癩家族
癞家族
秋が深まり、空間に刺すやうな冷気が感ぜられる。やうやく昇り出した太陽が、少しづつ林の向う側を明るませてゐる。石戸佐七は、鼻の頭を赤くしながらさつきからぼんやりと
林の中では、黒い球のやうに木々の間を
この療養所へ来てからもう佐七は六年になるが、秋が来る毎にかうして目白を捕りに来るのが一番の楽しみになつてゐた。義足になつたのは一昨年の春であつたが、その時も足が一本無くなるといふ悲しみよりも、もう小鳥を捕りに出かけることが出来なくなりはしまいかといふ不安の方が強かつたほどである。小鳥を捕るといふそのことも楽しいことであつたが、彼は何よりも雑然とした病舎から逃れて、自然の中に身を置き、人間の声の代りに鳥の声を聴き、草の上に坐つたり、樹々の香を嗅いだりすることがよろこばしかつた。一定の時間に家族連れで飛んで来る目白や、お互に何かささやき合つてゐるやうな小鳥たち、突如として高い梢にけたたましく
じつと物思ひに耽つてゐる佐七の顔に、ふと暗い陰がさし、不安なものが漂ふことがあつた。すると彼は定つて小さな声で、仕方がない、仕方ない、と呟いた。それは息子の佐吉を思ひ出した時で、彼の眼にはなんとなくおどおどとしたものが表はれた。
佐吉は長男で、父親が義足になるちよつと前にここへ這入つて来たのであるが、今は激しい両腕の癩性神経痛にやられて重病室のベッドの上で横になつてゐる。彼は二十四で、ここへ来るまでは母親と一緒に田舎の街で暮してゐたのであつたが、その頃は長女のふゆ子と同じやうに優しく、時々来る手紙の中にもそれは現はれてゐた。中学を抜群の成績で卒業したといふ報せや、末に見込みのある大きな会社へ就職することが出来たといふ報知がある度に、佐七は女舎まで出かけて行つてふゆ子にそのことを話した。そしてその夜は明け方まで眠らないで、息子のことを頭の中に描き続けた。手紙には何時も乱暴な文字で、さういふところに暮してゐる父のことを思ふと一日として安閑と暮してゐる気にはならない、今に立派な者になつて見せるといふやうなことが書いてあつ た。文字は如何にも乱暴で紙いつぱいにはね廻つてゐるやうであつたが、その中には美しい我が子の心が流れてゐるやうな気がして、佐七は手紙を何度も読みかへしたものである。しかしその子がどうしてあんなに烈しい変りやうをしたのか。佐七は、病室にゐる息子のことを考へる度に、何か大変な間違ひを仕出かしてしまつた後のやうな、空しい絶望を味つた。
昨日もその病室へ出かけて見たが、佐吉は父の顔を見るともうむッとしたやうな表情を泛べて不機嫌に黙り込んでしまつた。佐七は息子に向つて声を掛けて見るのもなんとなく悪いことをするやうな思ひがして、おどおどしてしまふのである。俺がこんな病気になつたのもこんな苦しい目に遇はねばならないのもみんなお前の責任だ、と息子の眼が責めつけて来るやうに思はれて、佐七は呼吸をするのも何か悪いことをしてゐるやうな気がするのであつた。思ひ切つて、どうだの、工合は、と声を掛けても、息子は閉ぢた眼を暫くは開かうともしない。そしてやがて開いた眼には、父に見舞はれた者の誰もが表はす喜びの表情はほんのこればかりも表はれず、佐七は石のやうに冷たい息子の心に取りつく島を失つてしまふのだつた。
仕方がない、仕方がない、と呟くより他になかつた。何もかも病気に打ち
最初に発病したのはふゆ子であつた。佐七の病気は神経型のためもあつたであらう、顎の紅斑が自家吸収されてからずつと自然治療の状態が続いて病勢は落着いてゐたのであつたが、ふゆ子が発病する前年から急に悪化し始め、僅かの間に十本の指は全部内側に向つて曲り込み、更に足の関節の自由をも失つてしまつた。そこで彼は佐吉が嫁をとる時になつて差しつかへるやうなことがあつてはと思ひ、ふゆ子を連れてここへ這入つて来たのであつた。彼女はその時十六、その秋から佐七は目白を捕へる楽しさを覚えた。
佐七は、さながら生物のやうにびくッと義足を動かせた。かすかな声ではあつたが、たしかに目白の声に相違なかつた。林のずつと向う、かなり遠くから
その時背後にふと足音を聴き、邪魔されるといふ思ひで苦い顔を振り返つて見ると、ふゆ子がすぐ後に立つてゐた。
「お早う。どう、今日は?」
と彼女は声を忍ばせて小さく言つた。
「うん。立つてちやいけない。そこへお坐り。」
と佐七もささやくやうな声であつた。とたんに林の奥から、葉と葉の間をくぐつて来た一羽が、籠のぶら下つてゐる松の枝にとまるのが見えた。佐七はぐつと唾を呑んで、横に坐つたふゆ子に耳うちした。
「来たよ。」
冬子は黙つたままその一羽に視線を向けたが、片方の手では膝の横の草を
枝にとまつた鳥は籠を怪しむやうに首を傾けてゐたが、急に飛び立つて二三間離れた
「しめた。」
と佐七が不意に言つたので、彼女はびつくりして籠の方を見ると、空間に突き出た
「すてき、わたしに持たして――。」
と彼女はそれを受け取ると、小鳥は彼女の
「どうだ、この鳥は生きてるだらう。」
「あら、どうして。」
「三日籠の中に入れといてごらん、この鳥は死んでしまふ。小鳥が小鳥らしく生きてゐるのは捕つた二三日うちだよ。生き生きしてるだらう、ほらお前の指に嚙みついたりして。三日も籠の中へ入れとくと、翼の色に力がなくなつて、艶が落ちてしまふからのう。」
「餌が悪いんぢやないの。」
「人間の造つた餌だからいけないんだよ。」
「籠もいけないんでしよ。」
「うん、思ふやうに翼が使へないからのう。いくら良い餌をやつても駄目だよ。どら、ちよつと腹を見せてごらん。どうも女の子のやうな鳴声ぢやつたが。はつきり聴えなかつた。」
鳥は果して雌であつた。雄だと腹部に鮮明な黄斑の直線がある筈であつたが、この鳥は腹一めんがぼうつと黄色く染つてゐた。
「やつぱり雌だつた。雌ぢやしやうがない。」
と呟いて佐七は、放してやれとふゆ子に言つた。彼女はあらためて小鳥を見、
「放すの?」
と惜しさうに言つたが、思ひ切つて空に投げた。風船のやうに空中に飛ばされた鳥は、途中でさつと翼を拡げ、林の中へ隠れていつた。
ふゆ子は懐から手紙を取り出した。彼女の頭を癩になつた佐太郎の顔がかすめて、彼女は自分の発病当時の悲しさなどを思ひ浮べると、手紙を父に差し出す手が顫へた。
夕食が終ると、病室内は急に騒しくなり、入口の硝子戸がひつきりなしに明けたり締められたりする。寝台と寝台との間を、病舎からの見舞人が絶間なくゆききして、あちらでもこちらでもぼそぼそと話声が続いた。横はつてゐると、ぞろぞろとゆかの上を引きずつて行く足音や、ど、ど、ど、ど、と義足の歩く音などが枕に響いた。その他ゼイゼイと苦しげに呼吸する音や、嗄れた笑声や、気色の悪いカニューレの音などが入り乱れて、佐吉はこの時刻になるとどうしても不快な気持にならされてしまつた。とりわけ、彼の隣寝台の男が、見舞ひに来た女と一緒に、何か下劣なことを喋つてはげらげらと笑つたり、夜食のうどんをびちやびちやいはせながら食ひ始めたりすると、不快は激しい嫌悪感となり、時には腹の底から憤怒が湧き上つて来たりするほどであつた。女は笑ふとただれたやうな赤い歯茎を露はし、歯は黄色くなつてゐる。
太陽が落ち、硝子窓の外が暗がつてしまふと、室内は急に地獄になり、だんだん奈落の底へ沈んで行くやうな気がした。明るいうちは窓外が見え、この病棟もしつかりと大地の上に坐してゐるのが判るが、夜になり、窓外が暗黒に塗り込められて、室内だけがぼうつと仄明るくなつて来ると、なんとなく棟全体が地から浮いてゐるやうな感じで、やがて夜が更けるに従つて地下に沈み込んで行くやうな気がするのである。奈落だ、奈落だ、と彼は思ひ、これから抜け出る道のないことを思ふと、身をしめられるやうな不安と絶望を覚えた。そして平和さうにげらげらと笑つてゐる女や、その女に好色的な眼を光らせてゐる隣りの男の様子などを見ると、やがて不安は嫌悪となり、絶望は激しい現実への怒りとなつて、彼の頭をかき乱すのであつた。これが俺の世界か、これが俺に与へられてゐる唯一の人生か、と彼は呟く。一人の人にとつて、その人に与へられた人生は唯一つである、といふこの規定が、彼には堪らないものに思へた。一人の人間はあくまでも唯一本の道をしか歩くことが出来ない、同時に二本の道を歩くことは絶対に許されてゐない。彼はこれを恐怖の念なしには考へることが出来なかつた。俺は、こんな風に定められてしまつた、この神経痛がやむ頃には指が曲つてしまふだらう、やがて足の自由も利かなくなつてしまふだらう、さうなればもうお終ひだ、いや、癩になつた時もう俺はお終ひになつてしまつたのだ、死ぬまでこんなどん底から抜け出ることは出来ないんだ、死ぬまで――。そして彼は憎悪の念をもつて父の姿を描いた。かうなつてしまつたのもみな父の責任だ、と彼は思ひ切つて断定することが出来なかつたが、しかし父を考へる度につきまとつて来る憎悪は、どうしても取り除くことが出来ないのだつた。
ずきずきと両腕が疼き始めた。続けざまに服んだアスピリンが汗になつてだらだらと全身に流れ出してゐる。この汗の中でまた朝までの幾時間かを過さねばならぬであらう。彼は両腕を注意深く腰の両側に置いて、眼を閉ぢて固く唇をひきしめた。
ふゆ子がやつて来た。洗濯物を抱へて彼女は這入つて来ると、見舞ひの人々の間を、幾度も頭を下げながら兄の枕許に立ち、
「あにさん。」
と先づ声をかけた。これによつて彼女は佐吉が不機嫌であるかどうかを試して見る習慣であつた。機嫌の悪い時には、彼は返事をしようともしないで、急に額に皺をよせたりする。すると彼女は、神経痛がひどいのであらうと思つて洗濯物を枕の横に置いて黙つて帰るのだつたが、一歩病室から外へ出ると、不意にぼろぼろと涙が出て来たりして、彼女は自分でも判断の出来ない気持になつた。彼女は肩の竦まつてしまふやうな孤独を感じるのである。しかし佐吉はふゆ子に対しては優しい気持で、いたはつてやりたいとさへ思つてゐた。とりわけ自分よりも病齢の多い妹は、それだけまた病勢も進んでをり、その病勢のため失つた恋愛などを思ふと、彼は妹がひどく不幸に見えた。その男はこの春病気の軽い女と一緒にここを逃げ出してしまつた。彼女はその時少しも泣かなかつたが、それ以来佐吉は妹の顔に力が失せ、体全体の線が細くなつて行くのを感じた。
ふゆ子には、しかしどうしても兄の気持を理解することが出来なかつた。例へば、どんなに面白さうに話し合つてゐたりする時でも、父の姿さへ見ると忽ち顔を険しくして、ふゆ子にさへもろくに口もきかなくなる兄の心は、芯から父を憎んでゐるのであらうか、彼女はさういふ時、ぞつと背中が冷たくなるほど兄の心が怖しくなつたが、しかしどうして兄が父を憎んだり出来るのか、彼女には全く不可解であつた。子が父を憎むなんて、と彼女は考へる。自分の兄がどうしてそんな悪人であらう、そんなことはない、そんなことはない、と彼女は強い心で否定する。子が親を憎むなどといふことはたうてい出来ないことだ、と彼女は本能的に思つてゐるのであつた。それにお父さんだつて、やつぱり同じ病気だもの、
「うむ。」
と佐吉は重さうに返事をした。そして黙つて起き上ると、両腕を彼女の前に差し出した。解けかかつた繃帯の間から、汗に濡れたガーゼが首をのぞかせて、ぷんと臭ひが鼻を衝いた。
「巻きなほしてくれ。」
「さきに寝衣を着更へて、それから――。」
「さうか。」
と佐吉はすなほに着てゐるものを脱いだ。ふゆ子は抱へてゐた洗濯物を置き、その中の一枚を拡げて、湯気を立てて冷えてゆく兄の体を素早くつつんだ。
「シヤボンの匂ひがする。」
と佐吉は着物に腕を通しながら言つた。腕を通すのはなかなか困難で、ちよつとでも関節を曲げるとじくりと痛んだが、鼻孔に流れ込んで来る石鹼の匂ひが、新鮮なものに触れる喜びを与へた。
「いくらか、いいの?」
「うむ。ちよつとはいいやうだ。」
「ガーゼを温めて来るから、待つてね。」
ふゆ子は一抱への三等ガーゼを持つて、火鉢の横へ温めに行つた。佐吉はふと彼女が発病した頃のことを思ひ出し、その頃女学校の白い線の這入つた水兵服を着てゐた彼女が、かうした癩療院に何時の間にか慣れて何の気もなく薄黒いガーゼを抱へて行く、彼は信じられないものを信じてゐるやうなちぐはぐな気持を覚えた。水兵服を着てゐた時も、またガーゼを抱へてゐる彼女も、同一のふゆ子であるといふことがなんとなく奇妙な気がしたのである。病勢は進行を停止してゐるやうであるが、それでも色が白人のやうに白く、眉毛がない。
発病した頃、彼女は毎夜のやうに悪夢を見、夜中に唸つては母に起された。また不意に家を抜け出して帰つて来ないことも二度ばかりあつた。警察の手をわづらはす前に彼女はぼんやりと帰つて来たが、二度共自殺をしようとしてゐたのであつた。彼女はしかし今その時のことを思ひ出しても、どんな気持であつたのか的確に思ひ浮べることは出来ない。それは脳漿が濁つてしまひ、夜と昼との判断を失つてしまつたやうな状態とでもいふより他に言葉はなかつた。十六歳といふ少女の繊細な神経が、病気をどういふ風に受けたのか、佐吉には全然考へて見ることも出来ないが、しかし彼女の姿を眺めてゐると、よくその神経がバラバラに砕け散つてしまはなかつたものだと、一種の驚きを感ぜずにはゐられなかつた。
見舞ひに来た人々もやがて帰つてしまひ、病室内は静かになつた。
ふゆ子は、部屋の真中に出された大きな火鉢の前で腰をかがめて、ガーゼを火の上にかざした。そして時々入口の方を眺めて、もう父が来さうなものだと思つた。佐太郎の発病を知つたら、兄はどんな気持になるだらう。彼女は父が兄に向つて佐太郎のことを言つてしまつた瞬間を考へてみようとしたが、二人の顔にどんな表情が現はれるか、彼女には判らなかつた。けれども、彼女は、その時は恐しい気持を味ふに違ひないと思つて、不安になつた。それでは父が来るさきに自分が言つてしまはうか、とも思つたが彼女はそれも出来ないやうな気がした。
ガーゼが温まると、彼女は先づ古い繃帯を解いてやつた。久しく陽の目を見ない兄の腕は、すつかり細く白くなつて、静脈が無気味なほど青く脹れてゐた。佐吉は腕の裏表を眺めながら、
「やせたなあ。」
と言つた。しかし、その滑かな
巻き終つた時、入口が開いた。ふゆ子は思はずびくッとし、二三歩そちらへふみ出した。佐七は視線を落し、うつむき加減に這入つて来た。ふゆ子はちらりと兄の顔を見た。佐吉は父の顔を見たのか見ないのか、もう蒲団を被つて横になつてゐた。
「どうだ、いくらか良いか。」
と父は意外に明るい声で言つたので、ふゆ子はほつとし、兄の返事が待遠しかつた。苛々するほどであつた。
「うん。」
と佐吉は、無理に
「大分良いが、まだ――。」
と言つてしまつた。がさういふ自分の声が耳に這入つて来ると、すぐさま嫌悪が突き上つて来た。しかしその嫌悪感の中に、ゆらりと閃いて通り去つた、嫌悪する自分を更に嫌悪するもう一つの心の破片には、彼は気づくことが出来なかつた。話が途切れさうになつたので、ふゆ子は、
「今繃帯を取り換へたのよ。兄さんとても痩せたのよ。」
兄の返事が彼女の心を明るくしてゐた。彼女はけんどんの中から湯吞など取り出して茶の用意をした。
「お父さん、お茶のむでせう。」
「いつぱい飲まうか。」
彼女は火鉢のところへ湯を
「
「たくさん。」
兄の言葉は彼女の心に冷たく響いて、彼女のいくらか弾みかかつた気持は一度に折られてしまつた。親子が揃つてお茶を飲んだり、話し合つたりする機会のめつたにないここで、その上珍しく父と兄の気持が調和しさうなのに明るんで来てゐた彼女は、いまの一言で何かがびりりと割かれるやうな気がした。湯呑を口に持つて行きつつ、父の手がその時かすかに顫へるのを彼女は見た。すると兄への激しい怒気が湧いて来たが、
「お菓子どう?」
と、彼女はけんどんの中からイボレットを取り出すことによつてそれを押へた。佐吉は言葉も吐かない。佐七はそれを一つ摘みながら、ふと今朝放してやつた雌目白のことを思ひ出し、それをなつかしく思つたりしたが、あたりがひどく重苦しくなつて来て、彼は手紙を息子に見せる機会が摑めなかつた。息子にそれを見せることが、なんとなく怖しかつた。その手紙が息子を驚かせ、悲しませるのが怖しいのではない、彼は息子の怒りが怖しかつた。その怒りはいふまでもなく儂に向けられてゐる――。佐七は救はれない気持になつた。
室内の静けさが三人の心をつつんで、話は途切れ、みなそれぞれの思ひに沈んだ。三人共肉身のつながりが切れ、その間に深い淵の出来てゐるのを感じ合つた。ふゆ子は佐太郎の姿を思ひ浮べて、傷ついた心で這入つて来る弟が、この冷たい親子の間をなんと感じるであらう、兄さへ優しい心になつてくれれば凡ては温かく運ばれて行くのに、と思つた。佐七は懐中してゐる手紙が鉄のやうに重くなつて来たのを感じ、深い溜息を、しかしそれも低く何かを恐れるやうに吐いた。そしてじつと黙してゐるのが堪へられなくなり、何か言はねばならぬと思ひながら、どこにもいとぐちのない思ひであつた。佐吉はじつと眼をつぶつてゐたが、すぐ横にゐる二人の様子が見えるやうに心に映り、みなと同じく息苦しい気がしたが、知るものか、と強ひてふてぶてしい気持になつた。父は淋しいに違ひない、悲しいに違ひない、しかしさういふ姿を見たといつて、どうして父が許せるだらうか、父を許すといふことは、即ちこの現実を許すことではないか、俺の良心が(もしそれがあるものとして)どんなに父を愛してゐようとも、俺の精神がこの現実に屈伏しない限り、俺はあくまでも父を許さぬ、またどうしてこの恐るべき現実が肯定出来るだらう。彼は眠らうと思つた。それがこの場合父を拒否する唯一つの方法だと思へた。しかしさつき繃帯を換へた時冷やした腕は、温まり始めると忽ち激しく疼き出す。温まつてしまふといくらか楽だつたが、それまでは、反動のやうに強く痛んだ。
「うむうむ。」
と彼は一つ唸つて、父に背を向けて寝返つた。
「痛むの?」
とふゆ子が言ふと、佐七も首をのばして、
「痛むのかい。」
佐吉はそれには答へないで、
「ふゆ、湯ざましをくれ。」
「はい。」
けんどんの上に置いた湯ざましを取つてやると、佐吉は片手でそれを受け取り、ごくごくと音を立てて服み、
「何か用があるのか、用がなければもう帰つてくれ。」
とふゆ子に言つた。
「何か食べたいものはないか、の? 佐吉。」
と佐七が言つた。思ひ切つて手紙を見せようかどうかと逡巡し、その勇気がなくついさういふ言葉が出た。
「なんにも食べたくない。ちちちッ、ふゆ、今幾時だ。」
「十分過ぎよ、八時。」
八時になると病室廻りの当直看護婦が注射をうちに来る。と、果して入口があいて白い服が這入つて来た。
「注射ですよ。」
と看護婦は小さな声で、しかしみなに聴えるやうに叫んだ。
「お願ひします。」
とふゆ子は看護婦に言つた。彼女はふゆ子を見ると、
「痛むの? さう、大変ね。あんたお丈夫?」
と愛想を言ひながら靴音を立てた。
「ええ、おかげさまで。」
大きなマスクで顔の半分はかくれてゐたが、その黒い眉を見ると、ふゆ子は急にみじめな思ひがし、顔をうつむけて言つた。佐七は本能的に二人を見較べて、ふゆ子の不幸が強く心を打つて来たが、看護婦が来たことによつてかもされた小さな空気の変化にほつとし、この機会に手紙を見せようと考へた。
注射をすませ、彼女の姿が廊下の果にぽつんと白いかたまりになつて消えると、
「佐吉。」
と彼は息子に呼びかけた。声が少し顫へ、眼色がおどおどと動いた。そして次の言葉に迷つてしまつた。
「なんですか。僕痛んでしやうがないから、独りになりたいのです。」
あんたなんかゐたとて何にもならない、といふ意が含められてゐるのを佐七は感じ、動き始めた心をぴたりと押へられてしまつた。
「佐吉……お前何か用はないか。」
さう言つてしまつて佐七は、がつくりと力の抜けるやうに絶望した。
外へ出ると、二人は黙々と暗い道を並んで歩いた。冷たい空気が顔にかかつて、佐七は
「ふゆ、お父さんが悪いんだよ。けれどのう、しやうがない。どうにもしやうがないんだよ。」
ふゆ子は父の顔を見、
「
と言つたが、眼からは涙が出て来た。
「――来るのは
「あさつて――。」
「でもまだ発病したばかりだから、治療すれば軽快退院出来ると思ふわ。」「うん。」
軽快退院、しかしやがて再発するだらう、といふことを二人は感じてゐた。今までの例がみなさうであつたし、二人はこの病気がどういふものであるかを知り抜いてゐる。
「ふゆ、つらいのう。」
と佐七はこみ上つて来るやうな声を出したが、とたんに石に
「ふゆ、死なうか。」
ふゆ子はどきッとし、そんな、とだけ言つた。佐七は続けて言はうとしたが、口がこはばつた。しばらくして、
「お前明日の朝早く起きられるかい?」
「どうするの、お父さん!」
と彼女も声を顫はせながら反問した。
「あしたは良い雄を捕らうよ。」
「目白? ええ、早く起きるわ。今朝放してやつたの、足に
「大丈夫、かしこい鳥だから自分でこすつて
「さうかしら。」
「佐太が来たら――佐太はどんな気持でゐるかなあ。」
「……。」
「お前、佐太の世話をしてやつてくれ、のう」
「するわ……。」
彼女はふと自分から逃げた男を思ひ出した。世話をする、といふ言葉が男の姿を連想させたのであらう。その男はまだ軽症だつた。頰に一つ紅斑があつたが、その二銭銅貨のやうな斑紋は、思ひ出して見るとかへつて彼を美しく見せたやうに思はれる。が、彼女は彼の愛撫の中にゐる時でも、その軽症さに不安を覚えてゐたのを思ひ出した。もしあの人がもつと病気の重い人だつたら逃げたりしなかつたに違ひない、自分のやうな重いものが、あんなに軽い人を愛したのが間違ひだつた、と思ふと共に、彼女はその頃その男と会ふ度にひけめを感じてゐたのに気がついた。だけど、もし自分がもつと軽かつたら ――鏡を見る度に悪寒をすら感じる自分の顔を思ひ出して、孤独と絶望とが押し寄せて来たが、どこからか、それを打ち消す力が湧いて来た。佐太郎や父への愛情がその力を与へたのであらう。
「ふゆ。」
「はい。」
父はそのまま次を言はないで、二三十歩も足を運んでから、
「お前、お父さんを悪く思はないでくれのう。」
彼女は不意に父に縋りつきたくなつて来たが、
「
と叫ぶやうな声になりながら言つた。
薄暗い電光を受けて、佐吉はとろとろと眠つてゐる。さつきうつた注射が効いたのであらう。額から首のあたり、蒲団がずれて露はになつてゐる胸まで大粒の汗が吹出物のやうに出て、時々かたまつてはだらだらと流れてゐる。彼の隣りの男も、その並びの当直人も、みな寝静まつて、室内は呼吸の音と、呻声とだけでしんとしてゐた。
と、突然佐吉はびくんと体を顫はせて、、ううううと呻いて、それからむつくりと起き上つた。ちよつとの間、彼は充血した眼を見開いてあたりを見廻してゐたが、やがて首を垂れると、横にもならないでそのまま寝台の上に坐り続けた。注射がまだ効いてゐるのであらう、痛みは殆どなかつた。しかし頭がどろんと濁つてゐて、今見た母の夢が目さきにちらついた。
場所はたしかにこの療養所の中だつたが、そこに母の住んでゐる家があつた。そして珍しくも母と一緒に父もをり、自分もゐた。ふゆ子は女学校の服を着てゐたが、何か両手で白いものを抱へて、たしかに泣いてゐるやうだつた。それから突然、父と母とが恐しい顔つきで何か叫び出した。病気がうつる、うつる、といふやうな言葉が頭に残つてゐる。そしてその時母の真白い豊かな胸がちらりと見え、その腕に一個所、鮮血に染つたやうな紅斑が浮いてゐるのが垣間見えた。するとぞうんと身の毛が立つほど恐しくなつた。それからはぼんやり煙つたやうになつて記憶の底になつてしまつてゐる。うつる、うつると叫んだ時の母の恐怖に彩られた顔が、特にはつきり頭に残つてゐる。母の顔は真蒼だつた。それは佐吉の発病を知つた時の顔であり、またふゆ子の眉毛が落ちた時の顔であつた。彼は自然と母と別れる前夜のことを思ひ出した。その夜も母は蒼白なおもてであつたが、佐吉はその顔が今も眼の前に浮んで来るやうな気がした。
「佐あさん、もうお寝みかえ?」
その頃佐吉は、毎晩おそくまで街を歩き廻り、酒を飲んでは帰つて来るのが習慣になつてゐた。癩者の誰もが一度は味ふ気持、つまり生きてゐたいのか死んでしまひたいのか自分でも判らない漠とした気持であつた。街を歩いてゐると、電車の轟音に発作的に体を投げ出してしまひたい欲求が興つて来たり、かと思ふと、まだまだ生きられると思つて妙に人生が楽観出来たりして、行為と心理、心理と心理、行為と行為、などのつながりが切れ切れになつて、ひどく衝動的になつてゐた。その夜も、おそく帰つて来て酒臭い息をふうふう吐きながら畳に寝転んでゐると、母がさう言ひながら上つて来た。彼は二階に住んでゐた。母は佐七と同じやうにやはりおどおどしてゐるやうだつた。
「お前あしたはお父さんのところへ行つてくれるか、の、お前。あそこにはお父さんもゐることぢやし、ふゆもゐるで――。」
母は身の置場もないといふ風に出来る限り小さくなつて、今にも後ずさつて行きさうに坐つてゐる。彼は起きようともしないで、
「うん、うん。」
と頷いてゐた。しばらく沈黙が続いて、母は赤くなつた眼をおそるおそる開いてゐた。これが俺の母だ、これが、と彼はそんなことをふと口の中で呟いたが、理由もなくその時激しい憎悪に襲はれた。彼は無意識のうちに眼つきをかへて、鋭く瞳を光らせながら母を見つめた。母は息苦しくなつたらしく、そつと立上らうと腰を浮せかけたが、急に顔色を蒼白にしてまた坐つた。息子の憎悪が電波のやうに心に響いたのであらう。と、彼女は顔を急に歪め、歯と歯をがちがちと嚙み合せて、
「佐あさん、怺へて――お母さんは、お母さんは。」
と
「わたしは、の、佐あさん、お前のお父さんにだまされて、それで一緒になつたのだよ。あの人は、わたしと一緒になる前から病気だつたのに、わたしはだまされて――。」
佐吉はその時、みなまで聴かないでむくつと起きた。
「お母さんは、なんで僕にそんなこと教へるんです!」
頭の焼けるやうな怒気が湧き上つて来て、叫ぶやうにさう言つて母を睨みつけたのを覚えてゐる。しかしあれは母に対する怒りであつたであらうか。佐吉は体の冷えるのを感じて横はりながら思つた。それ以来俺は父を思ふ度に憎悪の念がつきまとふやうになつたではないか。それは今まで信じてゐた父の像がぶち
佐吉は、ふゆ子と一緒にこの病室を出て行つた父の後姿を思ひ出した。曲つた両手を腰にあて、不恰好に義足をギチギチいはせながら出て行く姿は、失意そのもののやうに見えた。腰にあてた手を振つて歩く気力もあの時の父にはなかつたに違ひない。さう思ふと佐吉の胸は急に顫へ出して、父への愛情が頭をゆすぶつた。彼は日頃の自分の態度が切実に後悔された。母をあざむいたのは父の罪であるとしても、しかしどうしてその父を自分が鞭打つことが出来るだらう、父がこの地上に自分を産み出したといふこと、自分が父に病気を
彼は自分が今幾分感傷的になつてゐることを意識しながら、すぐに佐七の手を握りたい衝動にかられた。
父と別れて女舎へ帰つて来ると、ふゆ子はすぐ床をとつてもぐり込み、頭から蒲団を被つてクックックッと頸でも締められたやうな声で泣き出した。彼女は自分たち親子三人が、深い穴の中に墜ち込んでゐるやうな気がした。前も、後も、厚い、真黒な壁になつて、押しても叩いてもびくともしない、彼女はそれに鼻をぶちつけてゐるやうな気持であつた。
夜が明けると、彼女は母に手紙を書きたくなつて来たので、畳に腹ばつて鉛筆で書き出した。外は雨が降つて、昨日父と約束した目白捕りも駄目になつてしまつた。
拝啓長らく御無沙汰致しましたお変りも御座いませんか、と機械的に彼女は書いた。そこで彼女は一度鉛筆をなめ、さて、と続けたが後がつまつてしまつた。そして色々と文句を考へてゐると、もう胸がいつぱいになつてぼちぼちと涙が紙の上に落ちた。そして結局紙を五六枚破つただけで、彼女はあきらめて立上つた。すると突然佐太郎に会ひたくてしやうがなくなつて来た。佐太郎と会つて、慰めてやつてゐる自分の姿が浮んで、彼女はその文句を考へ考へ口のうちで呟いて見た。
「ね、佐太さん、大丈夫よ、悲観しないで、ね、きつと快くなつて退院出来るのよ。」
そして、
「姉さんはもうだめだけど。」
と附け加へると、どつと悲しくなつて来た。佐太郎の頰にはきつと赤い斑紋があるに違ひない。彼女はもう六年も佐太郎に会はないし、別れた時彼はまだ十二になつたばかりだつたので、今はどんな子になつてゐるか見当がつかなかつた。それで彼女は佐太郎の姿を考へる度に逃げた男の姿をあれにあてはめて考へる習慣になつてゐた。その男は二十五であつたし、佐太郎は今年十八だつたが、彼女のイメーヂにはさういふ年齢の違ひなどあまり苦にならなかつた。
佐吉のことを考へ出すと、彼女は腹立たしくなつた。自分や父がこれほど心配してゐるのに、なんといふ親不孝な兄だらう、まるで
午後になると、彼女は佐吉の病室へ出かけた。どうしても佐太郎のことを今日のうちに教へて置かねばならぬと思ひ、彼女は父の舎へ寄つて手紙が〔ママ〕受けとつた。兄がどんな顔をしようと、もうかうなつてしまへば仕方がないではないか、また考へて見ると、この手紙を兄に見せるのをどうしてかうも憚つてゐるのか、その理由が判らなかつた。父も年寄になつた今は、一番兄に見せるのが至当であるし、また佐太郎も兄へあててこの手紙を書くべき筈だと考へられるくらゐではないか――もつとも佐太郎と絶えず文通してゐるのは彼女で、なつかしきお姉様と、どの手紙にも冒頭されてあるのが彼女はばかにうれしかつたのであるが――。彼女には父の気持が半ば不可解であつた。が、不可解のまま彼女は何時のまにか父と同じやうな気持になり、知らず識らず兄を憚つてゐたのであつた。彼女は拳を握るやうな思ひで決心した。この上何か兄が腹の立つことを言つたら、その時は兄を思ふさま
兄は相変らず顔をしかめて、眼が充血し、近くへ寄るのも重苦しくなるほどであつたが、しかし昨夜と較べるとずつと気持の柔いでゐることはすぐ判つた。彼は横になつてゐたが、彼女が来ると起き上つた。
「今日はいくらか調子が良いやうだよ。」
昨夜と同じ兄の姿を考へてゐた彼女は、ちよつと面くらつたやうな気になつた。
「さう。」
と彼女は強ひて不機嫌さうに言つて見たが、わけもなく気持は
「お父さん、今日来なかつた?」
「来ないよ。」
「さう……。」と彼女は瞬間ためらひ、「佐太さんからお手紙が来たのよ。」
彼女は二三度いそがしげに瞬き、ちよつと眼を閉ぢてから手紙を出した。
「どれ、どんなこと書いてある。」
彼女は急に胸が切迫して来るのを感じた。何か強いもので全身を押しつけられるやうな心持であつた。佐吉が吸ひ寄せられるやうに手紙を読み出すと、彼女は黙つてゐられなくなり、
「明日、来るのよ。」
と言つたが、佐吉は黙つて読み続けた。
「事務所の方は昨日お父さんが手続きしたからよかつたけど、お母さんはいきなり来て相談するつもりらしいのね。」
佐吉の返事のないのを見ると、彼女は不安になり、また続けて、
「それとも佐太さん独りで来るのかしら、でも早い方がいいわ、病気で社会にゐるのはつらいものね。」
終りまで読むと、そこからまた初めに続いてゐるやうに、佐吉は二三度読み返した。そして一言も物を言はないで考へ込んだ。
「明日幾時頃来るのかしら――。」
と言はうとすると、佐吉の顔が急に歪むやうに見えたが突然、
「うるさい!」
とどなりつけるやうな声を出して、ふゆ子の顔を睨んだ。佐吉の頭の中には荒い風が吹き始めてゐた。
「なんだつて俺にもつと早く知らさなかつたのだ。」
ふゆ子はむつと胸がつまり声が出なかつた。兄の我儘さに腹が立ち、しらない! と投げつけて帰りたくなつた。
「
と彼女は呼吸を弾ませながら言ふと、顔に血が上り、胸の中がひくひくと痙攣した。
「何のために来たか、俺が知るものか。さう言ひに来たのなら何故さう言はなかつたんだ。」
「自分の仕うちを考へたらいいわ。」
「親父は俺を恐れてゐるのか、さうだろう、親父が俺を恐れるのは誰の責任だ。」
「
「ふん。」
佐吉は黙つてふゆ子を睨みつけてゐたが、やがて首を垂れると、
「ああ、また一人この世界へ墜ち込んで来るのか。」
と絶望的な声で呟いて蒲団を被つてしまつた。
「そんなこと言つたつて、しやうがないぢやないの。さうなつてしまつたものを。」
「ふゆ子。お前もだんだんお父さんに似て来たぞ。お前は病気になつた時どんな気がしたえ? その時の気持がいちばん人間らしい気持だぞ。しやうがない、親父は全くいい言葉を発見したもんだ。」
「だつて――。」
「だつてぢやない!」
と、佐吉は怒気と憐憫とを同時に含めた声で言つたが、やがて優しく言つた。
「ふゆ、帰つてくれ。」
彼女は立去りかねるものを感じて、じつと兄の顔を見ながら、
「……帰らない。」
佐吉は暫く黙り込んで、妹の顔を見上げてゐたが、帰れ……と今度は激しく言つた。
「兄さん――。」
と彼女は鼻声になつて言つたが、もう泣いてしまつた。佐吉はくるりと寝返りをうち、彼女の方に背を向けた。そして蒲団の隅をぎゆッと握り、
佐太郎がやつて来たのはあくる日の夕方、もうそろそろ薄暗くなりかけた時分であつた。報せがあるとふゆ子は父と一緒に収容病室へかけつけた。収容風呂からあがつたばかりの佐太郎は、初めて療養所の筒袖を着せられて、しよんぼり立つてゐた。見ちがへるほど丈が大きくなつて、
「佐太さん。」
とふゆ子が呼びかけると、彼は初めて姉に気づいたやうに、はつとした表情であつた。そして微笑を浮べようとしたらしかつたが、それは途中で硬直したやうにただ顔が歪んだだけだつた。これが自分の姉だつたのか、と佐太郎は思つたに違ひないとふゆ子は、自分の眉毛のない顔を思ひ、つと一歩後ずさつた胸の中でじいんと何かが鳴るやうな思ひだつた。
「佐太、来たかの。」
と佐七は続いて声をかけたが、それきり言葉はなかつた。佐吉は待つても出て来なかつた。ふゆ子が呼びに行つても、腕が痛む、と一言言つたきりであつた。「さうか。」と佐七は弱々しく言つて、ふと気づいたやうに「ひはの声がする」とあたりを見廻した。病室ではどこでも小鳥を飼つてゐる。佐七は窓の下に置かれた籠を見つけると、その方へ足を運んだ。
「ほう、なかなかいい鳥ぢや。」
とその前にしやがみ込んで、指先に餌をつけると、籠の外から食はしてやつた。ふゆ子は父の弓なりになつた細い胴を背後から眺めながら、ふと父が泣いてゐるやうに思はれてならなかつた。が、実は彼女の方が今にも泣き出してしまひさうになつてゐた。
脚注
[編集]出典
[編集]- ↑ 光岡良二『いのちの火影』新潮社、1970年、130頁。
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