には青い梨の実が一ぱい詰つてゐる。思はず微笑を見交しながら、私達は、二人の子供の寝顔の上にも、影のやうに忍び寄つてゐる明日の別れを犇々と感じた。
「あなたが達者で、こんなにしてゐられるんだつたら……」
呟くやうに云ふ妻の眼には、抑へきれない涙が光つてゐた。
梨の実の青き野道にあそびてしその翌の日を別れ来にけり
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癩に棲む鳥〔ママ〕に盲ひて秋ひと日替へし畳をあたらしと嗅ぐ
この療養所に来てから二度目の畳の表替である。前の度にはまだ眼が見えてゐて、淡緑の面をくぎる黒い縁の直線が、すがすがしく眼にも映つたのであるが、今でも眼には見えなくとも畳のあたらしいのは快い。切味のよい剃刀の手ざはりである。もぎたての果物に歯をあてた感じである。
嗅覚にしみる特有の匂ひ――畳の上に生れ、畳の上で育つて来た過去のあらゆる経験が、この匂ひに籠つてゐる。我々の一生といふのも、あたらしい畳が古びてゆく過程の幾つかに外ならない。火屋の真上の天井のひとところだけが円く明るくなつてゐる吊洋灯の下で、ふと目を醒した夜更の静寂の中に、弟の産声を聞いたのも、その弟が七つになつた夏の或日、半夜の熱に急死したのも、その翌る朝ふと触れた弟の額の、魂ををののかす冷たさに、世の無常を知りそめたのも、棺を閉ぢて泣崩れる母をたしなめた父の眼にも涙が光つてゐるのを見た時、私も声をあげて泣いてしまつたことなども、皆畳の匂ひに染みついた記憶である。
六畳の部屋を三畳だけ替へて、畳屋は帰つて行つた。今日は生憎茶菓子になるものもなかつたので、明日は何かお茶うけの用意をしておかう、そんな事を云ひながら、
室の中や縁先などを掃いてゐた附添さんは、外した縁の障子をはめ込みながら、「ひどい夕焼だなあ。」と呟いてゐた。その夕焼の空から吹いて来るのであらう。障子の破れを鳴らす風が、室の中を水のやうに流れ去る。
用事を済まして附添さんも帰つて行つた。あたらしい畳の室には夜の冷気が静寂となつてたち罩める。庭先にはまた蟋蟀が鳴き出してゐた。
清畳にほへる室の壁ぞひに白き衾を展べて長まる
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畳師の悔むともなく云ひつるは惜みなくすてし薬料のこと
――独りで退屈だつしやろ。眼の見えん人は気の毒や。わしかいな、三四年したら本卦がへりや。この頃病気も落着いて、こない作業も出来て、有難いことだす。畳屋だつか、先祖代々の商売でな、畳を叩いてお飯を頂いてましてん。病気が出てから十年ばかりになりまんねん。始め時分顔が腫れて、もうあかん思ひましたが、長いことお医者に通うて、やうやうおさまりましてんやが、身代かたなしだす。嬶は悴と暮してまんが、わしがこない処に来てるさかい、嫁取りも出来しまへん。酒だつか、もう飯より好きだんが、ここぢや呑めまへんよつて、この頃慣れましたけんど、当座は辛うおました。今でも魚の新らしいの見ると、熱爛の味思ひ出しまんな。昨日売店へ烏賊が来たさうやが、作業から帰つて買ひに行つたら、もう売れてしもうてあらへんねん。をしい事しました。コレラだつか、この爺、こはい事も何もあれしまへん。うまい物喰うてころつと死ねたら極楽往生や。ハハハハ……やれやれ、この辺で一服しまほうか。これはこれは、お茶菓子だすか。遠慮なしよばれます。酒の気が切れたら甘いもん好きになりましてな……社会やつたら表替一枚で三十銭貰うて、六枚したら一人前となつてまんねんが、ここでは三枚十銭だんな。先頃、作業部長 (互選によつて任命される患者の役員で作業の世話をする人) と論して、一本やり込めてやりましたわい。ここでは、社会と違うて、着物からお飯まで皆頂いてますのやさかい、慾なこと云ふたら罰があたりまんが、さあ、作業賃減さう云はれたら、ええ気持せんもんでなあ。人間て慾なもんや……ほう、浄瑠璃がかかつてまんな、日曜の放送だすな。文楽やろか、文楽はええなあ……さ、おほきに御馳走さん。どれ、四時迄にもう一枚仕上げまほうか――。
永からむ世すぎの料に習ひてしその職にゐて島になじむか