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に気づくと、急に真赤になつて叫んだ。

「よし、呑んでやる! 持つて来い。」

 病人たちはもう腹を抱へるやうにして笑つた。坊主はますます苛立つて来た。その時であつた、私は産室から伝はつて来るうめき声を聴いた。陣痛だ。

「おい坂下君、大変だ、大変だ。子供が生れさうだぜ。」

 と私は夢中になりながら言つた。

「えッ、そいつあ大変だ。やい! そんな糞にもならんこたあ明日にしろ。坊主、手前は人の頭をぶん撲つた罰に医局に行つて来い、俺はこつちの用意だ。」

 異常な緊張した空気が病室を流れた。坊主が慌しく廊下を駈け出して行くと、坂下は産室の方へ飛んで行つた。病人たちは寝台の上に坐つて生れるのを待つた。急に水をうつたやうに病室全体がしんと静まつた。地響きをうつて雪の落ちる音が聴えて来る。吹雪はまだやまない。矢内の顔を見ると、彼もまた私の方に衰へ切つた視線を投げた。視線が、かつちりと合ふと、彼の骸骨のやうなおもてに微かな喜びの色が見えた。

「矢内、生れるよ。」

 と私は力をこめて言つた。彼はちよつと瞼を伏せるやうにして、また大きく見開くと、

「うまれる、ねえ。」

 とかすかに言つた。今にも呼吸のと絶えさうな力の無い声であつたが、その内部に潜まつてゐる無量の感懐は力強いまでに私の胸に迫つた。死んで行く彼のいのちが、生れ出ようともがいてゐる新しいいのちにむかつて放電する火花が、その刹那私にもはつきりと感じられた。

「いのちは、ねえ、いのちにつながつてゐるんだ、よ。のむら君。」

 と彼はまた言つた。私は心臓の音が急に高まつて来るのを覚えながら、言葉も出ないのであつた。生命と生命とのつながり、私は今こそ彼の手紙がはつきりとよめた。そして彼の確信がどのやうなものであるかを知つたのだ。間もなく一通りの準備を終へた坂下が産室から出て来た。彼は興奮の色を顔に表はしながら近寄つて来ると、

すげえなあ。」

 と吃るやうな声で言つた。

「俺アこの病院へ来てから、まだ一ぺんも赤児の泣声を聴いたことがなかつた、癩病に嬰児こどもはねえと思つてたからな。」

 私は思はず顔に微笑が漂つて来るのを意識しながら、

「さうだよ。」

 やがて廊下に急ぎ足が聴え、女医が看護婦を従へて這入つて来ると産室の中へ消えた。坂下は夢中になつて女医の後を産室へ再び這入つて行かうとすると、看護婦が笑ひながらとめた。

「だめよ。」

「ちえッ。」

 と坂下は残念さうに私の横へ引返して来た。

 激しい呻きが聴えて来た。緊張した呼吸づかひが誰もの口から出た。病人たちは寝ようとしないでじつと生れるのを待つてゐる。矢内は眼を閉ぢてじつとしてゐる。私はふと不安になつた。耳鳴りがしてゐる彼の耳に、もし生れた嬰児の声が聴えなかつたら――私は大切なものを今一歩といふところで失つたやうな思ひであつた。

「矢内。」

 と私は呼んだ。動かない。私はハッと全身に水を浴びたやうな思ひで再び呼んだ。

「矢内!」

 すると彼は静かに眼を開いて私の顔をまじまじと眺めた。私はほつとしながら言つた。

「矢内、きこえるかい?」

 彼はちよつと瞼を伏せてまた開いた。こつくりをして見せる代りであることを私は知つてゐる。私は注意深く矢内の眼を眺めた。その眼の中にある感激に似た輝きがぱちぱちと燃え、空間の中に存在する見えぬ何ものかを凝視してゐるやうな鋭さが、その内部から湧き上つて来る真黒いものに没し去られさうになるのを私は感じる。それは戦ひである。深淵の底に消え失せようとする生命が新しい生命に呼びかける必死の叫びである。私は再び彼を抱き起してしつかりと寝台の上に坐らせたい欲求を覚えた。それは私の心の奥底から烈しい力で突き上つて来る衝動であつた。私は自分の腕がその時無意識のうちに動き出したのを知つた。はつとして自省した時、その空間に差し出した手が震へるのを知つた。空しいものが私の心の間隙に忍び込んで来た。私はまた何かにしがみつきたい欲求を覚えた。私自身が淵の底に吸ひ入れられて行くやうな気がしたのであつた。私はその時絶望を感じてゐるのか喜びを感じてゐるのか判らなかつた。その二つのものが同時に迫りぶつかつて来るのだ。私を支へるものが欲しかつたのであつた。

 坂下は私の横に立つたまま息をつめ、産室から来る呻声に調子を合せて、彼もううううと唸るのであつた。

 間。