悪なもの以上に、敬虔な人性の閃きを感じたのは、作者の気魄と傑れた人格のゆゑであらう。四五日前『カルメン』を読んだが、そのときも彼女の淫蕩を憎悪するよりも、かへつて素朴な美しさを感じた。「ミンチョーロ (恋人) お前はわたしのミンチョーロ」と叫ぶやうに言つてドン・ホセを抱擁するカルメンシタ、そして占ひによつて自らの運命を定めてゆくこのボへミアンは可愛らしい、無邪気な女である。作者メリメの良さが浮き出てゐる。傑れた人格からのみ傑れた芸術は生れる。この単純な真理は永遠のものである。『死の舞踏』の最後のアリスの言葉を書きつけておかう。
「一生の間にはまあどれ程の苦労、どれ程の屈辱でしたらう! 然しそれをあの人――エドガールは――悉く抹殺し、抹殺して押進んで行つたのですわ――どしどし先へ突進する為に!」
九月×日。(日附不明)
夜、ふと眼をさますと、全身ぬるぬると気色の悪い寝汗である。後頭部がづきんづきんと痛み、自分を取り巻いてゐる空間が鉛にでもなつたやうに重苦しい。心臓の鼓動は不規則で手を置いてゐると、ことこととうつてゐるのが、急に早く乱れうつと、今度はちよつとの間全く止つてしまふ。瞬間死ぬのではないかといふ恐怖がさつと心に来る。だが次には、今死ねば幸ひではないかと思ひかへす。するとまた不規則ながらこつこつとうち始める。仄明るい中に自分は起きあがり、裸になつて全身の汗を拭ふ。寝衣を更へると幾らか気分はさつぱりしたが、やはり頭は鈍く沈んで、再び横になつても眠られさうにもない。部屋を出て冷い外気の中を歩く。快く頭がすんでくる。空を見上げると深い闇に、ひとつひとつ美しく光る霰をぶちまけたやうに星で一ぱいだ。地上は
驚いたことに、銀河が東西に流れてゐる。この夏以来南から北に流れてゐる銀河のみを見つけてゐる自分は、錯覚してゐるのではあるまいかと注意して見るが、やはり間違ひではない。だがこれになんの不思議があらう。天体は不断の運行を続けてゐるのだから。――天頂に位する琴座のヴェガがことさらに白く輝き、更に白鳥座がゆるやかに翼を広げてゐる辺り、仏蘭西人が牛乳色の道と呼んだ銀河は我々の心に限りない神秘をよびさます。銀河を泳いで西南に眼を移すと、無気味な三本の尻尾を振つて、何かに躍りかからうとする蠍座、それを狙つて徐々に進行を続ける射手座がある。少しづつ眼を北に移して行くと、真先に冠座が眼に映り、牛飼、ヘルクレス、乙女、それから誰もが知つてゐる大熊座と小熊座、小熊を今にも一呑みにしようとしてぐるりと巻きついた竜座、ちよつと東に眼をそらすと正しいW字型のカシオペア座が私を楽しませる。私達を全き純真なあこがれに満たす、あのギリシャ神話を私は想ひ起した。
カントは人間の能力を限定し、科学が如何に進歩しようとも、山ほどの法則が築かれようとも、所詮は人間の能力、諸知覚の法則に他ならぬと私に思はせた。そしてそれは正しい。だがこのために私は悲しむまい。人間が自己の能力、諸知覚の袋の中から一歩も外部へ出られないとしても! 「私達はなんにも知らない。だが知らないといふことだけは知つてゐる。」この謙譲そして傲然たる自意識こそは人間のものである。見るがいい、私達の感覚はこんなにも美しい星や、木々や、快い微風や、花々の芳香や、その他のすべてを生み出すではないか! どうしてクリスト者は人間を罪人だなぞ言ふのであらう。一体どこに罪があらうか。私は思ふ、罪とは自意識から起る錯覚ではあるまいかと。どうだらう? 私は神を、いや神については考へまい。従つて又死後をも考へまい。何故なら、私達の能力は限られてゐるのだから――。もし罪といふものがあるなら、神について考へたり、救はれようと藻掻いたりすること、それではあるまいか? これは詭弁であらうか。私は決してさうでないと思ふ。唯生きぬくこと、与へられた自己の能力を信じ、精いつぱいの努力を傾けて戦ふこと、死後如何やうであらうとも、さう出来れば自分は安心である。死後については生者の考ふべきことではあるまい。
部屋に帰り、床についたが、このやうな考へが後から後から湧き出て来て眠られず、起き上つて以上したためた。
九月×日。(日附不明)
朝、病室に友人を見舞ふ。一時ひどく衰弱してゐた彼も、近頃は大分良い方に向つてゐる。十分ばかり按摩をとつてやる。帰りに桜舎の横まで来ると、