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信長公記

オープンアクセス NDLJP:上3 我自刊我書
太田和泉守著
信長公記

古書保存書屋


オープンアクセス NDLJP:上4

三墳五典八索九邱不限古今与中外記録撰
集草紙物語不問雅俗兼小大探奇闡秘綴断
拾零欲以久保于世永存于家庶幾乎有補於
昭代文化之万一焉雖然排字易圧校讐闕精
魯魚亥豕請同人訂之日本東京京橋区西紺
屋坊九号地我自刊我古書保存書屋主人識



信長公記目録
 

 
オープンアクセス NDLJP:上6首信長公記首(是は信長御入洛無以前の双紙なり)
信長公記首
太田和泉 綴之
 

首(一)
尾張国かみ下わかち之事
去程尾張国八郡也 上之郡四郡織田伊勢守諸将手に付進退して岩倉と云処に居城也 半国下郡四郡織田大和守下知に随へ上下川を隔清洲之城に武衛様置き大和守も城中に候て守立て也大和守内に三奉行在之、織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、此三人奉行人也弾正忠と申は尾張国端勝幡と云所に居城也 西厳サイガン月厳ゲツガン今の備後守舎弟与二郎殿孫三郎殿四郎二郎殿右衛門尉とて在之代々武篇之家也備後殿は取分器用の仁にて諸家中の能者被御知音御手に付られ或時備後守国中那古野へこさせられ丈夫に御要害被仰付嫡男織田吉法師殿に 一おとな林新五郎 二長平手中務丞 三〻青山与三右衛門四〻内藤勝介是らを相添御台所の事平手中務御不弁無限天王坊と申寺へ被成御登山那古野之城吉法師殿へ御譲候て熱田之並古渡と云所新城拵 備後守御居城也御台所賄山田弥右衛門也

首(二)
あづき坂合戦之事
八月上旬駿河衆三川之国正田原へ取出七段に人数を備候其折能三川の内あん城と云城熊田備後守かゝへられ候キ駿河の由原先懸にてあづき坂へ人数を出し候則備後守あん城より矢はぎへ懸出あづき抜にて備後殿御舎弟衆与二郎殿孫三郎殿四郎次郎殿初として既一戦に取結相戦其時よき働し衆 織田備後守 織田与二郎殿 織田孫三郎殿 織田四郎次郎殿 織田造酒丞是は鎗きすかふむられ 内藤勝介是はよき武者討とり高名 那古野弥五郎清洲衆にて候討死候也 下方左近 佐々隼人正 佐々孫介 中野又兵衛 赤川彦右衛門 神戸市左衛門 永田次郎右衛門 山口左馬助 三度四度かゝり合折しきて各手柄と云事無限前後きびしき様体是也爰にて那古野弥五郎ら頸は由原討取也是より駿河衆人数打納候也

オープンアクセス NDLJP:上7首(三)
吉法師殿御元服之事
吉法師殿十三の御歳林佐渡守平手中務青山与三右衛門内藤勝介御伴申古渡ノ御城にて御元服、織田三郎信長と進められ御酒宴御祝儀不斜

翌年 織田三郎信長 御武者始として平手中務丞其時の仕立くれなゐ筋のつきんはをり馬よろひ出立にて駿河より人数入置候三州之内吉良大浜へ御手遺所々放火候て其日は野陣を懸させられ次日那古野に至て御帰陣

首(四)
みのゝ国へ乱入し五千討死之事
去て備後殿は国中憑み勢をなされ一ケ月は美濃国へ御働又翌月は三川の国へ御出勢或時 九月三日尾張国中の人数を被成御憑美濃国へ御乱入在々所々放火候て 九月廿二日斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推詰焼払町口まで取寄既及晩日申刻御人数被引退諸手半分計引取候所へ山城道三曈と南へ向て切かゝり雖相支候多人数くづれ立の間守備事不叶 備後殿御舎弟織田与次郎 織田因幡守 織田主水カミ 青山与三右衛門 千秋紀伊守 毛利十郎 おとなの寺沢又は 舎弟毛利藤九郎 岩越喜三郎初として歴々五千計討死也

先年尾張国より濃州大柿の城へ 織田播磨守被入置候事

首(五)
景清あざ丸刀之事
去九月廿二日山城道三大合戦に打勝て申様に尾張の者はあしも腰も立間敷候間大柿を取詰此時可攻干之由にて近江くにより加勢を憑み 霜月上旬大柿の城近と取寄候へキ爰希異の事有 去九月廿二日大合戦の時千秋紀伊守景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり此刀陰山掃部助求さし候て西美濃大柿の並うしやの寺内とて在之成敗に参陣候て床木に腰をかけ居陣の処さんの悪き弓にて木ほうをもつて城中より虚空に人数備の中へくり懸候へは陰山掃部助左のまなこにあたる其矢を抜候へは又二の矢に右の眼を射つぶを其後此あざ丸惟住五郎左衛門所へ廻来 五郎左衛門眼病頻に相煩此刀所持の人は必目を煩之由風聞候熱田へまいらせられ可然と皆人毎に異見候依之熱田大明神へ進納候てより即時に目もよく罷成候也

首(六)
大柿之城へ後巻之事
霜月上旬 大柿の城近と取客斎藤山城道三攻寄の由注進切々也於其儀は可打立之由にて

霜月十七日 織田備後守殿後巻として又憑み勢をさせられ木曽川飛弾川大河舟渡しをこさせられ美濃国へ御乱入竹か鼻放火候てあかなべ口へ御働候て所に被烟候間道三致仰天虎口を甘井クツロケの口居城へ引入也か様に無程備後守軽と御発足御手柄無申計次第也

首(七)
上総総介形儀之事
霜月廿日此留守に尾州の内 清洲衆備後守殿古渡新城へ人数を出し町口放火候て御顔の色を立られ候如此候間備後守御帰陣也是より及鉾楯候へキ 平手中務丞 清洲のおとな衆 坂井大膳坂井甚助河尻与一とて在之此衆へ無事の異見数通候へとも平手扱不相調翌年秋の末互に屈睦して無事也其時平手大膳甚介河尻かたへ和睦珍重の由候て書札を遣其端書に古歌一首在之

 袖ひちて結ひし水のこほれるを春立けふの風や解らんと候へつるを覚候か様に平手中務は借染にも物毎に花奢成仁にて候へし去而 平手中務才覚にて 織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取結道三か息女尾州へ呼取候キ 然間何方も静論也信長十六七八まては別の御遊は無御座馬を朝夕御稽古又三月より九月まては川に入水練の御達者也其折節竹鎗にて扣合御覧し兎角鎗はみしかく候ては悪候はんと被仰候て三間柄三間々中柄なとにさせられ其比の御形儀明衣の袖をはつし半袴ひうち袋色余多付させられ御髪はちやせんにくれなゐ糸もゑき糸にて巻立ゆわせられ大刀朱ざやをさゝせられ悉朱武者にオープンアクセス NDLJP:上8被仰付 南川大介めしよせられ御弓御稽古橋本一巴師匠として鉄炮御稽古平田三位不断被召寄兵法御稽古御鷹野等也 爰見悪ヨコクキ事有町を御通の時人目をも無御憚くり柿不及申瓜をかふりくひになされ町中にて立なから餅を り人により懸り人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候其比は世間公道成折節にて候間大うつ気とより外に申さす候

去程に備後殿古渡フルワタリの城被成破却末盛と云所山城こしらへ御居城也

首(八)
犬山謀叛被企之事
正月十七日 上郡、犬山、楽田より人数を出しかすか井原をかけ通龍泉寺の下柏井口へ相働所に挙烟候即時に末盛より、備後殿御人数かけ付取合及一戦切崩し数十人討とりかそか井原を犬山がくでん衆逃くづれ候何者の云為哉覧 落書に云

 やりなはを引すりなからひろき野を遠はえしてぞにくる犬山、と書て所に立置候らひし備後殿御舎弟 織田孫三郎殿一段武篇者也 是は守山と云所に御居城候也

首(九)
備後守病死之事
備後守殿疫癘被御悩様々祈祷雖御療治候無御平愈 終 三月三日御年四十二と申に御遷化生死無常の世の習悲哉颯タル風来テハ而散万草之露タル雲色者陰満月去ル一院御建立号万松寺当寺の東堂桃厳トウガンと名付て銭施行をひかせられ国中の僧衆集て生便敷御吊也折節関東上下之会下僧達余多在之僧衆三百人計在之 三郎信長公 林平手青山内藤家老の衆御伴也 御舎弟勘十郎公家臣柴田権六佐久間大学佐久間次右衛門長谷川山田以下御供也

信長御焼香に御出其時信長公御仕立長つかの大刀わきさしを三五なわにてまかせられ髪はちやせんに巻立袴もめし候はて仏前へ御出有て抹香をくはつと御つかみ候て仏前へ投懸御帰 御舎弟勘十郎は折目高成肩灰袴めし候て有へき如くの御沙汰也 三郎信長公を例の大うつけよと執評判候し也其中に筑紫の客僧一人あれこそ国は持人よと申たる由也

末盛の城勘十郎公へ参り 柴田権六佐久間次右衛門此外歴相添御譲也

平手中務丞子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人在之総領の平手五郎右衛門能駿馬を所持候三郎信長公御所望候処にくふりを申某は武者を仕候間御免候へと申候て進上不申候信長公御遺恨不浅度々思食あたらせられ主従不和と成也 三郎信長公は上総介信長と自官に任せられ候也

去程に 平手中務丞上総介信長公実目に無御座様体をくやみ守立て無験候へは存命候ても無詮事と申候て腹を切相果候

首(十)
山城道三と信長御参会之事
四月下旬の事候斎藤山城道三富田の寺内正徳寺まて可罷出候間織田上総介殿も是まて御出候はゝ可為就着候対面有度之趣申越候此子細は此比上総介を偏執候て聟殿は大だわけにて候と道三前にて口々に申候キ左様に人々申候時はたわけにてはなく候とて山城連々申候キ見参候て善悪を見候はん為と聞へ候上総介公無御用捨被成御請木曽川飛弾川大河舟渡し打越御出候富田と申所は在家七百間在之富貴之所也大坂より代坊主を入置美濃尾張之判形を取候て免許の地也 斎藤山城道三存分には実目に無人之由取沙汰候間仰天させ候て笑はせ候はんとの巧にて古老の者七八百折目高成肩衣袴衣装公道成仕立にて正徳寺角堂の縁に並居させ其まへを上総介御通候様に搆て先山城道三は町末の小家に忍居て信長公の御出の様体を見申候其時信長の御仕立髪はちやせんに遊しもゑきの平打にてちやせんの髪を巻立ゆかたひちの袖をはづしのし付の大刀わきさし二ツなから長つかにみごなわにてまかせふとき苧なわオープンアクセス NDLJP:上9うてぬきにさせられ御腰のまはりには猿つかひの様に火爆袋ひようたん七ツ八ツ付させられ虎革豹草四ツかわりの半袴とめし御伴衆七八百甍を並健者スクヤカモノハシらかし三間々中柄の朱やり五百本計弓鉄砲五百挺もたせられ寄宿の寺へ御着にて屏風引廻シ

御ぐし折曲は一世の始にゆわせられ

何染被置候知人なきかちんの長袴めし

ちいさ刀是も人よ知らせす拵をかせられ候をさゝせられ御出立を御家中の衆見申候て去而は此比たわけを態御作候よと肝を消各次第に斟酌仕候也御堂へすると御出有て緑の御上り候の処に 春日丹後 堀田道空さし向はやく被成御出候と申候へとも知らぬ顔にて諸侍居なかれたる前をする 御通り候て緑の柱にもたれて御座候暫く候て屏風を推のけて道三被出候又是も知らぬかほにても座候を堀田道空さしより是そ山城殿にて御座候と申時であるかと被仰候て敷居より内へ御入候て道三に御礼ありて其まゝ御座敷に御直り候し也去て道空御湯付を上申候互に御盃参り道三に御対面無残所御仕合也附子をかみたる風情にて又やかて可参会と申罷立候也 廿町許御見送候其時美濃衆の鎗はみじかくこなたの鎗は長く扣立候て参らるゝを道三見申候て興をさましたる有様にて有無を申さす罷帰候途中あかなへと申所にて猪子兵介山城道三に申様は何と見申候ても上総介はたはけにて候と申候時道三申様にされは無念成事候山城か子共たわけか門外に馬を可繋事案の内にて候と計申候自今已後道三か前にてたわけ人と云事申人無之

首(十一)
三ノ山赤塚合戦之事
 天文弐十弐年癸丑四月十七日

織田上総介信長公 十九の御年の事候鳴海之城主山口左馬助子息九郎二郎廿年父子織田備後守殿被懸御目候処御遷化候へは無程企謀叛駿河衆を引入尾州之内へ乱入沙汰之限の次第也

鳴海之城には子息山口九郎二郎を入置

笠寺に取出要害を搆 かづら山岡部五郎兵衛三浦左馬助飯尾豊前守浅井小四郎五人在城也

中村の在所を拵父山口左馬助楯籠 か様に候処 四月十七日

織田上総介信長公 十九の御年人数八百計よて御発足中根村をかけ通小鳴海へ被移三の山へ御あかり候之処

御敵山口九郎二郎 廿の年 三の山の十五町東なるみより北亦坂の郷へはなるみより十五六町有九郎二郎人数千五百計にて赤塚へかけ出候 先手あし転清水又十郎柘植宗十郎中村与八郎萩原助十郎成田弥六成田助四郎芝山甚太郎中島又二郎祖父江久介横江孫八あら川又蔵 是らを先として赤塚へ移り候

上総介信長 三の山より此よしを御覧し則あか塚へ達人数よせられ候 御さき手あしかる衆 あら川与十郎あら川喜右衛門蜂屋般若介長谷川挨介内藤勝分青山藤六戸田宗二郎賀藤助丞 敵あひ五間六けん隔候時究竟之射手共互に矢をはなつ処あら川貞十郎見上の下を篦ふかに射られて落馬したる処をかかり来て敵かたへすねを取て引も有のし付のつかのかたを引も有又こなたよりかしらと簡躰引合其時与十郎さしたるのし付長さ一間ひろさは五六寸候つる由也さやのかたをこなたへ引終にのし付頸筒躰共に引勝也巳の刻より午の刻迄みたれあひて扣合ては退又まけしおとらしどかゝつては扣台鎗下にて 敵方討死 萩原助十郎中島又二郎祖父江久介横江係八水越助十郎あまり手近く候間頸は互に取オープンアクセス NDLJP:上10候はす

上総介信長公衆討死及三十騎也

あら川又蔵こなたへ生捕 一赤川平七敵かたへ生捕候し也入乱れて火花をちらし相戦四間五間をへたて折敷て数刻の戦に九郎二郎はうわやり也其比うわやり下鎗と云事有いつれもみしりかへしの事なれは互にたるみはなかりけり折立ての事にて馬共は皆敵陣へかけ入也是又少もちかひなくかへし進上候也いけとりもかへ也去て其日御帰陣候也

首(十二)
深田松葉両城手かはり之事
八月十五日に清洲より 坂井大膳坂井甚介河尻与一織田三位申談松葉の城へ懸入織田伊賀守人質を取同松葉の並に

深田と云所に織田右衛門尉居城是又押並て両城同前也人質を執堅御敵の色を立られ候

織田上総介信長御年十九の暮八月此由をきかせられ八月十六日払暁に那古野を御立なされ稲庭地の川端迄御出勢守山より織田孫三郎殿懸付させられ松葉口三本木口清洲口三方へ手分を仰付られいなばぢの川をこし上総介殿孫三郎殿一手に成海津口へ御かゝり候

清洲より三十町計踏出し海津と申村へ移り候

信長八月十六日辰刻東へ向てかゝり合数刻火花をちらし相戦孫三郎殿手前にて小姓立の赤瀬清六とて数度致武篇おほえの仁体争先坂井甚介に渡合散に暫相戦討死終に清洲衆切負片長

坂井甚介討死頸は (中条小一郎柴田権六)相討也 此外討死 坂井喜左衛門黒部源介野村 海老半兵衛乾丹波守山口勘兵衛堤伊予初として歴々五十騎計枕をならへて討死

松葉口廿町計取出惣搆を相拘被追入真島の大門崎つまりにて相支辰刻より午刻迄取合数刻之矢軍に手員数多出来無人に成引退所にて 赤林孫七土蔵弥介足立清六うたせ本城へ取入也

深田口之事三十町計ふみ出し三本木の町を相拘られ候要害無之所候之間即時に被追崩 伊東弥三郎小坂井久蔵初として究竟の侍三十余人討死依之深田の城松葉の城両城へ御人数被寄候降参申相渡清洲へ一手につほみ候 上総介信長是より清洲を推詰田畠薙せられ御取合初る也

首(十三)
簗田次右衛門御忠節之事
去程に武衛様の臣下に簗田弥次右工門とて一僕の人有面目巧にて知行過分に取大名になられ候子細は清洲に那古野弥五郎とて十六七若年の人数三百計持たる人あり色々歎き候て若衆かたの知音を仕り清洲を引わり上総介殿の御身方候て御知行御取候へと時々宥申家老の者共にも申きかせ耽欲尤と各同事候然間弥次右衛門上総介殿へ参御忠節可仕之趣内々申上に付て御満足不斜或時上総介殿御人清洲へ引入町を焼払生城に仕候信長も御馬を被寄候へとも城中堅固候間御人数被打納武衛様も城中に御座候然間透と御覧し可被乗取御巧之由申に付て清州の城外輪より城中を大事と用心迷惑せられ候

首(十四)
武衛様御生害之事
七月十二日 若武衛様御伴申究竟の若侍悉川狩に被罷出内には老者の仁躰鏡少相残誰〻在〻と指折見申坂井大膳河尻左馬丞織田三位談合を究今こそ能折節成と曈と四方より押寄御殿を取巻面広間の口にて何あみと申御同朋是は謡を能仕候仁にて候切て出働事無比類又はさまの森刑部丞兄弟切てまはり余多に手を負せ討死頸は 柴田角内二ツとる也 うらの口にては柘植宗花と申仁切て出無比類働也四方屋の上より弓之衆さし取引つめ散に射立られ不相叶御殿に火を懸御一門数十人歴々御腹めされ御上脂衆は堀へ飛入渡越たすかる人も有水におぼれ死ぬるも有哀成有様也若武衛様は川狩よオープンアクセス NDLJP:上11り直にゆかたひらのしたてにて信長を御憑み候て那古野へ御出すなはち弐百人扶持被仰付天王坊に置申され候主徒と申なから無筋目御謀叛思食たち仏天の無加護ケ様に浅猿数無下と御果し若公一人毛利十郎生捕に仕候て那古野へ送進上候し也御自滅と申なから天道恐敷次第也城中にて日夜武衛様へ用心機遺仕粉骨の族共も一旦雖我も人も小屋やかれ候て兵粮着之褻等に闕難儀之仕合にて候也

首(十五)
柴田権六中市場合戦之事
七月十八日 柴田権六清洲へ出勢 あしかる衆 安孫子右京亮藤江九蔵太田又助木村源五芝崎孫三山田七郎五郎此等として三王口にて取合追入られ乞食村にて相支不叶誓願寺前にて答候へ共終に町口大堀之内へ被追入 河尻左馬丞織田三位原殿雑賀殿切てかゝり二三間扣立候へとも敵之余は長くこなたの鎗はみしかくつき立られ雖然一足不去に討死の衆河尻左馬丞織田三位雑賀修理原殿八板 高北コウキタ古沢七郎左衛門浅野久蔵歴々三十騎計討死 武衛様の内 由宇喜一未若年十七八明衣のしたてにてみたれ入織田三位殿頸を取 武衛様逆心雖思食立一譜代相伝の主君を奉殺其四果忽歴然にて七日目と申に各討死天道恐敷事共也

首(十六)
村木ノ取出被攻之事
去程に駿河衆岡崎に在陣候て鴨原の山岡 搆攻干乗取岡崎より持つゝけ是を根城にして 小河之 水野金吾搆へ差向 村木と云所駿河より丈夫に取出を相搆駿河衆楯籠候 並寺本之城も人質出し駿河へ荷担仕御敵に罷成小河への通路取切候為御後巻織田上総介信長可為御発足之旨候併御敵清洲より定而御留守に那古野へ取懸町を放火させ候ては如何と思食信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ番手の人数を一勢乞に被遣候道三かたより 正月十八日那古野留守居として安東伊賀守大将にて人数千計田宮 甲山 安斎 熊沢 物取新五此等を相加見及様体日々注進候へと申付同事に 正月廿日尾州へ着越候へき后城那古野近所志賀田幡両郷に陣取をかせられ 廿日に陣取御見舞として信長御出安東伊賀に一礼被仰翌日御出陣候はん之処一長イチヲトナの林新五郎其弟美作守兄弟不足を申立林与力あくこの前田与十郎城へ罷退候御家老の衆いかゝ浮座候はんと申候へとも左候共不苦之由上総介被仰候て御働其日はものかはと云御馬にめし 正月廿一日あつたに御泊 廿二日以外大風候御渡海成間敷と水主檝取の者申上候昔の渡辺福島にて逆櫓争時の風も是程こそ候へらめ於是非ゼヒ可有御渡海之間舟を出し候へと無理に廿里計の所只半時計に御着岸其日は野陣を懸させられ直に小川へ御出水野下野守に御参会候て爰許様子能々きかせられ小川に御泊

※ 正月廿四日弘治二年也一正月廿四日払暁に出させられ駿河衆楯籠候村木の城へ取懸攻させられ北は節所手あき也東大手西搦手也南は大堀霞計かめ腹にほり上丈夫に搆い上総介信長南のかた攻にくき所を御請取候て御人数付られ若武者其子のほりツキ落されては又あかり手負死人不其数信長堀端に御座候て鉄炮にて狭間三ツ御請取之由被仰鉄炮取かへ放させられ上総介殿御下知なさるゝ問我もと攻上り塀へ取付つき崩し西搦手之口は織田孫三郎殿攻口是又攻よる也外丸一番に六鹿と云者乗入也東大手の方は水野金吾攻口也城中の者働事無比類働也難然透をあらせす攻させられ城内も手負死人次第に無人に成様に降参申候尤可被攻干事に候へとも手負死人塚を築其上既及薄暮候之間任佗言之旨水野金吾に被仰付信長序小性衆歴不知其員手負死人目も当られぬ有様也辰刻に取寄申の下刻迄攻させられ御存分に落去候訖御本陣へ御座候てそれもと御諚被成感涙を流させられ候也 翌日は寺本の城オープンアクセス NDLJP:上12へ御手遣麓を放火し是より那古野に至而御帰陣

正月廿六日安東伊賀守陣所へ信長御出候て今度之御礼被仰廿七日美濃衆帰陣 安藤伊賀守今度之御礼 ※ 憐ハ隣カ之趣難風渡海の様体村木攻られたる仕合慇に道三に一々物語申候処に山城申様にすさましき男憐にはいや成人にて候よと申たる由也

首(十七)
織田喜六郎殿事御生害
清洲の城守護代織田彦五郎殿とて在之領在之坂井大庁は小守護代也 坂井甚介河尻左馬丞織田三位歴〻討死にて大膳一人しては難抱之間此上は織田孫三郎殿を憑入の間力を添候て彦五郎殿と孫三郎殿両守護代に御成候へと懇望被申候之処坂井大膳好の如くとて表裏有間敷之旨七枚起請を大膳かたへつかはし相調候

四月十九日 守山の織田孫三郎殿清洲の城南矢蔵へ御移表向は如此にてないしんは信長と被仰談清洲宥取可被進の間尾州下郡四郡之内に於多井川とて大かたは此川を限て之事也 孫三郎殿へ渡し参らせられ候へと御約諾の抜公事也 此孫三郎殿と申は信長の伯父にて候川西川東と云は尾張半国之内下郡二郡二郡ツヽとの約束にて候也

四月廿日 坂井大膳御礼に南やくらへ御礼に参り候はゝ可被成御生害と人数を伏置被相待之処城中迄参り冷しきけしきとみて風とくり逃去候て直に駿河へ罷越今川義元を憑み在国也守護代織田彦五郎殿を推寄腹をきらせ清洲之城乗取上総介信長へ渡し被進孫三郎殿は那古野之城へ御移

其年の霜月廿六日不慮之仕合出来して孫三郎殿御迂化忽誓紙之御罸天道恐哉トな申らし候へき併上総介政御果報之故也

首(十八)
勘十郎殿林柴田御敵之事
六月廿六日 守山の城主織田孫十郎殿龍泉寺の下松川渡にて若侍共川狩に打入て居ます所を勘十郎殿御舎弟喜六郎殿馬一騎にて御通り候処を馬鹿者乗打を仕候と申候湖賀才蔵ト申者弓を追取矢を射懸候へは時刻到来して其矢にあたり馬上より落させ賜ふ孫十郎殿を初として川よりあかりて是を御覧すれは上総介殿御舎弟喜六郎殿也御歳の齢十五六にして御ハダエは白粉の如くたんくわのくちひる柔和のすかた容顔美麗人にすくれていつくしき共中々たとへにも難及御方様也各是を見てアツと消肝孫十郎は取物も不取敢居城守山の城へは無御出直に捨鞭を打て何く共なく迯去給ひ数ケ年御牢人難儀せられ候也則舎兄勘十郎殿此事聞食末盛の城より守山へ懸付町に火を懸生か城になされ

上総介信長も清洲より三里一騎かけに一時に懸させられ守山入口矢田川にても御馬の口を洗はせられ候処犬飼内蔵来り候て言上孫十郎は直に何く共知らす懸落候て城には誰も無御座候町は悉勘十郎殿放火なされ候と申上候爰にて信長御諚には我々の弟なとゝ云物か人をもめしつれ候はて一僕のもの〻如く馬一騎にて懸まいりし事沙汰の限比興成仕立也譬存生に候共向後御許容なされ間敷と被仰是より清洲へ御帰

去程に信長は朝夕御馬をせめさせられ候間今度も上下あらくめし候へともこたへ候て不苦候余仁の馬共は飼つめ候て常に乗事稀成に依て究竟の名馬とも三里の片道をさへ運かね息を仕候て途中にて山田治郎左衛門馬を初として横死候て迷惑せられ候

守山の城孫十郎殿年寄衆として相抱候楯籠人数角田新五高橋与四郎喜多野下野守坂井七郎左衛門坂井喜左衛門其子坂井孫平次岩崎丹羽源六者とも是等として相抱候勘十郎殿より柴田権六津々木敷人大将オープンアクセス NDLJP:上13として木ケ崎口をとり寄也上総介殿より飯尾近江守子息讚岐守其外諸勢丈夫に取まかせとり籠被置候一織田三郎五郎殿と申は信長公の御腹かはりの御舎兄也其外に安房守殿と申候て利口成人在上総介殿へ佐久間右衛門時に申上守山の城安房殿へ参らせられ候角田新五坂井喜左衛門惣別守山の両長也二人謀叛にて安房殿を引入守山殿になし申候今度の忠節に依て下飯田村屋斎軒分と申知行百石安房殿より佐久間右衛門に被下置也

去程に信長公の一おとな林佐渡守其弟林美作守柴田権六申合三人として勘十郎殿を守立候はんとて既及逆心の由風説執々也信長公何と思食たる事哉覧

五月廿六日に信長と安房殿と唯二人清洲より那古野の城林佐渡所へ御出候能仕合にて候間御腹めさせ候はんと弟の美作守申候を林佐渡守余におもはゆく存知候歟三代相恩の主君をおめと爰にて手に懸討可申事天道おそろしく候とても可被及御迷惑の間今は御腹めさせましきと申候て御命を助ケ信長を帰し申候一両日過候てより御敵の色を立林与力のあらこの城勢田と清洲の間をとり切御敵に成こめのゝ城大脇の城清須となこ屋の間に有是も林与力にて候間一味に御敵仕候

是は守山城中の事坂井喜左衛門子息孫平次を安房殿若衆にさせられ孫平次無双出頭にて候爰にて角田新五忠節を仕候へとも無程角田を蔑如になされ候事無念に存知守山城中塀棚損し候懸直し候と申候て普請半に土居の崩れたる所より人数を引入安房殿に御腹めさせ候て岩崎丹羽源六者共を引組城を堅固に相拘候ケ様に移かはり

織田孫十郎殿久牢籠なされ候を不便に思食御赦免候て守山の城孫十郎殿へ被下候後に河内長嶋にて討死候也

林兄弟か才覚にて御兄弟の御中不和となる也信長御台所入之御知行篠木三郷押領定而川際に取出を搆川東之御知行可相押候之間其以前に此方より御取出可被仰付之由にて八月廿二日お多井川をこし名塚と云所に御取出被仰付佐久間大学入をかれ候翌日廿三日雨降川之表十分に水出候其上御取出御普請無首尾以前と存知候歟柴田権六人数千計林美作勢衆七百計引卒して罷出候

 弘冶二年丙辰八月廿四日

信長も清洲より人数を被出川をこし先手あし軽に取合候柴田権六千計にていなふの村はつれの海道を西向にかゝり来林美作守は南田方より人数七百計にて北向に信長へ向て掛り来上総介殿は村はつれゟ六七段きり引しさり御人数備られ信長の御人数七百には不可過と申候東の藪際に御居陣也

八月廿四日午剋辰己へ向て先柴田権六かたへ向て過半かゝり給ふ散々に扣合山田治部左衛門討死頸は柴田権六取候て手を負候てのがれ候也佐々孫介其外究竟之者共うたれ信長の御前へ迯かゝり其時上総介殿御手前には織田勝左衛門織田造酒丞森三左衛門御鑓持の御中間衆四十計在之造酒丞三左衛門両人はきよす衆土田の大原とつき伏もみ合て頸を奪い処へ相かゝりに懸り合戦所に爰にて上総介殿大音声を上御怒なされ候を見申さすかに御内之者共候間御威光に恐れ立とゝまり終に迯崩れ候き此時造酒丞下人禅門と云者 かうべ平四郎を切倒し造酒丞に頸を御取候へと申候へはいくらも切倒し置候へと申され候て先を心かけ御通候つる 信長は南へ向て林美作口へかゝり給ふ処に黒田半平と林美作数剋切合半平左之手を打落され互に息を継居申候処へ上総介信長美作にかゝり合給ふ其時織田勝左衛門御小オープンアクセス NDLJP:上14人のぐちう杉若働よく候に依て後に杉左衛門になされ候信長林美作をつき臥頸をとらせられ被御無念両共以て追崩し去而手〻に馬を引寄候打乗て追付頸を取来其日清洲へ御帰陣翌日頸御実検候へは

林美作頸は 織田上総介信長討とり給ふ 録田助丞 津田左馬丞討とる 富野左京進 討とる 山口又次郎 木全六郎三郎討とる 橋本十蔵 佐久間大学討とる ツノ田新五 松浦亀介討とる 大脇虎蔵 かうべ平四郎

初として歴々頸数四百五十余有是より後は那古野末盛籠城也此両城之間へ節々推入町口まて焼払御手遣也信長之御袋様未盛之城に御舎弟勘十郎殿と御一所に御座候に依て村井長門島田所之助両人を清洲より末盛へ被召寄御袋様の御使として色々様々御侘言にて御故免なされ勘十郎殿柴田権六津々木蔵墨衣にて御袋様御同道にて於清洲御礼在之林佐渡守事是又被召出間敷事に候へとも先年御腹めさせ候刻を佐渡覚悟を以て申延候其子細を思食被出今度被成御宥免候也

首(十九)
三郎五郎殿御謀叛之事
上総介殿別服の御舎兄三郎五郎殿既御謀叛思食立美濃国と被仰合候様子は何時も御敵罷出候へは軽々と信長懸向はせられ候左様に候時彼三郎五郎殿御出陣候へは清洲町通を被成御通候必城に留主に被置候佐脇藤右衛門罷出馳走申候定て何もの如く可罷出候其時佐脇を生害させ付入に城を乗取相図之煙を可揚候則美濃衆川をこし近々と可懸向候三郎五郎殿も人数被出御身方之様にして及合戦候はゝ後切可被成と御巧にに仰合られ候美濃衆何よりうきと渡りいたりへ人数を誥候と注進有之爰にて信長御諚には去ては家中に謀叛有之と被思食佐脇城を一切不可出町人も物搆をよく城戸をさし堅信長御帰陣候迄人を不可入と仰られ候て懸出させられ御人数出候を三郎五郎殿きかせられ人数打ふるひ清洲へ御出陣也三郎五郎殿御出と申候へとも入立候はす謀叛聞え候かと御不審に思食急早々御帰美濃衆も引取候キ 信長も御帰陣候也

三郎五郎殿御敵の色を立させられ御取合半候御迷惑成時見次者は稀也ケ様に攻一仁に形成候へとも究竟の度々の覚の侍衆七八百覚を並御座候之間及御合戦一度も不覚無之

首(二十)
おとり御張行之事
 七月十八日おどりを御張行

赤鬼 平手内胸衆    一黒鬼 浅井備中守衆    一餓鬼 滝川左近衆

地蔵 織田太郎左衛門衆 弁慶に成候衆勝て器量成仁躰也

前野但馬守 弁慶    一伊東夫兵衛 弁慶    一市橋伝左衛門 弁慶

飯尾近江守 弁慶    一悦弥三郎 鷺になられ候一段似相申候也

上総介殿は天人の御仕立に御成候て小鼓を遊し女おとりを被成候

津島にては堀田道空庭にて一おとり遊しそれより清洲へ御帰也津鳥五ケ村の年寄共おとりの返しを仕候是又結搆無申計様躰也清洲へ至り候御前へめししかられ是はひようけたり又は似相たりなとゝそれそれあひとしほらしく一々御詞懸られ御国にて無冥加あをかせられ御茶を給候へと被下忝次第天の幸身を忘雖有皆感涙となかし被帰候キ

熱田より一里東鳴海の城山口左馬助被入置候是は武篇者才覚の仁也既企逆心駿河衆を引入ならひ大高の城沓懸の城両城も左馬助以調略乗取推並三金輪に三ケ所何方へも間は一里ツヽ也鳴海の城には駿河オープンアクセス NDLJP:上15より岡部五郎兵衛為城代楯籠大高の城沓懸の城番手の人数多太と入置此後程在て山口左馬助子息九郎次郎父子駿州へ呼寄忠節の褒美は無して無情親子共に腹をきらせ候

上総介信長尾張国半国者可為御進退事に候へとも河内一郡は二の江の坊主服部左京進押領して不属御手に智多郡は駿河より乱入し残て二郡の内も乱世の事候間慥に不随御手此式候間万御不如意千万也

首(廿一)
天沢長老物かたり之事
去程に天沢と申候て天台宗の能化在一切経を二篇読たる人にて候或時関東下の折節甲斐国にて武田信玄に一礼申候て罷通候へと奉行人申に付て御礼申候の処上かたはいつくそと先国を御尋にあり候尾張国の者と申上候郡を御尋候上総介殿居城清洲より五十町東春日原のはつれ味鏡アチマと云村天永寺と申寺中に居住の由申候信長の形儀をありのまゝ不残物語候へと被仰候問申上候朝毎に馬をのられ候又鉄炮御稽古師匠者橋本一巴にて候市川大介をめしよせ弓御稽古不断は平田三位と申もの近付をかせられ是も兵法にて候しけ御鷹野に成れ候と申候其外数寄は何か有と御尋候舞とこうた数寄にて候と申上候へは幸若大夫来候かと被仰候間清洲の町人に友開と申者細〻召よせまはせられ候敦盛を一番より外は御舞候はす候人間五十年下天の内をくらふれは夢幻の如く也是を口付て御舞候又小うたを数寄てうたはせられ候と申候へはいな物をすかれ候と信玄被仰候それはいか様の歌そと仰られ候死のふは一定しのひ草には何をしよそ一定かたりをこすよの 是にて御座候と申候へはちと其まねをせられ候へと信玄被仰候沙門の儀に候へは申たる事も無御座候問罷成難と申上候へは是非と被仰候問まねを仕候

首(廿二)
六人衆と云事
 鷹野の時は廿人鳥見の衆と申事被申付二里三里御先へ罷参候てあそこの村爰の在所に鷹有鶴有と一人鳥に付置一人は注進申事候又六人衆と云事定られ

   弓、三張の人数

  浅野又右衛門 太田又介 堀田孫七 以上

   鎗、三本人数

  伊藤清蔵 城戸小左衛門 堀田左内 以上

此衆は御手まはりに在之也

馬乗一人山口太郎兵衛と申者わらをあぶ付に仕候て鳥のまはりをそろりと乗まはし次第に近より信長は御鷹居給ひ鳥の見付候はぬ様に馬の影にひつ付てちかより候し時はしり出御鷹を被出向待と云事を定是には鍬をもたせ農人の様にまなびそら田をうたせ御鷹取付候てくみ合候を向待の者鳥を於さへ申候信長は達者候間度々おさへられ候と承及候信長の武者をしられ候事道理にて候よとぞふしをかみたる躰にて候間御いとまをと申候へはのほりにかならすと被仰龍立候つると天沢御雑談候つる御国の内へ義元引請られ候し間大事と御胸中に籠り候しと聞へ申候也

首(廿三)
鳴海之城へ御取出之事
鳴海の城南は黒末の川とて入海塩の差引城下迄在之東へ谷合打続西又深田也北より東へは山つゝき也城より廿町隔てたんけと云古屋しき有是を御取出にかまへられ

 水野帯刀 山口ゑびの丞 柘植玄蕃頭 真木与十郎 真木宗十郎 伴十左衛門尉

東に善照寺とて古跡在之御要害候て佐久間右衛門 舎弟左京助をかせられ南中島とて小村有御取出に被成 梶川平左衛門をかせられ

黒未入海の向に なるみ大だか 間を取切御取出二ケ所被仰付

オープンアクセス NDLJP:上16丸根山には 佐久間大学をかせられ

鷲津山には 織田玄蕃飯尾近江守父子入をかせられ候キ

首(廿四)
今川義元討死之事
 天文廿一年壬子五月十七日

今川義元沓懸へ参陣十八日夜に入大高の城へ兵粮入無助様に十九日朝塩の満干を勘かへ取出を可払之旨必定と相聞え候し由十八日夕日に及て佐久間大学織田玄蕃かたより御注進申上候処其夜の御はなし軍の行は努々無之色〻世間の御雑談迄にて既及深更之間帰宅候へと御暇被下家老の衆申様運の末には智慧の鏡も曇とは此節也と各嘲哢して被罷帰候如案夜明かたに佐久間大学織田玄蕃かたより早盤津山丸根山へ人数取かけ候由追〻御注進在之此時信長敦盛の舞を遊し候人間五十年下天の内をくらふれは夢幻の如く也一度生を得て滅せぬ者の有へきかとて螺ふけ具足よこせよと被仰御物具めされたちなから御食を参り御甲をめし候て御出陣被成其時の御伴には御小姓衆

 岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛弾守 賀藤弥三郎

是等主従六騎あつた迄三里一時にかけさせられ辰剋に源太夫殿宮のまへより東を御覧し候へは驚津丸根落去と覚しくて煙上り候此時馬上六騎雑兵弐百計也浜手より御出候へは程近く候へとも塩満さし入御馬の通ひ是なく熱出よりかみ道をもみにもんで懸させられ先たんけの御取出へ御出候て夫より善照寺佐久間居陣の取出へ御出有て御人数立られ勢衆揃させられ様躰御覧し

御敵今川義元は四万五千引卒しおけはさま山に人馬の休息在之

 天文廾一壬子五月十九日 午剋成亥に向て人数を備鷺津丸根攻落満足不可過之由にて謡を三番うたはせられたる由候今度家康は朱武者にて先懸をさせられ大高へ兵粮入鷲津丸根にて手を砕御辛労なされたるに依て人馬の休息大高に居陣也信長善照寺へ御出を見申 佐々隼人正千秋四郎二首人数三百計にて義元へ向て足軽に罷出候へは曈とかゝり来て鎗下にて千秋四郎佐々隼人正初として五十騎計討死し是を見て義元か戈先には天魔鬼神も不可タマル心地はよしと悦て緩々として謡とうたはせ陣を居られ候信長御覧して中嶋へ御移候はんと候つるを脇は深田の足入一騎打の道也無勢の様躰敵方よりさたかに相見候無勿躰の由家老の衆御馬の轡の引手に取付いて声々に申され候へともふり切て中島へ御移り候此時二千に不足御人数の由申候中島より又御人数被出候今度者無理にすかり付止申され候へとも爰にての御諚には各よく承候へあの武者宵に兵粮つかひて夜もすから来り大高へ兵粮入盤津丸根にて手を砕辛労してつかれたる武者也こなたは新手也其上莫小軍にシテ大敵運は在於天此語は不知哉懸らはひけしりそかは可引付於是非稠倒し可追崩事案の内也不分捕打捨軍に勝ぬれは此場へ乗たる者は家の面目末代の可為高名只励へしと御諚の処に

前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人

右の衆手々に頸を取持被参候右の趣一々被仰聞山際迄御人数被寄候処俄急雨ムラサメ石氷を投打様に敵のツラに打付る身方は後の方に降かゝる沓懸のタウ下の松の本に二かい三かゐの楠の木雨に東へ降倒るゝ余の事に熱田大明神の神軍かと申候也空晴るを御覧し信長鎗をおつ取て大音声を上てすはかゝれと被仰黒煙立て懸るを見て水をまくるか如く後口へくはつと崩れたり弓鎗鉄炮のほりさし物算を乱すに異なオープンアクセス NDLJP:上17らす今川義元の塗輿も捨てくつれ迯けり

 天文廿一年壬子五月十九日

 旗本は是也是へ懸れと御下知在未刻束へ向てかゝり給ふ初は三百騎計真丸になつて義元を囲み退けるか二三度四五度帰し合次第に無人に成て後には五十騎計に成たる也信長下立て若武者共に先を争つき伏つき倒しいらつたる若もの共乱れかゝつてしのきをけつり鍔をわり火花をちらし火焰をふらす雖然敵身方の武者色は相まきれす爰にて御馬廻御小姓衆歴々手負死人不知員 服部小平太義元にかゝりあひ膝の口きられ倒伏毛利新介義元を伐臥頸をとる是偏に先年於清洲の城武衛様を悉攻殺候の時御舎弟を一人生捕助ケ被申候其冥加忽来て義兀の頸をとり給ふと人々風聞候也運の尽たる験にやかけはさまと云所ははさまくてみ深田足入高みひきみ茂り節所と云事限なし深田へ迯入者は所をさらすはいづりまはるを若者とも追付二ツ三ツ宛手々に頸をとり持御前へ参り候頸は何れも清洲にて御実検と被仰出よしもとの頸を御覧し御満足不斜もと御出之道を御帰陣候也

山口左馬助同九郎二郎父子に信長公の御父織田備後守累年被懸御目鳴海在城不慮に御遷化候へは無程御厚恩を忘れ信長公へ敵対を含 今川義元へ為忠節居城鳴海へ引入智多郡属御手其上愛智郡へ推入笠寺と云所要害を搆岡部五郎兵衛かつら山浅井小四郎飯尾豊前三浦左馬助在城鳴海には子息九郎二郎入置笠寺の並中村之郷取出に搆山口左馬助居陣也如此重々忠節申之処に駿河へ左馬助九郎二郎両人被召寄御褒美は聊無之無情無下と生害させられ候世者雖及于澆季日月未堕于地 今川義元山口左馬助か在所へきたり鳴海にて四万五千の大軍を廉かしそれも不御用千が一の信長纔及二千人数に被扣立迯死に相果られ浅猿数仕合因果歴然善悪二ツの道理天道恐敷候し也 山田新右衛門と云者本国駿河之者也義元別て被懸御目候討死之由承候て馬を乗帰し討死マコトニ命者軽依于義云事此節也 二股の城主松井五八郎松井一門一党弐百人枕を並て討死也爰にて歴々其数討死候也

爰に河内二の江の坊主うぐゐらの服部左京助義元へ手合として武者舟千艘計海上は蛛の子をちらすか如く大高の下黒末川口迄乗入候へとも別の働なく乗帰しもとりさまに熱田の湊へ舟を寄遠浅の所より下立て町口へ火を懸候はんと仕候を町人共よせ付て曈と懸出数十人討取問無曲川内へ引取候キ

上総介信長は御馬の先に今川義元の餌をもたせられ御急なさるゝ程に日の内に清洲へ御出有て翌日頸御実検候し也頸数三千余あり然処義元のさゝれたる鞭ゆかけ持たる同朋下方九郎左衛門と申者生捕に仕進上候近比名誉仕し由にて御褒美御機嫌不斜

義元前後之始末申上類とも一々誰々と見知申名字を書付させられ彼同朋にはのし付之大刀わきさし被下其上十人之僧衆を御仕立にて義元之頸同朋に相添駿河へ送被遣候也清洲より廿町南須賀口熱田へ参り候海道に義元塚とて築せられ吊の為にとて千部経をよませ大卒都婆を立置候らひし今度分捕に義元不断さゝれたる秘蔵之名誉の左文字の刀めし上られ何ケ度もきらせられ信長不断さゝせられ候也御手柄無申計次第也

去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候降参申候間一命助被造大高城沓懸城池鯉鮒之城原鴫原シキハラ之城五ケ所同事退散也

首(廿五)
家康公岡崎の御城へ御引取之事
家康は岡崎之城へ楯籠候居城也

オープンアクセス NDLJP:上18翌年四月上旬三州梅ケ坪の城へ御手遣推詰麦苗薙せられ然て究竟の射手共罷出きひしく相文足軽合戦にて前野長兵衛討死候爰にて平井久右衛門よき矢を仕城中より褒美いたし矢を送り信長も御感なされ豹の皮の六うつほ蘆毛御馬被下面目至也野陣を懸させられ是より高橋郡御働端放火し推詰麦苗薙せられ爰にても矢軍有加治屋村焼払野陣を懸られ翌日いぼの城是又御手遣麦苗薙せられ直に矢久佐の城へ御手遣麦苗薙せられ御帰陣

上総介信長公の御舎舎弟勘十郎殿龍泉寺を城に被成御拵候上郡岩倉之織田伊勢守と被仰合信長の御台所入篠木三郷能知行にて候足を押領候はんとの御巧にて候勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とて在之御家中の覚の侍共は皆津々木に被付候に乗てオゴリ柴田権六を蔑如に持扱候柴田無念に存上総介殿へ又御謀叛思食立之由被申上候是より信長作病を御搆にて一切而へ無御出御兄弟之儀候間勘十郎殿御見舞可然と御袋様並柴田権六異見申に付て清洲へ御見舞に御出清洲北矢蔵天主次之間にて

 弘治四年戊午霜月二日

河尻青貝に被仰付後生害なされ候此忠節仕候に付て後に越前大国を柴田に被仰付候

首(廿六)
丹羽兵蔵御忠節之事
去程に上総介殿御上洛の儀俄に被仰出降伴衆八十人の御書立にて被成御上京城都奈良堺御見物にて公方光源院義照へ御礼被仰御在京候キ爰を晴成と拵大のし付に車を懸て御伴衆皆のし付にて候也清洲の那古野弥五郎内に丹羽兵蔵とてこさかしき者有都へ罷上候処人躰と覚しき衆首五六人上下卅人計上洛候志那の渡りにて彼衆乗候舟に同船仕候何くの者と尋られ三川の国の者にて候尾張の国を罷通候とて有随ウズイ成様躰にて候間機遣仕候て罷越候と申候へは上総かいそうも程有間敷候と申候如何にも人を忍ふ躰相見候詞のあや敷様躰不審に存知心を付彼等か泊あたりに宿を借こざかしきわらんべをちか付京にして湯入の衆にて候か誰にて候そと尋候へは三川の国の者にて候と申に付て心をゆるしわらんべ申様に湯入にてもなくて美濃国より大事の御使を読取上総介殿の討手に上候と申候人数は

   小池吉内 ヘイ美作 近松田面 宮川八右衛門 野木次左衛門

是等也夜るは伴の衆に粉れ近と引付様子を聞に公方の御覚悟さへ参り候て其宿の者に被仰付候はゝ鉄炮にて打候はんには何の子細有間敷と申候急候間無程夜に入京着候て二条たこ薬師の辺に宿を取夜中の事に候之間其家の門柱左右にけつりかけを仕候てそれより上総殿御宿を尋申候へは室町通上京うら辻に御座候由予尋あたり御門を扣候へは御番を被居置候田舎ゟ御使に罷上候火急の用事に候金盛か蜂屋に御目にかゝり候はんと申候両人罷出対面候て右の様子一々懇に申上候則御披露の処に 丹羽兵蔵を被召寄宿を見置たるかと御諚に二条たこ薬師辺へ一所に入申候家宅門口にけつり懸を仕候て置申候間まかひ申間敷と言上候夫より御談合夜も明候右の美濃衆金森存知の衆候間早朝に彼私宅へ罷越候へと被仰付候 丹羽兵蔵をめし列彼宿のうち屋へつつと入皆に対面候て夕ア貴方共上洛の事上総介殿も存知候之間去て参候信長へ御礼被申候へと金森申候令存知の由候つる色をかへ仰天限なし翌日美濃衆小川表へあかり候信長も裁売より小川表御見物として御出候爰にて注対面候て御詞を懸られ候汝等を上総介か討手にのぼりたるとな若輩の奴原か進退にて信長を躵事蟷螂か斧と哉覧不実乍去爰にて可仕候哉と被仰懸候へは六人の衆難儀の仕合也京童二様に褒貶也大将の詞には不似相と申者も在オープンアクセス NDLJP:上19亦若き人には似相たると申者も候へキ五三日過候て 上総介殿守山迄御下翌日雖雨降候払暁に御立候てあひ谷よりはつふ峠越清洲迄廿七里其日の寅刻に清洲へ御参着也

首(廿七)
蛇かゑ之事
爰希異の事有尾州国中清洲より五十町東佐々蔵人佐居城比良の城の東北南へ長き大堤在之内西にあまか池とておそろしきジヤ池と申伝たるいけ有又堤より外東は三十町計へはとしたるヨシ原也

正月中旬安食村福徳の郷又左衛門と申者雨の降たる暮かたに堤を罷通候処ふとさは一かひ程も有へき黒き物同躰はに堤に候て首は堤をこし候て漸あまり池へ望み候人音を聞て首を上候つらは鹿のつらの如く也眼は星の如く光りかゝやく舌を出したるは紅の如くよて手をひらきたる如く也眼と舌との光りたる是を見て身の毛よだちおそろしさのまゝあとへ迯去候キ比良より大野木へまいり候て宿へ罷帰此由人に語る程に無隠 上総介殿被及聞召

 正月下旬彼又左衛門をめしよせられ直に被成御尋翌日蛇がへと被仰出比良の郷大野木村高田五郷安食村味鏡村百姓共水かへつるべ鋤鍬持より候へと被仰出数百挺の釣瓶を立ならへあまか池四方より立渡り二時計かへさせられ候へとも池の内水七分計に成て何とかへ候へとも同篇也然処信長水中へ入蛇を可有御覧之由にて御脇指を御口にくわへられ池へ御入候て暫が程候てあかり給ふ中蛇と覚しき物は候はす左衛門と申候てよく水に鍛錬したる者是又入候て見よとて御跡へ入見申候中無御座候然間是より信長清洲へ帰り給ふ也

去程に身のひゑたる危事有子細は其比佐々蔵佐 信長へ逆心之由風説在之依之此時は無正躰相煩候由にて不罷出定て信長小城には当城程之よき城なしと風聞候間此次てに御一覧候はんと被仰いて腹を御きらせ候はんと被存知候処家子郎党長に井口太郎左衛門と申者在之於其儀は可被任置候信長を果し可や候如何となれは城を御覧し被成度と井口に可有御尋候其時我々申様に是に舟御座候の間めされ候て先かけりを御覧し候て可然と可申候尤と御説候て御舟にめされ候時我々こしたかにはし折わきさしを投出し小者に渡し舟を漕出し可申候定て御小姓衆計めし候歟たとへは五人三人御年寄衆めし候共つがひを見申候てふところに小脇指をかくしをき信長様を引よせたゝみかけてつきころしくんて川へ入参らせ候間可御心安候と申合たる由承候信長公御運のつよき御人にてあまか池より直に御蹄也惣別大将は万事に御心を付られ御由断有ましき御事にて候う也

首(廿八)
火起請御取候事
尾張国海東郡大屋と云里に織田造酒正家来甚兵衛と云庄屋候らひしならひ村一色と云所に左分と云者在之両人別て知音之間也或時大屋之甚兵衛十二月中旬御年貢勘定に清洲へ罷上候留守に一色村之左介甚兵衛宿へ夜討に入候女房おき合左介としがみ合刀のさやを取上候此事清洲へ申上双方公方へ言上也一色村之左介は当権 信長公之乳弟池田勝三郎被官也火起請に成候て三正社のまへにて奉行衆公事相手双方より検使を被出爰に天道恐敷事有子細は左介火起謂取損し候共其比池田勝三郎衆募権威候之間奪取成敗させ間数催にて候折節上総介信長御鷹野御帰に被成御立寄御覧し何事に弓鏈道具にて人多く候哉と被仰双方之様子きかせられ早此有様一々御覧候て信長御機色かはり火起請候趣きこしめされ何程にかねをあかめてとらせたるそ元の如くかねを焼候御覧候はんと被仰かねよくあかめ申候て如此にしてとらせ申候の由言上候其時上総介殿御諚には我々火起請とりすまし候はゝ佐介を可被成御成敗之間其分心得候へと御意候て焼たる横𨨞ヨキを後手之上に請られ三足御運候て棚に被置是を見申たるかと上オープンアクセス NDLJP:上20意候て左介を誅戮させられすさましき様躰也

首(廿九)
土岐頼芸公之事
斎藤山城道三は元来山城国西岡の松波と云者也一年下国 候て美濃国 長井藤左衛門を憑み扶持を請余力をも付られ候折節無情主の頸を切長井新九郎と名乗一族同名共発野心取合半之刻土岐頼芸公大桑に御在城候を長井新九郎奉憑候之処無別条御荷担候其故を以て達存分其後土岐殿御子息次郎殿八郎殿とて御兄弟在之忝も次郎殿を聟に取宥申毒飼ドクガイを仕奉殺其娘を又御ムシロ直しにをかせられ候へと無理に進上申候ヌシ者稲葉山に居申土岐次郎殿をは山下に置申五三日一度ツヽ参り御縁に 御鷹野へ出御も無用御馬なとめし候事是又無勿躰候と申つめ籠の如くに仕候間雨夜之紛に忍出御馬にて尾州を心かけ御出候処追懸御腹めさせ候

父土岐頼芸公大桑に御座候を家老之者共に属託をとらせ大桑を追出し候それより土岐殿は尾州へ御出候て信長之父の織田弾正忠を憑みなされ候爰にて何者の云為哉落書に云「主をきり聟をころすは身のおはりむかしはおさたいまは山しろ」と侍り七まかり百曲に立置候らひし蒙恩不恩、樹鳥似枝、山城道三は小科の輩をも牛裂にし或釜を居置其女房や親兄弟に火をたかせ人を煎殺し事冷敷成敗也山城子息一男新九郎二男孫四郎三男喜平次兄弟三人在之父子四人共に稲葉山に居城也惣別人之総領たる者は必しも心か緩として隠当成物候道三は智慧の鏡も曇り新九郎は耄者と計心得て弟二人を利口の者哉と崇敬して三男春平次を一色右兵衛大輔になし乍居官を進められケ様に候間第共勝に乗て奢蔑如に持扱候新九郎外見無念に存知 十月十三日より搆作病奥へ引入平臥候へキ箱月廿二日山城道三山下の私宅へ下られ候爰にて伯父の長井隼人正を使にて弟二人のかたへ申遣趣既急病時を期事に候対面候て一言申度事候入来候へかしと申送候長井隼人正巧を廻し異見申処に同心にて則二人の弟共新九郎所へ罷来也長井隼人正次の間に刀を置是を見て兄弟の者も同如く次の間に刀とをく奥の間へ入也態盃をと候て振舞を出し日根野備中名誉の物切のふと刀御手棒兼常抜持上座に候へつる孫四郎を切臥又右兵衛大輔を切殺し年来の開愁眉則山下に在之山城道三かたへ右趣申遣処致仰天消肝無限爰にて螺を立人数を寄四方町末より火をかけ悉放火し井口を生か城になし奈賀良の川を越山県と云山中へ引退明る年四月十八日鶴山へ取上国中を見下し居陣也信長も道三聟にて候間為手合木曽川飛弾川舟渡大河打越大良の戸島東蔵坊搆に至て御在陣銭亀爰もかしこも銭を布たる如く也

首(三十)
山城道三討死之事
四月廿日辰剋成亥へ向て新九郎義龍人数を出し候道三も鶴山をおり下り奈加良川端迄人数を被出候一番合戦に竹腰道塵六百計真丸成て中の渡りを打越山城道三の幡元へ切かゝり散々に入みたれ相戦終に竹腰道塵合戦に切負山城道三御腰を討とり床木に腰を懸ほろをゆすり満足候処二番鑓に新九郎義龍多人数瞳と川を越互に人数立備候 義龍備の中より武者一騎長屋甚右衛門と云者進懸る又山城人数の内より柴田角内と云者唯一騎進出長屋に渡し合真中にて相戦勝負を决し柴田角内晴かましき高名也双方よりかゝり合入乱れ火花とちらし相戦しの木をけつり鍔をわり爰かしこにて思ひの働在長井忠左衛門道三に渡し合打太刀を推上むすと懐付山城を生捕に仕らんと云所へあら武者の小真木源太走来山城かスネを薙臥頸をとる忠左衛門者後の証拠の為にとて山城か鼻をそひで退にけり合戦に討勝て頸実検の所へ道三か頸持来此時身より出せる罪成と得道をこそしたりけり是より後新九郎はんかと名乗古事在昔唐にはんかと云者親の頭を切夫煮父の顔を切てナル孝と也

オープンアクセス NDLJP:上21首(卅一)
信長太良より御帰陣之事
今の新九郎義龍は不孝重罪恥辱と成也軍終頸実検して信長御陣所大良口へ人数を出し候則大良より三十町計懸出および河原にて取合足軽合戦候て

山口取手介 討死  土方喜三郎 討死 森三左衛門 千石又一に渡し合馬上にて切合三左衛門䏿の口きられ引退

山城も合戦に切負討死の由候間大良頃本陣迄引入也爰にて大河隔事候間雑人牛馬悉退させられ殿は信長させらるへき山にて惣人数こさせられ上総介殿めし候御舟一艘残し置おの打越は処馬武者少〻川はたまて懸来候其時信長鉄炮をうたせられ是ゟ近とは不参去て御舟にめされ御こし也然処尾張国半国の主織田伊勢守濃州の義龍と申合御敵の色を立信長の舘清洲の近所下の郷と云村放火の由追々注進在之御無念に思食直に岩倉口へ御手遣候て岩倉近辺の知行所焼払其日御人数御引如此候間下郡半国も過半御敵に成也

清洲の並三十町隔おり津の郷に正眼寺とて会下寺有可然搆之地也上郡岩倉より取出に可仕之由風説在之依之清洲之町人共かり出し正眼寺之数を切払候はん之由にて御人数被出候へは町人共かすへ見申候へは馬上八十三騎ならては無御座候と申候御敵方より人数を出したん原野に三千計備候其時信長かけまはし町人共に竹やりをもたせ御後をくろめさせられ候て足軽を出しあひしらひ給ふ去て互に御人数被打納ケ様に取合半之内

首(卅二)
武衛様ト吉良殿ト御参会之事
四月上旬三川国吉良殿と 武衛様御無事御参会之扱駿河より吉良殿を取持相調候て武衛様御伴上総介殿御出陣三州之内於上野原互人数立備其間一町五段には過へからす不及申一方には武衛様一方には吉良殿床木に腰をかけ御位のあらそいと相聞十足計宛双方より真中へ被運出別の御品も無御座又御本座に御直り候也去てそれより御人数御引取候也

武衛様国主と崇申され清洲の城渡し進せられ信長は北屋敷へ御隠居候し也

首(卅三)
吉良石橋武衛三人御国追出之事
尾張国端海手へ付て石橋殿御座所服部左京助駿河衆を海上より引入吉良石橋武衛被仰談御謀叛半之刻家臣之内より漏聞則御両三人御国追出申され候し也

首(卅四)
浮野合戦之事
七月十二日 清洲より岩倉へは三十町に不可過此表節所たるに依て三里上岩倉の後へまはり足場の能方より浮野と云所に御人数被備足軽かけられ候へは三千計うきと罷出相支候

七月十二日午剋辰己へ向て切かゝり数剋相戦追崩し爰に浅野ト云村に林弥七郎と申者無隠弓達者之仁躰也弓を持罷退候処へ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合連々の知音たるに依て林弥七郎一巴に詞をかけ候たすけましきと被申候心得候と申候てあいかの四寸計在之根をしすけたる矢をはめて立かへり候て脇の下へふかと射立候もとより一巴も二ツ玉をこみ人たるつゝをさしあてゝはなし候へは倒臥けり然る処を信長の御小姓衆佐脇藤八走懸り林か頸をうたんとする処を乍居大刀を抜持佐脇藤八か左の肘を小手くはへに打落すかゝり向て終に頸を取林弥七郎弓と太刀との働無比類仕立也去て其日清洲へ御人数被打納翌日頸御実検究竟之侍頸かす千弐百五十余有

首(卅五)
岩倉落城之事
或時岩倉を推詰町を放火し生か城になされ四方し〻垣二重三重丈夫に仰付られ廻番を堅二三ケ月近陣にとりより火矢鉄炮を射入様々攻させられ越訴難拘に付て渡し進上候てちり罷退其後岩倉之城磁却させられ候て清洲に至て御居城候也

オープンアクセス NDLJP:上22首(卅六)
もりべ合戦之事
五月十三日 木曽川飛弾川之大河舟渡し三つこさせられ西美濃へ御働其日はかち村に御陣取翌日十四日雖雨降候御敵洲の股より長井甲斐守日比野下野守大将として森辺口へ人数を出候信長与天所之由御諚候てにれまたの川を越かけ向はせられ合戦に取むすひ鑓を打合数刻相戦鑓下にて長井甲斐守日比野下野初として百七十余人討せられ爰に哀成事有一年近江猿楽漫州へ参候其内に若衆二人候へつる一人は甲斐守一人は下野止置候へひし今度二人なから手と手を取合主従枕をならへ討死候

 長井甲斐守 津嶋服部平左工門討とる   日比野下野守津嶋恒河久蔵討とる

 神戸将監  津嶋河村久五郎討とる    頸二ツ 前田又左衛門討とる

二ツ之内一人は日比野下野余力足立六兵衛と云者也是は美濃国にて推出して頸取足立と云者也下野と一所に討死候也

此比蒙御勘気前田又左衛門出頭無之義元合戦にも朝合戦に頸一ツ惣崩に頸二ツ取進上候へとも被召出候はす候つる此度前田又左衛門御赦免也

首(卅七)
十四条合戦之事
永禄四年辛酉五月上旬木曽川飛弾川大河打越西美濃へ御乱入在々所々放火にて其後洲股御要害丈夫に被仰付随居陣候之処五月廿三日井口より惣人数を出し十四条と云村に御敵人数を備候則洲股より懸付足軽共取合朝合戦に御身方瑞雲庵おとゝうたれ引退此競に御敵北かるみ迄とり出西向に備候信長懸まはし御覧し西かるみ村へ御移候て古宮の前に東向にさし向き人数備られ足軽懸引候て既に夜に入御敵真木村牛介先を仕かゝり来候を追立稲葉又右衛門を池田勝三郎佐々内蔵佐両人としてあひ討に討とる也夜合戦に罷成片はつき負逃去者も有又一方はつき立てかゝる者もあり敵陣夜の間に引取候也

信長は夜の明るまて御居陣也廿四日朝洲股へ御帰城也洲股御引払被成

首(卅八)
お久地惣搆破之事
六月下旬於久地へ御手造御小姓衆先懸にて惣搆をもみ破り推入て散に数刻相戦十人計手負在之上総介殿御若衆にまいられ候若室長門かうかみをつかれて討死也無隠器用之仁也信長御惜大方ならす

首(卅九)
二宮山御こしあるべき之事
上総介信長寄特成御巧在之清洲と云所は国中真中にて富貴之地也或時御内衆悉被召列山中高山二の宮山へ御あかり被成此山にて御要害被仰付候はんと上意にて皆々家宅引越候へと御諚候て爰の嶺かしこの谷合を誰々こしらへ候へと御屋敷被下其日御帰又急御出有て弥右之趣御諚候此山中へ清洲の家宅可引越事難儀之仕合成と上下迷惑大形ならす左候処後に小牧山へ御越候はんと被仰出候小真木山へはふもとまて川つゝきにて資財雑具取候に自由之地にて候也曈と悦て罷越候し也是も始より被仰出候はゝ爰も迷惑可為同前小真木山並御敵城お久地と申候て廿町計隔て在之御要害ひたと出来候を見申候て御城下の事に候へは難拘存知渡し進上候て御敵城犬山へ一城に楯籠候也

首(四十)
加治田之城を身方に参る事
去程に美濃国御敵城宇留摩の城猿はみの城とて押並二ケ所犬山の川向に 在之是より五里与に山中北美濃之内加治田と云所に佐藤紀伊守子息右近右衛門と云て父子在之 或時崖良沢使として差越上総介信長公偏憑入之由丹羽五郎左衛門を以て言上候内々国之内に荷担之者御所望に思食折節之事なれは御祝若不斜先兵粮調候て蔵に入置候へと御諚候て黄金五十枚崖良沢に渡し被遣候

首(四十一)
犬山両おとな御忠節之事
或時犬山の家老 和田新介 是は黒田の城主也 中嶋豊後守 是はお久地の城主也此両人御忠節として丹羽五郎左衛門を以て申上引入生か城になし四方鹿垣二重三重丈夫に結まはし犬山取籠丹羽五郎左衛門警固にて候也

オープンアクセス NDLJP:上23首(四十二)
濃州伊木山へ御上之事
飛弾川を打越美濃国へ御乱入御敵城宇留摩之城主大沢次郎左衛門ならひ猿はみの城主多治見とて両城は飛弾川へ付て犬山の川向押並て持続在之十町十五町隔て伊木山とて高山あり此山へ取上御要害丈夫にこしらへ両城を見下し信長は居陣候し也うるまの城ちかと御在陣候間越訴とも難拘存知渡し進上候也

猿はみの城飛騨川へ付て高山也大ぼて山とて猿はみの上には元茂りたるカサあり或時大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻のほり御人数を上られ水之手を御取候て上下より攻られ即時につまり降参退散也

首(四十三)
堂洞取出被攻之事
猿はみより三里奥に加治田之城とて在之城主は佐藤紀伊守子息右近右衛門とて父子御身方として居城候長井隼人正加治田へ差向廿五町隔堂洞と云所に取出を搆 岸勘解由左衛門多治見一党を入置候去て長井隼人名にしおふ鍛冶の在所関と云所五十町隔詰陣に在之左候へは加治田及迷惑之間九月廿八日信長御馬を出され堂洞を取巻攻られ候三方谷にて東一方尾ツヽき也其日池田勝三風つよく吹也信長かけまはし御覧し御諚には塀きわへ詰候はゝ四方より続松とこしらへ持よつて可投入候旨被仰付候然而長井隼人後巻として堂洞取出之下廿五町山下まて懸来人数を備候へとも足軽をも不出信長は諸手に御人数被備攻させられ御諚の如くたえ松を打入二の丸を焼崩し候へは天主搆へ取入候を二の丸の入口おもてに高き家の上にて太田又助只壱人あかり黙矢もなく射付候を信長条覧しきさじに見事を仕候と三度迄預御使御感有て御知行重て被下候えキ

午剋に取寄西刻迄攻させられ既及薄暮河尻与兵衛天主搆へ乗入丹羽五郎左衛門つゝいて乗入処 岸勘解由左衛門多治見一党働事不大形暫之戦に城中之人数乱て敵身方不見分大将分者皆討果し畢其夜は信長佐藤紀伊守佐藤右近右衛門両所へ御出候て御覧し則右近右衛門所に御泊父子感涙をなかし忝と申事中々難述詞次第也翌日廿九日山下の町にて頸御実検なされ御帰陣之時 関口より長井隼人正井井口より龍奥懸出られ御敵人数三千余有 信長御人数は総七八百不可過之手負死人数多在之被退候所はひろ野也先御人数立られ候て手負之者雑人共を引退られ足軽を出すやうに何れも馬をのりまはしかる 引取てのかせられ候御敵ほいなき仕合と申たる之由候

首(四十四)
いなは山御取候事
四月上句 木曽川の大河打越美濃国加賀見野に御人数立られ御敵 井口より龍興人数罷出新加納の村を拘人数を備候其間節所にて馬の懸引ならさる間其日御帰陣候し也

八月朔日 美濃三人衆稲葉伊予守氏家卜全安東伊賀守申合候て信長公へ御身方に可参候間人質を御請取候へと申越候然間 村井民部丞嶋田所之助人質請取に西美濃へさし被遣未人質も不参候に俄に御人数出され井口山之つゝき瑞龍寺山へ懸上られ候是は如何に敵か味方かと申所に早町に火をかけ即時に生か城に被成候其日以外風吹候 翌日御普請くはり被仰付四方鹿垣結まはし取籠をかせられ候左候処へ美濃三人衆も参り消肝後礼被申上候 信長は何事もケ様に物軽に被成御沙汰候也

八月十五日 色々降参候て飛弾川のつゝきよて候間舟にて川内長嶋へ 龍興退散去て美濃国一篇に被仰付尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越也井口と申を今度改て岐阜と名付させられ明ル年之事

首(四十五)
公方様御憑百ケ日の内に天下被仰付候事
公方一乗院殿佐々木承禎を御憑候へとも無同心越前へ御成候て朝倉左京太夫義景を御憑候へとも御入洛御沙汰中々無之去て上総介信長を憑思食之旨細川兵部大輔和田伊賀守を以て上意候則越前へ信長より御迎を進上候て不経百ケ日被遂御本意被備征夷将軍御面目御手柄也

オープンアクセス NDLJP:上24去程に丹波国桑田郡穴太村のうち長谷の城と云を相抱候赤沢加賀守内藤備前守与力也一段之鷹数奇也或時自身関東へ罷下可然角鷹二連求罷上候刻尾州にて織田上総介信長へ二連之内何れにても一もと進上と申候へは志之程感悦至極候併天下御存知之砌被申請候間預置之由候て返し被下候此山京都にて物語候へは国を隔遠国よりの望不実と申候て皆々笑申候然処不経十ケ年信長御入洛被成候希代不思儀之事共候也

 

 
オープンアクセス NDLJP:上24巻一○巻之一 (永禄十一戊辰以来織田弾正忠信長公之御在世且記之)
信長公記巻一
太田和泉守 綴之
 

巻一(一)
公方様御生害之事
永禄十一年戊辰以来織田弾正忠信長之御在世且記之

先公方光源院義照御生害同御舎弟鹿苑院殿其外諸侯之衆歴々討死事其濫觴者三好修理太夫天下依為執権内々三好に遺恨可被思食と兼而存知被企御謀叛之由申掠寄事於左右永禄八年五月十九日に号清水詣早朝より人数をよせ則諸勢殿中へ乱入雖御仰天候無是非御仕合也数度切而出伐崩余多に手負せ公方様雖御働候多勢に不叶御殿に火を懸終に被成御自害候之訖同三番目之御舎弟鹿苑院殿へも平田和泉を討手にさし向仝刻に御生害御伴衆悉逃散候其中に日比御目を被懸候美濃屋小四郎未若年十五六よして討手之大将平田和泉を切殺し御相伴仕り高名無比類誠御当家破滅天下万民之愁歎不可過之云々

巻一(二)
一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑不叶事
然而二男御舎弟南都一乗院義昭当寺御相続之間対御身聊以野心無御座之旨三好修理太夫松永弾正かたよりゆるし被申候尤之由被仰候て暫被成御在寺或時南都潜出御有而和田伊賀守を被成御憑経伊賀甲賀路江州矢島之郷へ被移御座佐々木左京太夫承禎を憑思食之旨種々様々雖上意候既主従之忘恩顧不能同心結句雑説を申出し無情追出し申之間憑木本たのむこのもとに両漏無甲斐又越前へ被成下向訖 朝倉事元来雖非其者彼父掠上意任御相伴之ナミ於我国雅意に振舞御帰洛之事中々不被出詞之間是又

公方様無御料簡巻一(三)
信長御憑御請之事
此上者織田上総介信長を偏被憑入度之趣被仰出既隔国其上信長雖為底弱之士天下之被欲セ致忠功憚一命被成御請

永禄十一年七月廿七日越前へ為御迎和田伊賀守不破河内守村井民部島田所之助被成進上濃州西庄立正寺に至而

オープンアクセス NDLJP:上25公方様御成末席に鳥目千貫積せられ御太刀御鐙武具御馬色々進上申され其外諸侯之御衆是又御馳走不斜此上者片時も御入洛可有御急と思食

巻一(四)
信長御入洛十余日之内に五畿内隣国被仰付被備征夷将軍之事
八月七日  江州佐和山へ信長被成御出上意之御使に使者を被相副佐々木左京太夫承禎御入浴之路次人質を出し馳走候へ之旨七ケ日御逗留候て様々被仰含御本意一途之上天下所司代可被申付雖御堅約候不能許容不及是非此上者江州へ可被御行てだてに之御造意ぞうい頻にて

九月七日に 公方様へ御暇を申され江州一篇に討果し御迎を可進上之旨被仰上尾濃勢三四ケ国之軍兵を引卒し

九月七日に 打立平尾村御陣取

同八日に 江州高宮御着陣両日被成御逗留人馬之休

十一日 愛智川近辺に野陣をかけさせられ信長懸まはし御覧しわき数ケ所の御敵城へは御手遣もなく佐々木父子三人被楯籠候観昔寺並に箕作山へ

同十二日に かけ上させられ 佐久間右衛門 木下藤吉郎 丹羽五郎左衛門 浅井新八

被仰付箕作山之城攻させられ申剋ヨリ夜に入攻落乾

去程に去年美濃国大国をめしをかれ候間定而今度者美濃衆を手先へ夫兵ぶひやうに可被差遣とみの衆存知し処に一円無御搆御馬廻にて箕作攻させられ美濃三人衆稲葉伊予氏家卜全安藤伊賀案之外成御てだて哉と奇特之思をなす由也其夜者信長みつくり山に御陣を居させられ翌日佐々木承禎か館観音寺山へ可被攻上御存分之処に佐々木父子三人致癈北

十三日に 観音寺山乗取御上り候依之残党致降参候之間人質を執固元の如く被立置一国平均候者公方様へ御堅約之為御迎 不破河内

十四日に 濃州西庄立正寺へさしつかはされ

廿一日 既被進御馬柏原上菩提院御着座

廿二日 桑実寺へ御成

廿四日 信長守山まて御働翌日志那勢田之舟さし相御逗留

廿六日 被成御渡海三井寺極楽院に被懸御陣諸勢大津馬場松本陣取

廿七日 公方権御渡海にて同三井寺光浄院御陣宿

廿八日 信長東福寺へ被移御陣 柴田日向守 蜂屋兵庫頭 森三左衛門 坂井右近

此四人に先陣被仰付則かつら川打越御敵城 岩成主税頭 楯籠正立寺表手遣御敵も足軽を出し候右四人之衆見合馬を乗込頸五十余討捕東福寺にて信長へ被懸御目

公方様同日に清水御動座

廿九日 青龍寺表被寄御馬 寺尸寂照御陣取依之 岩成主税順降参仕

晦日  山崎御着陣先陣は天神ノ馬場陣取芥川に細川六郎殿 三好日向守備籠夜に入退散并篠原右京亮居城いじやう 越水ゑちみづ 滝山 是又退城然間芥川之城信長被成供奉 公方様被移御座

十月二日に 池田之城 筑後居城へ御取かけ 信長は北之山に御人数被備御寛候水野金吾内に無隠勇士梶川平左衛門とて在之并御馬廻の内魚住隼人山田半兵衛是も無隠武篇者也両人争先外搆乗込爰にてオープンアクセス NDLJP:上26押つおされつ暫之闘に梶川平左衛門コシボネをつかれて罷退討死也 魚住隼人も爰にて手を負被罷退ケ様にきひしく候之間互に討死数多在之終に火をかけ町を放火候也今度御動座之御伴衆末代之高名と諸家存士力しりき日〻にあらたにして戦ヿ如風発攻ヿ如河决とは夫是ヲ謂歟 池田筑後守致降参人質進上之間 御本陣芥川之城へ御人数被打納五畿内隣国皆以て被任御下知 松永弾正者我朝無双のつくもかみ

進上申され今井宗久是又無署名物松嶋ノ壺并絽鴎茄子進献往昔判官殿一谷鉄皆かカケ召れし時之御鐙進上申者も在之異国本朝之捧珍物 信長へ御礼可申上と芥川十四日御逗留之間門前成市事也十四日芥川より公方様御帰洛 六条本国寺被成御座天下一同に開喜悦之眉訖 信長も被成御安堵之思当手之勢衆被召列直に清水へ御出諸勢洛中へ入候ては下々不届族も可在之哉之被加御思慮医固ヲ洛中洛外へ被仰付猥儀無みだれがましき之既畿内之逆徒等数ケ所城郭を搆雖相支風に草木之靡十余日之内に悉退散天下属御存分細川殿屋形御座として 信長被成供奉於 御殿御太刀御馬御進上忝も御前へ信長被召出三献之上公儀御酌にて御盃井氏劔御拝領

十月廿二日 御参内職掌しきしやう之御出立儀式相調奉備 征夷将軍城都じやうづ御安座信長日域無双之御名誉末代之御面目可後胤之亀競きけい者也

巻一(五)
観世太夫御能仕之事
今度粉骨之面々見物可仕之旨 上意にて勧世太夫に御能を被仰付御能組わき弓八幡の書立かきたて十三番也信長御書立御覧し未隣国御望も在之事候間弓矢納りたる処無御存分由候て 五番につゝめられ細川殿の御殿にて御座候へキ  初献之後酌 細川典厩 於于爰信長へ 久我殿 細川兵部太輔 和田伊賀守三使以て再三御使在之 副将軍歟可被准官領職之趣被仰出雖然此時に於ては御斟酌之旨被仰出御請無之希代之御存分之由都鄙之上下感之申候さて

わき能  高砂  勧世左近太夫  今春大太夫  勧世小次郎  大つゝみ大蔵二介  小皷勧世彦右衛門  笛ちようあひ  太鼓勧世又三郎

二獣之 御酌 大舘伊予守  此時右之三使にて再徃御使在之 信長御前へ御祇候添も三献之上

公儀御酌にて御盃被下御鷹御腹巻御拝領面目次第不可過之

二番八島 大つゝみ深谷長介 小鼓幸五郎二郎

三献 御酌 一色式部少輔

三番 定家 四番 道成寺

信長之御鼓御所望候雖然辞止じたい被申

大鼓  大蔵二介  小皷勧世右衛門  笛伊藤宗十郎
五番 呉羽 御能過候て一座之者田楽かつら等迄 信長より御引手物被下其後かつうは天下降為かつうは徃還旅人

御憐感之儀を被思食御分国中に数多在之諸関諸役上させられ都鄙之貴賤一同に忝と拝し奉満足仕候訖

十月廿四日 御帰国之御暇被仰上

巻一(六)
信長御感状御頂戴之事
廾五日に 御感状其御文言

  今度国々凶徒等不歴日不移時悉合退治之条武勇天下第一也当家再興不可過之弥国家之安治偏憑入之外無他尚藤孝惟政可申也

    十月廿四日          御判

         御父 織田弾正忠殿

オープンアクセス NDLJP:上27    御追加

今度依大忠紋桐引両筋遣候可武功之力祝儀也

    十月廾四日          御判

         御父 織田弾正忠殿

と被成下前代未聞御面目重畳難尽書詞

廾六日 江州守山迄御下

廿七日 柏原上菩提院御泊

(十月) 廿八日 濃州之内岐阜御帰城千秋万歳珍重々々

 

 
オープンアクセス NDLJP:上27巻二○巻之二 (永禄十二己巳)
信長公記巻二
太田和泉守 綴之
 

巻二(一)
六条合戦之事
永禄十二巳已

正月四日 三好三人衆并斎藤右兵衛太輔龍興 長井隼人等南方之諸牢人を相催先懸の大将 薬師寺九郎左衛門 公方様六条に御座候を取請門前焼払既寺中へ可乗入の行也爾処シカリトコロニ六条に楯籠御人数 細川典厩 織田左近 野村越中 赤座七郎右衛門 赤座助六 津田左馬丞 渡辺勝左衛門 坂井与右衛門 明智十兵衛 森弥五八 内藤備中 山県源内 宇野弥七 若狭衆 山県源内 宇野弥七両人無隠勇士也御敵薬師寺九郎左衛門幢本へ切てかゝり切崩散々に相戦余多に手を負せ鑓下にて両人討死候也ヲソイ懸れは追立て火花をちらし相戦矢庭に三十騎計射例手負死人算を乱すに不異可乗入事不寄思懸処に三好左京太夫 細川兵部大輔 池田筑後各後巻在之山承 薬師寺九郎左衛門小口を甘ケ候

是は後巻かつら川表の事 細川兵部太輔三好左京太夫池田筑後池田せいひん 伊丹荒木茨木懸向かつら川辺にて御敵に取合則及一戦推つ出されつ黒煙立て相戦鑓下にて討取頸之注文 高安権頭 吉成勘介 同弟岩成弥介 林源太郎 市田鹿目介 是等を始として歴々討取右之趣 信長へ御注進

巻二(二)
御後巻信長御入洛之事
正月六日 濃州岐阜に至て飛脚参着其節以外大雪也不移時日可有御入浴之旨相触一騎懸に凌大雪中打、立早御馬にめし候つるが馬借バシヤク之者共御物を馬におはせ候とてかうかいを仕候御馬より下させられ何れも荷物にもつ一々引見ひきみ御覧して同しおもさ也急候へと被仰付候是者奉行之者依怙贔屓も有かと思食しての御事也以外大雪にで下々夫以下の者寒死コヽヘシニ数人存之事也三日路之所二日に京都へ 信長馬上十騎ならては御伴なく六条へ懸入給ふ堅固之様子御覧し御満足不斜 池田せいひん今度手柄之様躰被及聞食御褒美不及オープンアクセス NDLJP:上28是非天下面目此節也去て此以後御搆無之候ては如何之由候て凡濃江勢三五畿内若狭丹後丹波播磨十四ケ国之衆在洛候て 二条之古き御搆堀をひろけさせられ

巻二(三)
公方御講御普請之事
永禄十二年己巳二月廿七日辰ノ一点御鍬初在之方に石垣両面に高く築上御大工奉行 村井民部 島田所之助被仰付洛中洛外の鍛冶番匠杣と召寄隣国隣郷より材木をよせ夫々に奉行を付置無由断候之間無程出来訖御殿の御家風尋常に縷金銀庭前に泉水遣水気山を搆其上 細川殿御屋敷に藤戸石とて往古よりの大石は是を 庭庭に可被立置の由にて 信長御自身被成御越彼名石を絞錦を以てつゝませ色々花を以てかさり大綱余多付させられ笛大鼓つゝみを以て囃し立 信長被成御下知即時に庭上へ御引付候并東山慈照院殿御庭に一年被立置候九山八海と申候て都鄙に無隠名石御候是又被召寄 御庭に居させられ其外洛中洛外の名石名木を集眺望を被尽同馬場には桜をうへ号桜之馬場ト残所被仰付其上諸侯之御衆御搆ノ前後左右に思々の御普請歴々覚を並刷御安座御祝言之御太刀御馬御進上御前へ信長被召出忝も三献の上 公儀御酌に而御盃并御剱色々御拝領御面目の次第申も愚候

巻二(四)
御修理之事
今度隣国面々等長々在洛にて被尽粉骨信長其面々へ御礼被仰蹄国の御暇被下候し也

抑禁中御潑壊無正躰之間是又可被成御修理之旨 御奉行 日乗上人 村井民部少輔 被仰付候キ 巻二(五)
名物被呂置之事
然而信長金銀米鉄御不足無之間此上者唐物天下之名物可被召置之由御諚候て先

上京大文字屋所持之 一初花 祐乗坊の 一ふじなすび 法王寺の 一竹ひしやく 池上如慶か 一かぶらなし 佐野 一馬の絵  江村 一もくそこ  〆

友閑 丹羽五郎左衛門 御使申金銀八本遣被召置天下定目被仰付

巻二(六)
阿坂の城退散之事
五月十一日 濃州岐阜に至て御帰城也

八月廿日 勢州表御馬を被出其日桑名迄御出雲日御鷹つかはされ御逼留 廿二日白子観音寺に御陣を懸られ 廿三日小御御着陣雨降御滞留 廿六日あざかの城木下藤吉郎先懸いたし攻られ候て堀きはへ詰よせ薄手をかふむり被罷退あらと攻られ難拘存知降参候て退散也 滝川左近 人数入置是よりつきの小城へは御手遣もなく直に奥へ御通候て国司父子被楯籠候大河内の城とり誥信長懸廻し御覧し東の山に信長御陣を居させられ其夜まづ町を破らせ焼払 廾八日に四方を懸まはし御覧し

南の山に 織田上野守滝川左近津田掃部稲葉伊予池田勝三郎和田新介中島豊後進藤山城後藤喜三郎蒲生右兵衛太輔永原筑前永田刑部少輔青地駿河山岡美作山岡玉林丹羽五郎左衛門 置れ 西に 木下藤吉郎氏家卜全伊賀伊賀守飯沼勘半佐久間右衛門市楠九郎右門塚本小大膳 北には 斎藤新五坂井右近蜂屋伯耆簗田つくだ弥次右衛門中条将監磯野丹波中条又衛門 東に 柴田修理森三左衛門山田三左衛門長谷川与次佐々内蔵介佐々隼人梶原平次郎不破河内丸毛まるけ兵庫頭丹羽源六不破彦三丸毛三郎兵衛 ケ様に陣取被仰付其上四方しゝ垣二重三重結せられ諸口之通路をとめ 尺限廻番衆門前田又左衛門福富平左衛門中川八郎有衛門木下雅楽介松岡九郎二郎生駒平左衛門河尻与兵衛湯浅甚介村井新四郎中川金右衛門佐久間弥太郎毛利新介毛利河内生駒勝介神戸賀介荒川新八猪子賀介野々村主水山田弥太郎滝川彦右衛門山田左衛門尉佐脇藤八 信長御座所御番之事 御馬廻御小姓衆御弓之衆鉄炮衆に被仰付候也

九月八日 稲葉伊予 池田勝三郎 丹羽五郎左衛門 両三人西搦手之口より夜攻に可仕之旨被仰出御オープンアクセス NDLJP:上29請申其日夜に入三手に分而攻られ候人数を被出候へは雨降候て御身方の鉄炮御用に不罷立候也

池田勝三郎攻口にて御馬廻之 朝日孫八郎波多野弥三 討死仕候也 丹羽五郎左衛門攻口にて討死之衆 近松豊前神戸伯耆神戸市介山田大兵衛寺沢弥九郎溝口富介斉藤五八古川久介河野三吉金松久左衛門鈴村主馬ウヅマ初として究竟の侍廿余人夜合戦に討死

九月九日 滝川左近被仰付多芸谷たけいや国司の御殿を初として悉焼払作毛薙捨忘国わうこくにさせられ城中は可被成干殺ひしにゝ御存分にて御在陣候の処俄走入候の者既端々及餓死付て種々御侘言して 信長公の御二男 お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて

巻二(七)
大河内国司退城之事
十月四日 大河内之城 滝川左近 津田掃部両人に相渡国司父子は 笠木坂ないと申所へ退城候し也 巻二(八)
関役所御免除之事
然間田丸の城初として国中城々破却之御奉行万方へ被仰付其上当国の諸関取分往還旅人之悩たる間於末代御免除之上向後関銭不可召附の旨堅被仰付

巻二(九)
伊勢御参宮之事
十月五日 信長公山田に至て御参宮堤源介所御寄宿六日に内宮外宮浅間山被成御参詣翌日御下向小作こつくり御泊八日上野に御陣を懸られ是より諸勢被打納 御茶箋公大河内城主として 津田掃部相添置申されあのゝ津 しぶみ 小作三ケ所に瀬川左近をかせられ うへ野には 織田上野守置申され 御馬廻計京都へ御伴其外諸卒国々へ帰陣候へと御いとま被下 千葉峠打越直に御上洛九日に千草迄御出其日雪降山中大監に候事 十日江州市原御泊 十一日御上京勢州表一国平均に被仰付タル様躰 公方様へ被仰上四五日御在浴にて天下の儀被仰聞

十月十七日 濃州岐阜に至て御帰陣珍重々々

 

 
オープンアクセス NDLJP:上29巻三○巻之三 (元亀元庚午)
信長公記巻三
太田和泉 綴之
 

巻三(一)
常楽寺ニテ相撲之事
元亀元庚午

二月廿五日 御上洛赤坂御泊廿六日常楽寺迄御出被成御逗留

三月三日に江州国中之相撲取を被召寄常楽寺にて相撲をとらせ御覧候 人数之事 百済寺はくさいじ鹿しか 百済寺之小鹿 たいとう正権 長光 宮居眼左衛門 河原寺ノ大進たいしん はし小僧こぞう深尾又次郎 鯰江又一郎 青地与右衛門 此外随分之手取之相撲取共我もと不知員馳集其時之 行事は木瀬蔵春庵きのせそうしゆんあん

鯰江又一郎青地与右衛門取勝とりかてり依之青地鯰江被召出両人之者に慰斗付之大刀脇指被下今日より御家人に被召加相撲之奉行を被仰付両人面目之至也爰に深尾又次郎よき相撲面白仕り候て被成御感御服被下忝次第也

三月五日御上洛上京 驢庵に至而御寄宿畿内隣国之面々等三州より 家康公御在洛門前成市事也

巻三(二)
名物被召置之事
去程に天下無隠名物堺に在候道具之事

天王寺屋宗及 一菓子の絵 薬師院 一小松島 油屋常祐 一柑子口 松永弾正 一鐘の給

何れも覚之一種共被召置度之趣 友閑 丹羽五郎左衛門御使にて被仰出違背非可申候之間無遠儀進上

則代物以金銀被仰付候キ

巻三(三)
観世太夫今春太夫立合ニ御能之事
四月十四日

公方様御搆御普請造畢之為御祝言観世太夫今春太夫立合に御能 一番 たまの井 観世 二同 三輪 ワキ二郎 今春三同 張良 観世 四同 あしかり ワキ蔵新三 今春 五同 松風 観世 六同オープンアクセス NDLJP:上30 紅葉かり ワキ藤新三 今春 七番 とをる 勧世 一地謡 生駒外記 野尻南介 一大つゝみ 一大つゝみ 伊徳高安 大蔵二介 喜三郎 一小つゝみ 彦右衛門 日吉孫一郎 久二郎 三蔵 一たいこ 又二郎 与左衛門 一番 伊藤宗十郎 一春一与左衛門

飛弾国司姉小路中納言卿 一伊勢国司北畠中将卿 一三州徳川家康卿 一畠山殿 一一色殿 一三好左京大夫 一松永弾正 益家清花御衆歴々畿内隣国之面々等群集晴かましき見物也於千爰信長

公被進御官ヲ候へと雖 上意候被成御辞退御請無之忝も三献之上公俄御酌にて 御盃御拝領御而目之至也

巻三(四)
越前手簡山被攻落之事
四月廾日 信長公京都より直に越前へ御進発坂本を打越其日和邇に御陣取廿一日高島之内田中か城に御泊廿二日若州熊河 松宮玄蕃所御陣宿廿三日佐柿 栗屋越中所に至て御着陣翌日

御逗留廿五日越前之内敦賀表へ御人数被出 信長公懸まはし御覧し則手筒山へ御取懸候彼城高山にて東南峨々と聳たり雖然頻に可攻入之旨御下知之間既軽一命粉骨之被励後忠節無程攻入頸数千参百七十討捕並金か崎之城に 朝倉中務大輔 楯籠候翌日又取懸可被攻干之処色々致降参退出候 引壇之城是又明退候則 滝川喜右衛門 山田左衛門尉両人被差遣塀矢蔵やぐら引下し破却させ木目峠打越国中可為御乱入之処 江北浅井備前 手の反覆之由追々其注進候然共浅井者歴然為御縁者之上剰江北一円に被仰付之間不足不可有之条可為虚説と思食候処従方々事実之注進候不及是非之由にて金ケ崎之城には 木下藤吉郎残しをかせられ

四月晦日 朽木越をさせられ 朽木信濃守馳走申京都に至而御人数被打納是より 明智十兵衛 丹羽五郎左衛門両人若州へ差遣され 武藤上野人貿執候て可参之旨御諚候則 武藤上野守母儀を為人質召置其上 武藤搆 破却させ

五月六日 はりはた越にて罷上右の様子言上候然間江州路次通りの為御警固稲葉伊予父子三人斎藤内蔵人佐くらのすけ 江州守山の町に被置候処既一揆令蜂起へそ村に挙煙守山之町南の口より焼入しこと稲葉諸口を支追崩シ数多切捨手前之働無比類去て京表面々等の人質執固 公方様へ被成御進上天下御大事於在之者不移時日可有御入洛之旨被仰上五月九日御下 志賀之城 宇佐山こしらへ 森三左衛門をかせられ十二日に永原まて御出 永原に 佐久間右衛門被置 長光寺に 柴田修理亮在城 安土城に 中川八郎右衛門楯籠如此塞々に御人数残しをかせられ

巻三(五)
千草峠ニ而鉄炮打申之事
五月十九日御下之処 浅井備前 館江之城へ人数を入市原之郷催一揆通路可止行仕候然共 日野蒲生右兵衛大輔 布施藤九郎 香津畑かつはた之 かん六左両門馳走申千草趣にて御成座下候左候処杉谷善住坊と申者 佐々木左京太夫承禎に憑まれ千草山中道筋に鉄炮を相搆無情十二三日隔 信長公を差付二つ玉にて打申候されとも天道昭覧にて御身に少つゝ打かすり鰐口わにのくち御遁候て目出度五月廿一日濃州岐阜御帰陣

巻三(六)
落窪合戦之事
六月四日 佐々木承禎父子 江州南郡所々催一揆野洲川表へ人数を出し 柴田修理 佐久間右衛門懸向やす川にて足軽に引付落窪の郷にて取合及一戦切崩 討取頸之注文 三雲父子 高野瀬 水原 伊賀甲賀衆究竟之侍七百八十討とり江州過半相静り

巻三(七)
たけくらべかりやす取出之事
去程浅井備前越前衆を呼越たけくらへかりやす 両所に要害を搆候 信長公以御調略 堀 樋口御忠節可仕旨御請也

オープンアクセス NDLJP:上31六月十九日 信長公御馬を被出 堀 樋口謀叛の由承りたけくらへ かりやす 取物も不取敢退散也たけくらへに一両日被成御逗留

六月廿一日 浅井居城大谷へ取寄 森三左衛門坂井右近斎藤新五市橋九郎右衛門佐藤六左衛門塚本小大膳不破河内丸毛兵庫頭 雲雀山へ取上町を焼払 信長公者諸勢を被召列虎後前山へ被成御上一夜御陣を居させられ 柴田修理佐久間右衛門蜂屋兵庫頭木下膿吉郎丹羽五郎左衛門江州衆被仰付在々所々谷々入々いり迄放火候也

巻三(八)
あね川合戦之事
六月廿二日 御馬を被納殿に諸手の鉄炮五百挺再御弓の衆三十計被相加 簗田左衛門太郎中条将監佐々内蔵介両三人為御奉行被相添候敵の足軽近々と引付簗田左衛門太郎は中筋より少左へ付てのかれ候乱れ懸つて引付候を帰し合散々に暫戦 太田孫右衛門頸をとり被罷退御褒美不斜 二番に佐々内蔵介手へ引付 八相山宮の後にて取合爰にても蔵介致高名罷退 三番八相山被下橋の上にて取合中条将監被疵 中条又兵衛橋之上にてたゝき合双方橋より落て中条又兵衛堀底にて頸をとり高名無比類働也佳弓の衆として相支無異儀能退 其日者やたかの下に野陣を懸させられよこ山の城 高坂コウサカ三田村野村肥後楯籠相拘候廿四日に四方より取誥 信長公者たつかはなに御陣取 家康公も御出陣候て同龍か鼻に御陣取

然処 朝倉孫三郎 後巻として八千計にて罷立 大谷之東 をより山と申候て東西へ長き山有彼山に陣取也 同浅井備前人数五千計相加り 都合一万三千之人数六月廿七日ノ暁陣払仕罷返候と存候之処廿八日未明に三十町計かゝり来姉川を前にあて野村の郷三田村両郷へ移り二手に備候西は三田村口一番合戦家康公むかはせられ東は野村の郷そなへの手へ信長御馬廻又東は美濃三人衆諸手一度に諸合しよかつ

六月廿八日 卯刻己寅へむかつて被及御一戦御敵もあね川へ懸り合推つ返しつ散々に入みたれ黒煙立てしのきをけつり錫をわり爰かしこにて思ひの働有終に追崩し於手前討取頸之注文 真柄十郎左衛門此頸青木所左衛門是を討とる 前波新八 前波新太郎 小林端周軒はしうけん 魚住龍文寺りやうもんじ 黒坂備中 弓削六郎左衛門 今村掃部助 遠藤喜右衛門此頸竹中久御是ヲ討とる兼て此首を可取と高言アリ 浅井雅楽助 浅井斎 狩野かりの次郎左衛門 狩野二郎兵衛 細江左馬介 早崎吉兵衛 此外宗徒者千百余討捕大谷迄五十町追討麓を御放火雖然大谷者高山節所之地候間一旦に攻上候事難成被思食横山へ御人数打返し勿論横山之城致降参退出をいだし 木下藤吉郎為定番横山に被入置夫より佐和山之城磯野丹波守楯籠相拘候へキ直に 信長公七月朔日 佐和山へ御馬を寄られ取詰鹿垣結せられ東百々どゝ屋敷御取出被仰付

丹羽五郎左衛門被置 北之山に 市橋九郎右衛門 南之山に 水野下野 西彦根山に 河尻与兵衛 四方より取詰させ諸口之通路をとめ同七月六日御馬廻計被召列御上洛 公方様へ当表之様子被仰上天下諸色しよしき被仰付 七月八日岐阜に至て被納御馬候へキ

巻三(九)
野田福島御陣之事
八月廿日 南方表御出勢其日者横山に洋陣を懸させられ次日御逗留廿二日長光寺御泊廿三日下京本能寺御陣宿翌日御逗留廿五日南方へ御働淀川をこさせられ比良かたの寺内御陣取廿六日御敵楯籠野田福島へ被成御手道先陣者近陣に陣とらせ天満か森川口渡辺神崎上難波下難波浜之手迄陣とらせ 信長公者天王寺に御居陣也然而大坂堺尼崎西宮兵庫辺より異国本朝之捧珍物御礼申さるゝ仁御陣取見物の者成群集事候

オープンアクセス NDLJP:上32御敵南方諸牢人大将分の事 細川六郎殿 三好日向守 三好山城守 安宅あたか 十河 篠原 岩成 松山 香西 三好為三いさん 龍興 永井隼人 如此衆八千計野田福島に楯籠在之由候去程に 三好為三 香西両人は御身分に参調略てうりやく可仕之旨粗雖被申合候近陣に用心きひしく難成存知

八月廿八日夜中に為三香西天王寺へ参らせられ候 九月三日摂津国中島細川典厩城迄 公方様御動座同八日に大坂十町計西にろうの岸と云所御取出に被仰付 斎藤新五 稲葉伊予 中川八郎右衛門両三人被入置並大坂の川向に川口ト申在所候是又拵 平手監物 平手甚左衛門 長谷川与次 水野監物 佐々蔵介 塚本小大膳 丹羽源六 佐藤六左衛門 梶原平二郎 高宮右京亮 被置せ

九月九日 信長公天満が森へ御大将陣を寄させられ次日諸手よりうめ草をよせ御敵城近辺に在之江堀を填させられ

九月十二日 野田福島の十町計北にゑび江と申在所候 公方様信長公御一所に詰陣に御陣を居させられ先陣は勿論夜に土手ヲ築其手を争塀際へ詰よせ其数を尽し城楼を上大鉄炮にて城中へ打入被責候根来雑賀湯川紀伊国奥郡衆二万計罷立遠里小野ウリウノ住吉天王寺に陣取候鉄炮三千挺在之由候毎日参陣候て被攻候御敵方の鉄炮誠に日夜天地も響計候然は野田福島種々致懇望無事之儀雖申扱候迚も不可有程之間可被攻千之由候て御許容無之野田福島落去候はゝ大坂滅亡之儀と存知候歟

九月十三日夜中に手を出しろうの岸川口両所之御取出へ大坂より鉄炮を打入一揆雖蜂起候無異子細候翌日十四日に大坂より天満か森へ人数を出して則懸合川を追超かすか井堤にて取合一番に佐々蔵介 懸向相戦而被疵被罷退二番に堤通中筋を前田又左衛門かゝり合右手ゆては弓にて中野又兵衛左は野村越中湯浅甚介毛利河内金松又四郎争先散々に相戦扣立毛利河内と金松又四郎両人して下間丹後内の長末新七郎をつき臥毛利河内金松に頸を取候へと申されタリ其時金松申様に某は手伝にて候間河内に頸を取候へと申僉儀にてあたら額一ツ不取して被罷退爰にて野村越中討死也

巻三(十)
志賀御陣之事
(辛未)九月十六日 越前之朝倉浅井備前三万計坂本口へ相働也 森三左衛門宇佐山の坂を下々ヲリクダリ懸向坂本の町はつれにて取合纔千の内にて足軽合戦に少々頸を取得勝利翌日

九月十九日 浅井朝倉備両手に又取懸候町を破らせ候ては無念と被存知被相拘候の処大軍両手より噇とかゝり来於手前雖被尽粉骨御敵猛勢にて不相叶火花を散し終に 鑓下に而討死 森三左衛門織田九郎青地駿河守尾藤源内尾藤又八 道豪清十郎道家助十郎とて兄弟覚の者有生国尾張守山の住人也一年東美濃高野口へ武田信玄相働候其時森三左衛門 肥田玄蕃先懸にて山中谷合にてかゝり合相戦て兄弟して頸三つ取て参り 信長公の御目に懸候へは御褒美不斜白キはたをさし物に仕候其旗をめしよせられ天下一の勇士也と御自筆に遊し被付候て被下都鄙の面目不可過之名誉の仁にて候也今度に共旗をさして 森三左衛門と一所に候て前後手柄を尽し火花を散し枕を並て討死候之也 宇佐山之城端城はしやうまで攻上り雖放火候 武藤五郎右衛門肥田彦左衛門両人在之而堅固に相拘候

九月廿日 御敵相働大津馬場松本を放火し 廿一日逢坂をこへ醍醐山科を焼払既に京近く罷成 廾二日摂津国中島へ其注進候京中へ乱入候ては無曲之被思食

九月廿三日 野田福島御引払 和田伊賀守柴田修理亮両人殿に被仰付路次者中島より江口通御越也彼江口と申川は淀宇治川の流にて大河漲下り滝鳴つて冷しき様躰也総而昔年より舟渡しにて候也猛勢のオープンアクセス NDLJP:上33御人数差懸候処一揆令を渡舟の蜂起隠置通路自由ならす稲麻竹葦なんとの如く過半竹鑓を持て江口川の向を大坂堤へ付て雖喚無異事 信長公川の上下懸まはし御覧し馬を打入川を可渡の旨 御下知の間悉乗入候之処思の外川浅く候てかち渡りに雑兵無難打越候

九月廿三日 公方様供奉なされ御帰洛次日より江口の渡りかちはたりには中々不成候爰を以て江口近辺の上下万民の者奇特不思儀之思をなす事也

九月廿四日 信長公 城都じやうつ本能寺を御立なされ逢坂を越越前衆に向て御働旗かしらを見申坂本に陣取在之越北衆癈軍之為躰ていたらくにて叡山へ御上はちが峯あほ山つほ笠山に陣取候此時山川の僧衆十人計被召寄今度 信長公之後身方忠節申に付て者御分国中に在之山門領如元可被還附之旨御金打かねうち候て被仰聞併出家の道理にて一途の贔屓於難成者見除仕候へと事を分而被仰聞其上 稲葉伊予守に被仰付御朱印調させ被遣御諚には若此両条違背に付ては根本中堂三王廿一社を初奉り可被焼払の旨上意候キ雖然重而山門の僧衆兎角を不申上時刻到来候而浅井朝倉令贔屓魚鳥女人等迄上させ恣之悪逆也 信長公其日者下坂本に御陣取候て廿五日叡山の麓を取まかせ 香取屋敷丈夫に拵 平手監物長谷川丹波守山田三左衛門不破河内守丸毛兵庫頭浅井新八丹羽源六水野大膳此等をかせられ 穴太あなふが在所是又御要害被仰付簗田つくだ左衛門太郎川尻与兵衛佐々蔵介塚本小大膳明智十兵衛苗木久兵衛村井民部佐久間右衛門進藤山城守後藤喜三郎多賀新左衛門梶原平次郎永井雅楽助種田助丞佐藤六左衛門中条将監 十六かしら被置 其次田中に柴田修理亮氏家卜全伊賀伊賀守稲葉伊予守陣とらせ 唐崎こしらへ 佐治八郎津田太郎左衛門をかせられ 信長公志賀之城宇佐山に御居陣也 叡山西之麓古城ふるしろ勝軍拵 津田三郎五郎三好為三香西かにし越後守 公方衆相加二千計在城也 屋瀬やのせ小原口には 山本対馬守蓮養れんやう足懸りを搆陣取役両人業内者の事に候へは夜々に山上へ恩入谷々守々焼崩候の間致難堪なんかん之由候也

十月廿日 朝倉かたへ使者を立られ互経年月を不入事候間以一戦可被相果候日限をさし被罷出候へと菅屋九右衛門を以て雖被仰遣候中々不及返答結句朝倉抛筋力無事を雖扱候是非共御一戦之上にて可被散御鬱憤之旨御許容無之 南方三好三人衆之事野田福島之普請を改諸年人河内無津国端へ雖致打廻高屋 畠山殿若江に三好左京太夫 片野に 安見右近 伊丹 塩河 茨木 高槻何れも城堅固に相拘其上五畿内之衆ツマリ陣取候之間京口へ之てだて無及儀候又江南表之儀佐々木左京太夫承禎父子甲賀口 三雲 居城 菩提寺と云城まて被罷出候へとも人数無之候て手合之躰ならす候江州に在之大坂門家之者一揆をおこし尾濃之通路可止行仕候へとも百姓等之儀候間物之数にて員ならすゝ木下藤吉郎丹羽五郎左衛門在々所々を打廻一接共切拾大方相静あひしつまる 君之御大事此節と存知大谷へ差向候横山之城御敵佐和山へ差向候御取出百々屋鋪に人数丈夫に残し置 木下藤吉郎 丹羽五郎佐衛門両人志賀へ被罷越候処一揆共 建部郷内に足懸りを拵箕作山観音寺山へ取上り両手より差合通路取切候爰にて見合及一戦 先武者さきむしや数画切捨無儀罷通両人志賀へ被打越勢田之郷中へ被懸入候処 信長公志賀之御城より御覧し去ては 山岡美作守 佐々木承禎を引入謀叛相搆候かと御不審に思食候処以飛脚 藤吉郎五郎左衛門 是迄参陣仕候と言上候処御機嫌不斜諸神も噇と競申候し也

霜月十六日 丹羽五郎左衛門為御奉行有被仰付錘総カナツナ丈夫にうたせ勢田に舟橋懸させられ往還輙様タヤスキに 村井新四郎 埴原新右衛門為御警固置せられ 信長公之御舎弟 織田彦七 尾州之内こきゑ村に足懸オープンアクセス NDLJP:上34拵御居城之処に志賀御陣に御手塞テフサガリ之様躰見及申長島より一揆令蜂起取懸逐日おくりひを攻申候既城内へ攻込也一揆之手にかゝり候ては無念と思食御天主へ御上り候て

霜月廿一日 織田彦七御腹めされ無是非超目てうもく

霜月廿二日 佐々木承禎と被成御和睦 三雲 三上志賀へ出仕申上下満足候し也

霜月廿五日 堅田之猪飼野甚介馬場孫次郎居初イソメ又次郎両三人申合御身方之御忠節可仕之由候て 坂井右近安藤右衛門桑原平兵衛右之趣申越被得上意人質を請取其夜中に人数千計にて堅田へ申入仕候処越前衆時刻移候てかなはじと存知多勢を以て口へ攻込也爰かしこへ差向前波藤右衛門堀平右衛門義景右筆之中村杢丞 其外宗徒之者数多雖討捕或手負或討死次第無人に成り既落去候坂井右近 浦野源八父子一人当千之働高名無比類処いひ寒天トかんてんといひ深雪しんせつい北国之通路難続故候歟 公方様へ朝倉色 歎中に付て無為之儀被仰出い信長公御同心無之処よ

霜月晦日 三井寺迄 公方様御成有而頻に上意候事候間難黙止被思食

十二月十三日 御和談相究併水しかしながらうみ越させられ勢田辺迄御人数被引退其上高島まて人質御下候はでは罷退候事迷惑之由申さるゝに付て十四日に湖水打越勢田山岡美作所迄御人数被引退去て十五日早朝より叡山を引下タシ被罷退雖勿論候是併一戦之為御名誉之故也 同十六日凌大雪中御帰陣佐和山之麓礒之郷に御泊 十二月十七日岐阜に至て御帰陣珍重々々

 

 
オープンアクセス NDLJP:上34巻四○巻之四 (元亀二辛未)
信長公記巻四
太田和泉守 綴之
 

巻四(一)
佐和山城渡し進上之事
元亀二辛未

正月朔日 濃州岐阜に而各御出仕在之

二月廿四日 磯野丹波降参申佐和山之城渡し進上して高島へ罷退則 丹羽五郎左衛門為城代被入置候キ

巻四(二)
箕蒲合戦之事
五月六日 浅井備前 あね川迄罷出横山へ差向人数を備居陣候て先手足軽大将浅井七郎五千計にてみのうら表堀 樋口 居城近辺相働在々所々放火候 木下藤吉郎横山に人数多太と申付置百騎計召列敵かたへ見えさる様に山うらを廻りみのうらへ懸付堀 樋口 と一手に成纔五六百には不可過五千計之一揆に足軽を付られ下長沢にて取合及一戦に 樋口 内之者 多羅尾相摸守 討死候此由家来之土川平右衛門承候て懸込討死仕候無比類働也一揆にて候間終に追崩し数十人討捕又下坂之さいかちと云所にてたまり合爰にても暫相戦八幡下坂迄致廃軍 浅井備前無曲なくきよく人数打入候也

巻四(三)
大田口合戦之事
五月十二日 河内長島表へ三口より御手遣 信長君津島まて御参陣中筋口働之衆 佐久間右衛門 浅井新八 山田三左衛門 長谷川丹波 和田新介 中島豊後 川西多芸山之根へ付て太田口へ働之衆 柴田修理亮 市橋九郎左衛門 氏家卜全 伊賀平左衛門 稲葉伊予 塚本小大膳 不破河内 丸毛兵庫 飯沼勘平

五月十六日 在々所々放火候て罷退候之処に長島之一揆共山々へ移右手は大河也左りは山之下道一騎打節所之道也弓鉄炮を先々へまはし相支候 柴田修理 見合殿シツハライ候之処一揆共噇と差懸散々相戦柴田被オープンアクセス NDLJP:上35薄手罷退 二番氏家卜全取合及一戦下全其外家臣数輩討死候し也

八月十八日 信長公江北表御馬と出され横山に至て御着陣

八月廿日之夜 大風生便敷オヒタヽシク吹出よこ山之城堺矢蔵吹落し候へつる

八月廿六日 大谷と山本山之間五十町には不可過之其間之郷中島と云所に一夜御陣を居させられ足軽被仰付 与語木本迄悉御放火也 廿七日よこ山へ御人数打帰させられ

巻四(四)
志むら被攻干之事
八月廾八日 信長公佐和山へ御出 丹羽五郎左衛門所に御泊先陣者一揆楯籠候 小川村 志村之郷推詰近辺焼払

九月朔日 信長公志むら之城攻させ御覧し 取寄人数 佐久間右衛門 中川八郎右衛門 柴田修理 丹羽五郎左衛門四人被仰付四方より取寄乗破頸数六百七十討捕依之並郷ならびのごう 小川之城主小川孫一郎人質進上候て降参申之間被成御敵免

九月三日 常楽寺へ御出有御滞留而一揆楯籠金か森取詰四方之作毛悉苅田に被仰付しゝかき結まはし諸口相支取籠をかせられ候処御佗言申人質進上之間被成御宥免直に南方表へ御働と被仰触

巻四(五)
叡山御退治之事
九月十一日 信長公 山岡玉林所に被懸御陣

九月十二日 叡山へ御取懸子細者去年野田福島御取詰候て既及落城之刻越前之朝倉浅井備前坂本口へ相働候京都へ乱入候ては不其曲之由候て野田福島被成御引払則逢坂を越越前衆に懸向 つぼ笠山へ追上可干殺ひころし御存分山門之衆徒被召出今度対 信長公へ御忠節仕に付ては御分国中に在之山門領如元可被還附之旨被成御金打きんてう其上被成遺 御朱印併出家之道理にて一途いつづう之贔屓於難成者見除仕候へと事を分而被仰聞若此両条違背に付ては根本中堂三王廿一社初として悉可被焼払趣 御諚候へキ 時刻到来之砌歟山門山下僧衆雖王城之鎮守行躰ぎようたい行法ぎようはう出家之不作法にも天下嘲哢あさけりも不耻不天道之恐ヲモ婬好乱魚鳥令服用耽金銀賄而浅井朝倉令贔屓恣に相働之条随世随于時習先被加御遠慮被属御無事に乍御無念御馬を被納候へき可被散其御憤為に候

九月十二日 叡山を取詰根本中堂三王廿一社を初奉り霊仏霊社僧坊経巻不残一宇モ一時に如雲霞焼払為灰燼之地トコソ哀なれ山下の男女老若右往左往に致癈忘取物も不取敢悉かちはたしにて八王寺山へ迯上り社内へ迯籠諸卒四方より鬨音を上て攻上ル僧俗児童智者上人一々に頸をきり 信長之懸御目是者於山頭無其隠高僧貴附有智之僧とや其外美女小童不知其員召捕召列 御前へ参り悪僧之儀者不及是非是者被成御扶ケ候へと声々に雖申上い中々無御許容一々に頸を打落され目も当られぬ有様也数千之屍算を乱し哀成仕合也年来之被散御胸朦訖 去而志賀郡明智十兵衛に被下坂本に在地候之也

九月廿日 信長公濃州岐阜に至て御帰陣

巻四(六)
御修理造畢之事
九月廿一日 河尻与兵衛 丹羽五郎左衛門 両人に被仰付 高宮右京亮 一類歴々佐和山へ召寄生害也切而出相働候へとも無別条成敗也 子細者先年野田福島御陣之時大坂へ心を合一揆蜂起之致調略御陣半御取出天満か森河口之足かゝりより大坂へ走入候之也

仰 禁中既御癈壊無正体御修理之儀御宴加之為を思食先年 日乗上人 村井民部丞為御奉行被仰付三ケ年に出来 紫宸殿 清涼殿 内侍所 昭陽舎 其外御局々無残所令造畢其上 御調物てふぶつ於末代無懈怠様に可有御沙汰 信長公被廻御案ヲ京中町人に属詫被預置其利足毎月進上候之様に被仰付候并怠転之オープンアクセス NDLJP:上36公家方御相続是又重畳御建立天下万民一同之満足不可過之々々於本朝御名誉御門家之御威風不可勝計亦御分国中諸関諸役所免許天下安泰往還旅人御憐愍御慈悲甚深シテ御冥加モ御果報も超世に弥増御長久之基也併学道立ルモ身被欲舉御名後代故也珍重々々

 

 
オープンアクセス NDLJP:上36巻五○巻之五 (元亀三年壬申)
信長公記巻五
太田和泉守 綴之
 

巻五(一)
むしやの小路御普請之事
元亀三年壬申

三月五日 信長公 江北表御馬を被出赤坂に御陣取次日横山に至て御着陣

三月七日 御敵城大谷と山本山之間五十町には不可過其間へ推入野陣を懸させられ 与語木本迄放火

也江北之諸侍連々申様与語木本へ手遺の砌者節所を越来之間是非共可及一戦の由申つる日比の口言こうげんむなしく足軽江さへ然々しか共不仕候て無異儀九日に横山迄御人数被打納三月十日常楽寺後泊

三月十一日 志賀郡へ御出陣 和爾に御陣を居させられ木戸田中推誥御取被仰付 明智十兵衛 中川八郎右衛門 丹羽五郎左衛門両三人取出にをかせられ

三月十二日 信長公直に御上洛二条妙覚寺御寄宿迚も細々御参洛の条 信長公を座所無之候ては如何之由にて上京むしやの小路にあき地の坊跡在之を御居住に可被相搆の旨被達 上聞候の処尤可然之由被仰出則従 公儀御普請可被仰付之旨の御斟酌雖被及数ケ度候頻 上意之事候間被応 御諚尾濃江三国之御伴衆ともしう者御普請被成御赦免不仕候畿内之面々等在洛にて候

三月廿四日 御鍬始有る先方に築地をつかせられ請取之手前に舞台をかさり児若衆色々美々敷出立にて笛大鼓つゝみを以て拍子を合囃立各も被乗典いとゝさへ都は人之群集と申候へは御普請の上下見物之貴賤花を手折袖を連衣香はらいあたり四方に薫し様々諸の有仕立天下納面おさまり 白候之也 御普請奉行村井民部島田所助 御大工棟梁 池上五郎右衛門被仰付候キ 細川六郎殿 岩成主税頭始て今度 信長公へ御礼被仰御在洛候之也 今般いまたみ大坂門跡ヨリ万里江山ノ一軸并白天目 信長公へ進上也

オープンアクセス NDLJP:上37巻五(二)
交野へ松永取出仕御被追払之事
去程に 三好左京太夫殿 非儀を思食立 松永弾正 息右衛門佐 父子と被仰談対畠山殿既被及 鉾楯候 安見新七郎居城交野へ差向 松永弾正 取出を申付候其時之大将として 山口六郎四郎 奥田三川 両人勢衆三百計取出に在城也

信長公より可討果之旨に而被遺御人数 佐久間右衛門 柴田修理亮 森三左衛門 坂井右近 蜂屋兵庫 斎藤新五 稲葉伊予 氏家左京亮 伊賀伊賀守 不破河内 丸毛兵庫 多賀新左衛門 此外五畿内 公方衆を相加為後詰御人数被出取出を取巻しゝ垣結まはし被置候処に風雨の紛に切抜候之也 三好左京太夫殿は若江に楯籠松永弾正は大和之内信貴之城に在城也息右衛門佐は奈良之多門に居城也

五月十九日 信長天下之儀被仰付濃州岐阜に至て御下

巻五(三)
奇妙様御具足初に虎後前山御要害事
七月十九日 信長公之嫡男 奇妙きみやう公 御具足初に信長被成御同心御父子 江北表に至て御馬を被出其日赤坂に御陣取次日横山に御陣を居られ 廿一日 浅井居城大谷へ推詰めひはり山虎後前とらごぜ山へ御人数上られ 佐久間右衛門 柴田修理 木下藤吉郎 丹羽五郎左衛門 蜂屋兵庫頭被仰付町を破らせられ一支もさゝへす推入水之手まて追上数十人討捕 柴田修理 稲葉伊予 氏家左京助 伊賀伊賀守 是等を先手に陣とらせ次日 阿閇淡路守楯籠居城山本山へ 木下藤吉郎 被差遣麓を放火可然間城中之足軽共百騎計罷出相支へ 藤吉郎見計噇と切かゝり切崩し頸数五十余討捕 信長公御褒美不斜

七月廿三日 御人数をし出越前境与語木下地蔵坊中初として堂塔伽藍名所旧跡不一宇も焼払

七月廿四日 草野之谷是又放火候并に大吉寺と申して高山能搆五十坊の所候近里近郷の百姓等当山へ取上候前者嶮難のほり難きに依て麓を襲はせ夜中より 木下藤吉郎丹羽五郎左衛門うしろ山続に攻上一揆僧俗数多切捨られ海上者打下ウチオロシの 林与次左衛門 明智十兵衛 堅田之 猪飼野甚介 山岡玉林馬場孫次郎居和又二郎被仰付囲舟カコイフネと拵 海津浦 塩津浦与語之入海江北之敵地焼払竹生島へ舟を寄火屋大筒鉄炮を以て被攻候此中江北に不キカズ一揆と云事を企徘徊之奴原風に木葉之散様にちり失候て今は一人も無之猛勢とり詰巻田畠苅田に申付られ候間浅井人数は次第に手薄に罷成也

七月廿七日より 虎後前山御取出之御要害被仰付然者浅井方より越前之 朝倉かたへ注進之申様尾州河内長島より 一揆蜂起候て尾濃之通路をとめ既難儀に及はせ候問此節 朝倉馬を出され候へは尾濃之人数悉討果之由偽申遣し候注進実に心得朝倉左京太夫義景人数壱万五千計にて

七月廿九日 浅井居城大谷へ参着候雖然此表之為体見及難抱存知高山大ずくへ取上居陣也然処を足軽共に可責を被仰付則若武者とも野に臥山に忍入のほりさし物道具を取頸二ツ三ツ宛取不参日も無之高名之随軽重被加其御褒美之間弥嗜ミ大方ならす

八月八日に 越前の 前波九郎兵衛父子三人此御陣へ被参候 信長公之御祝着不斜則帷御小袖御馬皆具共に拝領被申候翌日又 富田弥六 戸田与次 毛屋猪介被参候是又色々被下忝次第不成大方虎後前山御取出御普請無程出来訖御巧と以て 当山之景気有興仕立生便敷御要害不及見聞之由にて各耳目被驚候御座敷より北を御覧せられ候へは浅井 朝倉 高山大ずくへ取上入城し及難堪なんかん之峠西は海上漫々として向者比叡山八王寺昔者尊き霊地たりといへとも一年山門之衆徒等企送心自業得果之道理を以て山上山下為灰燼ト是御憤ヲ散せられ御存分に被仰付たる所也又南者志賀唐崎石山寺彼本尊と申者大国宸旦迄も無隠霊験殊勝之観世音徃昔紫式部も所願を叶へ古今翫所くはんしよ之源氏之巻を注しをかれたる所也オープンアクセス NDLJP:上38 東は高山伊吹山麓者あれて残し不破の関何れも眼前及所之景気又丈夫なる御普請難申尽次第也虎ごせ山より横山迄間三里也程遠く候間其繋として八相山宮部郷両所に御要害被仰付 宮部村には宮部善祥坊入をかせられ八相山には御番手之人数被仰付虎後前山より宮部迄路次一段あしく御武者之出人之為道之ひろさ三問々中に高々とつかせられ其へり敵之方に高さ一丈に五十町之間築地をつかせ水を関入徃還たやすき様に被仰付事も生便敷御要害申も愚に候朝倉此表に候ても不苦候間横山に至て 信長公御馬を可被納之旨候其一両日以前に 朝倉かたへ使者を立させられ迚も是迄出張之事候間日限をさし以一戦被果候てと 堀久太郎を以て雖被仰遣候中々ふ及返答之間虎後前山には 羽柴藤吉郎 定番とし而入被置

九月十六日 信長公嫡男 奇妙公御父子横山に至て御馬を被納候へき

霜月三日 浅井 朝食人数を出し処後前山より宮部迄つかせとれ候処地可引崩てだてとし 浅井七郎 足軽大将にて先を仕懸り来則 羽柴藤吉郎人数を出し取合 梶原勝兵衛 毛屋猪介 富田弥六 中野又兵衛 滝川喜左衛門 先懸にて暫支合追崩し各高名無比類 滝川喜左衛門事日比御近習に被召使者候此以前大谷表にて大さし物を仕罷出させる働も無之曲事と被仰出此頃蒙御勘当虎後前山に居残今度目に見へ候働を仕各御取合にて御前へ被召出播面目也

巻五(四)
味方か原合戦之事
是者遠州表之事 霜月下旬 武田信玄遠州二股之城取巻之由注進在之則 信長公御家老之衆 佐久間右衛門 平手甚左衛門 水野下野守大将として御人数遠州浜松に至参陣之処に早二股之城攻落し其競に武田信玄堀江之城へ為打廻相働い家康も浜松之城より御人数被出身方か原にて足難共取合 佐久間平手初として懸付互に人数立台既に一戦に取向 武田信玄水股みづまた之者と名付て三百人計真先にたて彼等にはつぶてをうたせて推大鼓を打て人数かゝり来ル一番合戦に 平手甚左衛門 同家臣之者 家康公之御内衆 成瀬藤蔵

十二月廿二日 身方か原にて数輩討死在之 去程に 信長公 幼稚より被召使い御小姓衆 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛弾 加藤弥三郎 四人 信長公之蒙御勘当 家康公を奉憑遠州に身を隠し居住いらひし是又一番合戦に一手にかゝり合手前無比類討死也爰に希代之事有様子者尾州清洲之町人具足屋玉越三十郎とて年頃廿四五之者有四人衆見舞として遠州浜松へ参候折節 武田信玄 堀江之城取詰在陣之時候定て此表可相働候左候は々可及一戦候間早々罷帰候へと四人衆達而異見候へは是迄罷参りい之処をはづして罷帰候は々以来口はきかれましく候間四人衆討死ならは同心すへきと申切不罷帰四人衆と一所に切てまいり枕を並て討先也 家康公中筋切立られ軍之中に乱れ入左へ付て身方か原のきし道之一騎打を退せられ候と御敵先に待請支へ候馬上より御弓まて射倒し懸抜御通候是ならす弓之御手柄不于今浜松之城堅固候被成御拘 信玄者得勝利人数打入候也

 

 
オープンアクセス NDLJP:上39巻六○巻之六 (元亀四年癸酉)
信長公記巻六
太田和泉守 綴之
 

巻六(一)
松永多門城渡進上付不動国行
元亀四年癸酉去年冬 松永右衛門佐 御赦免に付て多門の城相渡候則 山岡対馬守為定番多門にをかせられ

正月八日 松永弾正 濃州岐阜へ罷下天下無双の名物 不動国行進上候て御礼被申上以前も代に無隠薬研藤四郎進上也

巻六(二)
公方様御謀叛付十七ケ条
去程に 公方様内々御謀叛思食立之由無其隠候子細者非分の働共無御勿躰之旨去年捧十七ケ条御異見の次第

  条々

御参内之儀光源院殿御無沙汰に付て果而無御冥加次第事旧く依之当御代之儀年々無僻怠様にと御入洛の刻より申上候処早被思食忘近年御退転無勿躰存候事

諸国へ御内書を被遣馬其外御所望の躰外聞如何に候の間被加御遠慮尤存候但被仰遣候はて不叶子細者信長に被仰聞添状可仕の旨兼て申上被成其心得の由候つれ共今はさも無修座遠国へ被成御内書御用被仰之儀最前首尾相違候何方にも可然馬なと御耳に入候はゝ信長馳走申進上可仕の山申奮候キさ様には候はて以密々直に被仰遣義不可然存候事

諸侯の衆方々御届申忠節無踈略輩には似相の御恩賞不被宛行今々の指者にもあらさるには被加御扶持候さ様に候ては忠不忠も不入に罷成候諸人のおもはく不可然事

今度雑説に付て御物をのけさせられ候都鄙無其隠候其京都以外忩意そういたる由驚存候御搆に普請以下オープンアクセス NDLJP:上40苦労造作を仕候て御安座の儀候処御物を被退候て再何方へ可被移御座候の哉無念の子細候さ候時は信長辛労も徒に罷成候事

賀茂の儀岩成に被仰付百性前堅御糺明の由表向御沙汰候て内儀は御用捨の様に申触し候物別か様の寺社方御欠落如何にと存候へとも岩成堪忍不届とゝかす令難饑の由候間先此分にも被仰付御耳をも被休又一方の御用にも被立候様にと存候処御内儀如此候へは不可然存候事

信長に対し無等閑輩女房衆以下まても思食あたらるゝ由候令迷惑候我等に無疎略者と被聞食候はゝ一入被懸御目候様に御座候てこそ忝可存候をかひさまに御意得こゝろへなされ候如何の子細候哉の事

無恙致奉公何の科も御座候はね共不被加御扶助京都の堪忍不届者共信長にたより歎申候定て私言上候はゝ何とそ御憐も可在之かと存候ての事候間且は不便に存知且は 公儀御為と存候て御扶持の義申上候へ共一人も無御許容候余文緊なる御諚共候間其身に対しても無面目存候勧世与左衛門古田可兵衛上野紀伊守類の事

若州安賀庄御代官の事栗屋孫八郎訴訟申上候間難去存種々執申参らせ候も御意得不断過来候事

小泉女家預ケ置雑物再質物に置候腰刀脇指等まて被召置の由候小泉何とそ謀叛をも仕造意曲事の子細も候はゝ根を断葉を枯しても勿論候是者不計喧嘩にて果候間一且被守法度は尤候是程まて被仰付候儀は御欲徳の儀によりたると世間に可存候事

元亀の年号不吉候間改元可然の由天下之沙汰に付て申上候 禁中にも御催の由候処聊の雑用不被仰付千今延々候是は天下の御為候処御油断不可然存候事

烏丸事被蒙勘気の由候息の儀は御憤も無余儀候処誰哉覧内儀の御使を申候て金子を被召置出頭させられ候由候歎敷候人により罪に依て過怠として被仰付候趣も可在之候是はしやう性之仁候当時公家には此仁の様の処如此次第外聞咲止に存候つる事

他国より御礼申上金銀を進上歴然候処御隠密候てをかせられ御用にも不被立候段何の御為候哉之事

明智地子銭を納置買物のかはりに渡遣候を山門領之由被仰懸預ケ置候者の御押の事

去夏御城米被出金銀に御売買の由候 公方様御商買の儀古今不及承候今の時分候間御倉に兵粮在之躰こそ外聞尤存候如此の次第驚存候事

御宿直に被召寄候若衆に御扶持を被加度思食候はゝ当座何成共可有御座事候処或御代官職被仰付或非分の公事を申につかせられ候事天下褒貶沙汰限候事

諸侯の衆武具兵粮以下の嗜はなく金銀を専に藷之由候牢人之支度と存候是も上様金銀を被取置雑説砌者御搆を被出候に付て下々迄もさては京都を捨させらるへき趣と見及申候て之儀たるへく上一人を守候段不珍候事

諸事に付て御欲かましき儀理非も外聞にも不被立入由其聞候然間不思儀の土民百姓に至迄も悪御所と申成由候 普光院殿をさ様に申たると伝承候其は各別の儀候何故如此御影事を申候哉爰を以て御分別参るへき歟の事 以上

右の旨御異見の処金言逆御耳候巻六(三)
石山今堅田被攻候事
然処遠州表者 武田信玄差向江北表は浅井下野同備前父子越前の朝倉彼等の大軍に取合虎後前山番手半に候て方々御手フサガリの由下々申候付て之儀候哉雖然 信長年来の御忠オープンアクセス NDLJP:上41節むなしく候はん事都鄙の嘲哢御無念に被思食 日乗上人 島田所之助 村井長門守 三使を以て如御好人質再御誓紙被成御進上無御等閑趣種々様々難御歎候御和談無之結句光浄院磯貝新右衛門 渡

辺 躰の者内々被加御詞彼等才覚にて今堅田へ人数を入石山に取出之足懸りを搆候則可追払之旨 柴田修理亮 明智十兵衛尉 丹羽五郎左衛門尉 蜂屋兵庫頭 四人に被仰付

二月廾日に罷立廿四日に勢田を渡海し石山へ取懸候山岡光浄院大将として伊賀中賀衆を相加在城也雖然未普請半作の事候間

二月二十六日降参申石山の城退散則破却させ

二月廿九日辰剋今堅田へ取懸二明智十兵衛囲舟を拵海手の方を東より西に向て被攻候 丹羽五郎左衛門 蜂屋兵庫頭 両人者辰巳角より戊亥へ向て被攻候終に午剋に 明智十兵衛攻口より乗破訖数輩切捨 依之志賀郡過半相静 明智十兵衛 坂本に在城也 柴田修理 蜂屋兵庫頭 丹羽五郎左衛門両三

人帰陣候し也   公方様御敵の御色を立させられ候し也 京童落書云 かそいろもやしなひ立し甲斐もなくいたくも花を雨のうつ音と書付洛中に立置候らひし

巻六(四)
公方様御搆取巻之上に而御和談之事
三月廿五日 信長御入洛之御馬を出され然処に 細川兵部太輔 荒木信濃守 両人形身方の御忠節として 廿九日に逢坂まて両人御迎被参 御機嫌無申計東山智恩院に至て 信長御居陣諸手の勢衆白川と粟田口 祇園 清水 六波羅 鳥羽 竹田在々所々に陣取候此時大ごうの御腰物 荒木信濃に被下名物の御脇指 細川兵部太輔殿へ

四月三日 先洛外の堂塔寺庵を除き御放火候此上にでも可上意次第旨被御扱候へとも無御許容之間不御了簡

翌日又御搆を押上京御放火候爰にて難拘被思食可有御和談の旨上意候尤の由候て

四月六日 信長公御名代として 津田三郎五郎御入眼しゆがんの御礼被仰上無異子細候間

巻六(五)
百済寺伽藍御放火之事
七月七日 信長公 御蹄蹄其日は守山に御陣取是より直に百済寺へ御出二三日御逗留有て 鯰江之城に 佐々木右衛門督被楯籠 攻衆人数 佐久間右衛門尉蒲生右兵衛大輔丹羽五郎左衛門尉柴田修理亮 被仰付四方より取詰付城させられ候近年鯰江之城百済寺より持続一揆同意たるの由被及聞食 四月十一日 百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉灰燼なる哀成様不被当目其日岐阜に至て御馬被納候キ

巻六(六)
大船被作候事
公儀右之不御憤終に天下御敵たる之上定而湖境として可被相塞其時の為に大船を拵五千も三千も一度に推付可被越の由候て

五月廿二日 佐和山へ被移御座多賀山田山中の材木をとらせ佐和山麓松原へ勢利川通引下し国中鍛冶番匠杣を召寄御大工岡部又右衛門棟梁にて舟之長さ三十間横七間櫓を百挺立させ艦船に矢蔵を上可致丈夫之旨被仰聞在佐和山なされ無油断夜を日に継任候間無程

七月五日 出来訖事も生便敷大船上下驚耳目如案

七月三日 公方様又御敵之御色を立られば搆には 日野殿 藤宰相殿 伊勢守殿 三淵大和守 被置真木島は至て御座を被移候之由注進在之則

七月六日 信長公 彼大船にめされ雖風吹候坂本口へ推付御渡海也其日は坂本に御泊

七月七日 御入洛二条妙覚寺に御陣を居られ候猛勢を以て御搆被取巻公家衆大軍に驚耳目御佗言申人オープンアクセス NDLJP:上42質進上被申各も御同陣にて候也

巻六(七)
公方様真木島に至て御退座の事
七月十六日 真木島へ 信長御馬をよせられ五ケ庄之やなき山にり陣陣をとをさせられ則宇治川乗渡し真木島可攻破之旨被仰出誠に名も高き宇治川漲下ツテ逆巻流るゝ大河表渺として冷しく輙可打越事大事と各雖被存知候可有御用捨御気色無之於致延引者 信長公 可被成後先陣之旨候雖遁題目也就而両手を分而可打越之趣被仰出候さ候間任先例川上平等院之丑寅より昔梶原と佐々木四郎先陣争ひて被渡候所を 稲葉伊予 息右京助 同彦六先陣にて 斎藤新五 氏家左京助 伊賀伊賀守 不破河内 息彦三 丸毛兵庫頭 息三郎兵衛 飯沼勘平 市橋伝左衛門 種田助丞 噇と打越平等院之門前へ打上り鬨音を上て則近辺に被烟 又川下五ケ庄前川を西向て 被越候衆 佐久間右衛門 丹羽五郎左衛門 柴田修理亮 羽柴筑前守 蜂屋兵庫頭 明智十兵衛 荒木摂津守 長岡兵部太輔 息与一郎 蒲生右兵衛太輔 息忠三郎 永原筑前守 進藤山城守 後藤喜三郎 永田刑部少輔 山岡美作守 息孫太郎 山岡玉林 多賀新左衛門 山崎源太左衛門 平野 小河孫一 弓徳左近兵衛 青地千代寿 京極小法師 池田孫次郎

巻六(八)
真木島ニテ御降参公方様御半人之事
七月十八日巳刻両口一度に其手を争中島へ西へ向て噇と被打渡候誠に事も生便敷大河御威光を以て無難打越暫人馬之息をつかせ其後真木島へ心懸南向に旗首を揃真木島より出る足軽を追立佐久間蜂屋両手へ随分之頸数五十余討捕也四方より真木島外搆乗破焼上攻られ 公方様御城廓者是に過たる御搆無之と被思食雖御動座候今は無詮御手前之御一戦に取結候今度させる御不足も無御座之処無程御恩を忘られ被成御敵に候の間爰にても腹めさせ候はんすれ共天命をそろしく御行衛思食儘に有はからす御命を助流し参せられ候て先々にて人の褒貶にのせ申さるへき由にて若公様をは被止置怨をは恩を以て被報之由にて河内国若江之城迄 羽柴筑前守秀吉 御警固にて送被届誠に日比者与車美々敷御粧之御成歴々の御上臈達歩立赤足にて取物も不取敢御退座一年御入洛之砌者 信長公供奉なされ誠に草木も靡計之御威勢にて覚を並へ囲前後御果報いみしき 公方様哉と諸人敬候へキ此度者引替御鎧の袖をぬらさせられ貧報公方と上下指をさし嘲哢をなし御自滅と申なから哀成有様目もあてられす真木島には信長より細川六郎殿を入置申され諸勢南方表打出し在々所々焼払

七月廾一日 京都に至て被納御馬訖 公方様御同意として叡山の麓一乗寺に足懸り拵 渡辺宮内少輔磁貝新右衛門両人楯籠候降参申退散磯貝新右衛門紀伊国山中に蟄居候のを被誅させ候也 山本対馬守静原山に取出を搆御敵とし而居城也 明智十兵衛被仰付取詰をかせられ 今度上京御放火に付て町人迷惑可仕と被思食地子銭諸役銭等指をかせられ忝之由申候て即時に町々家屋元之如く出来訖

天下所司代村井長門守 被仰付在洛候て天下諸色しよいろ被申付候也

巻六(九)
大船にて高島御働木戸田中両城被攻事
七月廿六日信長公御下 直に江州高島表彼大船を以て御参陣陸は御敵城 木戸 田中 両城へ取懸被攻海手者大船を推付 信長公御馬廻を以てせめさせらるべき処降参申罷退則木戸田中両城 明智十兵衛に被下

高島浅井下野同備前彼等進退の知行ちきやう所へ御馬寄られ林与次左衛門所に至て被成御居陣当表悉御放火

巻六(十)
岩成被討果候事
去程に 公方様より被仰付淀の城に 岩成主税頭 番頭ばんかしら大炊頭 諏訪飛弾守両三人楯籠候 羽柴筑前守秀吉 調略を以て 番頭大炊 諏訪飛弾両人を引付御忠節可仕の旨御請申然間 永岡兵部大輔 被オープンアクセス NDLJP:上43仰付淀へ手遣い処 岩成主税頭 城中を懸出候則両人としてたて出し候切てまはり候を 永岡兵部大輔臣下 下津権内と申者組討に頸を取高島へ持参候て頸を懸御目に高名無比類の旨被成御感忝もめされたる御道服どうふくを被下面目の至冥加の次第也何方も属御存分

八月四日 濃州岐阜に至て御帰陣。

巻六(十一)
阿閉謀叛之事
八月八日 江北阿閇淡路守 御身方の色を立則夜中 信長 御馬を被出其夜御敵城つきがせ の城あけのき候也

八月十日 大づくの北 山田山に悉陣とらせ越前への通路御取切候 朝食左京太夫義景後巻として二万計罷立与語木本たべ山に陣取候近年浅井下野守大づくの下やけをと云所こしらへ 浅見対馬を入置候是又 阿閇淡路と同心に御身方の色を立御忠節とし

八月十二日 大づくの下 やけをへ 浅見対馬 覚語にて御人数引入候其夜は以外雖風雨候虎後前山まは 信長公の御息嫡男勘九郎殿置申され 信長雨にぬれさせられ候て御馬廻被召列太山大づくへ御先懸にて攻上らせられ既可乗入処越前より為番手 斎藤 小林 西方院 三大将人数五百計楯籠色々降参仕候尤可被討果事に候へとも 風雨と云夜中大づく落去の躰 朝倉左京太夫被存知間敷候の間此者共命を助敵陣へ被送遣此表難拘仕合敵の勢衆に知らせ其上 朝倉左京太夫陣所へ可被打向之御存分にて右籠城の者敵所へ被送遣大づくには 塚本小大膳 不破河内 同彦三 丸毛兵庫 同三郎兵衛被入置直に又 ようの山 信長御取懸候平泉寺の玉泉坊 為番手楯籠候是も御侘言申罷退然者 信長御諚まは必定今夜 朝倉左京太夫可退散候先手に差向候衆 佐久間右衛門 柴田修理 滝川左近 蜂屋兵庫頭 羽柴筑前 丹羽五郎左衛門 氏家左京助 伊賀伊賀守 稲葉伊予 稲葉左京助 稲葉彦六 蒲生右兵衛太輔 浦生忠三郎 永原筑前 進藤山城守 永田刑部少輔 多賀新左衛門 弓徳左近 阿閇淡路 同孫五郎 山岡美作守 同孫太郎 山岡玉林 此外歴々の諸卒爰をのかし候はぬ様に可覚語仕之旨再徃再三被仰遣其上御いらてなされ 十三日夜中に越前衆陣所へ 信長又被成御先懸被懸付候然而度々被仰遣候御先陣にさし向候衆油断候て 信長の御先懸被成候を承候而御跡へ参られ候地蔵山を越候て御目まかゝり候は数度被仰含候に見合候段各手前の比興曲事くせごとの由御諚候処に

信長へこされ申面目も無御座の旨滝川 柴田 丹羽 蜂屋 羽柴 稲葉 初とし而謹而被申上候 佐久間右衛門涙を流しさ様に被仰候共我々程の内の者はもたれ間数と自讚を被申候 信長御腹立不斜其方は男の器用を自慢にて候歟何を以ての事片腹痛申様哉と被仰御機嫌悪く如御分別朝倉左京太夫義景癈軍候のを討捕頸共我もと持参候此時も馬にめし御出候 中野河内口 刀根口二手に罷退候何方へ付いて可然候はん哉と相支僉議マチヽ候処に 信長御諚には引檀敦賀の身方城を心懸可退候間引檀口へ人数を付候へと御諚候如案中野河内口へは雑兵を退 朝倉左京太夫名有程の者共を召列敦賀をさしてのかれ候頓て刀根山の嶺にて懸付心ばせの侍衆帰し合相支塞戦候へとも不叶敦賀迄十一里追討に頸数三千余有注文手前にて見知の分 朝倉治部少輔 朝倉掃部助 三段崎六郎 朝倉権守 朝倉土佐守 河合安芸守 青木隼人佐 鳥居与七 窪田将監 詫美タクミ越後 山崎新左衛門 土佐掃部助 山崎七郎左衛門 山崎肥前守 山崎自林坊 ほそろ木治部少輔 伊藤九郎兵衛 中村五郎右衛門 中村三郎兵衛 中村新兵衛 金松又四郎討取之 長島大乗坊 和田九郎右衛門 和田清左衛門 引壇六郎二郎オープンアクセス NDLJP:上44 小泉四郎右衛門 湊州龍奥 印牧弥六左衛門 此外宗徒の侍数多討死爰に不破河内守内の原野賀左衛門と申者印牧弥六左衛門を生捕御前へ参候御尋に依て前後の始末申上之処神妙の働無是非の間致忠箇候はゝ一命可被成御助と御諚候爰にて印牧申様は朝倉申対し日比遺恨雖深重の事候今此刻歴々討死候処に述懐を申立生残御忠節不叶時者当座を申たると思召御扶持も無之候へは実儀も外聞も見苦敷候はんの間腹を可仕と申乞生害前代未聞の働名誉不及是非

同日落城の数 大づゝ やけ尾 つきがせ ようの山 たべ山 義景本陣田上山 引檀 敦賀 志津か嵩 若州栗屋越中所へさし向候付城共に拾ケ所退散

去程に 信長 年来御足なかを御腰に付させられ候今度刀根山に而金松又四郎武者一騎山中を追懸終に討止頸を持参候其時生足スアシに罷成足はくれなゐに染て参り候御覧し日比御腰に付させられ候御足なか此時御用に立られ候由御諚候て金松に被下且冥加の至り面目の次第也 信長公 御武徳両道御達者の故案の内の大利を得させられ十四日十五十六日敦賀に御退留所々の人質執固 十七日木目峠打越国中御乱入

八月十八日 府中龍門寺に至て御陣を居させられ朝倉左京太夫義景我舘一乗の谷を引退大野郡之内山田庄六坊と申所へのかれ候さしもやむをなき女房達輿車は名のみ聞て取物も不取敢かちはたしにて我先にと義景の跡をしたひて落られたり誠に目も当られす申は中々愚也然処に 柴田修理亮 稲葉伊予 氏家左京助 伊賀伊賀守初として平泉寺口へ義景を追懸御人数被差遣其上諸卒手分をして山中へ分入てさかし候へと被仰出毎日百人弐百人宛一揆共龍門寺御大将陣へ括縛クヽリシハリ召列参り候を御小性衆に被仰付無際限討させもれ不目様躰也爰に野仁やしんの者共けたかきかと有入と見えたる女房の下女をもつれ候はて唯一人在之をさかし出し五三日いたらぬ奴原止置候処に或時硯をかりてはな紙の端に書置をしてたはかり山て井土いどへ身をなけ果られ候後に人最を見れは此歌也 ありをれはよしなき雲も立かゝるいさや入なむ山のはの月 と一首を書置此世の名残是迄也見る人哀に思ひてなみたをなかさすと云者なし平泉寺僧衆御忠節可仕の由候て人数を出し手を合 朝倉方京太夫義景難遁様躰也

爰に朝倉同名に 式部大輔と申者無情義景に腹をさらせ 鳥居与七 高橋甚三郎 致介錯両人之者も追腹仕候中にも 高橋甚三郎働無比類之由候 朝倉式部大輔義景の頸を府中龍門寺へ持せ越 八月廿四日 御礼被申 名字の云総領ト親類ト前代未聞之働也 義景之母儀並嫡男阿君丸尋出シ 丹羽五郎左衛門に被仰付生害候也 去て国衆縁々を以て帰参之御礼門前成市事候則義景頸 長谷川宗仁に被仰付京都へ上せ獄門に懸させられ越前一国平均候間国中の掟を被仰付 前波播磨守 守護代としてをかせられ

八月廿六日 信長公 江北虎後前山迄御馬被納

八月廿七日 夜中に羽柴筑前守京極つぶらへ取上 浅井下野同備前父子之間を取切先下野居城を乗取候爰にて 浅井福寿庵腹を仕候去程に年来目を懸られ候鶴松太夫と申候て舞をよく仕候者にて候下野を介錯し去而其後 鶴松大夫も追腹仕名誉無是非次第也 羽柴筑前守下野か頸を取虎後前山へ罷上御目に被懸候翌日又 信長京極つふらへ御あかり候て浅井備前 赤生美作生害させ浅井父子の頸京都へ上せ是又獄門に懸させられ又浅井備前十歳之嫡男御座候を尋出し関か原と云所に張付に懸させられ年オープンアクセス NDLJP:上45来之被散御無念訖 爰にて江北浅井跡一職進退に羽柴筑前守秀吉御朱印を以て被下忝面目之至也

九月四日 信長 直に佐和山へ被成御出鯰江の城可攻破之旨 柴田は被仰付候則取詰候処佐々木右衛門督降参候て退散也 何方も被任御存分

九月六日 信長公 岐阜に至て御帰陣

去程に 杉谷善住坊鉄炮之上手にて候先年 信長 千草峠御越之砌佐々木承禎に憑まれ候て山中にて鉄炮二玉をこみ十二三間隔無情打申すされ共天道昭覧にて 信長の御身は少宛打かすり鰐の口御遁れ候て岐阜御帰陣候キ此比杉谷善住功は鯰江香竹を憑み高島に隠居候を 磯野丹波召捕 九月十日岐阜へ菅屋九右衛門 祝弥三郎両人為御奉行千草山中にて鉄炮を以て打申候子細被成御尋思食儘に被遂御成敗たてうづみにさせ頸を鋸にてひかせ日比の御憤を散せられ上下一同之満足不可過之

九月廿四日 信長 北伊勢に至て御馬を出され其日は大柿之城御泊 廿五日大田之城小稲葉山に御陣取 江州衆ははつふおふぢ畑越にて候廿六日彙名表へ人数打出し西別所に一揆楯籠候之を 佐入間右衛門 羽柴筑前守 蜂屋兵庫頭 丹羽五郎左衛門 四人として取懸責破数多切捨られ候 柴田修理 滝川左近両人者さか井の城片岡と云者之搆取巻被攻候の処降参申 十月六日 退出のきいて右両人直に ふかやべの近藤 城取懸かねほりを入被攻是も御佗言申罷退

十月八日 信長 東別所へ御陣を寄させられ依之 いさか かよふ 赤堀 たなべ 桑部 南部 千草 長ふけ 田辺九郎次郎 中島勘解由左衛門何れも人質進上候て御礼申上候爰に白山シラヤマ之 中島将監御礼に不罷出候然間 佐久間 蜂屋 丹羽 羽柴 此四人を被仰付築山を築かねほりを入被攻候難拘存知此上にて御侘言申退散

去程に京都静原山に楯籠御敵 山本対馬 明智十兵衛 調略を以て生害させ頸を北伊勢 東別所まて持来進上為御敵者悉属御存分御威光不申足 北伊勢一篇に罷成河内長島も過半相果迷惑仕之山候 矢田之城御普請丈夫に被仰付滝川左近人被置

十月廿五日 信長 北伊勢より御馬を納られ 左は多芸山たけやま茂りたる高山也有手者入川足入多有て茂りたる事不大方山下に道一筋めくりまはつて節所也 信長のかせられしを見申御跡へ河内之奴原弓鉄炮にて山へ移まはり道之節所を支へ伊賀甲賀のよき射手の者共馳来てさしつめ引つめ散 に討たをす事無際限雨つよく降て鉄炮者互に不入物也 爰に越前衆の内 毛屋猪介爰にては支へ合かしこにては扣合数度の働無比類 信長公の一長 林新大郎残し被置数度追払節所のつまりにては相支火花をちらし相戦 林新二郎 并家子郎等枕をならへ討死也 林与力に 賀藤次郎左衛門と申者尾張国久取合の内爰はと云時にはよき矢を仕候て人々存知たる射手也此度も先へ懸る武者をは射倒シ林新二郎と一所に討死名誉と云事愚也其日は午刻より及薄暮以外風雨にて下の人足等寒死候へキ夜に入て大柿城まて 御出 十月廿六日 岐阜御帰陣也

霜月四日 信長 御上洛二条妙覚寺御寄宿三好左京太夫殿非儀を被相搆依而家老の衆 多羅尾右近 池田丹後守 野間佐吉両三人企別心 金山駿河万端一人之任覚悟候の間 金山駿河を生害させ 佐久間右衛門を引入天主の下迄攻迯候処難叶思食御女房衆御息達皆さし殺切て出余多之者に手を負せ其後左京太夫殿腹十文字に切無比類御働哀成有様也 御相伴人数 那須久右衛門 岡飛騨守 江川 右三オープンアクセス NDLJP:上46人追腹仕名誉之次第此節也若江の城両三人御忠節に付てあつけ被置

十月二日 信長公 岐阜に至て御帰城候也

 

 
オープンアクセス NDLJP:上46巻七○巻之七 (天正二年甲戊)
信長公記巻七
太田和泉守 綴之
 

巻七(一)
義景浅井下野浅井備前三人首御看之事
天正二年甲戌

正月朔日 京都帰国面々等在岐阜にて御出仕有各三献にて召出しの御酒有他国衆退田の已後 御馬廻計にて

古今不及承珍奇の御肴出候て又御酒有去年北国にて討とらせられ候

朝倉左京太夫義景カウベ 一浅井下野 首 一浅井備前 首 已上三ツ薄濃ハクタミにして公卿くぎやう居置すゑおき御肴に出され候て御酒宴各御謡御遊興千々万々目出度御存に任せられ御悦也

巻七(二)
前波生害越前一揆蜂起之事
正月十九日 越前の 的波播磨 国中の諸侍共として生害させ候由申来候子細者越前の大国守護代として被居置候処に誇栄花栄耀恣相働傍輩対し万事に付て無礼至極に致沙汰の条諸侍企謀叛生害させ其上国端境目に要害を搆番手の人数を置其後者越前一揆持に罷成の由候 羽柴筑前守 武藤宇右衛門 丹羽五郎左衛門 不破河内守 同彦二 九毛兵庫 同三郎兵衛 若州衆 敦賀迄御人数被差遣

巻七(三)
明智之城いゝはさま謀叛之事
正月廿七日 武田四郎勝頼 岩村口相働

明智の城坂巻の由注進候則為後詰

二月朔日 先陣尾州濃州両国の御人数被出

二月五日 信長 御父子御馬を出され其日者三たけに御陣取次日高野に至て御居陣 翌日可被馳向の処山中の事候の間嶮難節所の地にて互に懸合ならす候山へ移御手遣なさるへき 御諚半の処城中にて いゝばさま右衛門 謀叛候て既に落去不及是非 高野の城御普請被仰付河尻与兵衛為定番被置オープンアクセス NDLJP:上47おり之城是又御普請被成 池田勝三郎御番手にをかせられ

二月廿四日 信長 御父子岐阜御帰城

巻七(四)
蘭奢待被切捕の事
三月十二日信長   御上洛佐和山二三日御逗留 十六日 永原御泊 十七日 志賀より坂本へ被成御渡海

相国寺初而御寄宿南都東大寺蘭奢待御所望の旨 内裏へ 御奏聞の処

三月廾六日 御勅使 日野輝資数 飛鳥井大納言殿為勅諚忝も被成 御院宣  則南都大衆致頂拝御請申翌日

三月廿七日 信長 奈良之多門に至て御出 御奉行 塙九郎左衛門 菅屋九右衛門 佐久間右衛門 柴田修理 丹羽五郎左衛門 蜂屋兵庫頭 荒木摂津守 夕庵 友閑 重御奉行 津田坊 以上

三月廿八日 辰刻御蔵開候へ訖彼名香長六尺の長持に納り在之則多門へ被持参御成之間於舞台懸御目任本法一寸八分被切捕 御供の御馬廻末代の物語に拝見可仕の旨御諚にて奉拝の事且御威光且御憐愍生前の思出忝次第不申足 一年東山殿被召置候已来将軍家御望の旁数多雖在之唯ならぬ事候の問不相叶仏天之有加護て三国無隠御名物被食置於本朝御名誉御面目之次第何事加之

巻七(五)
佐々木承禎石部城退散之事
四月三日 大坂御敵の色を立申候則御人数被出悉作毛薙拾近辺御放火候也

四月十三日 雨夜の紛に 佐々木承禎 甲賀口石部の城退散則 佐久間右衛門人数被入置候也

巻七(六)
賀茂競馬御馬被仰付之事
五月五日 賀茂祭競馬御神事天下御祈祷の事候幸御在洛の儀候間御馬被仰付候様にと伺申処 信長 度々かち合戦にめさせられ候蘆毛あしけ御馬并鹿毛かけ御馬二ツ其外御馬廻之駿馬を揃十八疋都合廿疋十番の分被仰付御馬の儀不及申廿疋の御馬御鞍鐙御轡一々何れも名物の御皆具被仰付生便敷破成御結搆舎人是又美々敷出立上古も不及承然而黒装束の禰宜十人赤装束の禰宜十人右の廿疋の御馬に乗一番宛馬を走かし勝負を争申也蘆毛の御馬鹿毛御馬元来駿馬にて達者なれば不及申御馬は何れも勝申候也末代之物語貴賤老若群集無申計天下諸色被仰付

五月廿八日 信長 岐阜に至て御下

巻七(七)
高天神城小笠原与八郎謀叛之事
六月五日 武田四郎勝頼 遠州高天神城 小笠原 御身方として居城候を相働取巻の由注進候則後詰うしろつめとして

六月十四日 信長公 御父子濃州岐阜を打立十七日三州の内吉田の城坂井左衛門尉所に至て御着陣

巻七(八)
黄金家康公へ被進候事
六月十九日 信長公 御父子今切の渡り可有御渡海の処 小笠原与八郎企逆心総領の小笠原を追出し武田四郎を為引入之由申来候無御了簡路次より 吉田城迄引帰させられ候 家康も遠州浜松より吉田へ御出候て御礼申の処に今度不被及御合戦事御無念に被思食候御兵粮代として黄金皮袋二ツ馬に付させ家康公へ被参則坂井左衛門財所にて皮袋一ツを二人して持上あけさせ御覧候処事も生便数様体貴賤御家中の上下致見物昔も不及承の由にて各驚耳目御威光不斜次第諸人奉感訖 家康公の御心中は計ひかたき御事也

六月廾一日 信長御父子濃州岐阜御帰陣

巻七(九)
河内長島一篇被仰付之事
六月十三日 河内長島為御成敗 信長御父子御馬を出され其日津島に御陣取抑尾張国河内長島と申者無隠節所也濃州より流出る川余多へ岩手川大滝川今洲川真木田川市の瀬川くんぜ川山口川飛弾川木曽オープンアクセス NDLJP:上48川養老之瀬此外山の谷水の流れ末にて落合大河となつて長島の東北西五里三里の内幾重共なく引廻し南者海上漫々として四方之箇所申は中愚也依之隣国之侫人凶徒等相集り住宅し 当寺崇敬す本願寺念仏修行之道理をは本とせす学文無智故誇栄花朝夕乱舞に日を慕し搆俗儀数ケ所端城を拵国方之儀を蔑如に持扱背モテアツカイ御法度御国にて御折檻の輩をも能隠家よくかくすいへと拘置御領知方依横領一年 信長公御舎弟織田彦七殿河内小休江の郷に至而被打越足懸を搆御在城の処先年信長公志賀御陣浅井朝倉と御対陣半御手塞と見及申一揆令蜂起既をくり日攻申 織田彦七 御腹めさせ緩怠の条々不可勝計 日比御鬱憤候へつれ共 信長天下之儀依被仰付御手透無御座御成敗被成御延引今度者諸口より取詰急度可被成御対治の御存分にて 東は御嫡男 織田菅九郎 一江口御越也 御伴衆 織田上野守 津田半左衛門 津田又十郎 津田市介 津田孫十郎 斎藤新五 簗田左衛門太郎 森勝蔵 坂井越中守 池田勝三郎 長谷川与次 山田三左衛門 梶原平次 和田新介 中島豊後守 関小十郎右衛門 佐藤六左衛門 市橋伝左衛門 塚本小大膳 西は賀鳥口 佐久間右衛門 柴田修理亮 稲葉伊予守 同右京助 蜂屋兵庫頭  松之木の渡り一揆相支候を噇と川を乗渡し馬上より数多切捨候也 信長公は中筋はやを口御先陣は 木下小一郎 浅井新八 丹羽五郎左衛門 氏家左京助 伊賀伊賀守 飯沼勘平 不破河内 同彦三 丸毛兵庫 同三郎兵衛 佐々蔵介 市橋九郎左衛門 前田又左衛門 中条将監 河尻与兵衛 津田大隅守 飯尾隠岐守 一揆小木江村を相塞候追払御通候又しのはしより一揆罷出相支候則木下小一郎浅井新八両人被懸向候 こだみ崎川口舟を引付一揆堤へ取上かゝへ候丹羽五郎左衛門懸向追崩し数多討捕まへがすゑび江島かろうと嶋いくいゝ嶋払 信長其日は五妙に野陣を懸させられ十五日に 九鬼右馬允あたけ舟滝川左近伊藤三丞水野監物是等もあたけ舟 島田所助林佐渡守両人も囲舟を拵其外浦々の舟をよせ蟹江 あらこ 熱田 大高 木多 寺本 大野 とこなべ 野間 内海 桑名 白子 平尾 高松 阿濃津 楠 ほそくみ 国司お茶筅公捶水 鳥屋野尻 大東 小作 田丸 坂奈井 是等を武者大将として被召列大船に取乗て参陣也諸手の勢衆船中に思ひの旗しるし打立綺羅星雲霞の如く四方より長島へ推寄既に諸口取詰被攻一揆致癈忘妻子を引つれ長島へ逃入 信長御父子 との妙へ被打越伸藤か屋敷に近陣きんぢんに御陣を居させられ懸まはし御覧し諸口の陣取被仰付候津敵城 しのはせ 大鳥居 屋長島 中江 長島五ケ所へ楯籠也 しのはせ攻衆 津田大隅守 津田市介 津田孫十郎 氏家左京亮 伊賀伊賀守 飯沼勘平 浅井新八 水野下野寺 横井雅楽助 大鳥居攻衆 柴田修理亮 稲葉伊予守 同喜六 蜂屋兵庫順 今島に陣取川手は大船を推付被攻候也 推の手として 佐久間父子江州衆を相加坂手の郷に陣を懸られ候也 長島の東 推付の郷陣取衆 市橋九郎右衛門 不破彦三 丹羽五郎左衛門 かろうと島口攻衆 織田上野守 林佐渡守 島田所の助 此外尾州の舟数百艘乗入海上無所

南大島口攻衆 御本所 神部三七 桑名衆 此外勢州の舟大船数白艘乗入海上無所諸手大鳥居しのはせ取寄大鉄炮を以て塀櫓打崩被攻候の処に両城致迷感御赦免の御佗言雖申迚も不可有程の条侫人為懲干殺になされ年来の緩怠狼藉可被散御鬱憤の旨にて御許容無之処に

八月二日 之夜以外風雨候其紛に大鳥居籠城の奴原夜中にわき出退散候へと男女千計被切捨候

巻七(十)
樋口夫婦御生書之事
八月十二日 しのはせ籠城の者長島本坊主ほんぼうずにて御忠節可仕の旨堅御請申の間一命たすけ長島へ被追入オープンアクセス NDLJP:上49去程に 木目峠に取出を拵 樋口を被入置候処如何様の含存分候之哉覧取出を明退妻子を召列候て甲賀をさしてかけ落候を 羽柴筑前守追手をかけ途中にて成敗候て夫婦二人の頸 長島御陣所へ持せこされ候也 今度長島長陣の覚悟なく取物も不取敢

七月十三日に 島中の男女貴賤不知其数長島又は屋長島 中江三ケ所へ逃入候既三ケ月相拘候間過半餓死うえしに仕候

九月廿九日 御佗官申長島明退候余多の舟に取乗候を鉄炮を揃うたせられ無際限川へ切すてられ候其中心有者ともはたかみ成伐刀計にて七八百計切而懸り伐崩し御一門を初奉り歴々数多討死小口へ相働留主のこ屋へ乱れ入思程支度仕候てそれより川を越多芸山北伊勢口へちりに罷退大坂へ迯入也 中江城 屋長島の城 開越を在の男女二万計幾重もさくを付取籠被置候四方より火を付焼ころしに被仰付属御存分 九月廿九日 岐阜御帰陣ごきちん巻七(十一)
御名物被召置之事

 

 
オープンアクセス NDLJP:中4巻八○巻之八 (天正三年乙亥)
信長公記巻八
太田和泉 綴之
 

巻八(一)
御分国道作被仰付事
天正三年乙亥

去年月迫に国々道を可作の旨 坂井文介高野藤蔵篠岡八右衛門山口太郎兵衛 四人為御奉行被仰付 御朱印を以て御分国中御触在之無程正月中出来訖 江川には舟橋被仰付嶮路を平らげ石を退て大道とし道の広さ三間に中路辺の左右に松と柳植置所々の老若罷出濺水ヲ払微塵ヲ致掃除候へキ先年より御分国中数多在之諸関諸儀等被成御免所以ユヘヲモツテ路次の滞聊以無之誠に難所の忘苦労ヲ牛馬のたすけ万民穏便をだやかに成往還黎民烟戸さゝす生前の思出難有次第成と尊卑挙十指忝拝し申候御齢者同朔母福者斎須達諸人存之而已

二月廿七日 御上洛捶井迄御出翌日雨降御滞留 廿九日佐和山丹羽五郎左衛門所被成御座

三月三日 永原御泊 次日御出京相国寺御寄宿 三月十六日 今川氏真御出仕百端帆御進上以前も千鳥の香炉宗祗香炉御進献の処宗祇香炉被成了返シ千鳥之香炉止置せられ候へキ 今川殿鞠を被遊の由被及聞食

三月廿日於相国寺御所望 御人数 三条殿父子 藤宰相殿父子 飛鳥井殿父子 弘橋殿 五辻殿 鷹司殿 烏丸殿 信長者御見物

巻八(二)
公家領徳政にて被仰付候事
四月朔日 被仰出趣既に近代 禁中御廃壊コハイエ之条在先年御修理の儀被仰付令成就畢併しかしなから 公家方被及御怠転タイテンの間方々沽却の地 村井民部丞 丹羽五郎左衛門 両人に被仰付為徳政とくせい公家業の本領被還附

主上公家武家共に御再与天下無双之御名誉不可過之

オープンアクセス NDLJP:中5巻八(三)
河内国新堀城被攻干並誉田城破却事
三月下旬 武田四郎三州の内あすけ口へ相働候則信長の嫡男 織田カン九郎尾州衆被召列御出陣候

四月六日 信長京都より直に南方へ御馬を被出其日八幡ヤハタに被懸御陣次日若江に至て御陣取大坂より若江へ差向い付城かいほりへは御手遣もなく直に奥へ被成御通

四月八日 三好笑岩楯籠高屋へ取懸町を被破不動坂口相支推しつおされつ数ケ度戦也 伊藤与三右衛門弟 伊藤二介度々の先懸にて数ケ所の被疵ヲ討死也此時信長者 駒か谷山より御目の下に被成御見物ハレかましき働也 其日は誉田コンタの八幡道明寺河原へ取続段々に陣取信長は駒か谷山に御陣を張せられ万方へ足軽被仰遣 佐久間右衛門柴田修理亮丹羽五郎左衛門ハノウ九郎左衛門 谷迄御放火其上麦苗薙捨

四月十二日に住吉へ御陣替

十三日 天王寺に至て御馬寄られ畿内若狭近江美濃尾張伊勢丹後丹波播磨根来寺四谷の衆不残罷立天

王寺住吉遠里をんり小野おの近辺陣取也

四月十四日 大坂へ取寄御毛悉薙捨御人数十万余騎のつもり也 ケ様に上下結搆成大軍不及見の由にて都鄙の貴賤皆驚耳目計也

四月十六日 遠里小野へ 信長御陣取近辺耕作 信長御自身薙せられ堺の近所に新堀と申出城いでしろこしらへ十河そかう因幡守香西かうさい越後為大将楯籠

四月十七日 御馬寄られ取巻被攻

四月十九日 夜に入諸手もみ合火矢を射入ウメ草を入被攻せセ大手搦手へ切而出 然而シカルニ香西越後生捕に罷成縄懸り眼をすがめ口をゆがめ 御前へ参り候夜中には候へ共香西と御見知候て日比不届働き被仰聞誅させられ候

討捕頸之注文 香西越後 十河内幡 十河越中 十河左馬允 三木五郎太夫 藤岡五郎兵衛 東村ひがしむら大和 東村備後

此外究竟の侍百七十余討死 高屋に楯籠 三好笑岩 友閑を以て御詫言赦免候し也 塙九郎左衛門被仰付河内国中高屋の城初として悉破却大坂一城落去不可有幾程

四月廿一日 京都に至て被納御馬 天下諸色被仰付

四月廿七日 御下 坂本より明智が舟にて佐和山迄可被成御渡海之処以外風出候て常楽寺へ御上候て陸を佐和山へ御成

四月廿八日 辰刻岐阜御帰城

巻八(四)
三州長篠御合戦之事
五月十三日 三州長篠後詰として 信長 同嫡男菅九郎 御馬ヲ出され其日勢田に御陣を懸られ 当社入剱宮ケングウ廃壊無正体を御覧し御造営の儀御大工岡部又右衛門に被仰付候キ

五月十四日 岡崎に至て御着陣次日御逗留 十六日牛窪之城御泊当城為御警固 丸毛兵庫頭織田三河守被置 十七日野田原に野陣を懸させられ十八日推詰 志多羅之郷極楽寺山に御陣を被居 菅九郎 新御堂山に御陣取

志多羅之郷は一段地形くぼき所候敵かたへ不見様に段に御人数三万計被立置先陣は国衆の事候の間家康たつみつ坂の上高松山に陣を懸 滝川左近羽柴藤吉郎丹羽五郎左衛門内三人同あるみ原へ打上オープンアクセス NDLJP:中6武田四郎に打向東向に被備家康滝川陣取の前に馬防の為柵を付させられ彼あるみ原は左りは鳳来寺山より西へ太山タイサンつゝき又右は鳶の巣山より西へ打続たる深山也岸をのりもと川山に付て流れ候両山北南のあはひ纔に三十町には不可過鳳来寺山の根より滝沢川北より南のりもと川へ落合候長篠者南西者川にて平地之所也川を前にあて 武田四郎鳶ノ巣山に取上り居陣候はゝ何共不可成候しを長篠へは攻衆七首なゝかしら差向武田四郎滝沢川を越来あるみ原三十町計踏出し前に谷を当甲斐信濃西上野の小幡駿州衆遠江衆三州の内つくでだみねぶせら衆を相加一万五千計十三所に西向に打向備互に陣のあわひ廿町計に取合候今度間近く寄合候事アタウル天所候問悉可被討果の旨 信長被御案御身方一人も不破損候様に被加御賢意 坂井左衛門尉 被召寄 家康御人数の内弓鉄砲可然仁を召列メシツレ 坂井左衛門尉大将として二千計并に信長御馬廻鉄砲五百挺 金森五郎八佐藤六左衛門青山新七息 賀藤市左衛門為御検使破相添都合四千計にて五月廿日戊刻のりもと川を打越南之深山を廻り長篠の上鳶の巣山へ

五月廿一日 辰刻取上旗首を推立凱声トキノコヘを上数百挺の鉄砲をトツトはなち懸責衆を追払長篠の城へ入城中之者と一手に成敵陣の小屋焼上籠城の者忽運を開き七首之攻衆案の外の事にて候間致廃忘ハイモウ風来而かぜきたつてさして敗北也

信長者 家康陣所に高松山とて小高き山御座候よ被取上敵の働を御覧し御下知次第可働の旨兼而より被仰含鉄砲千挺計 佐々蔵介前田又左衛門野々村三十郎福富平左衛門塙九郎左衛門 御奉行として近 と足軽懸られ御覧候前後より攻られ御敵も人数を出し候一番 山懸三郎兵衛推太皷を打て懸り来候鉄砲以て散に被打立引退二番に正用軒入替かゝれはのき退は引付御下知の如く鉄砲にて過半人数うたれ候へは其時引入也 三番に西上野小幡一党赤武者にて入替懸り来関東衆馬上の功者にて是又馬可入てたてにて推太鼓を打て懸り来人数を備候身がくしとして鉄炮にて待請うたせられ候へは過半打倒され無人に成而引退 四番に 典厩一当党武者にて懸り来ル如此内御敵入替候へとも御人数一首ひとかしらも無御出シ鉄炮計を相加足軽にて会釈ねり倒され人数をうたせ引入也 五番に 馬場美濃守 推太皷にてかゝり来人数を備右同断に勢衆うたれ引退

五月廿一日 日出より刁卯の方へ向て未刻迄入替相戦諸卒をうたせ次第に無人に成て何れも武田四郎旗元へ馳集難叶存知候歟鳳来寺さして噇と致廃軍其時前後の勢衆を乱し追せられ

討捕頸見知分みしるぶん 山県三郎兵衛 西上野小幡 横田備中 川窪備後 さなた源太左衛門 土屋宗蔵 甘利藤蔵 杉原日向 なわ無理介 仁科 高坂又八郎 興津 岡部 竹雲 恵光寺 根津甚平 土屋備前守 和気善兵衛 馬場美濃守

中にも馬場美濃守手前の働無比類此外宗徒の侍雑兵一万計討死申或は山へ逃上り飢死或は橋より落され川へ入水に溺れ無際限候 武田四郎秘蔵の馬小口にて乗損したる一段乗心無比類駿馬の由候て信長御厩に被立置三州の儀被仰付

五月廿五日 浪州岐阜御帰陣 今度之キヲイに家康駿州へ移乱入国中焼払御帰陣 遠州高天神の城 武田四郎 相拘候落云不可有幾程 岩村の城 秋山大島 座光寺為大将甲斐信濃人数楯籠候直に 菅九郎 被寄御馬御取巻の間是又可為落着事勿論候

三遠両国被仰付 家康年来の開愁眉被達御存分昔もケ豁身方無恙被破損強様無タメシ之武勇の達者オープンアクセス NDLJP:中7武者の上のほうか也宛如アタカ照日テルヒノ輝消朝露御武徳者コレ車輪也被御名ヲ後代に数ケ年者山野海岸を栖として甲冑を枕とし弓箭之為本意業打続御辛労中不申足

巻八(五)
山中之猿御憐愍之事
去程に哀成事有美濃国と近江の境に山中と云処あり道のほとりに頑者カタハモノ雨露にうたれ乞食こつじきして居たり京都御上下に御覧し余に不便に思食総別乞食は住所不定此者は何もかはらす爰に有事如何様可有子細と或時御不審被立在所の者に御尋有所の者由来を申上候昔当所山中の処にて常盤御前を奉殺候依其因果先祖の者代〻頑者カタハモノと生れてあの如く乞食仕候山中の猿とは此者の事也と申上候

六月廿六日 俄に御上落御取紛半報ナカバ者の事思食出され木綿廿端御手つから取出し持させられ山中の宿にて御馬をひかへさせられ当町の者共男女によらす何れも罷出候へ物を被仰付候はんと御諚候いかなる事をか可被仰出と難儀なから罷出候処木綿廿端乞食の猿に被下候所の者共請取此半分を以て隣家に小屋をさし不飢死様に情を懸て置候へと 上意候上此階郷の者共麦出来いはゝ麦を一度秋後には米を一度一年に二度つゝ毎年心落こゝろおちに少宛とらせ候はゝ信長可被成御祝着と被仰出忝なさの余に乞食の猿か事は不及云山中町中の男女袖をしほらぬ者もなし御伴之上下皆落涙也御伴衆何れも被加御扶持難有仕合無申計様体也如此御慈悲深き故に諸天の有御冥利而御家門長久に御座候と感申也

巻八(六)
於禁中親王様御鞠被遊之事
六月廿六日 御上洛其日佐和山に而少被成御休息早舟にめされ坂本に至て御渡海少風有御小性衆五六人被召列六月廿七日御上着相国寺御寄宿

七月朔日 摂家清花其外播州の別所小三郎 別所孫右衛門 三好笑岩 武田孫犬 逸見駿河 粟屋越中 熊谷伝左衛門 山県下野守 内藤筑前 白井松宮 畑田在洛 塩河伯耆 是者御馬拝領畿内諸国面〻御出仕在之

七月三日於 禁中 親王様御鞠被遊式掌の儀式御結搆不申足御馬廻計被召列御鞠過候て 信長くろ戸の御所御をきえんまて御祇候忝も 天盃御さい之内にて御拝領 御見物は清凉殿之御庭也

    御鞠の次第

御黒戸御所

軒西
初八
勧修寺大納言 
飛鳥井中将雅敦朝臣○

御○
三条大納言 
   藤宰相
○飛鳥井大納言

○五辻為仲朝臣
 庭田新大納言


軒西
二八
竹内長治朝臣 
甘露寺中納言○

日野輝資○
勧修寺御方左大弁 
   三条殿御方宰相中将
○山科左衛門督

○飛鳥井中将
 三条侍従公宣朝臣


軒西
三八
藤宰相御方永孝 
中院通勝朝臣○

広橋左少弁兼勝○
薄揚江継 
   庭田御方源宰相中将
○万里小路光房

○水無瀬御方親貞朝臣
 五辻御方源宣仲


軒西
及晩
藤宰相 
御○

勧修寺大納言○
飛鳥井中将 
   三条大納言
○五辻為仲朝臣

○飛鳥井大納言
 烏丸御方光宣朝臣


オープンアクセス NDLJP:中8親王様 御鞠御人数之事

卿 御たてゑほし御直衣色二あひ御さしぬき後にめさせられ候は御そはつゝき也色紅

 各御ゑほし也 活白洲の上に猫飼ねこかいをしかるゝ也

三条大納言殿 直衣色白 御さしぬき 勧修寺大納言殿 かり衣色ひわた 御さしぬき
飛鳥井大納言殿 かみ色むらさき 御くつ袴 庭田新大納言殿 かり衣色もゑき 同
甘露寺中納言殿 かみ色玉むし 同 藤宰相殿 かみ色むらさき 同
山科左衛門督殿 かみ色むらさき 同 源宰相中将殿 かみ色むらさき 同
左六弁宰相殿 かみ色とかけ 同 三条宰相中将殿 かみ色もゑき 同
左頭中将殿 御かふりそくたい 飛鳥井中将殿 かみ色玉むし 同
烏丸弁殿 かみむらさき色もんしや 同 竹内右兵衛佐殿 かみもゑき色 同
中院殿 かみ色むらさきそめいろ 同 水無瀬殿 かみもゑきもんしや 同
三条侍従殿 かみ色しん地絵あり 同 日野殿 かみ色むらさき 同
広橋殿 かみこん地もんしや 同 永孝殿 かみきんしや 同
権右少弁殿 かみ黄色大しやうゑ 同 薄殿 すはう
新蔵人殿 かみやなきいろ 右如件

七月三日 信長被進 御官位候へ之趣 勅諚雖御座候御斟酌にて御請無之しかしなから内〻御心持候う哉御家老之御衆 友閑者宮内卿法印 夕庵は二位法印 明智十兵衛は 維任日向になされ 簗田左衛門太郎は別喜右近に被仰付 丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ忝之次第也

七月六日 かみ下京衆 妙顕寺にて能を仕懸御目候 御桟数之内摂家清花之御衆并夕庵友閑長安長雲等計也 御能八番有 勧世与左衛門 勧世又三郎 大鼓御所望にて仕候 七月十五日御下

巻八(七)
越前御進発賀越両国被仰付之事
去程江州勢田之橋山岡美作守木村次郎左衛門両人に被仰付 若州神宮寺山 朽木山中より材木を取

七月十二日吉日の由候て柱立橋之広さは四間長さ百八十間余双方に欄干をやり為末代候之間丈夫に可懸置之旨被仰付候天下の御為と乍申徃還旅人御憐愍也 十五日常楽寺迄御出 十六日捶井御泊 十七日楚根そねへ御立寄 稲葉伊予 忝之由候て孫共に能をさせ被懸御目其時さゝせられい候腰物彦六 息に被下

七月十七日 岐阜御帰城

八月十二日勢州へ御進発 其日捶井に御陣取 十三日大谷 羽柴筑前守所に御泊此時惣人衆へ筑前守所より兵粮を被出たり十四日敦賀に御泊 武藤宗右衛門所に御居陣

 御敵相拘候城〻

虎杖イタトリ之城丈夫に拵 下間シモツマ和泉 大将にて 賀州越州之一揆共罷出相拘候也

木目峠 石田之 西光寺大将として一揆共引卒し在陣也

鉢伏之城 専修寺 阿波賀三郎兄弟越前衆相拘

今城

火燧か城 両城丈夫に拵往古の如くのうみ川新道川二ツの川の落合を関切湛水 下間筑前守大将にてオープンアクセス NDLJP:中9相抱

いらこへ すい津之城 大塩之円強寺加賀衆相加り在城也

海手に新城拵 若林長門息甚七郎父子大将にて越前衆被出警固也

府中之内龍門寺拵 三宅権丞在之

如此塞く取結とりつめ足懸り搆堅固に可相抱之旨に候

八月十五日 以外雖風雨候先兵悉く被打出越前牢人衆為先陣

前波九郎兵衛 父子 富田弥六 毛屋猪介 佐久間右衛門 柴田修理亮 滝川左近 羽柴筑前守 維任日向守 惟住五郎左衛門 別規右近 長岡兵部太輔 原田備中 蜂屋兵庫 荒木摂津守 稲葉伊予 稲葉彦六 氏家左京助 伊賀伊賀守 磯野丹波 阿閉淡路守 阿閉孫五郎 不破河内 不破彦三 武藤宗右衛門 神戸三七信孝 津田七兵衛信澄 織田上野守 北畠中納言 同伊勢衆

初として三万余騎其手を争だいらこへ諸口より御乱入

海上を働人数 粟屋越中 逸見駿河 粟屋弥四郎 内藤筑前 熊谷伝左衛門 山県下野守 白井 松宮 寺井 香川 畑田

丹波より働之衆 一色殿 矢野 大島 桜井

数百般相催し幡首打立へ上り所々に被舉烟候 円強寺若林長門父子人数を出し候 維任日向 羽柴筑前両人として不屑追崩二三百討捕両人之居城乗込焼払 八月十五日に頸を敦賀へ進上候て信長へ被懸御目候

八月十五日 夜に入府中龍門寺三宅権永楯籠候搆忍入乗取近辺放火候 木目峠 鉢伏 今城 火燧城に在之者共跡を被焼立潰胆 府中をさして罷退候を 羽柴筑前守 維任日向守両人として府中之町にて賀州越前西国之一揆二千余騎被斬捨手柄の程不及是非に  阿波賀三郎 河波賀与三兄弟御赦免の御詫言雖申上候無御許容 原田備中に被仰付生害させられ候

十六日 信長敦賀を被成御立御馬廻其外一万余騎被召列木目峠打越府中龍門寺 三宅権丞搆迄被寄御陣爰にて 福田三河守 被仰付路次為御警固今城にをかせられ候

下間筑後 下間和泉 専修寺 山林に隠居かくれゐ候を引出し頸を斬是を為御宮笥みやけ 朝倉孫三郎頸持来色赦免

之後佗言雖申候無御同心 向駿ムカイ河に被仰付生害させられ候こゝ希異之働有右之様子見申 孫三郎 家来 金子新丞 父子 山内源右衛門と申者両三人追腹仕是等の働見申候て 向駿河 消胆感し被申候

八月十八日 柴田修理惟住五郎左衛門津田七兵衛両三人鳥羽の城へ取県責破五六百斬捨られ候

金森五郎八 原彦次郎 濃州口より郡上表へ相働 によう とこの山より大野郡へ打入数ケ所小城共攻破数多斬拾諸口より手を合放火候依之国中之一揆既致廃忘取物も不取敢右往左往に山へ逃上候推次第山林を尋捜而不隔男女可斬捨之旨被仰出八月十五日より十九日まて御着到之而諸手より搦捕進上候分 一万二千二百五十余と記すの由也御小性衆へ被仰付誅させられ候其外国〻へ奪取来男女不知其員生捕と誅させられたる分合可及三四万にも候し歟

八月廿三日 一乗之谷へ 信長被移御陣 参陣は賀州迄 稲葉伊予父子 維任日向守 羽柴筑前守 永岡兵部太輔 別喜右近 打入之趣御注進有

オープンアクセス NDLJP:中10八月廿八日 豊原へ被寄御陣を

去程 堀江 小黒の西光寺連々申上る筋目在之御赦面之御礼申上候 賀州能美郡 江沼ヨネノ郡二郡属御手之間 檜屋ヒノヤノ城 大正寺山 二ツこしらへ 別喜右近佐々権左衛門 并堀江 相加入被置 十余日の内に賀越両国被仰付御威光中無申計

九月二日 豊原より北庄へ 信長被成御越城取御縄張されられ御要害被仰付北庄御普請場にて高島打ヲロシ 林与次左衛門 生害させられ候 子細は先年志賀御陣之時 浅井朝倉引出し早舟にて渋矢サビヤを射懸申緩息条々御遣恨に候之軟  越前国 柴田修理に八郡被下  大野郡之内 三分二金森五郎八に被仰付 三分一原彦次郎に被下 大野郡に在城候也

府中に足懸搆 不破彦三 佐々蔵介 前田又左衛門 両三人に二郡被下在城也

敦賀郡 武藤宗右衛門在地也

維任日向守 直に丹波へ可相働の旨に候

丹後国 一色殿へ被参候

丹波国 桑田郡 舟井郡 細川殿へ被進

荒木摂津守 是も越前より直に播州奥郡へ相働人質執固可参之旨被仰付候

九月十四日 信長 豊原より北庄迄被納御馬候 滝川左近 原田備中 惟住五郎左衛門両三人として

北庄足羽山に御陣屋御普譜被申付御馬廻御弓衆歴固前後結搆さ中催興事候賀越両国之諸侍馳集以有緑帰参之御礼門前成市事候賀州奥郡之一揆共 信長 節帰陣之由承及候歟人数を出し候 羽柴筑前 与天所之由候て懸付及一戦究竟の者頸数二百五十余討捕是より帰陣

   掟 条々       越前国

国中へ非分課役不可申懸但差当子細有て於可申付者我々へ可相尋随其可申出事

国に立置候諸侍を雅意がいに不可扱いかにも烟にして可然候さ候とて帯紐を解候様には有ましく候要害彼此機遣きつかい簡要候領知方厳重に可相渡事

公事篇くじへん之儀順路憲法たるへし努々贔負偏頗を不存可裁許若又双方存分不休におゐては以雑掌我々に相尋可落着候事

京家領之儀乱以前於当知行者可還附朱印次第たるへき事但理有之

分国いつれも諸関停止之上は当国も可為同前事

大国を預置之条万端に付て機遣由断有ては曲事に候第一武篇簡要候武具兵粮嗜候て五年も十年も慥に可拘分別勿論候所詮欲を去可執物を申付所務候様に可為覚悟候子共寵愛せしめ手猿楽遊興見物等可停止事

鷹をつかふへからす但足場とも可見ためには可然候さも候はすは無用に候子共之儀は不可有子細候事

領中之員数は雖可寄候と二三ケ所も給人不付是は忠節の輩それ随て可扶助ス地に候由申可抱置候武篇励候へとも可思賞所領無之と諸人見及候はゝ□には勇も忠儀も可浅之条其分別尤候給人不付候間は可為蔵納ぞうなう

オープンアクセス NDLJP:中11雖事新き子細候於何事も信長申次第に覚悟肝要候さ候とて無理非法之儀を心にをもひなから巧自不可申出候其段も何とそかまひ有之者理に可及聞届可随其候とにもかく我々を崇敬して影後かげうしろにてもあたにおもふへからす我あるかたへは足をもさゝざるやうに心もち簡要候其分に候へは侍の冥加有て長久たるへく候分別専用に候事

  天正三年九月日

越前国の儀多分柴田令覚悟候両三人をは柴田為目付両郡申付置之条善悪をは柴田かたより可告越候互に磨合候様に分別専一候於用捨者可為曲事者也

  天正三年九月日

     不破河内守殿 佐々内蔵助殿 前田又左衛門殿

如此被仰付 九月廿三日 北庄より府中迄御出 廿四日 つば井坂 御泊

廿五日 捶井よ 御陣宿

九月廿六日 岐阜 御帰城

巻八(八)
大坂三軸進上之事
十月三日 奥州へ取に被遣候御鷹五十足上候内 廿三足被召上其外は各被召置

十月十日 御上洛今度の上鷹十四足 はいたか三足 すへさせ御上京其日 捶井 御泊次日柏原迄 三条殿水無瀬殿御迎として御下 佐和山に御泊

十二日 永原 御寄宿 勢田の橋出来申に付て可被成御一見為陸を御上京事も生便敷橋の次第也各被驚耳目候然而摂家清花隣国面々等勢田逢坂山科粟田口辺に御迎衆みちて崇敬不斜二条妙光寺に至而御上着

十月十九日 奥州伊達 方より名馬 がんぜき黒 白石鹿毛 御馬二并に鶴取つるとり之御鷹二足進上取分鹿毛御馬奥州にても無隠乗心のりこゝろ無比類駿馬にて御意に相御秘蔵不斜め是は龍之子れうのこ之由候也

    御鷹居たがじよ  カンノ小太郎  御馬添むまそへ  樋口

信長 其日清水へ御成 村井長門被仰付右の御使衆清水にて御振舞在之

    御返書注文

 虎皮 五枚  豹皮 五枚  段子 十巻 志々羅 二十端  以上

二人之使者に黄金二枚被下御礼中御下也

十月廿日 播州の赤松 小寺 別所 其外国衆参洛候て御礼在之

十月廿一日 大坂門跡之儀 三好笑岩 友閑 両人御使申御赦免也

小玉檻 枯木 花之絵 三軸進上候て年寄共罷参 平井 八木 今井 御礼在之

天下無隠 三日月の葉茶壺ハチヤツホ三好笑岩進上に而候の也

巻八(九)
御茶之湯之事
十月廿三日

飛騨国司姉小路中納言卿御上洛候て御礼在之 栗毛御馬御進上一段候駿馬にて御秘蔵不斜

十月廿八日 京堺之数寄仕候者十七人被召寄 妙光寺にて御茶被下候

御座敷の飾 一御床に晩鐘 三日月の御壺 一違棚に置物七台に 白天目内赤ノ盆につくもかみ

下には合子ごうししめきり被置おとごせの御釜 一松島の御壺の御茶 一茶道者 宗易 各生前思オープンアクセス NDLJP:中12出忝 題目也 已上

巻八(十)
信長御昇殿之事
去程 大将後拝賀之政可被執行の為 十月初より 木村次郎左衛門 為御奉行 禁中に陣座御建立即時に出来訖

  天正三年乙亥十一月四日

信長有御昇殿而大納言の御位に任ぜられ

同七日御拝賀之御礼御名代として三条大納言殿を以て被仰上其時の為御番固御弓の衆百人供奉候之処忝も従

天子 御かはらけ被出頂戴上古末代面目御威光不可過之に此節  信長 右大将に重而被進 御官位砂金巻物尽其員被備 叡覧 諸公家衆御支配候て知行を被参氏名誉の次第也

巻八(十一)
武田四郎岩村にて失勝利之事
去程に武田四郎 岩村へ後巻として甲斐信濃土民百姓等迄かり催罷出既打向の由注進候の間

十一月十四日戌刻 京都を被成御立夜を日に継十五日に岐阜に至而御下

巻八(十二)
菅九郎殿岩村御存分に被仰付之事
さんぬる十日の夜 岩村の攻衆の陣取水精山へ敵方より夜討を入候則 河尻与兵衛 毛利河内 浅野左近 猿荻サラウギ甚太郎 爰かしこをサヽヘ水精山を追払 岩村の城に楠籠さくを引破り夜討の者と一手に成候はんと仕候を 信長御息 織田菅九郎 被成御先懸城へ追入させられ今度之御働御高名無申計夜党よとう之者山 へ逃散候を尋出し甲斐信濃の大将廿一人究竟侍千百余斬捨 岩村籠城の者抛筋力被成一命御扶候之様にと 塚本小大膳を以て御詫言申候爰にて塚本小大膳目付にハノウ伝三郎被仰付

八月廿一日 秋山 大島 座光寺 御赦免の御礼申上候を召捕濃州岐阜へ被召寄右三人長良の河原に張付に被懸置其外諸卒 遠山市丞丸へ追攻させられい不移時刻切て出 遠山二郎三郎 遠山市丞 遠山三郎四郎 遠山徳林 遠山三右衛門 遠山田脇 遠山藤飛 切て出散に切崩余多に手を負せ終に生害候残無悉焼殺になされ候

武田四郎此由承候て本国へ無曲 馬を入候 菅九郎 御存分に被仰付 岩村之城河尻与兵衛被入置

霜月廿四日 岐阜に至て御帰陣

巻八(十三)
菅九郎殿御位之事
今般 菅九郎 無比類御働に付てかけまくも忝従

天帝 蒙御院宣を被任 秋田城介御冥加之至也

巻八(十四)
御家督御譲之事
十一月廿八日信長 御家督秋田城介へ被渡進誠に信長卅年被置御粉骨御屋形ツクリ金銀星切之御太刀是者 曽我五郎 所持之太刀也其外被集置たる御道具三国之重宝尽員尾州濃州共に被成御与奪 信長御茶之湯道具計被召置 佐久間右衛門 私宅へ被移御座御父子共御果報大慶珍重〻〻

 

 
オープンアクセス NDLJP:中13巻九○巻之九 (天正四年丙子)
信長公記巻九
太田和泉守 綴之
 

巻九(一)
安土御普請之事
天正四年丙子

正月中旬より江州安土山御普請 惟住五郎左衛門に被仰付

二月廿三日安土に至而 信長 被移住座先御普請御意にあい為御褒美御名物之周光茶椀 五郎左衛門被下忝次弟也御馬廻御山下に各御屋敷被下面〻手前之普請被申付

四月朔日より当山大石を以て御搆之方に石垣を被築又其内には天主を可被仰付之旨にて尾濃勢三越若州畿内之給倍京都奈良堺之大工諸職人等被召寄在安土仕候て瓦焼唐人かはらやきとうじん一観いつくわん被相添唐様からやうに被仰付観音寺山長命寺山長光寺山伊場山所々之大石を引下し千一一千三千宛に而安土山へ被上候

  石奉行 西尾小左衛門 小沢六郎三郎 吉田平内 大西

大石を撰取小石を被選退爰に 津田坊 大石御山之麓迄雖被寄候蛇石シヤイシと云名にて勝たる大石に候間一切に御山へ不上候然間 羽柴筑前 滝川左近 惟住五郎左衛門為三人助勢一万余之以人数夜日三日に被上げ 信長公御巧を以輙御天主へ上させられ昼夜山も谷も数計候へキ

京都にも御座所可被仰付之由にて安土御普請之儀は御息 秋田城介信忠に様子仰をかせられ

巻九(二)
二条殿御搆御普請之事
※ 晦は朔の過りなるへし四月晦日ついたち 被成御出京妙光寺御寄宿

二条殿御屋敷幸空間地サイワイアキチに而在之泉水大庭眺望面白被思食御普請の様子条々 村井長門守に被仰聞

巻九(三)
原田備中御津寺へ取出討死之事
四月十四日 荒木摂津守 永岡兵部太輔 維任日向守 原田備中 四人被仰付カミ方之御人数被相加大坂へ推詰荒木摂津守者尼崎より海上を相働大坂之北野田に取出を推並三ツ申付川手の通路取切 維任オープンアクセス NDLJP:中14日向守 永岡兵部太輔両人者大坂より東南森口 森河内 両所に取出被申付原田備中は天王寺に要害丈夫に被相搆 御敵ろうの岸 木津両所を拘難波口より海上通路仕候 木津を取候へ者御敵の通路一切止候之間彼在所を取候へと被仰出天王寺取出には 佐久間甚九郎 維任日向守被置其上為御検使豬子兵助大津伝十郎被差遣則御請申候

五月三日 早朝先は三好笑岩根来和泉衆二段は原田備中大和山城衆致同心彼木津へ取寄候之処 大坂ろうの岸より罷出一万計にて推つゝみ数千挺の鉄砲を以て散に打立上方の人数くつれ 原田備中手前にて請止ウケトメ数刻雖相戦猛勢に被取籠既に 原田備中 塙喜三郎 塙小七郎 養浦無右衛門 丹羽小四郎 枕を並て討死也其儘一揆共天王寺へ取懸 佐久間甚九郎 維任日向守 猪子兵介 大津伝十郎 江州衆 楯籠候を取巻攻候也其折節 信長 京都に御座之事にて候則国へ被成候触

巻九(四)
御後巻再三御合戦之事
五月五日 後詰うしろつめとして 御馬を被出明衣エカタヒラ仕立したて纔百騎計に若江にて至而御参陣有次日御逗留先手の様子をもきかせられ御人数をも雖被揃候俄懸にわかゝけの事候間不相調下之者人足以下中不相続首 計着陣候雖然五三日之間をも難拘之旨度〻注進候間攻殺させ候ては都鄙之口難御無念之由被成 上意

五月七日御馬を被寄 一万五千計の御敵は纔三千計にて被ムカハセ御人数三段に被成御備住吉口より懸らせられ候

 御先一段 佐久間右衛門 松永弾正 永岡兵部太輔 若江衆爰にて荒木益津守る先を仕候へと被仰候へは我は木津口之推を仕候はんとや候て御請不申 信長後に先をさせ候はて御満足と被仰候キ

二段 滝川左近 蜂屋兵庫 羽柴筑前 惟住五郎左衛門 稲葉伊予 氏家左京助 伊賀伊賀守三段御備 御馬廻

如此被仰付 信長者先手の足軽に打まじらせられ懸廻り爰かしこと被成御下知薄手を負せられ御足に鉄砲あたり申候へともされ共天道照覧にて不苦御敵数千挺の以鉄砲はなつ事如降雨相防噇と懸り崩一揆共切捨天王寺へ懸入御一手に御成候雖然大軍之御敵にて候問終に不引退人数を立固相支候を又重而可被及御一戦之趣上意候爰にて各御身方無勢候間此度者御合戦御延慮尤之旨雖被申上候今度間近く寄合候事与天所の由御諚候て後は二段に御人数被備又切懸り追崩し大坂城戸口迄追付 頸数二千七百余討捕是より大坂四方塞に十ケ所付城被仰付 天王寺には 佐久間右衛門 甚九郎 進藤山城 松永弾正 松永右衛門佐 水野監物 池田孫次郎 山岡孫太郎 青地千代寿 是等為定番被置 又住吉浜手に要害拵へまなべ七三兵衛シメノヒヤウヘ 沼野伝内 海上之為御警固被入置

六月五日被納御馬其日 若江御泊次日 真木島へ御立寄 井戸若狭に被下忝次第也 二条妙覚寺御帰洛翌日安土に至て御帰陣

七月朔日より重て安土御普請被仰付何れも粉骨之働に依て或は御服或は金銀専物拝領不知其数今度名物 吊絵 惟住五郎左衛門 上意を以てめし置申され 大軸之檜 羽柴筑前 被取求両人名物所持被仕候事御威光難有次第也

巻九(五)
西国より催大船木津浦船軍歴々討死之事
七月十五日の事候 中国安芸之内 能島ノシマ 来島クルシマ 児玉太夫 粟屋アワヤ太夫 浦兵部と申者七八百艘大船をオープンアクセス NDLJP:中15催し上乗うはのり候て大坂表海上乗出し兵粮可入てたて

打向人数 まなべ七三兵衛 沼野伝内 沼野伊賀 沼野大隅守 宮崎鎌太夫 宮崎鹿目しかめの介 尼崎小畑 花くまの野口

是らも三百余艘楽出し 木津川口を相防候 御敵者大船八百艘計也乗懸相戦候陸者大坂ろうの岸 木津ゑつ田が城より一揆共競出住吉後手之城へ足軽を懸天王寺より 佐久間右衛門 人数を出し横手に懸合推つをされつ数刻之戦也ケ様候処海上者ほうろく火矢なとゝ云物をあしらへ御身方の舟を取籠投入焼崩多勢に不叶 七三兵衛伊賀伝内野口小畑鎌太夫鹿目介 此外歴数輩討死候西国所は得勝利大坂へ兵粮入西国へ人数打入也 信長可被成御出馬処既落去之由候の間不及是非其後住吉浜之城為定番 保田やすだ久六 塩井因幡守 伊知地文太夫 宮崎二郎七 番手に被入置候

巻九(六)
安土御普請首尾仕之事
 安土山御天主之次第

石くらの高さ十二間余也 石くら之内を一重土蔵に御用是より七重也

二重石くらの上広さ北南へ廿間西東へ十七間高さ十六間ま中有柱数二百四本立本柱長さ八間ふとさ一尺五寸六寸四方一尺三寸四方木 御座敷之内悉布をきせ黒漆也 西十二畳しき墨絵に梅の御絵を 狩野永徳に被仰付かゝせられ候何れも下より上迄御座敷之内御絵所悉金也同間之内御書院有是には遠寺晩鐘之景気かゝせられ候其前にぼんさんヲをかせられ次四てう敷御棚に鳩の御絵をかせられ候又十二畳敷鶏をかゝせられ則鶏之問と申也又其次八畳敷与四てう敷に雉之子を愛する所あり 南又十二畳布唐之儒者達をかゝせられ又八てう敷有 東十二畳敷 次三てう布 其次八てう敷御膳拵申所也 又其次八畳数是又御膳拵中所也 六てう敷 亀南戸又六畳敷 何れも御絵所金也 北ノ方御土額有 其次御座敷廿六てう敷御南戸也 西六てう敷 次十てう数 又其次十てう敷同十二畳敷 市南戸の数七つあり 此下に 金灯炉をかせられたり

三重め十二畳敷花鳥の御絵有則花鳥の間と申也 別に一段四てう敷御座の間有 同花鳥の御絵有 次南八畳敷 賢人の間にひようたんより駒の出たる所有 東麝香の間八畳数 十二てう敷御門之上 次八てう数 呂洞賓と申仙人并ふゑつの図有 北廾畳敷 駒の牧の御絵有 次十二てう数 西王毋の御絵有 西 御絵はなし御緑二段広縁也 廿四てう敷の御物置の御南戸有 口に八てう敷之御座敷在之 柱数百四十六本立也

四重め 西十二間に岩に色々木を被遊則岩の間と申也 次西八畳敷に龍虎之戦有 南十二間竹色 かゝせられ竹の間と申 次十二間に松計を色被遊則松の間と申 東八畳敷桐に鳳風かゝせらる 次八畳敷きよゆう耳をあらへはそうほ牛を牽而帰所両人の出たる故郷体 次御小座布七畳敷でい計にて御絵はなし 北十二畳敷是に御絵はなし 次十二てう敷此内西二間の所にてまりの木被遊 次八畳敷庭子にはこ景気けいき則御鷹の間と申也 柱数九十三本立

五重め御絵はなし南北の破風口に四畳半の御座数両方に有 こ屋の段と申也

六重め八角四間有外柱とはしらは朱地うち柱は皆金也釈門十大御弟子等尺尊成道御説法之次第御縁輪ごゑんりんには餓鬼共鬼共かゝせられ御緑輪のはた板にはしやちほこひれうをかゝせられ 高欄ぎほうしほり物有

上七重め三間四方 御座敷の内皆金也そとかは是又金也 四方の内柱には 上龍のほりたつ下龍くたりたつ 天井には天人オープンアクセス NDLJP:中16御影向之所 御座敷の内には 三皇 五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢等をかゝせられ ひうち ほうちやく数十二つかせられ 狭問戸サマトクロカネ也 数六十余有皆黒漆コクシチ也 御座敷内外柱惣々そう漆にて布をせさせられ其上皆黒漆也

上一重のかなくは 後藤平四郎仕候 京田舎衆手を尽し申也

二重めより京の たい阿弥かなく也

御大工 岡部又右衛門 漆師ぬうしかしら刑部 白金屋の御大工 宮西遊左衛門 瓦唐人の一観に被仰付奈良衆焼申也 御普請奉行 森三郎左衛門

抑当城者深山こうとして麓者歴々薨を並継光輝ヒカリカヽヤク御結搆之次第不申足西より北者湖水漫々として舟之出入みちて遠浦帰帆漁村夕照浦のいさり火湖之中に竹生島とて名高き島有又竹島とて峨々ト聳へたる巌有奥之島山長命寺観音暁夕之鐘ノ声音信レテ耳に触海より向者高山比良のゝ岳比叡之大嵩如意かたけ南は里田畠平富士と喩し三上山東者観音寺山麓者海道往還引続昼夜絶スト云事なし御山之南入江渺々として御山下門を並籟之ライノこゑ生便ヲヒタシ数四万之景気尽其員御殿唐様からやうを学 将軍之御舘研玉石瑠璃を延百官コヽロヨク貴美被移花洛ヲ御威光御手柄不勝計せうけいせうくわの壺きんくわの壺とて無隠名物参り御機嫌不斜

ふしもなき 矢篦ヤノ真島之羽ヲ付 佐々木左京太夫家に代々所持候今度 布施三川守 求進上候如此希有之御道具参り集り候也

先年佐和山にて被御置候大船一年 公方様御謀叛之砌一度御用に立られ候此上者大船不入之由にて 猪飼野甚介に被仰付取ほとき早舟十艘に作をかせられ

十一月四日 御上洛陸を勢田通二条妙覚寺に至て御寄宿

同十二日 赤松 別所小三郎 別所孫右衛門 浦上遠江守 浦上小次郎 参洛候て御礼在之

巻九(七)
被進御官御衣御拝領之事
天正四丙子十一月廿一日

重而被信長 内大臣に御官又今般摂家清花等へ御知行被参

禁中へ黄金弐百枚沈香巻物色々尽員被備叡覧其時かけまくも忝 御衣を御拝領御面目次第不可過之御官位任吉例直に石山世尊院に至而御成 山岡美作 山岡玉林 兄弟御祝言之御膳上申され石山両日御鷹つかはされ 霜月廿五日 安土御下

巻九(八)
三州吉良御広野之事
十二月十日 吉良為御鷹野佐和山御泊 十一日岐卓迄御出 翌日御退留 十三日尾州清須御下着 廿二日 三州吉良に至て御着座 三日之御逗留ものかす被仰付 廿六日 清洲迄御帰

十二月晦日 濃州御成岐阜にて御越年候へキ

 

 
オープンアクセス NDLJP:中17巻十○巻之十 (天正五年丁丑)
信長公記巻十
太田和泉守 綴之
 

巻十(一)
雑賀御陣之事
天正五年丁丑

正月二日 三州吉良御鷹野より安土御帰陣

正月十四日御上洛 二条妙覚寺御成 隣国之面々等播州の 浦上遠江守 別所小三郎 若州の武田各在京候て御礼申上天下之儀被仰付 正月廿五日御下

二月二日 紀州雑賀サイカ三緘ミカラミ之者并根来寺杉之坊御身方の色を立可申の御請申に付て則三十日に可被成御動座の御御国へ被仰出

八日に可有御出京の処雨降候延引

九日に御上洛二条妙覚寺御泊 秋田城介信忠 尾州濃州の御人数被召具 九日に御出馬 其日柏原後陣取 十日には飛騨の城 蜂屋兵庫頭所に御泊 十一日 守山御居陣 伊勢の国司北畠中将信雄のぶこれ卿 織田上野守 神戸三七信孝のぶよし 各御出勢尾濃江勢四ケ国の御人数勢田松本大津陣取也五畿内衆不及申越州若州丹後丹波播磨衆 京表へ罷出御動座の御伴を相待在陣也

二月十三日 信長公 城都じやうつより直に淀川をこさせられ八幡に至て御陣取十四日に雨降御滞留東国の御人数真木島宇治の橋を打渡り先兵凌風雨悉参陣也

二月十五日 信長公 八幡より若江迄御着陣十六日和泉の内香庄御陣取国中の一揆貝塚と云所海手を拘へ舟を引付楯籠型日先陣の衆貝塚取懸可被攻干の所夜に入舟に取乗罷退候少退後の者討捕頸を香庄へ持来懸御目 十七日根来衆杉之坊参礼申上雑賀表御一篇の御申候キ

オープンアクセス NDLJP:中18二月十八日 佐野の郷に至て被移御陣 廾二日 志立へ被寄御陣浜手山方両手を分而御人数被差遣山方へは根来杉之坊三緘衆為案内者 佐久間右衛門 羽柴筑前 荒木摂津守 別所小三郎 別所孫右衛門 堀久太郎 雑賀之内へ乱入し端焼払御敵小雑賀川を前にあて川岸に柵を付相拘 堀久太郎人数噇と打入向の川岸まて乗渡し候処岸高く候て馬もあからす爰を肝要と鉄砲を以て相拘候間 堀久太郎 能武者数輩討せ引退其後川を限て取詰 稲葉父子 氏家左京亮 飯沼勘平 先陣通路為御警固紀の川渡り口よ被照陣 浜手の方へ被遣候御人数 滝川左近 維任日向 惟住五郎左衛門 永岡兵部太輔 筒井順慶 大和衆 谷之輪口より先は道一筋にて節所候間鬮取にして三手に作て山と谷と乱入中筋道通 長岡兵部太輔 維任日向守被打入候之処雑賀之者共罷出相支及一戦 秋田城介信忠 北畠中将信雄 織田上野守 神戸三七信孝 二ノ目を推付御出 永岡内下津権内 一番鏈を合無比類働也以前も 岩成主税ノ大関サクワンと組討して手柄之仁にて候也爰にても究竟者討捕所々焼払 中許之城取巻攻させられ候キ

二月廿八日 丹和迄 信長公御陣を寄られ依之中野の城降参申退散也則 秋田城介信忠 御請取候て御居陣也

二月晦日 信長公 丹和を被成御立此時下津権内被召出被成御対面被加御詞諸人之中の面日高名不可過之其日は野陣を懸させられ当表懸まはし御覧被計

三月朔日 滝川 継任 蜂屋 永岡 筒井 若狭衆 被仰付 鈴木孫一居城取詰竹たはを以て攻寄城楼を上日夜あらと被攻何方へも懸令能様にと被思食

三月二日 信長公 山方浜手両陣の中とつとり之郷 若宮八幡宮へ被移御陣 堀久太郎 不破河内 丸毛兵庫 武藤惣左衛門 福富平左衛門 中条将監 山岡美作 牧村長兵衛 福田三河 丹羽右近 水野大勝 生駒市左衛門 生駒三吉 此等根来口へ被差遣小雑賀紀伊の川より取続き山手に陣とらせ御在陣也

巻十(二)
内裡御築地之事
去程に京都には雑貨表御陣之儀取申に付てかつうは御祈祷かつうは 禁中御修理成就目出度之間 村井長門守馳走仕 内裡御築地洛中として被築をれつかせ候て可然之由候処上下最と一同之御語也 村井長門 警固仕

三月十二日より番につもり請取之手前舞台をかさりちこ若衆爰を肝要と花やかに花車風流を我もと出立て笛太皷鳴物之拍子を合老若共に浮立て舞躍し御築地つかれ候折節嵯峨千本の花今をさうりと時めきて花を手折袖をつらね舞台の焼物やきもの衣香ハラツテアタリヲ四方に薫じ貴賤成群集見物也抑

御門みかと百敷之大宮人女御ニヨゴ更衣コウイ等かほと面白き御遊覧無之各詩歌を遊し御歓喜不斜即時に出来畢

巻十(三)
御名物被召置之事
雑賀表多人数永〻御在陣忘国ほうこく致迷惑 土橋平次 鈴木孫一 岡崎三郎太夫 松田源三太夫 岡本兵太夫 島本左衛門太夫 栗本二郎太夫 已上七人 連署を以て致醤紙大坂之儀御存分に馳走可仕之旨御請申に付て被成御赦免

三月廿一日 信長公御馬を被納 香庄に至て 御陣取次日御逗留 佐野之村に御要害可仕之旨被仰付 佐久間右衛門 維任日向守 惟任五郎左衛門 羽柴筑前守 荒木摂津守に残し置せられ

杉之坊 津田太郎左衛門 定番に被置

三月廿三日 若江迄御帰陣

オープンアクセス NDLJP:中19化狄クハテキ 天王寺屋之龍雲所持候を被召上 一開山之蓋置 今井宗久進上 一二銘のさしやく

是又被召上 三種之代物金銀を以て被仰付 次日

三月廿四日 八幡御泊 廿五日 御帰洛 二条妙覚寺 御帰宿

三月廿七日 安土に至て 御帰城

巻十(四)
二条御新造御移徙之事
七月三日 奥州伊達御鷹のほせ進上

のちの七月六日 御上洛二条御新造へ御移従

巻十(五)
近衛殿御方御元服之事
後七月十二日 近衛殿御方御元服之御望に候従昔年ソノカミ  禁中に而御祝言之後事候之間当時其例尤之旨再徃再三雖御辞退候頻に 上意候回不及是非御ぐし御はやしなされ御元服職掌しきしやう之儀式相調 摂家清花其外隣国之面〻大名小名御出仕有 為御祝儀

 御服十重 御太刀代 万疋 長光の御腰物 金子 五十枚  已上

信長 御面目の次第中無申計天下之儀被仰付

後七月十三日御下 其日は勢田山岡美作所に御泊 次日 安土 御帰城

巻十(六)
柴田北国相働之事
八月八日 柴田修理亮 大将として北国へ御人数被出候 滝川左近 羽柴筑前守 惟住五郎左衛門 斎藤新五 氏家左京亮 伊賀伊賀守 稲葉伊予 不破河内守 前田又左衛門 佐々内蔵介 原彦二郎 金森五郎八 若狭衆 賀州へ乱入添川手取川打越小松村本折村阿多賀富樫所々焼払在陣也 羽柴筑前御届をも不申上帰陣仕候段曲事之由被成御逆鱗迷惑申され候

巻十(七)
松永謀叛並人質御成敗之事
大坂表へ差向候付城天王寺に為定番 松永弾正 息右衛門佐 被置候処に

八月十七日企謀叛取出を引払大和の内信貴之城へ楯籠 何篇之子細候哉存分申上候て 望を可被仰付之趣 宮内卿法印を以て被成御尋候へとも挿逆心候之間不罷出此上は松永出し置候人質京都にて可被成御成敗之由にて 御奉行 矢部善七郎 福富平左衛門 被仰付彼子共永原之 佐久間与六郎所に預け被置候京都へ被召上いまた十二十三のせかれ二人何れも男子にて死ぬる子みめよしと申たとへの如く姿形心もゆうにやさしき者共候 村井長門守 宿所にと〻めあすは 内裡へ走入助可申由申きかせ髪ゆい衣装もうつくしく改出立可然之由申候之処それは尤之事とても命御たすけは有間敷物をと申とかく親兄弟之方へふみを遣し候へと被申候へは硯をこひ筆を染此上は親之方への文いらぬ由申候て日比 佐久間与六郎所にて懇之情くれ難有と計遺し其儘罷出上京一条之辻にて二人之子とも車は乗六条河原迄ひかせられ候都鄙之貴賤して見物仕候色をもたがへす最後おとなしく西に向ひちいさき手を合二人之者共高声に念仏となへ生害見る人肝を消聞けしきく人も涙せきあへす哀成有様中目もあてられぬ様体也

九月廿七日 秋田城介信忠 御人数被出 其日は江州飛弾の城 蜂屋兵庫守所に御泊

九月廾八日 安土にて 惟住五郎左衛門所に御寄宿 翌日後逗留

巻十(八)
片岡城被攻干事
九月廿九日 戌刻西に当て希に有之客星ほうき星出来いてくる

松永弾正 一味として 片岡の城へ 森のゑびなと云者楯籠

攻衆 永岡兵部太輔 維任日向守 筒井順慶 山城衆

十月一日 片岡之城へ取懸被攻候 永岡与一郎 同弟頓五郎 あには十五おとゝは十三いまだ若輩にて一オープンアクセス NDLJP:中20番に乗入内之者共つゝいて飛入即時に攻やぶり天主へ詰寄内より鉄炮矢数射し尽切て出働事火花をちらしつはをわり爰をせんとゝ相戦城主 森ゑびな初として百五十余討死候 永岡手之者 三十余人討

死させ与一郎 頓五郎 兄弟高名也 維任日向守 是又手を砕究竟之者二十余人うたせ粉骨の働名誉之事也年にも不足両人之働無比類之旨被成御感忝も 信長公 御感状被成下後代之面目也

巻十(九)
信貴城被攻落之事
十月朔日 秋田城介信忠 安土を打立て 山岡美作所御泊 翌日 真木島御陣取

同三日には信貴之城へ推詰 御陣を居させられ城下悉放火なされ御在陣也 北国賀州表へ被差遣たる御人数国中之耕御薙捨 御幸塚 普請文夫に拵 佐久間玄蕃を入置 大正寺是又普請申付何れも柴田修理亮人数被入

十月三日 北国表の諸勢帰陣也

十月十日之晩に 秋田城介信忠 佐久間 羽柴 維任 惟住 諸口被仰付 信貴の城へ被攻上夜責にさせられ防戦弓折矢尽松永天主に火を懸焼死やきしに候 奈良之大仏殿 先年十月十日の夜炎焼偏に是松永云為を以て三国無隠大迦藍事故なく為灰燼其因果忽歴然にて誠鳥獣も足を可立地にあらす高山嶮所を輙 城介信忠 鹿之角シカノツノの御立物ふり立攻させられ日比案内者とキコヘし松永無詮企して己れと猛火之中に入部類眷属一度に焼死客星出来鹿之角しかのつのの御立物にて責させられ大仏殿炎焼之月日時刻不易偏に春日明神の所為也と諸人舌を巻事

巻十(十)
中将信忠御位之事
十月十二日 秋田城介信忠 御上洛二条妙覚寺御寄宿 今度松永早速御退治為御褒美かけまくも忝被成 御院宜被叙 三位中将御父子共御果報中御名誉無申計 三条殿まて御意候有而御祝言之為御太刀代黄金三十枚奉備 叡覧 三条殿へも御礼有之

十月十五日 安土に至て御下着 信長公へ松永父子一門御退治之趣被仰上 十月十七日 岐阜御帰陣

十月廿三日 羽柴筑前守秀吉 播州に至而出陣

十月廿八日 播磨国中夜を日に継て懸まはり悉人質執固 霜月十日比には播磨表隙明ひまあき可申之旨注進被申上候処早々帰国可仕之趣神妙に被思食候由忝も 御朱印を以て被仰出候雖然今之分にても為さしたる働無之と羽柴筑前守秀吉 存知られ直に但馬国へ相働先 山口岩淵の城攻落此競に 小田垣 楯籠 竹田へ取懸是又退散則普請申付 木下小一郎 為城代被入置候へき

霜月十三日 信長公 御上洛 二条御新造へ被移御座

巻十(十一)
御鷹山猟御参内之事
霜月十八日 御鷹山猟として御参 内何れも思御山立有興頭巾催一興皆狩杖等迄金銀にダミさせられ御結搆之次第無申計 御先一段御弓衆衆計計被下候虎の皮之御うつほ一様に付られ 二段御年寄衆此中 御鷹十四モト居させられ候し御衆にて候也 信長公 是も御鷹居させられ前後は御小姓衆御馬廻光耀有とあらゆる花車風流我もと一手宛美々うつくしく敷御出立心ことバ及かたく面白御遊覧京都之貴賤驚耳目候へき抑  内裡日之御門より被入忝も  小御所御局之内迄 御馬廻計被召列其時 降折を御弓之衆に被下忝頂戴御鷹

御叡覧之後 達智門へ出させられ直に東山御鷹つかはされ折節俄に大雪降来て御鷹風におとされ大和国内之郡迄飛行御秘蔵之御鷹候間万方被成御尋候次日大和国 越智玄蕃と云者御庁居上進上仕候候機嫌不斜則為御褒美御服一重御秘蔵之ブチ之御馬被下其上年来旧領之知行闕所に罷成無足仕候を望之儀候オープンアクセス NDLJP:中21はゝ可被仰付と上意候間右之趣申上候処に是又安堵之被成下 御朱印忝次第不申足只禍福者在于天とは此節也

巻十(十二)
但馬播磨羽柴被申付事
霜月廿七日 熊見川打越御敵城上月コウツキへ 羽柴筑前守秀吉 相働近辺放火候て福岡野之城取詰 小寺官兵衛 竹中半兵衛 乍処シカツシトコロ 宇喜多和泉守後巻として人数を出し候 羽柴筑前守秀吉懸合足軽を追崩数十人討払引返し上月之城取巻被攻候七日目に城中の者 大将の頸を切取持て来候て残党命被助候様にと歎申候を上月城主の頸則安土へ致進上 信長被懸御目 上月に楯籠残党悉引出し備前 美作両国之境目に張付に悉懸置 上月之城には 山中鹿介被入置 福岡野之城 是又攻破 頸数二百五十余切捨存分に被申付候

今度北国より帰陣仕御折檻迷惑之故西国にて可然か責をいたし是を見上に可仕と被存知夜を日に継懸廻 羽柴筑前 粉骨之働無比題目也

信長天下之儀被仰付

十二月三日 京都より安土に至て御帰城

巻十(十三)
三州吉良御鷹野之事
十二月十日 三州吉良御鷹野に御出 近日に 羽柴筑前可罷上候今度但馬播磨申付候為御褒美 たとごせの御釜被下之由にて取出し被置 罷参次第 筑前に渡し候へと被仰付候忝御事也 信長公 其日は佐和山惟住所に御泊 次日捶井 御成 十二日岐阜に至て被移 後座 翌日 御逗留 十四日雖雨降候尾州清洲御下着

十二月十五日 三州吉良まて御成有て鴈鶴余多被成御取飼

十九日には濃州岐阜へ御出

程に路次にて緩怠之者御座候を 信長公 御手討に被仰付候十二月廿一日には安土まて日通に御帰城候也

巻十(十四)
中将信忠へ御名物十一種被参事
十二月廿八日 岐阜中将信忠卿 安土に至て御出 惟住五郎左衛門所御泊

信長公より御名物之御道具被参候 御使寺田善右衛門

一初花 松花まつはな 一雁絵 一竹子花入 一くさり
一藤なみの御釜 一道三茶椀 一内赤盆 八種

又次日被参候此時之後使 宮内卿法印

一周徳さしやく 一大黒あん所持之 ひようたんの炭入
一古市播州所持之 高麗はし 三種
 

 
オープンアクセス NDLJP:中22巻十一○巻之十一 (天正六年戊寅)
信長公記巻之十一

巻十一(一)
御茶湯之事
天正六年戊寅

正月朔日 五畿内泉州越州尾濃江勢州隣国之面〻等安土にて各御出仕後礼在之

先朝之御茶十二人に被下 御座敷右勝手六畳布四尺ゑん

御人数之事 中将信忠卿 二位法印 林佐渡守 滝川左近 永岡兵部太輔 維任日向守 荒木摂津守 長谷川与次 羽柴筑前 惟住五郎左衛門 市橋九郎右衛門 長谷川宗仁そうに 以上

御飾之次第  御床に岸の御絵 東に松島西に三日月 四方盆 万歳大海 水さしかへり花 周光茶碗 囲炉裏に御釜うは口くさりにて 花入筒也 御茶道 宮内卿法印 以上

御茶過候て各御出仕有 三献にて御盃御拝領 御酌 矢部善七郎 大津伝十郎 大塚又一 青山虎 其後 御殿殿御座所迄皆見せさせられ三国の名所を 狩野永徳に被仰付濃絵ダミエに被移色々御名物はせ集り心も詞も及はれす 御威光中不可勝計 各此 御座敷へ被召上悉へ御糟煮ザウニ唐物からもの之御菓子色々被下生前之思出末代の物語忝次第不申足去年冬 三位中将信忠卿へ被進候御名物之御道具

正月四日に 万見仙千代所にて御ひらき之被成御会 此時之人数九人

二位法印 宮内卿法印 林佐渡守 滝川左近 長谷川与次 市橋九郎右衛門 惟住五郎左衛門 羽柴筑前守 長谷川宗仁 以上

今度 市橘九郎右衛門に芙蓉の御絵 信長公より被下外聞面目之至也

巻十一(二)
御節会之事
去程に 御節会スタレテ而久敷無之当時都此式曽不存者然信長公之御代に成て上を敬奉り月卿雲客公卿オープンアクセス NDLJP:中23殿上人役者達へ御知行被参諸卿達 内裡に集て二枝之根引之松を以て正月朔日辰時に神歌を謡ひ色 儀式有て天下祭事有洛中辺土之貴賤男女かゝる目出度御代に生合うまれあひ久絶たりし祭事執行し給ひ難有御事也 正月十日 御鷹の鶴

禁中へ被備 叡覧之処に則

皇家に被懸置 叡威有而御悦不斜近衛殿へも御鷹鶴被進御使針阿弥ていあみ 翌日為御礼安土に至而 近衛殿御成 町家に御座候体被及聞食 宮内卿法印所御宿に被仰付御服かみ下色々被成御取揃被参御礼御申有て次日払晩御帰洛

正月十三日 尾州清洲にて御鷹つかはさるへき為柏原迄御成十四日岐阜へ御下翌日御逗留十六日尾州清須へ御下着 十八日三州吉良へ御成雁鶴余多被成御取飼 廿二日尾州へ御帰

廿三日 岐阜まて御上り次日御滞留

廿五日 安土に至て御帰城

巻十一(三)
回録御弓衆御折檻之事
正月廿九日 御弓之者 福田与一 宿より火事出来 是偏に妻子を引越候はぬ故回録候由被成 御諚則 菅谷九右衛門 為御奉行御着判を付させられ御改候之処御弓衆六十人御馬廻六十人百廿人妻千越候はぬ者一度に御折檻御弓衆之内より火を出し申に付て先曲事之旨 上意にて 岐阜中将信忠公へ被仰遣岐阜より御奉行被出尾州に妻子置申候御弓衆之私宅悉被成御放火竹木迄きらさせられ依之取物も不取敢百廿人之女房共安土へ越申候今度之為過怠 御搆之南江之内に新道を築せられ何れも御赦免候也

巻十一(四)
磯野丹波磯貝新左衛門事
戊寅二月三日 磯野丹波守 上意を違背申被成御折檻逐電仕則高島一向に 津田七兵衛信澄 被仰付候也

戊寅二月九日 吉野之奥山中に 磯貝新右衛門隠居仕候を同地之者頸を切安土へ致進上候為御褒美黄金被下一度蒙御憎候之者不属御存分と云事なし

戊寅二月廿三日 羽柴筑前守秀吉 播州へ相働 別所与力嘉古川の 賀須屋内膳 城を借 羽柴筑前人数入置秀吉は書写山取上り要害搆居陣也 然間 別所小三郎存分を申立三木城へ楯籠也

巻十一(五)
相撲之事
戊寅二月廿九日 江州国中之相撲取三百人被召寄 安土御山にて相撲とらせて御覧候此ウチ廿三人ヨリ相撲在之此者共には御扇を被下中にも日野長光には別而被入御念骨にダミたる御扇 御前へ被召寄拝領外聞面目之至也 行事 木瀬蔵春庵 木瀬太郎太夫也 此両人御服被下頂戴

廿三人撰和撲人数 東馬二郎 たいとふ 日野長光 正権 妙仁 円浄寺 地蔵坊 力円 草山 平蔵 宗永 木村いこ助 周永 あら鹿 づこう 青地孫二郎 山田与兵衛 村田吉五 太田平左衛門 大塚新八 麻生アサウ三五 下川弥九郎 助五郎 以上廿三人

戊寅三月六日 御鷹山狩として奥之島山へ被成御上り長命寺 若林坊に御泊 三日之御鷹野物かす被仰付 八日に安土御帰陣

戊寅三月廿三日 御上洛 二条御新造へ被移御座

巻十一(六)
高倉山西国陣之事
戊寅四月四日 大坂表御人数被出 三位中将信忠 御大将軍にて尾濃勢州 北畠信雄卿 織田上総守                   神戸三七(信孝) 津田七兵衛(信澄) 滝川左近 維任日向守 蜂屋兵庫頭 惟住五郎左衛門 江州 若州 五畿内衆罷立 四月五日六日両日 大坂へ取詰悉麦苗薙捨御帰陣也

オープンアクセス NDLJP:中24戊寅四月七日 越中 神保殿 二条御新造へ被召寄此比 御対面無御座子細 二位法印 佐々権左衛門を以て被仰出黄金百枚並志々良百端被参輝虎 被相果付て飛弾国司へ被仰出 佐々権左衛門 相添越中へ入国候也

戊寅四月十日 滝川 維任 惟住両三人丹波へ被差遣御敵城 荒木山城 居城取巻水之手を止攻られ候致迷惑降参申退散去て 維任日守向人数入置

戊寅四月廿六日 京都に至て御帰陣

四月中旬 芸州より 毛利 吉川 小早川 宇喜田初として中国之催人数罷出備前播磨美作三ケ国之境目に在之 上月コウヅキ之城 山中鹿介居城取巻悉大亀山に中国衆取上着陣之由注進候則 羽柴筑前守 荒木摂津守両人罷立 高倉山に近と舞陣也雖然出を下下ヲリクタツテ谷を隔熊見川を隔候之間 上月城可身続テダテ無之

戊寅四月廿二日 信長公 京都より安土御下 四月廿七日 又御出京

五月朔日 播州被成 此動産東国西国之人数ハタエヲ合討勝而関戸を限而可被仰付之言被仰出処に 佐久間 滝川 蜂屋 維任申様播州之儀は嶮難を拘隔節所要害を丈夫に搆居陣之由承候間何れも罷立

彼様子見計候て可申上候間被加御延慮尤之由各達て御異見也

寅四月廿九日 滝川 維任 惟住 出陣

戊寅五月朔日 三位中将信忠 北畠信雄卿 織田上野守 神戸三七(信孝) 永岡兵部大輔 佐久間 尾州 濃州 勢州 三ケ国之御人数にて御出馬其日郡山御泊 翌日兵庫六日には播州之内明石之並大窪と云在所御陣を居られ候先陣御敵城 神吉 志かた 高砂へさし向嘉古川近辺に野陣を懸られ

巻十一(七)
洪水之事
五月十三日 信長公可被成 御動座候旨被仰出候処 十一日巳刻より雨つよく降十三日午刻迄夜日五日雨あらくふり続洪水生便敷出候て賀茂川白川桂川一面に推渡し都の小路十二日十三日両日者一ツに流上京舟橋之町推流水に溺人余多損死候也 村井長門 新敷被懸候四条之橋流れケ様に洪水にて候へとも今迄 信長公御出陣と候へは御日取之日限相違無御座に依て御舟にても可被成 御動座歟之儀を存知淀鳥目宇治真木之島山崎之者共数百艘五条油之小路迄櫓械ロカイを立て参此等趣言上之処不斜御祝着候也

五月廿四日 竹中半兵衛申上候之子細は備前内八幡山之城主 御身方仕候由申越候被成御満足羽柴筑前秀吉かたへ黄金百枚并竹中半兵衛に銀子百両被下忝次第にて罷帰候也

寅五月廿七日 信長安土大水之様子可被成御覧為御下 松本より矢橋へ御舟にめされ御小姓衆計にて御渡海

寅六月十日 信長御上洛又矢橋より舟にて松本へ御上り

寅六月十四日 祇園会 信長御見物御馬廻御小姓衆何れも弓鑓長刀持道具無用之由 御諚証にて被持候はす祭御見物之後御伴衆被成御帰シ御小姓衆十人計にて直に御鷹野へ御出雨少際其日 近衛殿へ御知行合千五百石山城之内普賢寺にて被進候

巻十一(八)
播磨神吉城攻之事
寅六月十六日 羽柴筑前守 播州より罷上一被得 御諚之処謀略不相調張陣候ても無曲候問先此陣引払神吉志かたへ押寄攻破其上三木別所搆取詰可然之旨被仰出神吉城責

オープンアクセス NDLJP:中25御検使 大津伝十郎 水野九蔵 大塚又一郎 長谷川竹 矢部善七郎 菅谷九右衛門 万見仙千代 視弥三郎 御番替に被仰付

寅六月廿一日 信長京都より安土至て御下

六月廿六日 滝川 維任 惟住 人数三日月山へ請手に引上 羽柴筑前 荒木摂津守 高倉山之人数

引払書写迄諸方打納 次日は神吉の城取詰 北より東の山に 三位中将信忠卿 神戸三七信孝 林佐渡守 永岡 佐久間 前後左右段に取続陣を懸させられ 志かたの城 北畠信雄卿 御陣取也 惟住五郎左衛門 若州衆請手として西の山に陣を張此外之御人数 滝川 稲葉 蜂屋 筒井順慶 武藤惣右衛門 維任 伊賀 氏家 荒木 是等者神育の城あらと取寄搆即時に攻破ハダカか城になし本城之堀へ飛入塀をつき崩数刻被攻 神戸三七 足軽と争先御手を被砕手負死人数輩在之一旦に難成之間其者衆口をクツロゲ又翌日竹たはを以て什寄本城塀際まて詰よせ填草ウメクサヲよせ築山をつき被攻候 羽柴筑前は但馬国へ相働国衆如前々召出し 竹田之城に 木下小一郎被入置候キ是より書写へ 羽柴筑前人数被打納去て 神吉之城攻くち南の方手薄に御座候に依て 織田上野守 御陣よせられ又御敵不相働之間請手に人数不入に付て 惟住五郎左衛門 若州衆神吉東之口を受取先一番に城楼セイロウと二ツ組上大鉄炮を以て打入堀を填させ築山を築上攻られ 滝川左近南より東へ付て攻口也かねほりを入城楼を上大鉄砲以て塀矢蔵打くつし矢蔵へ火を付焼落し此外諸手手前に城楼築山をつき日夜被責種々御佗言雖申候御検使を被出堅被仰付候間御許容無之

寅六月廿九日 信長公より被仰出兵庫と明石之間明石より高砂之間道の程遠く候間舟手の海賊等為警固 津田七兵衛 山城衆相加 万見仙千代被遺可然地を見計置可申之趣 御諚にて能山を足懸りに拵置 仙千代は罷帰様子言上候し也此外路次つまりに 三位中将信忠卿より被仰付 林佐渡 市橋九郎左衛門 浅井新八 和田八郎 中島勝太 塚本小大膳 簗田左衛門太郎 番替に御警固候し也去程 洛中四条道場(戊寅)七月八日巳刻寮舎より火を出し囘禄時節到来也

寅七月十五日夜に入 神吉之城へ滝川左近 惟住五郎左衛門両手より東之丸へ乗入 十六日に中之丸へ責込 神吉民部少輔 討とり 天主に火を懸込入込出し戦事火花を散し其間ソノマに天主は焼落過半焼死候也西の丸は 荒木摂津守攻口也是には 神吉藤太夫 楯籠 佐久間右衛門尉荒木摂津守両人御佗言之馳走を以て被成御赦免 ナラヒ 志方之城へ罷り返 神吉落去之城 羽柴筑前に相渡又志かたの城へ惣人数取懸られ是又艱拘見及降参申並人質当城相渡右両城 羽柴筑前 請取又従之 別所小三郎楯籠候三木之城へ惣御人数取懸塞に近と付城の御要害被仰付御在陣候し也

巻十一(九)
九鬼大船之事
勢州之 九鬼右馬允に被仰付大船六艘作立並滝川左近 大船一艘是は白舟に拵順風見計

寅六月廿六日 熊野浦へ押出し大坂表へ発廻候之処各之輪海上にて 此大艦可相支テタテとして雑賀谷輪浦 の小船不知数乗懸矢を討懸鉄炮を放懸四方より攻候也 九鬼右馬允 七艘之大船に小船を相添山の如く飾立敵舟を間近く寄付アイし候う様に持なし大鉄炮一度に放懸敵舟余多打崩候之間其後は中 寄付不及行に無難

寅七月十七日 堺の津へ着岸候し也見物驚耳目候し也翌日大坂表へ乗出し塞に舟を懸置海上之通路を止堅固仕候也

オープンアクセス NDLJP:中26巻十一(十)
小相撲之事
去程 三位中将信忠 岐阜に而庭子の御鷹四足ヨモト御飼立被成候近来之御名従不可過之御鷹師タカシヤウ山曰 広葉両人安土へ

寅七月廿三日 持参候処右之内一足破召上残り者中将信忠へ被成御帰両人御鷹師辛労仕たる之由 上意にて銀子五枚宛に御服相副被下色々忝儀共にて罷帰候也

寅八月五日 奥州津軽之 南部宮内少輔 御鷹五足イツモト進上

寅八月十日に 万見仙千代 所へ南部めし寄られ御振舞被仰付此時御礼被申候也

寅八月十五日 江州国中京都の相撲取を初として千五百人安土へ被召寄 御山にて辰刻より酉刻迄とらせて御覧候各我手之者共を召列られ則御奉行

御人数之事 津田七兵衛信澄 堀久太郎 万見仙千代 村井御右衛門 木村源五 青地与右衛門 後藤喜三郎 布施藤九郎 蒲生忠三郎 永田刑部少輔 阿閉孫五郎

行事者 木瀬蔵春庵 木瀬太郎太夫 両人也

小相撲 五番打人数之事

五番打(京極内)江南源五 五番打(木村源五内)深尾久兵衛 五番内(布施藤九郎小者)勘六 五番打(久太郎内)地蔵坊 五番打(後藤内)麻生三五 五番打(浦生中間)数下ヤブノシタ 以上

大相撲 三番打 人数之事

三番打(木村源五内)木村伊小介 三番打(瓦園内)綾井二兵衛尉 三番打(布施藤九郎内)山田与兵衛 三番打(後藤内)麻生アサウ三五 三番打 長光 三番打 青地孫次 三番打 づかう 三番打 東馬二郎 三番打 たいとう 三番打 円浄寺源七 三番打 大塚新八 三番打 ひし屋 以上

大方相撲終既及薄暮 永田刑部少輔 阿閉孫五郎 強力之由連々被及聞食候て両人之働御覧し度被思食右御奉行衆之相撲御所望也初には堀久太郎 蒲生忠三郎 万見仙千代 布施藤九郎 後藤喜三郎 とられ候て後に刑部少輔阿閉哲手相にてくまれ候勿論阿閉器量骨柄勝れ候て力のつよき事無隠候へとも仕合候歟惣別強候歟刑部少輔勝相撲に候其日は珍物調終日取替御相撲取に被下度々能相撲仕候に付て被召出人数之事

東馬二郎 たいとう づかう 妙仁 ひし屋 助五郎 水原孫太郎 大塚新八 あら鹿 山田与兵衛 円浄寺源七 村田吉五 麻生三五 青地孫治 以上十四人

右御相撲取被召出何れものし付之太刀脇差衆御服かみ下御領中百石宛私宅等まて被仰付都鄙之面目忝次第也

寅八月十七日 中将信忠 播磨より被納御馬

寅九月九日 安土御山にて相撲をとらせ候て 中将信忠 北畠信雄卿へ御見物

九月十五日 大坂表御取出 御番衆之御目付として御小姓衆御馬廻御弓 衆廿日番に城へ被相加

九月廿三日 信長公 御上洛勢田 山岡美作守所御泊次日二条御新造御参着

九月廿四日 斎藤新五 越中へ被仰付出陣国中 大田保之内 つけの城 御敵 椎名小四郎 河田豊前人数入置候尾濃両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則 つけの城へ 神保越中 人数入置 斎藤新五 三里程打出陣取候て在々所々へ相働

オープンアクセス NDLJP:中27巻十一(十一)
大船堺津に而御見物之事
九月廾七日 九鬼右馬允 大船為可被成御覧京都より八幡迄御下 翌日 廿八日若江亀泊 廿九日早朝より天王寺へ御成 佐久間右衛門所に暫時被成御休息 住吉社家に至而被移御座 其時天王寺より住吉之間御鷹つかはされ候キ

晦日には払暁より堺之津へ御成 近衛殿 細川殿 一色殿 是も御同心然而 九鬼右馬允 大船を飾立のほりさし物幕打廻し湊之武者舟是又兵具と以て我手をかさり又堺南北として 御座舟事も生便敷唐物其員を集てかさり 進上物を我不劣と持参無際限堺南北之僧俗男女此時 信長公を拝み奉らんと結搆に出立候てにほひ焼物ふんとして衣香撥当四方に薫し群集候し也 九鬼大船へ只御一人めされ御覧有之それより今井宗久所へ御成 過分忝次第後代之面目也御茶参り御帰に 宗陽 宗及 道叱三人之私宅へ忝も御立寄なされ住吉社家に至て御帰宅 九鬼右馬允 被召寄 黄金二十枚并御服十菱喰折二行拝領其上千人つゝ御扶持被仰付並 滝川右近 大船白舟 上乗仕候 犬飼助三 渡辺佐内 伊藤孫太夫 三人に 黄金六枚御服相添被下頂戴

寅十月朔日 住吉より御帰洛 安見新七郎所に暫御成御休息 二条御新造に至て御帰 翌日 住阿弥御留守あしく仕候に付ても成敗並久々被召使候 さいと申女是又同罪に被仰付

巻十一(十二)
越中御陣之事
寅十月四日 斎藤新五 越中国中大田保之内本郷に陣取御敵 河田豊前守 椎名小四郎 今和泉に楯籠候彼城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候 斎藤新五 節所へ引かけ 月岡野と云所にて人数立合既及一戦追崩 頸かす三百六十討とり此競を不休 懸まはり所々入質執固 神保越中所へ相渡し帰陣候也

寅十月五日 五畿内江州之相撲取被召寄 二条御新造御坪之内にて相撲をとらせ 摂家清花等へ御見物也

十月六日 信長公従坂本御舟にめされ安土御下

十月十四日 長光寺山御鷹つかはされ岐阜にて御生立ソタテなされ候庭子之御鷹御取飼候て御機嫌不斜

巻十一(十三)
荒木摂津守企逆心並伴天連事
十月廿一日 荒木摂津守 企逆心之由方々より言上候不実に被思食何篇之不足候哉存分を申上候はゝ可被仰付之趣にて 宮内卿法印 維任日何守 万見仙千代を以て被仰遣之処に少も野心無御座之通申上候被成御祝着為御人質 御袋様被差上無別儀候はゝ出仕候へと雖御諚候謀叛をかまへ候之間不参候惣別 荒木は雖一僕之身に候一年 公方様御敵之砌忠節申候に付て摂津国一職に被仰付之処不身程誇朝恩搆別心候此上は不及是非之由にて安土御山に 神戸三七 稲葉伊予 不破河内 丸毛兵庫をかせられ 十一月三日 御馬を出され 二条御新造御成 爰にても 維任日向守 羽柴筑前 宮内卿法印を以て色被懸御扱候へとも御請不申候

去程大坂表所々付城目付として御小姓衆御馬廻歴々被差越候処大坂への宮笥に必定可致生害之趣取々に風聞被及聞食不便に雖被思食候無御了簡次第也如何存知候哉各御番手之面送越候被成御祝着何れも召被出今度色々雑説雖在之無弱候事且家之面目且其身之為神妙之旨被成御感各御服拝領忝題目也

十一月六日 西国舟六百余艘木津表へ乗出し候 九鬼右馬允 乗向候へは取籠 十一月六日辰刻南へ向て午刻迄海上に而舟軍有初は 九鬼支合候事難成見え候六艘之大船に大鉄炮余多在之敵船を間近くオープンアクセス NDLJP:中28寄付 大将軍の舟と覚しき大鉄炮を以て打崩候へは是に恐れて中不寄付数百艘を木津浦へ追上ヲイノボセ見物之者共 九鬼右馬允手柄成と感せぬはなかりけり

十一月九日 信長公 摂州表 御馬を被出其日山崎御陣取次日 滝川左近 維任日向守 惟住五郎左衛門 蜂屋兵庫頭 氏家左京亮 伊賀伊賀守 稲葉伊予 芥川アクタカワ 糖塚ヌカツカ 太田ヲヽダ村 猟師川レウジカワ辺に陣取御敵城茨木之陣へ差向 大田之郷北の山に御取出之御普請被申付候 中将信忠 北畠信雄卿 織田上野守 神戸三七信孝 越前衆 不破彦之 前田又左衛門 佐々内蔵佐 原彦次郎 金森五郎八 日根野備中 日根野弥治右兵門罷立摂津国天神之馬場に御陣を懸られ高槻へ差向天神山御取出之後普請被申付 信長公はあまと申所山手に四方を見下し御陣を居させられあまにもつなきの要害被仰付 然而高槻之城主高山右近たいうす門徒に候 信長公破廻御案伴天連を被召寄此時高山御忠節仕候様に可致才覚さ候はゝ伴天連門家何方に建立候共不苦若御請不申候はゝ宗門を可被成御断絶之趣被仰出則伴天連御請申 佐久間右衛門 羽柴筑前 宮内卿法印 大津伝十郎 同道申高槻へ罷越色々教訓仕候勿論高山人質雖出置小鳥を数大鳥助仏法可繁昌之旨相存知此上者高槻之城進上申高山は伴天連沙弥之由御請申候御祝着不斜 茨木へ差向候付城 太田郷 御取出御普請出来申に付て越前衆 不破 前田 佐々 原 金森 日根野 入置

十一月十四日 右之御普請衆 滝川 維任 惟住 蜂屋 武藤 氏家 伊賀 稲葉 羽柴 永岡先陣伊丹へ相働足軽を出し候 武藤宗右衛門 手之者共懸入馬上にて組討して頸四つ討とりあまへ致持参候て懸御目近辺放火候て伊丹を押刀根山近と陣取

  御取出所々有所之事

カイ野之郷道より南山手に要害候て 蜂屋 推住 蒲生 若州衆 居陣候之也

をのバら 中将信忠 北畠信雄 神戸三七 御陣取候也

十一月十五日 信長公あまより郡山へ御参陣也

十一月十六日 高山右近 郡山へ致祇候御礼申上候処被成御祝着 御為にめさせられ候御小袖をヌカせられて被下並埴原新右衛門進上之御秘蔵之御馬是又拝領忝次第也今度之為御褒美 播州之内芥川郡被仰付弥被励御忠節可然之旨御使衆被申訖

十一月十八日 信長公 惣持寺へ御出 津田七兵衛信澄人数を以て 茨木之小口押 物持寺 寺中御要害越前衆 不破河内 前田又左衛門 佐々内蔵佐 金森五郎八 日根野備中 日根野弥治右衛門 原彦次郎所に被仰付太田郷御取出引払近々と取詰させ

寅十一月廿三日 惣持寺へ至而御成次日 廿四日に刀根山御取出御見舞として御年寄衆被召列其日廾四日 亥刻雪降夜もすから以外時雨候キ御敵城茨木 石田伊予 渡辺勘太夫 中川瀬兵衛両三人楯籠

寅十一月廿四日 夜半計に御人数引受 石田 渡辺勘太夫 両人加勢之者を追出し 中川瀬兵衛御身方仕候 調略に御使 古田左介 福富平左衛門 下石ヲロシ彦右衛門 野々村三十郎四人之才覚也 右四人茨木城為警固取置 摂州表過半属御存分上下満足不可過之

寅十一月廿六日 黄金三十枚 中川瀬兵衛被下小使仕候家臣之者三人に黄金六枚御服相添被下

高山右近 是又金子二十枚家老之者二人に金子四枚御服相添拝領

オープンアクセス NDLJP:中29寅十一月廿七日 郡山より古池田に至て被移御陣其日之朝風吹候て寒気大方ならす及晩 中川瀬兵衛御礼に古池田に祇候候也

信長より 御太刀拵之御腰物並御馬皆具共に拝領

三位中将信忠より御腰物(長光)並御馬被下

北畠信雄より御秘蔵之御馬被下

神戸三七信孝御馬    一津田七兵衛信澄御腰物  以上

中川瀬兵衛 拝領添次第に而罷帰候也

霜月廿八日 小屋野迄 信長公近陣に寄させられ四方より近々と取詰塞りに御取被仰付

巻十一(十四)
安部二右衛門御忠節之事
去程に在々所々百姓等悉カブト山へ小屋アガり仕候陸国をも不申上曲事に被思食候歟 堀久太郎 万見仙千代 被仰付諸手の乱妨人打付山をさかし或切捨或兵粮其外思取来事無際限 滝川左近 惟住五郎左衛門両人被差遣 西宮 いはら住吉 あし屋の里 雀か松原 三陰ミカケの宿 滝山 生田森 陣を取御敵 荒木志摩守 鼻熊ハナクマに楯籠候人数を以て押置山手を通り兵庫へ打入僧俗男女無嫌投伐に切殺堂塔伽藍仏像経巻不残一宇一時に雲上之烟となし須磨一谷迄相働放火候へキ

爰に大矢田と申候て尼崎之並に在之大坂より尼崎へも伊丹へも通路肝要之所候彼城主は 安部二右衛門と云者也 芝山源内と両人申談御身方之御忠節可仕之旨申上古屋野御陣取へ

十二月朔日之夜 蜂須賀彦右衛門才覚に而両人御礼に巻候処御満足不斜黄金弐百枚被下忝次第に而罷帰候キ爾処二右衛門親伯父二人此由承候て大坂門跡並対荒木不儀不可然親伯父は一途同心有間敷之由候て 二右衛門城の天主へ両人取上居城候此分にては難成と存知親伯父両人申さるゝ所尤と宥申無御忠節 信長公より黄金被下候はん事不謂候間金子返進申之由にて上申二度御敵の色を立候はんと申 芝山源内を使として被下之黄金古屋野へ返上す 信長は不及是非旨 御諚候キ其上 二右衛門 蜂屋阿閉両人陣取之所あしかるを出し鉄炮打入御敵仕候由申候如此仕合にて候間親伯父満足仕候処思程たはかりすまし伯父を使として右之様子に而相替儀無之旨尼崎に在之荒木新五郎並大坂へ申遣候親も悦天主よりヲリず候を観をは押籠腰刀を取則人質として京都へノホセ 十二月三日の夜古屋野 御陣所へ 二右衛門 又祗候申右難儀之仕合一言上候処最前之忠節よりも一入神妙之働御感に被思食之由候て忝もさゝせられ候御秘蔵の左文字之御脇指被下並御馬皆具共に拝領 御太刀代として黄金二百枚其上摂州之内川なべ郡一色進退に被仰付 芝山源内 是又御馬拝領候し也

巻十一(十五)
丹波国波多野舘取巻之事
十二月四日 滝川左近 惟住五郎左衛門 兵庫一谷焼払人数打返し伊丹を押塚口之郷に在陣也

寅十二月八日 申刻より諸卒伊丹へ取寄 堀久太郎 万見仙千代 菅谷九右衛門両三人為御奉行鉄炮放を召列町口へ押詰鉄炮をりたせ其次御弓衆 平井久右衛門 中野又兵衛 芝山次太夫 三手に分而火矢を射人町を放火可仕之旨被仰出西刻より亥刻迄近と取寄被攻壁際にて相支 万見仙千代 討死候

十二月十一日 所々に付城被仰出 信長公 古他田に至て被移御陣

 御取出御在番衆

堀口郷 惟住五郎左衛門 蜂屋兵庫 浦生忠三郎 高山右近 神戸三七信孝

オープンアクセス NDLJP:中30毛馬村 織田上野守 滝川左近 北畠信雄卿 武藤総右衛門

倉橋郷 池田勝三郎 勝九郎 幸新

原田郷 中川瀬兵衛 古田左介

刀根山 稲葉伊予 氏家左京助 伊賀平左衛門 芥川

郡山  津田七兵衛信澄

古池田 塩川伯耆守

賀茂  三位中将信忠 御人数

高槻之城 御番手御人数 大津伝十郎 牧村長兵衛 生駒市左衛門 生駒三吉 湯浅甚介 猪子次左衛門 村井作左衛門 武田左吉

茨木城  御番手衆 福富平左衛門 下石彦左衛門 野々村三十郎

中島 中川瀬兵衛

ひとつ屋 高山右近

大矢田 安部二右衛門

如此所々に御番手之御人数被仰付 羽柴筑前守に相加 佐久間 維任 筒井順慶 播州へ致 着遣有馬郡之御敵さんたの城へ差向 道場河原 三本松 二ケ所足懸拵 羽柴筑前守秀吉 人数入置是より播州へ相働 別所居城 三木へ之取出城へ兵粮鉄炮玉薬普請等申付帰陣候也

維任日向は直に丹波へ相働 波多野か舘取巻四方三里かまはりを 維任一身之手勢を以て取巻堀をほり塀柵幾れも付させ透間もなく塀際に諸卒町屋御に小屋を懸させ其上廻番を丈夫に警固を申付ケタモノ之通ひもなく在陣候也

十二月廿一日 信長公 古池田より京都に至て御馬 納られ其日雪少宛降候キ

十二月廾五日 安土御帰陣候也

 

 
オープンアクセス NDLJP:下5巻十二○巻之十二 (天正七年己卯)
信長公記巻十二
太田和泉守 綴之
 

巻十二(一)
摂津国御陣之事
天正七年己卯

江州安土御山にて被成御越年訖 歴〻御衆摂州伊丹表数ケ所の御付城各御在番の儀に付て御出仕無之

正月五日 九鬼右馬允 堺の津より罷上安土御山にて年頭の御礼申上の処今の透に在所へ罷越妻子見申候て頓て上国可仕の旨忝も御暇被下満足にて勢州へ罷下也

二月八日 御小性衆御馬廻御弓衆に被仰付馬淵より切石三百五十余被召上翌日御鷹雁鶴何れも被下忝頂戴

二月十八日 渉上洛二条蔵造へ被移御座 廿一日東山御鷹つかわされ 廿八日又東山御鷹野

三月二日 賀茂山御鷹つかはされ候

三月四日 中将信忠 北畠信雄 織田上野守 織田三七信孝 御上洛

三月五日 信長公御父子摂州伊丹表至而御動座山崎御陣取次日天神馬場より路次すから御鷹つかはされ郡山御陣取

三月七日 信長公 古池田に至而 御陣を居させられ諸卒は伊丹四方に陣取 越州衆 不破 前田 佐々 原 金森 是等も参陣也

岐阜中将信忠 御取出 賀茂岸 池之上二ケ所丈夫に御要害被仰付四方付城相搆手前に堀をほり堀棚を御普請也

三月十三日 高槻の城為御番手 大津伝十郎被遣の処に病死の由候へき

オープンアクセス NDLJP:下6三月十四日 多田之谷御鷹つかはされ候 塩河勘十郎 一献進上之時御道複ダウフク被下頂戴忝次第也

三月晦日 御鷹野みのをの滝御見物其日十三尾之御鷹少足を痛申し候由逸物ものかす仕候秘蔵并なく毎日之御鷹野信長公之御辛労無申計御機力強事諸人感し申也

四月朔日 岐阜中将信忠卿之御小性衆 佐治新太郎と金森甚七郎致口論甚七郎差殺サシコロシ新太郎腹切相果候両人之年齢は廿計の人にて候手前神妙の働上下感し申候

四月八日 御鷹野へ御出古池田東之野にて御クルイ在之 御馬廻御小性衆には馬をノセさせられ御弓衆御そはにをかせられ二手に分而馬乗衆御責子セコ衆之中へ懸入候はんと馬を懸られ 信長公 御せこ衆と御一所に御座候て被フセカせ御クルイ有而御気を晴させられ従其直に御鷹野也

四月八日 播州へ御人数被出越前衆 不破 前田 佐々 原 金森 織田七兵衛信澄 堀久太郎

四月十日 惟住五郎左衛門 筒井順慶 山城衆出陣

四月十二日 中将信忠卿 北畠信雄卿 織田上野守 織田三七信孝 御馬を被出 猪子兵介 飯尾隠岐両人播州三木表今度御取出御普請之為御検使相副被遣候 中将信忠卿 御取出 古屋野 池上御留守 永田刑部少輔 牧村長兵衛 生駒市左衛門の両三人御番手に被仰付候

四月十五日 丹波より 維任日向御馬進上之処に則日向に被下之由にて被成御返候

四月十七日 関東常陸国多賀谷修理亮星河原毛の御馬長四寸八分歳七歳太逞駿馬はる牽上進上爰道三十里を乗帰こたへ者の由候御祝着不斜 青地与右衛門に被仰付御馬せめさせられ候 正宗之御腰物青地被下候是は佐々木所持候を 佐々内蔵佐求候て黄金十枚付候てさやまきののし付に拵進上之刀也外聞実儀忝次第也

多賀谷修理かたへ被遣注文

  御小袖 五ツ   縮  三十端  以上
  銀子   五枚是は使者に被下候也

四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚被遣候 御使森乱 中西権兵衛相副被下過分忝の由候也

称葉彦六 取出河原口へ伊丹敵城より足軽を出し候則塩河伯耆氏家左京懸合暫取合随分の者三人討捕候 播州三木表にても御敵足軽を出し 中将信忠卿 御手へ頸数十人計討捕被得勝利の山御注進在之

四月廿三日 ハヤブサ 巣子スコ丹波より維任日向求進上也

巻十二(二)
京都四条こゆい町糸屋後家事
去程京都に前代未聞の事有下京四条こゆゐ之町糸屋後家に及七十老女あり一人の娘を持候母と一所に候つる 四月廿四日の夜母によき酒を求思程しひてのませ酔臥候時土蔵の内にをき夜更人しつまりて母をさし殺手つからかわこへ入よくからけて法花衆にて候へとも誓願寺の沙弥を呼よせ人の知らぬ様にして寺へつかはし候下女一人候つるかれにはうつくしき小袖をとらせて人にふかく隠密いたし候へと申付候彼女後をおそろしく思ひ村井長門所へ走入此有様申候則彼娘を搦捕糺明をとけ 四月廿八日上京一条の辻より車に乗て洛中をひかせ六条河原にて成敗候也

巻十二(三)
二条殿烏丸殿菊庭殿山科右衛門督殿嵯峨策彦武藤弥平衛病死之事
四月廿六日 古池田まへ 信長被成御出御狂有以前の如く 御馬廻御小性衆 近衛殿 細川右京太夫殿 是も御馬をめされ二手に分而御足軽御懸引面白遊し御気を晴させられ候

中将信忠卿 播州三木表に今度六ケ所塞に御取出被仰付それより 小寺藤兵衛(政ノリ)居陣五ちやオープンアクセス NDLJP:下7くへ御馬寄られ推請御放火

四月廿八日 有馬郡迄 中将信忠卿御馬被入是より直に野瀬郡へ移働耕御薙捨

四月廿九日 古池田迄多帰陣 信長公へ播州表の様子被仰上の処に則御下国候へし旨 御諚候其日東福寺まて御成次日岐阜に至而御帰城 越前衆惟住五郎左衛門 御敵城おうごう之城へ差向御取出申付古池田へ帰城候て様子言上の処越前衆御暇被下帰国候也其外衆伊丹表定番被仰付候キ

塚口郷 惟住五郎左衛門 蜂星兵庫頭 蒲生忠三郎

塚口ノ東田中 福富平左衛門 山岡対馬守 山城衆

毛馬 永岡兵部太輔 与一郎 頓五郎

川端取出 池田勝三郎父子三人

田中 中川瀬兵衛 古田左介

四角屋敷 氏家左京亮一河原取出 稲葉彦六 芥川

賀茂岸 塩河伯耆 伊賀平左衛門 伊賀七郎

池上 中将信忠卿 御人数御番替

古屋野古城 滝川左近 武藤宗石衛門

深田 高山右近

倉橋 池田勝九郎     已上

如此四方に御取出被仰付二重三重堀をほり塀柵を付手前堅固に被申付候

五月朔日 信長公御帰洛

去程 二条殿 烏丸殿 菊庭殿 山科左衛門督殿 嵯峨之策彦 此頃歴病死被成候也

五月三日 信長公 御下路次は山中より坂本へ御小性衆計被召列御舟にて直に安土御帰城

五月十一日 吉日に付て 信長御天主へ御移従

五月廿五日 夜中 羽柴筑前守秀吉播州海蔵寺の取出へ忍ひ入乗取候依之 次日置おふごう之城も明退也

巻十二(四)
法花浄土宗論之事
五月中旬の事候関東より浄土宗霊誉と云長老上国候て安土町にて談儀をのへられ候法花衆 建部紹智大脇伝介両人説法の座へ罷出不審を懸申候長老被申様若輩のカタへひらきを申候共仏法の上更に耳に不可入所詮両人の被憑候法花坊主を被出候はゝ返答可申と返事候て七日候はん法談の十一日迄のへられいて法花かたへ使を被立候法花衆も致宗論候はんと申候て京都より長会寺の日光 常光院 九音院妙願寺の大蔵坊 堺の油屋弟坊主妙国寺不伝歴の僧衆都鄙の僧俗安土へ羣衆候此目被及聞食 御前に御祇候の衆も余多法花衆御座候 信長公御諚として可被成御扱候の間無事尤の由 菅屋九右衛門 矢部善七郎 堀久太郎 長谷川竹 此等は使として被仰出候浄土宗は何様にも上意次第の旨 御請被申候へ共法花方より勝に乗て同心無之既宗論にキハマル其時左候はゝ判者を可被仰付候間以書付勝負を懸御目候へと御諚候て五山の内にても物知に候日野の秀長老被召上折節因果居士被参候是も被相副安土町末浄土宗の寺浄厳院此殿にて宗論有寺中為御警固 織田七兵衛信澄 菅屋九右衛門 矢部善七郎 オープンアクセス NDLJP:下8堀久太郎 長谷川竹五人被仰付 法花宗は生便敷ヲヒタヽシク結搆に出立 長会寺日光 浄光院 九音院 堺の油屋弟功主妙国寺不伝 妙願寺の大蔵坊 筆競にて法花八軸に硯折紙を取持被出候 浄土宗は塁次にて如何にも左遣成仕立関東の長老安土田中の貞安長老二人是も硯折紙を持候て被出関東の貞誉長老は

予云為に候間可申と被仰候を田中の貞安早口にて初問を被置従其互の問答書付ル
貞安問云 法花八軸ノ中ニ有念仏乎
法花云 荅念仏在之
貞安云 念仏ノ義アラハ何ソ無間ニ落ル念仏ト法花ニ説ヤ
法花云 法花ノ弥陀ト浄土ノ弥陀ト一体歟別体歟
貞安云 弥陀ハ何クニ有弥陀モ一体ヨ
法花云 サテハ何ソ浄土門ニ法花ノ弥陀ヲ捨閉閣抛ト捨ルヤ
貞安云 念仏ヲ捨ヨト云ニ非ス念仏ヲ修スル機ノ前ニ念仏ノ外ノ捨閉閣抛ト云也
法花云 念仏ヲ修スル機ノ前ニ法花ヲ捨ヨト云経文アリヤ
貞安云 法花ヲ捨ルト云証文コソアレ浄土経ニ云善立方便顕示三乗と云々又一向専念無量番仏云々法花ノ無量之儀経ニ以方便四十余年未顕真実ト云ヘリ
貞安云 四十余年ノ法門ヲ以爾前ヲ捨方座第四ノ妙之一字ハ捨ルカ捨サルカ
法花云 四十余年四妙之中ニハ何ソヤ
貞安云 法花ノ妙ヨ汝不知乎 此返答無之閉口ス

 貞安亦云捨ルカ捨サルカヲ尋処ニ無言ス其時判者ヲ始満座一同ニ噇ト笑テ袈裟ヲ剥取 天正七巳卯年五月廿七辰刻 関東ノ長老扇ヲ披キ立テ一舞まはれたり長命寺日光妙ノ一字に𪭼ツマリ打擲せられ八軸の経王も見物の者共手に破取法花衆四方へはつと透散候口渡り迄追手を懸少止置宗論勝負の書付被備 上覧之処則信長公不移時刻 午刻に御山下なされ浄厳院へ被移御座法花衆浄土宗被召出先 関東の霊誉長老へ御扇を出され田中の貞安長老へ御団を被下御褒美不斜 秀長老へは先年堺の者進上仕候東坡か杖被参候去て大脇伝介被召出被仰聞の趣 一国一郡を持身にても不似合におのれは云大俗ト町人塩売の身として今度長老の宿をも仕候間贔屓をは仕候はて人にそゝなかされ長老へ不審申懸都鄙之騒き不届次第条々 御諚候て先頸をきらせられ又普伝被召出度々近衛殿御雑談ノ様子被仰聞 昔伝九州より罷上従去秋在洛候一切経の内何れの所に如何様の文字在之と中にて申程の物知の由候但何宗共なく候八宗顕学仕候中には法花衆ヨキ宗之由常〻申候て 信長申候はゝ何れの門家にも可成と申候行義は普伝或時は紅梅の小袖又或時は薄絵ハクエの衣装なとを着して己れか着たる破小袖結緑ノ申候て人にとらせ候由近衛殿被仰候後に能〻被及聞食候へは殊勝かほに聞候へともかり小袖にて作物仕候か程物知の普伝さへ聞入法花衆被成候と申候はゝ法花可為繁昌候間懇望せられ属詫を取日蓮党に成候はん巧み及老後搆虚盲不似合今度法文に勝候はゝ一期進退成候様に仕候はんと属詫堅約にて法花に憑まれ御届をも不申上罷下日比の申分相違曲事の由御諚候其上不伝は法文不申先人に宗論いはせ勝目に候はゝ可罷出と存知不出事胸の弱き仕立不相届旨条〻被聞普伝をも頸を切せられ残る歴〻僧衆へ被仰出様惣別諸侍軍役勤日々迷惑仕候に寺院結搆に仕致活計学文をもせす妙之一字之𪭼ツマリ候し事 オープンアクセス NDLJP:下9第一曲事候さ候共法花衆は口之過たる者候後日宗論負申さるとは定而申間敷候宗門をかへ浄土宗の弟子に成候歟不然者今度宗論負申上者自今以後他宗を誹謗仕間敷の旨墨付を出し候へと上意の処に則御請申

  敬白 起請文事

今度江州於浄厳院浄土宗ト宗論仕法花衆負申に付て京の坊主普伝并塩屋伝介被仰付候事

向後対他宗一切不可致法難之事

法花一分之儀可被立置之旨忝奉存知候法花上人衆一先牢人仕重而被召置之事

(天正七)九月廿七日                      法花衆

   上様 浄土宗

如此番紙進上候然而宗論負申候と書出負之字不思議の女童迄も於末代聞知事候替之詞如何程も可在之を越度仕候と歴々の僧衆後悔仕候由承及候也又諸人是を笑物に仕候又 建部紹智 堺の津迄逃行候のを追手を懸搦取今度大脇伝介 建部紹智両人シワザ為に依て如此候間是又願をきらせられ候

巻十二(五)
丹波国波多野兄弟張付之事
去程丹波国 波多野舘去年より維任日向守押詰取巻三里四方に堀をならせ塀柵を丈夫に幾重も申付被責候籠城の者既及餓死初は草木の葉を食とし後には牛馬を食し了簡レウケン尽果無体に罷出候を悉切捨波多野兄弟三人の者以調略召捕

六月四日 安土へ進上則慈恩寺町末に三人の者張付に懸させられさすの思切候て前後神妙の由候

六月十三日 丹後の松田摂津守 隼巣子二ツ進上

六月十八日 中将信忠卿安土御見舞として御成

六月廿日 伊丹表に在陣の衆滝川蜂屋武藤惟住福富此五人衆へ ハイタカ三聯ミモト 小男鷹コノリ二 青山与三為御使忝拝受被申候也

六月廿二日 羽柴筑前与力に被仰付候竹中半兵衛播州御陣にて病死候其名代として御馬廻に候へつる舎弟竹中久御播州へ被遣候

六月廿四日 先年惟住五郎左衛門拝之周光茶碗被召上其御かはりと御諚候て鐁切カンナキリ之御腰物被下作長光一段出来物系図在之刀也

七月三日 武藤宗右衛門 伊丹御陣にて病死也

七月六日七日 両日安土御山にて御相撲在之

七月十六日 家康公より坂井左衛門尉御使として御馬被進之 奥平九八郎坂井左衛門尉両人も御馬進上也

七月十九日 中将信忠卿へ被仰出岐阜にて 津田与八 玄以 赤座七郎右衛門両三人として 井戸才介 御生害子細は妻子をも安土へ越候はて所〻の他家をかすへあかき不断安土には無之無奉公者にて候其上先年致謀書 深尾和泉を支申候重畳曲事共相積御成敗候し也

七月十九日 惟任日向守 丹後へ出勢の処に 宇津搆明退候を人数を付追討に数多討捕頸を安土へ進上それより 鬼か城へ相働近辺放火候て鬼か城へ付城の要害を搆惟任人数入置

巻十二(六)
赤井悪右衛門退参之事
八月九日 赤井悪右衛門楯籠候黒井へ取懸推詰候処に人数を出し候則噇と付入に外くるは迄込入随分オープンアクセス NDLJP:下10之者十余人討取処種〻降参候て退出 維任右之趣一々注進被申上永〻丹波に在国候て粉骨之度〻の高名名誉も無比類の旨忝も被成下御感状都鄙面目不可過之

七月十八日 出羽大宝寺より駿馬を揃御馬五ツ并御鷹十一聯此内しろの御鷹一足在之進上

七月廿五日 奥州の遠野孫次郎と申人しろの御鷹進上 御鷹居 石田主計 北国辺舟路にてはる の凌風波罷上進献誠雪しろ容儀勝而見事成御鷹見物の貴賤驚耳目御耳目御秘蔵不斜 又出羽の千福と申処の前田薩摩是も御鷹居させ罷上御礼申上進上

七月廿六日 石田住計 前田薩摩 両人被召寄 堀久太郎所にて御振舞被仰付候相伴は津軽の南部宮内少輔也 御天主見物仕候てか様に御結搆のタメシ古今不承及生前思出忝の由候キ

遠野孫次郎かたへ先当座の為御音信

一御服拾(如何にも御結搆御紋織付色は十色也御裏衣是又十色也) 一白熊二付 一虎革二枚以上 三種 一御服五ツ并黄金為路銭使ノ石田主計被下忝拝領候也 一御服五ツ黄金相添前田薩摩守 被下忝仕合にて罷下候へキ

八月二日 以前法花宗と法文仕候貞安長老へ一銀子 五十枚貞安へ被下   一銀子 三十枚浄厳院長老へ   一銀子 拾枚日野秀長老へ一銀子 拾枚関東之霊誉長老へ 如此送被遣忝次第也

八月六日 江州国中相撲取被召寄安土御山にて相撲とらせ御覧候処甲賀の 伴正林と申者年齢十八九に候歟能相撲七番打仕候次日又御相撲有此時も取すぐり則御扶持人に被召出 鉄炮屋与四郎 折節御折檻にて籠へ被入置彼与四郎私宅資財雑具共に御知行百石熨斗付ノシツケの太刀脇指大小二ツ御小袖御馬皆具共に拝領名誉の次第也

八月九日 柴田修理亮 賀州へ相働阿多賀 本折 小松町口迄焼払其上苅田に申付帰陣の由也

八月廿日被仰出中将信忠 摂州表御出馬其日 柏原御泊 次日安土御出 廿二日 堀久太郎被相添古屋野に至て御在陣

巻十二(七)
荒木伊丹城妻子捨忍出之事
九月二日の夜 荒木摂津守 五六人召列伊丹を忍出 尼崎へ移候九月四日 羽柴筑前守秀吉 播州より安土へ被罷越 備前の 宇喜田御赦免の筋目申合候間御朱印被成候の様にと言上の処に 御諚をも伺不被申示合の段曲事之旨被仰出則播州へ被追還候也

九月十日 播州の御敵五着曽根衣笠の士卒一手に成敵城三木の城へ兵粮可入行候然者三木に楯籠人数此競に罷出 谷ノ大膳 陣所へ攻懸り既 谷ノ大膳を討果し候 羽柴筑前守 見合切かゝり及一戦相たゝかひ討捕人数の事 別所甚太夫 別所三太夫 別所左近尉 三枝小太郎 三枝道石 三枝与平次 とをり孫太夫 此外芸州紀伊州の侍名字は不知数十人討取被得大利候へ訖

九月十一日 信長公 御上洛陸を勢田通御出京逢坂にて播州三木表合戦候て数多討死申仕合注進候先度安土より筑前追帰させられ候に付て無念に存知其故を以て合戦を励〻得勝利事候弥三木一着の間者詰候て虎口の番等已下無由断可申付事肝要の旨忝も被成御書候へキ

今度相州氏政の舎弟 大石源蔵氏直御鷹三足京都迄上せ進上

九月十二日 鼓阜中将信忠 伊丹表の御人数半分被召列尼崎へ被成御働七松と云所に近と御取出オープンアクセス NDLJP:下11二ケ所被仰付 塩河伯耆 高山右近 一与に為定番被置 中川瀬兵衛 福富平左衛門 山岡対馬一組 に被仰付古屋野へ御人数被打帰

巻十二(八)
常見検校之事
九月十四日 京都にて座頭衆の中に申事有子細は摂州兵庫に常見と申候て分限之者有彼者申様には人毎に致失墜候ては必無力仕候一期楽と身を可楽様を案し出し彼常見眼者能候へとも千貫出し検校ケンケウに罷成都に可在京旨存知其段検校衆へ申理千貫つませ常見検校と号し座頭衆の官配クワンハイを取年来都に楽々と在之処に小座頭共申様には分限の者如此検校に成候はゝ法度計にて今迄も長久に相続候に耽金銀賄猥子細無勿躰其上はかりをヲモク仕候て金を取候段迷惑の由今度信長公へ訴訟申上処被聞食検校共条々曲事の旨被仰出可被成御成敗の処種〻御詫言申黄金二百枚致進上御赦免候巻十二(九)
宇治橋取懸之事
則此代物を以て宇治川平等院の前に橋を懸可申の旨 宮内卿法印 山口甚介 両人に被仰付為末代候に間丈夫に可懸置旨 御諚候乾

以前浄土宗と法花々論仕候其特の移礼として京之法花坊主より黄金二百枚進上候是を被召置候御心も如何々敷の由候て伊丹表天王寺播州三木方々御取出に在番候て粉骨の旁へ五枚十枚廿枚三十枚宛被下候也

九月十六日 滝川左近 惟住五郎左衛門 両人お湯馬被下忝次第也 青地与右衛門渉使にて候也

巻十二(十)
北畠中将殿御折檻状之事
九月十七日 北畠中将信雄 伊賀国へ御人数被差越御成敗の処に及一戦柘植三郎左衛門討死候也

九月十八日 二条御新造あて 摂家 清花 細川右京太夫殿 御鞠被遊候 信長公は御見物也

九月廿一日 信長公 京都より摂州伊丹表に至て御馬を出され其日山崎御泊廿二廿三両日雨降御滞留爰あて 北畠中将信雄卿へ被仰出趣上かたへ無御出陣私之御働不可然之旨被成御内書

其御文言

今度伊賀堺 越度取候旨誠天道もおそろしく日月未墜干地其子細者上かたへ出勢候へは其国之武士或民百姓難儀候条所詮国之内にて申事候へは他国之陣依相遁此儀尤と令同心あり数云へは若気故実と思如此候哉さて無念至極候此地へ出勢は第一天下之為父へ之奉公兄城介大切且は其方為彼是現在未来之可為慟剰始三郎左衛門討死之儀言語道断曲事之次第候実に於其覚悟者親子之旧離不可許容候猶夫者可申候也

   九日廿二日        信長

     北畠中将殿

九月廿四日 山崎より古池田に至て被移御陣

九月廿七日 伊丹四方御取出御見舞古屋野にて 滝川左近 所に暫御逗留従其 塚口 惟任五郎左衛門所御成被成御休息及晩 池田へ御帰次日

九月廿八日 御帰洛其日初て茨木へ御立寄

巻十二(十一)
人売之事
去程下京場々町門役仕候者之女房あまた女をかとはかし和泉之堺にて日比売申候今度聞付 村井春長軒召捕糺明候へは女之身として今迄八十人ほと売たる由申候則成敗也

九月廿九日 賀州之一揆大坂へ通路之者正親町中納言殿搦捕被成進上御祝着不斜則誅させられ

巻十二(十二)
謀書之事
十月朔日 山崎之町人先年惟任日向守 村井長春軒前にて一果候公事を致謀書直奏仕候村井候御尋之オープンアクセス NDLJP:下12処に右之果口言上候曲学之旨 御諚候て御成敗候也

巻十二(十三)
伊丹城謀叛之事
十月八日 成刻二条を被成形立夜もすから御下次之朝 九日之日之出に安土御帰城

十月十五日 滝川左近 以調略 佐治新介使を仕 中西新八郎を引付中西以才覚 足軽大将之 星野 山脇 隠岐 宮脇 致謀叛 上臈塚へ 滝川人数引入余多切捨候取物不取敢上を下へとなつて城中へ逃入親子兄弟をうたせ泣かなしむ計也町をは居取にいたし城と町との間に侍町有是をは火を懸ハダカ

城になされたりきしの取出 渡辺勘太夫 楯籠同者紛ドウシヤマギレに多田之舘迄罷退候を兼而申上儀も無之曲事之旨 御諚にて生害させられ又 ひよとり塚に 野村丹後 為大将雑賀サイカ之者相加拘候悉討死にて丹後御詫言申候処中無御許容生害候てくびを安土へ進上候 荒木妹丹後 後家城中にて此由承うさもつらさも身ひとりと泣かなしみいきて無甲斐身なからも此上又如何成憂目をか見んすらんとあさましく思歎く有様目も当られす哀也諸手四方より近と推詰城楼かねほりを入攻られ命御助被成候へと御佗言申候へとも御許容無之

十月廿四日 維任日向守 丹後丹波 両国一篇に申付安土へ参御礼其時 志々良百端進上候へキ

巻十二(十四)
氏政甲州表へ働之事
十月廿五日 相模国 北条氏政御身方之色を立られ六万計にて打立 甲斐国へ差向木瀬川を隔 三島に氏政居陣之由注進也 武田四郎も甲州之人数打出し富士之根かた三枚橋に足懸り拵対陣也 家康公も相州へ為御手合駿州へ相働所〻に被揚煙

十月廿九日 越中ノ神保越中守黒アシ毛御馬進上

十月晦日 備前宇喜多和泉 御赦免に付て為名代 宇喜多与太郎摂州古屋野迄罷上 中将信忠卿へ御礼 羽柴筑前秀吉御取次也

十一月三日 信長公 御上洛其日瀬田橋御茶屋に御泊 御番衆 御祇候之御衆へしろの御鷹見せさせられ次日御出京  二条御新造之御普請造畢仕に付て   禁裡機へ御進上なさるゝ趣

十一月五日 御奏聞之処則御博士ハカセに御日取被仰付吉日に付て 十一月廿二日 新御所へ

親王様行啓をさるへきに相定其御用意候也

十一月六日 しろの御鷹居させられ北野うらの辺鶉鷹つかはされ

十一月八日 東山より一条寺迄しろの渉鷹つかはされ初て御取飼 九日十日両日一乗寺修覚寺山御鷹野也上京裁売之町人一献進上仕候処一〻被加御詞忝次第也

十一月十六日 亥剋二条御新造より妙覚寺へ信長御座を移させられ

巻十二(十五)
伊丹之城ニ在之年寄共妻子兄弟置捨退出之事
十一月十九日 荒木久左衛門其外歴之者共妻子為人質 伊丹に残置あまか崎へ罷越 荒木に異見申尼崎はなくま進上仕其上各之妻子助可申之御請申究何れも尼崎へ越申也此時 久左衛門一首

いくたひも毛利を憑みにありをかやけふ思ひたつあまのはころも と読をき候

織田七兵衛信澄 伊丹城中為御警固御人数被入置爵ヤグラに参御被仰付候 弥女共詰籠之仕立にて互に

目と目を見合あまりの物うさに たし歌よみて荒木かたへつかはし候 霜かれに残りて我は八重むくらなにはのうらのそこのみくつに

荒木返歌  思きやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは

あこゝかたよりたしかたへの歌 ふたり行なにかくるしきのりの道風はふくともねさへたへすは

オープンアクセス NDLJP:下13お千代荒木かたへの歌 此ほとの思ひし花はちり行て形見になるそ君か面かけ

荒木返歌 百年に思ひし事は夢なれやまた後の代の又後の世を 如此証かはし候し也

巻十二(十六)
親王様二条御新造へ行啓之事
天正七年己卯十一月廿二日

親王様 二条新 御所へ為御移従 行啓之御時取卯刻と候つる辰刻至而也一条より室町通

次第  御先へ 近衛殿御参也 次 近衛大納言殿 関白殿 五摂家 一条左府殿 二条右府殿

鷹司少将殿  御輿にて御参御輿添には侍衆歴とありかいそへの衆中間以下御輿の跡に打こみに参也 大藤左衛門尉 大藤備前守 御奉行衆林越前守 小河亀千代丸 触口折ゑほしすわふ袴返しもゝたらを取 御物 五尺四方程有皆朱の御唐櫃上下台に乗也 雑色折ゑほしすわふ袴返しもゝたちを取 引敷思に付る金手棒にて或刀物を持或腰高成者を下知して通也

御琴 錦の袋に入(天王寺楽人 持手かさ折布直垂を着一人)

修唐笠 白沙笠袋に入(持手仕丁立鳥帽子白張也)

番御板輿五之宮様着御局様御あい輿也  二番 中山之上臈 勧修寺上臈 三番 大御乳人 四番 御屋〻  五番 中将殿  六番 五之宮様御乳人

以上御輿六丁也仕丁十徳を着 御脇輿侍衆左右に在之

御伴之御女房衆 六十人きぬかつきにてかは蹈皮にうらなしをはかせられ誠光耀衣香くんし結搆無申計并下部衆上さしの袋など持たるもあり

当庄方 御公家 御供衆 飛鳥井大納言殿 庭田大納言殿 柳原大納言殿 四辻大納言殿 甘露寺大納言殿 持明院中納言殿 高倉藤中納言殿 山科中納言殿 庭田源中納言殿 勧修寺中納言殿 正親町中納言殿 中山中納言殿 中院中納言殿 烏丸弁殿 日野中納言殿 水無瀬治部卿殿 広橋次弁殿 吉田右衛門督殿 竹内左兵衛督殿 坊城式部少輔殿 水無瀬中将殿 高倉右衛門佐殿 葉室蔵人弁殿 万里小路蔵人右少弁殿 四辻少将殿 四条少将殿 中山少将殿 六条少将殿 飛鳥井少将殿 水無瀬侍従殿 五条大内記殿 中御門権右少弁殿 富小路新蔵人殿 唐橋殿  以上

各かちたちにて御供也立ゑほしきぬひたゝれ御紋色すあしに大ふとはかせられ風折のかけ緒むらさき色平打也 飛鳥井中納官殿むらさきの四打のかけを也 吉田神主堂上方に召加へられ候是は白八打のかけを也

御輿添 御方御所様御輿 御輿舁立烏帽子に白張ヲ着 北面の御侍衆十一人折ゑほしすわふ袴あしなか也 御輿の少御跡に牛飼モ参也

清花御衆 徳大寺大納言殿 西園寺大納言殿 三条中納言殿 大炊御門中納言殿 久我中納言殿 転法輪三条中納言殿 花山院宰相中将殿 以上

立烏帽子きぬ直垂色すあしに大ふと少引退而被参也 御公家衆之被召具侍中間打こみに御次に参候三百人計在之歟折節 御簾へ朝日さし入候て御物見之所より慥におかまれさせ給候御眉めされ御立烏帽子御練貫かうの御そはつき衣の白き御はかま也昔も御代にも如此まちかく拝み奉る事有間数ためし也御儀式御結搆中無申計

伯中将殿 冷泉中将殿 此両人は御輿に付被申也  菊庭内府殿 御簾を上被申御役也

オープンアクセス NDLJP:下14御劔 中院中納言殿被持也 御礼御申次は 御修寺中納言殿之由也  以上

十一月廿七日 北野まいり御鷹つかはされ御秘蔵之鷂失ハイタカ申候方〻被成御尋候処

十二月朔日 丹波より居上進上

去程に 伊丹之城に女共之為警固 吹田スイタ 泊々部 池田和泉 両三人残し置候処に城中之様躰何と見究申候哉覧 池田和泉  一首をつらね 露の身の消ても心残り行なにとかならんみとり子の末 とよみ置其後鉄炮に薬をこみおのれとあたまを打くたき自害仕候弥女房共心も心ならす尼崎よりの迎をおそしはやしと相待哀成有様中申計も是なし

十二月三日 御家人之上下悉妙覚寺へ被召寄縮羅巻物板物千端に余り積被置御馬廻諸奉公人に被下云頂戴候也

十二月五日 高山飛弾守 去年伊丹へ走入依為不忠者 青木鶴 修使にて北国へつかはされ柴田に被成御預候也

巻十二(十七)
やはた八幡空造営之事
十二月十日 山崎に至て被移御座十一十二両日用降 タカラ寺に御逗留八幡社頭内陳下陳之間に昔より木戸井を懸置候既朽腐り雨漏癈壊無正躰此旨 信長公被及聞食可被成御造営之趣 上意にて則山城之御代官 武田佐吉 林高兵衛 長坂助一被召寄為末代候之間六間之戸井をから金にて五つに鋳物に被仰付昔者大工之棟梁諸職人頭々過分に御料を引取邪成費計を仕候間更に然々と不墓行今度者可有御料之外には少も費無様に夫〻に奉行を申付片時も急出来候様に念を入可申付之旨堅被仰出鍛冶番匠大鋸引葺師鋳物師瓦焼等召客和州三輪山より伐木を取 社僧へ釿初之吉日被相尋之処為恒例従

禁中御日取被出之由候間被相待之処吉日良辰  天正七年己卯十二月十六日卯剋ト

勅諚也

去程八幡之 片岡鵜右衛門と申者周光香炉所持候を被召上銀子百五十枚被下候也

巻十二(十八)
伊丹城相果たし御成敗之事
今度尼崎はなくま渡進上不申歴〻の者共之妻子兄弟を捨我身一人宛助之由前代未聞之仕立也余多之妻子とも此趣承り是は夢かやうつゝかや恩愛の別れの悲しさ今更たとへん方もなしさて如何〻と歎き或はおさあひ子をいたき或は懐妊したる人も有もたへこかれ声もおします泣悲しむ有様は目も当られぬ次第也たけき武士もさすか岩木ならねは皆なみたをなかさぬ者いなし此由被及聞食不便に雖被思食候侫人為懲人質御成敗之様子山崎にて条〻被仰出 荒木一類之者共をは都にて可被仰付之由候て

十二月十二日晩景より夜もすから京へめし上せられ 妙顕寺にひろ籠を搆三十余人之女共とり籠被置 泊々部ホヲカヘ 吹田 久左衛門むすこ自念ジネン 是三人は 村井春長軒所にて籠へ入させられ此外摂津国にてカシラに置る程之者之妻子より出し 滝川左近 蜂屋兵庫頭 惟住五郎左衛門 三人として請取張付に懸候へと被仰付候然処に 荒木五郎右衛門と申者日来者女房之間さのみあたしくは候はねとも今度妻女を捨置候はん事本儀ならさる由申候て 維任日向を憑走入女房之命にかはり候はんと色〻懇望の歎きを申候へとも中無許容結句両人共以て成敗哀成仕立無是非次第也 皆親子兄弟のかたへ思ひに 最後の送文なみたと共に書置也

十二月十三日 辰刻に百二十二人尼崎ちかき七松と云所にて可被懸張付に相定各引出し候さすか歴〻の上稿達衣装美〻敷出立叶はぬ道をさとりうつくしき女房達並居たるをさもあらけなき武士共か請取オープンアクセス NDLJP:下15其母親にいだかせて引上張付に懸鉄炮を以てひしと打殺し鑓長力を以て差殺し害致せられ百廿二人之女房一度に悲しみサケブ声天にもヒヾキ計にて見る人目もくれ心も消てかんるい押難し是を見る人は廿日卅日之間は其面影身に添て忘やらさる由にて候也

此外女之分  三百八十八人 かせ侍之妻子付之者共也   男之分  百廿四人 是は歴 の女房衆へ付置候若党以下也   合五百十余人

矢部善七郎 御検使にて家四ツに取籠こみ草をつませられ被焼殺候風のまはるに随て魚之こぞる様に上を下へとなみより焦𤍠大焦𤍠之ほのほにむせびおとり上飛上悲しみの声煙につれて空に響獄卒之呵責の攻も是成へし 肝魂を失ひ二目共更に見る人なし哀成次第中不申足 伊丹之城御小姓衆として廿日番に被仰付

十二月十四日 山崎より京都妙覚寺に至而御帰洛

十二月十六日 荒木一類之者都にて可被成御成敗之旨被仰出

去程越方行末の物語承哀成次第無申計 去年十月下旬に 荒木蒙天罰御敵仕候無程 霜月三日に御上洛同九日に御馬を被出天神馬場に御取出被仰付候然共 高槻 茨木 能搆にて候間一旦には御存分に難叶荒木も其外下も存知候処思外杖にも柱にもと存知候

中川瀬兵衛 高山右近 御身方に参候此時もかほとに御坐候はんとは不存候処軽と古屋野へ御陣を被寄透間をあらせす伊丹を取巻御陣取被仰付

十二月朔日の夜 安部二右衛門是も心を替大坂尼崎より伊丹への通路止申候爰にて上下致難儀候され共安芸之 毛利 正月十五日過候はゝ必馬を出し西宮か越水辺に 大将陣を居 吉川 小早川 宇喜多を尼崎へうつし雑賀大坂之者共に先手を申付両手より切かゝり御陣取追払 荒木存分に可申付事案之内ト誠に現々敷誓紙を仕候而越被申候之間我人神仏へも祈を懸是を憑みにいたし候処又 二月十八日被成御上洛  三月五日御馬を被寄 信長池田に御陣を居させられ 中将信忠 賀茂岸ちかと御取出寄させられ伊丹四方に堀をほらせ塀柵を二重三重丈夫に被仰付誠籠之内の不鳥行末如何に成果候はんと物思にて候へとも春夏之内に毛利被出候はゝ定而一途候はんと待暮し如何成森林も春は花も咲出候まゝ百花ひらけ国もひろく成候はんと明暮待申候処無程春も暮既楊梅桃李之花咲散て梢茂みの更衣卯花郭公五月の雨の数物思ひか様に月日の過行間に切々の懸合に親をうたせ子に後我も人も一方ならぬ歎きたとへん方もなかりけり去て又如何に有へきとて中国へ数之使遣し候へは人馬之はみ物出来候て七月中に罷立候はんと申延候又 八月には国に物いひ出来たる由申越候今ははや木〻も落葉し森も次第に枯木に成憑すくなく成果て力を失ひ詮方なし然者荒木申様には波多野兄弟張付にかゝり候如くやみとは有間敷候兵粮漸尽候はゝ前かとに諸手の人数引出し古屋野塚口へ差向戦をさせ其間に伊丹に三千在之人数三段に備足弱をかこはせ退候はんに何の子細有間数候若又此調成候はすは尼崎花くまを進上申命たすかり可申候とて皆にあら木力を付 九月二日夜に入 荒木摂津守五六人召列忍出尼崎へ移候城中弥力なく我人行末如何〻と案し暮し候処  十月十五日 星野 山脇 隠岐 此足軽大将三人致謀叛 日来は伊丹にて首をする程之者の妻子人質として夜るは城中へ取入候運之尽たる験にや不暁に人質帰し候則上臈塚へ御敵引入数多切捨町を居取にいたし城と町の間にオープンアクセス NDLJP:下16侍町有是は火を懸生城ハダカになされ

渡辺勘太夫 岸之取出より 多田之舘まて罷退候を生害させられ又 鵬塚に 野村丹後 大将として柄籠候是も障参申候へとも無御赦免腹をきらせられ然者 維任日向 尼崎 花くまを進上候て命たすかり尤之由候忝存知 荒木方へ申送候へとも一途もなく候間妻子為人質残置其断荒木に申聞両城進上可申候若同心無之候はヤ御人数申請先を仕即時に可申付と御請を申究 泊々部ホヲカベ 吹田 池田和泉 女共ノ警固に置 霜月十九日尼崎へ各年寄共罷越候如此成果候はん事を見及 池田和泉は 鉄炮に薬をこみおのれとあたまを打くたき被果候世中に命程つれなき物なし昨日迄は口言をいはれし歴 の侍共妻子兄弟捨置我身一人つゝ助るの由申越此上はとてものかれぬ道なれバ導師を憑申さんとて思 に寺の僧を供養し珠数経帷申請戒をたもち御布施には金銀を被参らせ候人も有着たる衣裳を参らせする者も有古しへの綾羅錦繍よりも今の経帷難有世に有し時はきく忌〻イマ敷経帷に戒名さつかり頼母敷思はれ候千年万年と契りし婦妻親子兄弟之間ノ中をも去離サリハナレ思はすも都にて諸人に耻をさらす事此上者更に荒木をもうらみす先世の因果浅間敷と計にて

たし歌あまた読置候 きゆる身はおしむべきにも無物を母のおもひそさはりとはなる
たし 残しをくそのみとり子の心こそおもひやられてかなしかりなり
たし 木末よりあたにちりにし桜花さかりもなくてあらしこそふけ
たし みかくへま心の月のくもらねはひかりとともににしへこそ行
おちい たしつやね京殿
世中のうきまよひをはかき捨て弥陀のちかひにあふそうれしき
隼人女房荒木娘の歌 露の身の消残ても何かせん南無あみた仏にたすかりそする
おほて 荒木娘 もえ出る花は二たひさかめやとたのみをかけてあり明の月
同ぬし 歎くへき弥陀のをしへのちかひこそひかりとともににしへとそ行
colspan="2" 荒木与兵衛女房 村田因幡娘
憑めたゝ弥陀のをしへのくもらねはこゝろのうちはあり明の月
さい 先たちしこのみか露もおしからし母のおもひそさはりとはなる

何れも思に文共書をかれ候去て

十二月十六日 辰刻車一両に二人ツヽ乗て浴中をひかせられ候次第

一番 (廿計) 吹田 荒木弟   (十七) 丹後〻家 あら木妹
二番 (十五) 荒木娘  隼人女房懐妊也   (廿一) たし
三番 (十三) 荒木娘  だご 隼人女房妹  (十六) 吹田女房  吹田因幡娘
四番 (廿一) 渡辺四郎  荒木志摩守兄むすこ也渡辺勘大夫むすめに仕合則養子する也
(十九) 荒木新丞  同弟
五番 (卅五) 宗祭娘(伊丹源内ことを云ふ也) 伊丹安大夫女房 此子八歳
(十七) 瓦林越後  娘北河原与御女房
六番 (十八) 荒木与兵衛女房  村田因幡娘也    (廿八) 池田和泉女房
七番 (十三) 荒木越中女房  たし旅  (十五) 牧左兵衛女房  たし妹
八番 (五十計) 泊々部         (十四) 荒木久左衛門むすこ自念ジネン
オープンアクセス NDLJP:下17此外車三両には子供御乳付七八人宛乗られ上京一条辻より室町通洛中をひかせ六条河原迄引付らる

御奉行 越前衆 不破  前田 佐々 原 金森 五人此外役人 触口 雑色 青屋 河原之者数百人具足甲を着太刀長刀抜持弓に矢をさしはけさもすさましき仕立にて車の前後警固也女房達何れもハダには経帷上には色能小袖うつくしく出立歴之女房衆にてましませはのかれぬ道をさとり少も取まきれす神妙也たしと申はきこへ有美人也古しへはかりにも人にまみゆる事無を時世に随ふならひとてさもあらけなき雑色共之手にはたり小肘つかんて車に引乗らる最後之時も彼たしと申車よりヲリ様に帯しめ直し髪高と結直し小袖之ゑり押退て尋常に切られ候是を見るより何れも最後よかりけりされ共下女半物共は人目をも憚らすもたへこかれ泣悲しみ哀也久左衛門むすこ十四歳之自念ジネン 伊丹安太夫むすこ八歳のせかれ二人の者おとなしく最後所は爰かと申候て敷皮に直り頸抜上て切るヽを貴賤ほめすと云者なし栴檀センダン者二葉よりしてかんバしく荒木一人之所為シワザにて一門親類上下の数を知らすしてうの別れ血の涙をなかす諸人の恨おそろしやと舌を巻ぬ者もなし兼て頼みし寺の御僧達死後を取カクシ申さるゝ生便敷御成敗上古よりの初也

十二月十八日 夜に入 信長公 二条新御所へ御参 内金銀巻物等其員を尽被備

叡覧翌日十九日御下路次にて終日雨降安土に至て御帰城珍重々々

 

 
オープンアクセス NDLJP:下17巻十三○巻之十三 (天正八年庚辰)
信長公記巻十三
太田和泉守 綴之
 

巻十三(一)
播州三木落居之事
天正八年庚辰

正月朔日 終日雪降候也 近年摂州表各在番粉骨に付て 年頭之御礼旧冬より御触にて御免御出仕無之

正月六日 播州三木表 別所彦六 楯籠宮之上の搆 羽柴筑前守乗取諸陣近〻ト被寄 別所彦進は不及一戦本丸へ取入 別所小三郎ト一手に成也

正月十一日 羽柴筑前 宮之上より見下墨給イ 別所山城か居城鷹の尾と云山下へ人数を被付候難拘存知 山城も本丸へ取入也則諸卒付入に攻込処本丸より心はせの侍共罷出防戦後陣を推懸攻入也懸ル所に本丸より火を付焼出ス

正月十五日 羽柴与力 別所孫右衛門城内より 小森与三左衛門と申者を呼出し小三郎山城彦進三人之方へ状を遣 播州之荒木 丹波之波多野果候如くに候ては末世之嘲哢口惜候尋常に腹を切可然之由申遣候所両三人腹を可切候間其外諸卒被相助候様にと小森を使にて懇望之歎を申送状に曰

唯今申上候趣意者去〻年以来敵対に被伏置条謹而可申断心底之処に不慮に内輪之面〻覚悟を替之間不及是非者也然者于今至而相届等悉可被討果事不便之題目也以御憐愍於被助置者某両三人可腹切相定訖此旨無相違様に仰御披露恐〻謹言

    正月十五日        別所彦進ともゆき

     浅野弥兵衛殿      別所山城よしちか

オープンアクセス NDLJP:下18     孫右衛門殿       別所小三郎長はる

右旨披露之処 羽柴筑前感歎し諸士を可相助之返答有而樽酒二三荷城中へ送入られ 別所致満足妻子兄弟各家老之者呼双

正月十七日には腹を可切之旨女房子供にも申聞せ互に盃を取かはし今生之暇乞哀成次第申は中愚也然者 小三郎かたより 山城かたへ十七日申刻に腹を可切趣申遣之処爰にて 山城存分には腹を切候はゝ定而頸を取大路を渡シ安土へ進上すへく候左候ては都鄙之口難無念候間城内に火を懸焼死骸骨を可蔵之由にて家に火をかくるを見て諸士差懸山城を生害也

正月十七日申刻 別所小三郎は三歳之孩子ミトリコ膝之上に置涕を推差殺又女房引寄同枕に害しけり 別所彦進も同如く女房を指殺ス屍算を乱す有様目も当ラレス其後別所兄弟手に手ヲ取て広緑に出左右に直り各を呼出し此度之籠城兵粮事尽て牛馬を食し虎口を堅籠城相届志前代未聞之働芳恩不申足併我等相果諸士を相助身之悦不可過之とて 小三郎腹を切 三宅肥前入道介錯し入道云此先預御高恩人多しといへとも御伴申さんと云人なし某者慙ナマシイに家之年寄に乍生更不及出頭述懐は身に余るといへとも御伴申也三宅肥前入道か働を見よやとて腹十文字に切て臓をくり出し死たり去て 彦進こし方召使候輩呼双太刀刀脇指衣装形見にとらせ兄の 小三郎か腹切たる脇指を取持又 彦進も丈夫に腹を切小三郎年廿六彦進歳廿五可惜〻〻  爰に希代之名誉有山城か女房者 畠山総州之娘也自害之致覚悟男子二人女子一人左右に並置心つよくも一々に差殺主もノドカキ切 枕を並て死たりけり前代未聞働哀成題目也其後城中之者共助被出 其内に小性一人短冊を持而出ル是を取て見られけれは辞世の歌也

小三郎 いまはたゝうらみもなしや諸人の命にかはる我身と思へは
小三郎女房の歌 もろともにはつる身こそはうれしけれをくれ先たつならひなる世に
彦進 命をもおしまさりけり梓弓すゑの世まても名の残れとて
彦進女房 たのめこし後の世まてに翅をもならふる鳥のちきりなりけり
山城女房 後の世の道もまよはし思子をつれて出ぬる行すゑの空
三宅肥前入道 君なくはうき身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも

如此哀をもよほす有様上下愁歎限なし去而 別所三人の頸安土へ進上為御敵者悉属御存分御威光中〻不可勝計併 羽柴筑前 一身以覚悟大敵を如此被成退治候之事武勇と言調略と言弓矢面目不可過之

二月廿一日 信長公御上洛妙覚寺御成

二月廿四日 しろの御鷹一乗寺修覚寺松か崎山終日御鷹つかはされ物かす仕候

二月廿六日 本能寺へ可被居御座之旨にて 御成有て 御普請之様子 村井春長軒に被仰付

二月廿七日 山崎至て御成 爰にて 津田七兵衛信澄 塩河伯耆 惟住五郎左衛門両三人兵庫はなくま表へ相働御敵はなくまへ差向可然地を見計御取出之御要害仕候て 池田勝三郎父子三人入置其上帰陣可仕之旨被仰付訖

二月廿八日 終日雨降 山崎に御逗留根来寺岩室イハムロ坊参御礼申上処 御馬并御道服ダウフク被下忝次第に而罷帰候へキ

二月廿九日 晦日 両日山崎西山にてあろの御鷹つかはされ

オープンアクセス NDLJP:下19三月朔日 郡山へ御成天神馬場大田路次通行御鷹被遣

抑  禁中より大坂シテ{{}}為シ御無事、

近衛殿  勧修寺殿  庭田殿  被成御勅使訖  信長公より為御目付 宮内卿法印 佐久間右衛門相添被遣候

今度郡山御鷹野に而 賀藤彦左衛門佐目毛御馬進上

三月三日に 伊丹城へ被移御座 荒木摂津守居城之様躰御覧し是より兵庫表可被成御見廻 上意候処御取出御普請早出来申に付て右三人引取申之間

三月七日 信長公 伊丹より山崎迄御帰路次通 北山御鷹つかはされ

三月八日 妙覚寺に至て御帰洛

三月九日 北条氏政より御鷹十三足被上ヲレノボセ

  一鴻取        一鶴取

  一真那鶴取      一乱取と申して在之

  一御馬        五疋

     以上

洛中本能寺にて進上 相摸之御鷹居御ホコツギキ申されたり此時之御取次 滝川左近

三月十日 氏政之御使衆御礼  御太刀折紙御披露 佐久間右衛門

 進物    白鳥 二十    熨斗 一緒    蚫 三百 煎海鼠 一箱    江川酒 三種二荷    以上

氏政より使者 笠原越前守  舎弟氏直使者 間宮若狭守  同下使 原和泉守

公儀御執奏 滝川左近将監  同下使 牧庵  関東衆被申上趣 承之

御使衆  二位 法印 滝川左近  佐久間右衛門

三使に而御縁辺相調関東八州御分国に参之由也

御太刀折紙 笠原越前御礼 氏直之御礼 間宮若狭申上 同重て 右両人自分御礼 同下使 原和泉御礼

各退出以後相州衆へ被仰出趣幸之事候 滝川左近案内者にて京都懇に見物申頓而安土へ罷下候へと被仰聞其日 信長公御下 大津松か崎辺しろの御鷹つかはされ及晩御舟にめされ矢橋へ御上なされ安土御帰城

三月十三日 矢部善七郎御使に而 金銀百枚 北条氏政よりの使者 笠原 間宮両人に被下京都に而田舎への宮笥調申候へと被仰遣也

三月十五日 奥之島山御鷹可被遣に而御舟にめされ長命寺善林坊に至而被成御座

三月十九日迄五日被御逗留しろの御鷹御自愛羽ふり事に勝れ希有之由承及方〻より御鷹野見物群集仕候也乱取と申御鷹すくれたる羽飛に而物かす被仰付十九日に安土に至而御帰城也

巻十三(二)
無辺之事
三月廿日 無辺と申廻国之客僧 石場寺 栄螺サヾイ坊所に暫時居住仕候連々奇特不思儀有由下の者承及分の心さしを捧丑時大事之秘法をさづかり候と申昼夜羣集候て男女門前に立暮す由候

オープンアクセス NDLJP:下20信長公 無辺事連々被及聞食其仁躰を被成御覧度之旨被仰出 栄螺坊 無辺を召列安土御山へ参候則御ムマヤへ被成出御一一ツク御覧し御思案之様躰也

客僧之生国は何くそと御尋有     無辺と答

亦唐人か天竺人かと御意候      唯修行者と申

人間之生所三国之外には不審也去而者術物バケモノにて有歟然者アブリ候はん間火之拵仕候へと御諚之処御一言にツマリ   出羽之羽黒之者と申上候

唯売子に而有此程は生候所もなく住所なく弘法にて候と申ならはし何にても物を人之とらせ候へは取候はて無欲にて其宿之者に出し置其所へ立帰する時は無欲之様に聞候へとも却而無欲にはならす候雖然奇特之有由被及聞食候之間奇特を見せ候へと御諚之処に更に無其詮惣別奇特不思儀之有人者カタチより眼色迄人物も人に勝れてたふとき物候和人は山賤には身之鄙事乏イヤシキヲトれり女童をたらし国土之費をいたし曲事也此上者 無辺に耻をかゝせ候へと 上意候てぞつかのあたまにて候を所狭落させられはたかになし縄を懸させ町通追放させられ又後に能〻きかせられ候へは丑時を伝受仕之由候て或子生女或病者成女なとヘソくらへと云事仕たる由候先迄之為にて由 御諚にて御分国中四方へ国主へ追手を懸させられ頓而召寄被成御糺明誅させられ候栄螺坊は何とて御城廻にか様之イタヅラを置申と御尋処に石場寺御堂之漏を止申度為に為勧進暫時之間を置申言上候へは 銀子三十枚被下候

三月廿一日 相模国 北条氏政へ被遣  御注文

  虎皮  廿枚      縮羅  参百端但三箱      猩〻皮  十五

  以上  笠原越前守請取申也

  氏直へ   段子  二箱   以上  問宮若狭守請取申也

三月廿五日 奥之島為御泊山御成

三月廿八日迄御鷹つかいされ爰に而造作仕候由御諚候て 永田刑部少輔に葦毛御馬被下 池田孫次郎に青毛御馬拝領也

三月廿八日 安土に至而御帰城

閏三月朔日 伊丹城御番 三十日替に被仰付 矢部七善郎被遣

閏三月二日 御敵城鼻熊より 池田勝三郎取出へ人数を出し候則足軽共取合候之処 池田勝九郎 池田幸新兄弟年齢十五六誠若年に而無躰に懸込火花を散し被及一戦父 池田勝三郎是又懸付鎗下にて究竟之者五六名人討捕兄弟高無比類働也

巻十三(三)
大坂退散御請誓紙之事
去程大坂退城可仕之旨忝も従   禁中被成 御勅使 門跡北方年寄共可有如何哉否之儀不恐権門心中之存知旨趣不残可申出之由尋被申之処に

 下間丹後 平井越後 矢木駿河 井上 藤井藤左衛門初として致評諚退屈之験歟又者世間見究申之故歟今度者上下御一和尤と申事に候爰に而 御院宣を違背申に付ては天道之恐も如何候也其上 信長公被成御動座 荒木 波多野 別所 御退治之如く根を断葉を枯して可被仰付候近年大坂端城五十一ケ所相拘上下苦労之者共に賞禄をこそ不宛行共せめての 恩に命を助可申旨門跡被相存知来七月廿日オープンアクセス NDLJP:下21以前に大坂退散に相定

御勅使 近衛殿 勧修寺殿 庭田殿 并宮内卿法印 佐久間右衛門等へ御請を申誓紙御検使被申請候此旨安土へ言上之処に 青山虎 御検使被仰付候

閏三月六日 安土より天王寺日通に参着候翌日

閏三月七日 誓紙之筆本見申され候也

 誓紙人数   下間筑後子少進法橋 黄金 十五枚    下間刑部卿法橋 同 十五枚

 あせち法橋 同 十五枚   北方 同 甘枚    門跡添状 同 三十枚    以上

巻十三(四)
能登加賀両国柴田一篇申付事
閏三月九日 柴田修理亮加州へ乱入添川手取川打越宮之腰に陣取所〻放火一揆野の市と云所川を前に当楯籠柴田修理のゝ市之一揆追払数多切捨数百艘之舟共に兵粮取入分捕させ是より次第に奥へ焼入越中へ越候安養寺越之辺迄相働安養寺坂右に見而白山之麓能登境谷迄悉放火し光徳寺代坊主楯籠候木越キゴシノ寺内攻破一揆数多切すてのとの末盛之 土肥但馬守摂取懸攻干爰にても歴〻の者数輩討捕在陣候し処 長九郎左衛門イヽ之山に陣取手を合所々放火也

閏三月十日 宇津之宮の 貞林テイリン タチ川三左衛門使として御馬牽上進上太逞フトクタクマシキ駿馬シユンメに而御自愛乗心無比類御秘蔵不斜為御返報被遣 御注文

  縮羅  三十端       豹虎皮  拾枚       金襴  弐十端

  御服  一重        黄金   参枚       以上

たち川三左衛門に渡し被下忝次第に而罷下候也

閏三月十六日より 菅屋九右衛門 堀久太郎 長谷川竹 両三人為御奉行安土御搆之南新道之北に江をほらせられ田をウメさせ 伴天連に御屋敷被下

今度 蒲生右兵衛大輔家中 布施藤九郎御馬廻に被召加是又江をウメさせ御屋敷被下忝次第面目至也 御馬廻御小性迄御普請被仰付鳥打ノ下江を填させられ町を立させられ西北海之口に舟入所々にほらせ請取之手前に木竹を植させ其上江堀を填させ各御屋敷被下候 人数

稲葉刑部  高山右近  日禰野六郎左衛門  日禰野弥次右衛門  日禰野半左衛門  日禰野勘右衛門  日禰野五右衛門  水野監物  中西権兵衛  与語久兵衛  平松助十郎  野々村主水  河尻与兵衛

如此被仰付 信長は日御弓衆御責子にて御鷹つかはされ候キ

四月朔日 伊丹城 矢部善七郎御番のかはり村井作右衛門当番也

辰四月十一日 長光寺山御鷹つかはさるへきにて出御之処に百々の橋にて 神保越中之使者御馬二つ進上

辰四月廿四日 伊庭山御鷹野へ御出 丹羽右近者共普請仕候とて山より大石を 信長公御通候御先へ落し懸候此中条〻不相届道理之旨被仰聞其内年寄候者を被召寄一人御手打にさせられ候

巻十三(五)
阿賀ノ寺内申付ノ事
庚辰四月廿四日播州之内しそ郡に 宇野民部楯龍彼者之親伯父搆 羽柴筑前守秀吉押詰乗取 二百五十余討捕夫より 宇野下野 居城へ取懸是又責破爰にても数多切捨其後 宇野民部搆は高山節所候麓を焼払ツマリに取出を三つ申付丈夫に人数入置以此競直に阿賀へ被取懸候処芸州へ人質出置候者共オープンアクセス NDLJP:下22舟に取乗罷退然間不及一戦阿賀之寺内へ打入 羽柴筑前守此表之様躰見計御堂へ 筑前守人数入置百姓共呼出し知行差出等申付 姫路に至而人数打納 姫地は西国への道通手寄也其上御敵城 宇野民部所へも程近く両条共に以て可然郷地也 姫路に 羽柴筑前守秀吉可有在城相定普請申付是より 羽柴筑前守舎弟 木下小一郎に人数差加 但馬国へ乱入即時無滞申付 木下小一郎は小田垣居城に拵手之者共見計所〻に入置両国平均に候へキ 信長公之御威光忝御事也併 羽柴筑前守秀吉一身之以覚悟両国無滞被申付候事都鄙之面目後代名誉不可過之

北国表之事 加賀国に至而 柴田修理亮長〻在陣也当表無御心元被思食 木下助左衛門 魚住隼人 両使柴田かたへ国之様子可申上之旨被仰遣処能登加賀一篇に申付たる様躰罷帰具に言上之処被成御悦着遠路辛労之為御褒美御服に御帷を被相副両人忝頂戴其上 上意忝候使之間 北国にても 木下 魚住両に馬を被出タリ

五月三日 中将信忠卿 北畠信雄卿 安土に至而御出御自分御座所之御普請被仰付候

五月五日 御山に而御相撲在之 御一門之御衆御見物也

五月七日 江堀舟入道築何れも御普請出来申に付て 惟住五郎左衛門長秀 織田七兵衛信澄 永〻辛労仕候間御暇被下両人在所へ罷越用事申付候て頓而可能帰之旨忝も 上意に而 七兵衛信澄は(脱文)五郎左衛門は佐和山へ参候也

五月十七日 国中之相撲取被召寄安土御山に而御相撲在之御馬廻衆御見物日野之 長光 正林 あら鹿 面白 相撲を勝申に付而為御褒美 銀子 五枚 長光被下忝頂戴

甲賀谷中より相撲取廿人参候辛労之由 御諚候て 黄金 五枚被下忝次第也 布施藤九郎与力に 布施五介と申者能相撲之由候て被召出御知行百石被仰付候今日之御相撲 あら鹿 吉五 正林 能相撲勝申に付て為御褒美八木五十石宛被下忝拝領也

巻十三(六)
本門跡大坂退出之事
四月九日 大坂退出之次第 門跡より新門跡かたへ可被相渡之旨御届之処に近年山越ヤマコシを取妻子をハグクミ候 雑賀淡路島之者共爰を取離れ候ては迷惑と存知新門跡を取立候はん之間先 本門跡 北方を退申され一先被相拘尤之由様々申に付て 若門跡此儀に同事右趣返事候 本門跡 北方 下間 平井 矢木等 御勅使へ御理申雑賀より迎舟を乞四月九日 大坂退出

巻十三(七)
八幡御造営之事
抑やはた八幡宮御造営為御奉行 武田佐吉 林高兵衛 長坂助一 両三人被仰付去年十二月十六日釿初然而内陳下陳之間に木戸井在之朽腐雨漏及廃壊之間今度者為末代候之間からかねに而物にさせられ長さ六間にて候を五間に鋳物に被仰付当春三月 下遷宮有而無程 社頭宝殿葺合築地楼門令造畢以金瑩立神前輝光カヽヤカシ神明納受之社壇荘厳巍々堂々ト鏤七宝

五月廿六日奉成 上選宮訖誠諸依人之敬増威とは謂夫是歟倍 信長御武運長久御家門繁永之基也参詣ノ輩貴賤峯集をなし弥尊み拝呈す八月中旬迄九ケ月に令成就畢

巻十三(八)
因幡伯耆両国ニ至テ羽柴発向之事
播州しそ郡に楯籠 宇野民部

六月五日 夜中に退散 木下平太輔 蜂須賀小六追懸心はせ之侍共帰し合爰かしこにて相戦歴〻者共数十人討捕翌日

六月六日 以此競因幡伯耆両国境目に至而相働所〻に被挙煙之処に東国之御人数発向之由申候て可馳オープンアクセス NDLJP:下23向行は一切に無之国端之城主縁を以て降参之御断申人質進上候て御礼申上候はん之由 言上候処御悦不斜 羽柴筑前守秀吉条〻名誉之旨 信長公被成御感候へキ

六月十三日 御相撲取 円浄寺源七不届子細在之而蒙御勘気退シ

六月廿四日 国中之相撲取被召寄御山に而御相撲有払暁より夜に入挑灯にて在之 麻生サソウ三五 取勝トリスク六番打仕 蒲生忠三郎内小一と申者能相撲仕被加御詞 大野弥五郎是又能相撲度〻仕候而今度被召出面目之次第也

伊丹に而謀叛御忠節仕候衆之事

 中西新八郎 星野左衛門 宮脇又兵衛 隠岐土佐守 山脇勘左衛門 五人之者 池田勝三郎与力に被仰付候

六月廿六日 土佐国令補佐候 長宗我部土佐守 維任日向守執奏に而為御音信

御鷹十六聯并砂糖三千斤 進上 則御馬廻衆へ砂糖被下候へキ

六月晦日 中将信忠卿安土に至而御出

巻十三(九)
大坂退散之事
大坂本門跡 雑賀へ退出之以後 藤井藤左衛門 矢木駿河守 平井越後 以三使

七月二日 御礼 御勅使 近衛殿 勧修寺殿 庭田殿 此御衆被召列御取次 宮内卿法印 佐久間右衛門尉 進物御太刀代 銀子 百枚 中将信忠卿へ御礼申 信長公御対面無之

信長公より門跡北方へ御音信被遣 御注文写置候

黄金 三十枚  門跡へ   黄金 二十枚  北方へ   黄金 十五枚  あせち法橋へ   同  十五枚  下間刑部卿法橋   同  十五枚  下間筑後 少進法橋   同 二十五枚  右五人今度使に被参候衆へ被下   翌日忝之由申上候て罷帰候也     以上

去程新門跡大坂可渡進之御請也

天正八年庚辰八月二日  新門跡大坂退出之次第  御勅使 近衛殿 勧修寺殿 庭田殿 右ノ下使 荒屋善左衛門 信長公より被相加御使 宮内卿法印 佐久間右衛門 大坂請取申さるゝ御検使 矢部善七郎

巻十三(十)
宇治橘御見物之事
抑大坂は凡日本一之境地也其子細は奈良境京都程近く殊更淀鳥羽より大坂城戸口まて舟の通ひスナヲにして四方に節所を拘北は賀茂川白川桂川淀宇治川之大河の流幾重共なく二里三里之内中津川吹田川江口川神崎川引廻し東南者 上が嵩立田山生駒山飯盛山之遠山の景気を見送麓は道明寺川大和川之流に新ひらき淵立田之谷水流合大坂之腰まて三里四里之間江と川とつヽひて渺々と引まはし西は滄海マン〻として日本之地者不及申唐土高麗南蛮之舟海上に出入五畿七道集之売買利潤富貴之湊也隣国之門家馳集加賀国より城作を召寄方八町に相搆真中に高き地形有爰に一派水上之 御堂をこうと建立し前にはタヘ池水一蓮託生之蓮を生シ後には誓の舟をうかべ 仏前にカヾヤカシ光明利剣即是之名号者煩悩賊之治怨敵仏法繁昌の霊地に在家を立薨を並継軒福祐之煙厚遍此法を尊み遠国波島より日夜朝暮仏詣之輩道に絶す家門長久之処に不思天魔之所為来て 信長公一年野田福島御取詰候落去候ては大坂手前の儀と存知長柚の乍身一揆令峰起通路サルスナヲナラ之 其時野田福島之御人数御引取候キ其遺恨思食不被忘故歟既五ケ年以前之度当寺参詣之輩を被推止剰被捕御敵一分諸口を取詰天王寺に至て原田備中相城被申付候オープンアクセス NDLJP:下24御普請無首尾以前と存即時に催一揆 天王寺へ差懸遂一戦 原田備中 塙喜三郎 塙小七郎 簑浦無右衛門初として歴討捕其競に天王寺とり巻候処 信長 御後詰として以無勢被成御動座其日両度被及御合戦乍両度大坂合戦打負数多討死させ誠大軍を以て小敵之トリコと成事無念之次第也併末法時到而修羅闘諍之発瞋恚乍不及力大坂も こう津 丸山 ひろ芝 正山を始として端城五十一ケ所申付楯籠搆之内にて五万石致所務任運于天道五ケ年之間雖相守時節身方者日々に衰調儀調略不相叶 信長御威光盛にして諸国七道御無事也此上者云勅命与云不違于御道理退城可仕と肯申候爰大坂立初て以来四十九年之春秋を送る事昨日之如夢世間之相事相を観するに生死之去来有為転変之作法者電光如朝露唯一声称念之利劔此功徳を以て無為涅槃の部に至らんにはしかし雖然今故郷離散之思上下巳シツム涙然而大坂退城之後頓て 信長公御成有而此所可被成御見物其意を存知端普請掃除申付面には弓鎗鉄炮等之兵具其員懸並内には資財雑具を改有へき躰を結搆に飾置   御勅使御奉行衆へ相渡し 八月二日未刻雑賀淡路島より数百艘の迎船をよせ近年相拘候端城之者初として右往左往に 縁を心懸海上と陸と蛛の子をちらすか如くちりに別れ候弥時刻到来してたへ松の火に西風来而吹懸余多之伽藍一宇も不残夜日三日黒雲となつて焼ぬ

巻十三(十一)
佐久間林佐渡丹羽右近伊賀〻〻守事
八月十二日 信長公京より宇治之橋を御覧し御舟に而直に大坂へ御成爰にて 佐久間右衛門かたへ御折檻之条御自筆にて被仰遣趣

   覚

父子五ケ年在城之内に善悪之働無之段世間之不審無余儀我も思あたり言葉にも難述事

此心持之推量大坂大敵と存武篇にも不搆調儀調略道にも不立入たゝ居城之取出を丈夫にかまへ幾年も送候へは彼 相手長袖之事候間行は 信長以威光可退候条去て加遠慮候歟但武者道之儀可為各別か様之折節勝まけを令分別遂一戦者 信長ため且父子ため 諸卒苦労をも遁之誠可為本意に一篇存詰事分別もなく未練無疑事

丹波国日向守働天下之面目をほとこし候次羽柴藤吉郎数ケ国無比類然而池田勝三郎小身といひ程なく花熊申付是又天下之覚を取以爰我心を発一廉之働可在之事

柴田修理亮右働及一国を乍存知天下之取沙汰迷惑に付て此春至賀州一国平均申付事

武篇道ふかひなきにおいては以属詫調略をも仕相たらはぬ所をは我等にきかせ相済之処五ケ年一度も不申越之儀由断曲事之事

やす田之儀先書注進彼一揆攻崩においては残小城共大略可致退散之由載紙面父子連判候然処一旦届無之送遣事手前迷惑可遁之寄事於左右彼是存分申哉之事

信長家中にては進退各別に候歟三川にも与力尾張にも与力近江にも与力大和にも与力河内に与力和泉にも与力根来寺衆申付候へは紀州にも与力少分之者共に候へとも七ケ国之与力其上自分之人数相加於働者何たる遂一戦候共さのみ越度不可取之事

小河かり屋跡職申付候処従先々人数も可在之と思候処其廉もなく剰先方之者共をは多分追出然といへとも其跡目を求置候へは各同前事候に一人も不拘候時は蔵納とりこみ金銀になし候事言語道断題目事

山崎申付候に 信長詞をもかけ候者共程なく追失之儀是も如最前小河かりやの取扱無紛事

オープンアクセス NDLJP:下25従先〻自分に拘置候者共に加増も仕似相に与力をも相付新季に侍をも於拘者是程越度は有間敷候にしはきたくはへ計を本とするによつて今度一天下之面目失候儀唐土高麗南蛮まても其隠有間敷之事

先年朝倉破軍之刻見合曲事と申処迷惑と不存結句身ふいちやうを申剰座敷を立破事時にあたつて 信長面目を失其口程もなく永〻此面に有之比興之働前代未聞事

甚九郎覚悟条〻書並候へは筆にも墨にも述かたき事

大まはしにつもり候へは第一欲ふかく気むさくよき人をも不拘其上油断之様に取沙汰候へは畢竟する所は父子とも武篇道たらはす候によつて如此事

与力を専とし余人之取次にも搆候時は以是軍役を勧自分之侍不相拘領中を徒に成比興を搆候事

右衛門与力被官等に至まて斟酌候に事たゝ別条にて無之其身分別に自慢しうつくしけなるふりをして錦之中にしまはりをたてたる上をさくる様なるこはき扱付て如此事

信長代になり三十年遂奉公之内に佐久間右衛門無比類働と申鳴し候儀一度も有之ましき事

一世之内不失勝利之処先年遠江へ人数遣候刻互勝負有つる無紛候然といふとも家康使をも有〻条をくれの上にも兄弟を討死させ又は可然内者打死させ候へは其身依時之仕合遁候かと人も不審を可立に一人も不殺剰平手を捨ころし世に有けなる面をむけ候儀以爰条〻無分別之通不可有紛事

此上いいつかたの敵をたいらけ会稽を雪一度致帰参又は討死する物かの事

父子かしらをこそけ高野の栖を遂以連〻赦免可然哉事

右数年之内一廉無働者未練子細今度於保田思当候様申付天下 信長に口答申輩前代始候条以爰可致当末二ケ条於無請者二度天下之赦免有之間敷者也

    天正八年 八月日

此如御自筆を以て遊し 佐久間右衛門父子かたへ 楠木長安 宮内卿法印 中野又兵衛 三人を以て遠国へ可退出趣被仰出取物も不取敢 高野山へ被上候爰にも不可叶旨 御諚に付て高野を立出 紀伊州熊野之奥足に任せて逐電也 然間譜代之下人に見捨られかちはたしにて己と草履を取計にて見る目も哀成有様也

八月十七日 信長公大坂より御出京 京都に而御家老 林佐渡守 安藤伊賀父子 丹羽右近 遠国へ被追失子細は先年 信長公御迷惑の折節含野心申之故也

巻十三(十二)
賀州一揆歴〻生害之事
十一月十七日 柴田修理亮調略にて賀州之一揆歴者所〻にて手分を申付生害させ頸共安土へ進上則松原町西に被懸置候也  頸之注文  若林長門 子若林雅楽助 子若林甚八郎 宇津呂丹後 子宇津呂藤六郎 岸田常徳 子岸田新四郎 鈴木出羽守 子鈴木右京進 子鈴木次郎右衛門 子鈴木太郎 鈴木采女 窪田大炊頭 坪坂新五郎 長山九郎兵衛 荒川市介 徳田小次郎 三林善四郎 黒瀬左近   以上十九人

信長公御感不斜候之也

巻十三(十三)
遠州高天神家康御取巻之事
遠州高天神之城武田四郎人数入置相拘候を 家康公推詰しゝ垣結まはし取籠をかせられ御自身御在陣候之也

 

 
オープンアクセス NDLJP:下26巻十四○巻之十四 (天正九年辛巳)
信長公記巻十四
太田和泉守 作之
 

巻十四(一)
御爆竹之事
天正九年辛巳

正月朔日 他国衆之御出仕被成御免安土に在之御馬廻衆計西之御門より東之御門へ被成御通可有御覧之旨 上意に而各其覚悟仕候処夜中より巳刻迄雨降御出仕無之 安土御搆之北 松原町之西海端へ付て御馬場を築せられ元日より 菅屋九右衛門 堀久太郎 長谷川竹 両三人御奉行に而御普請在之

正月二日に 安土町人共に御鷹之雁鶴を余多町へ被下忝之由候て 佐々木宮に而為御祝言能を仕爰にて頂戴候之也

正月三日 武田四郎勝頼 遠州高天神之城為後巻 甲斐信濃催一揆罷出之由風説に付て 岐阜中将信忠卿御馬を被出尾州清洲之城に御居陣也

正月四日 横須賀之城為御番手 水野監物 水野宗兵衛 大野衆 三首被指遣

正月八日 御馬廻 御爆竹致用意頭巾装束致結搆思の出立に而十五日に可罷出之旨御触有 江州衆へ被仰付御爆竹申付人数  北方東一番に仕次第  平野土佐 多賀新左衛門 後藤喜三郎 蒲生忠三郎 京極小法師 山崎源太左衛門 山岡孫太郎 小河孫一郎  南方次第  山岡対馬 池田孫次郎 久徳左近 永田刑部少輔 青地千代寿 阿閉淡路守 進藤山城守  以上

御馬場入御先へ御小性衆其次を 信長公黒き南蛮笠をめし御眉をめされ赤キ色の御ほうこうをめされ唐錦之御そはつぎ虎皮之御行騰蘆毛之御馬すくれたる早馬飛鳥之如く也関東祇候之矢代勝介と申馬乗是にも御馬乗させられ 近衛殿 伊勢兵庫頭  御一家之御衆 北畠中将信雄 織田上野守信兼 織オープンアクセス NDLJP:下27田三七信孝 織田源五 織田七兵衛信澄

此外歴美々敷御出立思の頭巾装束結搆にて早馬十騎廿騎宛乗させられ後には爆竹に火を付曈とはやし申御馬共懸させられ其後町へ乗出し去て御馬被納見物成羣集御結搆之次第貴賤驚耳目申也

正月廿三日 維任日向守に被仰付京都に而可被成御馬揃之間各及程尽結搆可罷出之旨御朱印を以て御分国御触在之

巻十四(二)
御馬揃之事
二月十九日 北畠中将信雄卿 中将信忠卿 御上洛二条妙覚寺御寄宿

二月廿日 信長御出京本能寺に至て被移御座

二月廿三日きりしたん国より 黒坊主参り候年之齢廿六七と見えたり惣之身の黒き事牛之如彼男スクやかに器量也シカも強力十之人にスグレたり 伴天連召列参御礼申上誠以御威光古今不及承三国之名物か様に希有之物共細〻拝見難有御事也

二月廿四日 北国越州より 柴田修理亮 柴田伊賀守 柴田三左衛門尉 罷上色々珍奇尽員進上候て御礼在之  御馬揃

二月廿八日 五畿内隣国之大名小名御家人を被召寄駿馬を集於天下被成御馬揃

聖王へ被備 御叡覧訖上京  内裏之東に北より南へ八町に馬場をやり馬場中に竪に高さ八尺に柱を毛氈モウセンを以てつゝませ埓をゆはせられ抑 禁中東門御地之外に行宮を立させられ候事借染とは申なから縷金銀従 清凉殿

帝 雲客卿相 殿上人 衣香撥当四方に薫し其数さも花やかなる御粧にて御出有 摂家清花之御衆歴 甍ヲ並 皇居之四を守護し申され左右に御桟敷サジキを打せられ扨も儀式御結搆美〻敷有様筆にも詞にも難述何れも晴ならすと云事なし下京本能寺を 信長辰刻に出させられ室町通御上りなされ一条を東へ 御馬場入之次第

番に 惟住五郎左衛尉長秀 并摂州衆 若州衆 西岡之河島  二番 蜂屋兵庫頭 并河内衆 和泉衆 根来寺之内大ケ塚 佐野衆  三番 維任日向守 并大和 上山城衆  四番 村井作右衛門 根来 上山城衆  御連枝之御衆 中将信忠卿 馬乗八十騎 美濃衆 尾張衆 北畠中将信雄 馬乗三十騎 伊勢衆 織田上野守信兼 馬乗十騎 同三七信孝 馬乗十騎 同七兵衛信澄 馬乗十騎 同源五 同又十郎 同勘七郎 同中根 同竹千代 同周防 同孫十郎  公家衆 近衛殿 正親町中納言殿 烏丸中納言殿 日野中納言殿 高倉藤右衛門佐殿」 細川右京大夫殿 細川右馬頭殿 伊勢兵庫頭殿 一色左京権大夫殿 小笠原     御馬廻御小性衆何れも十五騎づゝ与を被仰付 越前衆 柴田修理亮 同伊賀 柴田三左衛門 不破河内守 前田又左衛門 金森五郎八 原彦次郎  御弓衆百人 頓而 御先を 平井久右衛門 中野又兵衛 両人二手に分而二段に参り候也是は一統に打矢を腰にさゝれたり

御馬ヒカせられ候次第 厩別当 青地与右衛門 御奉行也 左御先 (𣏐もち みちげ 草おけ持 御のほりさし 一番 鬼蕙毛  右御先(水おけ持 御のほりさし ひさく持 今若  御くらかさね唐織物 同あをり同前雲形はこうのきんらん也」二番 小鹿毛  三番 大あし毛 四番 遠江鹿毛 五番 こひはり  六番 かはらけ

オープンアクセス NDLJP:下28此御馬と申は奥州津軽日本迄大名小名によらす是そと申名馬我もとはる牽上せ進上候余多之名馬之中にて勝れたる御馬也於本朝是 上こす不可有 御馬 御皆具不及申何れも色に御結搆無申計  御中間衆出立 立烏帽子黄成水干白キ袴す足に草鞋ワランジ

七番 夕庵山うはの出立にて此外坊主衆 長安 長雲 友閑 御先に参らるゝ  八番 御曲 持四人 御奉行 市若  地を金に雲に浪を絵取タリ

左 御先小性 御杖持 北若 御長刀持 ひしや 御小人五人 御行騰持 小市若 御馬大黒に召れ惣御人数廿七人 右 御先小性御小人六人 御行騰持 小駒若 御太刀持 糸若御長刀持 たいとう御行騰地を金に虎の府を網に御鞍重クラカサネ御あをり御手続腹帯尾迄同前紅之綱房之鞦にやうらくを付させられ  御小人衆あかき小袖にこう地白の肩衣黒皮之袴一統也

御内府之御装束 御眉に而ほんしやを以而ほうこうめされ今度京都奈良堺にて珍敷唐織物被成御尋各御枝葉之御衆御装束と被仰出之処隣国より我不劣と上品之唐綾唐綿唐縫物等尽其員備 上覧奉る者也此きんしやと申は昔 唐土か天竺に而 天子帝王之御用に織たる物と相見えて四方に織トメ有て真中に人形を結搆に織付たり今亦天下納て  内裏仙洞御ほうこうの御用に可罷立為参りタリ態為被織如く御ほうこう似相申也上古之名物拝見難有御代也

御頭巾とうかむり御後之方に花を立させられ高砂大夫之御出立か 折梅花挿首二月雪落衣心歟 御膚にめさせられ候御小袖紅梅に白のだん段〻にきり唐草也其上に蜀江之錦御小袖御袖口にはよりきんを以てふくりんをめされ候是い昔年大国より三巻本朝へ渡りたる内之其一巻也 永岡与一郎都に而尋捜求進上古今之名物共参集御名誉無申計

御肩衣べにどんすにきりから草也 御袴同前也  御腰にほたんの作花をさゝせられ是は

禁裏様より参りたる由也  御腰簑白熊 御太刀御のし付御はきそへはさや巻の熨斗付也  御腰に鞭をさゝせられ御ゆかけ白革にきりのとうの御紋有  御沓い猩々皮 立上は唐錦

花やかなる御出立御馬場入之儀式左なから住吉明神御影向もかくやと心もそゝろに各神感をなし奉り訖然者隣国之羣集晴かましきに付て爰を肝要と思の頭巾出立は我不劣とあらゆる程之結搆生便敷各手を尽し面の衣装下には過半紅梅紅筋上着は薄絵唐縫物金襴唐綾狂文之小袖側次袴同前各腰簑付られたり 或きんへい或紅の糸縫物を切さきにして付られたるも有 馬具押懸鞦三尺縄各上品之紅之糸を以て総房にくませられ又金欄段子を以てつゝませて総房にきんへい紅之糸を付たるも有又五色之糸にてくませたる鞦も有蹈皮草鞋等に至迄皆五色之糸に而作らせ太刀は過半のし付也生便ヲヒタヽ敷したて結搆と申は中おろか也数百人之事なれは一にはしるし得す初者一与に十五騎つゝと被仰出候へともひろき御馬場にて三与四くみつゝ一手に成入ちかへ無透間馬に行当候はぬ様に埓を右より左へ乗まはし辰刻より未刻まてめさせられ駿馬之集難記勿論御料之御馬細〻めしかへさせられ誠飛鳥なんとの如く也関東より祇候之矢代勝介是にも御馬乗させられ

岐阜中将信忠卿 アシケ之御馬勝れたる早馬也 御装束事に勝れて花やか也  北畠中将信雄卿 河原毛御馬  織田三七信孝 糟毛カスケ御馬目に立て足きヽ早馬達者無比類此外何れもおとらぬ名馬いつれを何れ共申難し似相の御装束是又催興有様也後には御馬とも懸足にめさせられ被備 御叡覧皆 オープンアクセス NDLJP:下29馬上之達者花麗成御出立本朝之儀者不及申異国にもかほとの様不可在之貴賤群集之輩かゝる目出度 御代に合天下安泰にして黎民烟戸レイミンカマドさゝす生前思出難有次第にて上古末代之見物也然而御馬めし候半十二人之 御勅使を以てかほと面白御遊興

天子御叡覧御歓喜不斜之旨忝も 御綸言併 信長御面目不勝計及晩被納 御馬本能寺に至て御帰宅千秋万歳珍重〻〻

三月五日従 禁中御所望に付て又御馬めさせられ此時者御馬揃之中之名馬五百余騎を寄させられ 御装束者黒キ御笠に御ほふこふ何れもめされくろき御道複ダウフクに御たち付御腰簑させられ候之也抑

御門百敷之大宮人女御更衣等其数美〻敷御粧にて  御幸有て被備 御叡覧御遊興御歓喜不斜 信長御威光を以て忝かけまくも一天君万乗之アルジを間近く拝み奉る事難有御代哉と貴賤羣集之輩合掌感し敬申也

三月六日 神保越中 佐々内蔵佐并国衆上国候 加賀 越前 越中 三ケ国之大名衆今度之御馬揃に各在京也今之透に人数を可出之行に而名誉之ごうの刀作たる松倉と云所に楯籠御敵 河田豊前以調略越後より 長尾喜平次を呼越 大将として催一揆 佐々内蔵佐人数入置候小井手之城

三月九日に取詰候又加賀国白山之麓ふとうげと云所に卒度足懸りをコシラヘ 柴田修理人数三百計入置近辺知行之所務納置処 賀州一揆手合として令蜂起 ふとうげへ取懸攻破入置候者悉討果し候 爰国之為警固 佐久間玄蕃を残し置候則 玄番頭ふとうげへ責上り乗帰シ一揆共数多切捨手前之高名無比類

三月九日 堀久太郎被仰付和泉国中知行方改員数可申上之旨 上意にて泉州へ差被遣 上意にて泉州へ差被遣

三月十日 京都より 信長安土に至而御下

三月十二日 神保越中并国衆安土に至て参着 御馬九つ国衆より進上 佐々内蔵佐も御鞍鐙轡黒鎧進上候也

三月十五日 朝松原町御馬場に而御馬めさせられ候越中衆何れも御礼被申一加御詞忝次第也爰に而 長尾喜平次越中へ罷出小井手之城取巻之趣 言上之処則為先勢 越前衆 不破 前田 原 金森 柴田修理 人数不移時日可致出勢之旨被仰出各御暇被下夜を日に継越中に至而着陣候へキ

三月廿四日 佐々内蔵佐神通川六道寺川打越 中郡之内中田ト云所へ被懸付候処上方之御人数参陣之由承及

三月廿四日 卯尅御敵 長尾喜平次 河田豊前致陣払 小井手表引払火之手を 間三里程に見懸 成願寺川 小井手川打越人数被付候へとも早諸手引取候間不及是非併籠城運を開

去程に去年 長岡兵部大輔 与一郎 頓五郎 父子三人度々忠節に付而丹後国被下候然間青龍寺之城上被申候依之

三月廿五日 御番手為城代  猪子兵助 青龍寺へ両人被差遣 永岡知行分改居城可仕之旨被仰付候キ

巻十四(三)
高天神干殺歴〻討死之事
三月廿五日 亥剋遠江国高天神籠城之者過半及餓死残党こほれ落柵木を引破罷出候を爰かしこにて相戦 家康公為御人数 討捕頸之注文

百参十八  鈴木喜三郎 鈴木越中守  拾五 水野国松  十八 本田作左衛門  七ツ 内藤三オープンアクセス NDLJP:下30左衛門  六ツ 菅沼次郎右衛門  五ツ 三宅宗右衛門  弐拾一 本田彦次郎  七ツ 戸田三郎左衛門  五ツ 本田庄左衛門  四拾弐 酒井左衛門尉  拾六 石川長門守  百七十七 大須賀五郎左衛門  四拾 石川伯耆守  拾 松平上野守  弐拾弐 本田平八郎  六ツ 上村庄右衛門  六拾四 大久保七郎右衛門  四拾一 榊原小平太  拾九 鳥井彦右衛門  拾参 松平督  一ツ 松平玄蕃允  一ツ 久野三郎左衛門  一ツ 牧野菅八郎  一ツ 岩瀬清介  二ツ 近藤平右衛門   頸数六百八十八

 右之内惣頭之頸之注文 駿河先方衆

岡部丹波守 三浦右近 森川備前守 朶石和泉守 朝比奈弥太郎 進藤与兵衛 油比可兵衛 油比藤大夫 岡部帯刀 松尾若狭守 名郷源太 武藤刑部丞 六笠彦三郎 神応但馬守 安西平右衛門 安西八郎兵衛 三浦雅楽助」  栗田内左右之者 信濃衆 栗田刑部丞 栗田彦兵衛 同弟二人 勝役 主税助 櫛木庄左衛門 水島 山上備後守 和根川雅楽助」  大戸内 長共  大戸丹後守 浦野右衛門 江戸右馬丞」  横田内 長共  土橋五郎兵衛尉 福島本目助   与田能登守内 長共  与田美濃守 与田木工左衛門 与田部兵衛 大子原 川三蔵 江戸力助」 以上

武田四郎 御武篇に恐眼前に甲斐信濃駿河 三ケ国にて歴之者上下不知其数 高天神に而干殺にさせ後巻不仕天下失面目候 信長公之御威光と申なから家康公未壮年ニモモ以前に三川国端に土呂 佐座喜 大浜 鷲塚 とて海手へ付て可然要害富貴にして人多湊也大坂より代坊主入置門徒繁昌候て既国中過半門家に成也無二に彼一揆可被成御退治之御存分に而経年月無御退屈爰かしこにて御自身数ケ度之被成御戦御高名度々不知其数一度も不覚無之終に被達御本意一国平均に被仰付年来之御辛労御名誉不可勝計此後遠州於身方カ原 武田信玄と打向御合戦又 武田四郎と長篠御合戦何れも 御手柄一方ならぬ御事也併御武徳両道御逹者御冥加不申足

三月廿六日 菅屋九右衛門 能登国七尾為城代被差遣候也

三月十日 信長御小姓衆五六人被召列竹生島御参詣長浜 羽柴筑前所迄御馬にめされ是より海上五里御舟にて御社参海陸共に片道十五里之所を日之内に上下三十里之道被成御帰城希代之題目也併御機力も余人にかはり御達者に御座候之処諸人奉感候也遠路に候へは今日は長浜に御逗留候はんと何れも存知之処御帰候て御覧候へは御女房たち或は二丸まて出られ或桑実クワノミ寺薬師参りも有御城内は行あたり𫪛モダヘコガレ仰天無限則くゝり縛桑実寺へ女房共出し候へと御使を被遺候へは御慈悲に御助候へと 長老詫言申上られ候へは其 長老をも同事に御成敗候也

四月十三日 長谷川竹 野々村三十郎 両人に御知行過分に被仰付忝と申なから面目之至候也

四月十六日 若州 逸見駿河病死仕彼領中八千石此内方知分 武藤上野跡 粟屋右京亮跡 三千石 武田孫八郎へ被遣相残て 逸見本知分五千石 惟住五郎左衛門幼少より召使候 溝口竹と申者被召出 逸見駿河跡一職進退に五千石被下其上国之為目付被仰付之間若州に在国仕善悪を聞立見及可申上之旨忝も御朱印被成下頂戴後代迄も面目不可過之

四月十九日 武田孫八郎 溝口金右衛門岐阜へ参御礼申上

巻十四(四)
和泉巻尾寺破滅之事
去程に和泉国御領中差出等 堀久太郎申付槙尾寺領是又彼改候之処既及欠落カンラク事歎敢之由申候て寺中之オープンアクセス NDLJP:下31悪僧共山下之郷中相拘承引無之此等之趣 信長被及聞召御詫言不申上して背 上意曲事也急攻破一々頸を切可焼払之旨被仰出

抑槙尾寺と申者高山聳峨々ト深山𭫎ハヘ茂り嶮岨ケンソにしてのほれは右手に十町計之滝之水生便敷落る流水タギツ而漲下テミナギリクダリ滝鳴而厳石ガンセキ殊に砕而節所不成大形依之一旦可相拘行也 然 堀久太郎以人数山下を被取詰越訴共難拘存知槙尾寺僧可退出覚悟にて資財雑具縁に引退訖  抑槙尾寺本尊者西国三十三所四番目之順礼観音霊験あらた成大伽藍富貴繁昌高野山之境内也 空海御幼稚之御時 岩淵権枢僧正資師シシ相承之契不浅御手習御座一字ヲ十字千字ニサトリ十二歳ノ時岩淵ノ権スウ僧正ヲ御戒ノ師ニテ槙尾寺ニテ御出家有其後無上之道心ヲ発シ国ノ霊地ヲ尋テ修シ給就中阿波国大滝峯ニテ五穀ヲ断而求聞持ノ秘法ヲ行給フ結願ノ暁明星飛下テ和尚ノ御口ノ内ニ入テ後ハ八万聖教ハ心ノ内ニ覚リ玉フ 信長公御威光に恐濁世末代となつて観世音之力も尽果当寺狐狼野干之棲とならん事を造次顛沛雖歎不叶

四月廿日 夜に入寺僧老若七八百人武具ヲ着し闘諍堅固専にして各観音堂に参り御本尊に名残ヲ惜ミ故郷離散を悲しみ噇と一度にサケブ声諸伽藍に響雷電なるかみの如く也其後足弱漂泪タヾヨイ共に槙尾寺ヲ立出縁に心さし散に老若退出哀成次第目も当られす

承和二年乙卯三月廿一日寅一点に御歳六十二ト申に大師御入定以来当年七百四十七年也今般日こそ多ケレ今月廿一日槙尾寺退散偏高野山も破滅基歟

四月廿一日 安土御山に而御相撲有 大塚新八取勝為御褒美御領中百石被下 二番にたいとう能相撲仕 三番に永田刑部少輔内うめと申者面白相撲仕是又度〻被加御詞忝次第也

四月廿五日 高麗鷹六連 溝口金右衛門求進上近来不参候て珍奇之由被成御感御秘蔵御自愛不斜

五月十日 和泉国槙尾寺坊舎 織田七兵衛信澄 蜂屋兵庫 堀久太郎 宮内卿法印 惟住五郎左衛門長秀 各能家見取に仕少〻コホチ取其外堂塔伽藍寺庵僧坊経巻不残一宇 堀久太郎御検使にて焼払訖

五月廿四日 越中国松倉と申所に楯寵候 御敵河田豊前病死仕候 信長之蒙御憎者ニクミテ悉天然と相果候

六月五日 相州 北条氏政より御馬三ツ牽上進上 滝川左近 御取次

六月十一日 越中国 寺崎民部左衛門 息喜六郎 父子被召寄御尋之子細在之佐和山に而 惟住五郎左衛門に被成御預召籠をかせられ候

巻十四(五)
能登国年寄共生害之事
六月廿七日 能州七尾之城にて 遊佐美作 同弟 伊丹孫三郎 家老三人連々悪逆を依相搆 菅屋九右衛門に被仰付能州に而生害候然者 温井備前守弟 三宅備後守 是等も身ノ上と存知候て致逐電候〻也

巻十四(六)
因幡国取鳥城取詰之事
六月廿五日 羽柴筑前守秀吉 中国へ出勢打立人数二万余騎 備前 美作打こし 但馬口より 因幡国中へ乱入 橘川式部少輔 楯籠とつとり之城四方離れてサガしき山城也 因幡の国は北より西は滄海漫〻たりとつとりと西之方海手との真中廿五町程隔西より東南町際へ付て流るゝ大河有此川舟渡し也とつとりへ廿町程隔川際につなぎの出城有又海之口にも取継要害有芸州よりの味方可引入行として二ケ所拵置たり とつとり之東に七八町程隔て並程之高山有 羽柴筑前守彼山へ取上り是より見下墨則此山を 大将軍之居城に拵即時に とつとりを取まかせ頓而又二ケ所之つなきの出城之間をも取切是又鹿垣結まはしとり籠五六町七八町宛に諸陣近と取詰させ堀をほつては尺を付又堀をほつては塀オープンアクセス NDLJP:下32を付築地高とつかせ無透間二重三重之矢蔵を上させ人数持面々等之居陣に矢蔵を丈夫に搆させ後巻之用心に後陣の方にも堀をほり塀尺を付馬を乗まはし候へとも射越之矢にあたらぬ如くにまはれは二里が間前後に築地高とつかせ其内に陣屋を町屋作に作らせ夜るは手前に篝火たかせ白中之如くにして廻番丈夫に申付海上には警固舟を置浦焼払 丹後 但馬より海上を自由に舟にて兵糧届させ此表一着之間は幾年モ可在陣用意生便敷次第也芸州より後巻候はゝ二万余騎之人数之内数千挺之弓鉄炮勝出し一番に矢軍させ其後搆へ懸り候はんに思程手を砕かせ曈と切かゝつて悉討果し中国一篇に可申付手当堅固也

七月六日 越中国木舟城主 石黒左近家老 石黒与左衛門 伊藤次右衛門 水巻采女セウ 一門三十騎計にて上国佐和山にて 惟住五郎左衛門生害之儀可被申付之処に長浜迄参風をくり不罷越然間長浜へ罷参 石黒左近町屋に在之を取籠屋之内にて歴十七人生害候 惟住者も能者二三人討死候

七月十一日 越前より 柴田修理亮 黄鷹六連上せ進上并切石数百是又進上申され候〻也

七月十五日 安土御殿主并惣見寺に挑灯余多つらせられ 御馬廻之人新道江之中に舟をうかへ手 続松タイマツとぼし申され山下かゝやき水に移言語道断面白有様羣集に候也

七月十七日 岐阜中将信忠へ御秘蔵之雲雀毛御馬被参候無隠駿馬にて候キ 寺田善右衛門被召寄被遣候也

七月十七日 佐和山に而越中の寺崎民部左衛門 子息喜六郎 父子生害之儀被被付候息喜六郎未タ若年十七歳眉目ミメ形尋常にうつくしく立タル若衆候最後之挨拶アイサツ哀成有様也色体シキダイ在之而親之先に立事本儀成と候て父 寺崎民部左衛門腹を切若党介錯仕候キ其後 喜六郎父之腹切てなかるゝ血を手に請甞而我〻御伴申之由候て自尋常に腹を切無比類働目も当られぬ次第也

七月廿日 出羽大宝寺より為御音信 御鷹并御馬進上 翌日返礼御小袖巻物等被遣候〻也

七月廿一日 阿喜多之屋形 下国方より御音信 御取次 神藤右衛門 黄鷹五聯 生白鳥三ツ 以上右之内に巣鷹一ツ御座候御自愛御秘蔵大方ならす

下国方へ御返書被遣注文 御小袖 十御紋在之  純子 拾巻  黄金 弐枚是は使ノ 小野木と申者に被下之由也

七月廿五日 岐阜中将信忠安土に至而御上着 御脇指御三人へ被参候御使 森乱

中将信忠へ 作正宗  北畠中将信雄へ 作北野藤四郎  織田三七信孝へ 作しのき藤四郎

何れも御名物代過分之由候也

巻十四(七)
八月朔日御馬揃之事
八月朔日 五畿内隣国之衆在安土候て御馬揃 信長公御装束しろき御出立御笠に而御ほふこふめされ虎皮之御行騰葦毛御馬也 近衛殿其外御一門御出立下には白き帷上には或生絹之帷或辻か花染抜下ヌキサゲにして袴は金襴純子縫物蒔絵色也御笠思何れも御ほふこふにて御馬めさせられ見物生便敷御事候也

八月六日 会津ノ屋形 もりたかより御音信 あひさう駁の御馬奥州に而無隠希有之名馬之由候て上せ進上候也

八月十二日 中将信忠 尾州 濃州 諸侍 岐阜へ被召寄長良之河原に御馬場を築せられ跡先に高々オープンアクセス NDLJP:下33と築地をつかせ左右には高さ八尺に埓を結せられ毎日御馬めさせられ候キ

八月十三日 因幡国とつとり表に至て芸州より 毛利 吉川 小早川 為後巻可罷出之風説在之則御先手に在国之衆一左右次第夜を日に継可致参陣用意少も不可有由断之趣被仰出候 丹後国に而永岡兵部大輔父子三人 丹波国に而 維任日向守 摂津国に而 池田勝三郎 大将として 高山右近 中川瀬兵衛 安部二右衛門 塩川吉大夫 等へ先被仰出此外隣国衆御馬廻不及申御陣用意仕可相待候今度 毛利家人数為後巻罷出に付ては 信長公御馬を被出東国西国之人数ハダヘを合被遂御一戦悉討果し本朝無滞可御心ヲ之旨上意にて各其覚悟仕候 然而 永岡維任両人は大船に兵粮つませ 永岡ノ舟の上乗 松井甚介 維任舟之上乗     申付因幡国とつとり川之内へ付置候

八月十四日 御秘蔵之御馬三疋 羽柴筑前かたへ被遣候御使 高山右近 とつとり表懇に見及罷帰 言上候へ之趣 上意にて御馬ひかせ参陣 羽柴筑前外聞実儀身余忝次第之由也

巻十四(八)
高野聖御成敗之事
八月十七日 高野聖尋捜搦捕而数百人従万方被召寄悉被誅候子細者 摂州伊丹牢人共高野に拘置候其内に而一両人可被召出者候て御朱印を以て被仰遣候処其儀御返事をは不申上剰御使に被遣候者十人計討殺候毎度蒙御勘気者拘置緩怠に付而如此候也

巻十四(九)
能登越中城々破却之事
能登国四郡 前田又左衛門被下忝次第也

今度能登 越中城々 菅屋九右衛門御奉行にて悉破却申付安土至而罷帰候キ

九月三日 三介信雄 伊賀国へ発向 御先手次第  甲賀口 甲賀衆 滝川左近 蒲生忠三郎 惟住五郎左衛門 京極小法師 多賀新左衛門 山崎源太左衛門 阿閉淡路守 阿閉孫五郎 三介信雄  信楽シタラ口 堀久太郎 永田刑部少輔 進藤山城守 池田孫次郎 山岡孫太郎 青地千代寿 山岡対馬守 不破彦三 丸岡民部少輔 青木玄蕃允 多羅尾彦一」 加太口 滝川三郎兵衛 為大将 伊勢衆 織田上野守信兼」 大和口 筒井順慶 同国衆   以上

如此諸口より御乱入 柘植之 福地被成御赦免人質執固其上 不破彦三為御警固当城に被入置

河合之 田屋と申者名誉之山桜之壺尽并きんかうの壺致進上降参仕候則きんかう返し被遣 山桜之御壺被止置 滝川左近被下候也

九月六日 信楽口 甲賀口 手を合一手に罷成御敵城壬生野之城さなご嶺おろし是等へ差向 三介信雄みだい河原に御陣を居られ 滝川左近 惟住五郎左衛門 堀久太郎 江州衆 若州衆 取つゝき御陣を懸られ候

九月八日 賀藤与十郎 万見仙千代 猪子 安西 四人被召出御知行分に被仰付忝次第也

御小袖皆に被下人数之事

狩野永徳 息右京助 木村次郎左衛門 木村源五 岡辺又右衛門 同息 遊左衛門 子息 竹屋源七 松村 後藤平四郎 刑部 新七 奈良大工

諸職人頭へ御小袖余多拝領させられ何れも忝次第也

巻十四(十)
伊賀国三介殿被仰付事
九月十日 伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働国中の伽藍一宮之社頭初として悉放火候之処にさなごより足軽を出し候 滝川左近 堀久太郎 両人見計馬を乗入究竟の侍十余騎討捕其日は陣所之本陣へ打帰し

オープンアクセス NDLJP:下34九月十一日 さなご可攻破之処夜中に退散也さなごへ 三介信雄入置申諸勢奥郡へ相働諸口之軍兵入合候間爰に而郡を請取手前切に御成敗其上城々破却被申付候也

阿加郡 三介信雄御請取に而御成敗  山田郡 上野守信兼御成敗  名張郡 惟住五郎左衛門 筒井順慶 蒲生兵衛大輔 多賀新左衛門 京極小法師 若州衆  右之衆として所〻に而討捕頸之注文  小波多 父子兄弟三人 東田原ノ 高畠四郎 兄弟二人 西田原之城主    よしはらの城主吉原次郎  以上

阿閉アヤ郡 滝川左近 堀久太郎 永田刑部少輔 阿閑淡路守 不破河内守 山岡美作守 池田孫次郎 多羅尾 青木 青地千代寿 甲賀衆  右之衆として所〻に而討捕頸之注文  河合の城主 田屋 岡本 国府の高屋父子三人 糟屋蔵人 壬生野の城主 荒木ノ竹野屋左近 木興ノ城攻干撫切 上服部党 下服部党  以上 此外数多切捨訖

右之外一揆共大和境 春日山へ逃散候を 筒井順慶山へ分入尋捜而大将分七十五人其外数を不知切捨候キ

伊賀四郡之内 三郡 三介信雄御知行に参 一郡 織田上野守信兼御領中に参 〆

中国因幡国とつとりより 高山右近罷帰彼表堅固之様子絵図を以て具 言上候是又御祝着候也

十月五日 稲葉刑部 高橋虎松 祝弥三郎 是等に御知行被下候也

十月七日 しろの御鷹 初て鳥屋出 愛智エチ川辺朝鷹つかはされ御帰に桑実クハノミ寺より直に新町通御覧し伴天連所へ御立寄爰に而御普請之様子被仰付

巻十四(十一)
伊賀国信長御発向之事
十月九日 伊賀国為御見物 岐阜中将信忠 織田七兵衛信澄御同道にて其日飯道寺へ 信長公被成御上是より国中之躰御覧し御泊

十月十日 一宮に至而御参着暫時御休息も無御座一宮之上に国見山とて高山有則御登山候て先国中之様子御覧し被計 御座所御殿 滝川左近結搆に立置 中将信忠御座所其外諸勢無残所拵置珍物を調御膳上申御馳走不斜 三介信雄 堀久太郎 惟住五郎左衛門 是等も御殿御座所我不劣ト綺羅ヲ瑩き御普請御膳進上之用意生便敷次第也 路次すからの御一献各上可申と御崇敬御果報いみしくおぢ恐るゝ有様筆にも詞にも難述様躰也

十月十一日 雨降御逗留

十月十二日 三介信雄御陣所 筒井順慶 惟住五郎左衛門陣所奥部 小波多と申所迄御家老衆十人計被召列御見舞去而ツマリ御要害可仕之在所被仰付

十月十三日 伊賀国一宮より安土に至而御帰城

十月十七日 長光寺山御鷹つかはされ候伊賀国中切納諸卒悉帰陣也

十月廿日 より伴天連北南に二通新町鳥打へ取続立させられ候はん由候て御小性衆御馬廻衆へ被仰付足入沼を填させ町屋鋪被築御普請在之

巻十四(十二)
因幡国取鳥果口之事
今度因幡国とつ鳥一郡之男女悉城中へ逃入楯籠候下百姓以下長陣之無覚悟候之間即時に及餓死初之程者五日に一度三日に一度鐘をつき鐘次第雑兵悉柵際迄罷出木草之葉を取中にも稲かぶを上の食物とし後には是も事尽候て牛馬をくらひ霜露にうたれ弱者餓死無際限餓鬼の如く痩衰ヤセヲトロへたる男女柵オープンアクセス NDLJP:下35際へ寄𫪛モダヘコガレ引出扶候へとさけび叫喚の悲しみ哀成有様目も当られす以鉄炮打倒候へは片息したる其者を人集刀物を手に持てツギ節を離ち実取候キ身之内にても取分カウベ能あぢはひ有と相見えてクビをこなたかなたへ奪取逃候キ兎に角に命程強面物なし然共依義失命習大切也城中より降参之申様 吉川式部少輔 森下道祐 日本介 三大将之頸を取可進之候間残党扶被出候様にと詫言申候間此旨 信長公へ伺被申処無御別義之間則 羽柴筑前守秀吉同心之旨城中へ返事候之処不移時日腹をきらせ三大将之頸持来候

十月廿五日 取鳥籠城之者扶被出余に不便に被存知食物与へられ候へは食にゑひ過半頓死候誠餓鬼之如く痩衰ヤセオトロへて中哀成有様也取鳥相果城中普請掃除申付城代に宮部善祥坊入置訖

巻十四(十三)
伯耆国南条表発向之事
十月廿六日 伯耆国に 南条勘兵衛 小鴨左衛門尉 兄弟両人為御身方居城候処 吉川罷出南条表取巻之由注進候眼前に攻殺させ候ては都鄙之口難無念之由候て 羽柴筑前守 後巻罷立東西之ハダヘヲ合可及一戦行にて

十月廿六日 先勢を遣し

十月廿八日 羽柴筑前守秀吉出陣因幡伯耆之境目に 山中鹿介 弟 亀井新十郎為御身方居城候是迄羽柴筑前守参陣爰より伯耆へは山中谷合にて節所と云事大方ならす即時に南条表相働羽衣石ウエイシと云城南条勘兵衛御身方として相拘候おなしく舎兄 小鴨左衛門尉岩倉と云所に居城両人御忠節之筋目候処吉川罷出右之両城へ着向卅町計隔間の山と云所に張陣也

十月廿九日 越中より黒部たちの御馬当歳二歳を初として十九疋 佐々内蔵介牽上進上也

十一月朔日 関東下野国蜷川郷 長沼山城守名馬三ツ進上 根来寺 智積院 蜷川之伯父也是又使者同道候て被参 堀久太郎御取次也  御返書被遣御音信注文  縮羅 百端  紅 五十斤  虎皮 五枚  以上  黄金 壱枚是は使者に参候 関口石見と申仁に被下候〻也

是は伯耆表之事 羽柴筑前守秀吉羽表石ウエイシ近所に七ケ日在陣候て国中手遺候て兵類取集 蜂須賀小六 木下平大夫 両人押之手として馬之山へ差向羽衣石 岩倉 両城へ取続き人数段々に備置兵粮玉薬丈夫に入置来春可相働之旨申合

十一月八日 播州姫路に至而帰陣 吉川元春も無曲人数引取候キ

巻十四(十四)
淡路島被申付之事
十一月十七日 羽柴筑前 池田勝九郎 両人淡路島へ人数打越 岩屋へ取懸攻寄之処懇望之筋目候て池田勝九郎手へ岩屋を相渡し無別条申付

十一月廿日 姫路に至テ 羽柴筑前守 帰陣池田勝九郎 是も同前に人数打納也 淡路島物主未被仰付候也

十一月廿四日 犬山之お坊 安土に至て初而御礼是は先年 武田信玄と御入魂之筋目在之刻 信長公之末子を養子仕度之由候て甲斐国へ御出候を終に和談無之候て送申候御子にて候を犬山へ城主になし申され候

御小袖 一御腰物 一御鷹 一御馬 一御持鎗 此外色〻取揃参らせられ御内衆迄それを被下候也

巻十四(十五)
悪党御成敗之事
十二月五日 江州永原之並 野尻之郷に東善寺の延念と申う徳なる坊主御座候ならび蜂屋之郷に八とオープンアクセス NDLJP:下36申者つゝもたせを仕彼寺へ若き女をあたて雨中日之暮に走こませ少の程宿をからせ迷惑と申候を庭のはしにて火をたきあたり居申候を跡よりおとこ共打入若き女を止置事出家之身として不届儀候坊主に礼銭を出し候へと申懸不及覚悟とからかいを仕候御代官 野々村三十郎 長谷川竹 両人として搦捕遂糺明女男共に御成敗自滅哀成有様也

去程に月迫には隣国遠国之大名小名御一門之御衆安土へ 馳集歳暮為御悦言金銀唐物御服御紋織付御結搆大方不成我不劣と門前成市色〻ノ重宝進上不知其員寵辞崇敬イツキカシツキ不斜御果報イミシキ有様本朝あ並なし御威光無申計次第也

歳暮之為御悦儀 羽柴筑前守秀吉播州より罷上 御小袖数 弐百 進上 其外女房衆かたそれへ参らせられか様之結搆生便敷様躰古今不及承上下共驚耳目候〻訖 今度因幡国取鳥云名城大敵一身之以覚悟一国平均に被申付事武勇之名誉前代未聞之旨被成 御感状頂戴面目之至無申計 信長公御満足なされ為御褒美 御茶之湯道具 十二種御名物

十二月廿二日 御拝領候て播州へ帰国候〻也

 

 
オープンアクセス NDLJP:下36巻十五○巻之十五 (天正十年壬午)
信長公記巻十五
太田和泉守 綴之
 

巻十五(一)
御出仕之事
天正十年壬午

正月朔日 隣国之大名小名御連枝之御衆各在安土候て御出仕有百々之橋より惣見寺へ被成御上生便敷ヲビタヽシキ羣集にて高山へ積上たる築垣ツイガキを蹈くつし石と人と一ツに成てくつれ落て死人も有手負は数人不知員刀持之若党共は刀を失ひ迷惑したる者多し

番 御先御一門之御衆也  二番 他国衆 三番 在安土衆

今度は大名小名によらす御礼銭百文つヽ自身持参候へと 堀久太郎 長谷川竹 以両人御触也 惣見寺毘沙門堂御舞台見物申おもて之御門より三ノ御門之内御殿主ノ下御白洲まて祇候仕爰にて面〻被加御詞先々次第ノ如く 三位中将信忠卿 北畠中将信雄卿 織田源五 織田上野守信兼

此外御一門歴也其次他国衆各階道キザハシをあかり御座敷之内へめされ忝も 御幸之御閲拝見なさせられ候也御馬廻甲賀衆なと御白洲へめされ暫時逗留之処御白洲にて皆〻ひゑ候はん之間南殿へ罷上江雲寺御殿を見物仕候へと 上意にて拝見申候也

御座敷惣金間毎に 狩野永徳被仰付色〻様々あらゆる所之写絵筆に尽させられ其上四方之景気山海田薗郷里言語道断面白地景申に計なし従是御廊下続に参り 御幸之御間拝見仕候へと 御諚にてかけまくも忝  一天万乗之主御座御殿被召上及拝監事難有誠生前之思出也御廊下ヨリ  御幸之御間元来檜皮葺金物日に光り殿中悉惣金也何れも四方御張付地を金に置上也金具所者悉以黄金被仰付斜粉ナヽコをつかせ唐草を地ほりに天井い組入上もかゝやき下モ耀キ心モ詞モ及はれす御畳備後面上に青目也高オープンアクセス NDLJP:下37麗緑雲絹縁正面より二間之奥に  皇居之間と覚しくて御簾之内に一段高く金ヲ以て瑩立光輝キ衣香撥当四方に薫し御結搆之所有東へ続ひて御座敷幾間も在之爰には御張付惣金ノ上に色絵に様かゝせられ 御幸之御間拝見之後初て参候御白洲へ罷下候処に御台所之口へ祇候候へと 上意にて御廐之口に立せられ十疋宛之御礼銭忝も 信長直に御手にとらせられ御後へ投させられ他国衆金銀唐物様〻ノ珍奇を尽し被備上覧生便敷様躰不申足

巻十五(二)
御爆竹之事
正月十五日 御爆竹 江州衆へ被仰付  御人数次第

北方東一番  平野土佐守 多賀新左衛門 後藤喜三郎 山岡孫太郎 蒲生忠三郎 京極小法師 山崎源太左衛門 小河孫一郎  南方  山岡対馬守 池田孫次郎 久徳左近 永田刑部少輔 青地千代寿 阿閉淡路守 進藤山城守  以上

番 御馬場入 菅屋九右衛門 堀久太郎 長谷川竹 矢部善七郎 御小姓衆 御馬廻

二番 五畿内衆隣国大名小名

三位中将信忠卿 北畠中将信雄卿 織田源五 織田上野守信兼 此外御一門

四番 信長公かるとめされたる御装束京染之御小袖御頭巾御笠少上へ長く四角也御腰簑白熊御はきそへ御むかはき赤地きんらんうらは紅桜 御沓猩々皮御馬 仁田進上之やばかけ奥州より参り候駁之御馬遠江鹿毛 何れも御秘蔵之御馬三疋取替めさせられ 屋代勝介是にも御馬乗させられ其日雪降風有て寒したる事大方ならす辰刻より未刻迄めさせられ見物群集をなし驚耳目申也及晩御馬被納珍重〻〻

正月十六日 先年 佐久間右衛門父子 蒙御勘当致他国紀伊国熊野奥にて病死仕候被不便に思食候歟子息 甚九郎事国之安堵御赦免之儀被仰出濃州岐阜祇候候て 三位中将信忠卿へ御礼被申上候也

正月廿一日 備前国 宇喜多和泉是も病死候 羽柴筑前守家老之者共召列安土に到而祇候申右之有姿言上候て 信長公へ黄金百枚進上候て御礼申上跡職無相違之旨 上意に而年寄共には一〻御馬被下忝下国候へキ

巻十五(三)
伊勢大神空上遷空之事
正月廿五日 於伊勢太神宮 正遷宮三百年以降退転御執行無之今ノ御代に以上意再興仕度之趣 上部大夫 堀久太郎を以て被申上候何程之造作に而可調と御尋之処に千貫御座候はゝ其外は勧進を以而可仕と言上候其時 御諚には去々年八幡御造営被仰付候に三百貫可入と候つれ共千貫に余りて入申之間中千貫にて不可成候民百姓等にナヤミを懸させられ候ては不入之旨被成 御諚先三千貫被仰付其外入次第可被遣旨に而 平井久右衛門為御奉行 上部大夫に被相加候へキ

正月廿六日 森乱御使に而濃州岐阜御土蔵に先年鳥目一万六千貫被入置候定而縄も腐候はん之間  二位中将信忠より御差行を被仰付繋直し正還宮入次第被渡候へと御諚也

巻十五(四)
紀伊州雑賀御陣之事
正月廿七日 紀州雑賀之 鈴木孫一同地ノ 古橋平次を生害候子細は 鈴木孫一が継父マヽチヽ去年 土橋平次討果シ候其遺恨に依て内〻経 上意今度 平次を生害させ 土橋搆押詰右之趣注進申上之処 鈴木御見次として 織田左兵衛佐為大将 根来 和泉衆被差遣然而 土橋平次子息 根来寺 千職坊懸入兄弟一所に楯籠也

巻十五(五)
木曽義政忠節之事
二月朔日 信州 木曽義政御身方之色を被立候間御人数被出候様にと 苗木久兵衛御調略之御使申にオープンアクセス NDLJP:下38付テ 三位中将信忠卿へ言上之処不移時日 平野勘右衛門を以て 信長公へ右趣被仰上候然処境目之御人数被出人質執固其上御出馬之旨 上意候則 苗木久兵衛父子木曽と一手に相はたらき 義政之舎弟 上松アゲマツ蔵人 人質として先進上候被成御祝着 菅屋九右衛門にあつけ被置候

二月二日 武田四郎 父子 典厩 木曽謀叛之由承新府今城より馬を出し一万五千計に而諏訪之上原に至て陣を居諸口之儀被申付候

二月三日 信長公諸口より可出勢之旨被仰出 駿河口より 家康公  関東口より 北条氏政  飛騨口より 金森五郎八為大将相働 伊奈口 信長公 三位中将信忠卿 二手に分而可為御乱入旨被仰出候也

二月三日 三位中将信忠 森勝蔵 団平八 為先陣尾州濃州之御人数 木曽口 岩村口 両手に至て出勢也

御敵 伊奈口節所を拘滝か沢に要害ヲ搆 下条伊豆守を入置候処家老 下条九兵衛企逆心

二月六日 伊豆を立出し岩村口より 河尻与兵衛人数引入御身方仕候

是は雑賀表之事 野々村三十郎被仰付紀伊州雑賀 土橋平次搆 城攻御検使として 三十郎被差遣候処勿論無油断攻詰候間難拘存知 千職坊卅騎計にてかけおち候を 斎藤六大夫 追懸討捕千職坊之頸

二月八日 安土へ持参候て懸御目候処 森乱御使に而御小袖并御馬為御褒美 斎藤六大夫被下外聞播面目則安土百々橋詰に 千職坊頸被懸置各見物仕候

二月八日 土橋平次搆攻干残党討果し普請掃除申付 織田左兵衛佐為城代被入置候キ

二月九日 信長公信濃国に至而訖御動座

    条々  御書出

信長出馬に付ては大和人数出張之儀 筒井召連可罷立之条内〻其用意可然候 但高野年寄之輩少相残吉野口可警固之旨可申付之事

河内連判鳥帽子形高野雑賀表へ宛置之事

泉州一国紀州へおしむけ候事

三好山城守四国へ可出陣之事

摂津国父勝郎留主居候て両人子供人数にて可出陣事

中川瀬兵衛可出陣事

多田可出陣事

上山城衆出陣之用意無油断可仕之事

藤吉郎一円中国へ宛置事

永岡兵部大輔之儀与一郎同一色五郎罷立父彼国に可警固事

維任日向守可出陣用意事

右遠陣之儀候条人数すくなく召連在陣中兵粮つゝき候様にあてかい簡要候但人数多く候 様に戒力次第可抽粉骨候者也

    二月九日        御朱印

オープンアクセス NDLJP:下39二月十二日 三位中将信忠卿御馬を被出其日土田ドタに御陣取十三日高野コウノに御陣を懸させられ十四日に岩村に至て御着陣 滝川左近 河尻与兵衛 毛利河内守 水野監物 水野宗兵衛 被差遣

二月十四日 信州松尾之城主 小笠原掃部大輔御忠節可仕之旨申上に付て妻子ツマゴ口より 団平八 森勝蔵為先陣晴南寺口より相働木曽峠打越なしの峠へ御人数被打上候処 小笠原掃部大輔為手合所〻に被揚煙御敵飯田之城に ばんざい 星名弾正楯籠難拘存知

二月十四日 夜に入廃北候〻也

二月十五日 森勝蔵三里計懸出し印田と云所に而退後候者十騎計討止候キ

二月十六日 御敵 今福筑前守武者為大将数原ヤブハラより鳥居峠へ足軽を出し候 木曽之御人数も 苗木久兵衛父子相加なら井坂より懸上鳥居峠にて取合遂一戦 討取頸之注文 跡部治部丞 有賀備後守 笠井 笠原 以上頸数四十余有究竟之者討捕候キ

木曽口御加勢之御人数之事  織田源五 織田    織田孫十郎 稲葉彦六 梶原平次郎 塚本小大膳 水野藤次郎 簗田彦四郎 丹羽勘助  以上

右之御人数木曽と一手に鳥居峠を相拘也 御敵馬場美濃守子息ふかしの城に楯籠鳥居峠へ差向対陣也三位中将将信忠卿岩村より嶮難節所をこさせられ平谷ヒラヤに御陣取次日飯田に至て被移御陣 大島に御敵日向玄徳斎たてこもり物主也 小原丹後守 正用軒関東ノあん中是等も番手に被相加大島を拘候  中将信忠卿御馬を被寄候処運をひらき難く存知夜中に廃北也則 三位中将信忠卿大島に被成御在城爰には 河尻与兵衛 毛利河内被入置又御先手飯島へ御移也 森勝蔵 団平八松尾ノ城主 小笠原掃部大輔 是等者先陣被仰付先より百姓共ヲノレか家に火を懸罷出候也子細者 近年武田四郎新儀之課役等申付新関を居民百姓ノ悩無尽期重罪をば賄を取令用捨かろき科をは懲之由申候て或張付に懸或討せられ歎悲しみ貴賤上下共に踈果ウトミハテ内心者 信長之御国に仕度と諸人願存砌候間此時を幸と上下御手合之御忠節仕候然者木曽口伊奈口御陣之様子懇に見及可申上之旨為御使 信長公より聟犬両人信州御陣へ被差遣大島迄 三位中将信忠卿御馬寄られ無異儀之趣罷帰言上候

去程に 穴山玄蕃近年遠州口押之手として駿河国江尻に要害拵入置候今度御忠節仕候へと 上意候処に則御請申甲斐国府中に妻子を人質として被置候を

二月廿五日 雨夜之紛にヌスミ出し 穴山逆心之由承タチを可拘存分に而

二月廿八日 武田四郎勝頼父子典厩諏訪之上原を引払新府之舘に至而人数打納候キ

巻十五(六)
信州高遠之城中将信忠卿被攻之事
三月朔日 三位中将信忠卿飯島より御人質を出され天龍川被乗越貝沼カヒヌマ原に御人数被立松尾ノ城主 小笠原掃部大輔為案内者 河尻与兵衛 毛利河内守 団平八 森勝蔵 足軽に御先へ被遣 中将信忠卿は御ほろの衆十人計召列 仁科五郎楯籠候高遠之城川よりこなた高山へ懸上させられ御敵城之振舞様子被成御見下墨其日はかいぬま原に御陣取 高遠之城は三方さがしき山城に而うしろは尾続き有城之麓西より北へ富士川たきつて流城之拵殊丈夫也在所へ入口三町計之間下は大河上は大山そわつたひ一騎打節所之道也川下に浅瀬有爰を松尾ノ 小笠原掃部大輔案内者にて夜之間に 森勝蔵 団平八 河尻与兵衛 毛利河内 此等之衆乗渡し大手之口川向へ取詰候 星名弾正飯田之城主にて候彼城退出之後高遠城へ楯籠爰に而城中に火を懸御忠節可仕之趣 松尾掃部かた迄夜中に申来候へとも可申上透もオープンアクセス NDLJP:下40なく

三月二日 払暁に御人数被寄 中将信忠卿は尾続を搦手之口へ取よらせられ大手之口 森勝蔵 団平八 毛利河内 河尻与兵衛 松尾掃部大輔 此口へ切而出数刻相戦数多討取候間残党逃入也か様候処中将信忠御自身御道具を被持争先塀際へ被付柵を引破塀之上へあからせられ一旦に可乗入之旨御下知之間我不劣と御小姓衆御馬廻城内へ乗入大手搦手より込入込立られ火花を散し相戦各被疵討死算を乱スに不異歴之上臈子共一に引寄差殺切而出働事不及申爰に 諏訪勝右衛門女房刀を抜切て廻無比類働前代未聞之次第也又十五六のうつくしき若衆一人弓を持台所之つまりにて余多射倒し矢数射尽し後には刀を抜切而まはり討死手負死人上を下へと不知員討捕頸之注文

仁科五郎 原隼人 春日河内守 渡辺金大夫 畑野源左衛門 飛志越後守 神林十兵衛 今福又左衛門 小山田備中守(是は七科五郎脇大将にて候也) 小山田大学 小幡因播守 小幡五郎兵衛 小幡清左衛門 諏訪勝右衛門 飯島民部丞 飯島小太郎 今福筑前守  以上頸数四百余有

仁科五郎頸 信長公へもたせ御進上候 今度 三位中将信忠卿 嶮難節所をこさせられ於東国強者と無其隠 武田四郎に打向名城之高遠之城鹿目と究竟之侍共入置相拘候を一旦に乗入攻破東国西国之誉を被取 信長之御代を御相続代〻之御名誉可被備後胤之亀鏡者也

三月三日 中将信忠卿上ノ諏訪表に至而御馬を被出所〻御放火

抑当社諏訪大明神者日本無双霊験殊勝七不思儀神秘之明神也神殿を初奉り諸伽藍悉一時之煙となされ御威光無是非題目也 関東ノあん中大島を退出之徒又諏訪の池はつれに高島とて小城有是へ楯籠難拘存知当城モ津田源三郎へ相渡罷退 本曽口鳥居峠之御人数もふかし表に至て打出相働候也御敵城ふかし之城 馬場美濃守相拘難成居城存知降参申 織田源五へ相渡退散候〻也 巻十五(七)
家康公駿河口ヨリ御乱入之事
家康公 穴山玄蕃を為案内者召列駿河河内口より甲斐国文殊堂之麓市川口へ御乱入 巻十五(八)
武田四郎甲州新府退散之事
武田四郎勝頼高遠之城にて一先被相拘と被存知候処思外早速相果既 三位中将信忠 新府へ御取懸候由取〻申に付而新府在地之上下一門家老之衆軍之行者一切無之面之足弱子共引越候に取紛致廃忘取物も不取敢四郎勝頼幡本に人数一勢も無之爰より典威引別れ信州さくの郡小諸コモロに楯龍一先可相拘覚悟に而 下曽根を憑小諸へのかれ候 四郎勝頼攻一仁に罷成

三月三日 卯刻新府之館に火を懸世上の人質余多在之焼籠にして被罷退人質瞳と泣悲しむ声天にも響計に而哀成有様申は中愚也去年十二月廿四日に 古府より新府今城へ勝頼簾中一門移徙之砌は鏤金銀輿車馬鞍美〻敷し而隣国之諸侍に騎馬うたせ崇敬不斜見物成羣集誇栄花常者簾中深仮にも人にまみゆる事なくいつきかしつき寵愛せられし上臈達幾程モなく引替て 勝頼の御前 同そば上臈高畠タカバタケのおあひ 勝頼の伯母大方 信玄末子のむすめ 信虎 京上臈のむすめ

此外一門親類の上臈付等弐百余人之其中に馬乗廿騎には不可過歴の上臈子共踏もならはぬ山道をかちはたしにて足は紅に染みて落人の哀さ中目も当られぬ次第也名残おしくも住馴し古府をば 所に見て直に 小山田を憑み勝沼と申山中よりこがつこと申山賀へのかれ候漸 小山田か舘程近成し処に内〻肯候て呼寄爰にて無情無下に撞堕ツキヲトシ難拘之由申来上下之者はたと失十方難儀也新府被出候時侍分五六百も候キ 路次すから引散らし不遁者纔四十一人に成也田子と云所平屋敷に暫時之柵を付オープンアクセス NDLJP:下41居陣候て足を被休候左を見右を見るに余多之女房達我一人を便として歴〻在之我身なからも僉議区為方なし 去程人誅代する事乍思小身ワザに不叶国主に生るゝ人は他国ヲ依奪取人数を殺事常ノ習也自信虎信玄 々々より勝頼まて三代人を殺事数千人と云不知員世間之盛衰時節之転変非捍不容間髪因果歴然此節也不恨天不尤人自闇迷闇道従苦沉苦噫哀成勝頼哉

巻十五(九)
信長公御乱入之事
三月五日 信長公隣国之御人数を被召列御動座其日江州之内柏原上菩提院に御泊翌日 仁科五郎が頸もたせ参候をろくの渡りにて御覧し岐阜へ被持長良之河原に懸被置上下見物仕候七日雨降岐阜御逗留

三月七日 三位中将信忠卿上ノ諏訪より甲府に至而御入国 一条蔵人 私宅に被居御陣 武田四郎勝頼一門親類家老之者尋捜而悉御成敗  生害之衆

条右衛門大輔 清野キヨノ美作守 朝比奈摂津守 諏訪越中守 武田上総介 今福筑前守 小山田出羽守 正用軒 山県三郎兵衛子 隆宝是はおせうどう事也 此等皆御成敗候〻也

織田源三郎 団平八 森勝蔵 足軽衆被仰付上野国表へ被差遣候処 小幡ヲバタ 人質進上申別条無之 駿 甲 信 上野四ケ国之諸侍以有緑帰之御礼門前成市事也

三月八日 信長公岐阜より犬山迄御成九日金山御泊十日高野コウノ御陣取十一日岩村に至而 信長御着陣

巻十五(十)
武田四郎父子生害之事
三月十一日 武田四郎父子簾中一門こがつこの山中へ被引籠之由 滝川左近承り嶮難節所之山中へ分入被相尋候処に田子と云所 平屋敷に暫時柵を付居陣候則先陣 滝川儀大夫 篠岡平右衛門下知を申付取巻候処難遁被存知誠に花を折たる如くさもうつくしき歴の上臈子共一に引寄四十余人さし殺其外ちりに罷成切而出討死候 武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉弓を取さしつめ引つめ散に矢数射尽し能武者余多射倒追腹仕高名無比類働也 武田太郎齢は十六歳さすが歴の事なれは容顔美麗膚は白雪之如くうつくしき事余仁にスクレ見る人あつ感しつゝ心を懸ぬはなかりけり会者定離之かなしさは老たるを跡に残し若きか先立世の習朝顔之夕へをまたぬ唯蜉蝣ブユウ化命アダナル也是又家之名を惜みおとなしくも切而まはり手前之高名名誉也 歴討死相伴之衆 武田四郎勝頼 武田太郎信勝 長坂釣竿 秋山紀伊守 小原チバラ下総守 小原丹後守 跡部尾張守 同息 安部加賀守 土屋右衛門尉 りんがく長老中にも無比類働也 以上 四十一人侍分 五十人上臈達女之分

三月十一日 巳刻各相伴討死也 四郎父子之頸 滝川左近かたより 三位中将信忠卿へ被懸御目候〻処に 関可平次 桑原助六両人にもたせ 信長公へ御進上候

巻十五(十一)
越中富山之城神保越中居城謀叛之事
去程越中国富山トヤマ之城に 神保越中守居城候然而今度 信長公御父子信州表に至而御動座候〻処 武田四郎節所を拘遂一戦悉討果候之間此競に越中国も一揆令蜂起其国存分に申付候へと有と越中へ偽申遣候事実に心得 小島六郎左衛門 加老戸式部両人一揆大将に罷成 神保越中を城内へ押籠 三月十一日 富山之城居取に仕近辺に挙煙候不移時日 柴田修理亮 佐々内蔵介 前田又左衛門 佐久間玄蕃頭 此等之衆として富山之一揆城取巻候間落去不可有幾程之旨注進被申上候 巻十五(十二)
武田典廐生害下曽御忠節之事
信長公御返書之趣武田四郎勝頼 武田太郎信勝 武田典厩 小山田 長坂釣竿 初として家老者悉討果し駿 甲 信無滞一篇被仰付候間不可有機遣候飛脚見及候間可申達候其表之事是又可為存分事勿論也

    三月十三日

 柴田修理亮殿 佐々内蔵介殿 前田又左衛門殿 不破彦三殿

オープンアクセス NDLJP:下42三月十三日 信長公岩村より禰羽根まて被移御陣 十四日平谷を打越なみあひに御陣取爰にて 武田四郎父子之頸 関可兵衛 桑原介六 もたせ参被懸御目候則 矢部善七郎 被仰付飯田へ持せ被遣 十五日午刻より雨つよく降其日飯田に御陣を懸させられ 四郎父子之頸飯田に被懸置上下見物仕候 十六日御逗留信州さくの郡小諸に 下曽根 覚雲軒楯籠候 武田典厩 下そねを憑み纔廿騎計に而被罷越候ウケコイ申二之丸迄呼入無情心を替とり巻既に家に火を懸候 典廐若衆に朝比奈弥四郎とて候〻キ今度討死を究上原在陣之時諏訪之要明寺之長老を道師に み戒をたもち道号ヲ付候て頸に懸最後に切て廻典厩を介錯し追腹仕名誉無是非題目也憑典廐之メイ女聟 百井モヽイと申仁是も一所に腹を仕侍分十一人生害させ 典厩之頸御忠節として 下曽根持来進上仕候則 長谷川与次もたせ参

三月十六日 飯田御逗留之時 典廐之首 信長公へ被懸御目候 仁科五郎乗候秘蔵之蘆毛馬 武田四郎乗馬大鹿毛是又被進候処大鹿毛は 三位中将信忠卿へ参らせられ 武田四郎勝頼最後にさゝれたる刀 滝川左近かたより 信長公へ上被申候使に祗候之 稲田九蔵に御小袖被下忝次第也

武田四郎 同太郎 武田典厩 仁科五郎四人之首 長谷川宗仁に被仰付京都へ上せ獄門に可被懸之由候て御上京候〻也

巻十五(十三)
中国表羽柴筑前働之事
三月十七日 信長公飯田より大島を被成御通飯島に至て御陣取

三月十七日 御次公 御具足初に而 羽柴筑前守秀吉御伴仕備前之児島に御敵城一所相残候此表相働手遣之由注進在之

巻十五(十四)
人数備之事
三月十八日 信長公高遠之城に被懸御陣

三月十九日 上之諏訪法花寺に御居陣諸手之御陣取段〻に被仰付候也

人数持備之次第  織田七兵衛信澄 菅屋九右衛門 矢部善七郎 堀久太郎 長谷川竹 福富平左衛門 氏家源六 竹中久作 原彦次郎 武藤助  蒲生忠三郎 永岡与一郎 池田勝九郎 蜂屋兵庫頭 阿閉淡路守 不破彦三 高山右近 中川瀬兵衛 維任日向守 惟住五郎左衛門 筒井順慶 此外御馬廻御陣取是又段〻に在之

巻十五(十五)
木曽義政出仕之事
三月廿日 木曽義政 出仕被申御馬二ツ進上申次 菅屋九右衛門当座 御奏者 滝川左近御腰物梨地蒔かなく所焼付地はり目貫梗槩カウガヒ者十二神 後藤源四郎ほり也并 黄金百枚新知分信州之内二郡被下御縁迄被成御送冥加之至也

三月廿日 晩に 穴山梅雪 御礼御馬進上 御脇指 梨地蒔金具所焼付地ほり也御小刀御つかまてなし地まき似相申之由被成御諚さげさやひうち袋付させ被下御領中被仰付候キ 松尾掃部大輔 御礼駮之御馬進上 御意相御秘蔵候〻也今度忠節無比類之旨 上意に而本知安堵之 御朱印 矢部善七郎 森乱 両人御使に而被下忝次第也

三月廿一日 北条氏政より 端山と申者使者に而御馬并江川之御酒白鳥色〻進上 滝川左近御取次

巻十五(十六)
滝川左近上野国拝領之事
三月廿三日 滝川左近被召寄上野国并信州之内二郡被下候年罷寄遠国へ被遣候事痛雖被思食候関東八州之御警固を申付老後之覚に上野に在国仕東国之儀御取次彼是可申付之間 上意忝も御秘蔵之ゑひか毛之御馬被下此御馬に乗候而入国仕候へと 御諚都鄙之面目此節也

巻十五(十七)
諸卒ニ御扶持米被下之事
三月廿四日 各致在陣兵粮等迷惑可仕之旨被仰出 菅屋九右衛門 為御奉行御着到付させられ諸卒之オープンアクセス NDLJP:下43人数に随て御扶持米信州ふかしにて渡被下忝次第也

巻十五(十八)
諸勢帰陣之事
三月廿五日 上野国 小幡 甲府へ参 三位中将信忠卿へ帰参之御礼申上 滝川左近 同道申御暇被下帰国候〻也

三月廿六日 北条氏政より御馬之為飼料八木千俵諏訪迄持届進上候〻也 三位中将信忠卿 今度高遠之名城攻落御手柄為御褒美梨地蒔御腰物被参候天下之儀も可被成御与奪旨被仰東国御隙入儀も無御座に付て右之為御礼

三月廿八日 三位中将信忠卿 従甲府諏訪迄被納御馬今日以外時雨風有而寒じたる事不成大形人余多寒死コヾヘジニ候キ 信長公者諏訪より富士之根かたを被成御見物駿河遠江へ御廻候て可為御帰洛之間諸卒従是帰し申頭計御伴仕候へと被仰出御人数諏訪より御暇被下

三月廿九日 木曽口 伊那口思に帰陣候〻也

巻十五(十九)
御国わり之事
三月廿九日 御知行割被仰出次第

   覚

甲斐国 河尻与兵衛被下 但穴山本知分除之

駿河国 家康卿へ

上野国 滝川左近被下

信濃国 タカイ ミノチ サラシナ はジナ 四郡 林勝蔵被下

川中島表在城今度ハゲシキ先陣粉骨に付て為御褒美被仰付面目之至也

同キソ谷 二郡  木曽本知   同 アツミ ツカマ 二郡  木曽新知に被下   同伊奈 一郡  毛利河内被下   同諏訪 一郡  河尻穴山替地に被下   同 チイサカタ サク 二郡  滝川左近被下   以上十二郡

岩村 団平八 今度粉骨に付て被下  金山よなだ島 森乱 被下是は勝蔵忝次第也

  国掟  甲信 両州

関役所同駒口不可取之事

百姓前本年貢外非分之儀不可申懸事

忠節人立置外廉かましき侍生害させ或者可追失事

公事等之儀能〻念を入令穿鑿可落着事

国諸侍に懇扱さすか無由断様可気遣事

第一慾を搆に付て諸人為不足之条内儀相続にをひては皆〻に令支配人数を可拘事

本国より奉公望之者有之者相改まへ拘候ものゝかたへ相届於其上可扶持之事

城〻普請可丈夫之事

鉄炮玉薬兵粮可蓄之事

進退之郡内請取可作道事

堺目入組少〻領中を論之間悪之儀不可有之事

右定外於悪扱者罷上直訴訟可申上候也

オープンアクセス NDLJP:下44  天正十年三月日

信長公御帰陣之間者信州諏訪に 三位中将信忠卿置申され甲州より富士之根かたを御覧し駿河遠江へ御まはり候て可有御帰洛之旨 上意候て

四月二日  雨降時雨候従兼日被仰出付而諏訪より大ケ原に至而被移御陣御座所の御普請御間叶以下滝川左近将監 申付上下数百人之御小屋懸置御馳走不斜 北条氏政 武蔵野にて追鳥狩仕候て難之鳥数五百余進上候則 菅屋九右衛門 矢部善七郎 福富平左衛門 長谷川竹 堀久太郎五人御奉行にて御馬廻衆被召寄御着到付させられ遠国之珍物拝領御威光難有次第也

四月三日 大ケ原被成御立五町計御出候へは山あひより名山是そと見えし富士の山かうと雪つもり誠殊勝面白有様各見物驚耳目申也 勝頼居城之甲州新府灰跡クワイセキを御覧し是より古府に至而御参陣 武田信玄舘に 三位中将信忠卿 御普請丈夫に被仰付仮之御殿美〻敷相搆 信長公御居陣候〻キ爰に而惟住五郎左衛門 堀久太郎 多賀新左衛門 御暇被下くさ津へ湯治仕候也

巻十五(二十)
恵林寺御成敗之事
去程に今度於恵林寺 佐々木次郎 隠置に付て其過怠として 三位中将信忠卿より被仰付 恵林寺僧衆御成敗之御奉行人 織田九郎次郎 長谷川与次 関十郎右衛門 赤座七郎右衛門 以上 右奉行衆罷越寺中不残老若山門へ呼上セ廊門より山門へ籠草をつませ火を被付候初は黒煙立て見えわかす次第 に煙納り焼アガリ人之形見ゆる処に快川長老はちともさはかす座に直りたる儘不動其外老若児若衆踊上飛上互にイダキ𫪛モダヘコガレ焦熱大焦熱之焔にムセビ火血刀之苦を悲しむ有様目モ当られす良老分十一人半果候其中 存知分 宝泉寺之雪岑セツシン長老 東光寺ノ藍田長老 高山之長禅寺ノ長老 大覚和尚長老 長円寺長老 快川長老 中にも快川長老是者無隠覚之僧也依之去年 内裡に而忝も円常国師と御補任頂戴申され近代国師号ヲ賜事規摸也都鄙之面目不可過之

四月三日 恵林寺破滅老若上下百五十余人被焼殺訖 所〻に而御成敗之衆 諏訪刑部 諏訪采女 だみね 長篠 是等は百姓共とし而生害させ頸を進上則被成御褒美黄金被下候〻也是ヲ見る者先〻迄名有程之者尋捜而頸を持参候〻キ 巻十五(廿一)
いゝはさま右衛門尉御成敗之事
いゝはさま右衛門尉 生捕進上候先年明智之城に而致謀叛 坂井越中守親類之者共余多討果し候に付て今度 坂井越中に仰付御成敗候〻也 秋山万の 秋山摂津守 長谷川竹 に被仰付御成敗候し也 北条氏政より御馬十三疋并御鷹三足進上此内に鶴取之御鷹在之由也御使 玉林斎祇候之処何れも御気色に相不申帰し被遣候

巻十五(廿二)
信州川中島表森勝蔵働之事
四月五日 森勝蔵川中島 海津に致在城 稲葉彦六 飯山に張陣候処一揆令蜂起飯山を取巻之由注進候則 稲葉勘右衛門 稲葉刑部 稲葉彦一 国枝 是等を為御加勢飯山へさし被遣 三位中将信忠卿より 団平八 是又被差越然而御敵山中へ引籠大蔵之古城拵 いも川と云者一揆致大将楯籠

四月七日 御敵長沼口へ八千計にて相働候則 森勝蔵懸付見合噇と切懸り七八里之間追討に千弐百余討捕大蔵之古城にて女童千余切捨 以上頸数弐千四百五十余有此式候間飯山取詰候人数勿論引払飯山請取 森勝蔵 人数入置 稲葉彦六 御本陣諏訪へ帰陣 稲葉勘右衛門 稲葉刑部 稲葉彦一 国枝 江州安土へ帰陣仕右之趣言上也 森勝蔵山中へ日〻相働所々之人質取固百姓共還住被申付粉骨無是非様躰也

巻十五(廿三)
信長公甲州ヨリ御帰陣之事
四月十日 信長公 東国之儀被仰付甲府ヲ被成御立爰に笛吹川とて善光寺より流出る川有橋を懸置かオープンアクセス NDLJP:下45ち人渡し申御馬共乗こさせられうば口に至而御陣取  家康公御念被入路次通鉄炮ダケ竹木を皆道ひろ と作左右にひしと無透間警固を被置石を退水をそゝき御陣屋丈夫に御普請申付二重三重に柵を付置其上諸卒之木屋千間に余御先御泊御屋形之四方に作置諸士之間叶朝夕之儀下々悉被申付 信長公奇特と被成御感候〻キ

四月十一日 払暁にうば口より女坂高山被成御上谷合に 御茶屋御厩結搆に搆而一献進上申さるゝかしは坂是又高山にて茂りたる事大形ならす左右之大木を伏られ道を作石を退させ山無透間御警固を被置かしは坂之峠に御茶屋美〻敷立置一献進上候也 其日はもとすに至て被移御陣もとすにも 御座所結搆に輝計に相搆二重三重に柵を付させ其上諸士之木屋千間に余り 御殿之四方に作置上下之御まかなひ被仰付御肝煎無是非次第也

四月十二日 もとすを未明に出させられ寒じたる事冬之最中之如く也富士の根かたかみのか原井手野にて御小姓衆何れもみたりに御馬をせめさせられ御くるひなされ富士山御覧候処高山に雪積而白雲之如く也誠希有之名山也同根かたの人穴御見物爰に御茶屋立置一献進上申さるゝ大宮之社人社僧罷出道の掃除申付御礼被申上昔 頼朝かりくらの屋形立られしかみ井手之丸山有西之山に白糸之滝名所有此表くはしく被成御尋うき島か原に而御馬暫めさせられ大宮に至て被移御座候〻キ 今度北条氏政為御手合出勢候て高国寺かちやうめんに 北条馬を立後走ヲクレバシリ之人数を出し中道通駿河路を相働身方地大宮諸伽藍を初とし而もとす迄悉放火候大宮は要害可然に付て社内に御座所一夜之 為御陣宿鏤金銀それ〻の御普請美〻敷彼仰付四方に諸陣の木屋懸置御馳走不斜爰に而

御脇指作吉光 一御長刀作一文字 一御馬 黒駁 以上 家康卿へ被進何れも御秘蔵之御道具也

四月十三日 大宮を払暁に立せられ浮島か原より足高山左に御覧し富士川乗こさせられ神原に 御茶屋搆一献進上候也暫御馬を立られ知人に吹上之松六本松和歌之宮の子細被成御尋向地者伊豆浦目羅か崎連〻被及聞食候万国寺よしわら三枚橋かちようめん天神川伊豆相摸境目に在之深沢ノ城何れも尋きかされ神原の浜辺を由井て磯辺の浪に袖ぬれて清見か関爰に興津の白波や田子の浦浜三保か崎いつれも三ほの松原や羽衣の松久堅の四海納り長閑にて名所に御心を付られ江尻の南山の打越久能の城被成御尋其日は江尻之城に御泊

四月十四日 江尻を夜の間に立せられ駿河府中町口に 御茶屋立置一献進上申さるゝ爰に而 今川之古跡千本之桜くはしく尋聞食あべ川をこさせられ彼川下左之山手に 武田四郎勝頼此地被拘候取出持舟と云城有又山中路次通まりこの川端に山城を拵ふせきの城有名にしおふ宇津の山辺の坂口に 御屋形を立て一献進上候〻也宇津の屋の坂をのほりにこさせられ田中漸程近く藤枝ノ宿入口に誠卒度したる偽之橋イツハリノハシとて名所有かい道より左田中之城より東山之尾崎浜手へ付て花沢之古城有是者昔 小原肥前守楯籠候〻時 武田信玄 此城へ 取懸攻損し人余多うたせ失勝利所之城也同山崎にとう目の虚空蔵まします能く尋きかされ候て其日は田中の城に御泊

四月十五日 田中未明に出させられ藤枝の宿より瀬戸の川端に 御茶屋立置一献進上申さるヽ瀬戸川こさせられせ戸の染飯とて皆道に人之知所有島田之町是又音に聞ゆる鍛冶之在所也大井川乗こさせられ川の面に人余多立渡りかち人聊爾無様に渡し申候〻也真木のヽ城右に見て諏訪之原をクダリきく川を御オープンアクセス NDLJP:下46通有てのほれはさ夜の中山也 御茶屋結搆に搆て一献進上候〻也是よりにつ坂こさせられ懸川御泊

四月十六日 懸川払暁に立せられみつけ之国府之上鎌田か原みかの坂に 御屋形立置 一献進上也爰よりまむし塚高天神小山手に取計御覧し送池田の宿より天龍川へ着せられ爰舟橋懸被置 奉行人 小栗二右衛門 浅井六介 大橋 以上 両三人被申付候 抑此天龍者甲州信州大河集而流出たる大河滝下滝鳴而川之面寒渺スサマシクとして誠輙舟橋懸るへき所に非す上古よりの初也国中之人数を以て大綱数百節引はへて舟数を寄させられ御馬を為可被渡なれは生便敷丈夫に殊に結搆に懸られたり川之面前後に堅番を居置奉行人粉骨無申計此橋計之造作成共幾何之事候国〻遠国迄道を作らせ江川には舟橋を被仰付路辺に御警固を被申付御泊之御屋形立被置又路道之辻に無透間御茶屋御厩夫生便敷結搆に被相搆 御膳御進上御用意京都境へ人をのほせられ諸国に而珍奇を調御崇敬不斜其外諸卒之御間叶是又送数日被仰付千五百間宛之小屋御先にて被立置計 家康卿万方之御心賦一方ならぬ御苦労無尽期次第也併何れの道にても諸人感し奉る事御名誉不申足 信長公之御感悦不及申大天龍舟橋被成御通小天龍乗こさせられ浜松に至而御泊 爰に而御小姓衆御馬廻悉御暇被下思本坂越今切越に而御先へ帰陣也御弓衆御鉄炮衆計相残御伴也 去年 西尾小左衛門被仰付黄金五十枚にて御兵粮八千余俵被調置候是はか様之時節御用に可被立為候併此上者不入之旨 御諚候て 家康卿御家臣衆へ御支配候て被下各忝之趣御礼にて候也

四月十七日 浜松払暁に出させられ今切之渡り御座船飾御舟之内に而一献進上申さるゝ其外御伴衆舟数余多寄させ前後に舟奉行被付置無由断こさせらる御舟御上りなされ七八町御出候て右手にはまなの橋とて卒度したる所なれ共名にしおふ名所也 家康卿御家来 渡辺弥一郎と申仁こさかしく浜名之橋今切之由来舟かた之子細条々申上に付て神妙に思食れて黄金被下手前之才覚面目也しほみ坂に御茶屋御廐立置 夫の御普請候て一献進上候也及晩雨降吉田に御泊

四月十八日 吉田川乗こさせられ五位に而御茶屋美〻敷被立置西入口に結搆に橋を懸させ御風呂新敷被立珍物を調一献進上大形ならぬ御馳走也本坂長沢皆道山中にて惣別石高也今度金棒を持而岩をつき砕かせ石を取退平ラに被申付爰に山中之宝蔵寺御茶屋西に結搆に搆而寺僧喝食老若罷出御礼申さるゝ正田之町より大比良川こさせられ岡崎城之腰むつ田川矢はせ川には是又造作にて橋を懸させかち人渡し被申御馬共い乗こさせられ矢はきの宿を打過て池鯉鮒に至て御泊 水野宗兵衛 御屋形を立而御馳走候〻也

四月十九日 清洲迄御通

四月廿日 岐阜へ被移御座

四月廿一日 濃州岐阜より安土へ御帰陣之処に ろくの渡りにて御座船飾稲葉伊予 一献進上也 捶井に御屋形立置 こぼう殿一献御進上候也 今洲に御茶屋立而 不破彦三一献進上候也 柏原に御茶屋拵 菅屋九右衛門一献進上也 佐和山に御茶屋立て 惟住五郎左衛門一献進上 山崎に御茶屋立置 山崎源太左衛門一献進上候也 今度京都堺五畿内隣国之各はる罷下御陣御見舞面々門前成市事候路次中色〻進物不知員備上覧誠御威光難有御代也

巻十五(廿四)
阿波国神戸三七御拝領之事
四月廿一日 安土御帰陣 去程四国阿波国 神戸三七信孝へ被参候に付て御人数被成御催

オープンアクセス NDLJP:下47五月十一日 住吉に至而御参陣四国へ渡海之舟共被仰付其御用意半候 巻十五(廿五)
家康公穴山梅雪御上洛之事
信長公当春東国へ御動座被成 武田四郎勝頼 同太郎信勝 武田典厩 一類歴討果被達御本意駿河遠江両国 家康公へ被進其為御礼 徳川家康公 并穴山梅雪今度上国候一廉可有御馳走之由候て先皆道を被作所御泊に国持郡持大名衆罷出候て及程結搆仕候而御振舞仕候へと被仰出候〻也

五月十四日 江州之内ばんば迄 家康公 穴山梅雪御出也 惟住五郎左衛門ばんばに仮殿を立置雑掌を搆一宿振舞申さるゝ同日に 三位中将信忠卿 御上洛被成ばんば御立寄暫時御休息之処 惟住五郎左衛門一献進上候也 其日安土迄御通候キ

五月十五日 家康公ばんばを被成御立安土に至而御参者御宿大宝坊可然之由 上意に而御振舞之事 維任日向守に被仰付京都堺にて調珍物生便敷結搆にて十五日より十七日迄三日之御事也 巻十五(廿六)
羽柴筑前守秀吉備中国城々被攻事
中国備中へ 羽柴筑前守相働すくも塚の城あらと取寄攻落数多討捕並ゑつたか城へ又取懸候処降参申罷退高松之城へ一所に楯籠也又高松へ取詰見下墨くも津川ゑつた川両河を関切湛水々攻に被申付候芸州より 毛利 吉川 小早川 人数引卒し対陣也 信長公此等趣被及聞食今度間近く寄合候事与天所候間被成御動座中国之歴〻討果九州まて一篇に可被仰付之旨 上意に而 堀久太郎御使とし而 羽柴筑前かたへ条々被仰遣 維任日向守 長岡与一郎 池田勝三郎 塩河吉大夫 高山右近 中川瀬兵衛 為先陣可出勢之旨被仰出則御暇被下

五月十七日 維任日向守安土より坂本に至而帰城仕何れも同事に本国へ罷帰候て御陣用意候也

巻十五(廿七)
幸若大夫梅若大夫事
五月十九日 安土御山於惣見寺 幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ次之日は四座之内は不珍丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ 家康公被召列候衆今度道中辛労を忘申様に見物させ申さるへき旨 上意に而御桟敷之内 近衛殿 信長公 家康公 穴山梅雪 長安 長雲 友閑 夕庵 御芝居者御小姓衆御馬廻御年寄衆 家康公之御家臣衆計也 初之舞者 大職冠 二番 田歌 舞よく出来候て御機嫌不斜御能は翌日可被仰付と 御諚候つるか日高に舞過候に依て其日 梅若大夫御能仕候折節御能不出来に見苦敷候て 梅若大夫被成御折檻御立不成大形 幸若八郎九郎大夫居申候額屋へ御使 菅屋玖右衛門長谷川竹以両使忝も 上意之趣能之跡に而舞を仕候事雖非本式御所望候間今一番仕候へと被仰出候此時 和田サカモリを舞申候又勝而出来御機嫌直り爰に而 森乱御使にて 幸若大夫御前へ被召出為御褒美黄金拾枚被下云面目外聞実儀忝頂戴也 次に梅若大夫御能悪仕事曲事に被思食候へとも黄金拘惜之様に世間之可有褒貶哉之被加御思慮右之趣条々被仰聞其後 梅若大夫にも金子拾枚被下過分忝次第也

巻十五(廿八)
家康公穴山梅雪奈良境御見物之事
五月廿日 惟住五郎左衛門 堀久太郎 長谷川竹 菅屋玖右衛門 四人に 徳川家康公御振舞之御仕立被仰付御座敷は高雲寺御殿 家康公 穴山梅雪 石河伯耆 酒井左衛門尉 此外家老之衆御食被下忝も 信長公御自身御膳を居させられ御崇敬不斜御食過候て 家康公御伴衆上下不残安土御山へ被召寄御帷被下御馳走申計なし

五月廿一日 家康公御上洛此度京都大坂奈良堺御心静に被成御見物尤之旨 上意に而為御案内者 長谷川竹 被相添 織田七兵衛信澄 惟住五郎左衛門両人は大坂に而 家康公之御振舞申付候へと被仰付両人大坂へ参着

巻十五(廿九)
明智日向西国出陣之事
五月廿六日 維任日向守中国へ為出陣坂本を打立丹波亀山之居城に至参着次日 廿七日に亀山より愛オープンアクセス NDLJP:下48宕山へ仏詣一宿致参籠 維任日向守心持御座候哉神前へ参 太郎坊之御前に而二度三度迄鬮を取たる由申候 廿八日西坊に而連歌興行

    発句    維任日向守

  ときは今あめか下知る五月哉 光秀

  水上まさる庭のまつ山    西坊

  花落る流れの末を関とめて  紹巴

か様に百韵仕 神前に籠置

五月廿八日 丹波国亀山へ帰城

巻十五(三十)
信長公御上洛之事
五月廿九日 信長公御上洛安土本城御留守衆 津田源十郎 賀藤兵庫頭 野々村又右衛門 遠山新九郎 世木弥左衛門 市橋源八 櫛田忠兵衛  二丸御番衆 蒲生右兵衛大輔 木村次郎左衛門 雲林院出羽守 鳴海助右衛門 祖父江五郎右衛門 佐久間与六郎 簑浦次郎右衛門 福田三川守 千福遠江守 松本為足 丸毛兵庫頭 鵜飼  前波弥五郎 山岡対馬守 是等を被仰付御小姓衆二三十人被召列御上洛直に中国へ可被成御発向之間御陣用意仕候て御一左右次第可罷立之旨御触にて今度者御伴無之 去程に不慮之題目出来候而

巻十五(三十一)
明智日向守逆心之事
六月朔日 夜に入丹波国亀山にて 維任日向守光秀 企逆心 明智左馬助 明智次右衛門 藤田伝五 斎藤内蔵佐 是等とし而談合を相究 信長を討果し天下主と可成調儀を究亀山より中国へは三草越を仕候爰を引返し東向に馬之首を並老之山へ上り山崎より摂津国地を可出勢之旨諸卒に申触談合之者共に先手を申付

巻十五(三十二)
信長公本能寺にて御腹めされ候事
六月朔日 夜に入老之山へ上り右へ行道は山崎天神馬場摂津国皆道也左へ下れは京へ出る道也爰を左へ下り桂川打越漸夜も明方に罷成候既 信長公御座所 本能寺取巻勢衆五方より乱れ入也 信長も御小姓衆も当座之喧嘩を下之者共仕出し候と被思食候之処一向さはなくときの声を上御殿へ鉄炮を打入候是は謀叛歟如何成者之企そと 御諚之処に森乱申様に 明智か者と見え申候と言上候へは不及是非と 上意候透をあらせす御殿へ乗入面御堂之御番衆も御殿へ一手になられ候〻御廐より 矢代勝介 伴太郎左衛門 伴正林 村田吉五 切而出討死 此外御中間衆 藤九郎藤八 岩 新六 彦一 弥六 熊 小駒若 虎若 息小虎若 初として廿四人御厩に而討死

 御殿之内に而討死之衆

森乱 森力 森坊 兄弟三人 小河愛平 高橋虎松 金森義入 菅屋角蔵 魚住勝七 武田喜太郎 大塚又一郎 狩野又九郎 薄田与五郎 今川孫二郎 落合小八郎 伊藤彦作 久々利亀 種田亀 山田弥太郎 飯河宮松 祖父江孫 柏原鍋兄弟 針阿弥 平尾久助 大塚孫三 湯浅甚介 小倉松寿 御小姓衆懸り合討死候〻也 湯浅甚助 小倉松寿 此両人は町之宿にて此由を承敵之中にマジリ入本能寺へ懸込討死御台所之口にては高橋虎松 暫支合無比類働也信長初には御弓を取合二三つ遊し候へは何れも時刻到来候而御弓之絃切其後御鎗にて被成御戦御肘に被鎗疵引退是迄御そはに女共付そひて居申候を女はくるしからす急罷出よと被仰追出させられ既 御殿に火を懸焼来候御姿を御見せ有間敷と被思食候歟殿中奥深く入給ひ内よりも御南戸之口を引立無情御腹めされ 巻十五(三十三)
中将信忠卿二条にて歴〻御生害之事
三位中将信忠 此由きかオープンアクセス NDLJP:下49せられ 信長と御一手に御成候はんと被思食妙覚寺を出させられ候処 村井春長軒 父子三人走向 三位中将信忠へ申上候趣本能寺は早落去仕御殿も焼落候定而是へ取懸可申候間二条新御所者御搆よく候御楯籠可然と申依之直に二条へ御取入 三位中将信忠 御諚には軍之巷と可成候間  親王様 若宮様 禁中へ御成可然之由被仰心ならすも被成御暇請イトマゴイ 内裏へ入奉り爰に而僉議区也引取て被退候へと申上る人も有 三位中将信忠 御諚にはか様之謀叛によものかし候はし雑兵之手にかゝり候ては後難無念也爰に而腹を可切と被仰御神妙之御働哀也 左候〻処に無程明智日向人数着懸候〻猪子兵介 福富平左衛門 野々村三十郎 篠川兵庫 下石彦右衛門 毛利新介 赤座七郎右衛門 団平八 坂井越中 桜木伝七 逆川甚五郎 服部小藤太 小沢六郎三郎 服部六兵衛 水野九蔵 山口半四郎 塙伝三郎 斎藤新五 河野善四郎 寺田善右衛門此外各切て出伐殺きりころされ我不劣相戦互知知シツツらるゝ中之働なれは切先より火焰をふらし誠張良か才を振樊噲か勢にも不可劣思之働有 去程に 小沢六郎三郎鳥帽子屋之町に寄宿在之 信長公御生害之由承此上者 三位中将信忠卿御座所へ参り御相伴可仕之由被申候亭主を初隣家之者共走寄 二条之御搆も早取巻候間御一手不可成候所詮隠置タスケ可申候間被罷退候へと色〻異見候へとも無同心身方之体にもてなし纒を打かつき町通二条へあかられ候亭主隣家之者共名残惜敷存知跡をしたひて見送候へは 御搆へ走入 中将信忠卿へ懸御目其後面之御門をかため何れも申合切而出之働中不及是非か様候処御敵 近衛殿御殿へあかり御搆を見下弓鉄炮を以て打入手負死人余多出来次第に無人に成既御搆へ乗入火を懸候 三位中将信忠卿之御諚には御腹めされ候て後縁之板を引放給ひて後には此中へ入骸骨を可隠之旨被仰御介錯之事 鎌田新介に被仰付御一門歴宗徒之家子郎等甍並討死算を乱したる有様 御覧し不便に被思食御殿も間近く焼来此時御腹めされ 鎌田新介無冥加御頸を打申 御諚之如くに御死骸を隠置無常之煙となし申哀成風情目も当られす

 御討死之衆

津田又十郎 津田源三郎 津田勘七 津田九郎二郎 津田小藤次 菅屋九右衛門 菅屋勝次郎 猪子兵介 村井春長軒 村井清次 村井作右衛門 服部小藤太 永井新太郎 野々村三十郎 篠川兵庫頭 下石彦右衛門 下方弥三郎 春日源八郎 団平八 桜木伝七 寺田善右衛門 ハノウ伝三郎 タナ村彦次郎 毛利新介 毛利岩 斎藤新五 坂井越中 赤座七郎右衛門 桑原助六 桑原九蔵 逆川甚五郎 山口小弁 河野善四郎 村瀬虎 佐々清蔵 福富平左衛門 小深六郎三郎 土方次郎兵衛 石田孫左衛門 宮田彦次郎 浅井清蔵 高橋藤 小河源四郎 神戸二郎作 大脇喜八 犬飼孫三 石黒彦二郎 越智小十郎 平野新左衛門 平野勘右衛門 水野宗介 井上又蔵 松野平介 飯瓦毛介 賀藤辰 山口半四郎 竹中彦八郎 河崎与介 村井新右衛門 服部六兵衛 水野九蔵

先年 安東伊賀守 不届働有而被追払候其時伊賀守内に 松野平介と申者候〻キ勇士にてこさかしき者之由被及聞食めし出され一廉御領中被下外聞播面目候今度松野平助程遠く在之而時刻過テ妙顕寺へ走来候処 斎藤内蔵佐依為連〻知音 内蔵佐方より妙顕寺へ使者を差越早〻罷出 明智日向守に礼を申候へ何事もくるしかるましきと申越候処 平介 信長公へ被召出候右の子細各寺僧之衆へ条〻申きかせ忝も過分之御知行被下御用にも不罷立剰御敵へ降参申主と可崇事無念成之由申知音之かたへ送状オープンアクセス NDLJP:下50を書置追腹仕候誠誠命者依義軽と申本文此節候也爰又 土方次郎兵衛と申者譜代之御家人也御生害之折節上京柳原に在之而移時刻此由承其座に至て御相伴不申無念也追腹可仕之由申知音之方へ文を書送召使候下人等に武具腰刀衣装形見にとらせ尋常に追腹仕名誉無是非次第也

六月二日 辰刻 信長公御父子御一門歴討果し 明智日向申様に落人オチウド可有候間家サガせと申付諸卒洛中之町屋チヤウヲクに打入テ落人をサガ事目も当られす都の騒動不斜其後江州御人数切上候はん哉事を存知其日京より直に勢田へ打趣 山岡美作 山岡対馬 兄弟人質出し 明智と同心仕候へと申候〻処 信長公之御厚恩不浅忝之間中同心申間敷之由候て勢田之橋を焼落 山岡兄弟居城に火ヲ懸山中へ引退候爰に而手を失ひ勢田之橋つめに足かゝりを拵人数入置 明智日向守坂本へ打帰候

巻十五(三十四)
江州安土城御留守衆有様之事
六月二日巳刻 安土には風之吹様に 明智日向守謀叛にて 信長公 中将信忠卿 御父子御一門其外歴御腹めされ候由御沙汰在之上下此由承言葉に出して大事と存知初之程は目と目を見合騒立事大方ならす左候〻処京より御下男衆逃下弥必定したり身之介錯に取紛泣悲しむ者もなし日比之蓄重宝之道具にも不相搆家を打捨て妻子計を引列美濃尾張之人は本国を心さし思〻にのかれたり其日二日之夜に入 山崎源太左衛門は自焼して安土を 山崎居城へ被罷退弥騒立事無正躰 蒲生右兵衛大輔此上は御上臈衆御子様達先日野谷まて引退候はんに談合を相究子息 蒲生忠三郎を日野より腰越まて為御迎呼越牛馬人足等日野よりめしよせ

六月三日未刻 のかせられ候へと申され候御上臈衆被仰様とても安土打捨のかせられ候間御天主に在之金銀太刀刀を取火を懸罷退候へと被仰候処 蒲生右兵衛大輔希代無欲之存分有 信長公年来御心を被尽鏤金銀天下無双之御屋形作 蒲生為覚悟焼払空ク可成赤土事無冥加次第也其上金銀御名物可致乱取事都鄙之嘲哢如何候也安土御搆 木村次郎左衛門に渡置夫に御上臈衆へ警固を申付退被申候端〻ノ御衆はかちはだしにて足は紅に染テ哀成風情目も当られす然而 巻十五(三十五)
家康公和泉堺ヨリ引取被退事
徳川家康公 穴山梅雪 長谷川竹 和泉之堺にて 信長公御父子御生害之由承取物も不取敢宇治田原越にて被退候処一揆共さし合 穴山梅雪生害也 徳川公 長谷川竹 桑名より舟にめされ熱田湊へ船着也

 

 
オープンアクセス NDLJP:下51この信長公記は普通の信長記とははなはた異なるものなり川角太閤記といへる書に信長記と引いでたるはすなはちこれなりされはこの書は川角太閤記とあはせてともに永禄天正のむかしを考へたゝさんにふたつなきあかしふみにこそ  

黒川真頼


太田和泉守資房は牛一とも称せり尾州春日井郡の人にて織田家の祐筆なりとぞこの記は当時目撃する所を筆記せしものなるべし斯書小瀬甫庵が潤飾して刻せしもの世に伝はる甫庵が太閤記に和泉守は見聞ふに偏執するの人なりと葢し史の事を記する見聞に偏するはむしろ虚飾に流るゝよりその失すくなかるへし原本十有六巻町田久成君の秘蔵の本にて書体紙質ともに寛永より下らさるの古写本なり六行十七八字ほどにあらと書せりいま縮本として活字に排印すその本色を失ひ易けれは配字の体は勉めて原本に傚へり看者その意あらんこと

 明治十四年の五月三日 東京々橋区西紺屋町なる我自刊我書屋の南窓下に

校者 甫喜山景雄識


明治十三年十一月廿二日御届 

著述人 故太田和泉守
 住所不詳


明治十四年九月廿三日出版 

出版人 甫喜山景雄
 京橋区西紺屋町九番地

 

 

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