Page:鐵道震害調査書 大正12年.pdf/31

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跨線橋 逗子驛に於ける跨線橋は鑄鐵脚柱を繫ぐ筋違󠄄切斷し,田浦驛に於ては乘降場上家潰倒のため階段下部の屋根一部破壞せり。

地下道󠄁 鎌󠄁倉驛地下道󠄁の側壁沈下して床との間に龜裂を生じ,尙地下道󠄁側壁と階段側壁とは切斷され幅約9吋の大龜裂を生じ,その他側壁に數條の龜裂を生じたり。(寫眞第百七及び第百八參照)

信號機 逗子驛の遠󠄁方信號󠄂機折損倒潰し,田浦驛のものは崩󠄁壞せる土砂のため埋沒破損せり。

道󠄁 道󠄁の被害󠄂は築堤の沈下に伴󠄁ひて沈下移動せるものと切取法面崩󠄁壞のため埋沒屈曲せるものとにして,前󠄁者に在りては大船󠄂驛の橫須賀方に於ける約8呎の沈下を最も大なるものとし,大船󠄂起󠄁點1哩50鎖󠄁近󠄁に於ける6呎の沈下これに亞ぎ,その他各橋梁前󠄁後等に數箇所󠄁の小被害󠄂あり。又󠄂後者にありては吉倉隧道󠄁船󠄂方坑門口のものを最大とし,その外七釜󠄀,沼間隧道󠄁船󠄂方坑門口外數箇所󠄁の被害󠄂あり。

列車 鎌󠄁倉驛に於て停車中なりし貨物列車の貨車5輛脫線し,尙沼間田浦間に於て進󠄁行中なりし旅客列車客車2輛脫線して乘客に死傷者を生じたり。

第九節 熱海線(國府津眞鶴間11.2哩)

本線は震源地に最も接近󠄁せるのみならず,地質の大部分󠄁は粗密互層の集塊岩にして所󠄁々に節󠄂理多き安山岩を夾雜し,上部は土砂又󠄂崩󠄁土を以て蔽はれ,比較󠄁崩󠄁壞し易き急󠄁峻なる山腹を削󠄁りて僅に線路を設けたるところ多きを以て,その被害󠄂の劇甚なること各線中第一位にして,根府川附近󠄁より海方に向ふ約4哩間は到底復舊の途󠄁なきを以て線路の變更を斷行すべしとの議一時優勢なりしに徵󠄁するもその程󠄁度を窺ひ知るを得べし。(附圖󠄃第十四參照)

切取 本線の地質上記󠄂の如くなるを以て切取の被害󠄂頗る大なるものあり。根府川停車場附近󠄁の地滑りはその崩󠄁壞數萬立坪󠄁達󠄁し線路開通󠄁のため取除を要󠄁せし坪󠄁數約5,000立坪󠄁に及び,停車場諸施設並に將に同驛に到着せんとせし下り第百九列車は共に海中に隧落して,乘客及び乘務員合計111名の死者を生じ,驛前󠄁の山腹は赭色の斷崖と變じ,停車場敷地には巨大なる岩石及び土塊相重疊し,起󠄁伏凸凹甚しくして殆ど步行し能はざるの慘狀を呈󠄁せり。(寫眞第百十二乃至第百十四參照)。然れども同驛の基面以下の地層は堅固なる集塊岩なりしため,その後堆積せる岩石土砂を除去して再び停車場を復舊することを得たり。

又󠄂同驛南端の白糸川は大泥流奔下し來りて同橋梁を押流し,北岸に在りし十數の民家を埋沒し,且溪谷の屈曲部に於ける凹側の山腹に奔騰󠄁して河底より200餘呎の高所󠄁まで泥土を堆積し當時の悽然たる激勢を印せり。(寫眞第百十五乃至第百十八參照)

この外早川眞鶴間に於て著しき被害󠄂ありたるもの10箇所󠄁,その總坪󠄁29,000立坪󠄁に及び國府津起󠄁點9哩25鎖󠄁近󠄁(以下哩程󠄁は國府津を起󠄁點とす)の如きは崩󠄁壞土砂7,600立坪󠄁達󠄁したり。(寫眞第百九乃至第百十一參照)

築堤 築堤の被害󠄂は國府津小田原間最も甚しく,0哩15鎖󠄁より同70鎖󠄁に至る區間の如きは沈下のため原形を留めず,その最も大なる箇所󠄁は深約33呎,崩󠄁壞土砂12,000立坪󠄁に及び(寫眞第百十九及び第百二十參照),これに次󠄁ぐものは3哩30鎖󠄁より同65鎖󠄁に至る區間(小田原驛を含む)にして,崩󠄁壞土砂3,500立坪󠄁達󠄁せり。(寫眞第百二十一乃至第百二十三參照)

根府川眞鶴間10哩20鎖󠄁近󠄁の山腹に築ける片築堤は約25呎の溪底に滑落せしが,軌道󠄁は上方に殘りて空󠄁中に懸り,道󠄁床は整然と枕木の跡を印したる儘溪底に存在するの奇觀を呈󠄁したり。(寫眞第百二十六參照)

又󠄂米神澤は高築堤にて渡れる處なりしが,泥流のため上部の澤は築堤と平󠄁に埋沒せられ,尙泥流は築堤を越えて溢流したるため附近󠄁一帶の地形を一變せり。(寫眞第百二十四及び第百二十五參照)

土留壁 切取築堤の被害󠄂伴󠄁ひ土留石垣の被害󠄂も亦大にして,その崩󠄁壞せるもの數箇所󠄁あり,殊に國府津小田原間築堤腰󠄁土留石垣の如きは練積空󠄁積の別なく何れも崩󠄁又󠄂は埋沒せり。小田原早川間に於ける切取法石垣は練積には異狀なかりしも空󠄁積の上部崩󠄁又󠄂は孕出し,築堤腰󠄁石垣は空󠄁積のもの殆ど全󠄁崩󠄁壞し,練積は傾斜󠄁及び龜裂等を生じたり。又󠄂小田原架道󠄁橋附近󠄁には築堤法土留として混凝土壁を設置しありしが,これ亦大傾斜󠄁切斷等を生じて大破せり。次󠄁に早川眞鶴間切取法面崩󠄁壞箇所󠄁又󠄂は山崩󠄁れの箇所󠄁に於ける切取法石垣は練積空󠄁積ともに上部の崩󠄁壞せるもの多く,然らざる箇所󠄁に於ても空󠄁積は上部孕出し,練積は罅裂を生じたるものありたり。

橋梁 本線に於ける橋梁は被害󠄂著しく,その最も大なるものは白糸川橋梁(徑間150呎構桁3連,徑間40呎鈑桁4連)にして上流溪谷より流下し來りたる泥流のため小田原方橋臺第一號󠄂,第二號󠄂橋脚,及び第一,第二徑間40呎鈑桁3連,徑間150呎構桁1連を殘す外,他の橋臺橋脚及び鈑桁全󠄁部埋沒又󠄂は行方不明となれり。

玉川橋梁(徑間40呎鈑桁1連,60呎鈑桁8連2列)は兩橋臺傾斜󠄁し,各橋脚は1條又󠄂は2條の水平󠄁切斷を生じ,切斷上部は下部に對して囘轉し,鈑桁上下兩線總計18連の內上り線7連,下り線1連は墜󠄁落の厄に遇󠄁へり。

龍󠄂瀧橋梁(徑間40呎鈑桁3連)は國府津方橋臺バラス止破壞して軀體僅に傾斜󠄁し,第一號󠄂,第二號󠄂橋脚とも2箇所󠄁に於て水平󠄁に切斷せられ上部囘轉せり。又󠄂海方橋臺は水平󠄁に切斷せられて上部前󠄁進󠄁斜󠄁し,且中央部より垂直に切斷されて鈑桁の架設せられざりし部分󠄁前󠄁方に倒潰せり。尙鈑桁は2連墜󠄁落し,1連は小田原方に約5呎6吋移動せり。