川中島五戦記
【 NDLJP:234】川中島五戦記
私曰、謙信と武田信玄と、川中島表にて大合戦は、以上五度なり。天文廿二年癸丑霜月廿八日、
一、川中島五箇度の合戦、先づ初めは天文廿二年霜月廿八日、川中島の下米宮合戦。是れ第一箇度なり。此年、謙信初めて上洛。是は去年天文廿一年五月に弾正少弼従五位下に任ぜし御礼なり。閏二月、景虎上洛、参内仕り候処、昇殿を免され、龍顔を拝し奉り、天盃を下さる。広橋権中納言国光に仰付けられ、御饗応を下され、勾当内侍に宣下され、禁中諸殿、残らず景虎拝見せられ、公方義藤公へも拝謁。同五月、景虎越後へ帰国の処に、其秋村上義清・高梨政【 NDLJP:235】頼を始め信州衆、武田信玄に仕負け、越後へ落ち来り、謙信を恃む故に、此合戦始る。十一月十九日より、景虎、信玄と対陣。廿七日まで迫合あり。廿七日に、景虎より、使者を信玄に遺し、明日決定の合戦と約束して、廿八日に、下米宮にて大合戦あり。信玄敗軍、謙信大利を得て、信玄方横田源助・武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・半菅善四郎・栗田讚岐守・染田三郎左衛門・帯兼刑部を始め、五千余を討取り、即ち此旨を京都へ言上。大館伊予守晴忠披露にて、公方義藤公へ註進。是れ初の川中島合戦なり。其翌年天文廿三年八月十日頃より、謙信、川中島へ出張、信玄と対陣。去年の合戦に
一、武田左馬助信繁を、村上義清討取るといふは虚説なり。謙信自身に、左馬助を打取り、犀川の岸涯にて、典厩を川へ切落されしを、越後方梅津宗三といふ兵、典厩の首を取るなり。此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸赤銅作、今に当家に相伝あり。異名を赤小豆粥と号すと云々。右天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮合戦は、第一度なり。此翌年、天文廿三年八月十八日の川中島合戦は、第二度目なり。此時謙信は、太刀にて切懸るを、信玄は、軍配団扇にて受けらるといふ説あり。信玄も、太刀にて勝負ありしや、謙信太刀に切込の痕あり。其時まのあたりに見たる甲州衆、又は越後方の兵共も、皆信玄は太刀にてありしと語る。軍配団【 NDLJP:236】扇の説、疑はしく不審。此合戦に、謙信方も、三千余討死。
一、第三度目の川中島合戦は、弘治二年三月廿五日夜なり。信玄は、一万二千の軍兵を、戸神山より廻して、謙信陣所西条山を攻めさせ、謙信は、勝負に構はず、川中島へ懸り、退く処を、信玄は、原町にて待受くべく、討取ると見え給ふ。謙信察して引違へ、夜半に筑摩川を渡りて、信玄旗本を懸破り、板垣駿河守信春・一条六郎忠光・小笠原若狭守長貞以下、数百人討取る。然る時甲州勢は、戸神山を夜陰に推して、春霞立覆ふ路に蹈迷ふ中に、川中島の鉄炮の音、鬨を聞取りて返し、川中島へ志し、筑摩川を越えて、越後勢の前後より挟攻に付き、謙信方、犀川の方へ引退く。信玄方追ひ来るを、上形家の車返といふ
一、第四度目の川中島合戦は、弘治三年八月なり。信玄と謙信と、十日余対陣。謙信頻に合戦を望むとも、信玄取合はず。同月廿六日に、上野原へ、信玄引取り給ふを、謙信追詰め合戦。初めの合戦には、謙信先手打負け、皆敗軍するを、斎藤下野守朝信隊にて受け止め、信玄方を咀止むる処へ、上杉方南雲治郎左衛門手勢にて、横鑓を入るゝ処へ、越後方二の先長尾政景、三千にて駈付け、信玄先手を切崩す所を、宇佐美駿河守定行二千にて、山手より、信玄旗本を突崩す。是により信玄総敗軍なり。
一、第五度終の川中島合戦は、永禄四年八月初に、謙信信州へ出張、西条山に陣を取られ候。西条山と筑摩川との間に、細道一筋之ある由。是れは貝津と下米宮の通路と雖も、越後勢西条山に陣を取居ゑ候故、此通路は切り候由。亦西条山の下に、赤坂と申す所之れあり。是は貝津の方へ出づる所と承り候。赤坂の下西条山の後より、水の流れ候を堰上げて、堀の如くに広く掘らせて、貝津勢を西条山を攻め候時、防ぐ便りに仕申す。此所の拵へ様、色々有之由なり。〈口伝。〉
一、信玄は、八月廿六日に、下米宮へ御着なされ候由。西条山の辺迄、甲州方陣を取り候由。越後方は、前後に敵を受けて居申候。謙信は、如何存ぜられ候か、夜軍の心懸とも致さるゝ由。色々様子共有之由承り及び候。
一、八月廿九日に、信玄、下米宮より、貝津城へ御移なり。【 NDLJP:237】
一、謙信は忍の者にて、敵陣近く行きて、敵の様子を見聞きて来るに、敵に知れぬ様に、帰るべき者を、兼ねて選びて、其道を教へて数多置き、何方へも召連れられ候。只今上杉家にて、夜盗組と申して、其後之ある故、信州にても、貝津・下米宮・川中島・桑原・大塚・原町辺、毎夜附け置かれ候処に、九月九日の夜に入りて、貝津辺の
一、川中島へ出でられ候跡に、貝津勢、西条山へ寄せ来る時の為めに、赤坂に居ゑ候は、村上殿・高梨・井上・須田・島津、是を大将にして、二千計り居候由。何れも信州衆なり。
伝曰、村上左衛門尉義清・高梨摂津守政頼・井上兵庫介清政・須田相模守親満・島津左京進隆久、〈法名月下斎、〉以上五隊なり。
一、謙信は、筑摩川を渡して間もなく、甲州方より、物見の士を、十七人御出しあるに出逢ひて、一人も帰さず討止め候由。此内に、山本道鬼も有㆑之由承り及び候。〈道鬼事、慥なる事にはなし。左様に申す者も之ありと。〉
伝曰、山本勘介入道道鬼は、六箇年前、弘治三年三月廿五夜の、川中島合戦に討死と云々。
一、川中島にて、先手左は斎藤下野守朝信、右は柿崎和泉守景家、二の
一、甲州方より出でたる物見の士を十七人、越後方にて、夜半に討止め候故に、越後勢川を渡して出でたるを、信玄も御存知無㆑之かと申候。其後も、物見を出され候へども、越後勢は、川中島にて、思ひ寄らざる所に居ゑ候故に、之をば見付け申さずして、只西条山の方に計り目を付け候故に、筑摩川辺に、本庄・色部二千計りにて控へ候を、夜の事にて候故に、人数も見切り難く、大勢と見候や、謙信の先手と心得申したる様子に有之由。夫も暁方にこそ見付け候へ。初めの程、越後勢川を渡したるは存ぜざるか。
一、十日の朝、未だ目の色の定かならぬ程の時、越後方、貝・太鼓を進めて、甲州の陣へ取懸り申候。甲州方は、思ひも寄らざる方より仕懸けられ、備を立直し申す間もこれ無く、取合ひ兼ね候由。然りと雖も、武功第一の武田勢に候故に、越後の先手の柿崎和泉守は、甲州方に追立てられ、筑摩川の方へ引立て候を、色部修理は、兼て存ずる所に候故、横合を入れ、甲州方を突返し、柿崎面目あらせたると申候。色部家来にても、手屋・小島・布施・田中などと申す【 NDLJP:239】者共も、此節は、一廉働き申し、又討死も多く有之由。謙信は、旗本の人数にて、甲州の旗本へ押上げて、働き申す処に、謙信は、甲州方の不意を討たれ申候故に、備立直り申さゞる所へ、謙信は、信玄と是非太刀打すべきと存ぜられて、取懸けられ候により、甲州方防戦すと雖も、遂に追立てられ候。犀川の方へ御引あるを、続いて越後勢追懸け申す由。此時越後方の旗本に、荒川伊豆守と申す者、如何仕候や、横合に信玄と立合ひて、二尺七寸の太刀を以て、信玄を討ち奉る。然れども甲州勢、信玄と伊豆守とが間へ、懸入り〳〵して、荒川は信玄を討ち奉らず候由。此時荒川、討死とも申候。又後度の軍に、討死とも申候。
伝曰、上杉家古老の士共の申伝は、川中島大合戦五箇度の内に、謙信乗込みて、直に信玄を二太刀迄切付け申され候。此度天下に隠れなき、実正明白なる事なり。五箇度の大合戦の内にては、天文廿三年八月十八日の合戦にて、御幣川へ乗込み、川中にて、謙信と信玄と、太刀打実正なり。此時上杉家の士共、謙信の供を致し、太刀打の砌に、其場にて働き候輦、後まで生残り、直の物語を、皆聞き候事なり。荒川和泉守が、信玄を切付け奉りたる事も、上杉家にて申伝へ候事なり。謙信と信玄太刀打は、天文廿三年八月十八日の事にて、荒川和泉守が、信玄を追懸け、信玄を太刀付け申すは、永禄四年九月十日の事か、分明ならざる事なり。太郎義信公は、信玄犀川へ御引の所に、越後方追懸け申すに付きて、越後勢の跡を御慕ひあり。之により後隊の中条梅坡〔〈斎一字脱カ〉〕は、取つて返して防ぎ戦ひ候へども、梅坡斎が勢、相色悪しく見え候処に、初め越後の先手柿崎が手、崩れ引き候を、色部横矢を入れ、柿崎を返し合させ候時、其場を引かず居候所へ、後隊の中条危きを見て、駈付け申すとも申候。又一説には、色部・柿崎手へ、横矢を入れ申す場と、梅坡〔〈斎一字脱カ〉〕が防戦の場は、程遠き事にて、中々色部駈付くる事は、あるまじくと申候。之に依つて、遊兵にて居候宇佐美駿河守が、備中条と一手になりて、防ぎ戦ふとも申候。是を謙信は、気遣に存ぜられて、返して義信を防がんと仕給ふ内に、如何有㆑之か、義信も御引入の由。
一、謙信、信玄を追棄てられ、後切の義信は返し合はされ候て後は、直江大和守・甘糟近江守・安田治部などと申す者の手にて、倉品と申す所迄追付き申候と、承り及び候。
一、武田勢を追付けて後に、越後勢、川中島にて休み居り、食物など出して、少し油断の様に見え候処に、太郎義信、七八百の人数にて、腰指なども取隠して、越後勢の油断して居候処【 NDLJP:240】へ、取懸け給ひ候故に、取合ひ兼ね、少々先手にて防戦候へども、備もしどろになり、多くは馬に乗後れて、引退き申候。然れども貝津の圧に居候者共、本庄弥次郎繁長・新発田尾張守長敦・色部修理亮長実・鮎川摂津守・下条薩摩守・大内駿河守、已上二千計りにて駈付けて、防戦候内に、謙信旗本より取つて返し働き、義信を広橋と申す所迄追付け申候由承り候。此時不意の事にて有之候故に、越後勢の討死は、数多有㆑之由。志田源四郎義時も、此時討死と承り及び候。越後方には、馬に乗後れたりと申候。越後方、甲州方を追返し候時、本庄弥次郎繁長は、重代の国俊の太刀を以て、敵の中に入りて、敵三人を討ち候へば、太刀の刃欠け候により、家来斎藤飛騨と申す者の太刀を取つて働き候由。本庄家来にも、此時小島・矢羽・木南・箸尾・中津川などと申す者共、手に合ひ申す由。本庄繁長も、手を負ひ候由。大川駿河守も討死仕候。義信剛将にて、父信玄にも勝り給ふ程の大将故、強く働き給ふを、宇佐美駿河守定行、手勢討にて横鑓を入れ、義信を突崩し候。是にて武田方敗軍と承り候。
一、謙信は、其後に犀川辺へ引きて、川を背にして、陣取られ候とも承り候。此時山吉孫次郎親章申すは、今夜貝津の敵不審く候間、犀川を御渡しある様にと申候へども、謙信、如何存ぜられ候や、川中島に、其夜は居られ候由。宇佐美駿河守手は、広瀬の渡に立つて、甲州方の夜討を待懸けたりと申候。
一、十一日の朝に、謙信は下米宮の渡り辺に備へて、西条山へ、直江大和守実綱、宇佐美駿河守を越えて、西条山の陣屋を焼払ひ候とも承り候。又謙信は、犀川辺に居て、直江・宇佐美と、甘糟近江守と、堀江隼人と申す者を越えて、焼払ひ候とも申候。其後謙信は、善光寺に二三日も逗留ありて、越国へ帰られ候由。
一、川中島にて一戦の時、信玄の御舎弟左馬頭殿を、謙信自身、長光の太刀を以て、討取られ候と申伝へ候。何れの合戦、何れの場所にてと申す事、知り申さず候。左馬頭信繁を、初度の戦の時に、筑摩川へ追込めて、馬上にて太刀打有之所に、左馬頭殿、謙信の太刀を請外して、左の股を打落され候て、御落馬の所を、越後勢続いて、
一、一説には、謙信、長刀にて働き有㆑之とも申候。是は波平行安の長刀にて、上杉家の重宝なり。
一、八月廿六日に、信玄、川中島へ出でて、九月十日まで小迫合、八度有㆑之と承り及び候。
一、謙信は、義信公に、後度の軍に仕付けられて、勿論取つて返して、広瀬といふ所迄、追討にせらる。此時武田義信の手柄、比類なき事なり。之を甲陽軍鑑の作者知らざるか、記し置かず。謙信も、若武者の義信に迷ひて、不覚を取り、一代の乙度なりと、後々まで、無念に口惜しがり申されつる由。是は謙信の、我油断故と申され候。本庄繁長・長尾藤景も、是を少し
一、近年世上にて、車県といふ
一、川中島合戦退口に、和田喜兵衛といふ侍を、謙信手討にせられたりといふ事、遂に上杉家にて聞かざる事なり。和田を手討にせられたるは、上州高崎の城下にての事なり。高崎は、昔は和田城といふなり。
一、右に記す第二度目、天文廿三年八月十八日の川中島合戦の時は、謙信と信玄と太刀打なり。第五度目永禄四年九月十日の川中島合戦の時は、信玄と、越後方荒川伊豆守詮治と太刀打。此時も、信玄手を負ひ給ふ。荒川伊豆をば、信玄方へ討取り給ふ。信玄剛き大将故、自【 NDLJP:242】身の働此の如し。
近年世間に出づる記録を見るに、上杉家にて、嘗て聞かざる事多し。川中島合戦を、公方義輝公へ註進の状あり。皆後人の偽作なり。但し天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮にて、合戦の次第を、京都大館伊予守方へ、書付越し申され候書状は、真の状にて、本紙京都に有㆑之。横田源助・武田大坊・板垣三郎・穴山主膳・半菅善四郎・栗田讚岐守・染田三郎左衛門・帯兼刑部、并に駿河今川よりの加勢朝比奈左京進・武田飛弾守を始め、五千余討取るとの文言なり。此書状は、慥なる本書なり。其外に、註進状は、皆偽と見え、信用なり難し。
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