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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/359

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なる感想混入して或は高尙なるあり或は下卑なるあり或は淸潔なるあり或は猥褻なるあり。實際の宗敎は決して單に合理的のものにもあらねばまた單に道德的のものにもあらず。

大體より云へば、吾人の知識の進步するに從ひて益〻宗敎より不合理の要素を削除し行くべし。奇蹟の信仰の如きものも亦終に道理上十分の根據を有すと云ふことを得ざるなり。ヒュームが有名なる奇蹟論の要旨に曰はく、奇蹟が眞實に世に行はれたりといふことの立し得られむには何人かの證言によらざるべからず、而して如何なる場合に於いて其の證言が奇蹟の事實なることを證するに足るかと云ふに其の證言の誤れりと云ふことが證せらるべき奇蹟に勝りて奇蹟たるべき時にのみ限る、そは奇蹟を容るべきか證言を誤れりとすべきかは、孰れか能く吾人の經驗に合ふかによりて決する外なければなり。而して經驗の示す自然の法則に從うて考ふれば奇蹟を以て實際に起こりたるものとするよりも寧ろ證人の言を誤れりとする方遙かに承認し易し。證人の言を誤れりとすることの何故に非なるかと云へばそれが吾人の經驗の示す自然の事相に戾ればなるべし。而してヒ