樺太アイヌ叢話
千德太郞治著
樺太アイヌ叢話 全
發行所 市光堂
樺太土人敎育所敎員講習會紀念(大正八年九月撮影)
講師及講習科目
(土人ノ敎化)朝比奈策太郞講述(國勢調査)立川講師
前列右ヨリ | ||
豐原高等女學校書記 | 折內平三郞氏 | |
同敎論 | 長谷川女史 | |
樺太廳視學官 | 朝比奈策太郞氏 | |
同財務課長 | 石坂豐一氏 | |
樺太廳長官 | 永井金次郞氏 | |
同內務部長 | 相良步氏 | |
豐原支廳長 | 來富慶之氏 | |
樺太廳屬 | 立川正敏氏 | |
豐原高等女學校長 | 太田達人氏 | |
後列右ヨリ(東海岸) | ||
內淵敎育所敎員 | 千德太郞治氏 | |
大谷同敎員 | 平田耕衞氏 | |
小田寒同敎員 | 野村彥一氏 | |
樫保同敎員 | 駒杆氏 | |
富內同敎員 | 伊藤淸勝氏 | |
(西海岸) | ||
多蘭泊同敎員 | 中川又七郞氏 | |
智來同敎員 | 市塚彌一郞氏 | |
久米子舞同敎員 | 菅原勇氏 | |
登富津同敎員 | 山田音五郞氏 |
東海岸ナイブチ 千德太郞治
アイヌ土人惣代 |
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西海岸クメコマイ 山本實兵衞
アイヌ元チシベ事 土人惣代 | ||
東京 小川柳坡
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文學士 安倍叔吾
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西海岸チラフナイ 根泊忠五郞
アイヌ 土人惣代 | |
京都 奧村安太郞
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第一高等學校學生 山本勇造
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東海岸オタサン 坪澤六助
アイヌ元ロコ事 土人惣代 | |
秋田 中川重春
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日日社長 脇田嘉一
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アイヌ土人惣代 オハイベーカ
ボリシヨタコエ |
日日記者 西田靑海
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西海岸ノダサン 野田安之助
アイヌ元シベケネシ事 土人惣代 | ||
廳屬 齋田已之助
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東海岸ロシー、アイヌ
元カントシトイ事 土人惣代 | ||
廳屬 葛西猛干代
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內藤勘太郞 同人長女アイ |
緖言
一、此處に一立木あり、美麗なる數群の鳥が飛び來りて其木に宿り又宿らんとしつゝあり、其宿らんとする立木の根本は別として、鳥宿らんとすれば必ず其枝葉に宿る。本書起稿の目的は之樺太に於て旣に定住され又將來移住すべく樺太を知らんと欲する諸賢の爲め樺太の往昔を記述する意なり。
二、本書は樺太の愛島者諸賢にせめて一世紀前後の事柄にて硏究せられなばと想ひ、アイヌ故老に聞き或は祖父母に尋ね、漸く編纂したるものにして之鳥の宿らんとする處に如何なる枝葉が存在し、如何なる傳說遺跡なぞのあるかを自覺し、「あゝ此處は昔何々のあつた處、何々が能く收れた處」と評すると共に一つの硏究となり得べし。
三、本書は樺太アイヌ語の大半を和譯したり、昔より文學の素養なく太古傳來の遺風を續行し來りしアイヌ故老としての說話なるが故に時代年號等の詳細ならざるを遺憾とす、只アイヌ語の伊達栖原(コタンコロオツタ)伊達栖原とか(ヌチヤヤンバー)露人が渡來した年とか(モシリ、カムイ、イレンカヘトクオツタ)天朝の御聖旨とかを以て標凖語とし其例を引用せしなり。
著者が畏くも 明治の御聖代の恩惠に浴しつゝ習得したる淺學を以て本書の起稿するを恥る、然れ共若しアイヌ硏究の爲め本書をして手にせられるならば幸甚となす。
編者識
序文
明治三十八年日露交戰終局を吿げて樺太島は再び我が帝國の領土に歸するや、內地方面より樺太の風土及び樺太アイヌに關する硏究者續々來島し、直ちにアイヌ家に訪問せられるむきあるも如何にせん世人の周知せられる如く、元より文學の素養なく太古傳來の遺風を續行し來りしアイヌ人として一寸の會見にては、來會諸賢をして充分なる硏究資料を得せしむる途なきは吾人の深く遺憾とする所なり。此の意味に於て余は生を樺太に有乍ら所謂自分の事は自分でなせの志を立て、自から野筆を執つて言語(俗に樺太辯や)誤脫の筆や文書をもわきまえず本書を紀行するに至り宜しく讀者諸賢の御判讀を希ふ次第なり。
世は文明を越えんとして進々文明に向はんとする新世界となり、此の新世界幾多の先進後進の列國は知に富に相競ふて自國の領土を擴張せんとしつゝある。此の大小列國に屬する小國又は一小島には土人が住んで居る。其國々に依りて土人の言語風俗又一樣ならずと雖も我がアイヌは露政當時も自己が古風を守り少しも露風の馴化を受けざるものなり。
然して世界に於ける土人中我アイヌ族は尤も僅少なり、又古來アイヌ人の住めるは北海道千島及び樺太とす、人口僅か二萬人(最近の調査)なり。
不肖明治八年の年四指を折つて北海道に移住し、明治二十八年再び墳墓の地に臨したのである。其當時より我が日本帝國の大業は日進月步國勢の進運は增々進展して日露の開戰となり、我が皇士の向ふ處敵なきの勢力にあり、世界各國をして增々感恐せしむるに至りしなり。然して明治三十八年に於て樺太島を我が皇士の奮鬪に由り大日本帝國の領土に歸し我がアイヌ民族も再びモシリカムイ、イレンカに浴し奉るは誠に感銘に堪えざる次第なり。
時勢の進運に伴ひアイヌ民族も今や此の光輝ある大日本帝國の御聖恩に浴するの馴化を受け舊習を脫せんとしつゝある今日に於て本書を起稿し、永遠樺太アイヌの遺風を參考に供せんとす。
昭和四年
元樺太內淵敎育所敎員
千德太郞治
目次
一 |
二 |
四 |
六 |
七 |
八 |
一〇 |
一〇 |
一一 |
一三 |
一三 |
一五 |
一五 |
一三 |
一六 |
一七 |
一七 |
一八 |
二〇 |
二一 |
二二 |
二三 |
二五 |
二六 |
二七 |
三〇 |
三二 |
三二 |
三三 |
三三 |
三四 |
三五 |
三七 |
四一 |
四二 |
四三 |
四四 |
四四 |
四七 |
五〇 |
五二 |
五二 |
五二 |
五三 |
五三 |
五三 |
五四 |
五五 |
五六 |
五六 |
五七 |
五七 |
五九 |
六〇 |
六一 |
六三 |
六四 |
六六 |
六八 |
六八 |
七〇 |
七四 |
七六 |
七六 |
七七 |
七八 |
八〇 |
八一 |
八一 |
八二 |
八三 |
八四 |
八四 |
八五 |
八五 |
八六 |
八六 |
八七 |
八八 |
八九 |
九一 |
九三 |
九四 |
九四 |
九五 |
九五 |
九六 |
九六 |
九六 |
九六 |
九八 |
九八 |
一〇二 |
一、樺太島南北土人の呼稱
樺太島は昔よりアイヌは、(カラフト)と稱し、北海道アイヌは、「カラツト」と呼び、內地人は樺太と稱す。幕府時代も呼稱は同樣なるも、漢字にて唐太及び樺太と書する者大半に及び、而して復領後は樺太と書するも故なきにあらずして樺太と書しカラフトと呼ぶ。此樺太には古より南北に分ち土人が住んで居た。一は南西より海岸一帶西北ウソロ迄アイヌ人の定住と、南東より東北タライカ迄の海岸一帶とは、何れもアイヌの定住して居たのである。西北ウソロ以北に、ポロコタンと稱する所にレブナイヌ(解)レブンは(渡り)ナイヌはアイヌの意義にして、此のレブナイヌが住んで居ると言ふ。此の渡りアイヌの意義は何れの方面よりの渡來か著者の苦解とする所であるも、何れアイヌ種族の一部と察せられる人種が住んで居り、又東北部タライカ湖の附近及びシシカ川(幌內川)の河畔と、其上流にはアイヌの稱する「オロツコ人」と「ニクブン人」の外に「キーレン人」明治八年迄只一戶存立現在も同樣と想ふが、住んで居る。
露國人は(オロツコ)又はオロチヨン、ギリヤークと呼びアイヌをアイナー又はアイノーと呼べり。往昔西比利亞より韃靼海峽を渡り、樺太土人と貿易し居たりしアイヌの呼稱するチヤンタ又はサンタ人とも言ふ此のチヤンタを露人が稱して前者の如くギリヤークと呼ぶ。
土人の風俗習慣を列記する前に述べて置きたいのは、世上に於ける人類云々に就き北部土人を別としてアイヌ民族に關しては、東西專門家の旣に硏究の步を進められつゝあるを以て、是を專門大家に一任してをき、玆に著者の傳聞せし事とアイヌ故老の傳說とを記するも、何れ確信出來ざる說なれ共二三列記し讀者諸賢の硏究に供するのである。
(一)傳說アイヌ語
フシコオホタ(太古に於て)テエコロ(非常に)イラマシレアン(美しき事)ポンモロマツポ(小女が)アトイオロワ(海より)モヌーワ(漂流して)タンモシリ(此の島に)オホタニヤンマヌイ(漂流した)ネーテ(夫れから)ナーケネインカラヤハカ(何處を見ても)アイヌクリカイキ(人影も)イシヤン(無い)ネアンベクシユ(其故に)マサラカータ(海岸の高い處に)ヤヨチエアンテオカヤン(橫になつて寢て居た)タニボカシノ(間もなく)モサンテ(目がさめて)インカラアナーコ(見た處が)テタラセタシネヘ(白い犬一匹)、タアタアン(其處に居た)ヘンパハート(數日を)アンチ(經て)ウタシバ(互に)ウトヤシカラアン(親しくなつた)タンシネアント(或日)ネヤテタラセタ(其白犬が)ナアケネタカオマン(何處へか行つて)ナニホシビ(直ぐ歸つて來た)トラエヘアンベアヌカラーコ(持つて來たものを見た處が)イカラオルンベ(はた織機具)スイ(又)ニイカハナー(木の皮等を)トラエヘ(持て來た)ネアンベアニ(それを持つて)アハルシシタイキアン(あつしを織りて)アンミー(着た)ウオヤアン(色々な)キムン(山は)イベナー(食物等)アネーテ(食して)オカヤナイネ(居る中に)ウムーレカナハチ(夫婦になつた)ネヤオロワノ(それより)ボーナ(子供が)ネヤセタ(其犬が)ナアケネタカ(何處へか)オマンテ(行つて)クリヘカ(影も)イサン(ない)タアーオロ(それより)ヘトクベ(生れたのか)アイヌネーマヌイ(アイヌ、人間と言ふ事)ネーテ(それで)ネヤ(其の)テタラ、セタネアンベ(白い犬と言うのは)カムヨロケ、ウボ(神の美男子)ポンモロ、マハボネ、アンベ(其の少女と言うのは)カムイ、モロマハボ(神の少女と言ふ事)ヘマカ(終り)
以上の一說はナイブチ(內淵部落)に於て明治四十一年十二月當地の熊祭を終へて九十歲の高齡を以て沒したるケーランケ、アイヌの傳說なり。
彼の一子に七十歲になるイモルトイと言ふ者現代(白濱土人部落)に健存して居る。
(二)露國人曰く(明治三十六年に於て)
アイヌ種族の前身は歐羅巴人であるが熱帶地に居住した關係上自然白色の皮膚が黃色に變じたるものとの說
(三)アイヌは源氏の落武者
アイヌは源氏の落武者の混血種なりと云ふもあり、又一方アイヌは南洋土人の混血だとの說もある。以上の說を言ひ來る理由は、何れも骨格容貌等が相似して居り、風俗習慣も又酷似の點あり。
以上諸說の如くんばアイヌ人をして(アイニ人)と呼稱しては如何と考へられる。第一說に依る傳說は歐洲諸大家の說の如く人類の祖先は猿であるとの說と大同小異なるを想ふ。
(四)義經とアイヌ
エトコタ(昔は)ヤイレ、シユボ(義經の事)タンモシリ、オホタ(此の島に)ヤユイケ(渡來して)アイヌ、ニシパ(アイヌの酋長)チセ、オツタ(家に居る)コホネクニ、ヤイカラ(聟となつた)ヘンパアパー(數年)アンテ(經て)タンシネアント(或日の事)チセオルンウタラ(家人の事)イサマハチカンネ(透を狙い)アイヌチアマハ(アイヌの寶物を)ウフテ(取て)アイヌチシシン(尤も速かの早き舟)オホテ(來りて)アトイイカ(海上)アンベ、ネトン、ネカーネ(一瀉千里の勢ひで)エチボーテ(漕ぎつけた)ネヤケ、セケタ(其後で)チセコロアイヌ(主人が)ホシビワ(歸つて)ヌカラヤイケ(見た處が)チアマハナー(寶物が)チシナー(船も)イサン、ルエアン(無くなつてゐた)タンベク、シユ(それだから)オヤチシ、アニ(別の船で)テーコロアナハシユブアニ(一生懸命に)ノシバヤツカ(追跡したが)エヤイコヤークシテ(力及ばずして)テーコロ、エラムウエンテ(大いに怨を吞んで)チセオホツタ(家に居る)ホシビマヌイ(歸つて來たと言ふ話だ)此の一說に寶物の中には書類があると言ふ傳說あり。
尙著者はかつて北海道沙流に行きたる事あり、沙流郡平取に於て義經神社を建設してあり一日同社を酋長故ベンリ氏の案內にて參拜したる事あり。
二、アイヌ呼稱に就て
アイヌ間には樣とか殿とか言ふ敬語の意味に於て何某アイヌと言ふ語を用ひられ例へば內淵部落のケーランケアイヌ、相濱のバフンケ、アイヌ、同所のシレクアイヌ、小田寒のサルシアイヌ、大谷のハススエ、アイヌ、泊居のサンバクサイヌ、富內のトキヤサイヌ、眞岡のテントルバアイヌ、久春古丹のテンベレ、アイヌ、白浦のフンカアイヌ、と言ふが如し、敬語名詞として多く用いられるなり、又アイヌと云ふ名詞は人間又は人と言ふ意味にも用いらる。例へばタラアイヌ(彼は)タナイヌ(此の人)又はタンアイヌ(此の人)ヘンバ、アイヌ(何人か)タラーワ、アイヌエキ、ヒタカ(向ふより人が來たりしや)等の如し、又婦女子には『マ』を用いられる。例へば眞岡のイトコウンマ、同カネマトンケマ、石狩のサランマ、同サマンマ、相濱のチユサンマ、富內村のカユンケマ、露禮のビラサンケマ、內淵村のシコシコランマと言ふが如く而して上長の貴婦人カパケマ、主婦をチセコロ、マハネク、老婆をバアコ、又はオンネル、マハネク、少女をシユクフ、マハネク、老人をチヤチヤ、又はオンネル、アイヌと云ふ、靑年はシユクフ、オツカヨと呼ぶ。
三、オロツコ人の風俗と其生活狀態
オロツコ人は「トナカイ」馴鹿を使役すると共に其牧畜を盛んにす、又山間の狩獵川海の漁類獸類を捕獲し日常の食用に供す、彼等は「トナカイ」を放牧し居る關係上其餌の豐富なる箇所を選み天幕(魚の皮にて縫ひ造りたる)を張り住家となし暫時其所に住す。而して附近の「トナカイ」餌を取りつくせば又他方面へ轉住するを年中行事として、生活を營むを以て一定の場所に居住する事なく又其捕獵する獸皮等をサンタ人又は露人及び邦人の漁業家等に賣却して日常の生活の費に當てるのである。
又彼等技能としては製革と狩獵である。而して彼等の容貌は一見支那人に類似し至つて薄毛である。頭髮は男性散髮に婦女子は長く編み背に下げてゐる。服裝の上衣は支那人の着用する服の如きものを着し「ズボン」も又同樣にしてトナカイの皮を以て縫ひ作りを以て縫ひ作りたるものを着用す。性格は至つて溫順であり又彼等の往時は耕作する事なきも露領時代は麥粉類を露人の栽培したる馬齡薯等を買求めて食用となせり、或は邦人の經營する漁業に使役され米煙草等を給せられる事あり。
ニクブン人の風俗と生活狀態
四、アイヌ人の風俗と生活狀態
往昔のアイヌ人はニクブン人オロツコ人に比し多毛性にして男性的勇猛の觀あるも性格は至つて溫順である。然れ共一朝事に望めば如何なるものに對しても恐怖を感ぜないものゝ如く猛擊するなれど又非常に服從心の强いものである。オツカヨ(男子)は頭の左右兩耳を標凖として上部に向け直線に前面全部を剃り後部耳の下より後部の周圍全部を長く刈る。又揉上の處を縱一寸巾五分位に短い髮を殘して置く。そして揉上をレツケマと云ふ、「犬皮にて作りたる外套」(セタルシ)、セタオボンベ(犬皮にて縫ひ作りたる股引)多く白犬の皮を用ゐる。セタマトメレ(犬の皮の手袋)イカムハツカ(狐の皮にて作りたる帽子)アザラシ皮又マス、サケ等の魚皮にて作りたる深靴を穿く、以上は何れも婦人の手にて作りたる物にしてそれは何れも冬期の防寒用なり、スマリ(狐)オボカイ(シヤコ鹿)ルシ(皮)そして彼等は腰の右側にイナサク(小刀)を着ける。長さ六寸位より七八寸幅八分乃至一寸位のものであり「マキリ」とも云ふ。此の外チエンケ、マキリもある。長さ三寸幅八分位で根元より刄先迄少しく曲り桶屋等が使用する刄物如きものを下げる。其の用途イナサクは木を削り又は食事の時ナイフの代用に用ひらる。チエンケ、マキリは神樣に捧ぐるイナウ(御幣)を削り又木に穴を穿つに用ひらる。鞘は前のイナサクは木、海馬の皮、アザラシの皮の三種を用ひて作る。その形は恰もサケ、マス、の頭部を上にし尾部を下に垂らした如く魚形體に作り木には樣々の彫刻を施す物なり。
左側の腰にはルヨマハと言ふものを下げる。それはアザラシの皮にて作り長さ八寸幅四寸位の袋にして其中にカヒマハと稱す火打道具を入れたもの又煙草入等を入れ何れも種々の色模樣を施したる綿布又は色糸にて作つたものである。以上何れの物も帶に結び付けてをくのである。此れは少年時代より老年に至る迄男子の外出の場合は此れを携帶す可きものにして常に銳利に磨ぎ置くものであつて、其が何れもアイヌの自作品である。婦女子には別に婦人用としての物有れど別に婦女の部に揭ぐ。
夏の服裝と男子
ニクブン人の如く膝に達する短衣を着し其品質はアハルシ(解)アハは總て草木より製したる糸ルシは皮の意なり、即ち草木の皮にて製糸し織りたるをもつてアハルシと名付く。此れはアイヌ婦人の自織のものである。此のアハルシの着物、綿布等に種々の色糸にて縫ひ施し常に之れを着用す。
五、栖原當時北海道より樺太へ漁業經營の實際
アイヌ人を使役し其の勞金に代(諸物品を以て供給)したる中に木綿類あり、其の木綿類と露西亞人より買求めたる露西亞更紗(アイヌは之をヌチキボウシと言ふ又單にボウシとも言ふ)を以て作りたる着物又はシヤツ等なり、其の外マンジユイミと言ふ物あり。マンジユは(滿洲の意味)イミは(着物)にして一名ケンチイミとも言つてサンタ人より買求めたる綿入れの着物にして冬期に用ひる。以上五種の着類は夏冬兼用とし尙第五種は冬期多く用ひる物にして前記の中にてアイヌ人の死體に使用し得ざる物と使用し得る物とあり。之は葬式の部にて述べん。北部土人の衣服は前記第一種のアハルシを除きたる他四種を用ふるなり。
六、刑罸の略式
ケユフオルシベ(殺人犯)樺太アイヌにして犯罪者はあまり見受ず、今より百年前に久春古丹に於て殺人の一犯罪者ありしを余の祖母其他の老人より聞きたる事を左に記す。
殺人の原因は詳かならざれ共犯罪者に對する刑の判決は先づ部落重なる酋長及び長老者相寄りて裁判を施行し數日にて判決させ以て加害者の死刑を施行する事になつた。其時に及ぶと部落の何人を問はず自意に參觀を許されるので余の祖母も之に參加せしと云其施行法
イシカオルシベ(窃盜犯)是も餘り見受られないものであるが一聞を左に記せん
維新前に一犯罪者有り其判決は例に依り酋長並に長老連が相會して判決を宣す
ウコマトフ(姦通罪)又はマトフオルシベと云ふ、此の姦通罪もあまりない。余はかつて明治二十八年西海岸眞岡に越年せし事あり、其當時に眞岡のアイヌでアリビルンと云ふ者が犯したる事あり、其に對する裁判は非常に判決の至難なものであつた。何故なれば原吿と被吿とが親族であるが故なり、其に附余と共に北海道石狩より復歸したる元白主の酋長ウメオ東山梅尾氏が彼等一方の親族關係上此の辯護に立つ事になつた。氏が出頭す可き其翌春漁業仕込の爲三月北海道に至り不幸にして病に罹り八月札幌病院にて病沒した爲裁判は暫時停止となりしも再び裁判の結果左記の判決がありしなり。
七、婦女子の風俗と夏冬の服裝
マハネク(婦人)頭髮はあごの上兩耳各一寸五分位の處より周圍全部を刈り前面鼻を目標とし頭上の髮を左右に分ける。其頭頂にはヘトムイ(圓形にして天鵞絨其他綿布を以て作りたるもの)スマリルシ(狐皮)ロツセ(木鼠)等の皮類にて作りたるものと二種あり、天鵞絨にて作りたるものには種々の色彩を施し小玉類を附ける。それを載せる是は髮毛の亂れを防ぐ爲なり。
マハネ、クイカム、ハツカ(婦人帽子)と稱して(綿布に綿を入れたる帽子)を外出の時に冠る、ナンチエソエ(無綿又は薄綿を入れたる物にして丁度覆面帽に似たるもの)兩方共頂上に綿を入れたる細長き物を巧に之を組合せ附けるなり。
八、伊達栖原當時のアイヌ人
アイヌ人の近昔即ち伊達栖原當時のアイヌは(六十年前)夏期に北海道より樺太島に年々漁業經營上內地方面より輸入されし米等を勞役に或は物品交換に依り得る位故米等の常食は出來得ない、冬期は殊に交通不便の爲米食を取る事は不可能の狀態であつた。伊達栖原の兩氏が樺太に漁業經營上番家の建物及び漁船漁具等の重要品の保管の爲保管人(邦人にして是等を稱して栖原の番人と云ふ)を樺太に居殘らせ越年させるのである。其關係上番人の食糧其他翌年の分迄保存されてある。それが彼等番人に過分の程度であるが故其米より何分か讓り受けて冬期若干の米食が出來得るのである。讓り受けたる米を植物及び果物に混入して食するのである。
斯くして番人が本島に越年する中に自然アイヌと親しみ又婦女子と關係を結ぶ樣になりて子供を產み現代其混血人が生存して居る。前述の如く番人其他邦人に嫁したる者は內地人同樣に米食には不自由なく生活して居た。又當時の酒は淸酒、濁酒、燒酎等が重なる酒類であつて麥は餘り用ひられなかつた。
九、樺太島―千島の交換
明治八年露國と樺太千島の交換に際し樺太一部のアイヌが北海道へ移住し米飯其他の穀物を常食とするに至り、殘部のアイヌは露人が、パン食の關係上麥粉パン(露人の燒きたるもの)を食するに至れり。
明治八年邦人樺太を退去してより幾年も過ぎずして內地及び北海道方面より漁業者の續々來島し從つて日本領事館も設立され西海岸眞岡附近は邦人の柳谷氏、露國人のセメノフ氏、英國人テンビー氏の兩氏及び邦人の森高氏と共に重に鰊の漁業經營を大々的になしたり。
(一)東海岸にありて
東海岸にはミナプフ(南)の邦人西村氏アイロプの相原氏中部の笹野氏同若山氏及吉村氏等先進を以て來島し、所謂建綱業を經營したのである。それより引績き來島したのは西海岸泊居附近の大內氏及び宮島氏並に岡山氏等と共に米村氏であつた。
(二)久春內附近にて
久春內附近は露人ビーリチ氏邦人の中瀨捨太郞氏と共に又東部の內山吉太氏東海岸の佐々木氏並に林氏等は露政當時の樺太に第一着二着の人々である。漁業權は勿論露政廳が行うものであつた。
前述の如く土人は伊達栖原當時より多少は米食に惠まれて居たのであつたが、露政當時と雖も前記漁業家の受持區域即ち其漁場附近のアイヌ部落を愛護した爲アイヌの衣食には不自由なくパン米麥の食を得られたのである。
一〇、米食の滑𥡴談一靑年
餘言乍ら米飯に附いて一滑𥡴談を記して見よう、邦領當時余の宅にオハコタン(眞縫)のイベサツと言ふ老人が遊びに來て居た其の所へ來りし邦人の一靑年があつた。雜談交す事數時間の後突然彼の靑年は「おいアイヌお前は米の飯を食つた事があるかね」と言つた。老人答へて曰く「お前は何時生れたのかね俺は此の樺太に伊達栖原の頃に來たよ、其時より米の飯を食つてな今腹の中で笑つてらあ」と應戰の一矢を放つた。靑年は無言の儘家を出て行つて仕末つた。斯の老人の應答は非常に功を奏した。此の老人に附いて面白い逸話がある、老人の壯年時代眞縫のオハコタンに於て鱒の燒干を燒く中に一回燒き上げる度に一尾づゝを食し七回燒きたる時は七尾の鱒を食つて居た。そして家外に出で小川の水を呑んだがその川の水を飮み盡したと云ふ豪傑であると、川の水を飮み盡した事は評だけのものであらうが七尾の鱒を食つた事は事實だと云ふ。
又其祖父にチンケウシクと云ふ(今より百年前の人)當時大和船の船員が通行の際に彼が網を張りをきたるを覆したるのに憤慨し船員全部(八名)を彼は相手にし格鬪に及んだが遂に船員全部を擊退したと言ふが、彼は六尺豐かな大男であつたと
一一、酋長の名及び部落
往昔に於ける東西海岸の主要部落、白主をシラヌシと呼んだそれはシシランウシを簡單に呼んだものである。酋長としてウメヲ故東山梅尾氏の先代や西海岸智來部落に現存して居る白藤勘作氏の先代は其部落に於ての人望家であつた。又トマリボケシと呼ぶ所あり、酋長にはシノトシクの先代が居た。現代多蘭泊は邦領に歸して眞岡の酋長として同地の有志(日本名)西崎仁四郞氏があつた。泊居の酋長にはサンバクサイヌ氏又其子のトマケシランケなる者現存す。又ナヨロの酋長にはシルクランケ氏であつた。久春內の酋長としてチウカランケなり。
アシケトク兄弟の部落
オタスス部落にはアシケトク兄弟の住家が二棟あつた。往昔のアイヌは此の來知志湖に部落をなして居たと云ふ事であるが其の名の如く往昔は此所に於て何か事變のあつた如く想へる。何故なれば其地名を解すればライは(死)チシカは(泣いた所)と云ふ意味であるからである。
露政時代は一人も此所に住んで居なかつたのであるが邦領に歸して再び人の居住する樣になつたのである。ライチシの湖には種々の魚類棲息し春秋には種々の鳥類が可成り居る。又此の湖は東海岸內淵の白鳥湖とは姉妹湖であると云ふ、ウソロには露政時代は廿戶位の部落があつた。露國人ベーレチ氏は此所の殿樣の樣である。北海道凾館より多くの邦人漁夫を每年四月中旬雇ひ入れる。昆布や鰊の採取には朝鮮人を使用してゐる。彼は相當の經營をやつて居た。勿論アイヌも其部下のもとに使役されてゐたのである。此の部落の酋長にはチエトイカニシプニと云ふ有力者が居る。
以上樺太南部より西北部北方のウソロ迄を記述したるものであつてウソロ以北にポロコタンと稱する處には、レプナイヌと呼稱するアイヌが住んで居るが彼等はウソロアイヌと血族關係を持つて居ると云ふ。
一二、明治三十二年露人の暴行
此の話はコモシラロロのチウカランケ翁が鰊漁業の爲に北コモシラロロに移つてからの出來事である。明治三十二年頃チウカランケ翁には本妻と妾の二人を持つて居たのである。その本妻はウトンカラと云ふて元はポロアンドマリ大泊の有力者の娘である。妾は名寄のルルクランケの姪である。其當時コモシラロロには翁の家一棟よりなかつた。或る日家內一同漁業に出掛けた。其留守番の任に當つたのは翁の妾であつたが、夕景頃皆が歸宅して家に入らんと扉を開けたが誰一人として家內に入る者なく只一同が驚きの眼を輝かせ居た。それは想掛なき兇事が出來て居たからである。誰一人として發言する者もなく皆一樣に近寄り見れば、翁の妾が無慘にも婦人用の小刀を右手に持つた儘哀れな最後を遂げて居たのである。彼女は可成小刀にて抵抗を續けたらしく翁は强い嘆きに擊れたのであつたが、悲しみの中に葬儀を終へたのである。それから間もなくしてバイカハサブシ、コモシラロロの次の小川にして其當時は(米林伊三郞氏の第一漁業場所附近)其の川の奧より一人の露人が姿を現した。此の場合翁は彼が正しく暴行者であらうと翁は彼を待ち受て居た。彼の露人は麥粉か何かを入れた袋と色々と背負て久春內方面へ向つて行くのであつた。翁はそれと知り直ちに村田銃に充彈し一目散に彼を追た。翁は彼に近附や、先日我が留守に家に侵入し妾を慘殺したはお前だらう。今茲で怨みの一彈を見舞つてやるから覺悟しろ、と銃口を彼に向けたので彼は慌てゝ、我は其如き惡行を犯した事はない其れは人違ひである何卒命を助けて下さる樣、と平身低頭に及んだ。而し怒れる翁は其れを聞き入れない、直ちに銃の引金に指を掛けるとドンと一聲彼は其處に打倒れて仕舞つた。斯くして其死體を、ニオーナイボ、コモシラロロより久春內續きの小川より約三丁程北部に當る海岸高地に埋たのである。殺害された妾の弟で翁の甥に當る身長六尺近い大男にして、ニシトランケと云ふ者現にライチシカに居る。
一三、アイヌの住家と生活狀態
アイヌ等の越年の家は穴居である。每年秋に至れば夏期の家より冬期の家に轉居するのである。此の土の家は大さ二間半或は三間半位なり。三間半位の四方を、又地面より四尺位の深さに掘下げ、周圍は、木又は板を以て圍ふ、屋根はタル木を列べ、其上に草や木を覆ひ其上に土を積んで造る。入口は屋根の下部に作り、階段を附けて出入する。窓は屋根の後部に設ける。家の內部入口の左端には、ヘツツイを設け暖を取り、又煮焚の用をなす。中央の入口に接したる所に、小さな爐を設く、ござを敷きて座敷きとする。入口左翼が主人の席となつてゐる。明治三十四年頃始めて露西亞式の丸太造りの家がアイヌ等仲間に建設される樣に成つた。之を越年の家として夏期も住むなり。
一四、夏の住家と其構造及建築法
夏の家は通常間口三間乃至四間位廣きは四間四方高さ五尺位とし軒に達する四本の柱(俗に掘立家)を立てて各柱の間には大木を割り柱の長さ位の板となし、之を立て外部を木皮又は草にて圍ふ、何れも木釘を用ふ。
上張の如きは斧にて巧みに造る、又斧の削り目を揃ふるを以て上手と云ふなり。
斯くて家の外側が出來上り、次に屋根の骨組を地上で組立タルキ等を附ける。終りとなれば、村の人々參集し組立たる屋根を其儘持上げて、前の出來上りたる周圍に之を組合せる。斯くして一棟の家の骨組が出來れば屋根を葺くのである。其材料はエゾ松の最も大なるものゝ生木の皮を地上より、二丈乃至二丈五尺位の高さに剝ぎ取る。之を以て屋根を葺く、其上に草を掛ける。之れにも木釘を用ふ。斯くて家の外部は出來上る。
今度は家の內部である。內部床の中央の左右には、床上高さ一尺位幅五尺長さ家の兩隅に達する位の場所を設ける、之れは寢臺用である。正面に小窓を設ける。之を神佛に捧げる、器物を出し入れする爲のものである。アイヌ等は家の後面に穢物を捨てる事を忌ふのは此の故である。又大家になれば入口中央の左右に爐を設けてある。內部の周圍には色彩を施したるござを敷き依つて內部は構成される。斯くて、諸々の配置である窓としては煙出し兼用の空窓がある。寢臺には左翼の中央を主人の座席其左が妻子右の寢臺は客間とし其隅が寶物又は家神の安置所とされて居る。
一五、樺太アイヌの重要果實
果實を稱してその大半はトレヘと云ふ
ニイトレヘ――木の實
ニフンニトレヘ――ならの木の實
シケレバニトレヘ――シコロの木の實
ノンニトレヘ――五葉松の實
ウンチニトレヘ――サンチンの實
ララマニトレヘ――オンコの木の實
エタカイニトレヘ――イチゴ
カハカハ――草の實(色紅、食すればかりかりと云ふ)
チフトレー――山ブドウ(黑色秋期產す名有り)
サハトレヘ――山ブドウに似たもの
エノノカニトレヘ――通稱フレツプ
フウトレヘ――通稱アキヤナフレツプ
エチイチヤラ――通稱アタマハゲ
ニイボコニトレヘ――右の果實に似て小なり
以上は日常の食用として重要果實なり、其他數種の果實あれ共餘り用ひられず。又之等の果實を夏秋採取し其中保存可能の物を貯藏し來客あれば是を調製して提供し又自家の食用となす。
一六、久春內に於て露人の亂暴
明治初年の頃久春內に於て日露の衝突が起きた。アイヌにして其原因を知りたる者は無けれど、露國人は亂暴にも會所前の役人三名を捕縛して露人家屋に監禁して仕舞つた。恐ろしい事變が起るのであらうと想つて居た所夜になつて、小使が辨當差入に來た。其家は普通の露人家屋なるが故に、窓の附近で聲高に話しをすれば聞えるのであるが、彼の小使は差入終つて直ちに家外に出て聲高に單歌を唱ひ始めた。勿論何を歌つたか露人等の知り得る筈がない。私は時々會所へ行く事があつたので其小使が唱つた歌の意味を知る事が出來た。其意味は次の樣である。
「何も落膽するな知らせてやつた。あさつて侍が來る」こうした意味の歌であつた。一方會所では大忙ぎ飛脚を其夜の中にアイヌ二人と小使一名の三人が東白浦迄急行して翌日直ぐ歸つて來た。榮濱迄報ず可きなれど、餘り長くなるが爲白浦とワーレの會所に止たのである。翌日侍六名が刀を二本づゝ差してやつて來た。何んだか刀が鞘の中で早く出たい露人を切りたいと呼んで居る樣に想はれた、其侍達は東白浦より山道を辿てやつて來て直ちに露官の宅に押入り上り込で、早くも一人の侍は刀を拔かんとして他の侍が止めた。侍達は何程か怒り拔いて、居たらしく其れも言葉の通じない事にもあらうが其露人の中に日本語を少しく解せる者があつて、彼の捕縛者を皆歸したので無事に濟んだ。
其後話を聞いた所此の事件が落着しなかつたら、南部樺太の詰所役人全部集合し事に當ると云ふ話であつた。
此の事件も事件なれど私の最も感心したのは、彼の小使さんであつた、辨當差入後家外に出で歌で報吿するとは感心な人だとアイヌ仲間の評話なり。此話は明治三十二年六十歲のアイヌ老人久春內の酋長チウカランケの實見實話である。
一七、海馬は西海岸に多し
海馬は西海岸に多く又海馬島は西海岸眞岡に面したる小島にして此處に多く、生殖するを以て其名あり。往時マウカ附近のアイヌ人が每年、年中行事の一として年に二回春秋「バイセン」と稱する大形の漁船にして、百五十石位積載する船に三四十人位乘込み海馬獵に出掛るので、其都度、滿船し歸航するのである。而して、其捕獲したる物を全部各〻に配當するなり、其肉は鹽付となし油と共に食す。
邦領以來彼の地に邦人の村落を設けられ從つて、海馬の稀薄たるを以て漸次捕獲するものなしと云ふ、此海馬は西海岸のアイヌ人の重用食肉となしたり。西海岸には現在土人の敎育所としては「多蘭泊」と「智來」で有る。樺太廳の保護の基に指導宜きを以て、敎育の進步增々見るべきもの有りて兒童の成績も今では、內地兒童と大差なきに至るなり。
一八、東海岸のアザラシ類
東海岸のアイヌ人はアザラシ類を食用とす。アザラシ類を總名して「カムイ」と云ふ。カムイの種類、ボロホはアザラシの大なる物にして大なるは、八九尺位ある。多く氷上二里以上も沖合に徒步してゐる。往昔は銃を用ゐずキテ(もり)一寸五分位にして竿の先に付ける長さ一丈位の長き竿を何本も、つなぐ其場所によつて長短あれ共大凡アザラシの居所に達する處迄之を、つなぎ其先にはキテ俗にもりと云ふを付け、アザラシ目掛て突入すれば皮の間にて止め有るを以て其皮綱を引寄て、アザラシを捕獲するのである。二アムシベは前者の子にして親子共に斑點なし、三バアクイ前者に比し少しく小さく斑點あつて別種類なり、四ボンベは三者の子なり。右二、三、四、は五月頃舟に乘て捕獲す。五オンネカムイは別種類にして斑點なし、大は五六尺位、六コヌシベは五者の子にて毛は、毛糸に造り然して、一二者は靴の底皮にす、三者は靴の上皮に用いる、又婦人用の外套にも用ゆるなり。
其他の海獸あれ共東海岸に於ては至つて稀にして右の海獸は東海岸のアイヌ人が食用に供する、何れも肉は鹽付となし食す、又皮及油等を用ゐるなり。
一九、一結婚、二離婚、三誕生、四葬儀
アイヌ人の結婚は、男子は十七八歲、女子は十五六歲位の年齡(以上)は早婚者である。大凡は二十歲位より、女子は十七八歲に達すれば結婚するを通常とす。又結婚の一例を述べんに先づ嫁入、聟入の二ツに分け、嫁入の際は新郞方の兩親の一人又は近親者が新婦の宅に至り兩親に結婚を申込む。而して兩親の承護を受くる後新郞方より、刀劍及鐔、滿洲錦等の物を新婦へ贈る。其後新郞が兩親又は近親者と同伴して新婦方に至り山海の珍味で御馳走を受け其夜同所に一夜の夢を結び二三日を經て新郞、新婦が、新郞宅に至るを以て嫁入が濟み終生の夫婦となるのである。次は聟入の際は前と反對に今度は新婦の兩親又は近親者が新郞方に至り申込む。併して後に贈物(滿洲錦)を除き、新郞方へ贈る。其後新婦が兩親又は近親者と新郞方に同道なし一同は種々の御馳走に惠まれ其夜は同所に一同は宿し、新郞新婦が一夜の夢を結ばれ二三日宿りて新婦宅に歸るのである。又之はチレシケマハ(內地にて結名付の事)と稱するあれ共是は幼時其子等の(兩親)間にて緣を結ばれる故に小供の兩者生長するに從ひ婚緣を欲せざるを以て大半は解約する事あり。以上の如く幼少時代の婚約は解約する事あるも、靑年時代の婚約は三者合意上の婚約なるが故に大抵成立する。從つて、家庭も圓滿である。又ウオスラ離婚も稀なり、樺太アイヌは文化に馴れざる關係か人情に深い。從つて、離婚者も稀である。又色情に依る犯行者も稀にして、樺太島にては維新此方アイヌ間の殺人犯は一人もなく、又は色情による姦通罪二三と色情に依る自殺者男二三あるのみなり。又飮酒に付いて左に述ぶ。前記に述べたる如く家道具の內に酒具も備へ有り又アイヌの大半は酒を好むが、往時のアイヌは其當時酒の拂底の關係上(酒の規律)がよい。又前述の如く結婚式には酒を用いる事なく山海の珍味を以て簡單に、結婚式が終るので有るなり、往昔より尙今日迄酒を用いらるゝ儀式は(熊祭)(熊贈り)(先祖祭)又は(年祭)及(葬式)との儀式にのみ酒を用いらるゝ、然して(葬式)に酒を用いるは最近なり。
熊祭をイナウカラ又はヨーマンテと云ふなり
先祖祭又は年祭をシンヌラツパと云ふなり
葬式をウタラアシンと云ふ、右の儀式に酒を用ゆ。アイヌ人の生れと死、人生一度喜びあれば必ず、悲歎ありアイヌには生れの祝ひを山海の珍味を以て迎ふるは結婚式の如く又死者あれば尤も鄭重に之を葬るなり、葬禮をウタラアシンと云ふ。一家に死者あれば其屍を家の一旦高き所に(平素主人)の寢所に足を表に、戶口の方に向け頭部を家の奧の方に向け長く置く、直ちに假裝をさす、顏面には綿布を以て包纏し其間に親族知己に報ずる。而して、親族知己が遠近にかゝはらず集合すれば先喪主、主婦が泣きながら死亡の顚末を述ぶるなり。左すれば來會者も泣きながら死者の生前の事柄を答ふ暫し、斯して一の應答を終へる、之に遲れ來る者あれば喪主又是に應答す。是は多く婦人を以て行なふも壯年以上の男子も加ふ。式終れば第一婦人は死者の服裝の凖備(總て新調)に收掛るなり。又男子は棺、其他墓標等に取係る。(ニイカラ)棺箱又ボロニ棺を埋其上に載せたる種々の彫刻を施し男子の作による物である。之等男女の作製に依る仕事は大凡二三日より五六日間に終へる。然して此間に遠方の知己が打寄近親者遠里なれば其來會を五六日間を待、往時は交通不便なるが故に五六日間を待ち夫れ以上は待事なく出棺に掛るのである。斯くして總ての凖備大牛終れば、通夜(オシリコトーノ)を營む。此通夜にはハウキ歷史物語に節を付けたるを語り、五本糸の三味線(トンコリ)を引く。而して此三味線は平素は用いる事なく、悲哀の慰に之を用ひ誠に小美音の樂器である。通夜が濟み愈々出棺の朝、太陽が未だ出昇らざる內に、前に述べたる如く喪主が最後の御別れとして泣く。親族知己又之に應じて泣ながら御別れの辭を述ぶ。終りて、屍體の服裝を正裝に改め生前同樣として、入棺するので有る。尙入棺の際は刀劍一、椀一、火打及煙草入の外、生前使用の物一通りを屍體の脇に入れる。此の入棺の際は必ず死者の近親者が自ら手を下す事で有るなり。
入棺式終りて老若男女が集つて、チカリリベ、多く山間の珍味を各人に供し酒を共に各人に進ず。哀別式と食事終れば出棺に掛る。棺は前列より少しく遲れ續いて親族知己、老人婦女子は最後に墓地に向ふのである。墓地に至れば棺を下し暫時休息し土を掘り終れば棺を納め歸宅するのである。其歸道ルウトンバ道を止るを行ふ、之は死者の此村に再び來らざるを示したるものにて、路邊の木又草を少しく道路に橫たへ置くのである。而して家に歸りて皆の慰勞を謝する爲め酒と種々の御馳走をなし近親者又は親密の知己を殘し一同歸宅す、葬式は之で終了するので有る。
二〇、ノツトロ(西能登呂)
ノツトロの意義ノツは岬、トロは所の意義なり。例へば東部に於けるノツサン、西部のノタツサン野田寒、久春內以北のノツサンと云ふが如く、サンは突出と云ふ意味なり、此ノツトロは明治初年頃はアイヌの住居した所なるも明治八年附近のアイヌと共に北海道へ移住せしより、露人は此處に燈明臺を設け明治二十八年頃は此處に燈臺守衞兵(露人)が五六人居た。
余は明治二十八年八月北海道石狩より十五人の團體にて(皆家族と共に)二隻の大形漁船に分乘して、北海道宗谷に四五日滯在、此宗谷には、元明治八年樺太南部土人が、北海道へ移住の途同年此處に越年したる關係上大部の舊知を有したる爲歸島に際し、久しぶりにて此處に、滯在し好日和を見て出帆する事にしたので有る。併して愈々好日和になつたので同地を出帆し夕方に此ノツトロ岬に着し同夜此處に野宿したので有る。此ノツトロに着くと皆が物珍しく海岸を步き廻る內、大きい海馬が三頭濱邊に死んで居た。何にも當時は無人の個所で有つたから誰も拾ふ者なく數日を經たる物と見え皮肉共に腐敗して有つた。
翌日は此處に滯在し其夜僅か長さ五間ばかりの小さな曳網を引いた處が(キウリ)(コマイ)(カヂカ)等の小魚が澤山取れた、皆が大喜びで早速調理して食べた。とても北海道では長さ五間ばかりの網では魚を獲ると云ふ事は吾々の居た石狩では夢にも見られぬ事で有る。併して吾等は、十五人の團體墓參の旅行免狀を時の陸奧外務大臣より各一枚づゝ下附を請け携帶したので有る。其翌日になつて燈臺守衞隊長外二人が來て免狀の有無を尋問した。早速團長東山梅尾氏の免狀より順に調べ終へて、夫れで宜しいから目的の地に到着せよと。同時に、カルサーコフの長官に本旅行券を提出し、更に長官の署印を求めらるべし、と親切に敎へて吳れたので皆も異人で有るが仲々物が判つてゐる、と感心した者もゐた。
二一、リヤトマリ、ナイチヤ(利屋泊と內砂)
リヤトマリ及ナイチヤには往昔アイヌが住んで居た所で有る。此リヤトマリの地名を解すれば越年の澗と云ふ(入江)と云ふ意味、往昔のアイヌは冬期此處に越年し夏期は內沙に(ナイチヤの意味)即ち川邊の村にて漁するので有る。併して此處のアイヌも北海道に移住したので有る。此ナイチヤの有力者には領有後知來(西海岸)の元總代にて故苗澤久平氏で有る。
露領當時は此附近に、北海道小樽の巨商にて岡田氏が漁業を經營して居た。
スヽヤ(鈴谷)
スヽヤの解(スヽは柳)昔此所は柳の密林で有る處から命名したので有る。又此處の沖には冬期鰈いが澤山棲息してゐた。昔此處の土人は冬期氷に穴を穿ち(ヤス)魚を突く具を以て氷穴に集來するを見て之を突き取るので、スヽヤカパリウ、鈴谷鰈として有名で有る。此スヽヤの舊家に柳凾才次郞氏(來智知)柳瀨西平氏及柳瀨野助氏(多蘭泊)等が現存して居るなり。
二二、エンルモロ(三の澤)
エンルモロの解、海岸は入江となつて岬を週るの意義なり。昔は小部落で有つた。昔より鰊の群來場で有り露領時代露人の漁場と思ふが此處に有つたのみで此處の元の舊家としては、明治八年北海道へ移住したスウカ、ナリ、アイヌ、日本名遠藤芳造氏は此處の生で有る。氏は北海道移住地、對雁村小學校に入り同校卒業補習科に入り後助敎員として同校に採用せられ後辭して、實業界に入り本島領有後、西海岸知來に來り歲四十二歲にして病沒したが惜しい人物で有つた。
二三、チシナイボ又トマユナイ(二の澤)
チンナイボは(解)往昔のアイヌは此奧より舟の材料を下げたるを以て命名したので有る。此處は昔鰊の集來地で有り、露領時代は僅か漁場が三棟より無く內に、露人も一ケ所有つた。此處のアイヌも明治八年北海道に移住したので有る。此部落の元の奮家として西海岸知來の故苗穗酉之助氏(舊名シカルアイヌ)と其實弟千山國六氏(白濱)の二人は此處の有力者で有る。右二人の父は北海道石狩に於て親族間の些細の事より明治二十八年の夏、自宅に於て切腹したので有るが、七十歲位の老人で有り實に勇しい人で有つた。而して露領時代は此處を、ウトロイパアチと呼稱したので有る。
二四、ウンラ(一の澤)
ウンラの解、ウンタの變訛で有る。此處は昔何か珍しき物(多くは食物)でも有れば必ず隣や近所へ少しにても分與するを例とす。其ウンタの轉訛で有る。此處も昔アイヌの小部落で有る。此處の舊家は雲井卯助氏(現白濱部落に居る)四五年前に病沒した。又雲井高造氏等が此處の有力者で有つた。併して露領時代は露人の經營せし漁場一ケ所此一、二、三の澤の漁場の經營者は露人の漁業家として、久春內の勢力家ベーレチ氏と相對するカレマレンコ氏なり、又領有以後は印、武井氏が鰊經營し年々豐漁場として知られてゐる。武井氏の漁場は現一の澤に有り。
二五、ハツカトマリ(現山下町)
現山下町は土名ハツカ、トマリで有る。其地名を譯すればハツカ(帽)トマリ(入江)(澗)等を云ひ即ち帽子の樣な入江と云ふ名稱で有る。往昔、久春古丹と稱するは此地なるも、クシユンコタンを解譯すればクシユン(川の向ふ)クシ(山越)コタンは國又は村即ち前者は川向ふの村、後者は山越の村との二ツに、解する事が出來る。故にハツカトマリ現山下町は往昔運上屋の所在地で有る。土人部落中の大部落なり。
併して久春古丹の呼稱は鈴谷より大泊間の全體の總地名で有る。現山下町を露領時代はカラサアコウと呼稱し露政廳の所在地である。而して此部落の酋長にはトレバンケアイヌなり。現久春內に居るサツセル、シク、日本名太田幸之進氏は酋長の三男なり、明治八年樺太引揚の際露兵は此山下町の山の上にて禮砲をして敬意を表したと余の祖母が話た。
(一)長官ズウヤーキン氏の狼狽
明治三十七年六月の頃余はアイヌ部落へ下附すべき、スヒーリタ(酒類)を購入すべく、當時酒類は甚だ嚴重にして各露人の村落には四人に對し、ネテーリ一週間分として、アテン、メール邦量約三合五勺を部落總代が一週間度に部落人を代表し部落監視官の證明を得て再び長官の署印を受け、官設商店より現品を受取るので有るが余も一部落を代表(土人に下附するは量に制限がない)ので受けるに長官官舍に至りし時、其折り長官は双眼鏡を以て邃く室內より出で來り、大變で有る今沖合を双眼鏡に依り遠望せしに、日本の軍艦が二三隻此沖に見える、早く各官舍へ電話を以て退却の凖備をする樣旣に通達したので有つた。
折しも居合せた一土官が長官の双眼鏡を一寸拜借して沖合を暫く見て居たが彼曰く何だか船體は判然しないが、白い帆の樣な物が高く見える。能く見渡せば軍艦に有らずして白帆に風をふくらし中知床方面に走つて居る密漁者の二、三の帆前船で有つたのが判明したので其處に居合せた人々は大笑ひし、一滑𥡴を演ぜられたので有る。併して前に通知して退却凖備の馬車に積載したる荷物は再び元へと運ばれた。一時は大騷ぎで有つたが皆も大事に至らずして一安心したので有つた。
明治三十八年日本軍が上陸の際は高位の者は皆ナイラニ(大澤)又ナダーリネ(軍川)に旣に退却せしも殘留の露人は非常に狼狽したものと思ふ。同年八月の頃當時此沖に沈沒したるノーウエク艦の艦長マキシム氏外水兵二十名、負傷兵が居て水兵の大部三百何十名は、陸路榮濱當時は柏濱ドブキーを經て內淵には露兵官舍あるを以て同所に四日程滯在して北方敷香方面に向つたので有る。
(二)栖原當時のハツカトマリ現山下町に於る漁業の狀況
明治初年の栖原氏の漁業經營當時、此ハツカトマリには何十個の鰊釜を備付、鰊の大漁業に從事したのである。當時の事業として大したもので有り從つて、設備も完全であつた。
二六、トマリオンナイ(楠溪町)
栖原當時には運上屋あり、此處には番人(幹部)が越年して居る。或年露人が此の運上屋に來り煙草反物等の物品を掠奪した。越年の事でも有り二人や三人の人では如何ともする事も出來ず其儘にし置たりと故老の話しで有つた。此處の酋長はチコヒロ日本名木下知古廣氏で有る。又有志には相馬カシンカ氏も有名な人物で有つた。トマリオンナイの解(入江)オンナイ(中)內との意義で有る。此處もハツカトマリと共に伊達、栖原の大漁場で有る。時の酋長木下知古廣氏は、明治八年、樺太南部アイヌ現大泊支廳管內全部、眞岡支廳管內の一部、豐原支廳管內、內淵榮濱全部人口(八百餘人と云ふ)の總頭酋長となり補佐には、「白主」の東山梅尾氏、次は眞岡の西崎仁四郞氏(何れも故人)併して木下知古廣氏は總頭酋長となり、時の北海道開拓使長官黑田淸隆閣下に引率せられ墳墓の地を前述の如く露人の敬砲を聞きながら、汽船玄武丸(當時の軍艦)だと云ふ木船の汽船で有るに乘り込て此久春古丹を後にして遠く北海道移住民として出航したので有る。
北海道に移住して酋長木下知古廣氏外大半が天然痘とコレラ病の爲めに沒す
明治八年樺太島を放れ同年北海道宗谷に越年し、翌九年再び小樽手宮に着す。當時の小樽は微々たる一寒村(漁村)で有つた。此小樽に着くと間もなく、元トマリオンナイ楠溪町の酋長故トマリカランケアイヌが死亡したので、其靈を祀るにスマセヘロンパ石碑を此山の上に建立されたと云ふ。
此の石碑を立てると云ふ事は餘程の事情がなければ、其當時は建て無かつたものだ。併して其後手宮附近で見なれぬ石碑を發掘し一時新聞紙上等に記載されたが若しや其の酋長の石碑では無からうかと思はれた。而して皆は此の手宮に居住するものと思つて居る內再び北海道石狩に行く事となり、汽船にて石狩川を上り、對鴈村と云ふ處(札幌郡)に定住する事に確定し同川邊に、八百餘人が假小屋を設け暫く此處に居る事と成た。此の對鴈村に吾々より先に定住せし邦人が四五棟あつた、畠中氏渡邊氏本間氏立花氏で有つて和人と土人との併合村で有る。此村に余の亡父が對鴈村と江別村との兩村戶長を明治十三年に拜命した。初期戶長として御奉公した。併して八百餘の移住民で有つたので其當時は非常な賑かで有つた。
又、天朝より金三十餘萬圓を下賜せられ到着翌年より住宅は建築し又道路の開鑿及敎育所の設置事務所の建設等は直ちに出來非常な忙殺を極めたので有る。其當時舊樺太アイヌ總取締役として上野正氏が時の政府の命を受け專心土人救助の爲め盡されたので有る。氏は故黑田北海道長官とは同鄕の士で有り樺太領有當時(アリキサンドル)迄通譯官として來島されたと聞いたが面會せざりしを遺憾に思ふなり。其後氏は鄕里鹿兒島に歸省されて沒せられたと聞く。誠に痛歎に堪へざる次第で有る。
明治十二年に小學校が建設せられ土地の開拓と共に敎育方面に重きを置れ、當時の學校には對鴈學校當時の北海道長官黑田閣下の直筆にて、「富貴者苦學在勞力」と書されたる額が揭げられて有る。
對鴈村に於ける舊樺太土人の事業
繼營諸建築は荒々終へ各戶に宅地畑地を與へられ同時に製綱所を設置して、婦女の製糸及製綱事業をなさしめ、學校の校庭には麻其他野菜等を生徒に耕作せしめ兒童をして農事思想を涵養せしめたので有る。又川には俗稱男場所女場所との二ケ所(鮭場)が對鴈村に在り石狩川の下に一ケ所、河口に一ケ所何れも鮭鱒の漁場にして、以上四ケ所の外海には「知狩」と稱する處に、沖地曳網(長サ千二百間位にして人員も六十人以上百人內外の人員を要する)が一統との五ケ所は鮭鱒の地曳網が有り、又鰊網としては厚田郡厚田村に中番屋、崎番屋、別狩の三ケ所で都合八箇所の大漁場が有る。併して各漁場には邦人の主任とアイヌ酋長一人づゝと船頭各一人は邦人で其他の役員は土人中より各漁場に配置するなり。
對鴈村に於ける土人の組合組織す
前記の宅地畑地の外八ケ所の漁場と、天朝より御下賜の金三拾餘萬圓を基本として共救組合なるを組織し、事業に從事したので有るが事業も、順境に行きしも其後不幸にして、疱瘡とコレラの惡病に罹り旣に半數近くの人が一時に病沒したので有る。此時に大酋長木下智古廣氏を始め(相馬)カシンカ等の大人物も死亡されたので有る。
此死亡者に對し組合にては對鴈村江別村の兩村共同墓地に偉大なる石碑を、有名なる僧侶の筆に依り此處に建設され、舊樺太土人四百名の英靈を上野正氏の名に依り祀られたので有る。余は大正十一年八月墓地を參拜した。誠に立派な石碑で有つた。
共救組合の解散
組合は悲境に陷り餘儀なく解散するの止むなきに立至つたので、組合共有財產の全部を札幌支廳に一任し本島領有されると同時に組合員は全部(四百餘人)復歸して一部は新部落に現智來部落を設け一部は多蘭泊及落帆等の土人部落其他に定住するに至りしなり。
其後北海道廳長官と樺太廳長官永井閣下との交涉に依り該共有財產を受繼し之を賣却したる代金を昭和二年度に於て組合員各戶に其配當金を受領したのである。以上は本島に於ける南部土人に關係する者のみ。
前記トマリオンナイ(現楠溪町)と山下町との間楠溪町に近き山の高地、海岸に面したる所に、裁判所が有つた。露政當時は此楠溪町に邦人の經營に係る大商店高村權四郞商店有り、山下町には岡田商店の外に商店長谷川等で以上全部で五商店が有つた。露人は申すに及ず渡來邦人の爲め便利を計つて居た。梅溪町の少しく奧へ行くと左側の少し高き所に日本領事館が有つた。此楠溪町の平野と山下町の山上平地に於て明治三十七年の春頃露西亞の義勇兵が荐りに練兵して居た者なり。海面には長く沖合に突出せる棧橋が有つた。諸船舶の出入度に此棧橋より荷物の上げ下ろし人員等の登降は此處に行はれたので有る。又船舶の入港の際は醫者と通譯とは必ず、本船に至り客の檢察を行ふ。兎に角此カルサーコヴは露政當時は堂々たる市街地で有つた。
二七、ポロアントマリ(現大泊)
往昔のアイヌ部落で有る此部落のアイヌも北海道に移住し酋長にユウトルマカアイヌやテンベレアイヌ、後者は移住當時八十歲の翁で有つた健氣なおぢいさんで有つた。又感心に思つたのは余の少年時代に前述の對鴈村の河に於て鮭漁場、女場所に鮭が澤山漁獲された河邊に其鮭を積まれて有つた。其處へ翁が杖をついて、やつて來て、其杖を以て、一ツニツと二十迄數へた。夫れは日本の呼稱で有つたから、其當時の老人として能覺えたものと感服した。此の老人はポロアントマリの舊の酋長で有つて其後胤には樺村勇左衛門對鴈村に於ける共救組合の幹部にして八年前に久春內(コモシラロロ)に於て沒せられた。
其の長男勇次郞が西海岸智來に現存して居る。露領當時は露人部落で有り牧畜專業の處で有る。
著者は、大泊より中知床とアイルフ(現稱愛郞)間の事情に精通し居らざれば地名に依り、往昔の酋長又は部落の有力者を略記する事とせり。
現稱、胡蝶別はコチオホイペツにして(解)コチオホイは、深き形狀の意味、ペツは河即ち、深形狀を有したる川又河の意なり。
往昔此の部落の有力者として小蝶邊吉助氏、領有後本島に來り老朽にして相濱部落に沒命したり。長男吉五郞、次男助八の二人が富內郡落帆部落に現存して居る。
併して此小蝶邊吉助も對鴈村に於いて、共救組合の幹部で有つた。ヤオマンペツと云ふ、處が有る(解)ヤオマン(陸行く川)の意義なり。
此の所は嘗て明治三十七八年の戰功に依り勳八等を賜はりたる山邊安之助氏は此の部落の人で有る。
(一)皆別(ミナベツ)
皆別と云ふ處にも昔アイヌ部落である。此地のアイヌも明治八年北海道に移住したので有るが中にも日本名、南淵卯之助と云ふ人が居た。彼は對鴈學校を卒業し、札幌師範學校を卒業して間も無く死亡したがアイヌとしては仲々秀才の方で有つたのに惜しい人物で有つた。
又今一人、津山久吉と云ふ人が居たが此人も前者と同窓生で有つたが三四年遲れて、不幸にも石狩河口を小舟にて渡らんとせしに、舟は顚覆して溢死(溺死)されたが兩者共惜しい人たちで有つた。
二八、シレトホ(中知床)
シレトホの解(岬の意にして又岬を廻ると云ふ意味にも用ひらる)此のシレトホ附近にも昔アイヌが住んで居た。旣に前に申述べたる彼の久春內附近に於て露人の犯人を護送すべく途中にて故殺したる、勇士出崎松之助の出生地にして同氏も又前記の二者と對鴈學校の出身者で有る。
併し北海道より、大泊經由樺太東海岸へ航海する船舶の此知床岬の通過は尤も困難の所と云ふ。
又此附近は海馬が澤山棲息して居ると云ふ。
二九、アイルフ(愛郞)
アイルフの解(アイ)は(弓の矢)(ルフ)は(氷)即ち(矢の如き銳い氷の意味)にして冬期海上凍結の際は矢の樣な氷がはりつめると云ふ意義である。
此處は昔よりのアイヌ部落と、露領當時は只一棟有つた。其家主はアイリプンケと呼稱す。又當時は相原氏と云ふ邦人が漁權を得て漁業を營んで居た。
(一)日露交戰中愛郞に於ける露人の掠奪
出崎松之助氏憤慨して露人六人を故殺して海に抛げ込むなり。
明治三十七年日露の交戰なるや其年の三月中頃在島邦人は全部樺太島を去り歸鄕したのである。夫れと同時に當地の漁業家相原氏も此處を去るに當り、漁場に存在し有る漁具其他倉庫に滿積したる食鹽等の全部を出崎松之助氏に依賴、保管したので有る。
然るに露人(榮濱の)が一隻の漁船に六人乘りて此の愛郞に來り倉庫を破壞して食鹽を漁船に積載して悠々として彼等は榮濱に向つて出船したので有る。併るに又第二回の掠奪に掛り、又候愛郞にやつて來たので有る。
之を見たる、出崎松之助氏の憤慨一方でなかつた。又彼等(露助)の自由に任せたなら、全部運ぶも知れん、一回ならず二回迄も彼等の動作、憎むに餘りあり、此際何んとか彼等を殺すより他に策なしと富內村に至り土人等と前記の顚末を話し故殺すべく相談に及んだが皆も心能く賛成する者が成かつた。此處に於て一度殺意の決心を起した以上は其儘彼等を二回の出船を許さなかつた。よし我一人にても彼等をやつ付けてやると家より銃を持ち來りて一目散に彼等が今盛んに食鹽を繫留の船に餘念なく運搬最中である所へ松之助が銃口を彼等に向け一發御見舞申したので有るから、たまらない、續け打に二三發打つた處が直ちにして二三人其處へ倒した。幸ひ又連發しとう〳〵全部射殺して仕舞つた。併して其れらの屍體を船の錨の綱を以て全部連繫て海中に投げ込んだので有る。
夫してそ知らぬ風して居た處數日を經て不幸にも時化の爲め彼等の屍體は海岸に打ち寄せられたので有る。其處を露人が通行の際發見したので直ちに露官が來りて取調べ部落人に尋問するも、誰も知らぬ〳〵で押通したので有る。然して露官は一先づ行き去りしが其後又來りて今度は部落の小供等に尋ねたので、小供等は其犯行者は松之助なる事を吿げたので事件が露見したのである。是を以て松之助と市と云ふ土人の外一人都合三人が、カルサーコヴへ護送される事に成つた。
併して三人が護送される途中一泊する事になり、同夜は其處に皆が宿つたので有るが、松之助の意中今カルサーコブへ護送されると必ず彼等の手に依り死刑にされる事、疑ひない、夫れより一層自殺した方がよいと自殺の、決意を生じ夜中皆の熟寢を計り密に家出して自殺を遂げたので有る。
當時彼には妻(ハル)の外一男とサダ、ナカの二女が居た。併して彼の父は伊達栖原の番人邦人で有つた。
松之助の死體は家族が引取り愛郞に埋葬したので有るが邦領に歸して漁業家の相原氏が之を聞き其勇悍に感淚して彼れの爲め、墓地に石碑を建設し其英靈を祀たと云ふ。
併して、土人市外一人のアイヌはカルサーコヴ迄、護送せられ入獄中戰爭は露人の敗戰と共に入獄者は全部出獄された。當時日本軍が、大泊のメレーに上陸したるを以て幸ひ、土人市が出獄し大泊に滯在中で有つたから、日本軍の道案內として現軍川及富內方面へ至り、日本軍の爲め有利を與へたと云ふ。松之助氏も自殺を急がずカルサーコウに入獄すれば生命は助かつたので有らうに、餘り急いで自殺したのは殘念で有つた。氏は北海道に於て余と親友で有つて、渡樺當時は十五人團體者の一人で有つた。
三〇、トンナイチヤ(富內)
トンナイチヤの意義、トンナイは湖水の流る深き處即ち湖水の中流を云ふ(チヤ)は邊りの意義にして、湖水の邊りの村あるの稱で有る。此處にも昔よりアイヌ部落で有り此湖水には、年々小鯡が栖息して居りアイヌは之を漁して食料となす。又夏期は海に於て鱒を漁する。此の部落は昔戶數は少なかつたが領有後、日本領當時は北海道より移住したる者と在來の者が雜居して樣々に多く住するに至りしなり。此處は甞て白瀨中尉が南極探險隊を組織の際同隊に加はり有名な山邊安之助氏が明治三十七年の頃北海道より移住し、ヤヨマネクアイヌ事日本名、內藤忠兵衞氏が居住する。又故人のヌマルアイヌ現在は山岸兼吉翁(邦人)が一年遲れて住する樣に成つたので有る。
元の(領有常時)總代酋長は故ラマンテアイヌ邦領改名して富內忠藏が有つた。邦領に歸して山邊安之助氏が總代となりたるものにして、此地の產物は小鯡と鱒等で有つて、明治三十三四年頃頃より現凾館の代議士佐々木平次郞氏が此附近に漁業自營の傍ら部落のアイヌの漁業にも援助し夫れが爲めアイヌも年々幸福の暮しをして居たので有る。又邦領に歸して最初の敎育所は此の富內が始まりで有つた。
(一)領有當時富內に於ける出來事熊祭りの際脫監露人等アイヌを慘殺す
アイヌの熊祭りは大祭で有り、又一つの大娛樂で有る。全島各處に行はる時は東西海岸のアイヌが大部分參加する。併して現富內村に會すれば遠隔の地より會する者が歸宅する迄は殆んど一ケ月以上も滯在する。又處に依りては濁酒を造ること米の十五六石も要する。西海岸野田山に於て明治三十五年の頃同地の酋長野田安之助が執行した際は白米四十俵以上も用ひたと云ふ。通例は三俵より五六俵は普通で有る。尤も其の費用は執行者一人の支出で無い、部落人全體より支出するので有る。
此の熊祭りが時は明治二十四五年の頃トンナイチヤにも此際には餘り遠隔地より會する者は稀で有た。或一日熊祭に要すべきイナウ又はトクシとも云ふ、熊を式場に於て繫ぎ置く大御幣之は根本直徑七寸位にして二本の枝が二胯に分かれ、眞直に上に伸び地上より二十尺位の高さの木を山より伐材して來るのに若手のアイヌが山へ行き家には年寄や女小供等を留守せしめたので有る。不幸にも此日は大泊カルサーコウより脫監したる露人十五六人此留守家に入り來り哀れ無慘にも留守居の老人婦女子(一家全部)を慘殺し、食物等を掠奪して逃げ失せたので有る。
彼の山行の連中に於て留守中斯る慘事が生じた。事は神ならぬ彼等の知る由もなく家に歸りて見れば實に目も當てられぬ慘事暫し皆の悲しみ一方ならず。今更悔ゆるも詮なきこと、其れより自今彼等の見當り次第故殺する事となれり。
此慘狀に依り熊祭も略式に止め、彼等を搜索して射殺す事とせしに彼等の天網つきてか一人を見出したので有る。是に依つて彼を捕縛して嚴重に取調べたるに、彼は隱しきれず山間の居所迄一々犯行を申出でたので直ちに彼等の潜伏し居る山間に至り三人を見失せた外全部十三人を其場で故殺して仕舞たので皆も氣を晴らしたのである。
此の仇討に於て同地のアイヌでポニネクアイヌと云ふは一人にて八人を射殺したと云ふ。彼は小兵の者で有るが尤も豪膽で有つた。其當時は十二連發のウエンチーオルを用ひたと云ふ。彼は邦領當時迄存命で居たが今は故人となつた。
三一、オチヨポカ(現土人部落の落帆)
オチヨポカの解、オチエポカの轉訛にして、魚が澤山居ると云ふ意味なり。領有當時は此處にアイヌ家が一棟よりなかつた。
併して此處の川は鮭の遡上すること東海岸中有名な川で有るを以て領有當時相濱の酋長パフンケアイヌ日本名、木村愛助氏が露政廳より許可を得て漁業を此の川に又海に經營する事になり此外に(南)イタタクスナイとの二箇所を許可されたので有る。
其處で經營するには相當資金を要するを以て凾館の漁業家吉村淸吾氏より資金を貸受て漁業を營む事となつたので有る。
其後吉村氏は都合上該漁業權を凾館市の現代議士佐々木平次郞氏に讓つたのは、明治三十四年の頃と思ふ。併して讓漁場の營業權を木村氏は佐々木平次郞氏より、再び越後の人で河津四郞とか云ふ方に讓る事にしたので有るが佐々木氏と木村氏との間に多額の貸借關係が有り、旁々相談が容易に纏らなかつた。
其內に明治三十七年、日露の交戰が開かれたので事其儘になつたので有る。併して此の(落帆)の漁業權は日本領と成ると同時に消滅されたので有る。其後富內村アイヌの全部が此處に新部落を設け現在に及んで居るがアイヌ部落中模範部落として有名で有る。
此處の總代山邊安之助氏が沒して現尾山富治氏が總代と成つたのである。此部落の產業には農漁林業等にして子弟の敎育所も有り本島五敎育所の一に有り。
三二、オブサキ(南負咲)
オブサキの解、川口を渡涉すると砂が下に埋るを稱したので有る。昔は此處にアイヌの家が三棟有つた。ホンケ、トキヤサイヌの二棟の外北海道より移住したる山岸翁の家と三軒で有つた。
キムンナイ(喜美內)
キムンナイ解(山奧の川と云ふ)意義にして往昔此キムンナイを通過して、カルサーゴオ久春古丹に出れば甚だ近道だと云ふ事で有る。又此地は土地頗る肥沃にして農耕地に適すと云ふ。
三三、ノツサン(現野寒)
ノツサンの意義海に突出せる岬を稱したるものにして明治三十年頃ろ迄はアイヌが住んで居た處で有るが其頃天然痘が流行しアイヌの大部が此の病に罹り死亡せしよりアイヌが此處を捨てゝ、富內及榮濱に轉居したので有る。イヌヌレナイ犬主やアイヌレナイは(安南)其名の通り榮濱以南のアイヌは夏期の鱒盛期に此の二川に至り食料漁をなす處にして、昔は部落で有つたと故老の話で有る。
ソウンナイ(現宗運)
ソウンナイ(現宗運)は邦領以前より邦人の漁場で有る。
オソイコントマリ(現尾添)
オソイコントマリの解、入江を稱したので恰も刄物を以て刳ぐり取りたる形を有し、オソイ深く刳ぐるの意義で有り此處には昔アイヌが住んで居りアイヌの大酋長が此處で生たのでアイヌ間には有名な處で有る。現在此處に邦人の漁業家は年々漁業に從事して居る。
又露領時代は此處に、ペヨトルと云ふ露人が漁業權を得て露人が經營して居たのである。
三四、ロレー(露禮)
ロレーの解、イルレーと稱する野草が此のロレーの附近に繁茂するを以て、イルレーヘの轉稱である。此地のアイヌは在來の者も有るがオゾイコニより轉住したのも居る。
栖原當時はウコツテと云ふ、酋長は此部落の主宰者で有る。又露領時代はモニタハヌアイヌ改名內藤宗太が酋長となり露政廳より漁場一箇所を許可され前記の木村愛吉氏と同く北海道凾館の漁業家より、漁業資金を受け漁業に從事したので有る。當時アイヌの漁業として全盛なもので有た。他に東海岸に有りては、アイハマ現相濱の土人、トチムンランケが榮濱と內淵間に二ケ所の漁場を露政廳より許可されたので有る。當時盛大なもので有つた。
此ロレーの酋長ウコツテアイヌ去りて其子カントシトエ日本名內藤勘太郞が、大正十年頃迄邦領後惣代として居たが大正十一年、現白濱部落に於て病沒した、其子にナツ、ナカの二女が現存し居るなり。二代目酋長モニタワアイヌ改名內藤宗太の子トイボラツテ內藤惣吉現白濱部落惣代として現存して居る。併して同氏の妹が露領時代內地の岩手縣人にして俗稱(ナンブ)事似內林次郞氏に嫁し長男に林藏君外に子女四名あり。
然して內藤宗太氏(惣吉の父)は露領當時の番人邦人某の子にして其姉、チシカマは維新當時シアンチヤ現落合詰の役人(士族)對馬氏の愛妾であつたと云ふ。此部落人は大正五六年の頃內淵川の鱒鮭漁の爲め大半同地に移轉し大正十年現白濱部落へ全部移轉したのである。
サツサチ
サツサチの解(サツ)は乾くサチは(砂濱)即ち汐干の時は砂濱が乾くと云ふ意義で有る。昔は此處に二三の土人が居た。川の北方に家が有つたが漸次他へ轉じたので有る。露領當時此處に凾館の大谷啓太郞氏が漁業を營んで居たが邦領に歸して武井氏が漁業權を得て現今に及んで居る。此處は往時鱒漁場の處なるも尙今は主として鰊本場の樣に成つた。
三五、フンベオートマリ(北趾邊)
フンベオートマリの解(通稱)フンベトマリはフンベ(鯨)オー(入る)(トマリ)は(入江)即ち鯨の入る澗、又は入江と云ふ意味で有る。往昔鰊の群來後は能く海岸の入澗に小形の鯨が何頭も入りて遊泳して居る樣に見受られるが、フンベトマリに限ず西海岸の(泊居)にも明治三十二三年頃には何度も見た事が有るが、邦領に歸してより見受ず。併してアイヌは單にフンベと稱し居れば鯨の種類も前述の如く往時は、鯨の此の澗に入るを以つて稱名したので有る。此フンベトマリにも土人が居たので有るが漸次他に轉じたので有る、露領時代に北海道凾館の漁業家故若山政太郞氏が漁權を得て此處に漁業を營んで居たが鱒漁場の處で有る。
其當時同氏は自己の營業而已ならず(相濱)(榮濱)(內淵)等の土人等にも種々の便宜を與ふるなど樺太漁業界の爲め惜しき氏を大正十一年、春函館の邸宅を最後の別愁を以て第二の(邸)趾邊に於て病沒されたのが、其秋で有つた。併して同氏の最初の渡樺は詳かならざれ共フンベトマリに於て、漁業に從事されたのは明治三十四年頃と思ふ。領有後フンベトマリより現在の處に漁區を變更されたのである。現在の處は露領時代はカルサーコブ邦人商店、丸五家號某が漁業經營し幾許もなくして漁業權破棄した處である。併して此處を土人が、シンバヤと稱す。
(一)トウリイワナイ
フンベトマリとチシユシ現二ツ岩との中間の小川の有る處にして、トウリイワナイの解トウリサキリと稱する鰊を乾燥するに用ひる竿の上よりサキリを下げるを以つて命名したのである。
此處に往昔土人が居た所で有るが此處の土人が全部野寒ノツサンに引き移りたる爲め露領時代は誰も居なかつたが、野寒の流行病、天然痘に罹り全部死亡した。只一人殘りしはニヤテラアイヌと云ふが現白濱アイヌ部落に居る。此處は之と云ふ遣跡は無い故に省略する。
(二)チシユシ(現二ツ岩)
チシユシの解チシウシの轉訛である。チシは(泣)ユシは處即ち泣きし處と云ふ意義である。只泣き處では要領を得ないが、茲に傳說に依る一說が有るのが其の稱名で有ると云ふ。
(三)チシユシの傳說
此チシユシの海岸に二つの岩が相列んで高く聳え立て居る。之を邦領に歸して二つ岩と稱名したので有る。往昔此附近の土人が他の者と戰爭すべく此處より何艘かの船を出すに際し二人の女が夫の出陣の名殘りを惜しみて此海岸に立ち泣き終に、立往生したのが此二つの岩で有ると云ふ傳說で有る。
三六、サカエハマ(現榮濱)
サカエハマの名稱は栖原時代邦人の命名したるものにて、現澗の附近を全稱したる名詞である。土人はエターネシララ解沖に平磯や崎が突出したる名詞にして、伊達、栖原時代は此處に運上家の所在地で有る。
又維新當時は會所前も有つて役人の詰所で有る。明治六年頃は民事係り、太田嘉忠と云ふ役人が居たと、余が父の遺書に有つた。
栖原氏の漁業經營當時此のサカエハマより、土人が一艘の大形漁船(ドブネ)と稱する大漁船に、乘船して(シシカ)現敷香迄、漁業出稼ぎをするのである。之等の土人は榮濱を中心にロレーナイブチタコイ、アイ等の部落土人にして主として鮭漁に出掛るのである。
此の出船には各酋長は申すに及ばず船長には同地の酋長アラケマウシの實兄(某が)其任に有つたと云ふ。其實兄の子孫が、現白濱の阪井幸太郞である。露領時代は此榮濱に前記各部落の土人が此處に五月初旬より鰊漁に集る。併して當時土人の漁獲したるは邦人に賣却すと雖も主としてアイヌや犬の食料である。
明治三十四年に榮濱の土人にして、サンブロクアイヌ領有後改名、伊場三六と云ふ者、ハブロフカに趣き土人のポン網現今の小建網と稱する漁網を以つて漁業を經營するの許可を受け、翌三十五年より此處に漁業を營む事に成つたので、當時余も其一權利者に加はつたので有る。
併して此の、サカエハマの附近、元の炭棧橋の處を、アイスがシユマヤ解沖に岩石あるの稱此處には露領當時氏名不詳家號(大〆)と云ふ某人が漁業を經營し榮濱には當時の家號主が漁業經營し居るも明治三十一二年の頃漁業抛棄となつた。當時土人の家が四棟あつたが一棟の主人はハアビリカと云ふ老人がシンバヤアイヌ現若山氏の漁場に近き現雜漁業者古川仁三郞氏の沖に海豹の上る岩石あり、或日海豹を捕へんとして過つて海に落ち溺死したので土人の習慣として其家を倒潰した。
(一)アイヌに於ける變死の知らせと禍難の知らせ
變死と云へば何人も忌避ふもので有るがアイヌに有つては、殊に嫌ふ。此處に變死者あれば其部落より二人乃至三人の者が(エムシ)刀劍を以て次の部落へ知らせに行く。部落近くに行くと、ホホホホーと高聲にて叫ぶ、左すれば、部落にては何事ならんと、刀をぬきて出迎ふ、知らせの者刀の振り樣が山の方へ向へば山の變死、又海の方へ向ふと海の變死なる事が判る、併して(互)に會して變死の狀況を詳かに話合ふのである。
禍難の時は之と同樣で有るが刀劍を用ひず、イナホ御幣を用ゐるので有る。併して葬儀は葬式の部に記述しあれば之を詳略す。只葬式の際は前記の如くにして大勢刀劍を以て、異樣な聲を發して、呼びながら變死の個所近くへ葬るのである。
榮濱に屬する前記のシユマヤも元土人の部落で有つたのが漸次他に移轉したのである。
(二)オチヨココツセ
サカエハマとナイブチとの間にはオチヨココツセと云ふ所が有る。其地の解は其處の山方に元の內淵川が北方へ川口が變じたる爲め其處が沼となり其處より少しづゝ水が海に流出するの意味で有る。
併してチヨココツセとは漏ると云ふ名詞である。此處は栖原時代北海道沙流郡(日高の國)の土人等が地曳網を行つた處と北海道平取の故老酋長ベンリアイヌ翁が明治三十六年著者に話し聞かされた。又此處は露領時代前稿記載の相濱の土人トチムンランゲが露政廳より許可された漁場の一ケ所で有る。現榮濱專用漁業組合の漁場となり組合員は年々此處で漁するので有る。
三七、ナイブチ(內淵部落)
ナイブチの解、ナイブチとはナヨブチの轉訛である。ナヨブフ河口の稱名で即ちナイブチ河口の近くに有る部落と云ふ意味で有る。現內淵川は現相濱の裏を北へ流れ、凡百年前迄は現里耶累方面に流れ其後に現河口より一千間位の處へ流れ、次に大正五年十一月三十日現在の河口に變じたのである。著者の內淵に生た頃明治五年迄は里耶累方面に河口が有つた頃で有る。其頃余の家は第三河口より約千間即ち現河口の左岸の所が夫れで有る。而して川の右岸には部落が有り土人の戶數は余の(母の兄)伯父の家と四棟で有つたが其後一人の(監視人)露人妻帶者が或年限に交代せしめ、最後即ち明治三十七年二月中旬迄(山林官)夫婦が駐在して居た。
著者余が亡父の北地開拓に關する遺歷の一片を左に記述せり、慶應三年十一月國元發足函館に着く、同四年即ち明治元年六月北蝦夷地久春古丹に着く、
此時、天朝にて北地御開拓なり、樺太詰取頭權判事岡本監輔氏也、明治二巳年正月普請方手配行屈候に付金子拜領、同年四月土着被仰付貳人扶持に金三拾兩づゝ被下置旨被仰渡し、同年五月民政方拓地掛り屢事席被仰付、同月榮濱詰被仰渡し、同六月御賞與金貳千五百足拜領、明治三年七月開拓筋の盡力無怠段奇積之事に候に依り金千五百足被下置拜領、同年九月使部被申候
堀監事廼浦之節明治四年十一月在職中勉勵に付金貮拾兩頂戴、以上樺太に於ける遺歷にしてナイブチ川の前記の處に二階建の家屋を建設移住民當時平右衞門、勘、德治郞等の邦人が此處の開拓に從事したのである。
露兵の暴行
前記の如く露人は內淵河の右岸にアイヌ人は左岸に居住して居た其當時內淵河には一定の渡守がなかつた。或る日露兵が七八人內淵より相濱に至り歸途我が家の前に銃砲を組立て二三の者家內に入り口笛を吹きながら何か床の下を搜し步む樣で有る。此折平右衞門と云ふ男が階下で玄米を臼で搗いて居た折で有つたから、直ちに二階に登り此の亂暴なる彼等の行爲を主人(亡父)に吿げたので有る。主人は此事を聞くより(ヨシ)と斗り一刀を提げ階段を下りる。一言して我一人だ彼等は多勢なりと雖も恐るゝに足らず。命の交換我死するか彼等を殺すか今に見よと、戶外に出れば彼等は床の下より櫂を引出して行かんとする處で有つたが其勢を見て彼等は櫂を捨てゝ銃も其儘に逃げ一人が長き棒を以て抵抗し來るも只一刀にて其棒を切り付けたるに彼又其棒を捨て逃げ去つたのである。彼是する內に相濱より彼等の隊長が來りし故彼の隊長に談判した所隊長は彼等の不正行爲に深く謝罪して後に長靴二足及びターチカと稱する毛布二枚を謝罪として送り夫れより互に親密の交を結んだので有る。併して明治八年樺太引揚の際、家も倉庫も其儘にして邦人全部が樺太島を去つたので有る。然して此部落內の土人部落の當時の酋長はケエランケアイヌで有つたが、二代目酋長はチウコイレアイヌ三代目は余に其番が當つてから大正十年迄御奉公したので有る。又余が明治二十八年復歸した當時は元と相變らず只三軒叢らの中に建てゐた。
當時は內淵川の渡船する者なく、相濱方面より來る者は必ず、現內淵橋の處迄來て部落の方へ大聲に呼ばなければだれも渡し吳れる者はない、若し風の都合で部落迄、呼聲が聞えなかつたら最後其處で立往生せなければ、成らん始末であつた。又夜行の際は無論其處で焚火をして野宿する事になる。
余が始めて來た當時其樣な事に會た。此現內淵川橋の處をカヨヲルエサンと云ふ。其名稱の意味はカヨオ呼ぶルエサン處の道、即ち此道迄來て船を呼ばなければ渡る事が出來ないので余も此處迄來て呼だが漸く渡して吳れたのが、白髮のを爺さんが著者の四歲の時別れた、ケエランケアイヌで有つたので彼の驚き且つ喜びは一方でなかつた。
(二)渡船の滑𥡴談
或日一露人が此處に來り渡船をたのむにアイヌ語を以て(アイヌナーチプコンテ)アイヌ舟を吳れと呼んだ。處が彼の靑年が餘り五月蠅からクソヲマクラヘと返答した處彼は何と聞いたか否言葉が判らなかつたので、何んでも渡してやるとか又よろしいとか云つた物と思つたのか彼は露語でポロシヨー〳〵よろしい〳〵と答へた。此河の渡守を余は明治四十年より兼營した。然して此部落に明治三十四、五、六、の三冬期間アイヌ兒童敎育が行はれロレエ・ナイブチ、オタサン、白浦、眞縫、大谷、志安等の兒童も、露政廳の補助を以て敎育したので有る。
越て大正元年十二月土人敎育所は樺太廳の補助に依り、兒童を敎育する事になり樺太廳豐原支廳管內に於ては大谷、內淵、小田寒、白浦の四箇所に敎育所を設けアイヌ兒童敎育に盡力せられるに至つたので有る。
(三)リヤルエサン(里耶累)
リヤルエサンの解、リヤ、越年、ルエサン(處の道)即ち越年する處の道路と云ふ意味で其山の方に越年屋があり、其處より、現(リヤルエ)に出るを以て名付たるもので有る。露領時代は、一漁場に過ぎなかつた此處に露國人のイワナーブーズリムと云ふ露人が漁業權を得て現野寒の總代勝部長三郞氏が此漁場を經營して居た。此が經營し第二者は、泉氏が行ふ樣になり其後露政改革され泉氏の漁場が內淵川口附近となり、元の里耶累が若山氏の漁場と成つたのである。
三八、アイ(相濱)
アイの解、アイとは弓の矢の事にして、此の川の奧に弓を張り、獸類の通路に張り置き獸類が通ると弓の糸にさわると、弓が自動的に矢を發射し獸類を射止るので、其弓の矢を命名したのである。此のアイ部落は昔からのアイヌ部落で酋長にはハセランケアイヌの初代の酋長なり。明治初年頃、小田寒より木村愛吉氏が此處に移住し、靑年時代は白浦詰の役人に使はれた事も有ると氏の話で有つた。露領時代は非常な交際家であつた爲め、氏の存命中は邦人及露人、アイヌ間、各方面の信用を得たのであつて惜い人で有つたが、大正九年に病沒した。其實兄のシレクアイヌは其以前に沒し、其長男ポンチクアイヌは大正十四年に沒し、氏の妹チユサンマは現存で居る。ポンチクアイヌには一男運太郞君が現存で居る。チユサンマは、日露交戰前、樺太に露國モスクワ大學より人類學硏究に來島したるポーランド人にて理學士ブロニスラーブ、ビルズウースキー氏は、三四年滯在中令女と終に男女の交を結び明治三十七年一子を生む。木村助藏同三十九年に一女(きよ)の二子を產み是等は健全で白濱部落に居るなり。然して木村愛吉氏は子無く其少しく遠緣者の子にてレエコロアイヌ改名木村愛助君は愛吉氏の相續者として現存して居る。愛吉氏は露領時代二ケ所の漁場を經營すると共に異人種よりも尊敬せられたのである、甞て東京讀賣新聞記者松川淸氏の、樺太視察の(著書中に)相濱の稿有り。
樺太廳長官平岡定太郞閣下を知らぬ者ありても、木村愛吉氏を知らぬ人が無い云々と載せられてあつたが全く維新の豪傑西鄕翁は斯く有らんかと思はしむるなり。又同氏が永眠された當時仙臺高校敎授の二先生が氏の爲に哀傷の辭を、新聞紙上に連載されたが、余は此二先生の哀傷辭には感淚に堪へなかつた。併して木村愛吉氏の邦領以來は、驛締兼、渡船及部落總代等の公職にも就かれ、公衆の爲め盡くされたのである。
三九、シルトル(白濱)
シルトルの解、シルトルとは道程の中間の稱にして元小田寒より、相濱迄五里である故に白濱は其中間、卽ち二里半の處である。昔は此處に部落なく旅行者及犬橇にても必ず此處で休息する。犬橇には、セタイビルと云つて椴松の葉を折り來りて犬や橇又は、枝葉を以て惡魔ばらひを行ふので有る。
此白濱は當時、廣漠たる密林地であつた。然るに豐原支廳管內土人部落は、大谷、落合、露礼、內淵、相濱、小田寒、白浦、眞縫、函田、榮濱の十ケ所の土人が、從來の散在部落にては公私の不利少なからず。依て之等部落を一ケ所に合併すれば、第一敎育方面の四校(現在)を一校とし部落民も在來の習慣の短所を脫し茲に新智識を求るを得べきを以て茲に新部落を設置すれば公私共に便利否將來の爲め有益ならんと、協議一決に至つたのである。其處で其一ケ所の位置を選定する必要あり依つて此のシルトル(白濱)は山海共に近く又附近の地味肥沃なれば農耕に適するを以て部落民は、農作思想を起すに至るを得べし、さすれば一層有益なりと云ふので、大正六年二月十六日、新部落の設置方の請願書を當局に提出したので有る。
然るに種々の事情の基に延期し越へて大正十年八月一日に各部落一齊に移轉する事になり、其以前大正九年、當局に於ては土人の爲め全八十棟の住宅と學校と事務所の二棟と全部八十二棟を建設し終つたのである。
然して大正十年八月一日豐原支廳管內土人部落十ケ村が此處に移轉すると同時に九ケ村の部落惣代は大谷熊吉、大谷部落惣代、モメランケアイヌ落合部落惣代、安根安太郞相濱惣代、坪澤金太郞小田寒惣代、白川磯太郞白浦惣代、ハルカアイヌ眞縫惣代等が評議員を命ぜられた。
露禮惣代內藤勝太郞氏が、評議員議長、白濱部落の總代を命ぜられた。榮濱惣代坂井幸太郞氏は、評議員を命ぜられたのである。
又敎育所には伊藤淸勝氏が敎員を命ぜられ土人指導者には、初任東海林正光氏、二任高橋淸一氏、三任白石氏、四任伊藤淸勝氏が兼任を命ぜられ、現在に及んだので有る。
時之長官、昌谷彰閣下、永井金次郞閣下、課長、高橋剛氏、支廳長、來富氏、谷氏、丹氏、同係長長谷川氏、高橋光氏、神代氏、齋藤氏、所長、布野憲氏、松本剛氏、建築請負者は、村岡久松氏である。併して此部落は本島土人部落の多蘭泊、智來、富內、樫保と共に將來有望の部落で有る。
イタタクシナイ(板田)
イタタクシナイ(解)イタタキウシの轉訛(イタタキウシ)は夏期此川端で魚を板に載せ刄物を以て魚の尾や骨を細かく刻む、タタクを名詞としたのである。併して此處は中古に土人が住んで居たと云ふが邦領に成つて、邦人赤阪市三郞氏が此處に漁場を建設し最初鱒漁と、鱒の鑵詰に從事し相當に成績を揚げたのである。併して漁網を投入すれば鰊も多少づゝ來網するを以て漸次鰊漁業と共に最近好成績を得るに至りし有名の漁場である。
四〇、オタサン
(小田寒)の一
オタサンの(解)オタサンは砂濱の事にして、オタ(砂)サン(出る)砂濱が突き出ると云ふ意味で有る。オタサンは昔より土人部落にして小田寒川の北方に古川(沼)がある。其處を(オムーナイ)解(オム)(滿)水の滿つる川と云ふ意味である。
小田寒川は鱒の遡上すること、東海岸で有名な川で有る。上流には、ハツタラと稱する川の深き所が有る。其處に群集する鱒を土人は之を獲して食料にするなり。
露領時代は此オムナイの邊りに三棟、夫れより百間斗り北方に四棟あり。當時の散在部落として戶數の多い方で有つた。此處の舊家として、ハイバツテアイヌが元の酋長の後裔である。
露領時代に成りて、故坪澤六助氏が總代となり、後は栖原時代の邦人の後裔であつた。坪澤氏には二男一女が有つたが不幸にして長男は白濱部落に移り評議員となり大正十一年に惜くも故里の旅に就いた。年は四十歲前後の壯年で有つた。今一つ坪澤氏の不幸が續いた。二男金太郞氏の實弟、六太郞氏で有る。彼は白濱部落の靑年團長として部落靑年の模範を示して居たが之又父兄の後を追ふて沒せられたが、白濱部落の爲め、前二氏の外總代、內藤勘太郞氏、相濱前總代故木村愛吉氏の後任安根安太郞氏及び白浦の總代白川磯太郞の三氏に行かれたのが誠に惜しき事で有る。
以上の三氏を白濱部落の部に書落せしに就き此小田寒の稿に記載する事とせり。併して安根安太郞氏は白濱部落副惣代として在職中沒せられたのである。內藤勘太郞氏も年齡五十に達せずして病沒されたが惜しき人物で有つた。
內藤勘太郞氏、沒せられて現內藤惣吉氏が其後任となられたので有る。
オタサンの二
坪澤氏の父子三人が沒せられ後裔として弟六太郞氏には子無く兄金太郞氏に一男一女あるも未だ幼少なり、六太郞氏實妹テル子は一女を擧げて白濱部落に健全でゐる。
然して此オタサン部落の第二の總代坪澤六助翁の存命中即ち露領當時は現北海道函館の代議士佐々木平次郞氏より漁業仕込を受け漁業經營中日露の交戰が開かれたので有る。
(三)露兵オタサン部落の背後より出沒して日本の密漁者を殺す
時は明治三十八年八月小田寒に、密漁の爲め帆前船(邦人)一艘來りて船員六人と雇主林氏とが上陸して鱒を獲つて居た。
其時前記の北部、人家の背後(山方)の叢より人の頭の樣なのが、動て見えるのを土人アリリバアイヌが見付けたので有つた。
彼は直ちに隣の者に報じて云ふ。今此裏に人間らしき物を見た。あれは慥に(ヌチヤ)露人に相違ない、彼れは若し此處へ出て來て部落に弊害をしては困るから殺さうではないかと、云ひしに皆が、不賛成で有つた。彼れ是言つて居る內に(ドルシン)露西亞の義勇兵と云ふのが一人、二人と順々に出て來たのが二百人の一隊彼等は榮濱に駐屯、豐原方面の戰況不順の爲め榮濱より、內淵の白鳥湖に注ぐ「ヤラケブシナイ」小川の奧に潜伏し夫れより山間北部に向つて進行し、小田寒の裏に出沒したのである。順々出沒したのを一方は餘念なく漁に夢中の連中が、夫ら露助が來た、逃げろと云ふと諸共に繫止したる漁船に飛び乘つたが余り、急激の爲め船の繫止綱を解く事を忘れ、夢中に船を漕ぎ出さうとしても綱を解かざる故に船は出ず、其內一人が綱を解船を漸く出したが、彼等露兵等は隊長の「ウテー」の號令と共に一聲射擊に打出す砲彈は霰の如く船を纏ふのである。瞬く內に一人倒れ二人倒れて其內の一人は海に飛び込み本船に(沖)向つて泳ぎ出したと云ふ。併して終に船には人が一人も見えなくなつて只船のみ水の上に流れてゐたと云ふ。
一方部落の四棟の老幼、婦女子は南方の川を渡つて逃げると云ふ大騷ぎ、又坪澤六助氏に彼の密漁の頭(親方)林氏は、佐々木平次郞氏より六助氏が仕込を受けたる鱒の鹽造に用ゆる食鹽が何百俵と納入し有る大倉庫の有つた、其倉庫の內の食鹽の中に隱したので有る。
其內かの四棟の土人の內一人が頓智を利かし此際彼等露人を欺きて此處を退却せしむるにしかず、と恐る〳〵彼の隊長に向ひて曰、貴隊には此處で、ドン〳〵打つのも宜しいが此沖に碇舶して居る本船には大砲の備へ有り。若し沖より、發砲せらるゝ時には、貴公等も我々も迷惑するならん。何卒早く御立退きなされる方得策ならんと申し出た、隊長は暫し考へた樣で有つた。さらば本隊を退却すべし。と夫れより晝食して折りしも土人等が食用鱒を、(サツペと稱する鱒の裂て乾燥したる物)乾燥中であつたが、夫れを要求したから、少し彼等に與へたので有る。
兎に角東海岸の土人は大抵、露語に精通の者が多い、今度の彼れ等露人を退却せしめた土人は元シヤンチヤアイヌ(落合の土人)で明治三十三年の頃、此の小田寒に轉居したので有る。
彼は其翌日(本事件の急報に依り)落合より一大隊轟大尉の部隊に通譯として、著者の弟山邊淸之助と二人が同隊に隨行して、久春內方面に敵を追擊したので有る。然して話が後に戾るが彼の、露兵隊が此處を退去するや逃げた土人の婦女子は家に歸り坪澤六助氏の倉庫に隱れ居たる林氏も一命を助かつたのである。之も六助氏の親切の致した處で有る。
翌朝(オムナイ)小田寒川の近くの叢より人の這ひ上りたる形跡を見止た者あり、早速部落の者等行つて見るに、彼の昨日射擊を受けた、負傷者の一人で有つたので土人が、背をふて部落に連れ行き應急の手當をなした。此時は六人の內三人死亡三人は負傷して直ちに落合軍醫の治療を受けたので有る。
當時余は(千德太郞治)ウラジミロフカ(豐原)の日軍の糧食部に附いてゐた。其節白浦の土人が全部露人の爲めに慘殺されたと、聞いたから、直ぐ落合に(ロレー)の內藤宗太と(タコイ)の土人二人の處へ照會した所が、白浦でなく、小田寒の出來事が判明した。
併して余の家族も其當時四棟(小田寒)の北端の家で有つて家族皆逃げた爲め、著者の書類露書少しと小供の敎科書二三册、是れは彼等が煙草の卷紙に用ゆる爲め、持ち去つたので有る。其他は別に變はりはなかつた。
前記六助氏の少年時代、木村愛吉氏や余の(著者)伯父と共に維新當時、樺太島榮濱や白浦詰めの役人に使はれ、日本文字の片假名を習つたと云ふ。
四一、マトマナイ(眞苦)
マトマナイの(解)此川の奧に野生植物にして(トマ)と云ふ食物ありて(根を食ふ)六月頃之を採取して食用となす。此トマは、此川奧に澤山ある。之を命名して(マトマナイ)と云ふ。
(マ)は(マハ)の轉訛(マハ)は奧なり、此處も昔より有名な所で有るが、露領時代は川の南方即ち、小田寒附きの方に土人家屋が二棟あつて其少しく南方の林にトイチセ(土家)穴居家に、宿つた。其頃穴居家に間近き處に墓地が有つて道路に接近した所である爲め、往來の土人は此墓地の處に休息して煙草を、此の墓地の方へ少し上げる。此墓地は昔相濱、小田寒等の人々(土人)の先祖を此處に葬つた所だと云ふ。
露領時代は此二棟の家主は兄はオタツコンアイヌ弟はセントルケアイヌの兄弟前相濱の稿に記載したる木村愛吉氏の相續人(現在)木村愛助氏が前記の兄弟が其の伯父で有る。
然して此の二棟の家に一大慘狀を演ぜられた。時は明治三十四年五月此兄弟と其他四人の內三人は其近親者他の一人は白浦の土人、都合六人が一艘の丸木船に便乘して沖合に海豹捕獲に出漁した。其の日午前中は海上平穩で有つたが正午より、東北風が激しく吹き波浪も益々强くなつて來た。其爲め舟を陸岸に寄せる事も出來ず其內終に舟は「アツ」と云ふ間に顚覆して哀れ彼等六人は海の藻屑となつたので有る。
夫れが爲め彼の二棟の家は舊慣に依り直ちに倒壞したので有る。邦領に歸して大正三年頃より同地附近に榮濱の有志村岡久松氏は此處に木工場を設置し事業を盛大に發展せしめてゐる。
併して此處に最近邦人の移住民多く住するに至り一の村落となりたり。
露領時代富內に於ける土人熊祭の際土人を慘殺し逃走せし脫監露人の殘り三人を射殺す
富內にて土人を慘殺したる十六人の露人の內十三人を富內にて土人が其敵討として射殺したが殘りの三人は小田寒と眞苫の間に出沒した。夫れと云ふので、相濱の木村愛助氏の實兄シレクアイヌ、眞苫の土人テクフンカアイヌ今一人のアイヌの三人が弓と槍を持ちて、敵の三人を進擊したのである。
シレクアイヌは突然槍を以て一人の橫腹を突き他の二人は又弓をもつて、敵の各一人づゝに矢を射放した。敵の逃げんとする處を追擊して終に二人を其場で射殺したが、今一人の敵は橫腹に命中したる矢を拔かんとしつゝ逃げ出す處をテクフンカアイヌは彼を海に追ひ込み、陸に揚らんとする處を第二の矢を進ぜたので、彼は終に絕命してしまつたので富內部落の敵討も此處で終りを吿げたのである。
四二、ボロナイ(保呂)
保呂も昔土人の住んで居た處、漸次他に移つて露領時代土人は居なかつたが邦領に歸して東白浦の元土人總代白川光右衛門氏が此處に鱒漁をして居た。露領時代此の(ボロナイ)に露人が七八戶住んで居た。彼等の產業は主として農牧畜で有る。併して海岸に露人が七八棟も部落をなして居るのは、稀である。
此地は地味肥沃にして農業に適するを以て將來有望な所で有る。明治三十七年の秋本島に在住の露人の大部分は本島を去り、本國へ歸る者多きに至る。獨り踏み止まりて此の「ボロナイ」に住する一露人ありしに大正十二年頃、自己が飼養し居る只一頭の牛の爲め突き殺されたと云ふ。
領有後に內藤兵作氏此處に驛締を設け現在に及んで居る。併して「ボロナイ」の地名(解)は東白浦より小田寒迄の間に有る小川の中のやゝ大にして鱒も遡上するを以て名付たるもので有る。
ペケレ(邊計)
ペケレの(解)ペケレは川端の濕地を名稱したのである。ペケレ川に續いて今一本の小川がある。昔土人が此處に住んで居た。露領時代は邦人が此處に建網を許可され漁業を營んだが其後漁業權を取消され明治三十一二年頃は只漁場の建物骨組丈が殘つてゐた。
此處には別に舊跡とてはなし。
四三、シララカ(白浦)
シララカの(解)平磯の意義にして汐干には平磯が出る。即ち(平磯)を名付たのである。川の少しく北方にナイコトロと云ふ所あり其處に白濱の評議員故白川磯太郞氏の家があつた。夫れに續いて家が二三棟建つて居た。現學校の處が、前白浦土人惣代白川茂右衛門氏の家で有つた。甞て坪井理學博士が來島された時此白川茂右衛門氏に、一句の書を進ぜられた。上の句は忘たが下の句は「いなうの沙汰もしららかの山」と云ふのであつた。
此茂右衛門氏も小田寒の六助氏と同輩であり、東海岸に於ける有名な人であつた。
右之兩氏は生前帝都(東京)迄行つた事がある。併して茂右衛門氏も少年時代は時の役人に奉公したと云ふ。此白浦も維新當時會所があつたと云ふ。樺太の漁業王とも稱せられる笹野榮吉氏は最初樺太に來りし當時白浦や輪礼の漁場を許可した頃は、茂右衛門氏も相當漁場の選定に盡力されたと云ふ。併して當時は白浦川の南方、現川上松藏氏の旅館(支店)の附近に露人家屋拾五六棟の村がある。電信局も此處にあつて西海岸眞岡附近又ウソロ以南の者にして、カルサーコウへ電報を發する時は泣ても、ほいても此の白浦電信局迄來なければ用向を達する事は出來得ないので有る。
此の白浦は古來より鰊の大漁業場で有り現今に至るも、不漁なしの大漁場である。邦領に歸してより藤井篤太郞氏は此處に驛締を營む。又藤岡氏等が最初の定住者であり現在に及んで居る。
一、シンノシコマナイ(中濱)
シンノシコマナイの(解)シララカ(白浦)と(眞縫)との中間に在るを以て其名あり。此處は露領時代より、笹野氏の漁場であつたが漸次鰊も獲る樣に成つたので有る。
四四、マーヌイ(眞縫)
マーヌイの(解)マー(泳ぐ)ヌイ(渡る)往昔此處に渡船なきを以て折々、此川を泳いで渡る事あり仍て其名を付けたるなり、併して元の土人部落は川の左岸にあつた。露領時代に成りて、ハルカナアイヌ當時の總代の兄弟三人が轉住して、此川の右岸に住し邦領に歸して樺太廳より渡船營業を開始したのである。
此眞縫の舊家として、ソヲコンテアイヌが居た。露領時代川の左岸の高地に露人の大建築物が一棟あつた。余の其家に立寄つた頃(明治三十年)は其建物が大分傾いて居て老人の夫婦が居た。彼の夫婦は非常に親切で「パン」や御茶を出して吳れ御馳走になつて來た事があつた。
其當時余は久春內に居た當時で有つたから、東海岸に出るには其處を一つの休息所の樣に老人夫婦を訪問すれば非常に嬉しく迎へて吳れるのであつた。後に聞けば此建物は元露兵が駐屯して居た所だと云ふ事である。現學校は其處である。當時アイヌ家は左岸に三棟あつたが其後他より轉じ來る者有りて左岸に五棟と右岸に一棟あつた。
此の左岸には凾田より轉住したる老人で其當時盲目であつたが仲々、日本語は流暢で有つた其名はトヤツテアイヌと云ふが彼は其後此川の渡船營業を樺太廳より命ぜられた。
此眞縫川も夏、鱒漁期に至れば夥しく鱒の遡上する處で有る。邦領に歸して此川の上流に西海岸の智來や久春內(コモシラロル)の土人が鱒の燒き干しに來ると云ふ。
明治四十一年の頃は竹田氏は此處に驛締兼の旅館を營み、其後に、木俣惣七氏篤志家が漁業を營み現今益々發展し來り此地も將來有望の地である。
(一)オハコタン(凾田)
オハコタンの(解)其名の如く穴村である。露領時代は此處に四棟程アイヌ家が有つた。其後他に轉居したので有る。此處は彼の眞縫の土人惣代ハルカアイヌ及トトサウアイヌ其他ハルカの弟二人都合四人であつた。併して此部落の有志はトトサウアイヌである。
此のオハコタンは大正四年の頃から不幸が續いた。其年の越年にトトサウの家が雪崩れがして家が倒潰し婦人一人慘死した。
大正八年の八月末、內淵川に鮭漁の爲め漁船に婦女子を乘船せしめ廻航の途中、大時化にあひ船が顚覆して十一人のりの內三人助かり、八人は榮濱沖に溺死したので有る。夫れより此オハコタンは再び(オハ)穴(コタン)村即ち穴村となつたのである。
四五、ワーレ(輪礼)
ワーレは、維新當時會所の所在地であつて役人が此處に駐在し、土人も此處に居た。其當時白浦の元土人總代白川茂右衛門氏の父も此處に住居して居た。此處の「船澗」は深く船舶の避難所として尤も適當の處で有る。又鰊の群來する事古より有名な所で有る。夫れに續いてオハコタンも鰊場として何れも鰊鱒の漁は昔より良漁場として知られてゐる。然して此「ワーレ」は露領當時笹野榮吉氏は、渡樺者中の尤も早く、氏の所有大和船を遠き內地より、直航、此の(ワーレ)に來着された後に白浦と此處の漁業を經營されたのである。當時、凾田や眞縫、白浦等の土人が此の笹野氏の慈惠を受けたのである。
(一)チトカンペシ
ワーレより程遠からぬ所に小岬がある。其崎の少しく內に古アイヌが弓の練習した處で其名あり、チトカン(弓を射る)ペシ(巖窟)即ち弓を射る所がある。此處は只弓の練習所なるを示したのみ他に何等の遺跡なし、而して白浦には同川より二町程北にアイヌの古戰場(アイヌ同族戰)がある。
(二)トツスの傳說
トツスはワーレとチカボロナイとの中途にある巖穴にして一の傳說あり。昔より此の巖穴は奧深くして一人として奧まで行きし者なし。然るに一人の土人が充分食料を用意して此穴は何處迄延長して居るかを試さんと、一日此の穴に入つて見たが最初は暗くして行くに困つた、併し是より戾るも殘念今少し行て見よう、と決心して奧の方へと進んだのである。
處が一羽のウリリ(烏の如き黑色の鳥)が彼の目前に現はれた。其時は夜が明けた樣に明るくなつた。すると其鳥の曰お前は何處へ行くのだと彼に問ふた。わたしは此穴は奧が何程深いか、試て見たく來たので有るが、途中でもう歸ろうと思つたが今少し行つて見よう、と思つて終此處迄來たので有る。と答へた。鳥は夫れを聞いて左樣か、お前の其勇氣なら何處迄も行けるかも知れない。けれども此穴は何程行つても同だ。故に私はお前に惡い事は言はんから歸つたらお前の爲めに、よいし家の人も心配して居るだらうから、早く歸られたがよい。其の替り私も奧へ歸つて(神樣に)お前の來た事を申上る、お前の居る處の人々に魚、鳥類、植物何んでも人の望みの物を澤山下さる樣に御願して置くから、と云つて直ちに(パツ)と見えなくなり、元の樣に暗くなつて仕舞た。(アア)之は殘念併し今の鳥が神樣の御使か兎に角是か非か彼の鳥の言ふ事を聞いて歸るとしよう、と一人言を云ひながら歸途に就いた處が穴の中に、三日間も居たと云ふ餘り長道中した爲め用意の食物も殆どなくなつた。と思ふ內にパアツと明るくなり元の道へ出た。安心して村「チカホロ」へ歸つて見た處が其前(村の前)に大きな岩が高く聳立つて居た。夫れから此岩に鳥が宿り、玉子を產む、其玉子を土人が每年取來りて食すと云ふ。邦領當時迄其玉子を食して居た者である。以上の傳說の話(トツス)岩の穴の稱なり。
四六、チカボロナイ(近幌內)
チカボロナイ又はチカベロホナイとも云ふ。チカは(鳥)ベロホナイは(澤山居る川)と云ふ。然れ共此川に鳥が居るに非らずして、沖の巖窟に鳥が澤山宿るのである。
此のチカボロナイは昔より土人の住んで居た處である。此處は旣に述べた昔(ワーレ)に於て船員を降伏させたチンケユシクやイベサチアイヌは此の「近幌內」の土人である。
此のチカボロナイ川も鱒の遡上する川である。邦領に歸して、五味平作氏邦人の驛締が此處に設置されたのである。
四七、ヌブリポフ(登保)
ヌボリの(解)高い山(ポフ)海岸の少しく高き所を、名付たのである。此處は土人の鰊食用として昔は此處で獲つて居た所である。又チカホロと「登保」との間に、前凾館の代議士內山吉太氏の漁場も露領時代此處に有つた。登保は露領時代角野氏が漁業を營み大漁場として知られた所である。
邦領に歸して邦人部落となり此村の有志で、崎元省三氏は(元土人等)に非常に盡された方である故に同村にても有名な士である。
此村は元石炭の主產地であつたが此頃石炭は中止されたる模樣なるが將來は有望の地である。登保とマクンコタンの間に高い絕壁があり、海岸通行の際は非常な難所で有り又危險な所がある。其處を通りて漸くマクンコタンに着くのである。
四八、マクンコタン(馬群潭)
マクンコタン(解)(山奧の村)昔此川の奧に土人が住んで居た所である。此川は鱒、鮭の遡上する事夥しくアイヌは此處に食料魚を漁するのである。露領時代は此川の奧に農牧を營んで居る露人の部落として良い方であつた。電信局も有つた當時內山吉太氏(前代議士)の場所であつた。
邦領後殘留の露人が居た此處も將來有望の地である。鱒專門の所であつたが、鰊も取れる樣になつた。
(一)フレチシ(婦禮)
フレチシの(解)フレチウシの轉訛である。海中棲息し居る海虫類の名を付けたのである。此處も露領時代內山吉太氏の漁場で有つた。其昔此處に土人家が二棟あつたと云ふ。鰊漁共に好漁場である。
四九、モツトマリ(元泊)
モツトマリの(解)モートマリの轉訛モー(靜な)トマリ(入江)卽ち靜かな入江と云ふ意味。
此のモツトマリは昔より土人が住んで居て、露領當時は五六棟あつた。此處も內山吉太氏の漁場で鰊、鱒の大漁場である。
露領に歸して、豐原支廳出張所であるを現在は元泊支廳の所有地にし將來有望の地として見られてゐる。元此の部落の土人總代は邦領に歸してソヲコンデアイヌが此處の惣代であつた。
(一)フヌフ
フヌフの(解)フヌフとは低き濕地の稱である。此處は昔より土人が住んで居た。其後漸次他に轉じたと云ふ。露領當時此處に只二棟あつた。
此附近の酋長として昔より有名な領有後土人總代であつた、イボフネアイヌが此處の土人である。而して昔は元泊やフヌフは鰊が三尺も高く寄せ揚げた物だと云ふ。露領時代はフヌフとシリトル間はカシボの外人家はなかつた。而して此間は一面に密林地であり、冬期の交通困難の所であつた。
五〇、カシボ(樫保)
カシボの(解)海岸の少しく高き所を命名したので有る。昔は三棟より無つたが、邦領に歸して戶數が漸次加はつたのである。大正七八年の頃戶數(土人)も十棟餘となり土人敎育所を設置され當時の敎員は駒杆氏が擔當されて、土人の敎化に勤められたので兒童の成績も良好である。
此樫保の山に露領時代カラサーコヴより脫監した露人十一人が此山奧に隱れ居た。其處へ露人ナズラーテリ監視人一人の外土人が五人と、皆で六人が銃を持つて、彼等を追跡した。處が彼等は今、しきりに晝食準備中であつた。併し彼等には逃走の途中(邦人の漁場に侵入)して村田銃一挺を掠取したので有る。故に、監守員の土人に命ずる處我等は密に、しのび行き成る可く彼等に近寄て一聲射擊に打ち出すべし、左すれば、彼等は狼狽し逃げる處を追擊すべしと命じて進んで行き、今だと皆が一齊に打ち出すと敵はそら危ないと逃げ出した處を(ドン〳〵)續け打ちに連發するから、たまらない、終に十一人を其場で打ち殺して仕舞た。一同凱歌を揚げて歸宅したと云ふ事を同地の土人が明治三十六年頃の事だと話て居た。樫保の土人惣代アサワアイヌ(當時の酋長)ヌボホアイヌは眞縫の總代ハルカアイヌの弟であり、アサワアイヌは元泊の土人である。
又此處の敎育所の駒井氏は大正十年の頃一寸休職したが其後任に、北海道の土人武隈德三郞氏が就かれたが幾何もなくして辭職され北海道へ歸られたと云ふ。現在は邦人に依る小學校を建設せられた。
五一、シリトル(知取)
往時は樫保と知取間は人家は無く、カシボは土人、シルトルは密林の中に露人の家が二十戶位の村があつて電信局もあつた。此の地も露人の農牧を以て生業としてゐた。而して地名シルトルはシリ(行程)ウトル(間)卽ち村と村との間を稱したのである。又シリは(天候)と云ふ。然共又原(シリ)は村と村と稱したのである。
五二、コタンケシ(古丹岸)
コタンケシの(解)コタン(村)ケシ(端)又は殘りの名詞卽ち村の端の意味なれ共何村の端なるか不明である。然れ共名稱は前記の如し、此コタンケシは昔よりの土人部落である。併して此處には露領時代土人家三棟程あつた。酋長にはシトリンカアイヌと云ふ。此處のアイヌとして、牧畜を營む者は稀で有つたが同人は牛の五六頭も飼養してゐた。總て牧畜の事業などと云ふ事は綺麗好きでは出來る仕事でない。併し此土人は、シトリ牛馬と同棲する位であつた。否いくら土人でも獸類と同棲はしないが彼の家に續いて馬屋があつた。或年他のアイヌが其處に居合せた時、突然馬は家の橫板を破つて其處から長い首を突出したのでアイヌ間の評判となり、馬と同棲し居たと云ふのであつた。左ればこそ牛馬の拾五六頭も飼養するに至つたのである。當時のアイヌとして、貯蓄思想を持つた彼には誠に感心な事と思つた。
五三、ナヨロ(內路)
ナヨロ(解)川の奧に入れば、澤有り小川澤山あるの意味(ナヨロ)往時、露領時代は南に露人部落があり、北にアイヌが住んでゐた。
南方の露人部落には當時、知取と同數位の人家があつた。余が其處へ行つた頃は明治三十七年の冬日露戰爭當時であつた。其當時は此處に電信局もあつた。聞くに露領アリキサンドルに行くには此の內路より新道があり近道だと云ふ事である。
併してアイヌ部落には其冬越年家(穴居家)があつた。此の部落の有志にタムシベアイヌ、モシノツアイヌの兄弟、其當時酋長ワリランアイヌであつた。甞て明治四十二年一月樺太第四の長官平岡定太郞閣下が全島土人にニレネナイ、ニイトイ、シララカ、ロレー、オチヨポカ、タラントマリ、クメコマイ、ドープチ、チラフナイ、ポロトマリ以上拾ケ所の漁場を土人に選定されて、此漁場を邦人の樺太優先漁業者に貸付し、其貸付料を以て土人の財政を圖られた。其時の全島土人代表者に指定されたのが、此處の酋長ワリランアイヌ外十四名の全島總代の代表に指命されたのである。
其當時の樺太廳長官は平岡定太郞閣下
第一部長中川小十郞氏
第二部長尾崎勇次郞氏
第三部長竹內友次郞氏
拓殖課長栃內壬五郞氏
庶務課長福永專介氏
水產課長和田、柳川兩氏
警務課長中山、橋尻兩氏
土木課長橋瓜氏
支廳長神代澤身氏(豐原)
支廳長成富淺一氏(眞岡)
支廳長中村氏(久春內)以下略す
出張所長安川喜多治氏、小松直之進氏(榮濱)以上土人漁場の選定當時の行政官であるを以て此處に記載する事にした。
尙當時の各村出張所長は不詳に付き茲に略す。併して此の內路は邦領に歸して一時此處に守備隊を置かれ當時非常な盛況であつた。當時の有力者は知己の「家田三太郞氏」である。此處も將來農業地として有望である。
五四、シシカ(敷香)
シシカの(解)シシ(目、眼)である。カは上即ち、目の上、と云ふのである。著者は其解に苦しむ然れ共目の上と解するより目の前と、(解すれば)前に海豹島あり、カムチヤツカ有り、と解すれば得策と思ふなり、併して維新當時(栖原時代)前稿、榮濱の部に記載したる如く、夏期は榮濱方面の土人は漁船に乘じて此のシシカ迄出漁に出掛るのである。
余が幼年明治二年の頃此シシカ迄父母に連れられて、和船「べんざい」にて此處迄來たと云ふ事を聞いたが夢の如くに覺えてゐた。
併して露領當時は露人丈此處に多く居た。電信局も此處にあつた。海岸にはカレマレンコ露人が漁業經營の漁場があつた。彼は西海岸のデンビー氏や、久春內附近の勢力家ベーレチ氏と此の三者は樺太當時に於ける異人の漁業家勢力家であつた。
併して當時アイヌは此處に居なかつた。シシカ川を少し上るとサンタやニクブン人の家があつた。其當時本島領有後二年目即ち明治三十九年の頃余は樺太廳高等通譯官秋元義親氏や北海道農大校の茅部氏及南氏の兩先生和田、栃內、柳川の諸官と榮濱港より御用船に乘じて、夏期のシシカ方面に航海し、當地の狀況始めて判つたのである。
併して先生方は敷香川の上流迄(其當時の夏は蚊は澤山出た)蚊軍に攻められ乍ら終に同地の調査を終て歸廳されたので有る。
此の敷香にも一慘事が起きた。夫れは大正三四年の頃と思つた、シシカ川の川口の沖に定期船が着いた其時の來客敷香に上陸すべき客が、浮船に乘り移り陸岸へ船を漕ぎ出したる途中折柄、大波浪が起り突然大浪が岸に强く打付けて船は直ちに顚覆して、あはや乘客全部海中に、落され、哀れ乘客全部溺死されたと云ふ。此の悲慘なる最後を遂げられたる乘客中、重なる氏は當時始めて支廳を設けた。其支廳長として赴任されたのは軍政當時より、樺太廳官吏として永く奉職された。成富淺一氏夫人と令息(幼兒)は布に包まれたる儘海岸に打ち揚げられ一命を無事に助かつたが、夫人は死亡した。夫人は當時の豐原支廳長神代澤身氏の令孃で有り誠にお痛はしき事であつた。又樺太調査部長猪狩卯三郞氏及樺太廳林務技手橫山氏も同じ御災難にあはれたのであるが、惜しい方々であつた。此外氏名不詳者十七八名あり。然して此のシシカ川を領有後(幌內川)と呼稱せられ、南樺太の河川中尤も大河であり併して鱒、鮭の遡上夥しく昔より、大和船は自由に出入し河岸に繫留されたのを見受る。此の地は年々開進され將來益々發展し有望なる地である。
(一)タライカ
タライカの(解)山越と云ふ意味で有る。此山方にタライカ湖が有る。海岸タライカに出るので有り依て命名したので有る。此處には露領時代迄三棟の土人(アイヌ家)の家が有つた。此處の酋長の後裔には甞て、南極探險隊長白瀨中尉に山邊安之助氏と隨行したるシシランアイヌ改名花守信吉が此處の總代で有つた。邦領後大正六年の頃、殺人犯に依り花守信吉豐原地方裁判所に護送せられ、其後消息がない故に病死でもしたのだと云ふ。併して此タライカ川も南樺太の河川中、大きい方で有る。又湖水にも珍魚が棲息し居ると云ふ。シシカや此附近は鱒鮭の本場で有る。記事が後に成るが、露領時代のシシカは海濱に接するシシカ川の河邊には露人の部落があり、漁業を營み今日の盛況を見るに至つたのである。
五五、タライカ 以北 チルエサン
往昔は餘り世上に知られず、領有後、漁業の爲め同地に行く者多きに至り、鰊、鰈等の良漁業地である。以上にして、東海岸の稿を終りとなす。更に左の記事を揭載する事とせり。
五六、露領當時の行政の槪略
露領時代の行政は、ハブロフカ廳が監督の下に、第二區カルサーコヴに行政廳を置かれ、南樺太の行政事務をナチヤーニク、オークルカ長官、二區長官が行政事務を執行されたのであるが事務は長官補佐官が之を行ふ、カルサーコヴに於て萬端の事務を行はれたのである。
(一)カルサーコウに於ける露政廳の建築物
行政執務所、裁判所、警察署、監獄所、病院、兵舍、郵便電信局、寺院之は各所にある。
(二)交通
カルサーコウよりドブキ間は夏冬共、馬車便である。而して其間の主要農村部落には一村又は一村をき位に官設の馬車を置き、長官以下の高等官又は他より來島する高官級の本島視察の貴賓方の御用馬車として、一ケ所に、二頭乃至三頭位の馬と車は設備され何時にも用ゐられる樣に、馭者も各所に置く、而して一度馬車を出せば次の設置所迄馬を一生懸命駈走ので次々と順番に馬車を出すのである。
(三)通信
本島より外へ出される郵便物は夏期一ケ月一二回位の船便にて出入される。當時明治三十三四年の頃日本の定期船は月一回位、函館迄迴航され他は皆社外船つまり漁場の雇船は漁期間の迴航を見るのみ、冬季の郵便物はカルサーコウよりナイフチ迄村から村へと順送りとし、內淵よりシシカ迄、犬橇便にて送る。又シシカよりアリキサンドル迄馴鹿にて送るのである。アリキサンドルより發する郵便物も前記の順に送るのである。而して當時の運搬賃は馬車や馴鹿にあつては、大泊よりシシカ迄百圓以上である。又犬橇にありては重量三十貫以內即ちタプート內外である。夫れが犬橇一臺の積載重量で大泊より敷香迄七十圓位なり、然して此郵便物送達は一ケ月一回乃至二回である。其發送の都度兵士が一人又は二人が守衛されるのでありアイヌは之を一の請負事業として東海岸の土人は越年の生活の一助としてゐたのである。
(四)電信局
電信局はカルサーコウ又はハツカトマリと云ふ現山下町に一局、ウラジミロフカ(豐原)に一局、ガウキノウラスコエ(落合)に一局、シラローカ(白浦)に一局、マクンコターン(馬群古丹)一局、シルトル(知取)に一局ナヨロ(內路)に一局、シシカ(敷香)に一局以上の八局である。
(五)病院
病院はカルサーコウに一院現山下町ガウキノウラスコエ(落合)に一病院而して醫者は大泊山下町を本院として、各部落に巡迴して醫術を施すのである。又カルサーコウの本院には入院患者も居るなり。
(六)學校
カルサーコウに尋常高等小學程度の學校が一校、其他トプキー現榮濱村迄の間に小さな寺小屋式のが二ケ所斗りあつた。
(七)生業及其生活
生業として一般に農業と牧畜業である。然して樺太にての農作物としては第一麥類である。麥は大麥、小麥、裸麥、燕麥等である。併して平素食用とするのは小麥と裸麥とである。現大泊、榮濱鐵道沿線は露人の農村である。此部落の大抵の處には製粉所があり、夏期收穫したる麥類を冬期之を製粉するのである。之は多く自家用に供するのである。
又飼養したる牛馬及び自家用の外の麥粉は大抵官廳に於て買上るのである。麥類に次ぎては馬鈴薯である。魚類としては鮭鱒の外は餘り望まない、鰈の如きは當時は絕對に食べない、又カジカも絕對にアイヌは食べないのである。故に生活は至つて簡易である。肉類、魚類は主に鹽付又鹽煮である。又肉を正午より煮、長時間能く煮焚するを以て非常に和かになる故に食べやすい。又煮る時は他の物と混じて煮ない、肉は肉ばかり煮、其汁を以て他の物例へば馬鈴薯とかを煮込み、之を(スウプ)ソツプとして食パンと共に食す、而して後に肉と食パンとを食す。食事終れば茶と白パンと(茶に砂糖を混ぜて)食す。併して肉類は冬季にのみ食す。平素は主として黑パンと馬鈴薯及魚類鹽漬又牛乳等を食用とするのである。豚は多く鹽漬けとなす。併して彼等は共同生活である。故に何處の家を訪問しても知己にも初對面の者にも必ずパンと砂糖を以て迎ふるのてある。
彼等には夜具(布團)はない。入らない筈、家の構造は耐寒的に出來て布團等を着て寢ては、蒸て死んで仕舞ふ。其變り毛布と羽布團(二尺四方位の鳥の羽根を入れた物)を枕に用ゐる。其家に依り其形は丁度日本の座布團樣な物である。家に羽布團多き者は富者なりと云ふ。
五七、各部落擔任の行政官
然して之等農村其他の部落を監視(擔當)する人は豐原に、(シマテリテクユウ)露人部落監視官が居る。依て部落に關する事は此監視官の許諾を得て、長官に訴へ出るのである。併して此カラスナレーチカ(豐原當時呼稱)は本島に於けるカルサーコウに次ぐ第二の市街であつた。
五八、日露交戰中東部に於ける雜話
明治三十七年末、日露交戰中カルサーコウより行政事務をナエラーニ、(唐松)に移され一時此處に事務を執つて居たのであつた。併して長官、司令官、ノウエクの艦長マキシム等の高官は(皆ナダーリニエ)軍川に退居したのは其冬三十七年であつたと云ふ事、軍川に入るを以て自分聞取たる一片を記す。此ナターリの交戰は南樺太に於ける激戰であり、西久保中佐(當時少佐)も名譽の戰死を遂げられた事は世上の周知せられる處であるが、其時の激戰に有馬大尉の戰鬪(豪膽)振りには、時の兵士等も感心し話し合つたのを余は聞いたが、其後有馬大尉の事は樺太戰史にも載つて居ない樣であつた。大尉は慥に當時の戰役に參加した筈(暫く)カウキノウラスコ(落合守備隊長として)就任された筈であつた。余は樺太戰史(伊藤貞助氏の著書)に大尉の參加を揭載されなかつたのを、樺太戰史の爲少しく物足なく感じた。
併して軍川の戰利は我が皇士の奮鬪に依り占領せられ、同時に敵の司令官行政官、マキシム艦長等が捕虜となり送られたと云ふ事を、當時前凾館の代議士內山吉太氏が竹內閣下よりの命に依り、樺太に臨時露語通譯雇の爲め、酋長木村愛吉氏や內藤宗太氏等が一時同所に至り歸村しての話であつた。其當時余は用務旁々西海岸に出張中であり歸途、眞縫に於て、露人の北部(久春內)を經て行く者が多かつた。彼等より大泊に日本軍が上陸し(ドブキー)柏濱迄日本軍が進軍して來たとの話を聞いたのである。余は久春內と眞縫の間で露兵に會ひ、其處で彼等の爲めに殺ろされるかと思つたが、幸ひ無事に通過したのである。
余は明治三十八年の夏、年來の戰の爲め賴みにしたる(邦人漁業家も來ず)米食に馴れたる我等にはパンのみでは凌ぎ難く、聞くに西海岸久春內以南は日本人の密漁者が、米、味噌其他の日用品を川崎船(漁船)に積込來島する者續々ありと云ふを聞いた。よし之から西海岸に至り、此地には北海道石狩より來りし知己の者も澤山居る。行きて彼等より買受又は買求めんと出掛け(野田寒)附近に至しに此處にて知人に合ひ(淺海甚九郞)と云ふ知己の夫婦が居た。彼は鰊を漁し邦人密漁者に賣り米二十俵も所有して居た。早速話して三俵を讓り受け、磯船を以て泊居迄積んで來たが一つ困つた事には久春內の山道の運搬である。越年なら犬橇で運搬も出來るも、夏の運搬には夫れも出來ない。餘義なく其米を雲良卯助(石狩の知己)に預け單身一先づ歸宅する事にし泊居を出立したのであつた。久春內を經て山道を奧へ奧へと進行した、其處で折惡く出會したのは、露人の乘馬兵十名斗りであつた。其內何か一癖ありさうな男が、余に發言した、余も何糞と思つて彼の顏を目玉の拔ける程見つめた。
處が何ぞ圖らん、彼は四五年前カロサーコウの役所で長官補佐官であつた。當時アルコール買求の時彼は余に君は日本人であるから賣る事が出來ぬと云ふ。余はナイブチの土人であると辯明しても仲々信じなかつたが、彼は再び云ふ、左れば高村(邦人)に行き證明書を以て再び彼の處へ行つた處が、今度はウラジミロフカに行き監視官の證明を求めよ、と。余は當時凾館に出張するべくアルコールを賣却するの目的であつたが、夫れ之する內に碇舶し居たる定期船の出帆に遲れてはと思つて、ウラジミロフカ行を中止し乘船したのであつた。其後三十七年の冬郵便犬橇シシカ迄を受取の爲め、ナイラーニに於て彼に再會したが、此時は仲々彼は親切に取扱かつて吳れた。其時は余も大分露語も通ずる樣になつたからにも依ると思つた。
其長官補佐官が十人斗りの守備兵に送られて久春內に向はんとする途中、彼に出會したのであつた。併して彼は問ふ君は何處から來た。余は久春內から來たと答た。露官は久春內には日本人は居ないかのー久春內には來て居らん、と答た。久春內には、(シマテリテクユウ)監視官が居た筈、アリキサンドルに向つて行たらうかのー(答)余は詳く知るを得ないが未だ滯在して居ると思います。左樣か未だ居たかの夫れでは急いで行かうと、乘馬兵に命令すれば彼等は久春內に向つて進行し、余も左樣ならと彼に別れて歸途についたが、之で一安心したと步を進めながら一考へした。併し何國の言葉にても多少は覺えて置く必要があると考へた。若し互に言葉が通じなかつたなら、余を無言で其處を通過させなかつたか知らん、尤も余の小兵と長鬚には彼は何度も見覺があつたに依らうが、何れにしても危い處であつた。
夫れより段々步を進めて來ると、又二人の乘馬露兵に出會した。彼等は此前に十人斗り行かなかつたかと問ふたのみで直ぐ別れた。併して眞縫に着いたのが午後一時頃であつた。此處で前述の如く、大泊に日本軍が上陸し、漸次ドプキー(現榮濱)迄進軍した。と云ふ事を聞いたのであつた。
其時には余の家は、內淵村にあつたが家には誰も居ない。隣家には三棟(余の弟も居た)家があり余は小田寒に家族全部と共に居た。其當時軍川(ナターリニエ)より、木村愛吉氏が歸宅して今、豐原で通譯が不足で困つてゐると云ふから、余は早速行く事にして、豐原(ウラジミロフカ)の指令部(日本軍)の糧食部附となつたのである。
五九、日露交戰當時の雜話
明治三十七年七月の頃、日本軍艦二艘東海岸に廻航し、相濱部落を砲擊す。當時余は小田寒部落に居た時であつた。突然沖に二艘の軍艦が現はれた。扨て何處の軍艦だらう、日本か露西亞かと、小田寒のアイヌが心配して居ると、相濱の沖に「ドドーン」と大砲の音がする。始めて大砲の音を聞いた土人等は、何の音だらう。雷の音でもなし、不思議に思つて居た樣だが、軍艦から打ち出す砲聲であつた事が判つた。一發二發と數へたら、何んでも、十二發か打つた樣だ。さあ大變相濱の土人が全滅したに相違ない。誰か二三人偵察して來よと云つた處、前記小田寒の稿に記載した。
露兵を退却せしめた、土人タムケノアイヌの外二人が行くと云ふので三人が相濱に向つた。夕景になり彼等は直ぐに歸つて來た。併して彼等の報吿に依れば、其軍艦は日本の軍艦であつて、人には別に傷はないが、危くチユサンマ(アイヌ婦人)木村愛吉氏の姪が今少し遲れて自己の居所を立ち去つたら、砲彈の破片に當つて死ぬ所であつたが、幸に早く立去つたので命びろひをした。又家の橫張の處に彈丸の破片が當つて殘つて居た。其砲彈の破片を、木村愛吉氏が額に揭げ紀念として保存してあつたと、報吿したので皆も安心した。
最初沖合に軍艦が二艘見えてあつた一艘は內淵の沖に一艘は此の沖に碇留した何國の軍艦か判らないが、軍艦より發砲したから危ないから逃げろと云ふので、家內全部屋外に出で川邊の窪んだ處に皆が隱て居た處が益々發砲するので皆が其間、頭も上げずに居た、暫くすると砲聲が止んだから私は頭を少しく上げ向の樣子を見た。そして軍艦から「ボート」に七八人乘て陸地に向つて漕いで來た。段々海岸に船を附け、將校らしき人が三人揚つて來たから、私は其方へ向つて行つた。其狀態を誰か見たら笑ふ事だらうに幸ひ誰も他に居なかつたからよかつた。丁度犬に睨まれた猫の樣に恐る〳〵行つたのであつた。段々近くなるに從つて體が地上に附く樣な心持であつたが何と思つて心中勇ながら進んで行つた處が、一士官らしき人が何んだろう、あれは露助でないかなと云つた。其時之は大變と思つたが段々近寄た其時他の一士官は、お前は露助かアイヌかと私に問たから、はい私はアイヌですと答た。そうかお前はアイヌか、軍艦から大砲を打つたが、誰も怪我をしなかつたか。ハイ誰も怪我は致しませんでしたが私の家が砲彈の破片が當つて少し斗り損じました丈けであります。そうか夫れは氣の毒であつた。此處には露助は居ないか、(答)ハイ露助は此處には居りません少し奧に入ると露助村がありまするが、大抵皆北の方へ行て仕舞まして、七八人より殘つてゐません。そうか此處は何んと云ふ處だ、ハイ此處は(アイ)と云ふ處です。それでは內淵は此處でないのか內淵には露官の建物があつた筈で此處の建物は夫れと思つて發砲したのだ。兎に角、皆に怪我なくてよかつた。而してお前の名は何んと云ふか、ハイ私はバフンケアイヌ改名木村愛吉と云ひます。そうか夫れでは吾々歸艦の上追て何んとか、損害金の沙汰があるだろうと云つて別れたと、木村氏の話であつた。
然して木村氏の家は當時露西亞式の大建物であつて領有後、此處に樺太廳より、驛締を申付けられ相川渡船を兼ねて營業して居たのである。其後愛吉氏が沒して二代の愛助が此の家を他人に賣却して仕舞つたのである。併して露領時代及、維新當時よりナイブチ川の右岸に露人の官舍と倉庫が三棟其他二三の建物があつたが、敗戰の爲め全部燒拂つて退去したのである。
其當時官設建物其儘であつた處は、ウラジミロフカとガウキノウラスコエは寺院の外二棟で一棟は學校として新築したが戰爭中一時其れを假獄屋としたのを、領有後、豐原支廳、出張所として榮濱元相濱に移され、現在榮濱村役場として使用されてゐる。
記事は後に戾るが軍艦二艘の內一艘は內淵に碇舶し、一隻のボートに五六人の士官が乘り込み陸に向つて漕いで來た。折柄榮濱の露人商人等が內淵川に漁船を入れ、今頻に品物を積んで逃げようとして居た處へ其ボートを見たる露人は荷物も船も其儘置き去つたのである。其時居合せたのはアイヌ丈で有つた。其內に余の弟山邊淸之助とチウコイレアイヌとであつた。ボートが岸に着くと將校が揚つて來た。段々近寄つて來たのでアイヌが敬禮した。一將校はアイヌに向つて此邊に露人が居ないかと問た。(答)左樣此近くには居ません。元は居ましたが家も倉庫も皆燒拂て行きまして今は誰も居ません。今日(ドプキー)の露人商人が、今此處にありまする船に荷物を積んで行く處でありまするが、皆樣方の揚つて來れるを見て彼等は荷物も其儘置いて逃げて行つて仕舞ました。と弟が答ました。而して將校は又聞かれた。此處にアイヌ家が何軒あるか(答)左樣三軒と私の家で四軒あります。そうか、其處の川邊の小屋は何か、ハイあれは渡守の小屋でありまして露人の渡守が一人居ます。そうか其處へ行て見ようと案內して行た處が彼の渡守は頭を地に伏して禮をするのであつた。併して將校方は此露助を殺すと云はれた。其處でアイヌ等は彼の露人は內淵川を渡船する誠に親切な露助である故に命丈け助けてやつて、くだされと、將校方に賴んだ處將校の曰よろしい命は助けてやる。依て斧を以て來よと露人に命じた。彼は斧を以て出た、而して其斧を以て此電柱を切り倒せと命じた。彼の露人は早速電柱三本ばかり切り倒した。又此船を破壞せよ彼又船を壞はした。よし夫れでよいからと云て將校方は歸艦に就かれた。其後彼の露商人等が何處からとなしに出て來て麥粉、茶、煙草、砂糖、毛布等を全部アイヌに與へて北部へ立去たのである。
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