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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/67

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ひで感戴するに堪へざる所なり、尤もこれ他にもあらず、翁が誘導せし我門の徒弟にして、此盛擧にあづかれる老が身の本懷、亦何をかこれに加ん、翁が高齡を錫りし天祿もありがたく、當時草葉の蔭と揮名せられし我身、今もなを聖代にながらへて、其全備を見せしめ給ふこと限りなきの恩光、旻天の冥感にやあらん、

○此餘玄澤、玄隨、玄眞が門より、出し靑藍の器もあるよしなれども、翁が子の、子の孫彥にして委しく知る所にあらず、三都の間諸侯の國々に分處するも多かるべし、

○昔し長崎にて、西善三郞はマーリンの釋辭書を、全部翻譯せんと企しと聞しが、手初迄にて事成らずと聞けり、明和安永の頃にや、本木榮之進といふ人、一二の天文曆說の譯書ありとなり、其餘は聞く所なし、此人の弟子に志築忠次郞といへる一譯士ありき、性多病にして早く其職を辭し他へ遜り、本姓中野に復して退隱し、病を以て世人の交通を謝し、獨學んで專ら蘭書に耽り、群籍に目をさらし、其中彼文科の書を講明したりとなり、文化の初年吉雄六次郞、馬塲千之助などいふもの、其門に入りて、彼屬文幷に文章法格等の要を傳へしとなり、此千之助は今は佐十郞と改名し、先年臨時の御用にて江戶に召寄られしが、數年在留し、當時御家人に召出され永住の人となり、專ら蘭書和解の御用を勤め、此學を好めるもの皆其讀法を傳ふる事となれり、我子弟孫子敎を受ることなれば、各々其眞法を得て正譯も成就すべし、扨忠次郞は本邦和蘭通詞といへる名ありてより、前後の一人なるべしとなり、若し此人退隱せずして職にあらば、却てかくまでには至らざるべきか、是れ或は江戶にて、我社の師友もなくして推て彼邦書を讀出だせる事の始りしに、彼人も憤發せるの爲す所歟とも思はる、是亦昇平日久しく、これらの事も世に開くべきの氣運といふべし、

○一滴の油これを廣き池水の內に點すれば、散じて滿池に及ぶとや、さあるが如く、其初前野良澤、中川淳庵、翁と三人申合せ、假初に思ひ付し事、五十年に近き年月を經て此學海內に及び、其所彼所と四方に流布し、年每に譯說の書も出るやうに聞けり、これは一犬實を吠れば萬犬虛を吠るの類にて、其中にはよき