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「泣くんではないよ、ね、いゝ児だから泣くんではないよ。………ねんねんよう、ねんねんよう、………」

くたびれ切つた力のない調子で、折々思ひ出したやうに、かう繰り返して居る細君の言葉も、しまひには聞えなくなつて、たゞ凄じい泣き声ばかりがけたゝましくあたりに響いた。

次の間の八畳で机に向つて居た貝島は、その声がする度毎に障子や耳元がビリビリと鳴るのを感じた。さうして、腰の周りから背中の方へ物が被さつて来るやうな、ヂリヂリと足許から追ひ立てられるやうな、たまらない気持がするのを、じつと我慢して、机の傍を離れようともしなかつた。

「泣くなら泣くがいゝ、こんな時には泣き止むまで放つて置くより仕方がない」

父親も母親も祖母も、みんな申し合はせたやうにさうあきらめて居るらしかつた。

まだ二三日はある筈だと思つて居た赤児あかんぼのミルクが、もう一滴もなくなつてゐた事を知つたのは今朝であつた。が、三人の親たちは其れよりももつと悲惨な事実に気が付いて居た。明後日の月給日が来る迄は、何処を尋ねても家中に一文の銭もないのである。それを口へ出すのが恐ろしさに、三人は黙つてお互の腹の中を察して居た。かう云ふ折にはいつもさうするやうに、姉娘の初子が砂糖水を作つたり、おじやを煮たりしてあてがつて見たが、どうした訳か赤児は一切そんな物を受け付けないで、「ウマウマ、ウマウマ」と云ひながら、一層性急な声を挙げた。

貝島は、この声に耳を傾けて居ると、悲しい気持を通り越して、苦も楽もないひろとした所へ連れて行かれるやうな心地がした。泣くならウンと泣いてくれる方がいゝ。もつと泣けもつと泣けと、胸の奥で独語を云つた。かと思ふと次の瞬間には、ヂリヂリと神経が苛立つて、体が宙へ吊るし上るやうになつて、自分の存在が肩から上ばかりにしか感ぜられなかつた。そのうちに、彼はふいと机の傍を立ち上つて、もどかしさうに室内を往つたり来たりし始めた。

「さうだ、勘定が溜つて居るからと云つて、そんなに遠慮することはない。………彼処あすこうちの忰は己の受持ちの生徒なんだ。………今度一緒にと云へば、おついでゞよろしうございますと云ふにきまつて居る。耻しいことも何にもない。己は一体に気が小さいからいけないのだ。………」

こんな考が浮かんだのをきつかけに、彼はいつ迄も頭の中で一つ事を繰り返しながら、同じ所をぐると歩き廻つて居た。

日の暮れ方に、貝島はぶらりと表へ出て、K町の内藤洋酒店の方へ歩いて行く様子であつた。洋酒店の前へ来た時、店先に彳んで居た店員の一人が、叮嚀に頭を下げて挨拶をした。貝島はちよいと往来に立ち停つて、ニコリとして礼を返した。………帳場の後ろの、罐詰や西洋酒の壜がぎつしり列んで居る棚の隅に、ミルクの罐が二つ三つチラリと見えた。しかし貝島は、何気ない体で其処を通り過ぎてしまつた。

家の近所まで戻つて来ると、赤児はまだ泣いて居るらしく、ぎやあと云ふ喉の破れたやうな声が、たそがれの町の上を五六間先まで響いて来た。貝島ははつとして又引き返して、今度は何処と云ふあてもなくふらと歩き出した。

M市の名物と云はれて居るA山の山颪が、もう直きに来る冬の知らせのやうに、ひゆうと寒い風を街道に吹き送つて居た。T河に沿うた公園の土手の蔭のところには、五六人の子供たちが夕闇の中にうづくまつて何をして遊んで居るのか頻りにこそと囁き合つて居るらしかつた。

「いやだよ、いやだよ、内藤君。君やあズルイからいやだよ。もう三本きりツきやないんだから、一本百円なら売つてやらあ」

「高えなあ!」