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光厳院宸翰御置文

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原文

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定置 継体事

興仁親王俻儲貳之位先畢。必可受次第践祚之運。但不可有継嗣之儀〈若生男子者、須必入釋家、善學修佛教、護持王法、以之謝朕之遺恩矣〉、以直仁親王所俻將来継體也。子々孫々稟承、敢不可遺失。件親王人皆謂為法皇々子。不然、元是朕之胤子矣。去建武二年五月、未决胎内〈宣光門院〉之時、有春日大明神之告已降、偏依彼霊倦、所出生也。子細朕并母儀女院之外、他人所不識矣。先年興仁親王立太子之日、依未得天時、不顕斯事。今歸真實之理、深加商量所定置也。宛為徽安門院實所生、是以昭穆相協也。興仁親王登極之日、須必相續俻小陽之任、遂昇大統之位矣。朕晏駕之後、今上於直仁親王垂慈愛、猶朕之於親王、々々亦見今上、如見朕。天下政務并長講堂管領以下事、次第稟承、従今上迄于直仁親王、將来之相續、一如朕之遺訓矣。興仁親王一瞬之際計略、別所定置如左。

一、因幡国
一、法金剛院領〈加熱田社領〉

件國衙及院領等、一瞬之後必可返与直仁親王也。其間用意重載別帋賜之。凢夫須以孝悌守其身、以敬友終其身。亦於今上孝、敬順一如孝于朕。於臣者以前権大納言藤原朝臣〈經顕〉為重臣。先年以興仁親王欲俻太子之位之時、朕更有所思惟。而依藤原朝臣之言、遂成其事。是豈非親王之功臣乎。以斯理殊貽此命矣。若或順佞人之言、或懐奸邪之意、於今上乖敬順之義、於直仁親王忘敬友之志、雖毫釐違朕之遺訓者、罪於朕未有大焉、罪莫大於不孝。是以朕必以天眼照罸之。亦、
天照太神、八幡大菩薩、春日大明神及吾國鎮護諸天善神、惣三世諸佛、別曩祖後白川皇帝以来代々聖靈幽冥等、宜加治罸不可廻踵矣。凢継體之器者、國家之重任、社稷之管轄也。今所定、曾非好惡、非私曲。以有所観、遠貽斯言。後生必如金重、如石堅。而軽莫失朕意耳。

康永二年四月十三日〈詣長講堂、本願 皇帝真影之寶前、熟有祈請之旨、即時染筆記之〉太上天皇量仁[花押]

書き下し文

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定め置く 継体の事

興仁親王おきひとしんわう儲弐ちょじの位に備へをはんぬ。必ず次第に践祚せんその運を受くべし。但し継嗣の儀有るべからずし男子生まれれば、すべからく必ず釈家に入れ、く仏教を学修し、王法を護持し、これを以って朕の遺恩を謝すべし〉、直仁親王を以って将来の継体に備ふ所なり。子々孫々稟承ひんしょうし、敢へて遺失すべからず。くだんの親王を人皆法皇皇子たりとふ。しからず、元これ朕の胤子いんしなり。去る建武二年五月、未だ胎内宣光門院せんくわうもんゐんに決せざるの時、春日大明神の告すでに降る有りて、偏に霊倦れいけんり、出生する所なり。子細は朕並びに母儀女院のほか、他人のらざる所なり。先年興仁親王立太子の日、未だ天の時を得ざるに依って、の事をあらはさず。今真実の理に帰り、深く商量しゃうりゃうを加へ定め置く所なり。さなが徽安門院きあんもんゐんの実の所生と為す。是を以って昭穆せうぼく相協あひかなふなり。興仁親王登極の日、須らく必ず相続いで小陽の任に備へ、遂に大統の位に昇るべし。朕の晏駕あんがの後、今上直仁親王に於いて慈愛を垂るること、猶朕の親王に於けるがごとく、親王また今上を見ること、朕を見るがごとくせよ。天下の政務並びに長講堂管領以下の事、次第に稟承し、今上従り直仁親王にいたり、将来の相続、一に朕の遺訓のごとかれ。興仁親王一瞬の際の計略は、別に定め置く所左のごとし。

一、因幡国
一、法金剛院領〈熱田社領を加ふ〉

件の国衙並びに院領等、一瞬の後必ず直仁親王に返与すべきなり。其の間の用意重ねて別紙に載せ之を賜ふ。おほよれ須らく孝悌かうていを以って其の身を守り、敬友を以って其の身を終ふべし。亦今上に於ける孝は、敬順ひとへに朕に孝するがごとし。臣に於いては前権大納言藤原朝臣経顕つねあきを以って重臣と為す。先年興仁親王を以って太子の位に備へんと欲するの時、朕更に思惟する所有り。而して藤原朝臣の言に依り、遂に其の事を成す。是に親王の功臣に非ずや。斯の理を以って殊に此の命を貽す。若し或いは佞人ねいじんの言にしたがひ、或いは奸邪の意をいだき、今上に於いては敬順の義にそむき、直仁親王に於いては敬友の志を忘れ、毫釐がうりいへども朕の遺訓に違へば、罪朕に於いて未だ大有らず、罪不幸に於いて大なるし。是以って朕必ず天眼を以って之を照罸せん。亦、天照太神、八幡大菩薩、春日大明神及び吾が国鎮護諸天善神、惣じて三世諸仏、別して曩祖なうそ後白川皇帝以来代々の聖霊幽冥等、よろしく治罰を加へんことくびすを廻らすべからず。凡そ継体の器は、国家の重任、社稷しゃしょくの管轄なり。今定める所、かつて好悪に非ず、私曲に非ず。観る所有るを以って、遠く斯の言を貽す。後生必ず金のごとく重く、石のごとく堅し。而して軽んじて朕の意を失ふこと莫らんのみ。

康永二年四月十三日〈長講堂に詣で、本願皇帝真影の宝前に、つらつら祈請の旨有り、即時染筆して之を記す〉太上天皇量仁

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 

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