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の行爲の標的となりて之れを統一調整するものは善(ἀγαθόν)これ也。とはこのを得るの謂ひなり。善は吾人に取りてよきもの、而して吾人は皆吾人に取りてよきものを求めつゝある也。こゝに於いてか倫理學硏究の問題は明らかに揭げ出だされたりといふべし。以後の希臘哲學は常に善とは何ぞやといふ問題を眼中に置くことを忘れず否むしろ之れを中心として倫理の硏究をなせる也。

《知行の關係。》〔十〕明確なる知見を以て修德に必須なるものとせるは、ソークラテースが吾人の道德を一種の技能(ἀρετή)と見たるに根據せり。一技術に堪能ならむには其の事に關する明知(ἐπιστήμη)を要するが如く道德を行はむにはまたこれに關する明知なかるべからず。技能の中心となるものは明確なる知識なり。明確なる知識は諸藝に堪能なるの根本なる如くにまた修德の根本なり。

啻に德を修むるに知見の必要なるのみならず知見あらば德を行はずといふこと莫かるべし。人は善の何たるを眞に知らば必らず之れを爲すべし。何となれば(ソークラテースの考ふる所にては)善は即ち吾人に取りてよきもの而して吾人は常によきものを求めつゝあればよきものと知りて之れを取らざる筈なければ也。