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 この感じが實に不思議なんだ。非常に靈妙な事なんだ。俺には、まだ明󠄁瞭りと言ひ表はすことが出來ないが、謎めいたものなんだがそれが酷󠄁く强い感銘を俺に與へたといふことだけは、君も否定しないでくれ。

 俺は今、實に落ち着いた氣持でゐられるんだ。俺はもう何も考へやしない。そして只この心の內奧から、全󠄁然今迄考へたことも、經驗したこともない、別個な新しい感情󠄁が湧あがつて來て、それに全󠄁身を浸󠄁らせきつてゐる、といつた狀態なのだ。安心して任せきることの出來る溫い或るものを、俺は持つてゐるのだ。それは、俺が考へることを止めたと同時に俺の內に芽︀生えたものだ。そして、俺はこの情󠄁感が、眞に生の欣びではないかと思つてゐる。

 俺が、首を縊り損ぬママたといふことなんか、宛で、ひと事のやうにしか思はれないよ。俺は春の來ることを實に長いこと待ち望󠄁み、又󠄂自ら、それを得やうと、隨分努力した。がその努力が却つて惡かつたのかもしれない。

 といつて、今の俺が、以前󠄁と全󠄁然別な人間になつたといふのではない。只今の自分には今迄少しも氣付かなかつた、その存在を思はぬ方向に求めてゐた、新しい世界が展けて來たやうに思はれるのだ。俺の內心に、何か新しいもの、素らしいものゝ芽生が營まれ始めて來たやうに思はれるんだ。

 君にも分つて貰へるといゝのだが。少しの誇張もなく僕はそれを言ふことが出來るんだ。

 それがどうして俺に與へられたか、又󠄂それが何んママといふ言葉にはまるものか、俺には明󠄁瞭りと言へないんだが。」

 門七は、さう言ひ切つたまゝ、疲れたのか荒く呼吸を彈ませ乍ら、私の顏を眤つと見詰めたまま、心配さうに、その唇を顫はせてゐた。

「それは泉だ。それは今迄乾草に掩はれてゐた淸冽な泉なんだ。それを君は探し出したんだ。誰から貰つたものでもない。君自身の手で、探し出したんだ。」

 私は、宛でものに憑かれでもしたやうに、さう斷定した。私の斷定は或は間違つたものかもしれない。が其處には少しの疑惑も逡巡もなかつた。それは盛り上つた水が、器から澪れ落ちるやうに、自然の勢で私の口から出たものである。

 さう言つてから私は、どたりと其儘後に倒れた。兩手を組んで頭を支󠄂えて、眼を冥つた。そして顳顬をついて、じいんと熱いものが湧きあがつたママ來るのを、快よいものに感じてゐた。

(全生病院)