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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/344

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るいとほしとや思ふらむ。ある人のいみじう時に逢ひたる人の聟になりて、一月もはかばかしうもこで止みにしかば、すべていみじう言ひ騷ぎ乳母などやうのものはまがまがしき事どもいふもあるに、そのかへる年の正月に藏人になりぬ。「あさましうかゝるなからひにいかでとこそ人に思ひためれ」など言ひあつかふは聞くらむかし。六月に人の八講し給ひし所に人々集りて聞くにこの藏人になれる聟のりようのうへの袴、蘇芳襲、黑半臂などいみじうあざやかにて、忘れにし人の車のとみのをに半臂の緖ひきかけつばかりにて居たりしを、いかに見るらむと車の人々も知りたる限りはいとほしがりしを、ことびとどもゝ「つれなく居たりしものかな」など後にもいひき。猶男は物のいとほしさ人の思はむことは知らぬなめり。』世の中に猶いと心憂きものは人ににくまれむことこそあるべけれ。たれてふ物ぐるひか、我人にさおもはれむとは思はむ。されどしぜんに宮づかへ所にも親はらからの中にても思はるゝおもはれぬがあるぞいとわびしきや。』よき人の御事は更なり、げすなどのほども、親などの悲しうする子は、目だち見たてられていたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるはことわり、いかゞ思はざらむと覺ゆ。ことなることなきは又これを悲しと思ふらむは、親なればぞかしとあはれなり。親にも君にもすべてうちかたらふ人にも、人に思はれむばかりめでたき事はあらじ。

男こそ猶いとありがたくあやしき心ちしたるものはあれ。いと淸げなる人をすてゝ、にくげなる人をもたるもあやしかし。おほやけ所に入りたちする男家の子などは、あるが中によからむをこそはえりて思ひ給はめ。及ぶまじからむきはをだにめでたしと