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Page:Kagoshima pref book 3.pdf/131

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第二編 幕末の外關係 一七六 する従って初度の和蘭使節 居留のため、日本役々 國許役々より委細酸・ てす面使 も は 叶直 [接那覇に到るも、充分の はず仍て大島へ寄航さ 合は困難にて、佛人 度く同地に於いて 大い 地球運天港に かれ度同地は遊鄙な れば日本役々も出張して琉と共に面すべく萬事取極の上にて那覇に赴 かれ度し那覇に於いては、琉更のみ出して の條約交換を行はん而して、 琉球は小國にして諸品少く那覇へ年々 交易の の事を 久し七って場も少は 年々來 合 來航へみ共 し航は年出にです那 のと思はれる。 但糖 交易は困難なれば約に 食の缺乏品は相鷹に調べる 但し、大島には佛人も来らず、日 あるも げずといふ。 此の如く 定は成った 是より先き五月十七日、蘭船一隻が宮古多良間島に難破し、島民に救助さ れた。乗員二十七名にして、上海より新嘉波に向ふものといふ。 べきを以て、 本役々が駐 協定 して間 船を救助す 人 那覇に到る 漂流人一同を収容した。 分するを 聖現寺に置かれた 同船は漂流・ とすると詳し更に漂流 等は那覇に送られて 七月八日彼 月別の が来航し、 の見込を以てを見 長咸附人照會 に (五) に来航せんと申立てた。 また同船は大島の諸港及び天にも寄航したと いぶ 此の船は長崎より來航した謂はゆる紅毛一番船で漂流人引渡に開 して長崎附人染川喜三左衛門及び井上正庸より在番奉行郷原久寛及び諏訪 武盛宛の照倉釈を持参した。 同船長崎出 崎奉行所役人に右の封を示し、那覇に赴く たの 奉告九 九月十九日船中の蘭人は長 たので長崎奉行は封狀 行は染川を尋問し同人は 翌日、同船は出航した。 944 引渡を要求した 漂流人引取のため した康につき吟 船渡 するものなるを申立て仍て勝手に書翰を渡 [ ふ事となったのである 要するに、此の蘭船は薩繭間 の協定に 鹿児島在 指令す ・備のため渡航したものであらう。 他方藩に於いては和蘭にする措置に開し、鹿児島在香麻文仁親方賢由起 及び恩河親方朝恒軸に旨を達し、九月十七日、彼等は之を琉球に報じたので ある。十二月井上正庸等は鹿児島に帰り翌五年三月銅山方其の他物産のた めとして大島へ渡り開市準備に着手し、また井上より琉球駐在の市來廣貫 に照合した。 市來は琉吏と圖り同年九 ・乃至十月初旬の定を以て締 約を準備しつあつたが、九月二日齊彬の訃報到り、他の外諸案件と共に締 第三章 琉佈及び削關係 一七七 月 急に より締約の事 を中止す