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るに外ならない。第三の徵表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその假想的目的を達せざる點に於て、自己に忠實なるものである。それ故に、媚態が目的に對して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、却つて媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への歸依が運命によつて强要され、可能性の措定が必然性によつて規定されたことを意味してゐる。卽ち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」といふ存在樣態に於て、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意氣地」と、佛敎の非現實性を背景とする「諦め」とによつて、存在完成にまで限定されるのである。それ故に、「いき」は媚態の「粹」(六)であ