近󠄁來名を與へて紅鱒と云。島の名もと此魚多きに依て名く。 あめ鱒イルカ鯨オキナの類。木は樺樣五葉松イタヤンユイニの類。山はカヒヲスフリ。則擇提より見ゆ。其周回は。四邊は。オカイウタラより。チブトヲヘツまで一日路。夫よりロツチンまで一日路。それよりウツ子ツプまて一日路。夫よりシンムコまで一日路。合せ四日路。東邊は。オカイワテよりトホ迄一日路。それよりアタツトイまて一日路。夫よりアトイヤまで一日路合せ三日路にして盡るなリ。但得撫島按撿は。天明六年官初て。山口某最上常矩を遣し。寛政三年官又󠄂最上常矩和田某を遣し。その後松前より一度人を遣し。享和元年官又󠄂富山保高深山某を遣し。倶に其地に於て。露西亞人に邂逅すと云。
ヤンケチリポイ島露西亞人改名ヤムナツサトイ
得撫島より渡海︀凡二十里。周回一日路港泊なし。巖石の上へ寄り木を渡して。夷舟を揚置なり。木は一切なし。草のみ生ず。魚も少し唯ヱトビリカと云鳥のみ。
エトは嘴ピリカハ美の夷言にして。此鳥の嘴赤くて。うつくしきによりて名く。
夥しく群飛し。手を以て容易に捕得べき程なり。夷人此島へ渡れば。此鳥をのみ食料とし。其骨を拾て薪とす。此島にカムイワツカと云へる泉あり。岩砂の間より僅一範ほどづゝ湧出る。色香とも全く辛き酒の如し。久しく酌置けば甘くなり。其側にて酒の噂すれは。忽に水涸れて。又󠄂別の所へ湧出。酒を釀せし桶を持ち行ても泉出ずと云。實に奇水なり。露西亞人此泉を名てキスウトタと云。
蠻書に云。クリルの諸︀島に。酒泉を出す島あり。蝦夷人來て之を汲て還るものあれども。海︀上を經るに至て。悉く常の水に變するなり。此酒泉の外に水一滴もなし。又󠄂カチコロと云鳥あり。大さ燕の如く。羽󠄀は白黑なり。之をとれば口より油を吐出すと。此島も古來擇捉夷人。臘虎獵として渡海︀すと。
レブンチリボイ島レプンとは夷語の沖と云言なり
此島大さヤンケに同し臘虎住めり。
マカンルヽ島露西亞人改名ヘセウヒ
此島大さチリボイに同じ。臘虎トヾあり。木なし夷人此島へ至れば。エトビリカ鳥を捕て食料となす。其骨を燒て薪とす。此島夥しくして。內地の鮭鱒の多が如し。此島も古來より擇捉夷人の臘虎獵塲なり。
ラツコ島
此島は。擇捉島得撫島の東洋に當れり。晴天には海︀上遙に見ゆ。此地本クルムセ:の夷人島なりしに。近󠄁來露西亞に併呑せられ。その風俗も變せり。此島に夷人多く住て。露西亞舟にも乘り居るなり。露西亞人。得撫島ワニナウより出帆して此島に渡海︀す。此島夷人は皆鼻へ穴を穿ち環を通ず露西亞の文字を習󠄁ひ物を書なり。其夷人名をキモヘイと云もの得撫島の露西亞人の許に來て。其本國の舟を造る。其製舟トヾの皮にて張り。袋の如くに拵へ。中には木を骨に入れ夷人一人乘りて袋の口をしめ切り。水のいらざるやうにし。櫂にて左右へ搔き走り陸へ上れば骨を去り。皮を疊みおくなり。此舟を夷人はトシトチツプと云。露四亞人はマイタレと云。國後の首長ツキノエ嘗て云。クルムセの舟を見しことありしに小船を皮にて包み。巾着の口の如にして其口へ身を容れ。皮袋の口をしめ切り。底へは石などを入れ舟を重くす。いかなる大浪にても鳥の浮ぶが如く舟も人も波の中へくゞり入りて。又󠄂浮く事自在なり。クルムセの人此舟に乘り沖にて鳥を遂󠄂を見しが。兩手には弓矢を持ち。舟は權を動したり。思ふに袋の中に糸などの仕掛ありて足にて權を動かすならんと厚岸酋󠄁長イコトイ井[1]イチヤンゲムシ云。クルムセの夷人はトイチセコツチヤカムイの裔なり。老夷傳ヘ云古へ夷地トイチセコツチヤカムイと云ものあり。其身甚短し皆穴居す。夷地開くるに從ひ漸々に奥地へ入り。遂󠄂に其種族相率ひて筏に乘り。東洋のラツコ島へ往きて其部落をなせりと。又󠄂東察加にもクルムセの種類︀あり。
新知島露西亞人改名セムナツサトイ
此島は得撫よりは少し小なり。レプシチリボイよリ。新知島モヨロヘ渡海す。
此渡りの汐路は。擇捉の渡よりは弱しと云。ハロンノツの汐は强し。
順風は西を吉とす順風上泙なれば。早天にチリボイを發し力を盡して舟を行り。黃昏に新知に着船すと云。三十里內外もあるべし。此島の前路みな本邦の屬夷なりしに。三十年前より露西亞に服從し。それより二十年前以來夷人悉く露西亞の風俗に變じて。男女とも髪を組み帽子を被り。股引靴を着し。佛像を掛。鐵炮を持つ。露西亞役人も時々來るなり。
寛政十年露西亞の役人。三人此地まで來り越年し。翌年歸國す。本國の頭役替。又󠄂金銀吹き直︁しありしことを。知らする爲めに來ると云。(下略近󠄁藤氏邊要分界圖考)
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