コンテンツにスキップ

Page:Iki-no-Kozo.djvu/40

提供:Wikisource
このページは校正済みです

を把握し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廢の生んだ氣分であるかも知れない。またその藏する體驗と批判的知見とは個人的に獲得したものであるよりは社會的に繼承したものである場合が多いかも知れない。それはいづれであつてもよい。兎も角も「いき」のうちには運命に對する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否み得ない事實性を示してゐる。さうしてまた、流轉、無常を差別相の形式と見、空無、涅槃を平等相の原理とする佛敎の世界觀、惡緣にむかつて諦めを說き、運命に對して靜觀を敎える宗敎的人生觀が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を强調し且つ純化してゐることは疑ひない。

 以上を槪括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意氣地」と「諦