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やうやく、義朝を引きて自たすけ、說くに甘言かんげんを以てす。義朝、深く之にむすぶ。平治元年平治元年平治の亂十二月、淸盛熊野にく。信賴、乃、義朝に謂て曰く、「通憲、寵をたのみて、自、專にし、陰に淸盛と、の家とを剪除せんぢよせんと謀る。彼の專橫せんわうなる、上皇と雖も、亦之を厭ふ。吾れ事を發し、讒人を誅夷ちういせんと欲す。何ぞ相助けざる」と。義朝曰く、「吾れ殊功を建てゝ父の命を贖ふ能はず。親屬しんぞく摧頽さいたいす。淸盛此時に乘じて以て我を陷擠かんさいせんと欲す。我れ之を知らざるに非ず。公此きよ有り。敢て力をいたさざらんや」と。信賴大に喜び、贈るに鎧仗がいじやう名馬めいばを以てす。義朝、又之をして賴政をまねかしむ。

是に於て、義朝五百騎を以て、夜、三條殿でんを圍み、之を焚き、又通憲のていを焚く殺傷する所甚おほし。通憲殺さる通憲のりみち遁逃とんとうす。追ひ獲て之をる。信賴、帝及び上皇をさしはさみ、大內おほうちる。義朝の第三子を賴朝と曰ひ、鬼武者おにむしやと稱す。時に年十三。右兵衛佐うへうゑのすけたり。進みて義朝に謂て曰く、「淸盛等、將に還らんとすと聞く。なんむかへ撃たざる。乃、ながら之を待たんや」と。惡源太義平賴朝の長兄義平よしひら、鎌倉に在り。甞て其叔父義賢よしかたと隙あり。【大蔵】武蔵大藏おほくらに戰ひて之を斬る。人呼びて惡源太あくげんたと曰ふ。是に於て、變を聞き、晨夜しんやせ至る。信賴之にさづくるに官を以てせんと欲す。義平辭して曰く、