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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/50

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は我れの有する神てふ觀念は我れの如き有限者の造り得る所に非ずして無限なる完全なる者によりて始めて與へらるゝを得るものなればなり。〈後去つてデカルトの說く所を看よ〉而して其の神の性質も要するにとに外ならずと知る、唯だ其の凡べてが無限なるのみ。

萬物は悉皆活けるものなり。生命なき者より生命ある者の出づべくもあらず。物々皆或は愛欲し或は嫌惡す物質の運動も自らを保存する衝動によりて起こる遊星の太陽を回るも其の中心に引かるゝ情あればなり。虛空は充たされむことを欲求す。カムパネルラは萬物が神によりて生ぜらるゝ次第を新プラトーン學派風に云ひ做したり。神より生じ出でたる萬物は皆其の本源なる神に和合せむとする性を有す、是れ即ち宗敎の基づく所にして物々皆宗敎心を有すといふことを得べし。

《近世自然科學の發端、コペルニクスとケプレル。》〔一一〕謂はゆる伊太利の自然哲學が一方に於いて開發せられつゝありし時に已に精確なる科學的硏究の他方に起こりて時人が自然界を見る眼を新にせむとせるあり。是れ即ち近世の自然科學の發端なり。ブルーノ、カムパネルラ等に