉には城之助殿御懇と聞え申候其子細は城之助殿御若衆のとき御公家衆なと御れんほ被成候御六か敷被思召候御気色を秀吉見被及さらは私へ御目を被懸候と世間御披露被成候者は気むつかしき事御座有ましく候其上於私にも内証者御六ケ敷儀申上問敷候外儀を右之通に可被成と被申上候処に信忠様けにもとや被思召秀吉御知音の様に世間成行申弥後も御目かけふりに罷成候事

信長殿御妹聟浅井殿を御成敗被成其後家を信長殿内々御有付可被成と被思召候処に三七殿は柴田に被遣候様にと被仰上候又城之助殿は筑前守に被遣候様にと被仰上候処に朝倉を御追罸被成其諸職一円に柴田に被遣候殊外大名に被罷成候時三七殿只柴田に被遣候へ大名にも被成候上は御兄第第被候而も不苦候と被仰上候時信長殿尤と御意にて柴田に被遣候此ゆい所故三七殿を柴田引被申候筑前守殿は城之助様にれんほ故そのちなみを以吉法師様を取たて申度との互のすふきのあらそひと承候事

左候はゝ吉日をゑらひ吉法師様への御礼可相定と勝家被申出候それより日柄を見よとて其役の者に被申渡候稍有て談合おはり候日より四日めには礼相定候事

さらは御礼之次第目録を作よと先御一家衆御礼の目録巻物一巻出来すさてまた其次に国大名衆御礼の目録別紙に一巻出来す国大名衆におゐては些田修聖殿次には滝川左近殿丹羽五郎左衛門殿扠羽柴筑前守と目録に書付申よと秀吉御見及被成候て勝家各被へ訴訟御座候御聞分被成候は可忝候各内々如御存信忠様別而被懸御目子細御座候儀者被成御存候間不能申上に候別の訴訟にては無御座候吉法様の御もりを被仰付可被下候はや年もより申候間別に望みも無御座候城之令様へ御奉公仕候と心に取置申候此吉法様を信忠桟と奉存随分御奉公可仕候別に申上子細無御座候と被仰出候勝家を始とし秀吉訴訟と被申出候時にはいか様なる儀とこそ各在候に是は以之外安き訴訟に候於我等は同心仕候各も定別条あるましと勝家被申候得は其外の大名衆貴所へ信忠様被懸御目候様子其かくれ無御座候いにしへを被聞召出吉法師様の御もりと被仰候事かんじ入申候筋目立申上に一入頼母敷御覚悟に候と各被申候と相聞申候右之目録に秀吉は無御入候さて其次御礼の次第目録相かたまり納候事それより柴田殿をはしめとし各御城を被出屋形へ被罷戻候

秀吉は跡に御留り候て御そへゝ御座候ておく方へ上臈衆を以御使に被立吉法様を是へいだき奉りお乳人被出候へとありしかは即吉法様をいたき御そへゝ御出被成候筑前守殿御きてんこそおそろしけれと人後に申あへりと聞え申候おさなき様は我等が様成年よりを御覧じては御おぢ被成もの也とて其間二三四御おき秀吉つくと御覧して御二ツには御年つよゆへか一段と御かしこく見え申候御目くはり成と御さけすみすましさらは明日可罷出候とてそれより御宿所へ御帰被成細工人共へ町以下上様の細工人の儀は不及申数十人被召寄候事

オープンアクセス NDLJP:20はや細工人も有まし祇候仕候へばひの木をたくさんに取寄よとの御意にて仰出にはでこのほうを作る者は作よ鳥馬など作よ急々との儀なり有増出来仕と申上候得はれうらきんらんの類を多く被召寄せでこのほうのいしやうに仕作り馬出来候は鞍なとのまなひ是も無残所出来候其夜も明けれは早天に御登城被成御すへゝ御入候て御持せ被成候長持を御取よせ被成置吉法様か乳人御いたき候て是まて候出被成候へと被申上候処に即御出被成候昨日の通間を御置候て件のでこのほうをば取出被御目懸候へははや御つかみ付被成程ばいさみ被成候と見え申候処に御そばの上臈衆へ御わたし候それより御手へ被渡候御悦候事不斜と見え申候時分にさらはとて一間程に秀吉御寄被成又一ツ被懸御目候右のこととく御悦被成候それよりは秀吉方を御覧候とおほしき時分馬鳥なとを今度は近〻と御寄せ候てはや直に御わたし候取替し色々の物を御とり出し後には御そはまわりの上郎衆まて手〻に持せ被上候得ははや即時に秀吉へ御たかられ被成候かやうに御手付被成候事一偏に御きてんゆへと相聞え申候事

翌日は御家中のちいさき馬とも二ツ三ツ御所望被成是にもしんくの大ふさなとかけさせあをりはきんらんなとを切かけ無盛所御こしらへ被成候一ツの馬には右の通こしらへ尾袋頭袋をさゝせ馬二ツ御城へ御ひかせ被成又早天より御登城にて御書院の前へひかせ是へ御出被成候様にとてあとのへい地もんをかためさせ御側廻りの上臈衆まて御出候秀吉を御覧候としとしくはやぢいと被仰出御手を被出候即御いたき被成候てちいさき馬のくらつほに御すへ候て御手をはなされすかなたこなたとひきまはさせ被成候へは昨日のでこのほう御覧候より猶以若君様御心の内御いさましく見え申候一日か様成御気に入申事計被成候へは御乳を被召しに候事もはや御忘れ被成程に御たらし入被成候と聞え申候馬二ツ御置被成さらは明日登城可仕とて御宿所に被成御帰候事

吉日の日も来候待は大名小名無残所御一家の衆は不及申上に太刀折紙は則御持参に相定早天になみ居祇候被仕候は長袴にちいさ刀まてにて御さかいけを被成上段にあつ塁を二畳かさねふとんのかけ上段三ケ一程かけ屏風を引まわし其かけに上臈衆おちの人を御おき被成候若君様を秀吉御いたき被成上段に御打あかり被成候とひとしく御礼事にじまりぬ三七殿成心其外御一門中御目録のことく御礼次第 事おさまり候事但し御直参

大名衆の目録柴田修理殿直参其外目録のことく目出度相納申候と聞え申候事

屏風のかけにお乳人上臈衆御置被成候御分別は無御存者ともを御覧被成御機嫌もそこね候はお乳の人をよひ出し御乳なとを可被上ため也其外不断御そはに付そひまわられ候上臈衆皆屏風のかけに御入候ゆへ御機様一度もそこね不申候事

心の付たる衆中見出目引鼻引かけにて笑被申候子細は御一家衆の御礼を初として御直参なり謹てかうべを地へ被付御礼被成候へとも筑前守殿は若君様を御ひさの上に被置少しうなつき被成迄にて誠々に上様の御礼御請被成様なるさはうにちつとも不違様に礼を御請被成候柴田修理亮滝川左近丹羽五郎左などへは猶以上様位の様に拝見申候右に如申上心の付たる衆あれ見給へ筑前守を上様にあがむるは則筑前こそ上様御一家衆又柴田と始とし皆筑前にたらされたるよとて内証にて笑被申と聞え申候事去なから右の御礼は目出度相納大名高家に至まて宿々へ罷帰と聞え申候事

柴田殿宿にての工夫仕出扠御一門中我身事も筑前守に礼したる事の口惜さよとつふやき給ふ所へオープンアクセス NDLJP:21滝川左近丹羽五郎左其外柴田殿所へ其夜御見舞候滝川左近被申出候は勝家今日御礼目出度相納り候去ながら御一家衆勝家を初とし皆々筑前守に御礼被成候とは不被思召候哉と被申出候へは皆々どつと笑ひ出し如仰筑前守を今日はあかめ奉り上横の様に我人いたし候とて笑被申候勝家はにかりたるかほにて其段ははや不及是非候かやうなるてくらふきてんのまいし申候は後にはいかやうなる事を仕可出も覚不申候是に付談合可申子細候そや

明後日は於御城三日めの御祝也本城にては不入儀に候御祝過候て我人罷帰候時歟又登城の折節二の丸にて前守に腹を可切也各分別如何参候哉と勝家被申出候処に滝川左近我等も左様に存より候折節此事被仰出候問心中不残申候勝家如御分別後にはいかやうなるぎほう才覚をまわし候はんもさらに不被計候朝出仕候時腹を切せしとても御祝のさまたけになる程の儀にては無御座候却て目出度御事と存候はや此事可然候五郎左衛門殿は此事筑前守に聞せはやとは心に被思けれども上にはとても御討果候者出仕の時朝可然御座候はんといと事もなけに被申候へは皆筑前守をにくまさる者はなきと勝家をはしめとし被思けるなりさらは是より相久敷勝家所にてこそ過し夜は談合ありけると四方にも沙汰於有之は不然候はや御帰候へとて其座皆々御ひらき候事

丹羽五郎左衛門殿宿へ被帰世間夜もしつまりけれは小姓まてを一両人被召連ひそかに筑前守殿の屋形へ被成入候処に番の衆書院へせうし奉り候処筑前殿はいかにと御尋ありはや被伏候と申候へはおこされよさらは可申聞と候て五郎左衛門殿の是へ御入候て案内をとけ候ひとしく御出合被成何かは不存ひそかに御談合被成五郎左衛門殿は其まゝ御帰被成候筑前守殿は五郎左衛門殿の御帰の時御手を被令礼拝の様に見え候事

秀吉蜂須賀彦右衛門黒田官兵衛中村孫平次此衆を被召寄せ聞せ手の人は不入候明後日御祝の日秀吉に於二之丸腹を可切す談合評定勝家所にて相究候事治定也はや乗出国へのほるそや扠三人へ被仰置候次第明日人々の御尋候はゝいつもの持病気にてふせり被罷居候とあひさつ可仕也自然状折需なと来候はゝ指心得返事すへきとて折紙に二ツ三ツひねりふみ四ツ五ツ判迄を御すへ置候て三人へ御渡し候明日一日はあひしらひ尤に候御祝の日明後日あ定勝家ゟ座敷御待候はや登城可仕との使必可立也其時の柴田殿への返事には筑前守事いつもの持病再発仕候へとも御意に候間かさへて祇候仕候へつるもはや目出度御前の御礼は相納り申候上候今日の御祝にて登城に不及候急罷上有馬江湯治仕片時もはや養生仕急き是へ致参着御奉公可被仕ために御礼相澄申候其夜に国へ被罷上候定め直に有馬へ湯治可被仕との返事の事

三日之御祝もおさまり大名高家に至るまては御祝の色見えいさみ宿々へ被罷帰候勝家心には是は定め談合之内より筑前守に返り忠したるよと被思ける此せんさくするならは筑前守所へ帰り聞えなは中 用心ふかゝるへきなりかまわね体にもてなし次而を可伺所なりと被思召けん世間にては筑前守は持病再発とて被登たる由に相聞え候定め有馬に可被居音信なと申付使者を可登といかにもかまはぬことく世間付合の時次而には同篇の言葉つかはれ候と相聞え申候事

それより柴田殿を初として国々へ一先被帰ひと相聞え申候事

筑前守殿は播州へ帰城し兎角勝家所より定たましの使可立事必定也と思召候処へ如案国大名衆へ触状オープンアクセス NDLJP:22を被廻みの様子は上様御跡を互よ何かと取紛しかと仕たる御吊不仕候事いかゝに奉存候条吉法様被成御上洛紫野にては御吊の執行被成御焼香被遊候様に可仕と存候為其各へ連判を以触申候は手前も連判の候判尤に候との使者也筑前守殿は返事には思召被寄御吊の御執行可然奉存候かように御座候はては不叶仕合にて御座候乍去存一通申上候上様の御吊被成候とて古た寺にては天下への聞えも如何と不被思召候哉麁相に成と新敷寺を被仰付仏師の上手に上様の御姿を木像に御あらはし其仏前にて御焼香御尤かと奉存候柴田殿はいか様に成と筑前守上洛さよとけ候へは被思さらは新敷寺を立よ上様を日頃よく奉見候上手の仏師共をあつめ御影を作り奉り候へよとて京都へ被申遣候則寺の作事取かゝり申候御影の仏師共より合御姿を評定せんさく仕作りかゝり申候事かり初のやうに御座候得共右之二色まて御座候へと日柄殊之外立申事

播磨には其内牢人共をあつめ四方へ不聞様に武具以下に至まて無隙透間内証にて御用意被仰付候右よ柴田殿への御返事の御分別には常ならは其まゝ上洛すへきものを勝家たますよと思召新敷寺又御影なと被仰付候事は尤とに御返返事候は此二色の作事出来候とも無左右出来有ましき也其内に人をかゝへ武具以下用意可被成ために右の御分別の御返事と相聞え申候事御寺も御影も出来候得は又勝家所より重而触状には御寺も御影も出来候間岐阜より吉法様御上洛被成紫野において御焼香可被成ために御上洛相究候御供の御用意御尤に候と重而又申来候此寺そうけん院と申は其時立申寺にて御座候即御も影其寺に今御座候事

筑前守殿御分別には勝家を初として定国大名衆も此度は思ひの外なる人数とたいし可被罷上者也さらは国々への大名衆を人を色にたげさせ目付を国々へ被遣置候はや岐阜より御上洛被成候上は国に留る大名小名一人もなく洛中へあつまられ候事

筑前守殿より国々へ付置く目付者なと罷帰ひ柴田とのは四五千程にて御登候扠其外滝川左近殿は何程五郎左衛門殿人数銘々付分姫地へ罷帰候惣大名の人数をかんかへ被成候に思召御胸より人数すくなく候よとかんかへさせ給ふたとへ大軍にてもあれ別なる事は有ましきなり柴田殿より使再三に及ふ迄は上洛ゆると待可申と思召候処へ柴田とのを初として大名衆よりも秀吉は上洛おそなはり候早々御上洛御尤に候と切々の使播磨へたち申候事

秀吉御分別に宿札を殊之外たくさんには書せ被成其札に羽柴筑前守内鉄砲大将弓頭有名々字もなき人をも何某たれかしと書付たる宿札を洛中洛外に打まはさせ大津八幡伏見深草醍翻山科嵯峨かやうなる在々迄へすきまなく御打まわさせ被成候事播磨とは立巻成候日より五日以前よ宿札打まとし候と申来候上洛の御供の大名小名に至までこはいかに外人をかゝへられ候と聞え申候か扠は必定也此度筑前守事を可仕出候と上下の取沙汰京中しつまらさると聞え申候さらは播州へ目付を付よとて勝家を初として皆々しのひに目付を被下候事

筑前守殿御分別には定京中宿札に可驚也定め我家城へも目付を可下時分なりさらは出る処と思し召陣之様にのほりさし物は一円に帯させす人数二万計にて姫地を被成御立候国々大名衆被付置御目付の者急京都へ走り戻り其主々へかくと申上候されはこそとて先吉法様をのけ奉れと勝家下知し岐卓を指て三七殿も柴田とのを初め敗軍のありさまに見え京中を夜の内に御引払ひ被成候と聞え申事

オープンアクセス NDLJP:23筑前守殿はゆると其跡御上洛を被遂玉へは大名小名に至るまて京中には一人も留る者なき也洛中町人以下に至まて以之外さはき立候も尤之事也

筑前守殿は京都にゆると遊山して御入候か国々への大名衆へ使者を被立候今度岐阜より御上洛目出度奉存候上洛仕候処に吉法師様の御被成洛中を夜にまきれ岐阜をさして被成御下候事驚入申候此上は紫野へ参詣いたし焼香初め可申候は返事奉待候と使者を被立候得は大名衆無面目とや被思けん柴田とのを初とし返状一通も無之聞え申候事

大名衆よりの返状無御座候事を能御聞届被成扠紫野へ被遂参詣彼新敷寺の御影の御前にて一番に焼香を被仕候事勝家越前にて被聞届もはや筑前守をたますとも中々たまさるましき事治定也はや事めなり申候処に此上は工夫分別有之て岐阜にてのありさま此度の内証の覚悟の通すみやかにさんけして起請を以て言理中なをりすへき分別なり左候はゝ家中の自分者にて起請を遣し候共具なる事難成勝家組下の前田又左衛門は筑前守とあひあけのことし其子細は又左衛門むすめ二ツのとし筑前守もらひ養子に仕置也前田又左衛門は内外共の別而のかれさる間也是をやとひ播磨へ使者に立はやと工夫して又左衛門殿やといひそかに一言頼む子細あり別条之儀にて無之候播磨へ使に頼可申候其様子は貴殿もあら 推量可有之岐阜にてのありさま又此度の御上洛の時於京都筑前守に切腹さすへきたくみ我等一人ならす滝川左近丹羽九郎左三七様なと御兄弟中共に右之仕合也去なから筑前守殿は筑家を中にも目に可被懸と察入申候也

はや前田又左衛門殿を勝家所より筑前守殿使者に被立申其様子は岐阜に於てのありさま又此度上洛ならは於京都切腹させ可申との各評定必定也勝家を初として是は先をくむ様成わる合点也各も其合点にて御座候かやうに存より候事偏に天下様の御ために不罷成候只此上は以起請和合仕より外の事無御座候為其前田又左衛門殿相頼進之置候起請之面あきらかに御座候と思召其上於御合点は一人可被掛御意候拙者之筆本可懸御目に候猶又左衛門殿へ申含候条不能詳候右之誓紙を持せ前田又左衛門殿姫地に参着候処に秀吉御馳走中々不被勝計と聞え申候勝家ゟの御使とは申なから偏に勝家是へ被懸御意候と御同前にて御座候左候はゞ御使之様子ははや承届候然上は於秀吉は一味同心の覚悟に候先是に緩と御逗留被成候へ勝家御馳走のため候間手前にて一服可申上候去なから中国長陣の留守数奇屋 ことくあはれ申候御馳走の為に路地の松なと二三本うへかへすきやをは松の木柱ほりたてに仕其上はとまふきに可仕候新敷所勝家様のは馳走のため也

又左衛門殿返事には御意之通承届候へと左様に御数奇屋なとそさうよ被仰付候とも日数立可申候勝家返り被聞候は又左衛門逗留何事にやと悪しくふしんもたち候へは互の御ために不罷成候と覚申候はや 右之御馳走勝家へたいし被成とは乍申忝様子にて御座候はや罷帰御馳走之通残所なく勝家へ可申との又左衛門殿御理なり筑前守殿御あひさつには如御意にて御座候左候はゝ筑前守勝家御馳走のあまりにや手前にて一服申度候去なから数寄屋を新らしくとまふきに仕勝家へ一服申上候と同前と被存候と相聞候是にても逗留仕馳走に相可申候哉と早打を以て勝家へ可有御馳走尋候五三日の内に様子相聞え可申候さらはとて筑前守殿早打を又左衛門殿越前へ被立候事

勝家返事には逗留は何程も不苦候筑前守殿ゆると逗留尤に候何様にも馳走隔心被申間敷候との勝オープンアクセス NDLJP:24家よりの返事を秀吉へ被懸御目に候扠於秀吉心安罷成候事

古きすき屋とりこほし右に被仰出候様にそさふなる道具にてとりあへす御数奇屋又うへこみ十本計客の気のつき候所とおほしき所に木うはり申候か様にそさうなる御普請とは見え申候へとはや廿日あまりたち申候事

数奇屋も出来候得は手前にて一服可申上候数奇も久々すて置申候得は終出し不申候間手前の前後可仕と存候乍去勝家御馳走のためにて御座候間明朝可申上候と被仰候天正十年九月廿日の朝の御数奇也御茶過けれはくさりの間へ御くつろきあり此うへはやかて越前へ返し可申候とて吉光の御脇指虚堂の墨跡被進之候か様之御馳走無残所被成候事

勝家へ之御返事には前田又左衛門殿は使者として是へ被掛候意候事身に余忝奉存候殊に岐阜京都にての御ありさま御心底不被残被仰聞其上何事も天下様之御ためにて御座候間於我等は心中如在を不存候さらは勝家ゟの御起請之ことく我等も仕則利家御前にて我等の筆本可懸御目とて吉日をゑらわれ御起請を御かため則又左衛門殿へは渡被成候事

此上は来春吉法様可被成御上洛事可然候こと奉存候左候はゝ如右之吉法師様御もり弥以拙者へ被仰付候様に御座候は可忝候外聞にて御座候間岐阜より大津迄の御とまりの御殿御茶屋拙者に被仰付候様に御座候は拙者の大慶四方之外聞可忝候左候はゝ江州板敷山其外の近辺の材木を取申度候其上に杣番匠等被仰付候様に頼上候播州之杣取番匠は此方より彼山へ可指遣候此等の様子勝家へ懇に被仰上御合点に候は飛脚一人可被下候必奉待候さらは可任御意候間御帰被成候へとて姫地等より三里御出し送り迎ひのかり屋形被仰付其所まて筑前守殿又左衛門殿を被成御送り御馳走残所無御座盃の上にて正宗の御腰物秀吉御腰より被進之御又左衛門殿も是は不出来なる刀にては御座候へとも為祝儀にとて長谷部の刀被進之候秀吉御戴被成是は又左衛門殿被下候とは不存候偏に勝家様より被下候御腰物と被仰則御腰まさゝれそれより互に御暇乞御座候事

又左衛門殿は越前へ御帰にて播磨にての御馳走の有様御返事の次第残所無候勝家へ被仰渡候処にされはこそ我等自分之者使者にたて候はゝかほとまては是有間敷に目出度相おさまり候事大慶不過之候とて長光の刀又左衛門殿へ被進候と聞え申候事

来年岐阜よりは上洛候は道中の御殿秀吉御馳走有度之由御尤に候江州の材木御とらせ被成度の由則江州へ被申遣候其上杣番匠儀山城之在々伊勢なと迄も早々可申遣候御用意候尤に候と又左衛門殿に被仰渡候勝家仰之通懇に書付飛脚はや姫地へ到来候事

飛脚到来候てより則播州国中の杣番匠を江州板取山しつかたけ近辺の山へ被成御入候様子相聞へ申候故柴田殿被仰付候江州伊勢山城の在々杣番匠右之山へ入小屋さしなと仕材木をとり申候事おひただしきと聞え申候事

 

 
オープンアクセス NDLJP:25
 
川角太閤記 上之三
 

御舎弟美濃守殿是は後に大和大納言殿と申候事柴田殿へ之は返礼の為に越前へ被進候様子又左衛門殿に持候て播州へ参候勝家より誓紙を御わたし被成候是に御判可被成御筆を見申御様にと秀吉懇に申渡候間は筆本見可申と被仰候へは勝家機嫌御悦中と残所無御座候と相聞へ申候事美濃守殿を越前にての御馳走中〻右に又左衛門殿を播州にての御馳走は物の数にては無御座御能幸若舞御数奇の儀は中 申におよはす候播磨を美濃守殿御立候時秀吉美濃守殿へ被仰合候其様子は前田又左衛門殿を馳走申より越前にての馳走は是にて推量したるそや幾日も勝家被留次第逗留仕れよもはや頓て北国は雪か降そ但白山へ雪のせんおろし何ほとさて越中のたて山木の目峠 板取山 中の河内 ひなかたけ此山〻へ雪のせんおろし何程仕候と貴所自筆にて早飛脚こし可申候扠其後里山へふり下る物そや此体を見およひ又飛脚こし可申候里山へ雪おろしかけ候は勝家へはや御暇被下候様にと申上可罷帰候扠右のことく里山へ雪ふりくたり申候故扠はよき御暇可申折からと被思御誓紙筆本は昨日見申候間御暇被下候様にと達而被仰上候事

勝家御返事には何程留申置御馳走仕候面もあまりは無御座候へとも中国之御長陣之御つかれ御草臥もいまたやみ申間数と推量仕候さらは御帰被成候へ返し可申候晩には手前にて数奇出し可申候、畏入候則可致祇候とて其晩数奇御座候夜に入くさりの間にて明日は可被成御戻候哉為就儀にとて江の脇指と正宗の刀十文字にくみて被進之候稍ありて御雑談なと相過候て後其座に掛り申たる一体の達磨のそけたるを美濃守殿御ほめ被成候勝家あいさつにあのたるまとそけたるけんさん天目持候是御覧候へとて天目を取出させ被無御目に候扠かやう成天目なとは見申たる事も無御座候とあいさつにて美濃守殿御ほめ被成候間可進候とて勝家自身御立候而掛物をはつし右之二色ともに美濃守殿へ被進候事

次の日越前を美濃守殿御立候播州にて御馳走のことく二三里も北之庄より御送候処にかり屋形を打せ御馳走残る所無御座候と相聞え申候黒なる馬蘆毛の馬二ツ鞍をおかせてよくは無御座候へとも五調者にて御座候長道たくさんに可被成御召候様にとて被進候美濃との姫地を御立候時秀吉御さし図には送りさけの所にて出し候へとて長銘の正宗の脇さし美濃守殿へ御渡し候を勝家へ被進候勝家戴き播磨にて又左衛門殿秀吉へ被進之候刀之時筑前守殿より御時宜にちつとも不違是は筑前守殿より直に被下候と同前にて御座候との時宜にて柴田殿右に御差候脇指を抜小姓に持せ美濃殿ゟ被進候脇指を被差替候事

それより互の御暇乞にて美濃殿は播州へ御帰候秀吉越前にてのあり様次第様子具に被聞召届数奇之時釜はいか様なるかまにて候哉我等は不存候処に勝家是は安土にて上様より拝領仕候釜にて御座候則うは口と申釜にて候と勝家被仰候其釜は大かたにて口広くしてちと口しつみたるやうに見へたる釜なり弾正の忠様より代々伝わりー釜なり勝家ある時上様へ被申上様子ははや老後に及中候間数奇を仕慰申度候間あはれ候秘蔵のうは口のかまを御預け被成候へかしと被申候処に御意には釜おしむにては更になし心持有之間今少待申候へとの御意にて其時は不被遣はそれより二三年過候て朝倉を御追罸被成其跡職一円に勝家拝領被仕候なり越前より次目の御礼として安土へ被参候色大きなる進上を被上候其時御釜を御召寄せ其方内々望申され候此釜今迄おしみたるにてはなし其方百万石に被成此釜可被遣と被思召候最早此釜持候ても不苦身上候間被遣候とて御自筆よに狂哥を遊はされ御釜御添被成被遣オープンアクセス NDLJP:26候釜よ其時勝家頂戴被仕たる御釜なり其狂哥に

 なれてそひあかぬ中のうは口を人にすはせん事おしそおもふ

美濃殿逗留之内に朝数奇に三度晩の数奇二度以上五度まて数奇に相申候事

越前に被付置候目付罷帰峠の雪はやつもり申候馬なとのかよひは中不存も寄事に候と申来候さらは時分はよきとて播磨を打立被成候宇喜田八郎殿を初とし一万五千の人数と卒しはや播磨へ被成御詰それより隣国の大名小名はや筑前守殿天下そと不見付人々はなし都合十二三ケ国打したかひ候故殊之外猛勢に罷成美濃殿は津の国河内丹波山城之勢にてしづがたけへ被差向件之材木を以城三ツひし と時を不移御取立候しづがたけには則美濃守殿に入候其次は中川瀬兵衛一ツには高山右近以上三ツにて柴田殿をおさへ候事滝川左近勢州長嶋より出はとて備前の八郎殿其外二万騎の其勢にて滝川を御おさへ候扠御身は岐阜へ候取掛ひたと御取廻幾重ともなくしやくをふり惣まわりに塀をかけ外には乱抗をふりまはし仕寄をは御付不被成只内よりつら出しなき様にさへあらはたとへ内より出るとかまふべからすかやうなる手堅普請は信長殿御代にも有問敷と風聞す御身は大垣の城へ被成御入窃に御しつまり被成時御陣屋まわりと見え申候事

其年も明ければ天正十一年未の四月十七日に御舎弟美濃守殿より桜井左吉と申小姓衆は早使として大垣へ参着候柴田修理事大軍を卒ししづがたけへ打向ひ申候柴田先手はおいの佐久間玄蕃徳山五兵衛前田又左衛門この三人と見え申参候跡にもはや何事も候らんと申上候処に此節柴田可出やと兼ての覚悟なりさて岐阜取巻申人数まひかせ給ふ右に御普請たくましく被仰付候事は此度のためと人申あへり岐阜より大垣へは引被成人数陣山を夜る出よ高声なと停止と其物頭は堅く触よ大垣へ直によるへからす海道筋はし津賀岳を心掛よと堅被仰付御身も十九日の夜城を被成御出しづがたけへと御馬をはやめられ候事

の在々所々の庄屋大百姓とも被召寄蔵を開きめしを焼せよ馬のはみをは合ぬかにせよ先手 は持たるたしなみの米を出し焼せよ米の算用は百姓はら自分の米ならは十さうばいにして後に可取者也いそけと御自身御触候めし出来候はゝ明俵を跡さきたはらはしをは其まゝおけたはらとたつにきりあけ内に塩水のからきを以よくしめし食を入よめし出来候はゝ牛馬に付させしづがたけを心掛急き可参なり合ぬかには木の枝かかみなととしるしにつけよ跡より人数つゝかは草臥たるもの多く可有なり是は食にて候可参と言聞せよ定め皆うへきもの多く可有者也はいとる者あるならは其まゝとらせよきるものに御包候へてのこひなとにも御つゝみ候て可然とおしはなしとらすへき也縦はいとる食も先へ持来りなば皆用に可立也しるしのあるたはらを食かとおもひとる者あらは是は御馬の合ぬかにて候か御用に候はゝ可進之と是も可相渡もの也如仰道にてはい取もの又はもらひ申もの数をしらす有之也御意の通にまかせ相渡申事

道中人数被成御打候時はのほりさし物のきぬしほり道中は如此候廿日夜に入しづがたけ山下へ夜にまきれ被成御入は得ははや取出ゟ三ツの城内中川瀬兵衛立籠申城佐久間玄蕃切崩申則瀬兵衛討死との注進なり彼城に馬上二百六十騎都合其勢二千計なり無残被討果候是にて柴田方も手負死人数をつくし申候と聞え申候事

オープンアクセス NDLJP:27其隣の百姓とも被呼出此中の陣取の事に候間陣取の次第被成御尋候へは一にかくと申上さらはなんし案内よく知たらん筑前守か者をなんぢに可付也頼と被仰金一枚被遣候無難戻候はゝ又二枚可被遣候此者を召つれ前田又左衛門殿陣へ紛入よと御意候へは大形山をつたわり参候わんと御請申状を被遊前田又左衛門殿へ被遣候者夜に紛れ是まて参着候人数無残引付候は笧火数を尽して焼せ可申候火多く見え候はゝ明日の合戦と可被思召候合戦に取結ひ候は裏切奉願度奉存候へとも兼てより御心中存候通者しろ裏切は被成間敷候合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間其御心得可被成と被仰遣候又左衛門殿よりは扠いかや野迄夜に紛被成御着候哉笧火事相心得申候如御意裏切は可被成御免候外聞如何と存候明日之御合戦於有之者如御指図の双方へかまひ申間敷候との又左衛門殿より御返事と相聞へ申候事

稍有て御人数も大形御引付被成候さらはのほりさし物以下かさりたてよ出来候はゝ下の者へ笧火をあて一人じて簿火三ツあて焼せよと被仰付候かれたるすゝきたくさんなる故中あたり近辺は日昼のことく也のほりさし物も敵陣よりくたりさまに見くたす地きやう也事にきやかに見え申候秀吉山きわを御乗廻自然夜討もや可有かと思召所を御覧被定三ケ所計に鉄炮弓御張出しそれより本の所へ被成御座美濃守所よりの使者桜井左吉はつゝきたる哉らん是へ参候へとの御意なり即御前へ祇候す其方馬はいかにと御意也関ケ原にて乗殺申候と申上候それよりはかちにてやとの御意候へは御意之通かちにて罷着候との御返事申上候御意には道中心に隙なき故失念候栗毛の菊額はいかにつゝきたる哉らんと被成御尋候へは一段と達者仕候少しも草臥不申候是に御座候と申上候得は左吉にとらせよとの御意にて候即御馬拝領仕具足さし物以下はと御尋あり具足さし物は則参候着候と申上候事

此桜井左吉は右には秀吉御そばまはりのこ小姓にてせかれの時分より御奉公仕候よく御見及被成御舎弟美濃守殿へ被進之時の御言葉には左吉事せかれゟ使たて覚悟の体秀吉よく見及そや自然大事の時は状折紙なれは互に遣にくき事も有物也ふみなし使の時此左吉を使にせられよとて御言葉を被添被進候たる仁にて候右の故美濃守殿より御状なしに大垣へも参候左吉心に思定申様御秘蔵の御馬被下候殊に御詞御念入申事忝さかんるひ肝にめいすると奉存候明日の御合戦討死を定め人なみの武へんにてはうれしからすまつ先せはやと存さたむる事

夜も明けれは敵味方の陣色めき渡り合戦の人数たてと互に見えたりされ共柴田方はそゝみておろし可掛共不見候之処に秀吉御陣より攻被上せ玉ふと見へ申候とひとしく七本鎗の衆は同勢ゟも二町計まつ先に進み被出候事秀吉御備へは所髙見下給ふと聞え申候山下へ七人の衆きそひ被掛候処に福島大夫ははや頸を取被申候鎗を互に打入候其まゝ柴田方の人数は引上ケ申候と聞え申候秀吉と七人衆との間の備へはや引崩敵を打立追上山に次第に詰上り山にても互の戦をしつをされつ暫の勝負候処に佐久間玄蕃備へを切崩それゟ勝家敗軍候佐久間玄蕃は勝家と一所に不被退左の山のほそ道にかゝりつるかへ退被申候右の七本館被進候時桜井左吉は敵の間をさけすみ申にあかる山の手に左へ付其所敵近き故山のきうなる所と登上りいよと味方の陣より見申候処に上より鎗まて胸板をつかれ六七間もつきおとされはや討死したるらんと見る処に立上り又本の道へ取上る其体を相見るに金の大半月のほろの出しもおれほろかこもおしつふすと見へ半月のおれたるは後へなたれひらめくと計見候処にはしめおつるオープンアクセス NDLJP:28所にて持たる鎗を取おとし候へしか又其鎗をとり其所より又十四五間も上ると見え候へは太刀のかなひかり見へ候と味方見物の処に頸をとり御前へ罷出候御感不斜して三万石とらするそよと御意なり美濃守殿より二万石都合五万石にて御座候に今至て名の高く聞え申事は七本鎗と申ならわし候七本鎗の衆へは其時三千石宛被遣候右には七人は二百石の知行と聞え申候候加増三千石宛也左吉は三年後病死也

柴田殿旗本崩れ候上は思ひに備へを引崩下々弓手めてのはへ山へ押分逃入ぬされとも名をおしむ侍とも主を見すてしと目に掛谷をくたりに敗北す追討切すて数を尽ずと聞え申候秀吉ふくべも柴田殿と間近く見へ申候処に柴田殿取立被申めんしやう少介勝家へ申上様子筑前守馬印もはや程近く見申候か様に候はゝ御心静に御自害被成候事難成見え申候は身は一先何とそ被成北之庄の御城に可被成御入候左候はゝ御馬印御幣を私項戴可仕候是に立置其下にて我等討死可仕候其間に少成と御のひ可被成候と申候処に今少付退き候へとて夫より又三町計も被退候へはてや跡より敵急にきをひかゝると見及候故今度は頻りに御幣可被下候と事急に申上候に付而されはなとはかりの勝家返事也少介御幣を戴それより勝家馬の先へ二町計馬をはやむる其様子はさきへのく侍共に言葉をかけ惣の侍の中へ御幣を被下候御意には侍とも頼なり御幣残すゆるならは勝家留り討死するよとかたき見るならは無左右押掛間敷との御意也志の侍はとまれよと言葉を掛ける中にも日頃間の悪侍には常御広言の御言葉水に御成有間敷候はやは留りあれと申けれはさすかに名をおしむ侍とも六七十騎勝介と同前に罷留りぬげに名を惜しむ侍ともは斯こそは有と勝家被思ける色は外にあらわるれとさらはと計の言葉也

めんしやう少介には吉野山にて忠信判官司にきせなかを給り一人峯に留るとは干今至迄の言葉のすへに聞忠信手柄には只今の少介手柄は右にまさつて覚たりさらはと迄の言葉也少介分別急なる所よて出したる事心こうなる故とかや此御幣少介に被下候を惣中の侍に被下候と不申は誰返し御用に可立に惣中へ被下候と申言葉に愧一ツは忝と思ひ出し六七十人の侍ひしと覚悟を合せ御幣の下へ付各息をやすむる事

御幣の留るを秀吉くたりさまに御覧し被及勝家討死と見えたりとて御馬を只一騎真先にはやめられさいを御とり皆是にふみ留よ仰は被出候候はねとあの御幣へかるはつみに押懸候は備へたる人数也此ほそ道にては人数の多少には不可寄被追返程ならは大軍の敗北のくせとして足を立直さぬ物そと思召鉄砲を御あつめ被成候へと十挺とそろいたる鉄砲なけれはしはし御待候処に漸三十挺にたらさる鉄砲也先へ押立被成御人数二段先へ立被成三段めはふくべなり扠矢頃になりしかは鉄砲討掛よとの御下知なり少介方も思ひ切りたる武考ともなれは如案一段切崩二段めも残りすくなに討被成はや御旗本もあやふく見え申候処に者とも二段めにて少介方を無残討果す扠頸を御覧すれは勝家頸はなし少介頸御覧して扠は是は少介はかり事と御意にて少介をかんし被成候事不斜也

勝家は少介討死の間に落延させ給ひ道をは無難打てとをられ家城越前北之庄へ入給人数悉ちりさりけれは城は大きなり役所をくはり一先此城持はやとは被思けれと役所にはむへき人数なし今はこうよとやおもはれけんてんしゆへ鉄砲の薬を上けよとて薬を二重に詰させかたきよる内は心静に我胸の取置して大手からめ手の門をはよくかためさせ今やおそしとまち給ふ事

オープンアクセス NDLJP:29前田又左衛門殿は我城越前の府中へ無難父子共に入玉ふ也此城は柴田殿家城より道五里隔り申候江州の入口也又左衛門との分別には秀吉はや是へきをひ可被掛者也裏切をも慥にして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし身上もあやうくもや被思けん先城の惣かまへに鉄砲くはりをせよとて子息孫四郎殿被出そこに鉄砲くはりしていまやと被相待也

秀吉はきをひにさしかゝり城きわへ御先手の者近つきけるによ惣かまへより鉄砲きびしく打懸るなり秀吉是を御覧し先手の御人数三町計引とらせ備とは不立して只人数丸に御置候て皆しもに居よやそめよと下知し玉ひ事しつまりては馬の口取一人も無之御馬印一ツの馬の先へ十間計御隔て只一騎にて彼惣かまへまて御馬をちかづけ被成候内よりは慥に御馬印也馬上は一騎也是を討も無詮事そ討なと鉄砲大将共下知する也

秀吉はちかと御馬を被寄御腰よりざいを抜出し是は筑前守そや見知りたるか鉄砲討なと被仰しかは内には皆見しり奉りたる人多しそれより鉄砲不可討とて堅下知する也

秀吉あや声裏なく城の大手大門まて御馬を乗付給へは折節矢倉の番衆高畠石見奥村助右衛門矢倉よりとんており大門の戸ひらを両方へ押ひらきは馬を直に被召入よと申上候処にはや御馬ゟおりさせ給ふ所へ彼両人御馬口を取候へは両人の者は内〻御存しの者也又左衛門殿父子何事なく帰城候哉と御尋被成候処に両人申上候は何事なく父子共に帰城被仕候と申上候へはそれより二人の者御供にて内へ被入せ間に又左衛門殿者とも勝家敗軍の時巻合に相被討たる者はなきかと御尋ありけれは其儀にて御座候内〻御存被成候つる小塚藤左衛門討死仕候と申上候得は其外又は誰〻そ其外のものは御存被成間敷候五六人も巻合に相被討候と申上候秀吉も心にはさあるへきとは思出したりつれと互の乱合戦なれは可分様更になし不及是非次第と御意也

又左衛門殿は父子被出向是迄の御出目出度さ又は忝事難申上候とてへい地もんをひらき書院通り奉入とせうし玉ふ所に台所かまのまへ通りは入候御意には先御内儀様へ御目にかゝり播磨のむすめ息災之通可申候間直に又左衛門殿御前の御座所へわらちも御ぬきなくつつと被成は入候処に又左衛門殿御前も御立向被成候へは先申上候今朝の合戦亭主又左衛門殿御かたせ被成候と御意にて其まゝに手を被合候次の御言葉に申請候娘播州より此中も申来候一段成人仕殊に息災の由切々申越候と被仰候へは又左衛門殿御前久不懸御目候処に是迄の御出は不慮に懸御目に候殊に御合戦目出度御心のまゝの由女の身にても誠に此上のめてたき御入有ましきとのに御あいさつにて候処に秀吉御返事右に如申上候合戦心のまゝに相まかせ候事偏に又左衛門殿御かけにて御座候北之生へ急申候間御盃を被下はや可罷立候同は是より亭主雇可申と被仰候内に御盃如御指図とりあへす盃の御取かわし被成候秀吉御意にはひやめし御座候はゝ可被下と被仰候是も取あへすにひやめしあかり申候とひとしくはや被成御立候御意には孫四郎殿は是に御袋様の御伽に御置候へ又左衛門殿は功者の事に候間同道可申候さらば目出度帰陣之時罷寄其時は是にゆると五三日も逗留可仕候と被仰候へは又左衛門御前も台所の口まて御打送候事

孫四郎殿御袋孫四郎殿へ被仰候は早〻御供に被参候に跡ははやあたり近辺に敵の有事にてもなしたとへさある事ありても不苦はやと被仰渡事

オープンアクセス NDLJP:30又左衛門殿は早〻出立孫四郎殿に被仰聞候其様子は我等事は秀吉先手の御人数よりも先へとをるそよなんちは秀吉御馬馬次の可乗なり但馬取二人まてかち若とう以下に至まて其まわりに不可置候申聞通にて御供候へと被仰又左衛門殿は秀吉先手よりも猶又十四五町も御先へ御馬を被進勝家居城に駒をはやめ給ふ也

勝家々城北之庄に前田又左衛門殿真先につかれ城とより口との間に川一ツあり其川の橋北之庄の石橋と申は是なり淀の橋に十間計りけた行短く御座候はん橋を不渡して西地に愛宕山とて御座候其山を又左衛門殿陣とり被成候処に御旗本の先手の御人数はや打つゝき候又左衛門殿下知には川はたに又左衛門殿手人数被立橋の口をは又左衛門殿心掛に一番に可渡とや被思けん先手の御人人数にも橋の口を不渡主の手廻迄の人数にてかためられ其身は又愛宕山へ上り被待候処に秀吉はや愛宕山へ上け玉ふ御意には軍兵共腰兵粮をつかひ申せとの御意にて御使番衆を所々被指遣又左衛門殿へ之御意には城持かためさる先にせめ可入と御意にては御談合候半に殿主より焼上り申候後に城より出たる者申上候は勝家迚も不叶とや被思つらん右に如申上天しゆへ鉄砲の薬を上させ二重に詰おかれしか御前方其外かたつけ勝家も自害せられ候哉かきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄砲の薬にてはね候へは天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらなとこくうにはねて来り御殿主の焼上るを御覧して又左衛門殿何と御さけすみ候哉と被仰候へは勝家自害被仕候か又武略にても御座候哉と此二ツと存候秀吉被成は御聞武略の様子はいかにと御意候へは又左衛門とのは勝家てんしゆに火をかけ候へは自害したる様に見せかけ其身は一先落てもや候らんとの御請なり扠秀吉は勝家ほとの者が居城の天しゆに火を掛候事我も人も城持程なる者天しゆ一ツにても運の開かんかためのてんしゆ也それに火をかくる程ならは別条候まし但自害は必定也又左衛門殿被仰候様にたとへ一たん落山林へも入其後尊氏なとかことく又重て義兵をあけ可申との分別成ともあの為体に成行候ては二年三年の内に義兵あくる事なるましく候也其内には聞出尊氏にはにずしてしばり頸に合申さん頸を見死骸を尋ね出し候はんなと申候ては五三日日柄可立は必定なり頸死骸見候はん事不入物候いさや直に加賀国に押込と御意候て彼石橋を又左衛門殿まつ先に押わたり城をめ手に見成加賀の国へとは馬をはやめられける御使番衆を被召寄下〻の者共町屋へ入て米塩噌二夜とまりの用意とらせよ馬のはみ以下も同前なり其外の乱取に心を不可入其通下〻へふれよとの御意にて其夜は船橋を御渡り御陣取一夜御すへ候次の日加賀国へ被成御入候小松の城近き所に御陣を被居候処に小松の城主徳山五兵衛前田又左衛門殿に取付はや城明渡し可申候又左衛門殿御請取被成候へと使者を立候事

又左衛門殿小松の城別条なく御請取候又左衛門殿秀吉へ城主徳山五兵衛事無別儀城相渡し申上候可被成御対面候哉と御伺候処に又左衛門殿へ御意には先同国村山の城佐久間玄蕃居城に可被成御急候徳山儀は重ての談合に可仕候との御意也御分別には柴田跡職をは丹羽五郎左衛門殿へ可進候か徳山も十二万石なれは其まゝ被置候へは五郎左衛門殿へ被進候国に疵付と思召御分別なりそれより直に佐久間玄蕃居城へ御急被成候処に村山の城玄蕃留主所より使御座候其様子は玄蕃事御合戦場ゟいつ地ともなく落行候問此城無左右明可渡との事也小松と村山との中間は八里也さらはと御意候てその日七里人オープンアクセス NDLJP:31数は出し候て先手も御陣取のあたりに陣取候へよと御意候て蜂須賀彦右衛門御使として玄蕃留主所への御意には扠は玄蕃事は城へ不帰候哉一里是にひかへ候は玄蕃家中の下迄の妻子を無相違のけさせんがため也家財其外可被遣候間一先面々の知行方へと被仰遣候得は留守居扠は面々の妻子共の悦申専不勝計忝かり申候事

御使たち申候其日より明日一日に悉妻子を退角と申上候翌日三日目に玄蕃城村山の城御請取被成候処に能登より長九郎左衛門自身加州小山へ祇候被仕候切腹被仰付候共命可被成御助共御諚次第とて被参候此上は只今の持かゝりの知行にて前田又左衛門と一味可仕候との御意にて命たすかるのみならす御知行迄居城に安堵被仕候事

それより能登を御覧被成御位置可被成と思召能登へ御陣を被替候処越中の国佐々内蔵助覚悟には扠は我国へ秀吉乱可入事は必定也今日迄はあのせかれ秀吉天道よきよな我国へ入ならは合戦にも及ふまし棒打にして追立ふみつぶささん事は案の内也それ天下へ切上らん事何の子細か可有といまやおそしと矢しりをかみ秀吉を待被県候事

秀吉能登国中改見及被成越中との堺目末森の城是を取立よ扠また七尾の城以上城二ツ御見及被成委敷様子は前田又左衛門被仰含候事

前田又左衛門殿被申上候は此御いきおひに越中へ御取掛被成内蔵助御退治尤と被申上候秀吉御返事には其儀にて候思出したる事の候そやそれをはかにと申に天正三年亥の年五月廿一日に甲斐の国武田四郎勝頼と三州長志野におゐて信長公御合戦被成候時頸数一万三千余討捕被成候を貴殿も御供故能く御存候ことく其まゝ甲斐の国へ押込可被成かと我も人も存候処さは無御座候てそれより御帰陣被成候事は御きおひは利運此上はなきと被思召かようの時は必天魔の所行もや有なん一ツには五三年も此まゝ被捨置候は国に謀叛も出来家中もまちにならん事を聞し召被出候者その時御馬を被出可被成御退治との御分別と相聞え申候事

又左衛門殿も皆々被聞候へ勝家に打勝候へは秀吉も案堵不過之候其上乍心まん気も出来候かと覚候其上下々以下に及ふまてかつにのる体はやいさみ悦興に乗する体なり佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手也合戦のならひなれば人数の多少にはよらさる物也是より一先引とり候はん其内に秀吉つのり出候はくらいつめに成候はんと内蔵助も又は家中の者も思ひ可出事必定也左候はゝ家中にも謀叛者出来候はん何事にも付候へ身の危見ゆるはいきおひの過る所也とてさらは引取り可申とて加州村山の城へ被成御入候加州半国能登一国前出又左衛門利家へ被進之候能登の内長九郎左衛門に被仰出候旨者前田又左衛門に被付置候何事も利家次第との御意也

佐々内蔵助殿は一合戦にまくり付へきものと被思召けるか秀吉御引取被成候を見及力をおとされ候と相聞申候事

秀吉は越前の国まて御上り被成越前一国加賀半国丹羽五郎左衛門殿へ被進之候

左候得者佐久間玄蕃事志津がたけの御合戦より越前のつるがのおく在郷へ主従三人にて百姓の家へ立より候つるか山路を伝ひ候故ときをふみ杖にすかり百姓にもくさをもらひ候てときの口に灸を仕候内の者主にまなひあのもの我召つれ候者にて候殊の外草臥申候間食をかい可申候はや焼候へとオープンアクセス NDLJP:32頼候処白姓はら心にあのときをふみたるは主人也二人の者はときふみの内の者かと見及食焼せうり可申候其うち御やすみ候へと申たまし候なり百姓等に云聞せ棒すくめにして召捕也百姓推量のことくときふみは佐久間玄蕃也二人は玄蕃内之者なり召捕同国北之庄へ注進する事

秀吉御心には無情縄をかけたるよなと思召候へとも不及是非仕合也秀吉御心には縄をとき身をゆる と持せ乗物に乗せ道中よきにいたわりそれより直に上せよ所は宇治の槙嶋におけよと御意にて道中よきに痛り槙嶋に置乍去申番は堅被仰付候事

其百姓はら被召寄褒美可被成候手つたい仕たる百姓はらも皆参れとの御意なり百姓御褒美を望み我も手つたひ仕候我もと申其召捕たる家へ入たる程の者十二人被召寄候事

秀吉御分別には合戦のかちまけは世間のならひ也秀吉まけ候は今日は人の上明日は又我身の上と思召被出百姓には不似合事を仕出したる物かな令見のため褒美にはた物にあけよと御意にて其時の十二人はた物に御あけ被成候是は明智討たる百姓には不可似被討手に科の軽重有なれば也

それよりは上り被成直に岐阜へ可被成御座と思召候処宇喜田八郎殿より早打参候越前は近江の堺目にて飛脚に被成を相候其様子は滝川左近くりか崎迄罷出候との注進也御返事には秀吉登るならば聞付定めて長嶋へ可打入なり何とそ調儀を以て退さる様にあいしらい候へ能次手也彼地にて可打果者也との御返事御心には直に岐阜へと被思召候へと御心をかへ滝川陣取のくりか崎へ直に御馬を可被寄と思召候処へ又飛脚来候滝川事昨日之夜引取候との早飛脚也不及是非とおほし召直に岐阜へ被成御付候柴田馬廻小姓三人の生捕を被召連御上候つるか岐阜の城へ三人の生捕御入被成候三七殿をはしめ勝家同玄蕃相果候通城中のもの是を聞力を落申候と相聞え候扠秀吉御分別にはもはや三七殿も下に至まて右之分別には遥に引替る時分なりと思召候城中へあつかひを御入被成候へは如案あつかひに三七殿御付被成尾張の野間のうつみへ移し奉り城之助殿若君吉法様をは其まゝ岐阜の城に先被召置候御番衆をも入被置候事

三七殿はのまのうつみにて御切腹被仰付候其時の御じせいに

 むかしより主をうつみのうらなればむくいをまてやはしばちくせん

瀬川左近家城長嶋へ御自身の御馬は不被向信勝宇喜田八郎殿両大将にて被寄候処に長嶋を引退尾張のかにゑの城に立籠被申候事

 

 
オープンアクセス NDLJP:33
 
川角太閤記 巻三
 

秀吉は其年も暮行は大坂の城に御入被成明なは尾張へ取懸常真を可被攻と思召御意には水攻の城は二ツも三ツもしをふせたり尾張の国は水攻になる国そや其故は殊之外大河はあり少の水にも国中へいかる也と御意候へは皆人偖々御気を被付て候なり熱田あたりを丈夫に御せき被成候は国中水はまるへき也其用意せよとて御分国の鍜冶にくわかまよきなと被仰付并に明俵御用意おひたゝ敷聞え申候伊勢近江美濃山にてわくの木など被仰付候事

明れば申の年大坂より御馬を被出候処に家康卿は犬山に御陣取被成候故俄に秀吉御分別には岩崎通り留主の岡崎へ御取懸可被成との御分別にて先手池田正入森少蔵二の備は三吉孫七郎殿扠尾張国中へ先手の御人数みちけれは後陣は美濃伊勢にたゝへ候処に安芸の毛利輝元より人質を被出候吉川次男蔵人小早川左衛門允は実子無之故舎弟藤四郎此両人被指出候秀吉御意には毛利殿人質両人尾張へ下せよ則尾張御陣に被参候は手前の御人数を両人の人質へ被添毛利陣と披露被成御陣屋近辺に御陣取候事

輝元よりの両人の人質毛利陣と御披露被成候事此分別は中国安芸の毛利もはや随ひ付罷出候との儀は家康卿への響かせ可被成との御分別と相聞え申候事

其年申の四月九日に家康卿と秀吉とのなかくての御令戦の次第は書付申上に不及候事

秀吉大坂へ御馬を被入家康卿を何とそ御引付可被成と被思召候右之水攻の御たくみこと敷被成候故東へ響成心も秀吉多勢を卒し当国へ可被向事治定なり水も国中へはまるへき国ならは只秀吉へ可被成御随ひ事御尤と被申上候へは常真はわる心得に扠は家中も筑前守に内証も入たるやと前うたかいと相聞え申候此事秀吉つたへ被聞召さらはと召召家中を御くり被成候常真御家中津川玄蕃岡田助三郎滝川浅井丹宮此五人へ御状を被付さまに御くり被成候此事常真被聞召候哉岡田助三郎をは土方彦三郎に被仰付彼彦三郎てんしゆにていだき候処を常真手討に被成候と聞え申候事

常真もとても成ましき物をと被思召其上又家中に謀叛人於有之は終にめつばうと思召御随ひ被成候滝川左近もかにゑの城を相渡し秀吉へ降参を乞被申候御免被成候処に滝川分別にはしつけのためなれは一先高野へ入はやと存則高野へ被入候秀吉被聞召滝川分別神妙に被思召高野は魚鳥禁制の地なきは堺へ被引籠数奇をせられよとの御意也それより堺にて数奇なと仕被居は処に何とか思召被出けん五郎左衛門殿へ破成御預ケ越前へ被遣候越前にては鍋や町と申いもしの町のあたりにけいのよき屋敷を見たて移被申しか後は数奇なと出し慰み候つるか俄に煩出しそこにて被相果候事

秀吉家康卿を御引付被成へきと被思召候御分別御工夫中枕を御わらし被成と相聞え申其段々の御分別の次第は御あつかいを被掛様子手引被成御覧と思召家康卿の国の様子御聞可被成ために人を色〻に作りなし三河遠州へ被成御入候御分別は家康卿は籠城の支度有ましき也唯一合戦とのみ計り可被相定と思召右の目付御入被成候目付時に罷上り候御尋候得者籠城之用意一円に見え不申候鷹野川かりなとのやうなる慰まてと跡より参る目付も同篇なる言葉也さればこそ秀吉推量すこしも違ぬなり御あつかひには先御妹可進候なり此上は兄弟に可罷成と御あつかいを可被懸也其上に家康卿無合点は母と女とも又妹此三人を家康卿へ人質に可出と蜂須賀彦右衛門黒田官兵衛其外二三人に被仰聞せ候へは彦右衛門被申様にはこはいかに昔かに今至るまて天下人より其下へ人質を御出し候天下主の先例はいまたオープンアクセス NDLJP:34不承候是は以之外のようちに覚申候と申上候得は秀吉御返事には各申上通尤也去なから秀吉昔かに今至まてけてんにも先例なき事を秀吉仕置日本の後記に可留そや秀吉み随ふ国ははや三十ケ国に及ふ也家康卿は甲斐国と四ケ国なり秀吉威光日をおつて募りなはこの人質  請取被置候共秀吉我に不随もの此人質はた物にかけ火あふりにせんなとゝは被申間敷そや此上は弥位詰に可成なり右之人質の合点も  無之候はゝ此上の分別有之也皆聞候へ  と和談澄候へは東国は奥州外の浜まても則時に可討随者也

うけ給候衆被申は家康卿人質の御合点不被仕候は其上の御分別と御意候は何と思召候御分別にて御座候哉と被申上候処に其儀也矢はき川を東にあて池鯉鮒の原に付城を二ツ普請たくましく丈夫にそへき也是は  軍兵と可引出ためなり其時家康卿合戦とさだめ被出ならは池鯉鮒の原はよき場也備人数何程も可立自由なる所なり普請かたまり候は北へまはり秀吉兼て見置候に遠州にふたまたと云在所ありそれよりこうめうあきはなとゝ云所あり彼ふたまたより軍兵を入てんりう川を東のうしろにあて陣取丈夫に普請をかため兵粮米は海上より付させをば兵粮に手をつく事有ましき也三河遠州は百姓はらこと く一向宗也もんせきより彼二ケ国の末寺への状を取付一揆をおこさせ何様にも秀吉次第との状を付させ百姓には耕作をさせ作り取にさすへき也其上少も非分悪きあてかひ申付間敷也是にては日数も立可申候去なから終には  国の痛み可成也  国四ケ国と一ツに取巻たると同前そや是も昔かに今至まて四ケ国を籠城さする事日本の後記に可留にてはなきかいかにとの御意也

承りの衆御意之通り承候へはこそけにもと合点仕かんし入申と御請被仕候御意には秀吉分別も次第よく候哉と被思召候か古き書物の青表紙を取出し見るならは秀吉はもんもうなり事はか行ましきそや末々悪此事に成行なはそれ次第先々秀吉きてんにまかすへきとおもふ也但皆々存よりたる子細も有ならは侫人の心をすて可申上也其心得油断不可有と被仰聞候畏て候とて其座をは皆々被立候と承はり候事

秀吉御分別には御妹を家康卿と御ゑんへんに御取むすひ可被成なり是に家康卿合点ならは祝言の取組に可納也先  へ被仰遣へきと思召蜂須賀彦右衛門津田四郎左衛門此両人御使に被立候処  御口も和らき右之御ゑんへん相すみ御兄弟の御契約目出度おさまり候家康卿より御使酒井伯耆なり秀吉御妹則被進候弥こしを被入候故家康卿も御上洛候事

秀吉御心のまゝに家康卿との御緑辺相納候事御大慶不過之とや思召道の御とまりの御妎分の御知行被進候弥以互の御入魂残る所なく御座候事

右之御祝言目出度おさまり候へは秀吉御意には当時合戦にすく者は東にては  九州にては嶋津と聞也去ながら是はおとのみに聞ゆる迄也北国にては佐々内蔵助なり此三所にては大合戦と定也其内に  を第一とおもひしに是は目出度おさまりぬ残りて北国九州二ケ所の合戦と定也

佐久間玄蕃と御教訓の事蜂須賀彦右衛門を槙の嶋へ御使に被立御意は勝家事は右之通なれは定て無是非と可被思也はや跡之儀は何事もゝくさんしてすてられよやかて明国おゝく出来すへき也大国を一国可宛行者也此上秀吉を勝家と被思なは秀吉満足たるへきと被仰遣候処に案の外なる玄蕃か返事と聞え申候御意之通りは承届候合戦のかちまけは世間比有ならひ也勝家合戦利運にもなるならは秀吉を我等か成行姿に可成とこそ存候に勝家自害の其上は玄蕃浮世に留りたとへ天下を被下候とも勝家に可思オープンアクセス NDLJP:35替事存もよらず候自害と存候へつるか待しはし我事心いかやうなるきうめいにも可相事を悲玄蕃自害したるよと取沙汰於有之はかはねの上のふかくなるべきため自害はとまりぬる也死罪の体いか様にも可被行者也はやと御返事に及候事

玄蕃か返事之通被申上候へはさりとは玄蕃に似合たる返事かな心底を不被残候専神妙さよ君子に二言なけれは重而の教訓に不及さらは腹を切せよとて森勘八と御使は被立候秀吉へ一言の訴訟あり是にてかうへを被刎候へはひそかの様に候ねかはくは車に乗せ縄下の体上下に見物させ一条の辻より下京へ引下させ給ふ程ならは可忝もの也その上秀吉威光も天下へ響渡るにてはなきやの事

秀吉被聞召さらは玄蕃遺言にまかせよとの御意にて京に被召寄車の次第そさうにすへからずいさきよくかさりたてよとの御意にて玄蕃所へは是を被着候へとて御小袖二重被遣候玄蕃是を見て忝存候乍去紋から仕たて様気に入不申候大もんのへにの物のひろ袖裏はもみこうばいの小袖可給候是を着申車の上に打乗候は目にたちあれこそ玄蕃よと可被見ため也軍陣の時の大さし物と人目にかゝり可申者也右の小袖にては軍陣之時の鉄炮の者なとのさし物に似たるへき也と申上候事

秀吉聞召被届最期まて不へんの心忘不置事よなおしと御意にて望の如くなる小袖二ツ一ツははくの小袖何れも広袖也玄蕃宿へ被遣玄蕃さしあけ戴べにの物のをうもんを上に着さて車をさしよする時態と縄を掛よ越前つるかの在郷にて百姓ばらに被召捕候時玄蕃縄掛たる事天下に其無隠事なり縄を不掛して被渡ならは縄詫言仕たるかと見物の者も不審可立也とて縄を掛り車に乗る一条の辻より下京まて玄蕃遺言にまかせ渡しける京中の上下見物衆いけうくんしゆをなそ事かきりなしさて下京の町屋へ入置角と申上候事

御意には夜に入又本の槙嶋へ御被遣御成敗之次第昼は無用也夜る頭を刎よと被仰出又森勘八に被仰付槙嶋に着しかは直に野に敷皮を敷せ直し御腹被召候得とて脇差を扇ますへ指出し候へは腹を切るなとゝ申事はよのつねのありかゝりの事にてこそ候へ腹を切へき程ならは何とて今日の車の上の縄を可掛此上を後手にまわしよくいましめられよと被申候へとも昼のたかてこのいましめの縄迄にて頭を刎事勘八殿玄蕃死骸に念を入よくかさめ置其後石堂をすへ玄蕃墓印と定被置候事

秀吉玄蕃を槙嶋に久敷被成は置候事おしく被思召心も和らき候はんと被思召ためと聞え申候自然秀吉直の御けうくん被成候はゝ可申上ことの御座候はんさにては無御座一通彦右衛門を被遣君子に二言なしと被思召出一通と相聞え申候事

是は于今世間の沙汰さたかに無御座候丹羽五郎左衛門殿へ加賀越前両国の間にて百万石被進候処に煩之由被仰一円に越前を不被出して国に引籠被罷居候秀吉被聞召付煩にてもやあるへき又は国もすくなきとの不足かと思召大坂より蜂須賀彦右衛門をひそかに御使に被立候御煩はいかゝ候哉貴様御厚恩今以か程迄じやうし申候乍去いまだ紀伊国辺も不相静候彼是談合可仕相手無御座候此上も弥御指南御差図も請申候度候条御煩も少々よく候はゝ御上洛奉待候と被仰遣候処に五郎左衛門殿御返事には煩しかと無御座候間国にて療治仕候との秀吉へ御返事と聞え申候無心元と被思召御才覚を被廻方々御聞立被成候に中国筑紫佐々内蔵助所なとゝ廻文まはる様に被聞召届又重て彦右衛門に霊社へ起請を被遊被遣候其様子は只今天下にそなはり候事は偏に長秀御かけ也此上は天下を長秀と替り持に可仕候間御跡に秀オープンアクセス NDLJP:36吉可参候大坂之城天下を相渡可申候候互にか程迄仕たて余人に天下を可渡事おしく御座候如此入替長秀を我等奉仰候は凡日本には天下の望の人は有ましきかと覚申候と被仰遣候へは長秀はかんるいをなかし煩もいつわりにては無之候へとさらは罷上り候はんと返事ありしかは大坂より早打を御立御上洛候は御人数をたい被成候へ紀伊国を可討平なり大坂の留守居頼可申との重ての早打也

五郎左衛門殿人数一万はかりにて上洛と被聞召道目付を被付置候はや先手は大坂へ着申候候五郎左衛門殿京まて御着候今日は大坂へ可被成御着と申候来候へは秀吉御道具一筋まて御馬一騎かちの者廿人計の為体にて平潟まて御迎に御出候長秀と御参会被成それより御同道にて大坂をは入候直に長秀屋形へ被成御入是にて御振舞可給と被仰候得は長秀御あいさつそさうなるへんとう振舞被成秀吉書院へ御立被成長袴にちいさ刀にて座敷へ御出候此上の大慶目出たさ身にあまり奉存候とて互の御入魂の色見へ御間残所無御座候それより秀吉は御城へ被成御帰候処に長秀夜に入御登城候弥以御中にへたてなき事但是は申の年也

右に如申上候輝元人質なかくての御陣被召寄せ候事

大坂へ御帰城被成候処に輝元臣下吉川駿河守元春小早川左衛門允隆景宍戸備前守御礼に罷出候奏者浅野弾正殿なり則御対面被成御意には三人共にはや被下候へ其子細は国に取々に可沙汰事秀吉推量有定此三人は天下に可留置そ被下候事は不定可成と国の沙汰可有なり秀吉心中は左様にてはかつて無之候片時もはやく日本を可治ため也表裏少しも被成間敷者也来年は輝元目出度可有上洛者也との御意にて此三人早速に被成御戻候中国の下々の取沙汰案に相違して上下いさみ悦申事不斜候事

翌年酉の年輝元早々に上洛ととけられ候御懇忝次第家康卿は馳走のことく泊り毛利領分まての妎所知行被進候輝元大慶天下の外聞忝と御礼被申候事

其年も方への御手遣の事輝元は伊よの国を渡海可被仰付候問急き国本へ被罷下陣用意被仕候得と仰出しにて国に下り四国へ之陣支度に候乍去一左右可被成との御意を待かまへ被居候事

御身は大坂より和泉へ御馬を被出岸和田より一里隔り申千石堀とひたと御取巻被成候隙すきまなくもみにもうて攻させ給ふ所に羽柴左衛門佐殿手より是は久太郎殿事也火矢を掛城焼上り申候此火矢は左衛門佐殿内吉田孫助と申者にて御弓上手々聞なる故おもふ所へ射付候により加斯御火の手あかるとひとしく攻入切りほし申三月廿四日也しやくせん寺の城より其体を見及ひ明退紀伊国へはしにけ入申候其外の下々は山林へにけさり千石堀とじやくせん寺の城破廃に付而御馬はこ川へ被入翌日和歌山被成は入候それより太田の城水政に被及見堤御つきたて候てきの川を御しかけ被成候事

水も過半あかり申時分に備前の宇喜田八郎殿町場堤きれ申候其時幽斎狂歌に

 備前かちいくらもおゝき其中にやきは堤の大きれそする

左候処に内より幸と存降参を乞申候秀吉御分別には此切れ口本のことくつきたつる事成間敷と籠者とも見及降参仕候は可被成御聞との敵の分別と覚たるそ本のことく堤をつきたて其上にて内より降参乞ふ物ならは其時は分別次第なり先つき立させよとの御意にて則時に堤本のことく成就する也

其後城より又降参を乞申候故蜂須賀彦右衛門御とりあつかいの御使被仕太田の城請取かしら被召捕則はた物に御あけ被成候左して国中御仕置被成和哥山へは桑山法印を入置かれ候事

オープンアクセス NDLJP:37それより大坂へ被成御帰城御舎弟大和大納言殿三吉孫七郎殿是は後に関白殿事也其外仙石越前守なと此衆中讃岐へ渡海被仰付候伊予国は輝元渡海被仰付候讃岐にて城一ツ右之両御大将にて御乗崩し被成候其頸大坂へ被進之候伊予国にては毛利殿金子の城七月十五日の夜乗崩城主共に被討果頸千三百大坂へ進上候右之ひ〻きに土佐の長曽我部御礼申上候則居城に被遣候阿波の国は一揆はらなれは別条無御座く相澄申ひ候四ケ国に滞所於有之は可被成御出船と被思召てんほうに武者船御浮被成候所に案の外に澄申候但土佐と伊予の国堺目くんなゐの郡の内にばがいと申城に多田と申者立籠候其所へ毛利殿陣かへ申候付城をつけ鉄炮よけまてのあいしらひ被仕候上様よりの御意にはそれ程の儀は不苦候付城まてにて被置候へとの御意也

天正十三年酉の七月初頃に秀吉被任関白候事

越中の国佐々内蔵助秀吉は四国九国へとり出すなれは定隙入可有と油断可仕なりさらは内蔵助所へ御馬を可被出と御儀定候所に彦右衛門被申上候様子は内蔵助事供の者六人召つれ我国を窃に罷出候てはま松へ参候と承候供は佐々与左衛門いたわ勘右衛門松木内匠其外以上六人か様に承り候御分別のため申上候と披露いたし候得は御意には家康卿りちきなる所を見つけ内蔵助とつて可出入にてなけれは直段をやすへきとやおもふため也今更家康卿に心おきするならは事をさうによせ毛を吹疵をもとむると同し事の見えざる先に聞出したる沙汰必停止たるへき也家康卿表裏有問敷也丈夫なる  を東の押に頼置候得は於東国は気遣ひなしさらは越中へ御馬を可被出との御儀定也家康卿へは越中へ御馬被出候加勢少可給者也と被仰遣候得は本田豊後に都合三千その内鉄砲三百挺にて家康卿よりの加勢としてはや上洛に及ふ上様は大坂を酉の年の七月廿七日に御馬を被出也御分別には内蔵助と此中迄のかたをならふる傍輩なれは定てぎへんふかゝるへきものなりたとへ秀吉に降参有度ともわるかをはるへきもの也信勝は信長公の御実子也所詮信勝を旗本と定可向なり内蔵助無詮方物ならは信勝へ付降参仕るへきなりと被思召路次すから信勝へ御見舞被成御旗本の様に御しつし被成様子は越中へ響のためと聞え申候事

御先手は前田又左衛門殿父子金森五郎八森右近池田三左衛門稲葉右京佐加藤作内およそ此衆中後陣は宇喜田八郎殿と相聞え申候則時に内蔵助分国越中へ乱入被成候と相聞え申候事

伊予の国毛利殿陣取の備へ右之敵の城下かや野原と申所に陣取也其所へ越中より早打のは朱印参候此文体にておよそ越中の様子の次第聞え可申候か毛利殿への御朱印に大形如此かと存候小早川隆景此御朱印之御文体は御威光又は御きほひの体第一御機嫌のあまりに被下候かと分別也不苦候間此御朱印のうつしを下々へ書付見せよとの隆景分別故下々へ披露まり申候事

其御朱印に急度令注進条々

佐々内蔵助事不及上洛に国に引籠利我まゝを振舞候故により追討之其ために去廿七日に従大坂出馬に及事

今月七日辰の一天には越中くりから峠に馬を立先勢東はたて山うばとうけつるきの山のふもとまて令放火木船森山ます山以下悉破没付内蔵助令降参信勝を相頼戸山居城相渡墨交の体にてはしり入る条命の儀者令赦免候事

オープンアクセス NDLJP:38飛弾の国あねかこうしの事右の内蔵助と令内意金悪逆候条成敗として人数指遣候彼国道筋人馬之事は中云に不足とりけた物もかけりかたきけんなんたりと候へともつるきの山なん所を乗越分入彼兇徒等悉頭を剣一国平均に申付両国ともに太刀も刀も不入存分に属し馬を納候事

内蔵助居城戸山へ馬を乗国中見及諸城にかりもの主相付国の掟め等申付それより加州村山の城下へ軍兵を打入人馬の息を三日休つら事の心を思出に不珍事たりとはいへとも忠を高感し科をふかくいましむる事是皆天下のまつり事也然に先年江州北之郡やなか瀬表におゐて柴田修理勝家と一戦に及し其時前田又左衛門利家抽忠節之条今更得時其感として両三ケ国前田又左衛門利家に宛行事

其表の様子に付浅野弾正所迄再三横目を被乞候由弾正申上に付蜂須賀彦右衛門同小六黒田官兵衛此者共指遣候万事見合請押等に至まて彼等と一同に覚悟を可被合事肝要也自然右之調儀に乗り無益合戦必停止たるへき事

      毛利右馬頭とのへ進之候

右之通にても御座候へば内蔵助一巻は聞え申候か前田又左衛門殿は柴田合戦之時加賀半国能登一国にて佐々内蔵助おさへ也申の年と酉の年との間に佐々内蔵助と前田又左衛門とのせりあひ大小五度のせりあひ是は大形如此候内蔵助御追討被成其時越中も又左衛門殿拝領也右之五度のせりあひ面白き心持之事

飛弾の国は金森出雲殿に被進候

丹羽五郎左衛門殿は柴田合戦の未の年柴田跡を拝領也酉の年の暮に越前にての病死秀吉との出入は申の年と聞え申候跡少たち申候は出入の時は廻文故と聞え申子息只今五郎左衛門殿へは加賀の内まつとうと申所にて纔四万石被遣候其後同国小松の城にて拾二万石に成申候関白殿御切腹の未の年の拝領也

上様右之御仕置被成御登候て四国之御国割可被成と思召候所毛利殿よりばかいの城無異儀請取申候との注進也さらは国割可被仰付とて阿波の国は蜂須賀彦右衛門讃岐は仙石越前土佐は長曽我部居城伊予の国は小早川左衛門允隆景仙石越前蜂須賀彦右術門拝領之国々へ入部也伊予の国を小早川に被下との世間の沙汰は御座候へつるか入部久敷不被仕候小早川内証にて御理被申上候つる事と聞え申候右之国小早川に可被遣御胸は備中の高松より御登の時りちきをたて乱舞なと仕陣中能しつめ申候事後慥に御耳へ入申候故にや其感と承候内証の御理は右の御国直に拝領仕候得は則輝元と傍輩に罷成也自然輝元御意にも相背るゝ儀候ば上様より御厚恩蒙り輝元に一味は難成其子細は父毛利陸奥守元就遠行時輝元を不可見放との親への誓紙也右之子細上様へ之御返事にては無御座候御奉行衆迄の理にて御座候御前御披露は処外にあたり申候いかゝ御座候はん哉と被申候処小早川存旨卒度御耳へ被立と聞え申候上様御意には弥み別神妙次第御感被成さらは此伊予の国は輝元へ可被遣也輝元より小早川に被遣にとの御内霊にて伊予の国を請取小早川に被渡候さらは拝領可仕とて入部被仕候事
オープンアクセス NDLJP:39
 

    明治十三年十一月廿二日出版御局    著述人    著者不詳
                             住所不詳
    
    同十五年六月六日出版         出版人    甫喜山景雄
                             東京京橋区西紺屋町九番地

 

 
オープンアクセス NDLJP:41無名氏著

川角太閤記

我自刋我書屋


オープンアクセス NDLJP:42

三墳五典八索九邱不限古今与中外記録撰
集草紙物語不問雅俗兼小大探奇闡秘綴断
拾零欲以久保于世永存于家庶幾乎有補於
昭代文化之万一焉雖然排字易謬校警闕精
魯魚亥豕請同人訂之日本東京京橋区西柑
屋坊九号地基我自刋我書屋主人謹識

 

 
オープンアクセス NDLJP:42
 
川角太閤記 巻三
 

      〇

戌の年は天下の御普請、国々の大名小名洛中洛外に満々て祗候被仕候事

其時まで九州属し不仕故、毛利殿を豊前へ渡海被仰付候、但御横目黒田官兵衛、豊後へ仙石越前長曽我部父子なり、豊後表は様子は此末に書付可申事

毛利殿臣下吉川駿河守元春嫡子吉川治部少輔、小早川左衛門允隆景完戸備前守、右に申上候天下よりの御横目黒田官兵衛豊前国へ渡海、小倉の近辺午房の原と申所に各陣取なり、此響に小倉の城明退但髙橋右近居城同国かはらけが岳へ引つぼみ申候事

右の陣所より四里隔り宇留津と申城但是も高橋に相随ひ候右の城主はかくと申都合三千計りにて楯籠り候、右のかくは野郎大将にて御座候、其国の所々案内はよく存たり、毛利陣のはしへ毎夜夜討強盗障なく仕候ゆへ、以の外に陣中も騒き申候、黒田官兵衛殿分別には薩摩より此地の悪党はら此城に楯籠ると聞へたり、無残討果候へは近国の野郎のたねと断へく候間可被討果に議定候、十一月六日に毛利殿臣下吉川小早川宍戸右の三人官兵衛殿同道にて、小舟に乗城廻り押廻し見被申候、此城海より拾間十二三町もや隔り申候能々被見及其日に各陣屋へ被帰候談合次第今夜夜半の頃より人数くり出し明日七日の五ツ時分、彼城取巻六手口は黒田官兵衛寄口なり、即時に大手より被攻破、毛利陣是を見て攻掛、其日の七ツさがりに一人も不残撫切にそ討果頭数二千余なり、其頃の実検天下様よりの御横目にて御座候間官兵衛殿に被成候様にと毛利殿より時宜なり、官兵衛殿は只毛利御実験被成候様にとの互に時宜オープンアクセス NDLJP:43果不申候、毛利殿より官兵衛殿への達ての御理故、右の頸は黒田官兵衛殿へ御実検あり、右の妻子共翌日八日に千計も浜の手にはた物御あけ申事

夫より高橋端成障子が岳の城へ同月十二日に取掛り申候城主両大将萩の尾しな一兵衛宮内新次兵衛此両人なり此城をも可乗崩議定候処に其日八ツ時分よりみぞれ大風故味方悉すさみ申候明日十三日に天気能候はゝ乗崩し可申と被定候処に十二日の夜半計りに城に火を懸明退則高橋城へ引退申候事

十二日の夜小早川陣へかはらが岳より夜討を入申候小早川内三吉と申者陣所なり頸数百余敵陣へ討捕申候され共三吉備は堅固に持かため申候事

明る十三日高橋居城かはらが岳へ取寄申候、此城嶮難にして構よく御座候へは申一たんに可被攻事難成黒田官兵衛殿被見及夫より竹たばにてしより幾口ともなく付被見申候扨其外に付城を十二被付申候同十二日の夜毛利七郎兵衛請取のしよりへ城内より出て切崩申候のぼり指物城内へ取申候城の内高宗寺丸と申所に立置申候七郎兵衛面目を被失候其家中の者にて御座候侍三人頸を取能退候黒田官兵衛殿感と立被申候後籠城中に以上四度内より出せり合御座候間此城の巻様付城の次第攻様の段々信長殿の時播州三木の城攻にちつとも不違黒田官兵衛殿へ被申三木の様子を昔被見及候故此城も其攻様のまなびと聞へ申候

十二月廿日時分に豊後国より早打飛脚到来候其様子は豊後国船井と申近辺に高田川と申所有川を隔て仙石越前守長曽我部父子陣取候処に川向ひを薩摩衆出相陣を張申候島津方より大将軍は則島津中書と申候十二月十七八日の頃仙石越前長曽我部父子彼川と乗掛合戦被仕候朝合戦は味方の岡大将勝に被成頸数五百余被討捕候昼時分より豊後の国地の者悉く一揆を起し薩摩方へ一ツに成上方勢を中に取籠裏切仕候故長曽我部総領則討死す夫より両大将敗軍の由黒田官兵衛所へ申来候事

官兵衛殿分別には豊後目まけに成候迚も是式の事は中不苦候此様子穏密候はゝ却て陣中騒ぐへき也只有の儘に毛利殿陣中へ被聞候仙石越前長曽我部程成者五人三人相果候と申共上様御弱みと被思召間敷定て上方勢頓て被仰付御下被成と披露被仕候事

右のかはらが岳同月廿五日にあつかひに罷成城内より人質出し相済申候右の高橋右近は其後御国易被仰付日向におひて今に被罷在候事関ケ原の時は治部少輔方にて大垣に情籠候御所様へ御馳走被申上仁にて御座候事

同月廿七日八日毛利家両三人同国まのたけ小倉二ケ所へ引取申候黒田官兵衛殿はまのたけに越年候関白様より黒田官兵衛殿へ御専の御使たち申候但長谷川藤五郎殿来春は早々薩摩へ御馬を可被出候彼国へは二口と被聞召候二口にては何れの海道筋道よく候哉様子委く可申上との御使なり黒田官兵衛返事居城加古島へは豊後より日向へ海道一筋筑前より筑後夫より肥後へ入其次は薩摩是は道なみよく御座候島津合戦の心掛御座候はゞ肥後海道へ可罷向と奉存候日向海道は節所なりみ〻川さる瀬あづさ峠ケ様成山路にて御座候と被申上候其次第関白様被聞召届御分別に島津は合戦にすく由被聞召及候島津打出る程ならは肥後口へ可向事必定なり此口へ上様可被向に御議定有御先手は羽柴肥前守浦生飛弾羽柴左衛門佐木村常陸信勝様右の衆中なり天正十五年亥二月聚洛より御馬を被出候毛利輝元分国は道々の御殿御馳走被仕候厳島へ御社参被成彼地景ゆると御見物被成古き社人を被召出昔於此島毛利陸奥オープンアクセス NDLJP:44守元就陶尾張守を討果したる其地はいづくぞやと御尋被成かくと申上候へは其焼まてよく御念を被入御見物被成候事

厳島にて御詠歌 き〻しよりなかめにまさるいつくしま雲の上人に見せしとそ思ふ 扨御機嫌にて御船に被召安芸国桜尾の城に被成御入それより周防国御打過長門の国へ御入被成下の関よりむかひ九州地豊前国柳が浦内裏の地へ御渡海夫より陸なり同国長野が居城まの〻たけの城へ御入被成候御先手は夫より三里先敵のかんしやくの城下を陣取なり右のまの〻たけの御城にて五三日御逗留被成御馬を御休被成候事

御分別には此城より三里先のかんしやくは秋月長門守おち楯籠と被聞召誠に城鹼難にして自然石の岩山なりと聞なり御打廻り御覧被成度被思召候へとも御寛被成候ては二ツ一ツ色を御付被成候はねば無詮事と思召此城一たんにももみ可被崩と被思召候へとも島津と大合戦可被成に此城にて味方大に損し候へはいか〻と御分別かくや可被成と御工夫半故か御逗留なり

御先手衆も此城攻よと御意被成候からと各被存候へども御意不被下先に城攻事無用と被仰候上は不及是非徒に日を被暮候事

三月廿八日の御礼の為に先手の衆御簇本へ被参候御意には今日礼不入義なり跡はいかにと被仰候て供の者をも不召連祗候候其上跡は信家様被成御座候御気道有間敷と被申上候御対面は被成といへとも御ふあひしらひに被成早々御返発成候此衆中被罷帰候時御側廻りの御仰の衆に内証被頼置候今晩御前にて御雑談各御咄発出候て可給なり今日御見舞に参り蒲生飛弾羽柴肥前木村常陸守羽柴左衛門佐此衆中見及申候かんしやくの城被仰付候へは乗崩申候度との心中あらはに見及申候御御意やわらき不申候其様子を見及被申無本意体にて跡へ被戻と見及申候と御前にて雑談被申ければ御意は各申上通城乗崩申候度との面体見付候へど島津と大合戦すへき者なり其時味方数多可損かり夫迄は人をかばふ為なれば此城攻よといはぬ也其故に今日対面しなから不亭主ふりを出したるよとの御意なり

御前衆被申上候様子御先手の衆今日の雑談承り候に此城御攻被成候とも被思召候程は人損し申間数と各被申候と被申上候処に御意には其義なり此城嶮難なれば可攻落様有間敷と秋月長門守も城自慢とも御聞被成候馬の先にて城一ツ無体に攻させなは薩摩までの響たるべきとは思召候へど人をかほふ為也と御意候処に御傍廻り衆被申上候は御意の如くに御坐候薩摩までの響は扨置九国へ響渡可申候只御攻可被成と被申候上候へは御意にはさればなと計り御言葉なり御伽の衆中に一人少用の様に卒度御前を被罷立候へつるが其間久数時刻移り候て本の座敷へ被居直候上様御気を被付半入小便に立被申候候て頓て可罷出か時刻うつり候て罷出候は先手の者共今日の見舞の時扨は伽の者に頼置秀吉にも少やはらき候はゞ早々被仰下候とて早打を二三人も付置たるらんされば此城攻たくは有けれども口和らく様に言出したるなり右の様子一筆書付置たる早打を早々返したるよと御推量被成御意には皆々宿へ被帰候へ今夜は何とやらん気六ケ数覚へ候との御意ゆへ御仰衆不残宿へ被帰候事

御意には此城主の代官に被仰遣此あたりに住居てつし鹿討なとを二三人も召連只今早々可被参との御使所の代官へ御立被成候猟師鉄砲打候者とも二三人召連則参候はや祇候仕候由申上候処に御座所へ被召寄候事

オープンアクセス NDLJP:45御前近被召寄此山の猟師かと御尋有けれは此者共の御返事には其義にて御座候朝夕此あたりにて鹿猿なと打申いとなみ仕者にて御座候と申上候処に扨此山々のあたり案内能しりつらんかんしやくは此上の山のやがて下なりときくなり其通りやらんと御意なり猟師承りやがて此峠へは十六七町御座候夫よりかんしやく城見下し候へは色品も定かに見へ申候と申上候御意には御自分は十人計召連峠より城を見下す挑灯たゐまつ陣中へ入違ひ騒き立体も在へくぞ其体見及候はゞ先二三人も早々可返者なり扨鉄砲など聞へなはまた其様子段々に人を可返者也早見及候へとの御意にて二三人の猟師に金銭五文あて被遣候程近き故早一左右申上候かんしやくの寄衆御陣殊之外騒立と見へ挑灯たゐまつ入違もみちかへ申候其上籍火のあたりにはのほりさし物の外に色めき渡見へ申候との注進なり右の通被聞召届さればこそと被思召御馬に鞍置けとの御意なり

はや御具足と召家康公の加勢本多豊後守所へ御使被立候かんしやくの城へ御打迴り可被成候御供に被参よとの御使なり右の峠より注進候事城より寄衆の陣へ夜討なと討申候かしかとの義は不存候所々に鉄砲なり候と申来候事

御推量に毛頭無相違先手の衆ひる御前衆頼みおかれ上様御言葉少もやはらく様子御座候はゞ早々此者を御返被成候可被下候へとて早打被付置候本海道はまのたけよりは三里なり右の味へあがり候へは十六七町なり三里先のかんしやくの為体はや峠にて御見せ被成候事御気てん早き故と後人々申合せ候事

夫より東海道へ御馬を立乗出候御意には今日は金銭までを持せよ銀銭無用なりと被仰置候事

御馬を早められ候へはかんしやくの城下九山と申小山へ御馬を被上候御ふくへを被立候扨御簇本衆打続御馬印を見掛海道は一面に御人数なり彼山より御人数績き申体見下候に金銀のさし物金の御のぼり見渡候日の頃は朝一丈計も上り候時分なり椎樫の木の葉に露たまり候に朝日の光金銀のさし物色にうつろひ木の間より雲すきに見下し候へは色々の花なと散ごとくにしてケ権成面白見物上古も今日も難きはと人々の気いさみ渡り城攻を一目御人数の有様を一目両を無障見物に後々御供衆雑談にて承り候事

城攻の体御覧候へは城の堀へ寄手はや程近付申候処へ御使番衆被遣候其様子は早々終夜辛労仕候定て労れにおよひ可申なり此上候御手廻り小性等にて攻さすへき也はや御入替可被成と御使なり此御使は入替に可被成とて先手さらは入替可申とは申まじかりしかとも此御使被立候はゝ攻者共霑攻口御いそがせ可被成ための御使と聞へ申候如案はやひたと塀に手を掛申候を御覧し被及御挿箱を御取寄被成其ふたに金銭をきり見たしふたことに移しかけ申候其分別は早く頸可巻なり御褒美の為め金銭御用意なり

塀をはや乗よと御覧し御馬の上にて御馬印を御手づからふりたてはや貝をふけよと御意なり夫より程なくひたと乗入候とひとしくはや頸参り候御馬より御下り被成金銭御つかみ候て御自身に被遣候二三十人には御自身御手づから被遣候夫より頸数四方八面より寄せ申候故御意には皆々見可申ものなり此金銭に我手の不掛はなきぞと御意にて物の金銭を御手づから御つかみたて被成其後は御小性衆二三人に被仰付御小性衆の手より頸取申者請取申候其時其金銭に秀吉手の不掛は一銭も有問敷と御意折々相聞申候事

オープンアクセス NDLJP:46右の城難なく切ほし被申候扨頭々被召寄御感不斜と相聞候御意には今日は手負共能きに痛はり看病せさせよ此きほひに秋月長門家城筑前のこしよへ馬廻り迄にて寄へき也皆々は今日休まれよ跡より可参と御意にてもはや跡えは御帰被成間敷なり夫より直に秋月城へと御馬を被向候事

先手の衆面々の家中の侍共の手柄其外吟味あらと被聞届家中の一番乗手柄の次第無障故重て濃に可関届ものなり先々上機へ追付申さんとていそかれける飛弾正殿馬廻り本田三弥其時飛弾殿口にて一番乗と申つる事

円白様は筑前の内秋月長門家城こしよと申城下に被成御着候おくまと申処に御陣を被居候処秋月長門家城明下り十六歳の姫君を先に被立此上は切腹可被仰付も命可被成御助も御諚次第とて被罷出候此上は御救免可被成と御意にて人質被成御請取其上はや御礼可申上と御意にて御礼に被罷出候進物は大良奈しはの御茶入赤銅作り長光の太刀虚堂の墨跡なり長門守申上子細は薩摩への御先手可仕と申上候処上様御意には乱国に成行候へは百姓はら皆々小屋あかりするものなりなど其外用意成間数候早々御心置なく被思召候間家城へなをり御踏陣まてゆると待付可申者なり家城へ早々移り候へとて先手御免被成のみならず知行は居城にとの御意なり後国替御座候日向に罷あり候

御所様御代迄右の日向に居被申候事

右のかんしやく厳敷御乗被成候故筑後の内にてはかはら山久留米柳川の城肥後に入ては南の関其外熊本宇土ケ様の城々皆々明申候せんたい川迄御詰懸被成御陣取の事

御舎弟大和大納言殿大将にて日向口へ御押被成候御供の人々姿芸の毛利輝元一家吉川瀬人小早川左衛門允宍戸備前守也備前の宇喜田宰相四国四ケ国宮部法印其組下南条伯耆守亀井武蔵守荒木備中其外小大名衆なり

右の御先手は黒田官兵衛子息筑前守其次備藤神右衛門日向の内へ御入候時高鍋と申所に藤摩衆伊集院節所を構へ陳取候処先手の黒田官兵衛渡し合々戦御座候其時子息筑前守どの手柄無残所御座候薩摩勢突崩追立悉敗ぼくす夫より猶ゆきて御覧候へは高城と申城に島津中書橋籠り候ひたと御取巻被成丈夫に御普請被仰付しよりをよせきし半分程へはや攻付申候事

薩摩より定て後詰可有ぞ其押に目城と申候処に右の宮部法印一組被召置候如案四月十六日夜半計に宮部法印組へ大夜討を入申候明る十七日迄攻戦申候され共味方の陣も破れ不申堅固に持かためられ此時藤堂和泉味方陣の後より鉄炮百挺計り直に加勢被仕候但敵引申迄は居不申候鉄炮二通計もやゐ打被帰候小早川隆景陣よりは夜の鉄炮の音を被聞付候とひとしくケ様の時は食はくはれさる者也粥を焚せよとて終夜焚せ夜明しかは粥酒被持せ候定て手負多く可有也とて蘇香円至宝丹宮部法印一組へ音信なり後上様御耳に立小早川気の付たる音信仕候者哉と御感立申候と相聞へ申候事

宮部法印陣取程近陣取衆備藤神右衛門備藤神右衛門後身上相果申候黒田勘兵衛父子は其様子は右に如申上候節所大難所を越総軍兵入はまり申候兵粮米つゞき兼申上下四日計もやかつゑ申候食物にはところ山の芋竹の子などの躰にて御座候つる処へ大将大納言殿兵粮一万石計日向の浦着申候上下の推量には定て此米総御陣へ可被遣と存候処案に相違して此米高く御売被成候上方衆も備藤神右衛門を始と仕大将軍には不似合御裁判哉と取沙汰仕候され共大名小名御本陣大納言とのへ御見舞被仕候輝元御見舞オープンアクセス NDLJP:47被申付大名衆先々二三人も御座候処へ輝元御見に被罷出候大納言殿御意には今日は雨中に御座候緩々と是に御咄被成候へ弁当振舞可申との御意なり各は忝奉存候御振舞被下可罷帰との御返事被仕候備藤神右衛門は罷出候処に跡より御使を被立皆々是に御座候間神右衛門罷帰御馳走申せと被仰遣候処神右衛門慮外成御返事仕候と聞へ申候罷帰可申候へと折節はたこ銭持合せ不申候迚夫より直に陣屋へ被帰候と相聞へ申候夫も余り大納言殿を存過し右の御米売候を笑止さの余りに悪口申され候と聞へ申候事」

二三日過毛利殿兵粮米船二三艘着申候輝元分別には此兵粮米総陣へ進し度候得とも右に大納言様米御売被成候に輝元きよう言葉不入者とて言葉に品をあらせ総陣へ被申遣候は我等兵粮沢山着申候御用に候はゞ借可申候此米京都にて御返被成可被下候本にて被下候へ共五わりにあたり申候是にて請取申間敷くと陣中へ被申渡候いまた米とほしき故大形の衆中御借被成候後聚洛にて皆御返被成候時輝元返事には此時の音信にて御座候とて一粒も其米受取不被申候事

宮部法印一組の陣中へ夜討入申候事上様御耳に被立候上様御意には法印事は今にはじめぬ功者ものなり大納言何迚油断被仕候哉薩摩勢幸の所に出たる人数なり右の城には普請丈夫に有なれは一頭は城に付置大納言手廻り人数を初としてひたと付程ならは薩摩勢一人ももらすべきこと有間敷なり油断沙汰の限りと御意大納言殿へ下り申候宮部が陣へ近き陣取は誰れそ様子絵図にあかし早々持せよとの御意なり備藤神右衛門陣取近候事御耳に立申候御意には何とて神右衛門薩摩人数をすなをに入たるぞさては心替りかとの御折檻なり神右衛門申分は其義にて御座候幸ひの処へ薩摩人数出て来り申なり一人も不残此度御討果し被成直に薩摩へ御入り被成候はゝ上様御感被成候事眼前にて御座候と黒田官兵衛父子も達て申上候へは大納言様御意には持口の陣中を堅固に持かためよ蔵摩の手たては表より裏に人数をひかへるよし被聞召候間此人数に付候事必無用との御意なり此上は不及力次第と申相止まり申候と御理り申上候処に御使森勘八右の通かくと大納言様へ披露仕候へは右に神右衛門悪口申たる事を被思召出神右衛門は曽て無其義候黒田官兵衛は左様申候へども薩摩手重は山より裏に人数扣へ申よし承り届候間大事と存つけ不申候と勘八に被仰聞候さすが御兄弟の被仰上候通りに上様へ披露被申上候其故に備藤神右衛門候御追放被成候黒田官兵衛申分は大納言殿被仰分候処無恙被相済申候事

右の高城の城は扱に相成城主は薩摩に引取申候事

上様御陣取は右に申上候如くせんたい川と前に御あて候ての御陣取なり肥後国申候一揆の我々持の故物頭以上四人うとふ目はるい平野わに此衆なり是も御陣へ罷出御礼申上候肥前国鍋島加賀守御礼申上候立花左近是も筑前より被罷出候て御礼相済候事

はや加古島へ可被寄と被思召候処島津降参を乞人質を指上其身は黒衣の躰に被成此上は兎も角も御諚次第と申上候上は切腹被仰付に不及御設には聚落より御使被立候時無異乱罷上候はゝ御成を可被立ものを是まて御馬を被出候上は豊後日向両国は被召上候大隅薩摩此両国は可被宛行者なり島津承り一命御助被成候のみならす両国被下置義忝奉存候との御請申上則御礼申上相済申候事

御意には其方居城加古島と一ト通可被成御見物との御意なりさらは汝御先へ罷帰り御馳走申上候へとの御意なり島津時宜には私義は是に可罷在候御馳走の義は年寄共へ可申付と御理り申上候処上様御諚には此上は少も御心置なく被思召候間早々居城へ罷帰り御馳走可申上との御諚にて島津龍伯居城へ罷オープンアクセス NDLJP:48帰り申候事

上様夫より御人数一万計りにて加古島へ被成御座候加古島までの道々の様子絵図に御書せ被成右のせんたい川より加古島迄の道すがら能々御念を被入御通被成候此御分別後に人々推量には自然島津謀叛なと仕候はゝ重ては御馬を不被向候とも可被仰付為と相聞申候則島津家城へ被成御着候能々御見及国中も御さけすみ被及五日の内に所々を御さけすみ候て無程肥後国熊本へ被成御入其所に緩々と御陣取被成候て肥後国中を能々被及見候に此国は一揆ともの持たる国なれば天下へ御馬を被入候は例の私心出来仕候はゝ必一揆再発可有なり見へたる科も無き先に御礼申上候共切腹被仰付様なしと被思召候事

当国は平和の者に被遣者ならは一揆発すへき事必定なりさらは佐々内蔵助を被召出此国にはめ可被量なりと思召被付其時内蔵助と被召出ぬけめなしに一国内蔵助に被宛行候一揆の四人には一万二三千石ツゝ被遣候定内蔵助人数方々へちり可申と御意候て内蔵助被召出候間右の内蔵助は抱置候者は国大名には猶以可被寄返し候へとの御制礼九州京境迄御立被成候即時に内蔵助方へ不残戻り集り申候武具弓鉄炮以下は越中を被罷出候時家城戸山に指置候を前田又左衛門殿に被仰付候処に道具少も不被違大坂へ被差上候間夫より肥後へ船にて廻り申候御米二万石大坂てんほうにて被遣候銀子千枚鞍置馬五十疋内蔵助拝領にて候肥後国へ御はめ置被成候事

薩摩肥後御仕置は右の如くにて御帰陣の時阿蘇の宮おとりとう筑後にてはかはら山清水善堂寺御見物なり夫より筑前国箱崎の松原に御陣取被成緩々と御逗留にて御座候小早川隆景へ筑前一国被遣候隆景舎弟藤四郎秀包には筑後の内久留米にて八万石被遣候只今の有馬玄著居城にて御座候同国柳川の城は立花左近に被遣候城付十三万石扨筑後一国は小早川隆景組下と被仰付右の伊予の国は上り申候小早川左衛門知行毛利家よりのと都合七拾万石なり

肥前は鍋島加賀守居城に被遣候

豊前国小倉森壱岐六万石是は大坂へ籠申候豊前親也黒田官兵衛豊前の中津にて十三万石豊前一国の内は大名衆竹中源助扨其外御台所入日向一国の内長野高橋右近秋月長門守其外以上四八に被遣候事

右の御仕置被成筑前の内御見物所鹿の島宰府の天神ゑのき寺苅萱の宿藍染川ぬれきぬの石めいの演曲斎御供にて彼町にて安吉の脇差堀出し狂歌一首添則進上其狂歌

     脇指の代はと問へと安吉のなかこ正しきめいの浜かな

とよみ被申進上候御感被成候事

博多の町に昔より数奇を仕候宗丹と申者ふんりんと申す茶入を上申候被成御覧可被召置候へとも是にて以来迄数奇いたし候へとの御意にて御米五百石ふんりんに御添被成宗丹に被下候此茶入も今に名動のよし沙汰仕候田中筑後殿跡職御仕置として秋本但馬殿御下の時宗丹右の茶入にて数奇出し申候ふんりんの様子但馬殿被存候御尋可被成候事

日向口もはや国々へ上候へとの御使筑前より被遣候夫より皆々帰陣の事

各帰陣故海上も静に御座候通被聞召届候上様も箱崎を御立被成豊前国柳か浦内裏より船に被召海上を大坂迄被成御上聚洛へ御馬を被納候処に其年八月に肥後に一揆蜂起仕候と被聞召付浅野弾正福島大夫加藤左馬助同虎之助後には主計と申候森勘八此衆中被仰付はや討取被申毛利一家国近御座候故御触なき先にはオープンアクセス NDLJP:49や九州内小早川分国筑前へ入申候右の上方衆より毛利は先にて御座候浅野弾正被罷下候時佐々内蔵助をさ〻へられ候と相聞へ申候と角ケ様なるあら者と御置被成候はゞ事を可仕出者かと奉存候間此次でに切腹被仰付事可然とさ〻へ置被申候と後に相聞申候内蔵助への弾正殿意趣は越中にて信勝様御陣へはしり入申候其時越中にては内蔵助御対面不被成候御引陣大津に五日御逗留被成候内に内蔵助御跡より被罷着候大津にて御礼被申上候内蔵助書院まて罷通候処に皆々出合やがて御対面可被成候間是にゆると御待候へとの取持衆の挨拶と聞へ申候弾正其座へ被出候へば内蔵助内々被聞届候事にても御座候やらん弾正にはやはをかけ被申候内蔵助は上様へ謀叛仕候者にて御座候御対面は御無用に御座候今にても腹を可被仰付と申上候よし承候弾正能聞候へ秀吉とは只今迄肩を並へたる傍輩なり仕合能は此内蔵助も信長公御切腹後は天下を心掛たる我なり右より秀吉の内の者にてあらはこそ謀叛とは可申者なり聞へさる弾正申様哉とあらけなく弾正殿を大津にてやり付被申候と後汰沙仕候内蔵助御対面被成其後丹波の野瀬郡へ被召置候事

肥後の様子は上方勢毛利家勢付不申先に一揆ばらを肥後国茶臼山にて過半討果其余八ツ城なとにて都合五千余被討果候もはや内蔵助存分に被仕跡はいと事もなけに罷成候事

小早川隆景拝領の国筑前も一揆再発可仕と見へ申候処を分別を以事出来不仕様に被仕候肥後の一揆も内蔵助手あらく被仕候故なり検地を仕り其上に昔是より三里と申処をは五里の津出仕候へ五里所をは八里も可仕のよし彼是に仕置あらく被申付故一揆起り申候肥後一揆起り可申ことを小早川被聞付我国も一揆起りさうなると能聞届られ国中へ制札を被立候年貢も津出も其上小物成以下迄菅の如く年貢沙汰可仕者なりと制札被立候故おこり可申と存る一揆内証にてひしと難なく静り申候小早川拝領の筑前は事故なく御座候事

毛利一家上方勢筑前を被通肥後に入被申衆へ隆景被申候様子肥後の義は内蔵助殿手柄と以相静申候間二三日此国に御逗留被成候様にちと頼可申子細御座候と申理らる毛利家上方勢を筑前国中そこに陣をとらせ被申候我等拝領の常国も肥後一揆の時分既に再発可仕と見及ひ先に制札にて相しつめ置候此度各様御厚恩を以々来迄の国中仕置可仕候弾正殿へ御陣取ほなみ郡の内にて庄屋百姓は是々と申者にて候三日の日ひる時分に御召捕せ被成可被下候但し当座に御討果被成候義は必御無用にて御座候奉願候御召捕候はゝ我等居城へ御引せ被成可被下候如此陣取の大将へ内証を被入候へは日も時も不違隆景如指図無残召捕隆景居城へ引せ候て国中大百姓庄屋以下一揆企候物頭六十人召捕弾正殿へ相理り一夜の内に悉成敗被仕候さて国中の仕置心に被任候事

箇様に大軍を我国へ引はめ可被申事不思寄義にて候処に肥後一揆故他の情を以我仕置心の儘に任せ候事是は案の外なり内々の分別は国中の川よけ普請百姓ばら顧とて上は年六十下は十五を限りに十五日の普請とて郡々へ出し右の六十人と川除の普請場にて難なく召捕せ可成敗者をと内々分別被申内に右の多勢を以心の儘に仕候事

上方より御下し被成候衆中無残肥後へ御通り候肥後国中仕置被成候内其年たち申候皆々肥後にて御越年に候明れは天正十六年子の年内蔵助罷上り候へとの上意にて尼ケ崎迄被罷上法華寺に居被申候是迄罷上候と御意を被得候処に弾正殿さ〻へ故にては御座有問数候へとも藤堂和泉尼崎へ検使に被遣候其オープンアクセス NDLJP:50御意には去年九州へ御馬と被出候西国の分は目出度被相治候処に又肥後の一揆蜂起の義は内蔵助仕置時分をはからはずあらく申付候故天下の騒き仕出候小早川隆景にもあら国へ被遣候へとも何事も神妙に仕置仕候故目出度相鎮め申候と聞召被届候やがて東国へ御馬を可被向と被思召候処に西国に事出来たる様に東国への響き奇怪に被思召其上諸大名への目今以後見せしめの為との上意にて内蔵助切腹被仰付候内蔵助庭の泉水へ被罷出候て石へ腰を掛生馬を呼出し金三十枚其外身廻り衣裳以下を主馬に出し此石は内蔵助腰懸石と披露せられよとて腹十文字にかき切臓腑をつかみ出し時分はよきぞとて頸を被指延候処を藤堂和泉殿介錯とも申又小性の介錯とも後に沙汰仕候事

肥後加藤主計殿へ廿六万石熊本城共に拝領なり宇土の城廻りにて十二万石小西摂津守拝領也扨残る衆中皆々被罷出候事

肥後国主計殿拝領の後同国天草におゐて又一揆蜂起候処を主計殿彼地へ被打出かたきと山を隔互の備はさだかに見へ申さす候され共敵合近く候はんと其覚悟先手を被出旗本は渡ろに被立候敵より高山に目付を置申候先手と旗本とを見分ケ先手へ搆はす山のうらへ廻り主計殿籏本へ突か〻り候と聞へ申候主計殿も案に相違し俄にとり合々戦にとり結はれ候旗本は人数千に足らすと聞へ申候馬廻小性衆迄にて纔の体と聞へ申候一揆悉く被討果相鎮り候其時合せ申鎗正林隼人森本儀太夫主計殿三人の鎗と聞へ申候人数突ふせられ候事は生計殿自身ときこへ申候鎌館にて七八人程突たをされしは必定のよしに候鎌鎗古身故か口金の処大にゆかみ申候横手も穂先も微塵に成行候と承り候一番鎗二番鎗の争ひ右の正林又義太夫主計殿と三人と承り候内の者と一番鎗の争ひは高麗にて加藤左馬殿番船被乗取候時藪奥左衛門はんの弾右衛門と左馬殿と一番乗の争ひと右の主計殿一番鎗の争ひ能似たりと世間の取沙汰御座候ひつる主計殿内正林隼人森本義太夫右の知行百五拾石二百石にて御座候つる其場にて両人へ七千石つ〻加増御座候其外小性衆高名の者ともに五百石千石夫々の甲乙加増被成候先手は跡の様子一円不存と聞へ申候不慮成合戦と承候事

 

 
オープンアクセス NDLJP:51
 
川角太閤記 巻四
 

天正十六年四月十四日に行幸御座候付り子丑に大仏三門廻りの石垣其外国々の材木みちて三十三間の表へ大物毎月毎日引付申候事

安芸の毛利家城候吉田のこをり山と申候毛利陸奥守元就家城なり上様御分別には毛利居城は自然に総の構よくして敵の馬寄悪く其上猛勢入込て可引取様なきと聞へたり秀吉一代輝元一代は別条有間敷なりされとも末代の天下持秀吉気の不付様に分別の厚き天下持は思ひ可出ぞや居城かへさすべきと思ひ被出候て蜂須賀彦右衛門存命の時御内証を被入輝元隆景に卒度被申様には今時は山城はおり登りも苦労なるものにて御座候其上御居城候山家にて御座候得は輝元には似合不申候間幸広みの厳島の向合海上近き所の平城を御取立被成候得ば京都への御上下には則御城下より御船に召せられ候処なり此処御居城に然るべからんと被申候へは輝元隆景城替の普請不苦と被思候て御指図の所俄に取立可申との合図なり蜂須賀彦右衛門殿はやがて病死なり其後黒田官兵衛被仰付輝元隆景へ被申候へばさらば此所取立可申との義定なり官兵衛かくと御耳へ被立候へば早々此城地に取立られよとの義にて則官兵衛を横目に被差遣広島の城被取立候縄張官兵衛殿被仕候御意にはあたりに川など於有之はやがて城下へ川など人候様に見合縄張すべき也官兵衛に懇に被仰含候事

関白様輝元御一代は何事無御座候子の年関ケ原御合戦の時毛利一家は無残上方へ被罷上候輝元は大坂へ被詰候跡にて城は大きなり馬寄は総廻り手明の所一ケ所もなく留守居あきれ果申候輝元は秀頼方にて御座候へは輝元も昔の城吉田にて候はケ程迄の気遣は有間敷者をとて先非後悔身に余り候へども今オープンアクセス NDLJP:52さら不及是非と被思候と相聞へ申候広島へ籠り候者共は老若に至迄昔の居城吉田のこほり山にて候は个程迄気遣有まじくものととて各申あへりと承候小早川隆景は広島城過半出来申候時分あたり被や候と聞へ申候隆景一代の分別違ひ城替の領掌被仕さるとの毛利家にも年の寄申たる者どもは右の沙汰仕りたると承り候事

関ケ原のとき自然御所様御馬を被向候へは右の吉田城にては自然の手間と可被取只今の広島にてはよふなく御乗崩し可被成候さ御座候へば御所様の御調法に罷成候と奉存候事

天正十八年に北条御追討の為に御馬を被向候国より次第御人数御くり出被成候是は其次第様子御旗本衆御存の義にて御座候間委敷候書付不申候小田原迄の東海道の城々に御番衆の次第御座候安芸の毛利分別には我又大名にて御座候間家康卿の次には輝元可被遣との分別にて京都迄被罷上ひ処に御意には国より次第に人数くり被出候此城聚洛をば輝元に預け可申候秀吉帰陣の間は天下の仕置又は則天下殿と輝元被思候へとの御意にて聚洛を御預け被成候小早川隆景には尾張の清須の城御番被仰付候三河の岡崎の城には吉川蔵人御番被仰付候其次々は書付不申候

上様に出陣は二月廿日時分なり禁中より八条殿を勅使を被成御立候色々御祝物被進候並御製

     東路や春の小田原打返したねまきそむる雲の上人

ケ様に承り候事

上様聚洛より御出被成候日の御出立は朱具足御腰物は六尺余りのはくのし付両腰御柄打さめの上大菱なりあら縄の腕貫御掛被成候大きなるどひやう但色は光明朱御馬の上に御付被成熊の皮の作り髭白きく〻り頭巾先は御腰廻りへつき申程のなり御馬鎧は庭鳥の毛道中御出立は替り申候と聞申候天下御出の日は右の通に候土俵とば御帰陣の時大久保七郎右衛門に被遣候今に小田原に御座候事

上様小田原に御陣取被成候時小早川隆景馬廻り二三十騎にて小田原へ御見廻に被参候其分別は聚洛より三河の岡崎迄は毛利一家なり毛利の人質心と隆景分別にて小田原へ被参候御意には大事の清須の城預置候に是迄見舞跡無心元との御意なり隆景御返事には跡の事は弟藤四郎に預け置私義は僅に二三十騎にて参着仕候御陣中可奉詰と被申上候へが隆景事は万事功者の事に候間彼是御談合を被仰聞候の間詰申候へとの御意なり安国寺も御供にて相詰候事

是は皆々は存の如くにて御座候へとも書付申候山中の城主三月晦日に御乗被成候其攻手は三吉孫七郎殿〔是は関白殿の事〕御供の人々中村式部少輔田中兵部一柳監物同国韮山はしより竹たばにて長岡越中守其外以上四頭御所様は箱根より左へ御付被成しん山のはへを御ぬけ被成小田原城まはりそうせん寺の原へ御出被成夫より小田原の東への出口今井のたんほう其次北尾張成心成心、常異歟其次備前衆其次三吉孫七郎殿夫より山の手は御旗本早川口は羽柴左衛門正殿其外御馬廻りにて浜ばた迄取続き申候海上は海賊衆受取さて武蔵下総奥へ御はめ被成物頭羽柴筑前守殿子息肥前守殿景勝浅野弾正其外八人所々の城攻は書付不申候事

御所様成心御陣取一所に置せられ候御分別は城主氏直は家康聟なれば自然城と言合せ有之者ならば陣取所々にては御手当六ケ敷被思召一所に御陣取被仰付候と相聞申候事

御陣中へ御公家方又方々より幽斎へ狂歌なと沢山に参候山中の城にて一柳討死の事を一女院様より狂オープンアクセス NDLJP:53歌初なり

     あはれなり一柳のめも春にもへいて渡る野へのけふりを

幽斎返歌に

     いとけなるくそくをかけて鉄炮の玉にもぬける一柳か

ケ様のは狂歌の返歌又道記なと大しようにしたて御目に掛られ候へば殊の外御感被成と聞へ申候其道記狂歌此大しよう自然に今御座候は御出家方に可有御座候事

御陣中へ奥の大名衆御礼に被罷出候正宗殿御礼早々相済申候其外奥詰衆無残被罷出候佐竹殿はちと遅く御座候事

七月十二日氏政切腹に候氏直は高野へ御入候とて大坂にて疱瘡被成御果候氏政頸は京都へ御上被成堀川通戻橋に被成御掛候小田原城請取手黒田官兵衛にて御座候夫より奥州へ被成御通候鎌倉被成御見物則若宮八幡へ御立寄被成候時社人は戸を開き申候へば左りに頼朝の木像あるを御覧付られ御言葉には頼朝には天下友達に候よあひしらひ等輩に可仕候へとも秀吉は関白なれば貴所よりは位上にて候間あひしらひさげ申候頼朝は天下を取筋の人にて候を清盛うつけを尽し伊豆へ流置年月立候内に東国は親父義朝の恩情蒙る侍共昔を思ひ出貴所を取立申候と聞へ申候氏系図においては多田の満仲の末葉なり無残所系図なり秀吉は恥敷は候へと存は昨今迄の草刈わらんべなり或時は草履取なと仕候故氏も系図も持不申候へど秀吉は心たまらざる目口かはき故ケ様能成候御身は天下取筋にて候へは目口かはき故とは不存候生れ付果報有故なりと御しやれ事被仰候と承り候夫より一両日江戸へ御逗留被成様子御さげすみ候て奥へ御通被成候路次にて佐野天徳寺を被召出小田原へ礼に罷出候時は早々故尋度事失念に候其方古き人なりとて信玄越後の様子扨上杉家の次第御尋被成候御返事には其義にて御座候信玄は十六歳の時より五十三迄の間に武道に一度も勝利を不被失候と被申上候此仁東国仁なれば右の三家強き様に被申上候処御意には左も有らん左様にはかをやらさる小刀利の武道にては天下に思ひ掛る事は中々不思寄事たるへきなり此者なと早く相果外聞をは失ひ不申候其ゆゑは只今迄於有之は秀吉が草履取に可遣者なりと御意被成候夫より奥へ御通の時備藤神右衛門事日向国にて身上相果関東に罷居候御通の時古河にて直左右に被出候暫く御工夫被成候て其時刻は成敗に候夫より会津黒川に御陣取被成候木村弥一右衛門に奥州御仕置当座被仰付候正宗殷其時只今の仙台へ替り申候左候て小田原迄御引被成候織田常真の心を御引御覧可被成為と相聞申候奥州か関東かの内を以百万石可被進候間只今の尾張を御上被成候へと被仰渡候得は只今の分にて国替は御免被成様にとの御返事と相聞へ申候上様御意に扨は御内証天下の御望みかと被成御意其時尾張を被召上越前の大野郡にて四万石被仰付候尾張伊勢をは御甥の三吉孫七郎殿拝領被成候夫迄に江州八幡山にて廿万石にて御座候駿河は中村式部少輔一国拝領遠江掛川山内対馬其外小身の衆は台所入も有なり三河の吉田池田三左衛門岡崎田中兵部甲斐国は加藤遠江守高麗にて病死故其後浅野左京太夫拝領なり真田河内守は信濃の内にて居城右に申上候仙石越前は豊後高田川にて薩摩衆との合戦の時面目を失ひ様をかへ播州書写の山林に被罷居候を被召出候信濃にて七百石被遣岐阜の城は関白殿御舎弟少将殿へ被進之候高麗にて病死被成候其跡へ右に申上候城之助殿若君吉法師様と申候後に中納言と申なり少将殿御跡を被遣候子の年関ケ原御陣の時岐阜中納言殿とオープンアクセス NDLJP:54申候は此方にて御座候上様御舎弟弟大和大納言殿御病死被成候其の跡へは関白殿御舎弟拝領但是は午の年戸津川の湯にて御疱瘡被成御果候其後関白殿御切腹後増田右衛門允廿万石にて郡山を拝領候其外は小身衆なり

仙石越前御召出候時の意には越前事は先手被仰付者にては無之者なり其故は兎角は有無の見合不仕法度を破る者なり是は大事の時なりしつはらひを被仰付鬼の口ゑに可飼者なりと御意被成右之通にて被召出候事

上様天下へ御帰陣被成御祝と御意候て日本諸大名衆へ御金被下候聚洛三の丸の大庭にて被遣候民部法印巻物大目録を読上け一番に江戸内府二番に加賀大納言三番備前中納言四番に広島の中納言五番に越後の中納言如斯次第に大名小名被召の金銀拝領之事

其秋三河の吉良へ大鷹野に被成御座候大鷹野迄にては無御座候一切のけた物数を尽し御取被成御上候てより洛中町々へ鷹の鳥色々御添被成大樽被遣候御なぐさみ大き成義は右の大鷹野北野の大茶湯吉野詣向島のおどり醍醐の御花見有増如斯候

其暮に奥州に一揆起り候よし注進御座候三吉孫七郎どのへ被仰付都合其勢五万余騎にて御下被成候奥州二の戸迄御詰被成候一揆の頭々二三人も御成敗被成候引取候右の木村弥右衛門は俄大名故によき人持不申万事もとおり不申故と聞へ申候さらはと御意被成蒲生飛騨守を百万石に被仰付曽津を拝領被致被罷下候飛騨守に御渡被成孫七郎殿は上洛の事

明る卯の年の正触には来年高麗へ可被成御渡海候条当年は渡海の用意舟拵仕候へとの御触なり卯の年一年は日本の大名小名舟路の用意障すきま無御座候去共京廻の総搆の御普請御座候つる事

奥州にめうの城と申に一揆精籠其郡在々迄おこり申候蒲生飛騨守殿より正宗殿へ使を御立候一揆原のめうの城へ急度罷出候て討果可申候はや御出被成候へと使を立られ御正宗殿もやがて可罷出との御返事と相聞へ申候飛騨守殿ははやめうの城近辺へ陣取近付申候正宗殿を御待候へば今かと日数立申候時飛騨守殿分別には正宗是へおそく被着候は一揆原へ内証有ものか来年は高麗立との御触なり自然高麗相済申候は御国替被成事必定なり国々に離るへき事をかなしみ候故正宗内証は一揆と奥は一つにてもや有らんと正宗を待請城乗をるならば裏切に可逢事治定なり所詮正宗若不申先に楯籠る人数撫切にすべき覚悟に相定攻懸一揆も不残二千余討果し夫より正宗殿へ又使を立られ候めうの城無相違乗崩申候御馬被出候ことはや御無用に候我等もやがて帰陣可仕と被申候へは正宗殿よりの返事には此中相煩申候故五三日養生仕可罷出と存候処にはや一揆ばらを不残御退治被成候よし御手柄と申目出度奉存候との返事にて御座候事

正宗殿よりは使帰陣には御立寄被成候へ是にて振舞可申との使なり飛弾殿分別には寄候て振舞に逢申へく事はいかゞと被思候へども直に通り候へば用心したるにもあたり一ツにはようちの様にも成べくなり所詮立寄振舞に逢べくと定られ返事には御振舞可被成のよし則祇候可仕候上様より御用之儀被仰付候間一両日中に帰陣可仕候条此方障明次第に何時成と与風フト可参との御返事にて候処正宗殿振舞用意有増出来し飛弾殿分別には供の者をすくり城の内へは三百計り入そこ詰りにはめ置ほとならしらば正宗案に可相違事は必定と被思定めうの城仕置無残申付候とて俄に正宗殿へ被参候存之外今日オープンアクセス NDLJP:55御着被成候さらば振舞可申と用意候兼て供の者に被申付候如く座敷の詰りへ供の者ひた と入はまり正宗方へ少もくつろがざる様に間を取切様に座敷の体見へ申候振舞過茶抔出しさらば急き候間罷帰り候とて飛弾守御出候仙台城の廻り町中に飛弾殿人数五千計りはめ被置夫より居城へ被罷帰候後に此事沙汰仕候様子信長殿須より岐阜への聟入の形気に少も不違様に後々沙汰仕と承候事

蒲生飛弾殿町野左近を上様へは使に被立候めうの城に一揆おこり申候間即時にかけ付無残二千余討果申候一揆の分は早々事静り申候内証の儀は不存候右の一揆は正宗内証にても御座候はんかと推量仕候先私の推量には来年の高麗御渡海を迷惑と存し日本に事出来申候は明年の高麗御渡海相止可申と存候てケ様の事御座候かと存候此上は奥州迄にては有御座間敷かと存候御国々様子能々御裏聞御尤かと存候と被申上候処は返事には飛弾守気を能付申候申上通に高麗相澄候は国替可有かと心得日本のわかれを迷惑日本の内に妨出来候はゝ高麗渡海可相止と分別の国大名も可有なり夫は御分別はや相成おくなり奉行共を壱岐対馬へ渡国々の大名あらため帳に付さすへきなり定人数はあら増右の両島まて国大名も可渡なり自然頭々在々にもかゞみ世間のなりを可聞なり天下より御馬を被出は二日路を一日に御打可被成御分別なりケ様に大鷹野を被成大押に被成候はゞ在々にかゝみときはる大名共物も取あへず案に相違して皆々船に可乗者なり海上へ追出程ならば心替中々念も有間敷ぞとの飛弾殿へ返事と相聞申候

これは不入義にて御座候へとも蒲生飛弾殿家は代々くせ御座候と申ならはし候飛弾との御親父は兵衛允と申候是は殊の外世間うとく御座候其親は殊之外りはつに御座候此飛弾殿何事にも武道第一と被仕世にすくれたるりはつ人と相聞へ申候ケ様に代々替申候と承り候事

天正十九年卯の暮十二月に御隠居被成御甥秀次様へ聚洛を被進候則号関白明る文禄元年二月廿六日に行幸御座候太閤様右の行幸御覧せ被届三月に高麗への御馬を被出候は先手は加藤主計小西摂津守其次小早川隆景黒田筑前守九州衆も国より次第扨安芸毛利扨次第と相聞へや候事

文禄元年辰の二月時分より三井寺の鐘なりやむ妙成義と天下に取沙汰の事

御所様加賀大納言是は右より御諚には御旗本に可被召置也と兼ての御定故被仰渡候事

上様三月に天下より御馬を被出候右関白殿屋形より被成御出馬候飛弾殿へ被仰遣候如く二日路を一日に御打被成候

七月二日に聚洛にて大閤様の御袋様御他界被成候関白様より被仰付於紫野内野大き成は罪礼御座候つる右の様子に付大閤様奈古屋より与風御上り被成候世間に干今取沙汰仕候九州豊前国小倉と内裡の間にて御座船を岩に乗掛被成御座船われ申候はや危く見へ申候処に毛利宰相殿高鹿へ渡り被申とて御舟を見掛乗寄被申候其時大閤様はや船より御上り被成岩の上に御はだかにて御腰物を御手に下けられ今やいまやとあぶなく見へ申候処に右の毛利甲斐守殿船を被寄其船には乗移り被成一ト先陸へ御上り候て船頭を御穿鑿被成候船頭は播磨の明石の与次兵衛と申者にて御座候常には船頭上手の名取を仕者にて御座候へけるが運の尽果候ても御座候か浜に御引すへ被成則御成敗にて御座候御乗掛被成候彼岩の上に今に明石の与次兵衛塔と申て御座候陸より見へ申候事

夫より御上洛被成紫野へ御参詣候て御焼香被成夫より淀の御城に九月廿日時分迄御逗留被成又奈古屋オープンアクセス NDLJP:56へ御下被成候扨三年目の午の年又は上洛被成今度は伏見の城へ御入被成候

御所様加賀大納言殿も御供にて御上り被成候事

午の年八月に大閤様秀頼様北の政所様は袋様其外の御上臈衆聚洛へ御成被成候御供の次第こと敷義にて御座候事

未の年文禄四年六月廿六日関白様御使を被立候御使は石田治部少輔増田右衛門富田左近長東大蔵徳善院此五人にて御座候様子はしかと不存候後々の取沙汰には御隠居の時数ケ条を以被仰渡候只今被聞召候へは御行義正敷も無御座かり初の鷹野鹿狩杯にも馬廻以下迄具足差物なとの様成物迄も被帯のよし扠は謀叛の心掛もや有かとの御使のよし後に沙汰仕候返事には左様成義は被聞召届候哉私物事を油断いたし候て自然日向守仕出したる様成義も御座候半と存じ私義は御為に可罷成かと存如此に御座候との返事にて御座候と承り候乍去七月二日三日頃迄は右の五人衆今日も被参候と沙汰仕候夫より一円に沙汰無御座相静候つる大閤様は分別にはケ様に御使被立候は伏見へ関白殿被成御座御理被仰上候ば伏見にて御切腹可被仰付との御分別にて候ところに関白殿伏見へ無御下聚洛よりの御返事迄にて御座候を同月八日の朝御比五尼幸蔵主を御使に被立御だまし被成候幸蔵主申上候様子は此中の出入の義聚洛を不被成御出御理故五人の御使の者ともゝ有様成御返事は不申上御言葉を残し可申幾もや御座候半只今に伏見へ被成の下候はゞ大閤様御機嫌にて此上は直に御理被成候は目出度弥此跡よりは御中別条御座有間敷と幸蔵主被申上候処にげに左様にも候はんと思召三人の若君様を御先に被立御供には道三玄朔其外小性衆十人計にて御城を八日昼時分伏見へ御下被成候道々御目付被置候故はや是へ御着候と御目付衆被申上候処に直に糟屋内膳屋形へ関白殿を被入量あや表裏無く直に高野へ被成御入候へとの御諚にて夫より其日玉水まで御着被成候事

右五人衆御使に泰候時熊谷内膳御異見申上候様子はケ様に被仰掛候上は御運の末かと奉存候兎角御胸の御いきどはり無残所の耳へは立申間敷かと存候今一両人も被下候様にと被仰上宮部法印などの添被成候様にと御申被成て七八人も被召寄参候は則御門矢倉へ押籠被成伏見へ御取掛被成候は御城にて御こたへ被成間数候其時淀平瀉へ鉄砲千挺被遣御用意の為にて御座候間大津へ五百挺被向残御人数は大仏筋と竹田海道二筋へ御人数御打出可被成事御尤と奉存候事御利運案の内と存候と申上候処に御返事にはケ様に天下御預け被成候事は偏に忝次第に候此上は大路を車にて御引被成候共兎角御意次第なり其上運の尽果とさへ分別定候へは不入義と御意被成候と相定へ申候大膳も此上候可申上様も無御座候相定は相聞歟御胸次第と申上重ては不申上候と承り候嵯峨にて腹切候時右の様子は申出し候と聞へ申候是は後々年の寄たる者ともの沙汰仕る様子は大膳万事無分別故一言の子細も不申上候と後日に沙汰仕候間数為に最後に申置候ものかと大膳を感申候と後に沙汰仕候

夫より高野へ被成御入御宿はせいがんじに被成御座候十四日に福原右馬助を御使に被立其山へ被入置候上は御道具の腰物以下御指上られ御神妙の御覚悟可然之由御諚にて先々御意に御任せ被成候終には目出度御中なをり可被成候間御意に御任せ可然御座候はんと申上候所に関白殿御意には此上は道具可被成御出とて無残御出被成乍併御腰物には波およぎ一腰是は今に上総様に御座候御脇差は九腰御置被成候跡は無残右馬助に御目録を以御渡候事

オープンアクセス NDLJP:57十五日五ツ時分福島太夫池田伊予此両人御使に被参候は御切腹被成候へとの御意にて両人参候と被申上候関白様は龍西堂と御将棊被遊候処へ篠部淡路奏者にて福島太夫池田伊予守御使に被参候と申上候処何事にや御意なりケ様に被成候上はたとへ御中直り候共此御遺恨はて申間数と被思召候間御切腹被成候へと両人申上候と淡路守申上候処に左も有るか然らば此将棊は秀次勝の将棊かと被思召候皆々見よとの御意にて見申候処に如御意御勝の御将棊にて御座候桂馬にてつまり申候に相究候御取被成候騎をば箱の身の方へ御入被成龍西堂方へ被取御駒をば蓋に御入させ駒崩すなと御意候て床へ御上させ被成置候扨同人への御返事には炎天の時分御使辛労に思召候白洲へ両人共に被詰候へ御ふみ一ツ二ツ被遊たく被思召いか〻候半やと御返事なり両人様子承届け今日中にさへ御切腹被成候は夜に入申候ても不苦候緩々と御仕置可被成との御受被申上候事さらは御文可被遊とて御自筆に一ツは御親父様御二所様へ一ツは北の方様へ一ツは三十四人は上臈衆方へ以上三ツ被遊富田と申者に此文天下へ届けよとの御意なり富田申上様には此御文余人へ被仰付可被下候我等は御供覚悟各如御存仕置候と申上候処に此ふみ届候事は供には何程まさるへき者なりと達て御意候右の御理又重て申上候は御機嫌如何と存不及是非御請申上候福嶋太夫に御理被成御文を為持京都へ被遣候然は此者に金子五十枚被遣候定金銀の御穿盤可有之いかゞ可被成候哉との太夫に御尋被成候返事には何程も可被遣者なり御穿鑿におゐては我等手前の金子上ケ置候御算用合可申と返事候事さらはと御意被成右の富田御出し被成候太夫殿より待二人被付京都まて難なく送り被付候事

龍西堂は御扶人にては無御座候東福寺僧にて御座候高野へは御跡より御見廻として十三日の朝被参御加を被仕居申候是は幸蔵主為にも池田伊予殿にも甥坊主にて御座候故伊予殿引取可申と才覚被仕庫裡の口へ廻り龍西堂に逢可申人ありとてだまし被呼出候龍西堂はや見付被申様には此僧能時分の見廻なり伊殿予体を相見及候に愚僧と御引のけ可被成体と見及候定幸蔵主にも御頼まれ可被成と推量仕候関白様の仕置に相極候はや来世にて可懸御目候条太夫殿御座候所へ御帰被成候へとて夫より関白殿御前へ被出候事

御傘持吉若御行水を拵御湯殿へ上ケ申候と申上候へは則御行水を被遊御出被成候御しまりの御鍵を被召寄御脇差の入たる御箱を被召出の脇ざしを御取出し山田三十郎に被仰付候鞘と柄をは本の箱に能お 当一作堂さめよと御意にて則重江やげん藤四郎国光貞宗中当来是迄出し跡は其儘可置との御意にて能おさめ置候脇差の先を三寸計出し紙に包腹切脇差に拵よとの御意にて御小性衆寄合はや包立申候龍西堂義は扶持人にてはなし当座の見舞なり其上出家と云彼是に候間はや被出よとの御意なり返事には是迄一昨日の参着仕候義は三世の義緑にて御座候愚僧においては御供に相究申候再御諚被下間敷との御返事丈夫に被申切候此上は不及是非と思召候て龍西堂にはやけん藤四郎の御脇差包たる紙の上に御自筆に被遊付候三十郎には則重江主殿には貞宗万作には国光篠部淡路には中当来右の如く包紙の上に名を御自筆に被遊付机を御取寄被成紙と御しかせ候て五脇の脇ざし御ならべ置被成候御自の御脇ざしは一尺弐寸の獅子の正宗是には御書付不被成五腰の上に横に被成候置候事

御供の衆も相定御最期の御銚子出せと御意にて精進の御はさみ肴御盃かはらけ酌には木食の弟子十五六なる小坊主なり扨御左座は関白様の御次龍西堂其次山田三十郎向へ通は篠部淡路其次山本主殿其オープンアクセス NDLJP:58次不破万作扨御かはらけ御取上被成候処へ吉若白洲に畏り候御意には御ゑん御ゆるし可被成候罷上り候へとて敷居一ツ隔祇候仕候処淡路名字はと御尋候へは服部にて御座候さらは名をもかへよと御意にて吉兵衛と被成候初中後の様子此吉兵衛見申候御盃を龍西堂へ御さし可被成体見へ申処龍西堂被申上様子はケ様の時は先御介錯人へ御さし被成ものと承候其時山田三十郎申上候はさらば私御盃頂戴可申と申上候処に又淡路申上候は御介錯におゐては私可仕と存候と申上候はや両人争ひの様に事見へ申候此義御おろし兼被成と見へ申候御かわらけを下に御置被成候てしば御工夫被成御意には三十郎承れケ様の時は其家に久敷者の筋介錯仕るものと被聞召候其方親よりはや三代と被聞召候介錯を仕る筋は三十郎と被思召候乍去此座の内にて淡路年寄なり介錯被仰付候てもにせつかはら数と見へ候間三十郎介錯を淡路へ譲れとの御意なり三十郎少も無滞如意此内にては年の程よく 座候間御介錯則淡路に譲り可申候と申上処に三十郎一段と神妙成申上様哉と御感被成御介錯はや淡路守に相定申候三十郎に淡路守時宜を申候扨は無別条御譲り可被成哉と中座仕礼を申候三十郎返事には死で三途の大河を手を取組君の御供可仕に御供の内に滞なと 座候ては御奉公に不罷成候拙者心中におゐては少も心底残し不申候は盃はやくは御頂戴被成候へと三十郎淡路守への御返事仕候其時淡路三十郎手を取御心底不被残候事忝とも中々の礼更に可申上様無之候後世迄別て可得御意候さらば御盃頂戴致へしとて罷出候則御盃淡路戴き申候其被召上龍西堂頂戴候其盃又被召上山田三十郎頂戴其盃被召上山本主殿頂戴又被召上今度は不破万作に可被遣と被思召候処万作中座仕申上候様子は各被聞召候へ悴の推参申上候様に可被思召候得と常には御酒不被召候へ共ケ様の時は御色付に一ツ被召上ものに御座候と承り候今少じ可被召上候左御座候は私御肴可仕と申候哉いなや御座数を罷立出申候各の心にはしほらしき申上様かな御肴狭み御前へ上申候義と見申候処に左は無御座候て御机の上に万作とは書付の御座候御脇差戴きはや両肌ぬきに罷成白洲へかけ出し申候御意には珍敷肴を仕るもの哉と御感有之先々待よ介錯は秀次手に可掛なり畏入候と相待申候此一番腹は山田三十郎かふりを見申候に御介錯は不仕さらは一番腹をと心にす〻み掛候色を見知り三十郎を万作越し可申と相聞申候其様子は三十郎申分には御看をば随分我等差上可申と存候処万作にこされ申候と申上候御座敷を御立被成候と一度に皆〻罷立候跡は銚子も肴も其儘御座候白洲へ御供の衆皆畏り申候龍西堂迄ゑんに讃岐ゑん座を数被居申候御意には太夫刀を出し候へ小性の刀てにも不苦候と御意候へば太夫小性の刀抜出し進上被申候処に万作はや十文字に切わたとつかみ出候処を御介錯被成候へは刀切不申候二刀に御討落被成候御意にはよしあしの目き〻は不知候切れ切間敷金色はためし物仕付たる故見分なりと御意候て跡へ御戻し被成候今度は太夫御物の刀を被差上候御寛被成此刀はどこを切てもたまる間敷と御意候万作死骸淡路守と御手づからと被成屏のきわへ御片付被成候処にはや三十郎十文字に切是も臓腑をくり出し候処を御介錯一刀にて相済申候此死発も御自御手に被懸一所に御片付被成候其跡にて主殿居直り是も如右手際の腹仕候御介錯一太刀に被避候死骸右のことく御手を掛られ三人御ならべ置候事

関白殿ゑんへ御上り被成龍西堂への御意には押並へ一度に声を懸御切可被成と御意候てはや将机に御腰を被掛候龍西堂も腰を被掛候へは関白様は東向に御成被成候龍西堂時宜には座替を可仕と被申上候処御意には十方仏土中と有時は方角は不入者也と御意候とひとしく龍西堂げに無二亦無三の所なオープンアクセス NDLJP:59りと被申候龍西堂介錯は右に申上候服部吉兵衛なり扨一度に声を御掛被成一文字に御引廻し被成熟もとへ御突立被成候と御介錯仕候但御圧物波およぎ初の太刀御肩へ切付申候其内龍西堂は御腰を被掛候将机の下へころひ申候二太刀目は高くあたり申候能しつめて仕候へと御意候処に三刀目はよき国へあたり少もたまり不申候淡路守の頸を新敷は桶に入封を付太夫伊予守に渡量申候は死骸を桶に入切蓋にて封を付納量申候

淡路守二人の検使衆の前へ罷出ての時宜は御介錯仕損し候事うろたへたるよと可被思召事迷惑仕候乍去主の介錯は仕損する者とやらん承及候つるがケ様に只今身の上に来り合点仕候免角目もくれ心も乱れ候へる故なりと申分け仕候両人の挨拶には御小性衆御介錯被遊候時に如形見分申候関白様御切腹の時は此両人は少も頸を上ケ不申其上涙せきあへず候故何と御座候へるも両人におゐては見分不申との挨拶なり淡路下様には右の様子は御免被成候私の腹の手際能御覧被成候て可被下候少も悪く御座候へは右のうろたへ申処尤と可被思召候とて十文字に切破り臓腑を両の股の上に押出脇ざしを扇の上に直し置合掌いたす処を服部吉兵衛一太刀に介錯則死義取量申候言兵衛其所に居直りたそ御介錯頼申候とて畏り候処を太夫伊予守自身立御覚悟無残所候とて押止被申候故吉兵衛は相止申候其時の有様ふりよく御座候つるゆへ其後青木紀伊守に被召置候其後田中筑後守殿に罷居候此者とは二代の傍輩にて御座候故高野にての有様よく承届申候事

関白殿御頸迄伏見へ参り候三条の川原に御直し被成若君三人但おせんさま日比野下野守の息女の腹お百さまは山口しやううん思女の腹お十様は北野松梅院殿息女の腹なり偖三十余人の御上臈衆上京一条の辻より六条迄車にて御引せ被成其日に関白様は頸の前にて御成敗なり但先三人の若君様を指殺し三十余人の上臈衆の中に菊亭殿の御息女一の台先太刀初なり是に心持御座候様子は此一の台殿は右に大閤様に御奉公なり御煩とて御親父所に御座候を関白様被聞召付御親父様へ御内証御座候と聞へ申候菊亭殿も自然若君様なと出来候はゞよき便にもやと被思召けん大閤様御前をば煩と被仰上関白殿へ穏密にて進上候と承候此故には親父様をは御なかし被成候右の様子石田治部少輔具には聞に立申候と聞へ申候関白様御塚を畜生塚と御名付被成候は此義と相聞へ申候御謀叛は毛頭思召寄無き事後々只今迄も無御座候と承候大閤様御分別には御存命の時さへケ様に乱りに御行義候は御他界後は義理五常も御そむき可被成事必定と被思召候故半分も大きりも右之様子は御りんきと相聞へ申候事

関白様様子に付御成敗被成候人々熊谷大膳は嵯峨にての切腹被仰付候是は高野にて御切腹の日七月十五日なり阿波の杢は東山知音院音は恩かの門前にて同日なり白井備後守は浄土寺町安所同子息久太郎木村常陸介父子は輝元承りにて山崎の寺にて切腹なり渡瀬左衛門佐は御所様承りにて江戸におゐて被仰付候関白様御切腹の節は御所様は江戸に御座候て俄に御上り被成候日比野下野は尾張にて山口しやううんは北野の経堂の西にて切腹なり羽根田長門越前にて被仰付候荒々如此なり北野松梅院義は長袖とて御ゆるし被成候事

関白様御切腹相済候て加賀大納言殿を秀頼様御もりに御付被成候後は大納言殿より御訴訟にて御座候我等義は年能寄候の間御もりを肥前守に譲り申度との御理にて則肥前殿へ相渡申候事

次の年慶長元年甲閏七月十二日夜の子の刻大地震四五日過かはらけ色なる土又蘆毛馬の尾抔の様成毛オープンアクセス NDLJP:60降り申候偖伏見の城御殿ゆり崩し申候一庵法印又御秘蔵の御上臈衆方十二人其外の女房衆なと数を尽しおしに被打申候御所様御内か〻衆もおしに被打候内々は遊撃参候に日本の人数武者と立海道を直に藤の森東福寺の前上はかもの川原迄人数可被成御打せとの御意にて事すさましく御座候処右の大地震故下々迄の武者道具損し申候故により相延申候遊撃宿は加賀大納言殿所に被仰付候進物は沈香のほた一かいあまり長さ二間々中高さ三寸廻り一尺の香箱に入申候八畳釣のかや但色は蝉の羽毛薬種龍脳麝香人参牛王の由以上七色其外巻物綾羅綿紗のたぐひなり御城へ罷出候時は面白く管絃御座候つる事

大閤様大仏へ被成御成御仏の体を御覧被成候処しつくいにて仕たる仏なれば地震に悉くわれ響き申候を御覧被成さらば信濃の善光寺を移し奉れとの御意にて浅野弾正殿を信濃へ御迎に被遣善光寺の如来を大仏へ御直し被成候酉の年一年の間御座候て三年目の八月十日に又本の信濃へ御戻し被成候十八日大閤様は他界被成候事

酉の年春秀頼様伏見より御参内なり其時は肥前殿秀頼さまを御いだき候て御車に御乗候ての御供なり

景勝国替を被仰付会津々被遣候佐渡島川中島は会津へ付申候御意には景勝事当年より三年の間上洛其外諸役等御免可被成との御意なり然るに大閤様御他界の後御所様より景勝被罷出候様にと被仰遣候処返事には大閤様より三年の間は上洛御免被成候尚いかゞ御座候半哉との返事と相聞へ申候石田治部少輔所より景勝へ内証を入申候内府より御上被成候様にと被仰候共三年の内は御免被成候間其心得可被成者也と返事可然候と内証を入申候其様子奥意は是を幸に事を可仕出治部少輔分別と相聞申候子の年の治部少輔謀叛は右の巧みと承候奥州へ御馬を被出候は其跡にて謀叛を可起の分別と相聞申候事

景勝跡越後へは越前の羽柴久太郎殿加賀の内村上周防溝口伯耆右の衆中を越後へ被遣候事

金吾中納言殿小早川隆景養子にて御座候つる隆景被相果候て後御行義悪敷御座候と御意被成筑前の国被召上越前へ三十万石にて被遣候其後又丹波へ替り申候越前へは青木紀伊守被参候金吾殿おとな山口玄蕃をば御引放し被成は自分者に被召置加賀の大正寺の城を被遣候事

大閤様御他界の次年御所様御取持故金吾殿を隆景跡職本の筑前へ被遣候関ケ原は合戦の時御所様へ金吾殿の忠節は此御恩送りと相聞申候事

大閤様は他界の時加賀大納言殿は関東草津の湯にて御座候去共九月十日時分には伏見へ御上り候日本の大名衆へ被遣候申御形見の物大納言殿所にて各御受取被成候其後様々の取沙汰仕候内に組の七人衆と申は加賀大納言殿に組被申候備前の宇喜田八郎殿長岡越中守殿加藤主計殿同左馬殿浅野左京太大殿景勝右の七人なり石田治部少輔に腹を為切可申との取沙汰仕候所に御所様御拵被成候三河守様を御送りに被仰付江州瀬田の橋まて治部少輔を御送り被成候其後の御所様と七人衆の出人御座候半よしの下々取沙汰仕候御一命も危様に申ならはし申候処に加賀大納言殿御煩付被成候故何事も遅く仕候と相聞申候是も御所様の武運強く御座候と下〻迄取沙汰仕候其年も立申候へは明る寅の年の正月十一日に秀頼様伏見より大坂城に御入城被成候加賀大納言殿一ツ御座舟に被召御下候海道は諸大名衆の警固にて被成御下候扨御遺言に任せ西三十三ケ国の大名小名伏見へ御詰候扨東三十三ケ国の大名小名は大坂へ御詰被成候加賀大納言どの御煩故に御所様を伏見の御城へ入可申との義定相定り御所様を則伏見の御城へ御移被成候大納言御煩重く成申候故大坂より其年の二月廿日に御所様は御見迴として伏見の御城オープンアクセス NDLJP:61へ御座候其様子は早々相果可申候間肥前殿事を可奉頼候此上は中納言さま御舎舎と被思召何事をも可奉頼との御頼の為に御上り候と相聞へ申候御所様は大納言殿色かとやがて御悟り被成候御城にての御挨拶中に無残所御座候と承候自然に挨拶に滞申所も御座候は大納言殿分別には我は行掛けの駄賃の事に候間二ツ一ツの分別と相聞へ申候処に以の外御馳走残所無御座相聞申候さらば此脇差形見に進し候とて江の脇差御所様へ進上候処に又御所様より御差被成候大左文字の御脇差を被進由互に御中無残所御座候御意には今夜御逗留被成候様に申度候得共御気気もよく見へ不申候間早々御戻り被成御養生御尤と被成御意候故大納言殿も仕合は残所無御座候其儘終夜大坂へ御戻り候事

大納言殿煩終に本服無之慶長四年亥閏三月三日大坂玉造口の屋形にて遠行の事

大坂において肥前殿いせひ日をおつて興に乗し申候事其子細は鍋島屋敷島津屋敷此二ケ所を一つに被成三方を堀にし其普請は毛利殿なり扨角々には矢倉を上ケ城搆の様に見へ申候大名小名昼夜の御見廻其上奏者は自分の者にては無御座候右衛門允長束大蔵仕候四方にも扨々と沙汰仕候程に御座候其年の七月に秀頼さまよりとて大き成御おとりと被懸候肥前殿も其返し踊御城へ被上候左様成事ともを御所様被聞召届内々には何事も乱りケ間敷不行気に事成候と被思召候と相聞へ申候然る処御所様へ肥前守より御理には大納言被相果候間隠居の跡無相違被下候はゞ可忝候左候は肥前守に跡職無別条被仰付候と御廻し状に御判を被居被下候は可忝との御使と被立候処に返事には尤の義にて御座候間我等相果申候跡に御手前様御取持被成中納言に被遣候様に願可申との御意にて則御判被成其次へ御廻し被成候条別条無御座相済申候其時肥前殿伏見へ御礼に被成御上候其時此上は一通加州へ罷下仕置仕やかて上候と御理候処に御所様御意には早々御下被成候へ御仕置被成候はやがて御上り可被成事御尤に候御上待付候て我らも江戸へ与風可罷下候間実所様御上り待可申との御返事にて加州仕置に肥前守殿御下り候事相定申候一ト先大坂へ肥前殿御下り候て八月十四五日時分に仕置の為にとて御下候事

肥前殿は直に大納言殿居城村山へ御移被成候扨仕置彼是相究り申鷹野角力抔遊山の慰御座候処大谷刑部少輔所より飛脚到来候折節肥前殿鷹野に御出し所へ参候御所様より一ツ書の数条参り候其飛脚をは町に宿を為取馳走すへきと被仰付人を添町へ被遣夫より夜に入申迄も鷹野にて御座候は戻り候てより家中年寄衆被召寄内府より申来候迚条数御見せ被成候長九郎左衛門山崎長門申上候様子は御下被成間敷所と御下候故如斯成行候と被申上候と相聞申候肥前殿はいや左にてはなきなりケ様の内府思ひより有ならは我心の左は無き処へ伏見なとへ見廻申時分不慮可出来者なり国へ下るゆへ不慮を遁れ候と思ふなり此上は何様にも理可有なり言訳不立しては不及是非次第なり三ケ国を枕に定なり乍去言訳すべきと被仰候所へ又御所様より申来候は御家中の横山大膳斎藤形部寺西宗養此三人と可被差上候可被仰渡子細有と申来候夫より十日程相過候て右三人肥前殿より被成御上候事

右三人罷上候処に肥前殿御違目の段々被仰聞被下候肥前殿御装御前方大坂に被成御置候間何様共候意次第と被思候内に大谷刑部少輔所より内証と相聞へ申候御袋様扨は御家中の人質江戸へ御下被成加賀半国を被指上候は能登越中両国は別条御座有間敷と存候あら増如此申来候と相聞申候右の加賀半国にはおまん様を御入被成との御内証と相聞申候肥前殿も大形其合点と聞へ申候処御所様と景勝殿へ出入の義治部才覚故右の通出来申候景勝治部少輔所より内証加賀へ切々申越候と沙汰仕込つる来年子の年オープンアクセス NDLJP:62に罷成東を御所様御馬を可被出に相究候故か加賀半国の義も無相違と相聞申候偖御袋家中の入質無残所江戸へ下し被申込御前方は加賀へ御下被成候偖景勝陣と肥前殿へも御触被成候陣用意有増出来候はや七月朝日二日頃出陣に相究候処に治部謀叛のよしはやく風聞御座候により四五日出陣相延申候処に治部少輔所より使参り候秀頼さまへ御馳走可被成候と申来候年寄衆天守へ被召寄右の通被仰聞候と相聞へ申候家中衆も江戸へ皆々人質を下し申候間指切候ての返事は難仕相見申候処に横山山城申上候は私義も悴を御供に江戸を進上申候迚ケ様に申上候義にては無御座候秀頼様御年廿計にても御座候て肥前守を御頼可被成との御意に候はゞ御袋様を捨被成候ても不苦候主の恩と親の恩と高下御座候と承候是初中後治部少輔仕業にて御座候間只内府様へ一篇の御馳走可被成事御尤と奉存候各の心中は不存候と申上候処に各一同に山城守申上は通に私ばら心中にも左様に奉存候と申上候肥前殿も心申は御袋様を奉捨間敷との分別に相極り申候然は丹波は丹羽歟丹波五郎左衛門殿は秀頼方にて御座候故さらは小松へ可寄とて七月廿六日に出陣なり小松には付城二ツ被置同国大正寺へ八月三日に押よせ其内に無残城主山口玄蕃父子共被討果候是は早子の年にて御座候へともこれまて書付不申候得は跡々の義理聞へ不申に間これはあら増書付了候事

 

 
オープンアクセス NDLJP:62
 
川角大閤記 巻五
 

大閤様御時代信長公御切腹天正十年午の年なり翌年未の年は柴田殿と賤ケ岳の合戦越前加賀能登三ケ国則其年治り申候加賀半国能登一国は前田又左衛門殿に被宛行越中国佐々内蔵助殿未だ秀吉に不被相随候故前田又左衛門どのを内蔵助殿に被差向事

未の年より中酉の間に大小以上五度のせり合なり但大畧能州の内にての事未の年内蔵助殿能登へ人数打出国中端々へ働被申候と前田又左衛門殿居城村山城より被討出候互に相陣を張其間廿丁計なり内蔵助殿は三日以前の陣取なり又左衛門殿方は足軽を被掛景気被見及候処内蔵助殿方よりは鉄炮迄にて相しらひ大形搆ひ不被申候処を又左衛門殿分別には内蔵助殿陣取は三日以前なり我身は中間七里を押て陣取なれば定人数草臥候処を夜討に内蔵助方より可仕との分別と見へたり又左衛門殿陣取夜に入とひとしく昼の陣取を引替夫小荷駄杯を髙山へ引上陣取を夜に入十町計人数を操出夜打人候半と覚敷海道筋へ出海道より二町計引のけ能伏せを返夜討すべき者をと敵勢を今や遅しと被相待候処如案夜の八ツ時分に又左衛門推量のことく夜討入申処千四五百やり過し興中と覚しき所へ撞懸り四方八面に切崩内蔵助殿方案に相違して敗北すやにはに百六拾余被討捕候又左衛門御内片山伊賀守高畠石見相印を被成候へと申上候処に又左衛門殿分別には敵は定相印可有之者也味方は相印指間敷なり相印無き所是則相印也其分下々可相心得なり如案敵は縄にしでを切掛前みのゝ如くに引廻たると見へたり則能登の国にて又左衛門殿はす池合戦夜討の返し申候処は此事にて御座候内蔵助方は東少北へか〻り申候又左衛門殿方角は西なり

オープンアクセス NDLJP:63能州の内取出の城々丈夫に仕置して又左衛門殿分別には合戦には勝ぬ夜に入引返さりと敗軍には成間敷なり自然内蔵助夜に入引返し加州へ可乱入と分別し其陣を夜に入加州村山の城へ被引取候後聞候へば内蔵肋殿分別加州へ可乱入との覚悟の処に又左衛門殿早く居城へ被引取候故とやしねん引に内蔵助殿越中へ被引取候事

内蔵助殿又能登へ被押入被陣候処に又左衛門殿父子共に居城村山を出野原を被陣取候内蔵助殿陣取は山を取被申候両陣の間に大なる谷御座候そこにて人数を伏せ又左衛門殿陣取へ人数千計弱々と働掛候処を又左衛門殿子息肥前守指出被討立候勝に乗付送り被申候処に又左衛門殿御内片山伊賀守御付被成候事に無用に候あの深谷に人数を包置候かと覚申と達て被申上候得とも若気故其人数に取付聞も不入被付候間伊賀守申様には御籏のぼりは私預り可申候此あたりに備を立御籏も同前に立可申候私は御供仕間敷候とて見込候谷より四丁程こなたに備立片山伊賀守のぼり奉行に申含め立置候処に伊賀守目聞に少も不違見込候谷に人数包置又左門殿先手肥前守殿人数を切立撞崩し伊賀守備立置申候のぼりあたり迄内蔵助方より追討五百計討捕候内蔵助殿方の先手の佐々与左衛門伊賀守備のゝぼりを見付深追すべからず敵は備たる人数なれは彼所より可被追返なりと堅制して人数引取申候内蔵助殿方は北又左衛門殿方角は南少西へふり申候其口は又左衛門殿方合戦悪候と聞へ申候事

翌中年三月に又左衛門殿方より能登の城へ兵粮を被入候よし内蔵助殿被聞雇さらばとて又左衛門殿居城へ目付を被付申候如案又左衛門殿父子出被申兵粮を送被申候兵粮故道五里三里づゝと相聞申候内蔵助殿被出高山に遠見を置又左衛門殿五里計隔候時分に内蔵助殿終夜人数を被押候を又左衛門殿は五里の中間の間敵陣と一里計にも成候時分用心深くすべきと被相定候処を終夜内蔵助方より人数を押又左衛門殿由断の処へ撞懸り申候処にされ共又左衛門殿方にも取合及合戦候其時も内蔵助方勝に罷成三百余討捕兵粮米千俵計俵を切あけ川へ流し申候と聞へ申候夫より難なく内蔵助殿被引取候是も方角は内蔵助殿は北又左衛門殿は南なり

北国浦は四月廿四日今に其通にて御座候越前の浦とうじんほう風と申て御座候廿四日過候て同月廿五日より海上のかよひ御座候内蔵助殿手立には船にて加賀浦宮のこしの浦へ可働と披露して舟を飾り武者舟にしたてられ候事又左衛門殿是を聞付宮のこし浦へ可打上と心掛被相待候処に彼かざり舟を遠く沖に掛置其舟には越中の浦々の船頭抔に被申付武者は壱人も乗不申候から船にて船頭ばら迄にて御座候を又左衛門殿方には其義は夢にも知らず此浦へ打上候て無残海へ追はむきべきと被待懸候処に内蔵助殿左はなくして越中より加州へ海道筋の竹の橘と申峠へ被指掛候由百姓ばら令注進なり俄に宮のこしの浦に押を少置内蔵助殿被向候竹の橋の峠へ又左衛門殿先手差登候処を逆落に矢先下りに鉄砲にて討立又左衛門殿人数敗北内蔵助殿方へ頸数百四五十討捕候夫より内蔵助殿は引取被申候是も方角内蔵助どの北又左衛門殿方は東少南へふり可申候打続三度は内蔵助殿方利運也

九月八日に又内蔵助殿能登へ打出末森の城を被攻候由を九日の節句に能登より又左衛門殿居城村山へ注進なり日の頃は四ツ時分なり末森に被差範物頭は与村助右衛門子息助次郎父子なり近年高野領に牢人仕罷居候つる奥村休巴親の事にて御座候末森の城を被攻候事翌日九日四ツ頃より八ツ時分迄攻被申候火矢を懸被申候得は城落城可仕者を火矢は無用也との子細は其頃内蔵助殿人を多数被抱候故国に兵オープンアクセス NDLJP:64粮とぼしく相聞申候焼崩候へは兵粮以下すさり申候城の兵粮を我国に可取籠と慾心故落城不申候を後悔と相聞へ申候二時計の城攻に内蔵助殿手前の者手負死人数を尽と相聞申候事

又左衛門殿分別には内蔵助殿とせり合四度なり其内三度は我手前失勝利者なり此度末森の城乗捕候て無面目次第なり十死一生有無の一合戦に覚悟を被極内蔵助殿陣被取処への中間の積を工夫し明十日ほの明の合戦と被相定家中へ一言も触不被申日の程をさげすみはや時も能とや思はれけんおすへにて具足を着被申候処に不慮成夫婦いさかい出来す其子細は肥前守殿御袋江戸人質に御座候時は芳樹院と申つる又左衛門おすへにて具足着被申時女房達被召連金蔵を明け菖蒲革の袋には金子なめし袋には金銀の皮袋を御内儀も手に持御出候御内儀言葉には又左衛門殿よく聞候へ秀吉御意には内蔵助の為に当国半国能登一国被下候なり信長様の時女の身にても聞及参らせ候は佐々内蔵助殿は武功重なり其上手づまのき〻たる上手人と誠に下々以下迄も清須より安土の御城城々ても其沙汰朝夕聞及参らせ候女の身にても夫を思ひ出金銀の御貯唯今は先御無用にて候大事の敵被差向候上は先人と御抱可被成事尤に候偖世間も御国々しづまり候時は又金銀も不入物にては無御座候其時分は能々国の始末をも被成金銀御貯被成候へと朝夕異見申候かずかからづか成べし太平記矢口の条にからづかと書せり今俗間にがんづかと云かづかは此頃の詞にや此度此金銀を被召連鎗を御突せ候て可 候とて金の皮袋を又左衛門殿へ御打付被成候と相聞申候又左衛門殿は出陣の門出を祝はんとは不思して我身に腹を立さする事則敵に候ぞとてかずかを引付軍神に祝はんとて被指たる大脇差を抜んとし玉ふ処を側廻りの上臈衆取付つかみ付押へだて候所に年寄の局の上臈御門目出度候佐々内蔵助たぶさを御手に掛られ御引付可被成事は明日の内にて御座候はん目出たしとて御門迄其局悦事と被申ながら打送り被出と相聞申候事

又左衛門殿は城を御出候て子息肥前守はいかに未出やと御尋候処岡崎備中守はや御進被成候と相見へ申城より一里相隔り宮のこしと申処備を立候親父を御待候備を見付申はや御先に備へ見へ申候と披露申候へばそこにて機嫌を直し実にあの備は肥前守なりと満足げに見へ申候と相聞候事

夫より御人数打続くり出し被成候先手は肥前守殿なり猶行て内蔵助殿と一里計り隔り申候未だ夜深かりければ人馬の息を休め暫く休らひ兵粮をつかはせ被成つるが時は早能きぞとて十日のほの明に押寄られ候処に内蔵助殿陣取は山なり城下にくづやの町御座其町を陣取人数千四五百も御座候処へ押し寄時とつくり掛候へば敵は取物も不取敢敗北す頸を取候へば手塞る者に候間切捨にせよと下知したもふ夫より内蔵殿助方には鉄砲大将野々村掃部其外取合山半分程内蔵助陣取よりおりさがり中に攻上れば追おろし火花を散したる合戦と相聞申候内蔵助殿方の鉄砲大将野々村を始めとしてはや物頭二三人討死なり又左衛門殿方には肥前守殿鉄砲手二ケ所され共深手に相聞不申候徳山五兵衛総領討死なり夫より少々鎗も打捨太刀打と聞へ申候又左衛門殿左の殿に太刀疵夫より被攻上候へは内蔵助殿も不叶とや被思けん北を指て海道に掛り敗北を城の内より奥村助右衛門父子切て出一手になり付送り候又左衛門殿は手負ながらざいを取付く所是より先は無用なりとて夫より六七町追付討せ馬を立味方の勢を制して跡へ被追戻候其所より四五町おりさがり広場有所を内々又左衛門殿被及見候気転早く出申候と相聞申候定内蔵助人数を集め備立夫より又可追返と内蔵助分別可有之候如案其広みの場に人数備へ又左衛門殿人数を被待掛け処に五六町前かどにて又左衛門味方の人数を跡へ被追戻候事

又左衛門居城村山を御出候時合戦に勝候は〻定て内蔵助内々応を知候に其一合戦に負候迚も不苦候持オープンアクセス NDLJP:65隙かぞへの者なり目聞気転の早き人なれば我居城村山の城へ東海道を竹の橋へ掛り留守をねらふべき横着者なりとて竹の橋の峠に又左衛門殿姉聳高畑石見守物頭にて鉄砲をかけ相待候へ内蔵助合戦に負なば彼道へ可差懸なり待請下り様に鉄砲を打掛よと云被含彼峠に待掛候処に又左衛門殿推量少も不違合戦には負たりといへど又左衛門居城をさへ取なばと被思懸竹の橋へ被差懸候処を高畠石見人数を伏せ矢頃に引かけ討ければなじかはたまるべき内蔵助殿先手谷とくゞり敗北夫より付ならば又可被追返と高畠分別一足も付不申候備の前に其儘かまはぬ様にもてなし候ゆへ内蔵助殿取付無之越中の居城戸山へ引取被申候又左衛門殿大勝右の三度の勝利を被失候よりも五増陪も上の勝と相聞へ申候事

扨又左衛門殿二ケ所の軍に打勝御心よけに居城へ帰陣して家中の者の一番鎗二番鎗其次第穿鑿して加増褒美夫々に被行候然る処に篠原出羽と申者其頃大事の腫物を相煩存命不定の体家中にも其隠無御座候処物にて罷出合戦の時は侍共に乗物を舁せ一番鎗二番第の合申所まで少もさがらず乗懸申候行歩不叶故にや乗物より罷出る事は不成候敵方よりは又左衛門殿乗物かと相心得目掛鉄砲頻りに打掛申候され共不起候故か鉄砲は一殿にあたり候と聞へ申候又左衛門殿吟味には行歩不叶故乗物よりは不出候へど家中の侍共への令見又は心掛神妙也とて一番鎗に被相定候て加増五千石被遣候事

翌年酉の年は七月廿七日秀吉大坂ゟ御馬を被出佐々内蔵助御追罸被成候事は右の本書に委数書付候事

天正十五年亥年は九州薩摩へ秀吉御馬と被出九国に心の儘に治り申候御国分被仰付豊前の内中津と申所にて黒田官兵衛殿へ拾三万石被宛行其内に紀伊刑部少輔と申者小大名にて御座候城井卿記作城井可従
城井卿記其家人の所記なり黒田旧記誤なり
官兵衛殿に相随罷居候つる其年紀伊の在所あたりと駈催一揆を企一向に官兵衛殿へ相背申候紀伊居城を所にたとへ候へば相摸国箱根抔の様成在所に引籠罷居候故節所瞼難に御座候間黒官もあぐみ被申候官兵衛殿知行打廻に被出候但子息筑前守殿は留守居に被罷居候其様子を見切八月廿日朝紀伊より中間四里余り御座候処を終夜詰申候哉ほの明に官兵衛殿城下へ弱々と働かけ申候筑前守殿は其時廿計にても申候若気故無性に被乗出敵を追散し家中早馬の者共爰彼所へ追着頸五つ被取せ候処官兵衛殿家中井上九郎右衛門栗山備後守竹森石見守彼等申上子細は御討被成事御無用に候其子細は右に如申候湯本一の瀬などの様成所に伏勢を置調義如此と仕相見へ申候長追被成不慮出来可申と達て異見申候処に筑前殿少も不聞入右にたとへを如申上候箱根湯本抔の様成所迄付送り被申候如案取包はや手廻りの者百計被討候処に筑前守殿小性小野小弁舟橋木太夫筑前守殿討死と見切て取て返し大成手柄仕候其間に筑前守殿をのけ申候後人々申候は柴田殿賤が岳の合戦に被討負候敗軍の時面受少介御幣を申請柴田殿を居城へ入さるに少も不違と後々取沙汰仕候と承り候右に申上候竹森石見守は筑前殿と一ツには付不申小田原より箱根へ出口地蔵塔の川向さんぼうの様成所に川なりにのぼりを為立又のぼり一叚をば地蔵塔の様成所に川切に横に立置右の異見申たる年寄など龍居申候横切に立申のぼりと竹之森石見守川なりに立中のぼりと其問五六町程も御座候はん筑前守殿敗軍を竹の森頓て見付奉り筑前殿所へは搆はも川上へのぼりを立上候を敵頓て見付そこにて踏留付不申候偖竹の森石見守のぼりの立様迄にて筑前守殿一命相助と聞へ申候敵の方角は南筑前殿は北少し西へふり可申候其場を後に見申候事

其後黒官彼紀伊を何とぞ分別して可討果と工夫せられ其頃紀伊殿へ十七歳の息女手前に御座候筑前殿も未だ内儀無之候間縁辺に取繕ひ紀伊息女を筑前殿内儀に可申請とアツカイを被掛候処に紀伊少も合点不仕オープンアクセス NDLJP:66候達て貰ひ被申候へばさらば可進と縁辺に相定申に輿を入申候其後は如在なき様に罷成候官兵衛殿筑前殿へ被申含肥後国の佐々内蔵助所へ見廻りに可参なり其留守に筑前聟入をせられ可きなりケ程に無内外打解ぶりを仕置程ならば定紀伊礼に是へ可下なり但官兵衛内に居と聞ならば無左右参間敷なり為其肥後へ見廻に参り候と名付内蔵助所へ官兵衛殿指越とひとしく筑前守殿聟入被仕候馳走無残所御座候官兵衛殿申置候には紀伊礼に参り候はゞ可被討果候其調儀は家中の者共に能々可相談者なり様子は肥後へ可被申越とて官兵衛被罷出候聟入より十日めに紀伊おそなはり候へど御礼に参候と中津の城へ着申候馳走無残所被申付さらば明日御登城候へ可掛御目と被申候て其内七五三の用意被仕候宿にて可討果と被思候得ど供の者など多被召連身廻りに有之間城にて可討果と議定し翌日城へ参候処に馳走残所無之太刀を互に引相被申候紀伊供の者一ツ座敷へ召出候はで不叶者六人なり上下七人扨其外の供は広間にて馳走有之其広間の衆は外へ出腰懸などの様成所に休らひ候て歩の者共四十人計と相見申候が座敷は後に酒もりに罷成候処に筑前殿自身肴を持出紀伊前に置小謡とうたひ出し候半に中脇指にて筑前殿手討に被仕候初太刀頸にて御座候故一刀と相聞へ申候扨供の六人脇差にて働申候筑前守方も中脇差迄にて勝負と聞へ申候主従七人被討果候筑前殿方は当座に死三人手負四人只今の黒田美作はお玉と申候つる手二ケ所なり働事の外よく御座候つると承候扨外に供の者抔は座敷奥深き故一円不存候処に門を打広間より鉄砲五拾挺程にてつるべ打候へば一人も不働被討果候事

官兵衛肥後へ被越候時紀伊を被打果候は内義の親類共周防の山口に有之と聞へ候間局の女房達下部に至迄難なく周防国へ可被送と被云置候処筑前殿分別には手ぬるく被思召間敷ためにや城下川原にてお乳と内義と一柱にく〻り付あふり被申候残りの上臈衆はした以下は無残はた物に上ケ被申候事今に其隠無御座候其時の沙汰ケ様成先例は未だ不承との事也

右の通に相治め官兵衛殿注進被仕候へば仕様残処無御座候さすが若者には似合申たると被感返事と聞申候右の紀伊所は留守居有増持こたへ候へど筑前殿自身被乗込候へど城主無之故即時に受取留守居の頭七八人討果され候其日に紀伊の在所三万石相済申候後に取沙汰には御前所成敗の様子むごき取沙汰仕候事

慶長二年酉の年大閤様御代四月の頃正宗殿洛外におゐて花見の遊山御座候と相聞申候つる建仁寺の藤一日一両日相過藤の森の入江の花見いかにも窃に遊ひ者抔を被召連遊山の所に洛中のすり共是を聞出しひしと取巻かつゑに望候間金銀中請度と申掛候処安き程の義なりこれへは金銀不持せと被理候へはさらは御腰物御供の衆迄のを可被下候と申上候刀脇差はいかに候とて屋形へ人を被戻かねを取寄被取せやうにだましのけられ候由悪事千里と五日の内に京伏見へ此事弘まり申候世間には正宗殿両腰迄をたくり申候との取沙汰専ら風聞仕候処に其頃加賀大納言殿と正宗とは余りよく無御座候大納言殿此を聞付使番に北村と云若者に被云含様子は正宗殿へ参り此中承り候へば藤の森にてすりに御逢被成候と承り及候笑止に存候との口上を大納言殿側廻り被罷居候徳山五兵衛是を聞以の外大事成義を被仰遣候者哉定て正宗殿よりの返事には御懇之御使忝存候同くは其証拠を被下候様にと返事於有之は慥成証拠はなし大事に可成事は必定なりと徳山此度分別仕御無用にて候と可申かと胸に存候へど大納言殿癖として一さんばらなる人なれば猶以早々使を可被立と案じすましける使には私可泰候と被申候オープンアクセス NDLJP:67さらば五兵衛参り候へと被仰候右の使を留申候徳山工夫して一両日相延申候二三日過五兵衛正宗殿返事はと被尋候を是は大事の御使に候定て証拠を可被乞時はいかゞ可被成哉と達て申上候へどすりに逢候は必定に候五兵衛不参候は右の者を可被遣と被仰候さらば私可参との事なり

徳山五兵衛正宗殿へ参右之通正宗殿へ申渡候如案正宗殿自身立出書院に逢被申候返事には偖は左様成義を能聞召被届候や同くは証拠を御出し被成被下候様にとの返事也五兵衛挨拶仕候様子は右に如申上世間の取沙法仕候とぞ大納言も被申候へ証拠被出候様にとの御返事に候ケ様の御返事にては罷帰り間敷候則使不調法に可罷成候左候は〻乍慮外御様をよごし可申と五兵衛覚悟強く見へ申候を正宗殿頓て其気色をさとり左候はゞ世間の取沙汰にも御座候哉被仰聞置候夫は世間悪口にても御座候哉御心安被思召候へ左様之義身に覚不申候は内証忝奉存候との直返事なり徳山五兵衛又分別出し此返事は聞ての証拠無之と思ひ今暫く申上度事御座候とて其座敷を立正宗殿あたりに近き糟屋内膳殿土方勘兵衛殿へ使を立是へ早々の出被成可被下候急用之事御座候と申遣候処に右の両人被参候ケ様成使に大納言所より参候とて右両人を先に立又正宗殿に逢申最前の御返返事如斯後には此御言葉に候へば後の申事に罷成候証拠の為に此両人を御前にて御返事の様子承り候とて罷立候後取沙汰仕候は徳山五兵衛分別を以正宗殿と大納言殿との間に物いひ不出来事偏に臣下の徳山故と此を聞もの五兵衛を感し申と聞へ申候事

是は不入義にて御座候へども有増書付申候関ケ原の時国大名衆分別を以其家無恙続申候家は鍋島加賀守と申は只今の鍋島殿親父にて御座候其頃迄は達者にて被罷居候御所様東へ御馬を被出候を被聞大畧御跡にて謀叛企衆可有之候御所横御馳走とて国大名衆荒増御供に被参候と相聞へ候我家は東への御供不仕候へども国離れざる様成分別有之銀子五百貫日東へ為持可下なり尾張国より御所様御分国之義は不及申景勝との境目迄の国々の町方にて五貫目程づゝ見合兵粮を為買其町々の年寄共に可預置なり上方に事出来たりと云ならば御所様へ申上様には鍋島事御馳走に可被出覚悟に候処に上方蜂起仕候間最早鍋島可罷出事は中々罷成間数候間此兵粮入不申候とて町々にて兵粮を可奉指上と申付奉行三人束へ差下し申候御所様はや宇都宮へ御着被成候とひとしく治部少輔謀叛の様子相聞申候処に彼鍋島者ども右の御理申上はや宇都宮にて兵粮指上申候奥州境目迄の兵粮米買置候事を目録に乗せ尾張よりの兵粮米進上候と相聞申候御所様御分別にも扨は鍋島心中は無別条と被思召候と聞へ申候鍋島奥意は日よりを伺候と相聞候へ共親加賀守分別を以国に離れずと世間に其節専ら申あへると相聞へ申候事

其頃蜂須賀法庵国法は蓬歟柴田は羽柴歟に御入候所に治部少輔所より秀頼様へ御馳走候へと達て理申候拙者義は煩申候其上年寄の義に候間人数は御馳走可申候何様にも被召遣候得とて被差上候処に北国柴田肥前守殿おさへとて若狭の少将殿治部少輔指添北国へ下し候法庵其身は高野へ被入と相聞へ申候後御所様聞召被届御赦免被成と承候事

黒田如水は其頃ははや隠居にて豊前中津に居被申候筑前守殿は御所様御供にて東へ被罷下候処に治部少輔誅叛の様子如水被聞届筑前守殿居城へ被移家中の者共井上周防栗山備後守に言聞て筑前守に男子幼少なるは不苦候有之候はゝ分別有之といへど孫無之候間不及是非次第なり隠居の身として不似合義と可被思召候へど豊前国へ大友乱入候毛利家より銕砲五百挺差添一国は早百姓ばら以下に至る迄昔の主の筋と枢機をたて相随ふと聞へ候隣国へ乱入候を乍聞可置処にては更になし其子細は筑前守は東にオープンアクセス NDLJP:68て御奉公可仕なり国にては如水御奉公申上ると被思召候はゝ御勝に罷成候ときは可預御感者なり筑前守殿金銀を先可借なり人を集め頓て豊後へ打入大友と有無之可合戦明日より在々所々に高札を立人を集よとて金銀を取出させ取替に被遣候隣国他国の牢人ばら是を聞即時に集り申候事

牢人ばら即時に相集候と伺候へば人数に応じ銀子を渡せよとて相渡候其様子を如水被及見候に座敷にて天秤二丁三丁にて掛渡候処に奉行抔を呼付我ははや老後に及候間ケ様成事は我代には重て有間敷候自然筑前守無事に罷上候は筑前は若く候間又重てケ様成事もや可有之なり左様にふりを小躰に仕ははか不行様に金の目重きぞ軽きぞと申穿鑿不可有候殿主の下の塀地門を開き白洲に庭はきを敷並はだか金にして有次第うつしかけ可置なり天秤とうら向ひ小路をやり二十五丁づ〻五十丁たてならべ置へき也かけ渡候事五匁十匁重き分は目の吟味仕間敷候金など五枚十枚ふところへ入盗候と見及とま〻大目に見やり可申小躰なる様子は商人などの買物にこそ目軽きぞ重きぞとは申者也ケ様の時の世間への響の為に候問いか程も大躰にさはくべき事尤なりと被言含候事

扶持方渡奉行に被申含様子は扶持方渡候時蔵の内にて不可渡俵を外へ出しうら向ひに小路をやりつみ立是も舛の上よく可相渡者也少も小躰に仕間敷事尤なり其通に扶持方相渡申候則其響世間へ相聞金の山米の山と申は如水の御城の内なり迚これを聞く者弥集申候と相聞候事

人数も大形集り候と見へ申候所に家中衆被申上様子は御出陣頓てにて御座候て御人数のたきつぎ御覧被成候へとて野に埓を結ひ申候如水人不及見事に候自分の人数の程つもり知申候此度集め人数のたきつぎも大形推量有之乍去一通とをし可申とて自身立出被申候浮の一方にくゞりを明夫より新参衆の扶持方取り一頭くり出し申候夫より種々に紛れ人数跡へ廻り雇ひあひ見へ申候処をくゝりの奉行共穿盤仕高声になり候と如水頓て被聞付何事にやと被尋候如此と申上候穿鑿すべからずいか程も人を雇合よ一目にてはや人数のたきづき積り候着到は一万とも二万とも可有之なり心に積り置とて穿鑿なしにさらりと通し頓て如水被打入候事

夫より豊後国へ被打出石垣原と申所にて大友般と大合戦御座候但大友殿は南如水は西少北へふり不申候大友殿一老吉弘加兵衛を被討捕候其頃豊後の国にて福原右馬助六万石の跡を長岡越中守殿へ御所様より被進候其留守には有吉四郎右衛門松井佐渡守城より打出如水と一手に成合戦三度と相聞申候其様子は近き頃に御座候間定可被成は聞候間委書侍不申候如水内井上周防手柄の様子御所様聞召被届其時周防に被成候夫迄は九郎右衛門と申つる行光の御脇差二条の御所にて被遣候夫より周防守名高く相聞へ申候三十日の内に豊後を被相治城に仕置して又中津へ帰陣被仕候事

関ケ原御合戦散して後島津殿と立花左近殿被仰談大坂飯森迄被相退候立花殿大津の攻手にて御座候夫より輝元大坂へ御座候処に使者を被立関ケ原の合戦こそ負に成候とも毛利殿後詰被成候へば八幡平塚のあたりにて今一戦可仕と被相尋候処に毛利家もそもの様に成行申候故輝元返事もにんぢやくの処を聞切さらばとて両人立合舟にて大坂より九州へ被罷下候其内に島津殿は人質を大坂より被差下候処如水是を聞付け居城中津の沖へせき船を被指出島津殿人質船を鉄砲ずくめに船共に被討沈候其後島津とのも立花殿も面々の城へ入被申候事

立花殿筑後居城柳川へ帰城候事

オープンアクセス NDLJP:69加藤肥後守殿は同国小西摂津守居城へ被取掛城主摂津守は関ケ原へ被罷出候但留居の者共城を持堅め中々聊爾に可被攻入とも見へ不申候と聞へ申候城の大手口にて南条玄宅と肥後殿内三宅角左衛門と寄合不慮にくみ申候其後扱に被成肥後どのへ相渡申候是も定御聞可被成候間有増書付申候前後不同無御座ため計にて御座候事

立花殿柳川居城へ被立能候処寄衆北より右鍋島殿陣取は在所はちのゐんと申所なり加藤肥後守殿寄江城より東にあたり申候在所は三橋と申所なり黒田如水寄口は城より是も東少北へか〻り申候陣取在所は水田と申所なり如水先筑前に通り被申候金吾殿は関ケ原にて御所様へ御馳走故御仕合能上方に御座候金吾殿御国御留守居其外足軽以下も御座候御留守故扶持抔かつに相渡候を如水是を被聞届御留守居仕置如木仕候事は指出たる様に御座候へど冬年迄の扶持方被相渡候へ金吾殿は前は此如水請合申候迚皆々へ被相渡候へ其上我等も御米三千石かり可申とて被請取候て筑後浦へ船にて被廻候其兵粮用意の分別は島津居城へ立籠候上は定て九州者に先手を被仰付候は真先の心掛と相聞申候

鍋島殿陣取へ立花殿内小野和泉守と申無其隠武用の者一万余り陣取所へ千に不足人数にて切掛り申候鍋島殿先手の備一段切り崩れ二の備も事危く見へ申候程攻掛申候処彼和泉大事の鉄砲手一ケ所負申候夫より退口危く見へ申候処に左近殿内立花右衛門横鎗を以和泉を引退申候処に又吉右衛門も左りの耳の根より右へ被討抜是も痛手に御座候され共二大将無別義退切被申候是も委は書付不申候事

立花殿城加藤肥後守殿御噯を以被相渡候日比別て無御等閑候故加藤肥後守殿へ左近殿被仰候様子は近年被懸御目候印我等家中の者馬上二百騎計被召置被下候はゞ可忝と達て理り被申候肥後殿安き程の事にて御座候ケ様の時御用不承候てはとて安と請付被申候肥後殿よりは左候はゞ小野和泉守を頭にして候はゞ可忝と和泉深手負存命不定のよしを左近殿御理に候それは不苦候さらば可進候とて五千石三千石五百石二百石三百石下は百五拾石馬上一度に三百余騎肥後殿御請取候其暮に切米似合に心付候て明る八月朔日に知行にて被相渡候其時分取沙汰には肥後殿日頃の大気此度二百余騎馬上御請取の事近代ケ様義有間敷との取沙汰有之候事

肥後守殿へは和泉守御理申上候は則御国へ可罷越候へ共今度左近御所様へ御敵仕者の事に候間定於上方切腹被仰付と奉存候間同前に此度は罷上左近身上成行末を見屈申度候左近に切腹被仰付候はゞ御国へ罷下間敷候追腹覚悟に候右之通肥後殿御聞分被成愈頼母敷存候左近殿も目出度御一命は何事も有間敷と存候一先可被見届事尤候其方被相果候とて跡の侍二百余の分は少も相違有間敷候其無気違は遣か被登よとて被差登候右の痛手をも相構はす左近殿より五日以前伏見へ相着候処に左近殿は和泉守より五日跡に着被申と相聞申候左近殿も身上今やと事あふなく見へ申候処に様子公方様御聞分成一命安堵に相随候所迄和泉守被見届夫より和泉守は肥後の国へ罷下り候時御陰を以貯へ置申我等義は早知行に取付申候金は入不申とて刀脇差七腰銀子七拾貫目左近殿へ上置候て肥後へ罷下り候事

八月朔日於広間知行目録の打渡一所付に至迄肥後殿前にて戴但小野和泉守一番に被罷出候処肥後殿仰には和泉守聞候へ其方相抱候時家中者我前を支申候其様子は無分別者にて事を破る者に御座候と支申候家中の者共能聞候へ分別者事を不破者は有之といへども和泉が事を無分別もの事を破し者は無きぞや和泉が如く無分別者を家中の者も嗜よ抑今度鍋島柳川の城下はちのゐんの在所に至て陣取被申候其オープンアクセス NDLJP:70人数壱万四五千も有へく候処和泉守千に不足人数八百人計にて仕懸先手二段まで切崩候は古今有間敷候也其上深手二ケ所迄蒙り候にも搆はず次第に向へ進と聞候を立花吉右衛門横鎗を入引のけ候事其隠なきなり和泉跡々の於手柄度々有之とは相聞候乍去跡々のは今度の手柄程は有間敷と被感候と相聞申候ケ様成無分別者は世間にも多有間敷なりとの言葉にて夫より二百余人の侍とも知行拝領なり

大閤様御他界の時又内へ御形見被下候衆和泉守も其内にて御座候事

立花左近殿御城肥後守殿御請取候黒田如水城噯にて澄申候其夜に入とひとしく陣を引払薩摩へ取掛り肥後の先さがの関と申所迄陣替被仕候処に島津殿居城へ被入候事如水分別にて右に如申上候金吾殿御国筑前の仕置被申付三千石金吾殿御蔵米かり被申候事は薩摩陣の用意と聞へ申候三千石の兵粮はや彼さかの関に被着置候如案薩摩陣と被仰出候処に肥後守殿如水への御理薩摩への入口は肥後の国にて御座候如水御国は跡の義にて候間先手は私可仕との御理なり如水返事にははや着申候間是へ御着候は拙者の人数弥先へくりこし可申候との返事なり肥後守殿分別には御所様御分別を御引替被成自然の扱にもとや被思召候はんに如水指争ひはや薩摩へ入候て下として事を破るに似たりとの分別出被相待候処に如案島津陣は来年の春と被仰出候ゆえ如水も国へ被引取候事

黒田如水夫より七八年打過伏見にて病死に候筑前殿は国本に御入如水煩ひの由注進候へは不取敢早船にて大坂へ着候され共存命の内に伏見へ参着候如水挨拶には既に対面を遂間敷と思召候処にきゑんくちざる故不慮の対面祝着不過之候弱らざる先に可雑談子細有先行水をせられよ要入候とて則被立頓て此気色にては二三日は抱申間数と胸つかへ候て食進不申候を如水被見及今日は早く着申候か飯はいまだくはる間敷なり食進候はぬ事筑前守には似合不申候女子こそとゝうさまの弱り候間などゝて悲しみ申食事不成候は是は尤なり其方杯の位からはケ様成時は少も苦に持ずして不仰天こそ本意なりと被申候時筑前守殿換授には只今平潟にて弁当被下候と被申候へば其義なり其方抔の様成ときは一日に五度六度の食事は不数事なりとす〻め被申候へば筑前守どの畏て候迚むりぐひに二三度さいしんを被請たぶと被食候と相聞申候其体被見及夫にてこそ候へさらばおち入迄武辺の雑談貴所後に分別に可被成事可申聞ぞやの事

貴所は如水に生れ増たる所五ツ有之也我身又貴所に生れ増たる事三ツ有之貴所如水に生れ増たる五つを又我身三ツ生れ増たる事を以て貴所の五ツ能事を我身三ツの能事にて五ツ能子細を打破る講釈可申候能被聞候へ一公義上手なり一国の始末無残所被仕候事一金銀沢山に被持候事一子供沢山有之候事我には貴所壱人迄持たる事なり一奥意丈夫にけなげ成所右五ツなり是に付こは者に重々品々有之事と聞候

信長公の御時松永弾正殿に武辺者の様子御尋被成候へば其義にて御座候能ふりを上へ出し体の能者一通見かけに差あらはれ一番鎗二番乗すべき者をと心掛上に差あらはるもの一通り右の二色の為体少も上へ不見して奥意に殊外嗜深き者一通一番鎗一番乗心掛候者十二三人は持申候一番鎗の者敵に鎗を突付候時後へ廻り鎗の石突をさい槌を以可打込と見及候者は五人三人迄は持不申候と信長公へ被申上と間へ申候如水は世間へ其体能被見候貴所はさい槌を以石突を打込様成覚悟の人なり但夫れ一篇迄にては大将軍には気くはり無之様に気転のやりくはり大将軍には尤に候事

オープンアクセス NDLJP:71貴所公儀上手と感入候事は此後には不存候只今までは両御所様の御前其下には出頭衆迄の御前を不取損して御奉公無恙被仕候事是公義上手なり我等は大閤様御前二度取損ひ申一度は播州諸社寺に久数罷居近年は九州にてしかられ申候子年関原の御時は御所様御内証に一円逢不申と見へ申候子細は貴所は東への御供被仕候我には国に有て隠居の身にて候へど人数を抱へ隣国の豊前国にての辛労彼国三十日の内外に打従へ其後全吾殿の留守の仕置仕筑前立花左近城へ寄候時薩摩陣と御触候を加藤肥後守殿は薩摩並の国にて候を右の立花殿城噯に成申候其後肥後を差越さが関迄詰掛申候時当年は薩摩へは御仕掛被成間敷候先早々引取候へと御意に付国へ入申候東と九州と二所にての御所様御馳走仕候上は別に我等へは国か知行か拝領可仕と存覚悟の所に却て内証御意一度も通路をも不逐剰隠居の身として留守の筑前守金銀を取出し費後へ働其外方々への手当如水には不似合候筑前守居城中津の城へ引籠世間の成行筑前守行衛可被聞届こそ尤可然候隠居の身として働不似合に被思召候故か我等国にての辛労分は御感御立不成候大閤様の時随分一かどの大名に可成と存候処に左は無之又候哉此度も右之如くに候乍我心かん過見合事はかやるべき如水と御覧被成候事は大閤様御目聞又御所様御目聞少も無相違と感入申候此上は浮世を捨ばやと被思召候哉歌道一篇迄なり或月見花見の遊山までに候如水の身の上を貴所能々以来考へられ候へ為其申聞せる事

如水筑前守に三ツ生れ増たる子細有之一家中の者上下以下迄に被思付事一凡天下にも有間敷と存二ツ物うけの博奕の上手にて候一むごき事の上手是三ツが我身只今果候事必定なり家中の者は死の道筑前守に替度と上下に至迄可存候能々被聞候へ博奕の上手と申事は世間事色めき花もさかりと被見及候時はむごき事の分別尤なり縦は江戸の人質貴所母内義子共達五人六人の間を捨候へば国無恙天下の望をも懸計に被見及候て右の人質と被捨よ貴所人数も壱万は可有之なり其下々以下男女童子共にかけ人数も五六万は可有之也夫を捨はたし身被仕たる罪と五六人の人質被捨たる罪施恐くは衍二ツくらべられ候へ五六人の人質被捨たる科浅可有候事

筑前守殿山返事には其義にて御座候家中の者に思ひ被付候事はこなたの様に可仕事中々成間敷と分別仕候乍去如在可仕とは毛頭不存候金銀を蓄へ申事は自然関ケ原抔の様成敗軍のとき家中道具悉く捨り可申候其時は二敗軍三敗軍の分は家中の者共武具以下に金銀を為入申間敷候為の金銀に御座候少も手をつかせ申間敷候其時は家中も忝と可存哉万事に付て家中に御不便を被加候事被成候様には私義は相成間敷と存せめて右の通可仕覚悟にて御座候事

世間も花の博奕も能時分と見及申候は〻如御意私におゐてはむこき事可仕義此御意無之先に神そく仕置候と返事被仕候へば如水殊之外機嫌克さては其覚悟候哉尤に候事

筑前殿被申出候はや御果可被成候に心に懸りし事御座候其子細ははや壱万計の手人数御座候を如水を旗本に仕我等ざいにて一合戦仕御目に掛ず候事是のみ心に掛り申候と申候へば扨其程に貴所は気の付候はんと思ひ不寄候処に其義にて候はゞ今生の思ひ置事無之候事大昔の名将弓取をとの事は書物に是を記すと見へて候能々分別して見候に近代の名将共は美濃尾張三河此三ケ国より弓馬の道の上手共被出候はや何事に付武者ふり等に至迄右の三ケ国の名将達の被仕置候物の仕様武者ふりの体迄日本の有之内は右の威風へ残り鏡に成べくと見および候事

オープンアクセス NDLJP:72大事の申置き是迄にて候はや世間の体被見及候時は家中の者とも集今日も談合明日も談合と被催候て其内に世間引つのる者に候何事にも用捨をすれば程もなき物にて又物を疑ひ候はゞ是もきはのなき者なり但此二ケ条の見合は塩合肝要なり具足櫃に草履かた木履かた入被置よ世間事見へ候とひとしく是をはきかけ被出よ馬に沓不可愚候事是候不入義にて御座候へど子年関ケ原の御合戦相治り御所様は大津の城に御陣を据られ候処治部少輔小西摂津守安国寺三人生捕御城に被召置上野守殿村越茂助殿二三人へ御内証を被入大名衆壱人づ〻同道し治部少輔に逢せよ其見合の目聞は東へ下り被申たる衆中を定て治部少輔所より種々くり可申なり心にんちやくなる衆は治部少輔に逢ぶり悪可有之なり又其中にも二心なき治部少輔へ手を不入衆相ぶり如在有間敷ぞや其色香を能見分よとて壱人づ〻御達せ被成候と相聞へ申候遇ぶりの能大名衆は浅野紀伊守殿黒田筑前守殿池田三左衛門殿羽柴肥前守殿此四五人と相聞へ申候其外の大名衆は直に逢申候へば見る目もむこく候間物ごしに見候はんとて或は戸の合目節穴など又は大津を攻申候間鉄砲の通りたる穴などより見被申其言葉にはむこく候問見目もいかゞに候とて夫より跡へ被戻候と相聞申候此事後に大名衆被聞届扨々は気を被付たりと仰天と承候羽柴肥前守殿直に逢被申候処治部少輔被申様子は扨々ケ様に縄下に罷成懸の目に候次第面目無御座候と被申候処肥前守殿挨拶には縄下無面目と思召間敷なり昔より先例も有之大炊殿父子大炊は大臣歟とも被生捕京鎌倉を被渡と聞候上は不苦候との挨拶と承候紀伊殿は大閤様の時我を支へさる磯貝事覚へたるかとて扇にてつらをはられ候と聞へ申候後に是は余り成事と取沙汰仕候よし承候右の様子は帯刀存命の時可申上と存候へど書付申候

子年に取合御座候九州をは有増右に書付申候伊予国にては加藤左馬介は自身に東に御立候其留守居城へ毛利家より取掛申候留守居衆年寄衆の陣へ夜討被仕大きに留守居衆被得勝利候北国は肥前丹羽五郎右衛門殿山口玄蕃此衆と取合候越後国は一揆蜂起なり羽柴久太郎殿村上周防守溝口伯耆守此三人として被相静候乍去一揆とは乍申手間を取申候と相聞申候大津より東の取合の所々は書付不及申上候事御所様大津より大坂へ御陣替被成仕置被仰付其後大名衆へ御国割と相聞申候事

其頃福島大夫所へ夜咄に大名衆の寄合と承り候其時分は此衆中は何もなか能何事も心底を不被残咄被申候時分と聞へ申候加藤左馬助殿同肥後守殿黒田筑前守殿浅野紀伊守殿長岡越中殿此衆中寄合雑談の次に今度宇津宮に御所様御陣取の所上方謀叛の事申来候と大閤様中国備中国にて輝元御取合候時信長公御切腹の注進備中へ申来候と少も不相違候大圏様は輝元と陣和談し居城播州姫路へ御帰陣候て一夜も御逗留無之御打出被成正龍寺表におひて明智を被討果候事手はしこき故なり今度宇津の宮へ申来候時御所様御意には我等を御馳走にて是迄御下候処大慶に存候右は上方に人質御座候間皆々御上候て治部少輔と御入魂に尤候と被仰出候是は以の外重き御分別なり同は御所様か御言葉には上方より如此申来候へど各々手にも掛申間敷候合戦にも及間敷候なり悴共を一々踏潰し候はんとて江戸迄御帰城被成一振舞被下其儘打立被成候はなしかは御所様の御手には懸間敷なり是に有合人々申合候に合戦候て八月の内に御所様天下に可仕者と御出陣大閤様にくらぶれば重く候つると皆々雑談候処に長岡越中殿右には一言も無之無言して御入候て言葉には各はさ被思召候哉らん此越中においてはさは不存候と被申出候事

オープンアクセス NDLJP:73各さ候は〻越中殿御分別承度と被申候処にさらば我等存寄る通可申候大閤様の御時の御身上を只今の御所様にたくらへ候へは天と地と提灯と鐘にて候大閤様は播州一国一城に候西は大敵の輝元とか〻へ明智はおこり出候へは大閤は籠の内の鳥なり迚身上立間敷と見切かる羽を被使候事料簡無之国を打て被出候自然の仕合せにてこそ明智をは御討被成候籠城の無用意所は是は感し入候御所様は関八州の大将其うへ山に千年海に千年の武功の達者其上の家中に能き臣下共は沢山に有之其上金禄に御事をか〻れす奥意には同は我馳走国大名抔登りて治部少輔と立合よかなと可被思召候指登せ跡より打てのほり治部少輔と各様我らが国を一ツに御取可被成と可被思召あの御所様とは中々一合戦も罷成間敷只今は御知行被下候はんか国の一ツ宛も拝領可仕かと我も人も存候右の御意に任せ罷登候は〻我人只今は手と身迄に罷成命からの仕合に可罷成にケ様の祝は無御座候関ケ原へ登被成候事右に申如く大閤様よりは十増陪軽と御上り被成候と我等はケ様に存候奥意恐敷事は大閤様十陪増よりもこわき天下持と於我等はケ様に存候と残の大名衆一度とつと越中殿物一言も御無用にて越中殿にわりと被入被仰通承候へは各若輩成事を申さる物かなとて被感と聞申候事

長岡兵部太大殿(但幽斉の事)此家今迄相続候義は偏臣下松井佐渡守分別と承候其子細は信長公の御時津の国河内の国両国の内にて十二万石可被遣候但丹後一国は十二万石にと何れにても望の分を可遣と被仰渡候処同は津の国河内の内を以拝領可仕候乍去候返事は明日可申上とて御前を被罷出候宿へ罷帰り上様此の意に候とて摂津国河内国にて拝領可仕と有増申上候乍去望次第と御意候間如何可有と家中衆松井佐渡守有吉四郎右衛門米田次郎兵衛右三人に談合被仕候へは二人の者は丹後の遠国にて御座候摂津国河内は京着能御座候間二ケ国の内を以て御拝領候様にと申上候処松井佐渡守申様には御分別も申上候通一ツにて御座座と相見申候遠国の様にも御座候京着右の両国とは違可申候へど分別仕候に後天下と西との争ひ御座候は摂津の国河内の国弓矢のちまたにて可有御座候天下と東との争ひ御座候時は美濃尾張近江此二三ケ国の間にて以来迄も此所弓矢の岐に可罷成と古き者共申伝候只今存候摂津国河内の間にて十二万石迄にて天下へ付候共西へ付候共中々其日にはたか城に罷成其上十二万石の御知行所二三年の内亡所に可罷成候間只違国の丹波丹波は丹後歟を一図御拝領被成候へよ天下に何事御座候共五十日百日の間には世間静り候事を丹後国にてはゆると日よりを御覧可被成候是にては以来御家続可申候間御分別違に被成丹後を御拝領可被成事私へ御まかせ可被成候と達て申上候処にさらば佐渡守に任せしぞ迚丹後拝領ふり其後明智殿信長公を奉討候時摂津国河内は乱れ中にも摂津の国一両年亡所に罷成候と相聞へ申候は是は偏に佐渡守分別厚き故今迄も打続き殊に長岡の家今程は大名に相成候事臣下松井佐渡守故と相聞申候事

是は不入義にて御座候へ共書付申候信長記に無御座候事と相聞申候其子細は信長記有増作り立申信長殿御内内太田又助(後和泉守)いまだ若き故日帳を付不申先と承候永禄元年午の年但信長公廿五の御年年張一国やう御方付被成候乍去岐阜と伊勢抔と御せり合被成候へば尾張の内も時々は御せり合被成候時の事にて御座候浅倉殿は越前より天下の望み浅井殿は江州小谷より是も天下の望同国観音寺山佐々木浄貞抔は伊勢岐阜清須は信長殿三州遠州駿河此辺り殊に駿河は義元小田原には北条殿ケ様に方々我々御座候時節信長殿御妹子江州北の郡浅井備前守を御妹聟に被成候事浅井殿臣下磯伯耆守分別故とオープンアクセス NDLJP:74相聞へ申候浅井殿内にては右の伯耆守一大名にて御座候故世間にも相聞申程の者にて御座候たとへば正月頃大き成煩被仕出もはや伯耆守相果たる由東は北条家まで響申候処に煩大熱気傷寒故不慮に取直し申候其身は夢の覚たる様成心地仕此事何事も覚不申候が煩たるらんと申程に気付申候親内義達その義にて候殊の外大熱気にて御座候つるが扨は御覚候哉と申程の大切なる煩にて御座候つると被申候処に伯耆守心静に分別仕候に扨は我煩東へも響渡たるかとて心安き者共に物参り抔仕たる躰にもてなし東の海道筋を立開せ申其様子磯伯耆守果たるかなどかと有様子どこともなしに東は小田原迄聞屈罷帰れよと申付使ひ道に聞立候へば浅井殿内伯耆守は大やく病にて被果候と申所も御座候いや不慮に被生候於立願は日本の神々へ親二人の悲ひ故立願を以命乞被仕候と取沙汰仕候使罷戻候を伯者守能被聞届候事

伯耆守殿内々分別に天下と此織田三郎信長一度可被異見也是に御妹御座候由相聞なり備前守殿未内義無之方々より繰辺の義申候へと何卒分別し信長殿御兄弟に我君を仕度と存寄候へど道々敵にて候へは分別成立不申以煩扨は東へも相聞へたる処は慥なり国々へ使者を立手引候て見んとて道々城々へ道を乞被申様子は当春不慮に煩出誠に存命不定に候処に親二人是を悲ひ神々へ命乞被仕候故か不慮に助り申候東は伊豆箱根三島の明神富士のゆ山へ立願りけ被申候あはれ神慮へ対被成道の口をは救免いへかし則当年六月を心掛右の社参を遂申度と使者を被立候処に小田原迄の間の城主衆悉合点にて御煩の様子承届候扨は神々への御命乞に候哉神慮へ対仕通可申との小田原より江州迄の道の道の口を乞被請さらばとて其夏に美々敷体にて社参と名付被罷下候道々城々よりも無残馳走にて清須迄付被申候彼所にて霍乱仕出し候信長公御医者を頼申度と被申上候処に御道中には安き義にて候是に暫く逗留候て養生被仕よこて御馳走無残所被仰付五三日養生とて逗留被仕候有夜佐久間右衛門殿を窃によび寄談合子細御座候承候へば信長公御妹御座候と承候浅井備前守もいまだ内義無御座候間申請度と右衛門殿へ被申渡則御耳被御立候処に此間に敵多候に道をば何とか可被仕者に候哉其分別さへ慥に於有之は可進候左候はゝ直談可仕との御返事なりさらばとて窃に御対面候伯耆守申上子細は此度は先東へ可罷通候北条殿義元其外へ可申子細御座候道の口御赦免被成候故遂社参申候此上又御詫言申上度候女共を召連夫婦共に社参可仕との立願に御座候来年は夫婦共に可罷下と東の大名衆へ御詫言可申上候夫婦連に候はゞ猶以別条有間敷と道の口免し可被申候間其合点を能させ申頓て下向の時御談合可申とて翌日東へ通り四ケ所の宮々へ社参をとげ北条どの義元へ右の御礼申上同は来年夫婦連の被取下候様にと理被申候処に如案安き程の事に候神慮に対仕候上は御心安く来年夫婦連にて御社参候へと約束難く仕又清須にて霍乱気の由申出東は如此仕候来年女共召連可罷下候と東をば申極候私女共召連れ中間敷以乗物七丁下女はした者に至迄三十四五騎召連夫婦連とて可罷下候此女共入替申請可罷上候少も子細御座有間敷候信長被聞召屈さらば妹を御目に可掛とて伯耆守壱人被召連奥へ御入被成伯耆守見奉り目出度来年の御祝言相調可申と直談仕被罷上候事

夫より岐阜其外国々城々へ右の理下向の時被申候て安き御事に候来年は夫婦連にて御下候へ分国は随分御馳走可申とかた約東仕国へ被罷上候又来年六月頃右の調義仕乗物七丁内へ小侍従と申手書の上臈衆被召連夫を内義の様にもてなし国を被出候如案城下にては城主の裏方より音信文など参候彼小オープンアクセス NDLJP:75侍従物書故返事被仕候如其に道々被罷通東四ケ国の社参被仕清須迄被罷上御妹被申請七丁の上臈衆三十四五人の下女はしさ共人替信長公御自分上臈衆はしさもの以下に至迄御手廻り衆御妹子に被付伯耆守御供仕罷上下女迄清須に置申候事右に申候小侍従と申物書の女迄乗物に入申候其子細は又城々より文などの時右の手と不違様にの為なり浅井殿領分近成行候へば如此調義仕致御供罷上候間御家中の年寄其外不残境目迄御迎に可罷出と申上せ候故家中不残御迎に罷出其儀式無残処御輿を迎取御城へ直に奉入其日に目出度御祝言相治申候信長公より川崎と申侍商人抔の様に其身男ふりを作りなし少さ刀などもたい不仕御祝言見届清須へ罷下候事信長殿御喜悦不過之と御祝被成候事

江州より東は北条家迄伯耆守調義仕る通相聞扨々ケ様成る臣下も有者なりとてたまされたるとは不被申却てほめ被申と聞え申候其時節の取沙汰は右之通と聞へ申候中にも松永弾正どの是を被感と承り候只今の時分の人はいか〻被思召事御不存候其時節は右の如く伯耆をほめ申と相聞申候事

浅井殿後御謀叛故御成敗被成候御妹後家にて御座被成候柴田殿へ被遣候秀頼様御袋は浅井殿御息女にて御座候事

子年関ケ原御合戦散して頓て羽柴肥前守殿の御家中高山南の坊(但右近事なり)長九郎左衛門山崎長門守内藤徳庵此衆中は信長公時代の人にて御座候寄合雑談被仕たると聞え申候信長公天下へ被成御入と国の関々を御あけ被成往還を一篇に人の上下をゆると被仰付候事日本の国々の次第能御聞届被成六拾六ケ国可被治との御分別なり大閤様の御所様と御あつかひ澄申候時大閤様御分別には家康公と御中なとり被成候此上ははや日本は治ると思召高麗船唐船なとの着申九州にては長崎博多の津ほらの津ケ様成浦々唐船に乗申商人抔窃に御引付被成高麗唐御渡海の様子被聞召届候事は御所様と御中直り被成候とひとしくはや高麗御心懸と聞へ申候事

御所様関ケ原相治り大坂へ御座を被移候時羽柴肥前守殿被仰上候此様子は秀頼様へは遠国にて御国を被仰付大坂の城御いきほひに御請取可被成事可然と被仰上候へは御所様急度思召被出にはいや肥前守と能衆中内談有我胸の通りを被聞はやと思召寄肥前守殿への挨拶にはいや是は治部少輔仕出わざ也秀頼御幼少故無等閑候間只此儘無別条可奉置と御意被成候故其時別条無御坐候と聞へ申候御所様御分別の如く大名衆一両人の談合にて御所様御口振を引被見候後人々推量候肥前守殿口に付不被成御時候事偏に御分別厚して大く〻り時節を御覧被成候上手哉と右の四五人雑談と承候事

大閤様御死去三年先に小早川隆景遠行候時見置被申様我死後に毛利の悪事を可仕出者は安国寺甲斐守此両人毛利家の魔に可成かの事

是は不入義にて御座候へど遊撃大閤様の御弓矢を被取其上御分別厚く御座候事をほめ上ケ殊に江州長原に御知行御上候事大故後又播磨一国御拝領なとの事書物作り申候と取沙汰仕候遊撃は日本に久敷逗留不仕罷戻しかも船中にて煩付無程国にて相果と其時分取沙汰にて御座候間此書物は日本人作り申遊撃物しりゆへかつけ申候かと奉存候但し是は推量にて御座候さも御座候はん哉



川角太閤記終

 

 
オープンアクセス NDLJP:76

此の川角太閤記につきて愚父春村おのれ真頼にかたりけるやうは此の書は凡例にいへるが如くげにも実録と聞延たり但し巻一に此の上は毛利家より後詰可之とて(中畧)為加勢中川瀬兵衛高山右近長岡与一郎只今の三斎の事なり津の国塩川党備中へ陣用意可仕と被仰付云々とあるを見れば元和六年より後寛永中などに撰しものならむ細川三斎ぬしは元和五年十二月剃髪ありて三斎と号せられたればそれより己前ならぬこと此の文にて明らけしとかたられきこれにて此の書は元和六年より後の著作なること掲焉なりまた此の書をかはづの太閤記といへどこれは非なるべし其の故はおのれさきつ年元就記を得て一読したるに其のしるしざま此の書にいさ〻かも違はず恐らくは同人のしわざなるべしとおもひをりしに埀統大記の堀正意が伝を見るに云はく堀正意云云弟曰西川原角左衛門元就記と見延たり是によりておもひ知りぬ川角は西川原角左衛門の家名と通称とを採りたるものなることと然らばかはづの太閤記といへるは非にてかはかく太閤記といはむぞ是なるべき

 明治十年八月                          黒川真頼識

 同十一年九月以浅草文庫御本一校了



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本書請黒川氏蔵本而付刋

 明治十三年六月排印   出版兼校訂  東京京橋区西紺屋町九番地我自刊我書屋甫喜山景雄


              明治十三年八月十一日出版御届  著述人  不詳

              同年同月出版          出版人  甫喜山景雄
                               京橋区西紺屋町九番地

 

 

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