Page:Onishihakushizenshu04.djvu/587

提供:Wikisource
このページは校正済みです

かくの如く道德法は吾人の必ずしも實際從ひたる法則にあらずして唯だ當さに守るべき法則なりといふ點に於いては自然界に於ける凡べての現象に通ずる自然法(即ち知識論に於いて攷究したる所のもの)と全く相異なり。道德法の吾人に對するやかくすべしといふ命令として現はれ來たる。行的理性の立つる法則は何故に自然法たらずして命令となりて吾人に現はれ來たるか。カント以爲へらく、吾人は唯だ理性をのみ具ふるものにあらずして感性(こゝには道德の方面より云ふ、即ち通常情欲と名づくるものは之れに屬す)をも具ふる者なり而して理性と感性とは後者が必ず自然に前者の指定に從ふといふ關係を有し居るものにあらず其の如き自然の一致は二者の間に認められず、即ち感性は理性の定むる命令に背戾しても猶ほ其の向かふ所に走らむとすることあり。是れ道德法が吾人に於いて命令として現はれ來たる所以なり。若し吾人が理性をのみ具ふるものなるか、はた感性が其の成り立ちに於いて自然に理性に從ふものならむには、吾人は自然に道德法に從ふ者たるべし。然るに實際は其の如くならざるを以て道德法は吾人に對し命令として現はれ來たるなりと。盖しカントは理性と感性との