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川中島合戦評判

 

 
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川中島合戦評判
 

北越の勇将謙信、兵一万三千を擁して、深く信州川中島に到る。甲府の別堺・海津の城を観ひ、近地の高陽を占めて、厳しく西条山に拠る。海津の兵望み見て、羽檄を飛して、之を甲陽に告ぐ。信玄速に兵を発して、此におもむき、漲流を前にし、軍を雨宮の後に屯す。其意、姑く敵の帰路を遮つて、彼が変をるなり。故に越兵、進退窮るが如し。衆大に色を失ふ。将の意気独り自若たり。与に対塁して、相持する事五日。信玄広瀬を渉り、兵を海津に入る。なほ輝虎西条山に在り。晴信、馬場・山本に命じて謂つて曰、明日一戦に、必ず克たん事を欲す。其何の計をか作す事をはかる。道鬼対ひて曰、二万兵の内、一万二千を分つて、西条山に向け、味爽に奮戦して、雌雄を決せしめ、公自ら八千を率ゐて、鶏鳴に広瀬を越え、退くを待つて、之をみ撃つ時は、大に越軍を破つて、俘馘を得んといふ。晴信曰、善し、其の策に従はん。輝虎、煙気を西条山に望んで曰、晴信明日まさに戦はんとす。伏して其謀を察するに、二オープンアクセス NDLJP:243軍相分つて、必ず前後より挟み撃つべし。豈我れ這般の手段に随はんや。兵事は神密をたつとぶ。其の不意に出づるは、古将の良策なりといひて、躬ら甲を劒を持して、率然として軍を出す。永禄四年九月九日の亥の刻、逞兵一万三千を提げて、雨宮を渉り潜行、陰に乗じ、枚を街んで川中島に移る。越兵常に三日の熟食をなす。是を以て、行に望んで寂たり。故に彼の十隊、嘗て之を知らず。暗信も亦、道鬼が計に従つて、たゞに広瀬を超えて陣列を設く。少焉しばらくあつて日出で霧霽るれば、輝虎忽然として近前にあり。甲兵驚く。晴信、浦野をして候はしむ。看得し来つて曰、輝虎、兵衆を麾き、各々に分列して、既に犀川に赴き、交互して退くといふ。晴信の曰、嗚呼汝浦野、之を知らずや。是れ車懸なりといつて、俄然として備を改め、張翼して其武を進む。時に輝虎、甘糟をして、一千兵を属して固隊し、直江二千に将として、輜重を守らしめ、余衆一万の兵を二つに分ち、奇正相兼ねて、柿崎先駆たり。輝虎、二陣に進む。進んで義信の堅陣を破り、直に突戦して、晴信の麾下に迫る。即ち手自ら劒を執つて、晴信を撃つ事三刀。晴信机に坐して、敢て動かず、居ながら団扇を以て之を払ふ。原大隅、鎗を以て輝虎を突き外して驀直に之を打つ。両将、危機を蹈むと雖も、原が鎗、誤つて馬をつによつて、駿馬駭き逸して、輝虎逃れ去る。既に山県、柿崎を破り、穴山、柴田を追ひ、晴信未だ地を離れずと雖も、其余の九魁、悉く走り潰ゆ。典厩信繁・諸角豊後・山本・初鹿等、皆力戦して死し、晴信・義信共に疵を蒙る。既に敗亡に及ばんと欲す。素より西条山の十家、闇然として未だ曽て之を知らず。漸く鼓譟の響を怪しみ、忽ち鳥銃の声に駭いて、鞭を挙げて馳せ、径を争うて走る急に筑間を渉つて、叱咤して憤り、背より敵陣を襲うて、鏖戦して前む。是より戦を転じて、越を逐ふ急なり。越軍甲を棄てゝて撓乱し、兵を曳いて奔北す。然れども猶ほ直江・甘糟は崩れず。部を整へ曲を正して、徐々として退く。就中甘糟、犀川を隔てて、面前大敵に並び、三日馬を駐めて自如たり。且つ敗散の兵を聚め、意気揚々として還る。時俗其勇を嘆ぜずといふ事なし。

問うて曰、謙信、西条山を去れども、甲陽の先鋒、曽て之を知らず。川中島に出づれども、信玄の麾下、聊之を察せず。日出で霧霽れて、漸く之を知り、遽に驚いて、浦野をして見せしむといふ。故に世挙つて曰、此の役の失する所、晴信遠候なきを以て、大なる誤とし、十将覘衅怠るを以て、至つて闇しとす。宜なるかな。覘衅能く観察し、遠候能く覆索オープンアクセス NDLJP:244せば、越兵潜に西条山を去るを知り、敵謀既に川中島に麾く事を察せん。然らば則ち幄幬の決勝、節短き事を得て前軀後隊挟み撃つべし。猶ほ獺の魚を殴り、鶴の爵を殴る如くならん。是に於て窃に疑ふ。晴信其智なきに非ず、十将其才に乏しからず。而して此の如くなるは何ぞや。対へて曰く、内を知るは、間に如くはなく、疑を決するは、候に如くはなし。既に知り、既に決する時は、間・候施す所なし。晴信既に知決すと思へり。然れども輝虎の奇計、其上に出づ。故に知決大に違ふ。其兵一万三千は寡きに非ず。而るに今潜行の知り難き事陰の如し。誰か下計とせん。所謂形人而我無形ものなり。之に依つて之を論ずる時は、晴信、間・候なきを以て、誤とすべからず。未だ勝を知らずして知れりと思へるを以て誤とす。能く勝を知る時は、千里にして会戦すべし。豈に間・候を以て偏に恃まんや。敢て問ふ。能く勝を知るものは、間・候用ふるに足らざるか。対へて曰、用ひずといふには非ず。只偏に恃とする事なし。吾子面前まのあたり見ずや、晴信、浦野をして敵をうかゞはしむ。浦野見る所を以て之を告ぐ。此時晴信、能く知るを以て、敢て其の告ぐる所を信ぜず。却て是れ車懸たる事を知る。抑浦野が武功、人に知らる。直に見て達せず。而るを晴信、見ずして之を知るものは、能く即るものにあらずや。能く知る時は、間・候を恃まざること斯くの如し。知るものより言ふ時は、間・候は末なり。知らざるものより見る時は、間・候は本なり。知ると知らざると、霄壌懸隔す。問うて曰、知不知の隔つる事、此の如くなる時は、猶ほ且つ疑なきにあらず。晴信、初めは不知にして、謙信潜に川中島に出づることを知らず。後には知にして、能く車懸たることを知る。一日一戦の間、知不知、此の如くなるは何ぞや。対へて曰、智者の千慮にも、必ず一失あり。愚者の千慮にも、亦一得ありと。是れ広武君が言にあらずや。智愚得失の隔たることも、亦千里にして、偶〻得失を相兼ぬる時は、何ぞ怪まんや。問うて曰、知不知、得て聞えつべしや。対へて曰、孫武、五事を挙げて曰、知之者勝、不知者は不勝といひ、亡計を挙げて曰、吾以此知勝負矣云。或策之而知得失之計、作之而知動静之理、形之而知死生之地、角之而知有余不足之処といひ、不戦地戦日則左右前後不相救といふ。或は所以忠於軍者三といふは、不知を示すなり。知勝有五といふは、知を教ふるなり。或は百戦殆からずといふ時は、彼を知り、己を知るといひ、戦ふ毎に、必ず敗るといふ時は、彼を知らず、己を知オープンアクセス NDLJP:245らずといふ。皆是れ知不知の階梯なり。其極致、総べて勝可知不為といふの外、他理なき時は、豈余論あらんや。問うて曰、間を末なりといふ時は、我れ甚だ惑を懐く。孫子曰、三軍之事、莫於間、賞莫於間、事莫於間。非聖智用間、非仁義使間、非微妙間之実。微哉微哉、無間也。之れ間を以て本とするにあらずや。対へて曰、まことに間の事、至て神絶なり。容易に用ふべからず。予が前にいふものは、俗に所謂白浪の義にして、彼の用間中の論に異なり。怪むことなかれ。問うて曰く、我れ聞く、車懸といふは、衆を分つて二隊とし、互に進んで到る時は、幾囘にして、必ず我が麾下を以て、彼れが麾下に相迫り撃つといふ。其術如何。対へて曰く、此等は、皆俗の伝ふる所にして、兵を知るもののことにあらず。何となれば、一万兵を以て、奇正に分てば、一隊五千の占むるところ、其地幾許とかする。縦横広き事知りぬべし。然るに二隊相待つて、互に繰進む時は、遅滞にして、無法の制なり。夫れ車懸は、疾く進むを以て利とす。何すれぞ然らんや。問うて曰、車懸といふこと、信玄、初めて名付くるか、又古法なりや。対へて曰く、其名は、信玄初めて之をなづけ、其法は、謙信初めて之れを用ふ。然りといへども、古来車輪の陣法にして、二将素より相識るものなり。その法は、皆進むを以て利とす。猶ほ更陣論少からず。試みに孫武の車輪、神宗の車輪等の図説を考ふる時は、予が弁を待たじ。問うて曰く、世人みな車懸を以て、無二の法といひ、進むを以て利とする時は果して然りや。対へて曰く、然らず。無二とは、死を一向に定めて、幸生の二慮なきをいふ。いはゆる已を得ざれば、闘ふといふものなり。今直江をして、輜重を主らしむる時は、敢て必死といふべからず。何を以てか、無二といはん。問うて曰く、浦野帰り来りて、謙信の手段を告ぐ。信玄胆を破つて曰く、これ車懸なりといひて、俄然として備を改む。俗に之を箕手といふ。かくの如く彼れを知つて、己を改むる時は、決然として勝つの理あらん。而るに今勝たざるものは何ぞや。対へて曰く、之を改むるを以ての故に、信玄、薄氷を蹈むといへども、堅く戦地を離れず、かへつて謙信逃れ去る。若しこの時、此備なくんば、信玄潰乱して、千死を出づべからざること必せり。問うて曰く、両将の勝負如何。対へて曰く、謙信人を致すといへども、終に走る時は、勝つといふべからず。信玄、人に役せらるといへども、終に戦死を去らざる時は、負くといふオープンアクセス NDLJP:246べからず。互に均しく勝つといへども、やゝ差あり。二将勝たず負けずといふ時は、則ちその優劣もつて見つべし。

 
川中島合戦評判大尾
 
 

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