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Page:Textbook of Japanese History for Elementary School on 1943 vol 2.pdf/104

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津などの諸︀藩との間に、攘夷に對する意見のへだたりから、不和が起󠄁りました。朝󠄁廷でも、攘夷を一時お見合はせになりましたので、攘夷に熱心な長州藩は、すつかり面目めんもくを失ひ、志士はあせつて、大和や但馬たじまで、尊󠄂皇攘夷の旗あげをする有樣でした。

 元治げんぢ元年、長州の藩兵が、京都で薩摩・會津などの藩兵と衝突しようとつし、勢あまつて、宮門きゆうもんををかしました。朝󠄁廷では、幕府に長州をお討たせになりましたが、藩主らが、ひたすらつみをおわび申しあげましたので、事はおだやかに、をさまりました。やがて朝󠄁廷では、内外の形勢に照らして、慶応けいおう元年、通商條約を勅許あらせられ、薩長の間も、土佐の坂本龍馬さかもとりようまらの努力によつて、もと通り仲よくなりました。

 ところで、幕府は、力もないのに、あくまで、長州藩をこらしめようとして、慶応二年、長州の再征を企てましたが、かへつてさんざんに