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Page:HiguchiIchiyō-Umore gi-Shōgakukan-1996.djvu/6

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眼玉めだまに、日本固有の技芸の妙、見せつけくれんのはらわたもつものなく、手に筆は取り習らへど、心は小利小欲のかたまり。「美とはなんまうぐちか、乃至ないし吉原よしはら洲崎すさきのちりからたつぽう。品川にも又捨てられぬ代物しろものあり」と、口三味線くちざみせん筆拍子ふでびやうしに、なぐり書きしての自慢顔。「兎角とかくは金の世の中に、優でござるの妙でさふらふのと言ふところが、結局つまりは仕切り値段ねだんの上にあること。問屋とひやうけのよき物一致いつちありがたし」とは、そも何方いづこより出ることばぞ。

 さればこそ売国の奸商かんしやうどもに左右されて、又も直下ねさげ又も直下げと、さらでものうでねぢられながら、無明むみやうの夢まだ覚めもせず、これでは合はぬの割仕事わりしごとに、時間をいと費用いりめを減じて、十をもつて一にふる粗画濫筆そぐわらんぴつ、まだ昨日きのふ今日けふ絵の具台にすわりて、稽古けいこねぶりの白雲頭しらくもあたまを、張りこかして手伝はするふちがき腰がきの模様、かすみ砂子すなごみだれ砂子の乱れ書きに、美といふ字はぬぐひさる絵のぐ雑巾のよごれ同様、さりとはそゝがれぬ恥ならずや。このまゝならば今十年と指をらぬに、今戸いまどやきの隣に座をしめて、あらものの店先に、砂まみれにならんも知れた物でなし。これほどのこと気のつかぬ、痴漢うつけばかりあるはずなけれど、時の勢ひは出水でみづの堤、切れかけたも同じこと、我等ふせぎはとんと不得手ふえてづは高見で見物が当世ぞと、頬杖つらづゑつきて宙腰ちうごしの、ふらとせし了簡れうけんには、自己おのれ々々が不熱心を、地震雷鳴かみなりおなじ並みに心得て、天だ天だと途方途轍とてつもなき八つ当り、的になる天道さま気の毒なり。

 りながらそれも道理ことわり、身は蜻蜓洲せいていしう幾十万のかしらかずに加はりて、かまどけぶり立居たちゐにまで、かしこき大御心おほみこゝろなやませ奉る、かたじけなき心得もせず、大日本帝国だいにほんていこくの名誉といふ事、みくちやにしてはきだめの隅に、投げ出すやうばちしらずが、其処等そこらあたりに珍らしからぬ世の中、憤るほどくだなるべし。「さりとも我れは我が観念あり。握りめたる筆の因果、よしきやうといはゞ言へ、と笑はゞ笑へ、千万せんまん黄金こがねつんで来るとも換へぬ心を腕にみがきて、軽薄浮佻けいはくふてうを才子と呼ぶ明治のに、愚直のあたひどれほどのもの、熱心の結果はいかに、斯道しだうしん那辺いづくにあるか、よし人目にはなにとも見よ、我が心満足するほどの物つくりいだして、我れ入江いりえ籟三らいざう変物へんぷつの名を、陶器歴史に残さんずもの、口惜くちをしや赤貧の身の、むなしく志しをいだひて幾年間いくねんかん、このまゝならば胸中の奇計、なんに向つて何時いつゑがくべき。恨みはこれぞ、これ骨までの恨みぞ」と、取りしむる右の腕手かひなたなくびぶるふるへて、煮えよはらわた、熱涙のみ込みつゝ悲憤の声は現はさねど、誰れいふとなくかうがい先生せんせいと仇名して、酒席のうはさはづれぬ代り、しばの戸たゝくもの稀々まれなれば、友なく弟子なく女房なく、おてふとよぶいもと相手にして、此処こゝ高輪たかなは如来寺によらいじまへに、夕顔かきにからみ、蚊やり火のきにけぶる佗住居わびずまゐ渋団扇しぶうちはに縁のある暮しをなしけり。


第二回


 散るにすら、笑みぞあまると聞く十六七を、貧にくるしめば月も花も皆なみだの種。同じほどの少娘こむすめが、流行はやりし帯の新形染しんがたぞめ浴衣ゆかたきて、姿どこやらたほやかに、よく見ればよくもなき顔だちも、三割とくの白粉しろいものぬりくり、幾度いくどじれたる癖直くせなほしの、おかげにふくらむ鬢付びんつきたぼ付き、天晴あつぱれ美人と招牌かんばんうつて、れ違ひに薫る香水の追風おひかぜまで、ぱツとせし扮粧いでたち夕詣ゆふまうで。何を願ひぞ、神さまさぞやお困りの連中に、顧みられて我がなりはづるとなけれど、こゝろよからねば