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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/178

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に非ず、天啓の是非正否は寧ろ其が斯かる實際の道德に合するか否かを標準として定むべきものなりと。

之れを要するに、ベールは究理上吾人の確實なる知識に到達し得ることを疑ひて多くの懷疑論者の爲せるが如く宗敎上の信仰に其の隱家を求めむとし、而してまた憚る所なく宗敎上の信仰其のものに存する自家撞著の點を暴露して其の非理なるにも拘らず吾人の宜しく信ずべきものなりと爲したりしが、而かも畢竟彼れが安住の地と爲したる所は吾人の道德心の指示に從ふことに在りしなり。


第三十五章 ライブニッツ

《ライブニッツの哲學の學相。》〔一〕以上予輩はデカルトに始まりたる近世哲學究理派の潮流を叙してスピノーザに至り、而して此の大潮流に傍ひて其の影響を蒙りながらまた之れに反抗して神祕的及び懷疑的立脚地を取れる人々の思想をも略叙したり、而して此等の思想家中には吾人の感官によりて獲得する實驗を重んずるに傾ける者あることをも述べたり。由來究理に對する懷疑說は實驗的思想(殊に道德上及び宗敎上に