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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/49

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ばかりも摸し置べきと晝夜寫しかゝり、彼在留中に其業を卒へたり、これによりて或は夜をこめて鷄鳴に及びたりし事もありき、

○又年は忘れたり、一春かの幸左衞門阿蘭陀附添にて參府せし頃、豐前中津邸にて昌庶公の御母君、御座內にて不慮に御脛を折傷し給ひし事あり、貴人の事なれば大騷ぎにて、彼是醫師を御招きの處、幸ひに吉雄幸左衞門出府居合せ候事ゆゑ、直に御招きありて御療治被仰付、御順快ありたり、此時前野良澤御手醫師の事ゆゑ懸合仰付られ、格別懇意となりたり、これ等蘭學の世に開くべき一つといふべし、其後其主の供にて中津へ行しかば、侯へ願ひ奉りて彼地へ下り、專ら吉雄、楢林等に從ひて百日計りも逗留し、晝夜精一に蘭語を習ひ、先に靑木先生より學びし、類語と題せる書の諸言を本として復習訂正し、なほこれに足し補ひて、僅に七百餘言を習ひ得、彼國の字體文章等の事等も、荒增し聞書して持歸りし事ありたり、此時少々は蘭書も求めて歸府せり、是長崎へ外治稽古の爲めならで、彼書說學ばんとて參りし人の始めなり、

○和蘭は、醫術竝びに諸々の技藝にも精しき事と、世にも漸く知り、人氣何となく化せられ來れり、此頃よりも專ら官醫の志ある方々は、年々對話といふ事を願て、彼客屋へゆき療術方藥の事を聞給ひ、又、天文家の人も、同じく其家業の事を問ひ給へり、當時は其人々の門人なれば、同道し給へる事も自由なり、左あるにより其方々の門人と唱へ出入もありたり、長崎は御常法ありて、猥りに旅館への出入はならぬ事なるに、江戶は暫くの間の事なれば、自然と構もなき姿なりき、其頃平賀源內と云ふ浪人者あり、此男業は本草家にて、生得て理にさとく敏才にして、よく時の人氣にかなひし生れなりき、何れの年なりしか、右にいふカランスといへる加比丹參向の時なりしが、或る日彼客屋に人集り酒宴ありし時、源內も其座にありしに、カランス戲に一つの袋を出し、此口試みに明け給ふべし、あけたる人に參らすべしといへり、其口は智惠の輪にしたるものなり、座客次第に傳へ、さま工夫すれども、誰も開き兼たり、遂に末座の源內に至れり、源內是を手に取り暫く考へ居しが、乍ち口を開き出せり、座客はいふに及ばず、カランスも其