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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/289

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の學科にして而して特に其の所定を人々の交際(殊に政治的行爲)に應用して他人を說得するの道を敎ふるもの之れを修辭學とす。

《學理的知識と學理的說明。》〔七〕斯く論理學は學術硏究の道を明らかにせむとするものなるが、そも學術硏究の目的なる學理的知識(ἐπιστήμη)とは何を謂ふぞ。アリストテレース以爲へらく、事物の通理即ち通性より考へて其の個性即ち個々なる事柄の然る所以を明らかにする是れ之れを學理的に說明すと謂ふと。是れ彼れが哲學的思索全體の根柢を爲せる所の思想にして此の點に於いては彼れはソークラテース及びプラトーンの繼承者たることを失はず。斯くの如く彼れに從へば學理的說明に於いては通理を先きとせざる可からざれど、吾人が知識開發の順序より云へば個性を以て出立せざるべからず。盖し吾人の知識を得來たるや先づ個々の事實を經驗するに始まり漸次に上りて通理に至る、而して學理的知識は斯くして得たる通理を以て個々物の然る所以を說明するものなり。されば學理的に說明すといふは通性よりして個性を論證すると同一なり。

《思想の根本形式は論證なり。三段論法。》〔八〕かるが故に學術に於ける思想の根本形式は論證(απόειξις)にあり、而して論