Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/87

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「立ちのきて」などいふめれば「例も行きゝの人よる所をは知り給はぬか。咎める〈如元〉は」などいふを見る心ちはいかゞはある。やり過ごして今は立ちて行けば、關うち越えてうちいでの濱にしにかへりていたりたれば、先だちし人船に菰やかたひきて設けたり。物も覺えず這ひ乘りたれば遙々とさし出して行く。いと心地いと侘しくも苦しうもいみじうもの悲しう思ふこと類ひなし。さるのをはりばかりに寺の中に着きぬ。ゆやにものなどしきたりければいきて臥し〈ぬイ有〉。心ちせむ方知らず苦しきまゝに臥しまろびうるかな〈四字ぞなかるゝイ〉。よるになりてゆなど物して御堂に昇る。身のあるやうをほける〈ほとけイ〉に申すにも淚に咽ぶ。とすて〈二字かくイ〉いひもやられず。ようち更けてとの方を見出したれば堂は高くてしもは谷と見えたり。かたき軒〈こイ〉に木ども生ひこりて、いとこぐらかりたる。二十日の月夜更けていとあかるけれはこ蔭にもりて所々に前方ぞ見えわたりたる。見おろしたれば麓にある泉はか〈が脫歟〉みのごと見えたり。高欄におし懸りてとばかり守り居たれば、片岸に草のなかにそよそよし〈なイ有〉らしたるものあやしき聲するを、「こはなにぞ」と問ひたれば「鹿のいふなり」といふ。などかれいの聲には鳴かざらむと思ふ程にさし離れたる谷の方より、いとうら若き聲に遙に詠め鳴きたなり。聞く心ち空なりといへばおろかなり。思ひ入りて行ふ心ちもの覺えで猶あれば、みやか〈りイ〉なる山のあなたばかりに、お〈たイ〉もりの物追ひたる聲いふかひなくなさけなげにうちよばひたり。かうしも取り集めて肝を碎くこと多からむと思ふぞ、はてはあきれてぞ居たる。さて後夜行ひつればおりぬ。身よわければゆやにあり。夜の明くるまゝに見やりたればひんがしに風はいとのどかにて