Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/10

提供:Wikisource
このページは校正済みです

立つなることゝ憂へいひて詠める歌、

 「ゆくさきにたつ白浪の聲よりもおくれて泣かむわれやまさらむ」

とぞ〈ぞイ無〉詠める。いと大聲なるべし。持てきたる物よりは歌はいかゞあらむ。この歌を此彼あはれがれども一人りも返しせず。しつべき人も交れゝどこれをのみいたがり物をのみくひて夜更けぬ。この歌ぬしなむ「またまからず」といひてたちぬ。ある人の子の童なる密にいふ「まろこの歌の返しせむ」といふ。驚きて「いとをかしきことかな。よみてむやは。詠みつべくばはやいへかし」といふ〈にイ有〉。「まからずとて立ちぬる人を待ちてよまむ」とて求めけるを、夜更けぬとにやありけむ、やがていにけり。「そもそもいかゞ詠んだる」といぶかしがりて問ふ。この童さすがに恥ぢていはず。强ひて問へばいへるうた、

 「ゆく人もとまるも袖のなみだ川みぎはのみこそぬれまさりけれ」

となむ詠める。かくはいふものか、うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。童ごとにては何かはせむ、女翁にをしつべし、惡しくもあれいかにもあれ、たよりあらば遣らむとておかれぬめり。

八日、さはる事ありて猶同じ所なり。今宵の月は海にぞ入る。これを見て業平の君の「山のはにげて入れずもあらなむ」といふ歌なむおもほゆる。もし海邊にてよまゝしかば「浪たちさへて入れずもあらなむ」と詠みてましや。今この歌を思ひ出でゝある人のよめりける、

 「てる月のながるゝ見ればあまの川いづるみなとは海にざ〈ぞあイ〉りける」