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Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/19

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仝 三一年 —— ——
仝 三二年

過去に於ては勇壯剽悍の土民として北はカムチヤダール種族を畏れしめ、南は擇捉、國後の蝦夷アイヌを驚かしたるクリールスキーアイヌの現狀は僅に六十二人の命脈を保てるに過ぎざるなり、此勢を以てすれば、遠からざる中其絕を見るやも知るべからず、左れば人類︀學者︀は今に於て其硏究を爲すの必要あるべし、

抑〻露西亞は西比利亞各地より次第に進んでカムチヤッカを征服し、以て自己の管轄と爲し勢に乘じて尙ほ南進し、遂󠄂に千島の土人も露國の管下に立つに至らしめたり、之が爲めに彼等の固有の宗敎、風俗、習󠄁慣は悉くスラボニツク的に變化し、其國粹としたる所のものは全く其迹を絕つに至れり、而も彼等は皆胸に十字架を懸け、總て希臘敎を奉信す、

此の如き有樣なれば今日彼等に就て其固有の風俗習󠄁慣を調査すること頗る困難︀にして、余は滯在二十八日間に於て彼の衣食住より、冠婚、葬祭の模樣を探査するに非常に勞を爲したり、

千島土人は現今は悉く色丹󠄁島に住居すれ共、始め彼等の住みたる塲所は何處なるやといふに、明治十七年以前に於て開拓使の注目したるはシヤシコタン、オン子[1]コタン、占守の三島なりしが如し、然れど

是れ大なる相違にて、實は彼等の住居地は占守、ボロモジリ、及びラサワの三島なりき、而してオ子コタン、シヤシコタン其他の諸︀島は皆彼等の漁塲にして、彼等は水草を逐ふて移住するの民なるを以て、其生活の必要上より住居を轉じつゝありしなり、而して明治十七年以前に於て千島土人生活の中心は占守のベツトポーにてありたれども、古代にありてはポロモジリ島のペットポなりき、其は彼等のポロモジリの口碑︀中「鳥の群より人の群多し」と云ふことを傳へり、以て其當時の繁︀昌を爲したることを察すべし、然るに近來露國のカムチヤッカに手を出してより、ペートルボルスクの同半󠄁島に設けられしを以て其交󠄁通の便利よきことより遂󠄂にシムシユは千島群島の中心と爲るに至れり

此他大切なることはラサワと云へる島にて、寛政天明頃の記錄に見へたる如く、露西亞人も此島を中心として日本の沿岸を探偵し、我國に歸化したる市助なる者︀亦此附近の者︀なり、即ちラサワは南千島と北千島との中間に在りて、天明、寛政の頃は政治上にも關係ありたる所なり、

カムチヤツカは露西亞が之に手を下さゞる前は極めて無意味の地たるに過ぎざりき、彼のアムール河畔の如きは其位地宜しきに因りて、土人は進步の度を早めたるものなれども、カムチヤッカに至ては其地勢上、甚だ遠遐なりしを以て露西亞の干渉を竢ちて始めで生面を開きたるものなり、然るに北千島に在りてはカムチヤッカの狀態以上の如しと雖も、其以前より古く蝦夷アイヌと交󠄁通したる爲め相當の生活を爲したり、旣にコサック兵の來つて干島の極北の島嶼を占領したる時も、其土人は我邦の

  1. カタカナ「ネ」の異体字