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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/590

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自らを律すといふとは畢竟ずるに同一事なり。而して此の理性的意志が自らに具はれる法則に從うて自らを律する是れ即ち道德上の自由なり、別言すれば、道德的自則是れ即ち道德的自由なり。されば此の意味にては自由なる行爲は取りも直さず道德法に從へる行爲なり。

《カントの謂はゆる自由、道德上の要求、現象界と眞實體界との範圍の別。》〔三五〕カントの自由を言ふや上述の意味にて言へる外に尙ほ他の意味あり、即ち道德的行爲の存在する要件と見たる自由是れなり。彼れに從へば、遒德法は吾人に對して無上の命令となりて現はる而して此の命令は無條件のものにして吾人の絕對的に從ふべき筈のものなり。但し若し吾人は如何にしても之れに從ひ得る能力なきものならば其れに從ふべき笞といふことは無意義のものとならざるべからず、即ち吾人が道德法に從ひ得る自由なくしては其の如き命令のあるべきことを解すべからず、隨うて道德は其の根據を失はざるべからず。故にカントは曰はく、「我れ爲し能ふ何となれば我れ爲すべきなればなりと」。一言に言へば、吾人は唯だ機械的因果の關係に從うて必然的鏈鎖の一環を成すのみのものにあらずして我れが自由に我れの行爲を起こし得る原因即ち自由原因なりといふこと