校正増注元親征録 日本語訳
〈底本-333〉作者の氏名は明らかでない。最初に元の太祖チンギスが身を起こすことを載せ、太宗オゴデイの時の事に及ぶ。金 章宗 泰和 二年 壬戌(1202年)に干支で年が記され始めてから辛丑(1241年)まで40年になる。元史は元の世祖フビライの中統 四年(1263年)、参知政事の修国史だった王鶚が太祖の事績に関する広い要望を請うて、歴史編纂所に託したと記す。この書は、おそらくつまりその時の作とすべきであろう。その書は、出来事の順序がでたらめで、語はきわめて不自由でつたない。また訳語は誤り異なり、しばしば真実が失われ、ことごとくわからなくなってしまった。しかし元史とこの書を比べると、書かれている事柄の多くはこの書がもとになっている。元史は太祖が四十の国を滅ぼしたと言うが、しかしその名は揃っていない。この書も同じくまったく載せていない。太祖の時のことが世祖の時にすでにつまびらかにできなくなっていたことを考えれば、すべてが宋濓と王禕〈[#いずれも明代初期の史家]〉の落ち度ではないのであろう。
元聖武親征録は、私は徐星伯〈[#「星伯」は徐松のあざな]〉太守の所で初めて見た。次々と伝わって銭竹汀〈[#「竹汀」は銭大昕の号]〉の詹蔵本となり、人から人へ書き写されたものである。やがて翁正三〈[#「正三」は翁方綱のあざな]〉の侍郎家蔵本を又借りして得た。私は徐松本を書き写して、翁方綱本でこれを校正し、一通り点検した。〈底本-334〉その書は久しく読む者がなく、収集家はこれを鈔胥〈[#書写専門の役人]〉に渡し、その誤りを受け入れた。いばらの棘の中を行くようなもので、しきりに服は引っ張られひじにかかる。また苔が生えている壊れた石碑を撫でて読むようなもので、上下の文が関係しあうものが、一つ二つばかりである。仲間の友人がこれを観たが、調べるのが終わらず、たやすく棄て去り顧みなかった。願船〈[#「願船」は何秋濤のあざな]〉ひとりがその難を共にして、手に取ってつまびらかに校正を行った。
以前に自ら「一字一句に疑いがあり、十日これを考えてやめない。十日間余りごとに時間をへだてて、そのたびごとに校本を見て、数十条加えた。数十日間に渡ってさらにこのようであった。原本の最初の部分を記し始めたばかりの頃は、行間睂上〈[#訳せない。「睂上」の直訳は「ふちの上」であり「文の続きが他の葉に飛んでいる」と言う意味か]〉、字は蠅の頭のようであった。おそらく十中五六が得られた。再び草藁を練り込んで鉛黄を混せ合わせる。ようやく十中七八が得られた」と言った。ちかごろでは補正して多くの益があり、手作業で書き写した。これを読み直すと遠くまで見通せるようになった。この原本と比較すれば、整理した功は武功と比するものではないか。昔、太史公が著述して、これを名山に蔵める、としたのは極めて丁重なことである。後世に所望するのは、学ぶことを好み深く考え、その意味をわかる人である。およそ天下に文人は多いが学ぶ人は少ない。学ぶ人が得られなければ、著述した事は、ほとんど絶えてしまう。願船のふるまいのように、どうして太史公の願いを得られないことがあろうか。もとより無駄にならずこの書は考証に役立つ。平定の張穆。
漢代から、二千年余り、国の支配域は、思うに元が最大である。だが元代までの歴史を読めば、すぐに人に文書を廃棄させ、そして嘆かわしいのは紀がこれを粗略に載せることであり、記述に嘘や間違いが多いのは、思うに元史が最も甚だしい。元史の中でとどめると、さらに太祖の建国の事が最も甚だしい。かつて金華と義烏〈[#ともに浙江省の地名]〉の人々を、元史を編纂したことで疑い怪しみ、なぜ切り裂かれ少しまばらに抜けているのか、理由がわからなかった。歳丁未(1847年)、張穆先生石州が抄本の聖武親征録一冊を見せ、私に語って「この書は、伝わるところでは銭竹汀と翁覃谿〈[#「覃谿」は翁方綱の号]〉諸先生が書き写して所蔵したが、かつて讐校する暇がなかった。私は一通り読み、間違いが甚だ多いことを知り、いくつか句読をつけられなかった。君は直せるかであろうか」と言った。
私は受け取って読み、淮別虚虎〈[#「淮別虚虎」は有名な誤植の二例。別風淮雨、虎虚]〉の文が目を塞ぎ、侏離〈[#「侏離」は意味の通じない異民族の音声の意]〉の蔓延する詞が、口を塞いだ。元史の紀伝表志、及び諸思想家の史文集を取りあげて比較すると、一部で順序が逆で、氏名が間違っており、年月日がずれており、触れたところはいずれもこれであった。たびたび校正したびたび止め戻って再び読み取り、石碑の苔を除くように、剣のさびを磨くようにした。長い間にその始まりをわずかに得られた。また長い間この症状が続いた。おそらくこの記録は、秘史の後に作られたが、秘史の前に作られたと世間に広く伝わってしまった。誤りの理由は、きっかけがいくつかある。
一つには、翻訳の初めがまず誤る。モンゴル語はウイグル文字を用いる。程邈の隷書体が新たにされ、音は緩急があり、字は二つ三つ重なり惑う。折里麥であれば、つまり元史の朮魯台、〈曽植案、折里麥は者︀勒蔑であって朮魯台ではない。何秋濤先生の誤訳。〉董哀は、つまり秘史の董合で、やはり二書の各訳が合っていない。案彈もまた、あるいは按壇あるいは按灘と称し、者︀別もまた、あるいは遮別あるいは哲別と称し、斡亦剌はつまり猥剌で、蔑里乞はつまり滅力乞で、亦年 可汗はつまり亦難︀赤 可汗で、一つの文の中は、〈底本-335〉前後で互いにわかれている。音を整えることで、字を整えずに訳し、かくて明らかにあった事が、明らかにない文に濁る。
涼州で作法〈[#訳せない。「名前の漢字音写の作り方」か]〉はすでに終わっており、どうして伝言が主旨を失ったことを責めようか。それが読み難さの一つ目である。一つには、写し伝える際に誤りが起きる。道は手付かずで荒れ果て、文章の脱落は麻の乱れ起きるように多い。聶坤は捏羣に変わるが音は近い。捏羣はこじつけで字は間違っている。太子は太石に変わり、音は変わる。太石はたちまち太后に変わり、意味が失われる。橐皋〈[#「橐皋」は安徽省巣湖市の地名]〉の柘〈[#「柘」は黄と赤との中間色、柘黄]〉がたびたび変わるのと等しく、后を補うのと右を補うのは似通っていて区別しにくい。拔都︀に至っては実に甚だしく、ことごとく抜相に変わり、孛徒は字徒に改められ、分岐が分岐を生み、いろいろな変化が加わる。それが読み難さの二つ目である。
一つに、年月の食い違いが多方面にある。元朝の中統に至る以前は年号がない。脫必赤顏の書は、ただ十二支が記されている。積もった雪や風に吹かれて飛ぶ砂のように、創業の祖先は記と注がない。氈毳の宿舎は、槖筆〈[#「槖筆」は書物を入れる袋と筆で、転じて古代の史官の意だが、おそらくここでは「筆記用具を使って自分で記録を書く」の意]〉より史官があったほうが良かった。客魯漣河の書き納めに至り、ちょうど斡歌歹 汗の治世である。録名は聖武の追号を取り、編成は必ずや元朝に至って以後である。あるいは本紀の数年は違っているか、あるいは列伝と異なっている。人名の間違いが加わり、重訳の意味が通らない。官職名の変更は間をおいてたびたび行われ数えていない。遂には一つのことが前後に再び出てきて、一つの同じことがあちらとこちらであべこべになっている。それが読み難さの三つ目である。一つには、大地の広く果てしないことが度を越して甚だしい。斡難︀・土剌の川は、水経が載せたであろうか。答蘭忽眞の狭間は、地理書で聞いたことがない。和林を調べると、圭斎集の一言を根拠にしている。魚の住む湖に問うて、張徳輝の文書のかけらを拾う。
嶺北の王が興った地から、ゴビ砂漠南の駐蹕の宮殿まで、やはり明らかにされておらず、まして、よその土地は明らかでない。そしてまさに吐麻を討伐すれば、北に凍った湖に至り、算端を征伐すれば、西に申河に突き詰め尋ねた。鼇〈[#「鼇」は仙人が乗る大きな亀。翰林院を揶揄したものと思われる]〉は肥沃な地を願ったので、撒罕〈[#訳せない。聖武開天記を書いた察罕の誤りか]〉の書いたものは伝わっていない。
蟾河まで遠く旅をし、誰が尋罳の境まで訪ねていくであろうか。まして長子拙赤は難治の地に封じられ留まった。阿母河の行省、境界は篤實訪河の水源の中ほどで絶え、そして火敦に及んで止まっている。思うにもともとの領地としては、しかしなお欽察を遺している。今や西域が開かれたといえども、現地は領地に服従するのをやめ、しかも異民族はすでに過去のつながりと考えており、祖先で言い伝えは滅んだ事とする。漢による郅支単于への討伐に比べると、唐による大食への征伐は、更に広く果てしなくなり、どちらが説明に嘘が混じっているか。それが読み難さの四つ目である。これら四難が合わさって、これにより人々の惑いが増す。
宋王諸公は、能力のない家来を選り分け、汗はすべてを非常にせき立てた。秘史においては、じっと見つめて見てない。書が増えて、ひょうたんのような有様となった。書が次々に重なるにつれ、嘘に従い誤りを受け継いだ。誤りを後学の人々に残し、この原因を記す。私はゆえに言う、この録をもちいて秘史を見ると、まるで書家による写本や透き写しのようである。この録をもちいて元史を見ると、まるで書家の下書きのようである。景濂〈[#「景濂」は宋濂のあざな]〉、子充〈[#「子充」は費宏のあざな]〉に至り、この録は拓かれ、元史 本紀を作ることで、その名をほしいままにし、鈔胥の書き写しのごとくその実像を明らかにし、この間違いの種が世間に広まった。そうであるならばこの本を校正しつくせば、もろもろの書籍を校正するのに十分である。
見識の狭いことを考えず、ひたすらきわめ求めることに力を入れる。そのために姓名を注釈し、あれこれ移し代えて、異同を洗い出し、前後を連ねて比べた。わずかな心残りを敢えて言うことはしないが、こうして古い本に比べれば、見た目がはるかに異なる。他の事を引いて自説の証拠にするよりも詳らかにして略さないほうが良く、道理に適うかを明らかにしてこそ誤りが除かれる。彼我を互いにくらべあわせ、物事の筋道を得た。寒さ暑さはしばしば変わり、録の修繕はまさに成し遂げられた。かの明初の史書編纂をもって、耳目は比較的近くなったが、なおまだつまびらかに考正されていない。
今これ昔を見ると、五百年過ぎており、校訂の難しさは、ただ数倍ではない。加えて学は浅く知識は狭いので、無所取材〈[#論語の名句。「目的を果たすための材料を手に入れるところまで達していない」の意]〉である。あえて自らこれを正すことなく、しばらく諸々の書箱を広げたままにする。それによってこれが専門家に質されて、及ばぬ点を私に教え諭し、その元代初めの故実について、私の見識が狭いことにかこつけつつ、憤り嘆きこれを正しく教え導き悟らせてくれることを希望する。〈底本-336〉
道光29年己酉(1849年)夏6月下旬。光沢の何秋濤が、自ら序を書いた。
何君願船は、私の敬服すべき友人である。軍営を離れた印により互いに打ち解け、元聖武親征録が出たのを見た。おそらくそれは校正者が自ら書写したものであろう。朱と黄が光り輝いている。断片になった古書を再び世にあらわした。その功績は昔の人よりもはなはだ厚い。宋濂の元史は、間違いが最もはなはだしい。この録を校正し、その得失を明らかにできる。それは正史において最もわずかならぬ功となった。そもそも史学は遼金元をもって一流派とした。明代より三百年、よく知る者がなかった。清朝始まって以来、銭大昕や程廷尉が優れた専門家として名声を独占してきた。私の見る所では、徐松、龔自珍、沈垚、張穆ら諸君子を同じように選ぶ。今、願船が途絶えた糸を受け継ぎ、これを振興する。他の人が一字一句を読めば、舌が上がって下がることがなく、願船が明らかにこれを言うのは、灯が照らして数を計っているかのようである。
また「ますます事柄を数えて明らかにし、高い価値は詳しい考えにある。その始まりが邢邵の誤書を思うことにあるように、またこれを一巡りする。長く続けたことで、菖蒲を嗜む文王や菱を嗜む屈到のように、巻物と書帙の中に味を超えた味が有ることに気づいた。私は他の人に言葉で説明できないし、他の人も私と同じには出来ないであろう」と言う。ああ、その苦心孤詣ぶり、今の世にどうして、たやすく出会えるであろうか。そもそも、この言葉をまた聞くことは、前の事を忘れず後の事の師とすることになる。今の清朝は西北の地二万里余りに広がっているが、皆以前は元の時代の領土であり、明の時代に編入しなかったものである。しかるに元の事業について、詳しく考えられるべきである。願船はこれを留意し、その統治の一端を調べ求めた。どうして史学を十分に調べず終えられようか。癸丑(1853年)四月二十七日、旌徳の呂賢基が、宿州の行館で序を書いた。
〈底本-337〉皇元聖武親征録。〈文田案、元史の察罕伝は「さらに脫必赤顏を訳すよう命じ、聖武開天記、及び太宗平金始末等書と名付けた」と言う。元史の文に拠れば、この書はモンゴル文字で書き表した最初のもので、これを脫必赤顏という。察罕は訳したものに名をつけるよう命じられ、はじめて聖武開天記と名付けた。そうであれば名を記したのは、まさに漢語に改定した察罕である。ならばこれこそが聖武開天記である。またの名を皇元聖武親征録といい、やはり伝写し改変するだけなのは当然である。元代の公文書について考えると、皇元経世大典、皇元一統志の類のように皇元の二字が多くある。そうであるならば聖武開天記の上にも、皇元の二字があるべきである。この書と秘史はともに宮中で所蔵され、漢人は覗き見できなかった。これは虞集伝が「経世大典を編修するにあたり脫卜赤顏を請うた。当時の大臣は「機密に関する事は部外者に伝写させることが禁じられている」と言った。」と称したことによる。このようにこの録は、元代にあってはすべての漢人は等しく見ることができなった。明代に至って史書を編集する時、初めて元朝の宮殿の中でこれを得ただけであった。〉
烈祖 神元皇帝、諱は也速該〈秋濤案、また也速該 可汗、また葉速該 拔都︀とする。元秘史は也速該 把阿禿兒とする。把阿禿兒はつまり拔都︀である。通世案、把阿禿兒はモンゴルの美称である。多遜は巴哈都︀兒とし、勇ましいとしてこれを解く。元朝秘史はあるいは訳して勇士とする。洪文卿〈[#「文卿」は洪鈞の号]〉は「今奥地利国の馬加部、実は東方民族で、元史の馬札兒である。その人を称する巴圖爾は、音が把阿禿兒のようである。秘史の傍訳の文字を見れば十分で、必ずや文字を書き損じたものではない」と言う。又、蒙古源流は伊蘇凱 巴圖爾。也速該を可汗として称する箇所は本書に一度見える。秘史巻二にも也速該 罕とある。おそらくいずれも王位追号の意味であろう。
〉初めて塔塔兒部を征伐し、その部長である帖木眞 斡怯と忽魯 不花らを捕らえ、〈斡は原書では幹。秋濤案、帖は元史では鉄とする。秘史は「塔塔兒と殺し合った時に、也速該 把阿禿兒は、異族の帖木眞兀格・豁里 不花らを捕えて来た。太祖が生まれた時、将帖木眞 兀格を捕らえて来た時に生まれたので、帖木真と名付けられた」と言う。秘史の場合を考えると、この帖木眞 兀格なる一人の名は、これは帖木真幹怯である。幹に斡を当てるとともに音が近い。豁里 不花なる一人は、〈底本-338〉つまり忽魯 不花である。であれば録の後文に言う「帖木眞を捕らえた」こそが帖木眞なる一人である。元史もまた「その部長鐵木眞を捕らえた」と言う。いずれが正しいかまだ詳しくわからない。通世案、幹が斡の間違いであることは疑いない。今改める。伯哷津は喇施特 額丁のモンゴル史を訳し、帖木眞 兀格を一人、庫魯 不花を一人とする。後文でただ帖木真と言うのは文字の省略である。蒙古源流は特穆津とする。〉軍勢を跌里溫 盤陀山に帰還して駐留〈秋濤案、秘史は迭里溫 孛勒荅里山とする。朱一新案、秘史に拠って里を黒とすべき。通世案、蒙古源流は德里袞 布勒塔干地方とする。
額兒忒曼は「今の名は第倫博爾達克。聶爾泌斯克人裕琳斯奇が現地調査して敖嫩河右岸の額克阿拉爾中州の上流七ロシア里にある」と言っている。多桑モンゴル史は「布爾都︀克はモンゴル語で山である」と言っている。洪鈞は伯哷津の書を訳して迭溫布兒荅克とし、「秘史の音が正しく、西洋人は状態の悪い字を音訳し、読み重ねる毎に漢字文書が述べる山名に収まり、西洋史は地名あるいはそこの山名をもって地名とする」と言った。〉している時に太祖 聖武皇帝は生まれ、右手に血の塊を握り、人間業でない不思議なことと尊ばれた。捕らえた帖木眞 斡怯が名の由来である。
最初の泰赤烏部長別林は、〈秋濤案、泰赤烏、秘史では泰亦赤兀惕。通世案、泰赤烏、元史も同じ、そして元史 宗室世系表では大丑兀禿。畏荅兒伝では大疇。蒙古源流では岱齊果特。又案、別林は、おそらく秘史の俺巴孩であろう。海︀都︀の次男察剌孩 領忽の孫とされる。元史では咸補海︀ 罕、源流では阿木拜 汗。別林の二字は、脱字や誤字があるとすべきである。〉昔は我らとの間に恨みはなかった。阿丹 可汗が部長の跡を継いだ。〈曽植案、秘史の最初で俺巴孩の後に泰亦赤兀惕氏になったとある。俺巴孩は金朝の官吏に捕まり、その十人の子のうちの合荅安 太子に仇を返すよう託した。通世案、伯哷津は合荅安 太子が外れ阿達爾汗があり泰赤烏部長塔兒忽台 哈拉兒禿克の父と書いている。これが阿丹 可汗である。合荅安 太子と同じではないようである。
〉二子である塔兒不台と〈秋濤案、秘史は塔兒忽台とする。通世案、不を兀と当てる。後文に塔兒忽台 希憐禿とある。〉忽鄰 拔都︀は〈忽は原書では忍。通世案、忍が忽の誤りであることは疑いない。今改める。伯哷津は塔兒忽台 哈拉兒禿克一人の名を書いている。ほかに忽力兒 巴哈都︀兒があり、塔兒忽台の従兄弟とされる。つまりこの忽鄰 拔都︀である。額兒忒曼は乞哩兒禿克を特兒忽台の称号とし、訳は害意となり、忽魯兒 巴哈都︀兒を特兒忽台の甥とする。秘史の塔兒忽台 乞鄰勒禿黑は、納牙阿による解放のくだりを考えると、やはり似ており一人である。〉無念にもそのまま途絶えた。烈祖が早死にした時、上〈[#「上」は太祖チンギスを指す。以後、太宗オゴデイが即位するまですべて同じ]〉は幼く、部民の多くが泰赤烏を頼った。
〈通世案、泰赤烏が無念にもそのまま途絶えたのは、烈祖の死後のことである。秘史は「也速該は帖木眞を連れて、翁吉剌氏の德 薛禪家に到り、その息女孛兒帖を帖木眞の妻とする約束をし、帰りに塔塔兒部に立ち寄り毒殺された。その年、俺巴孩 合罕の二夫人斡兒伯、莎合台が祭祀の時、訶額侖が遅れて来て、供え物の肉を分配されなかった。訶額侖はそれを嘲った。二夫人は怒った。翌日、塔兒忽台 乞鄰禿黑、脫朶延 吉兒帖等が遂に訶額侖母子を捨てて去った」と言う。この書は烈祖の毒殺と祭事に起きた仲違いを載せておらず、国史が言うのを忌み憚ったとすべきである。また、元朝の祖先の譜系は欠けて省かれている。
秘史に拠れば、也速該の祖父合不勒が、合罕を自称し始めた。すなわち元史にある葛不律 寒である。喇施特のモンゴル史が云う「合不勒 汗は威光と人望が甚だ盛んで、モンゴル全部を統括した。この時に汗の称号が始まった。」がこれである。合不勒は七子を顧みず、再従弟の俺巴孩に民衆を統治させた。これが泰赤烏氏である。俺巴孩は塔塔兒の人に捕らえられ、金朝に献じられ、殺された。子合荅安と合不勒の子忽圖剌に、力の限り報復するよう言葉を遺した。諸部は忽圖剌を合罕とし、合荅安 太子と共にしばしば塔塔兒を攻めた。喇施特は忽圖剌を勇ましく力があると称賛した。おそらく大金国志のいわゆる熬羅は元朝皇帝の祖が自称したのであろう。
忽圖剌が亡くなった後、汗位は長く定まらなかった。おそらく兄把兒壇が、まず忽圖剌に先んじて即位するも亡くなり、俺巴孩・忽圖剌みな分家があり、諸部は従うのに適した者がわからなかったのであろう。把兒壇の子也速該は戦いが上手だった。客列亦惕の内紛を治めようと考え、王汗を国に戻し、安答の盟約をし、それで乞顏の豪が知られるようになった。だが、汗位につくことはなく、モンゴル全部を統べることはかつてなかった。さて、元史には俺巴孩・忽圖剌の事が一語もなく、ただ「葛不律 寒が没し、子八哩丹が継いだ。八哩丹が没し、子也速該が継いだ。国の勢いはいよいよ盛大になった。」と言っている。也速該がモンゴルの正統を受け継いだかのようで、太祖がその家の嫡男に生まれ育ったかのようになっている。これと秘史は合わず、誤りは明らかである。喇施特は「也速該は尼倫〈[#「ニルン」はモンゴル語で「背骨」。「一族」の意]〉をとりまとめ、各部はみなこれに畏服した」と言い、元史類編は「也速該は諸部をみな取り込み、勢いはいよいよ盛んになり、これが元の始祖となった」と言い、みな歴史の飾筆によるものであれば、いよいよ事実ではない。よってこれを整える。喇施特のモンゴル史は後でただ西史について言う。〉上は、近侍脫端 火兒眞が〈秋濤案、秘史は脫朶延 吉兒帖とあり、おそらくこれであろう。文田案、吉を古とする。通世案、喇施特は帖木眞部の最年長者の二人とする。脫端は、おそらく元史の掇端 斡赤斤、秘史の脫朶延 斡惕赤斤、太祖の祖父把兒壇 把阿禿兒の末弟である。火兒眞については考えがない。額兒忒曼訳拉施特史は、喀呼兒濟とする。〉やはり
まさに叛いたと聞き、自ら泣いてこれを留めた。脫端は「今や清き沢はすでに涸れ、堅き石はすでに砕けた。なんのために帰って留まろうか」と言った。そのまま去った。上の母月倫太后は、
〈秋濤案、太后は斡勒忽訥氏。元史 太祖紀は、宣懿太后と称する。月倫が名である。秘史は訶額侖とする。
烈祖の没後を考えるに、太后の賢能のおかげで、太祖兄弟は、みな成人できた。しかし元史は伝を立てず、またおろそかである。文田案、元史は月倫太后を伝を立てるべき者とみなさず、也速該が昔これを捕らえて得た。
従来の記述に従えば、蔑里乞部の女性である。元朝の人といえどもこれを忌んだ。明朝の人が元史を編纂し、次第におおざっぱになったか。
通世案、蒙古源流は烏格楞 哈屯 鄂勒郭諾特氏とする。伯哷津は諤倫 額格を翁吉剌分族の斡勒忽訥特氏とする。
〉旗を指し〈通世案、この語は誤り。秘史蒙文は禿黑とし、西史は禿克とする。いわゆる纛である。昔のモンゴルに軍旗は無く、単に牛の尾もしくは白馬の尾を棹の頭に繋げて、これを毛飾りのついた旗・纛とする。秘史は英槍と訳すが、これも誤り。
〉将兵を自ら追いかけ、大半が戻ってきた。部将察剌海︀は〈秋濤案、秘史の察剌合。〉鎗にあたって大けがした。上は自らいたわりねぎらった。〈底本-339〉
察剌海︀は「先君が亡くなってから、〈原本では「自居登避」の四字、まだ詳しくわからない。秋濤案、「自先君登遐」とする。おそらく間違って君を居、遐を避としたのか、みな形が似ている。むかし字が再び伝え写され脱落したのである。〉部民の多くが叛きました。わたくしめは怒りに勝てず、遠く追いかけ〈追は原書では迎。張石州が翁方綱本に拠って改める。〉苦戦し、このようになりました。」と言った。上は感涙し出ていった。〈通世案、このあたりは、大切なことがいくつか述べられるべきで、秘史を詳しく見る。一、叛いた者が半分帰ってきて、まもなく皆離れ去り、泰亦赤兀をたよった。二、訶額侖は苦労して、子らを育てる。三、太祖と合撒兒がそろって異母弟別克帖兒を殺す。四、泰亦赤兀惕が太祖を襲って捕え、鎖兒罕 失剌に救って逃がすよう頼る。五、太祖が馬泥棒を追い、孛斡兒出これを援ける。六、德 薛禪が息女を太祖にめあわせる。七、孛斡兒出が来て服従する。八、太祖が父の友王罕にまみえに行き、父と敬う。九、者︀勒篾が来て服従する。十、篾兒乞人が襲って来て、別勒古台の母と太祖の妻孛兒台を掠めて去る。十一、
太祖が王罕と札木合に出兵を乞い、篾兒乞を打ち破る。孛兒台が逃れ帰る。別勒古台が得られない母を探し求める。戦争中に幼児曲出をとらえる。十二、太祖と札木合が再び安荅となり、共に営み暮らす。やがて離れ去る。諸部の多くが札木合を棄て太祖に味方し、遂に太祖を成吉思 汗として立てる。
この十二条は、みな烈祖没後二十年ぐらいの間にあり、太祖創業の艱難を述べるうえで、決して欠くべからざるものであろう。だが本書はこれが抜け、すぐに十三翼の戦いで、太祖幼時事からのつなぎの、おろそかなこと殊に甚だしい。喇施特のモンゴル史は、またこれと同じ。国史脫必赤顏と喇施特が金冊の同じ本を用いていることがわかる。みな秘史原本のありのままの飾り気のなさと詳しさに及ばない。〉
ときに上の家来搠只 塔兒馬剌は、〈秋濤案、邵遠平の元史類編はこの親征録を引いており、塔児馬剌の四字がない。
文田案、元史 本紀は「搠只は別れて薩里河に住んだ」とする。ゆえに邵遠平は文節の四字を減らしている。秘史は拙赤 荅兒馬剌とする。
通世案、伯哷津の書は札剌亦兒人の拙赤 塔兒蔑勒とする。注に「札剌亦兒人は、海︀都︀によって捕えられ奴僕となったもの」と言う。
〉薩里河に別れて住んでいた。〈秋濤案、元史類編を引いて薩里川とする。通世案、秘史は撒阿里地面、また撒阿里 客額兒。客額兒は、モンゴル語で「広野」という意味である。
多遜は薩里奇哈兒とし、黄色い野と訳す。
秘史にある客魯漣河の源の不兒吉岸は、本書では薩里河不魯吿崖、つまり薩里の野とし、克魯倫河の上流に当たる。
元史類編の朔漠図は、撒里怯兒于を斡難︀河の南に置き、「元朝はここを始まりとして起こった」の四字を付記する。〉札答蘭氏〈
通世案、秘史は札荅剌氏、また札荅闌氏とする。その祖札只剌歹は、孛端察兒の子巴阿里歹の異母兄である。
そして札木合は札只剌歹の四世孫。太祖は幼い頃に札木合を親友としたと考える。太祖は、孛端察兒の十世孫だが、札木合はわずか五世である。
おそらく系統図は誤っている。西史は札只剌特氏とし、托邁乃の第七子烏都︀兒 伯顏の子孫とする。元史 孛禿伝は札赤剌歹とする。
〉札木合の部民である禿台察兒は、〈通世案、秘史は札木合弟紿察兒とし、伯哷津は紿古察兒とする。〉玉律哥の泉に住み、〈
通世案、秘史は札剌麻山の前にある斡列該 不剌合の原とする。多遜は烏拉該 布拉克とし、赤い泉と訳し、さらに「これは今烏楞該河である。敖嫩河北山を源とし、音果達河に流れ入る」と言う。であれば赤い泉は黄色い野と近接し、遊牧民の闘争があるので、敖嫩河の北にあるというのは正しくない。この話は根拠が足りない。
いま大肎特山の西に、集隆︀山があり、あるいは卽龍とし、音は札剌麻に近い。
斡列該の泉は、集隆︀山南麓にあり、薩里の野と接している。〉攻め落とし〈原書は挙の字が欠けている。秋濤が元史類編をもとに足した。
〉多くの人が薩里河に来て、搠只の牧馬を掠め取った。そばにいた搠只の配下が馬群をかくまい、これを射殺した。
〈秋濤案、禿台察兒を射殺したと考える。〉札木合はこれをもって仲違いした。ついには泰赤烏、亦乞剌思、〈通世案、
秘史は亦乞列思とし、輟耕録はモンゴル氏族、永吉列思とする。額兒忒曼は音乞剌思とし輟耕録と音が近い。
〉兀魯吾、〈秋濤案、兀は原書では元とし、今改める。通世案、これは元史の兀魯兀禿、秘史の兀魯兀惕、納臣長子兀魯兀歹の子孫である。
〉那也勤、〈原書は郡也勒となっており、通世が校改する。案、秘史では合臣の子那牙吉歹を那也勤氏とする。版本は勤を誤って勒とする。秘史巻五では、あるいは那牙乞とする。〈[#「那牙乞」とするのは巻五ではなく巻三]〉伯哷津の書、托邁乃長男札克蘇に那牙勤という子があり、その後那牙勤氏とされた。洪鈞氏の訳文も、那牙勒氏と誤っている。〉八魯剌思、霸鄰諸部が共謀し、三万の軍勢で戦いに来た。〈秋濤案、霸鄰部は八鄰部にあたる。
文田案、秘史に巴魯剌思氏は巴魯剌台から出たとある。また、巴阿鄰氏は、巴阿里歹から出た。また、輟耕録の蒙古七十二種氏族には、八魯剌忽や八鄰がある。この二部とひとしい。通世案、八魯剌思を喇施特は火魯剌思とする。八は火を誤ったのであろう。後文にある火魯剌の注を見よ。
秘史は「札木合が十三部をひとつにまとめて治め、あわせて三万人、云云」と言う。おそらく札木合が十三部を率いて来たので、太祖も十三翼に分かれて応戦したのであろう。
〉上はそのとき駐留していた、答蘭〈秋濤案、元史 本紀は蘭を闌とする。〉版朱思の野に。〈通世案、秘史は荅闌 巴勒主惕の地とし、巻九がこの戦役を引用し、巴勒渚︀納の地とする。額兒忒曼は荅闌巴勒朱思とし、荅闌を平地と解釈し、巴勒朱思を、巴勒朱那とする。和渥兒特は栗特兒地図を調べて、「巴勒朱那は、小さな湖である。圖剌河はここから流れ出て、音果達河に入る。敖嫩、音果達の分水嶺は、この山の東にある阿拉沙那山という」と言う。洪氏は「巴勒渚︀納を淖爾〈[#「ノール」はモンゴル語で「湖」の意]〉の名とし、ここの地名は、まさに荅闌の二字であり、必ずやひとつの場所ではない。あるいは秘史巻九は、主惕を誤って渚︀納としたのであろう。」と言う。
小肎特山から東に千里あまりの敖嫩河を考えると、東経百十一度半に至り、北西から合流する巴爾集河がある。また、東北に数百里流れると、北西から合流する他拉巴爾濟河がある。荅闌巴勒朱思は、巴爾集河のほとりの平野にあたり、よって他拉巴爾濟河のほとりの地ではない。巴勒渚︀納は、本書では班朱尼河とされ、後文で見える。〉亦乞剌部人〈乞は原書では迄とし張石州が校改する。秋濤案、亦乞剌部は、前文の亦乞剌思部。
元史 孛禿伝は、亦乞列思氏と言う。列と剌はみな訳語訳がたまたま異なっている。通例として某部に住む者はその部を氏とする。ゆえに元史の伝が氏と言えば、この記が部を言うのと同じである。文田案、亦乞剌部、出自は駙馬昌王阿失の祖孛禿。この記の孛徒である。元文類 駙馬昌王碑に詳しい。〉捏群〈原書は辟とする。秋濤案、群を当てる。注は後文に見える。〉の子孛徒は、〈底本-340〉〈
原書は字徒とある。秋濤案、孛徒とする。〉早くから配下だった。ここに〈原書は至の字が抜けている。是自の二字が倒置されている。秋濤が元史類編によって補正する。後文で言う。〉曲鄰居山より至り、〈山は原書では小とある。秋濤が校改する。通世案、秘史は古列勒古の地、または古連勒古の地とする。伯哷津は古魯の地とする。曲隣居と古魯、いずれも古列勒古の変音。〉卜欒台、〈欒は原書では奕。通世が元史と秘史に拠り改める。後文に見える。〉慕哥二人を遣わし、阿剌烏・禿剌烏二山を登り越えて〈曽植案、秘史の阿剌兀惕・土兒合兀の峰。通世案、伯哷津の書は阿剌烏特・禿剌烏特二山とする。〉変を告げに来た。
〈秋濤案、元史類編はこれを引用して、答蘭を塔蘭、捏辟を捏羣、字徒を孛徒とする。「この曲鄰居小から」という句を「曲鄰居山からここに至り、卜奕台 慕哥三人を遣わし、阿剌禿剌烏干山を登り越えて変を告げた」とする。元史類編が引く所は、間違いのない時期の書が多く、これに従うのがふさわしい。思うに卜奕台と慕哥は、元史は波欒歹、磨里禿禿とし、人名がまったく異なる。波と卜の音が同じで、奕と欒は字の形が似ている。低級な書が欒の上の䜌を亦にしたのである。どれがよいのかは知らない。又案、今のこの山名と元史類編が引く所も異なっている。後文にある「札木合敗走、彼軍初越二山」の語を考えると、二山とされたのはこれである。おそらく元史類編は阿剌の下の烏の字を取り除いたのであろう。
二つの間違いのみに関わる。又案、元史 本紀は「札木合は恨みに思い、ついに泰赤烏諸部とともに、三万人で戦いに来た。帝はその時答闌版朱思の野に駐留しており、変を聞いて諸部の兵を大いに集め、十三翼に分けて待ち受けた」。だれが変を告げたか載せていない。ここで聖武記を引くところの元史類編に拠れば、この字徒という孛徒の間違いを正したとわかる。
元史 巻一百十八をよく考えると、孛禿伝があり、それがこの孛徒である。その伝は孛禿亦乞列思氏で、太祖は皇妹をこれの妻にしており、これが「早くから配下だった」と本書が言っているのと、やや異なっている。また「やがて札赤剌歹札朮合脫が抜けてしまい、三万の兵で入寇した。孛禿はこれを聞き、波欒歹と磨里禿禿を遣わし告げてきた云々」と言う。つまりこのことである。札赤剌歹を考えると、つまり泰赤烏であり、札朮哈は、つまり札木合である。朮は、木の間違いである。
思うに一つの事が紀伝に分かれて載せられており、姓名はそれぞれ異なっており、誰がうまく判別できるであろうか。
元史のおろそかさは、ここに見ることができる。古い従来の続通鑑綱目などの書は、この事をまったく掲載していない。この書の存在を頼み、注意深く考え、厳しくその原書の詳細を得るのみである。
又案、戊寅年(1218年)、木華黎が亦乞剌部孛徒駙馬二千騎、つまりこの孛徒である。。
元史は「太祖はむかし皇妹帖木倫を孛禿の妻とした。皇妹が亡くなり、再び皇女火臣 別吉を妻とした。」と唱える。
この孛徒、二人いずれも皇帝の娘をめとり、ゆえに後に駙馬と称された。思うに元史は皇妹を妻としたことが、変を告げる前にある。これと汪 可汗戦の時を見ると、
孛徒はどちらも駙馬を称していない。戊寅年に至り、変を告げた功をもって初めて孛徒が尚主したとある。元史ははっきりと載せていない。曽植案、札赤剌歹は、
札木合部名であって、泰赤烏ではない。又案、孛禿は、秘史では不圖とする。その太祖家への婿入り、および変を告げた後のことは、ともに巻四〈[#「巻四」は十五巻本であり十二巻本では巻三に当たる。以後すべて十五巻本での数え方]〉に載せられている。変を告げたことをもって尚主されたのではない。又案、卜欒歹、秘史は孛羅勒歹とする。慕哥、秘史は木勒客 脫塔黑とする。
通世案、秘史は「ときに成吉思は古連勒古の地にいた。亦乞列思族の木勒客 脫塔黑と孛羅勒歹の二人が伝えに来た」と言う。
伯哷津は「捏坤は泰赤烏特部の下にいて、その子孛徒は成吉思 汗に従った。ゆえにその父も身を寄せたか。ときに兵は古魯の地にいた。巴魯剌思人の木勒客 脫塔克ら二人があり、まず来て、今まさに身を寄せた。捏坤はそれを頼って、変を告げさせに来た。」と言う。案、この戦い以前の、太祖の事蹟については、西書みな欠けて載せていない。秘史に拠れば、太祖が若い頃に泰亦赤兀惕の難を免れ、まさに古連勒古に住み始めた。巻二のいわゆる「不兒罕山の前に、古連勒古山があり、山中に桑沽兒河があり、ほとりに合剌 只魯格小山があり、青い湖があった。帖木眞はその間で居住した」は、これである。
ついで孛兒帖 兀眞を娶り、客魯漣河不兒吉岸に還った。その後篾兒乞に襲われ、王汗・札木合に派兵を乞い、仇を返し、そのまま札木合につき従い、豁兒豁納黑 主不兒の地に住んだ。札木合と別れるにいたり、人々は可汗と奉じ、古列勒古の地の内にある桑沽兒河のほとり合剌 主魯格の闊闊 納兀兒の湖に戻り住んだ。闊闊 納兀兒はつまり青い湖である。その後十数年、辛酉年(1201年)、まだ古列勒古を去らずにいた。今札木合の侵攻に遇い、荅闌 巴勒主惕の地に進んで戦うに及び、敵が古列勒古を取ることに甘んじたか、そうであるならば西史が、古列勒古が敵兵の居場所となったとするのは、おそらく事実ではない。とはいえ、西史のつぶさな事情の叙事は、東書に比べると詳しい。又案、元史の磨里 禿禿は、木勒客 脫塔黑の誤りであり、この慕哥は、木勒客の誤りである。元史類編は三人に三、二の誤りを引いており、西史は孛羅勒歹がなく、木勒客 脫塔克を二人とし、これも間違い。
〉上は諸部を集め、厳重に備え、およそ十三翼で〈秋濤案、兵をおよそ十有三翼とする。通世案、翼の字は、秘史蒙文が古列額惕としており、集団と訳している。喇施特は古闌とし、環と訳し、つまりは集団である。洪氏は「庫倫の意味は集団で、古闌はまさに庫倫である。各所の方言が音が異なっているだけである。」と言う。
〉月倫太后および上の兄弟は三翼となった。〈秋濤案、元史類編を引いてこれを「およそ十有二翼。月倫太后および上の兄弟は一翼となった。」とする。邵戒山〈[#「戒山」は邵遠平のあざな]〉が見たところの聖武紀が、たまたま一字間違っていることがあろうか。通世案、伯哷津の書は諤倫 額格を、出身部の斡勒忽訥人とともに、第一翼とし、成吉思 汗と兄弟を、家来や、各部の若者とともに、第二翼とする。ここはすでに三翼とあるので、誤りかもしれない。〉哈初來の子奔搭出 拔都︀〈
原書は板相とある。秋濤案、抜都とあてる。曽植案、哈初來は秘史の哈出剌、世系表の合產、蔑年 土敦の子。太祖から八世祖先の、その子がなお健在とは受け入れられない。また哈出剌の子孫は、小巴魯剌思とされるが、阿荅兒斤は、合出剌の弟合赤溫の子孫。世系表と秘史がともに同じ。これと合わない。
どうやらこの節は間違いが極めて多いらしく、ひとつひとつを詳しく考えられない。通世案、哈初來から火魯剌諸部に至るまで、伯哷津は第三翼とする。哈初来之子奔搭出板相については、伯哷津は撒拇哈準の子孫布拉柱 巴哈都︀兒とする。板相が抜都の誤りであること、疑いなし。今改める。撒拇哈準は元史の葛赤渾、秘史の合赤溫であり、元史は敦必乃の第五子とし、西史は托邁乃の第四子とするが、秘史は篾年 土敦の第五子とし二史と異なる。
とはいえそれを阿荅兒斤氏の祖とするのは、同じである。哈初來の来は、おそらく永を当てるのだろう。乃を急いで読んで哈準とする。奔搭出 拔都︀と秘史の不勒帖出 把阿禿兒は音が近い。不勒帖出は、秘史では合不勒 汗弟撏薛赤列の子とする。撏薛赤列の名は、諸本に見あたらず、したがって不勒帖出は布拉柱と同じ人かもしれず、秘史系に誤りがあるかもしれない。布拉柱は、西史に拠れば、哈準の孫の孫とされ、太祖の三人の従兄の子とある。子は子孫の間違いとあてる。
〉禿不哥逸︀敦、〈通世案、この句は、伯哷津が「また客拉亦特の分族の人があった」とする。洪氏は「客亦特と哥逸︀敦は音が近い。西域史は人名を族名と誤ったのかもしれない」と言う。〉木兒忽、好闌など、阿答兒斤・察忽蘭・火魯剌〈火は原書では大とし、秋濤が校改する。通世案、火魯剌は火魯剌思であり、おそらく部内のある者は札木合に従い、ある者は太祖に従ったのである。秘史巻一は「豁哩 禿馬惕部落の官人豁里剌兒台 篾兒干、不兒罕山の狩りの動物を広くあるのを得られると聞き、〈底本-341〉みなで移り住み、不兒罕山の主人をたより、晒赤 巴顏と名のり、豁里剌兒姓の由来となった。」と言う。豁里剌兒台 篾兒干は、孛端察兒の母阿闌 豁阿である。西史は「阿闌 郭斡は、火魯拉思氏」と言う。洪氏は「豁里剌兒氏、秘史にわずかに一度見える。おそらくこれは火魯拉思」と言う。そうであるならば火魯剌思氏は豁里 禿馬敦の分族であり、つまりは不兒罕山に従う家来〈[#「南」は家来の意]〉である。
〉諸部を統率、〈通世案、木兒忽以下、伯哷津は「また阿荅兒斤人、指揮官は木忽兒 忽闌という。また火魯剌思人、指揮官は察魯哈という」とする。洪氏は「木忽兒 忽闌、録は木兒忽 好闌、まさに忽児の二字が倒置する誤りである。察魯哈は察忽闌をあてる。録は部名とする。
東西〈[#「東西」は底本では「束西」。「東西」の誤植と判断]〉の著述をまとめて調べると、この部名はない。あるいは人名を部名の誤りである。木忽兒 忽闌、および布拉柱、みな阿荅兒斤人。親征録の文義を味わうと、貝勒津の書と合い、これは「奔塔出、哥逸︀敦、および木忽兒、阿荅兒斤部を治め、察忽闌は火魯剌部を治めた。つまり言うところはみな円である」にあたる。又案、孛徒伝は「そこで哈剌里、札剌兀塔兒哈泥らが、脫也らを討つ」と言う。
哈剌里は火魯剌の誤りである。兀塔兒哈泥は阿荅兒斤の誤りである。札剌は次翼札剌亦兒の略である。脫也は考えがない」と言う。
〉するとともに鮮明昆 那顏〈秋濤案、那顔は原書では邪顔で、誤り。今改める。〉の子迭良は火力台 不答合の人々を統率して一翼をなした。〈曽植案、不答合、これは不答安惕部、合闌歹の子孫。通世案、鮮明昆以下、伯哷津は第四翼とし、「蘇兒嘎圖 諾顏の子得林赤、ならびにその弟火力台、および博歹阿特人」とする。鮮明昆は、蘇兒嘎圖と、字の音が合い難い。明はおそらく児の間違いであろう。迭良は、得林赤。火力台は、伯哷津の書に拠ると、合不勒 汗の兄博歹阿庫兒格のひ孫。父は塔兒古台といい、蘇兒噶圖の別名。博歹阿特は元史の博歹阿替氏、秘史の不荅安惕氏。その祖博歹阿庫兒格、元史は哈剌喇歹とし、敦必乃の第四子とし、西史は托邁乃の第五子とする。秘史は合闌歹とし、元史と音が一致する。篾年 土敦第六子としており、二史と異なる。不答合の合は、台の誤りとあてる。
〉札剌兒と阿哈部で一翼をなす。〈通世案、この翼は、伯哷津は第五第六翼とし、「莎兒哈禿 月兒乞の子薛徹 別乞、ならびにその従兄弟泰出、および札剌亦兒人、莎兒哈禿人」とする。莎兒哈禿 月兒乞は、つまり秘史の莎兒合禿 主兒乞であり、合不勒 汗の長子斡勤 巴兒合黑の子、主兒乞氏を称し、あるいは主兒斤氏とも。元史は岳里斤とし、本書の後文では月兒斤とする。莎兒禿哈は、月兒斤氏の別称とあてる。本書は阿哈とし、奪誤があるかもしれない。又案、このあたり、伯哷津の書は、第七翼があり、渥禿助・忽都︀・朵端乞およびその麾下。人名不詳。注は「乞要特人」。また第八翼があり、「蒙格禿 乞顏の子程克索特およびその兄弟、みな成吉思 汗の従兄弟とする。また巴牙兀特人。軍を率いる人は翁古兒という」と言う。
蒙格禿 乞顏は、元史の蒙奇睹 黑顏、也速該の長兄である。翁古兒、秘史は忙格禿の子とする。〉答里台〈里は原書では聖。曽植案、里の字の誤りとあてる。通世が西史に拠って改める。後文を見よ。〉火察兒二人および忽都︀蘭・捏古思・火魯罕・撒合弟直部
〈秋濤案、のちに汪 可汗と太祖が攻めあった時、撒合弟部があり、よって撒合弟を一部とする。直の字は誤った文字ならびが疑われる。あるいは諸の字を当てる。
曽植案、捏古思は、捏兀歹とも称し、秘史第四巻に見える。輟耕録は捏古歹とする。後文で王汗が敗けた後、「答力台・斡眞・八隣・撒合夷・嫩眞諸部が、頭を地面につける最敬礼で服従してきた」、これはすぐ上の嫩の字の抜けである。撒合弟は、後文に拠って撒合夷とする。秘史の撒合亦惕は、この部である。
〉を一翼とする。〈通世案、これを伯哷津は第九翼とし、「答里台 斡赤斤、および捏坤 大石の子火察兒、族人達魯、ならびに都︀黑剌特・努古思・火兒罕・撒哈夷特・委神︀諸部」とする。洪氏は「これは思うに達魯という人名、委神︀という部名が増えている。忽都︀闌は、都︀黑剌とし、都忽の二字が間違ってさかさまになっている。捏古思は、努古思。火魯罕は、火兒罕。撒哈弟直は、撒哈夷特。委神︀は、元史の許兀愼。輟耕録の蒙古七十二種に忽神︀があり、委神︀である」。
案、答里台は、也速該の弟。揑坤は、也速該の兄。都︀黑剌特は、西史に拠れば、合不勒 汗の弟布端察兒 朵黑闌の子孫である。秘史は脫忽剌兀惕とし、納臣第四子朵輍剌反の子孫とする。撒哈夷直は、後文に直の字がない。直は真の間違いであり、上の部分が字から抜けたのである。
〉忽都︀徒 𢗅納兒、〈秋濤案、忽相を抜都とする。これはのちの汪 可汗との戦いの時に言う「わが麾下の𢗅納兒 拔都︀」である。曽植案、忽相徒𢗅納児は、秘史の忽禿黑禿 蒙古兒であり、元史の表は忽都︀魯咩聶兒とする。合不勒 罕の子。秘史忽禿黑禿 蒙古兒の子、不里 孛闊とする。これはこの書の後文の播里。蒙哥怯と只兒哥が一つなのか二つなのかわからない。〉の子蒙哥怯・只兒哥を一翼とする。〈通世案、この翼は、西史に載っていない。西史の第七翼渥禿助 忽都︀、忽禿黑禿のなまりに似ている。この蒙哥怯も西史の第八翼蒙格禿のなまりに似ている。両書みな間違っているかもしれない。
〉忽蘭脫 可汗の子搠只 可汗〈曽植案、忽蘭脫 可汗は、秘史の忽圖剌 合罕、元の史表は忽魯剌 罕とする。また合不勒 罕の子。搠只は秘史の拙赤。
〉を一翼とする。〈通世案、これを伯哷津は第十翼とし、「忽都︀剌 汗の子拙赤 汗およびその従者」とする。蘭脱の二字が誤ってさかさまになっている。〉按を一翼とする。〈この句は原書では抜けている。張穆は翁方綱本に拠って校正増補し、「𡊨は垓を当てたようである」と言う。秋濤案、按𡊨と、後の案彈・案攤を、一人とする。文田案、𡊨は壇の崩し文字である。田舎の俗人はしばしばこれらの字を作る。彼は𡊨の字を誤りとした。曽植案、按𡊨を阿勒壇とする。通世案、これを伯哷津は第十一翼とし、「阿勒壇、これも忽都︀剌の子」。〉忽蘭脫端を一翼とする。
〈秋濤案、脫端のことは後に見える。通世案、忽闌は、秘史は合不勒 汗の第五子とする。元史は庶子とみなし、列は諸子の後になっている。脫端は、合不勒 汗の末の子で、前に見える。このくだり、伯哷津は第十二翼とし、「答忽 巴哈都︀兒、および晃火攸特人、速客特人」とする。本書と合わない。
〉疌相赤紬〈秋濤案、紬を納とする。〉玉烈二男子〈曽植案、郎を部とする。〉を一翼とする。〈秋濤案。十一翼で記載が止まっている。抜けた恐れがある。通世案、これを伯哷津は第十三翼とし、「更都︀ 赤那、烏魯克勤 赤那のあと努古思人」とする。疌相は、建都︀の誤り、つまり更都︀である。玉烈は、烏魯克勤のなまりと省略である。これは人名を部名と誤り、文が失われている疑いがある。ふたつの赤那は、拉施特に拠ると、扯勒黑領昆の子とする。そのあと赤尼思氏とされ、また努古思とも言う。そうであるならば赤那思は、赤尼思、または努古思である。扯勒黑領昆は、秘史の察剌孩 領忽、元史の表の察剌哈 寧昆である。
その長子想昆 必勒格は俺巴孩の父で、泰赤烏氏の祖。伯哷津は莎兒郭勒魯赤那とする。元史の表の大丑兀禿は、泰赤烏特、直拏斯は、莎兒郭勒魯赤那〈底本-342〉の上の部分を省いたものである。輟耕録は誤って察剌哈の兄を拜 姓忽兒の次男とする。おそらく表の名を書き写す時に、たまたま右傍に偏ったのであろう。〉〈[#文求堂本十一頁欠損始め]〉軍勢は答蘭版朱思の野において激しく戦った。札木合は敗走した。彼の軍はやっと二山を越えたばかりの、途中で七十二の竈を作り、狼を煮て食べた。
〈秋濤案、この下に脱文があるかもしれない。曽植案、この事と秘史はきわめて異なる。改めた理由がわからない。巻の始まりで孛端察兒が食えずにいるくだりに狼の字を読むうちに、蒙文の連なりは赤那因とあり、まさに赤那因はモンゴル語で狼と呼び、彼の土地も、たまたま赤那思という名で、訳者はそそっかしくおろかで、この間違いのあるものに変わった。
この書を作った人が秘史の蒙文を見て秘史の訳文を見ていないことをだんだんと知った。又案、この戦いは、太祖の兵が大敗し、あとで兀魯兀惕・𢗅忽惕の両部を得た後でとりあげている。
この書が言う「札木合敗走」は、事実の記録ではない。秘史は「札木合は赤那思の地の王子たちを捧げて、七十鍋ですべて煮てしまった。」と言い、それがこの書の七十二の竈である。
通世案、沈曽植の説は正しい。モンゴル語で、赤那は狼とされ、複数の言葉を想起する。更都︀ 赤那は、雄狼である。烏魯克勤 赤那は、母狼である。赤那思の地は、ふたつの赤那の子孫が住む地である。秘史はまた「札木合はまた捏兀歹の察合安の頭を断ち切って、馬の尾に付け加えて晒して去った」という。
赤那思氏は、また努古思ともいう。捏兀歹は、つまり努古思である。察合安、赤那思の王子たちのひとりである。赤那思一族、この惨禍をこうむり、ゆえに後裔は明らかでない。しかし西史は「成吉思軍は数が少なかったが、敵衆に大勝し、七十のくわで俘虜を煮殺させた」という。これは太祖の負けを勝ちとするのみならず、あわせて札木合による俘虜煮殺が、太祖による事とされている。おそらく脫必赤顏の原文は負けをおおいに忌んで勝ちとしたのであろう。そして赤那思氏の惨禍の叙述は、秘史のもとの文に従った。よって本書は誤訳して野獣とした。西史は七十のくわで人を煮殺したことを疑い、敗者のおさめるところではなく、そこで勝った太祖のこととし、赤那思の名を除き尽くして、ただ俘虜と言ったのである。三書を比較すると、史伝の誤りが生じた理由を理解できよう。〉
このころ泰赤烏部は、地に広がり民は多かったが、部内に法秩序がなかった。その仲間の照烈部〈通世案、秘史は沼兀列亦惕氏とし、巴阿里歹異母弟沼兀列歹の子孫である。伯哷津の書は朱里耶特氏は、札只剌特氏の異称とし、これは誤り。
〉と我らは近く、常に斡禪札剌馬思〈[#「斡禅」は底本では「幹幹」。王国維著「王国維遺書」(1983年)「聖武親征録校注」p.286に倣い修正]〉の野で猟をしていた。
〈通世案、伯哷津の書は烏者︀兒哲兒們山とする。これは秘史の前文札剌麻山である。札剌馬思の野は、札剌麻山麓の地にあたる。
〉上が巻狩りした時、境界がつらなりあい、やがてひとつになった。上は「ここで同宿しよう」と言った。彼らは「四百騎で猟をして食糧が足りず、半分を帰らせた。」と言った。上が言うには、
〈通世案、曰の字は余分かもしれない。そうでなれば曰の下に脱落文があるのかもしれない。〉同宿者を助け給うよう仰せになった。日が明けて、再びひとつになって巻狩りをした。上はこれを客としてもてなし、
獣を駆り立てて彼らに近づかせ、多くの獲物を譲り、その心を従わせた。彼らの多くが感じ入り「泰赤烏は我が兄弟だが、我が車馬をぬすみ、我が飲食物を奪う。我らをあわれみいつくしんでくれるのはこの人ではないか」と言いあった。大いに褒め称え慕いそして帰った。上は使いを送って「仲よくする誓いを結ばないか」と言った。照烈〈原書では造律。張穆が翁方綱本に拠って校改する。文田案、照烈と造律はどちらも音がそろっている。秘史に拠れば、沼列亦歹そこの人がある。この部はまさにその後である。
〉の長玉律 拔都︀は、〈原書では抜相。秋濤案、前後の文を校して通したが、抜相、みな抜都の間違い。通世案、伯哷津は烏魯克 巴哈都︀兒とする。これは克の音が略されている。秘史札剌麻山の前の斡列該の泉は、本書では玉律哥の泉、烏魯克は音が近い。この人はおそらく地名を名としている。〉族長馬兒牙答納に相談した。〈通世案、伯哷津は馬喝︀亦巴答納とする。〉答えて「泰赤烏がどうして我らに悪いものか。彼らはそれでも兄弟である。どうしてこれに降れようか」と言った。聞き入れなかった。玉律 拔都︀は〈原書では抜相。秋濤が改める。〉ついに塔海︀答魯とともに、〈通世案、伯哷津は作圖該・烏魯と、二人に分ける。
〉役人たちが身を寄せて来た。上に「我らのごときは、夫のない妻・牧夫のない馬、だから来た。よって泰赤烏の長の母の子は我々を探して殺す。我らは打ち〈[#文求堂本十一頁欠損終わり]〉棄て、道義に従いこれを摘まみ取る」と言った。
〈秋濤案、この句に脱落の疑いがある。通世案、担は、誓の間違いかもしれない。棄は、泰赤烏を棄てる。〉上は「私はまさに眠りこけていた。髪をつかまれ気づいた」と言った。ぼんやりと坐っていたのをひげを高くあげられ起こされて、「お前の言葉は、私がいつも考えていたことである。お前が兵車を至らせるところは、私が力を尽くして助けよう。」〈通世案、額兒忒曼が喇施特の史を訳して、「烏魯克は「我らが来るのは、夫のない妻、主のない馬、牧夫のない羊のようなものである。これにより、旧主の長の母の子が我らを虐げ殺すのである。ゆえに棄てて来て従う」と言った。成吉思は「私は眠りこけるかのようであったが、お前は私の髪をつかんで私を覚まし、また私のあごを持ち上げて私を起こした。私は力をつくしてお前を助けよう」と言った」と言う。本書と比べると、文の意味がややはっきりしている。
洪氏は「托我頦以起我は、「兀坐掀髯而起」という語の異訳である」と言う。〉約束した後、二人はうそをついて、叛いて戻った。少〈秋濤案、少の字は誤りがある。文田案、少の下に時の字を当てる。
〉族人忽數 忽兒章が、〈秋濤案、後文の忽敦 忽兒章を当てる。見えた後に述べる。〉塔海︀答魯が叛いたことを怨み、ついにこれを殺した。
〈秋濤案、元史は「泰赤烏部人が殺すところとなった」とする。これと同じでない。通世案、洪氏は「秘史巻五の蒙文、泰亦赤兀族内に、豁敦 斡兒長この人がある。これは泰亦赤兀人として疑いはない。」と言う。〉照烈部は滅んでしまった。泰赤烏部の多くの民は、部長の非法に苦しみ、〈底本-343〉言い合うことには「太子は〈原注「太祖のことである」。〉自分の衣を人に着せ、自分の馬に人を乗せる。民を安らかにし国を治めるのは、必ずやこの人である」。それにより皆が身を寄せて来た。赤老溫〈原書では老赤温。文田案、赤老溫をあてる。通世が理由を改める。案、蒙古源流は齊拉袞とする。伯哷津は赤老根とする。〉拔都︀〈原書では抜相、秋濤が校改する。〉父梭魯罕 失剌はこれを密かに解いた。
〈秋濤案、この句の上下に脱文がある。おそらく太祖の受難であろう。文田案、これは四傑の赤老溫である。だが元史に伝がない。思うに戦功は伝を失い、家系や碑文の記録がなく、ただ梭魯罕 失剌の子と知られるのみである。秘史は鎻兒罕 失剌とする。又案、赤老溫 拔都︀の上に脱文がある。おそらく泰赤烏部の人々が太祖を捕まえて、首かせをはめた事であろう。秘史を見よ。通世案、蒙古源流も蘇勒德遜 托爾干 沙喇が太祖が難を免がれるのを助けたことを載せている。〉この時、我らに身を寄せた。哲別これが〈原書では子とし、秋濤が校改する。〉来て、力尽きたから来たと告げたのである。〈
通世案、伯哷津の書は「速兒都︀思人鎻兒干 失剌、かつて成吉思を難から逃がした。その子赤老根と、速特人哲別も、もとは泰赤烏特部長哈丹 大石の子布答の手下だった。この赤老根が来て従うに至った。哲別は泰赤烏特がすでに敗れたので、山林の中に遁れて食べ物がなく、力尽きて、やはり降った」。
布答は、秘史の脫朵格また脫迭干であり、哲別は者︀別である。秘史は鎻兒干 失剌および者︀別の来降の事を載せ、辛酉(1201年)の年にあった斡難︀河戦の後にある。本書と西史、いずれここで述べており、誤りがつながっている。後文を見よ。又案、者︀別は、元史の用いる字は、わかれみちが最も甚だしい。
太祖紀は、前で哲別、後で遮別、木華黎、耶律 阿海︀伝は闍別とし、吾也而伝は哲不 那顏とし、曷思 麥里は哲伯とし、速不台伝は只別とし、巴而朮 阿而忒 的斤伝は者︀必 那演とし、布智兒伝は別那顏、郭宝玉伝は柘栢。元史訳文証補は、哲別補伝がある。〉失力哥 也不干は〈
秋濤案、秘史は失兒古額禿。曽植案、秘史の蒙文は失兒古額禿 額不堅で、「額不堅は、老人である」と解する。この也不干、かの額不堅である。そうであるならば失力哥 也不干は一人であって二人ではない。通世案、失力哥、秘史の失兒古額禿である。元史は述律哥圖、八隣氏。伯哷津も巴鄰部長述兒哥圖とする。〉
手に持つところの阿忽失 拔都︀〈原書では忽阿失抜相。秋濤が相を都と改める。曽植案、忽阿は、阿忽とする。阿忽失 拔都︀は、泰亦赤兀部長阿兀出 把阿禿兒である。この文の記述は、秘史との不同が少ない。またここにあるべきでない。おそらく錯簡であろう。通世案、伯哷津は泰赤特の首領阿忽朱 巴哈都︀兒とする。因烏乙忽阿〈[#訳せない。「何らかの名詞烏乙忽阿に因む」か]〉。又案、失は、出の誤字である。〉塔兒忽台〈通世案、これは前文の塔兒兀台〈[#「塔児兀台」は前後に見当たらない]〉。〉二人、忽都︀渾の野に来るに至り、〈秋濤案、秘史は忽都︀忽の地とする。〉再び解き放ち〈原書では従。秋濤案、似せて縦とする。〉
彼らは去り、〈通世案、秘史はこの事を載せ、斡難︀河戦があった後にも、事実を最もつまびらかにする。失兒古額禿の治めるところとなり再び解き放ち、ただ塔兒忽台 乞鄰勒禿黑ひとり。阿兀出 把阿禿兒は、解き放って去ったくだりがない。秘史は「成吉思は阿禿出らの子孫のほとんどを殺し尽くし、ほとんどの民衆を生かした」という。しかし西史を書いた本は、みな「阿忽朱も解き放たれた」と言い、誤っている。〉己の子乃牙阿剌を一方では引き止め〈牙は原書では才。秋濤案、乃才を乃牙とする。秘史は納牙とする。阿剌を秘史は阿剌黑とする。通世案、伯哷津も納牙 阿剌黑。才を牙と改めたことに因む。
〉二人が〈原書では下に余分な才の字。秋濤が校正して削った。〉身を寄せて来た。そのあと搠只魯・鈔罕二人が率いるところの朵郞吉・札剌兒部〈札は原書では利。秋濤が元史に拠って改める。
曽植案、秘史十三の晃塔合兒、蒙文の姓は朵籠吉兒氏。朵籠吉兒は、朵郞吉である。奧魯赤伝は、祖は朔魯罕、札剌兒氏とする。魯の字の上に鈔の字をあてるべきかもしれない。つまりはその人である。通世案、伯哷津は「札剌亦兒分族朱郞吉部長、朮只角兒海︀は、部を率いた」とする。洪氏は「本紀に「朵郞吉が従った、札剌兒が従った」とあり、二部に分けており、これかは疑わしい」と言う。調べると拉施特は「札剌亦兒は十部に分かれている。朵郞吉はそのひとつである」と言う。又案、搠只鈔魯罕は、一人の名である。本書は二人とし、やはり誤っている。
〉および荽菜勝和〈秋濤案、まだ詳しくわからない。人名とする。文田案、荽菜勝和は、妥果勒和とあてる。秘史の多豁勒忽四字にあたる音である。曽植案、荽菜勝和、妥果勒和とすべきで、この解釈ははっきりと多豁勒忽に至り、まさに𢗅忽部の人。〉が𢗅兀部を率いてまた身を寄せて来た。〈通世案、忙兀、秘史の忙忽惕氏、納臣の次子兀台の子孫である。秘史を考えるに、この時兀魯兀惕族の主兒札歹、および忙忽族の忽余勒答兒が、おのおのの部を率いて、札木合を離れ、太祖に身を寄せ、また晃豁壇族の蒙力克、その七人の子を率いて来た。だが哲台・多豁勒忽兄弟が来るのは、太祖と札木合が分離する前にある。本書は主兒扯歹・蒙力克らが頼って来たことを言わず、ただ多豁勒忽のことをここで載せるのみで、これも失われたようである。また秘史は「太祖は諸人が来たことを喜び、斡難︀河のほとりで宴を催した」と言う。本書はただ「後日うんぬん。」と言い饗宴の理由が明らかでない。〉
後日、上とともに月倫太后と哈撒兒、〈通世案、この太祖の長弟は、秘史の拙赤合撒兒。元史 食貨志は搠只哈撒兒とする。宗室表は搠只哈兒とし、撒の字が抜けている。蒙古源流は哈薩爾。元史類編は伝がある。〉
斡眞 那顏〈通世案、斡は原書では幹とし、今校改する。これは太祖の幼弟帖木格 斡惕赤斤の別称。宗室表は「鐵木哥 斡赤斤は、いわゆる斡眞 那顏という人である」。元史類編に伝がある。〉諸兄弟薛撒、〈曽植案、薛徹とする。〉大丑〈通世案、薛徹、後文は薛徹 別吉とし、秘史は薛扯 別乞とし、また撒察 別乞とする。大丑は、秘史は台出。みな把兒壇の兄斡勤 巴兒合黑の孫である。元史は薛徹大丑を一人とし、その下に更に薛徹 別吉を加え、誤っている。〉などが、おのおの旄車に馬乳酒を載せて運び、斡難︀河と林の間で大いに集まった。
〈通世案、斡難︀河、今の名は敖嫩河。肎特山の西の特勒爾集の嶺の西北の小肎特山の東麓を、東に流れ、折れて東南に流れ、特勒爾集の嶺の北麓を経、また東に集隆︀山の北麓を経、〈底本-344〉東に大肎特山の北麓を経、また東への流れはしだいに東南になり、齊札婁河が西南から合流する。また東は、巴爾喀河があり、巴爾喀の嶺から、東北に流れて合流する。また東南は、齊母爾喀河が南から合流する。また東北は、科勒蘇河が南から合流する。また東北は、巴爾集河が西北から合流する。また東北は、折れて東に流れ、また折れて北に流れ、音果達河が東に流れ合流する。また東北に流れ、尼布楚城の南を経て、失爾喀河となり、また東北に流れ、折れて東に流れ、阿爾渾河と合流し、黒竜江となる。〉集会中に太后と上が言うには〈曽植案、作って当てたか。〉族人薛徹 別吉とその母忽兒眞 哈敦は〈通世案、秘史は忽兀兒臣娘子〈[#「娘子」は秘史では妃の意]〉。〉馬乳酒の入った革袋ひとつをともにした。その継母野別該〈通世案、秘史は額別該。〉
の前に、革袋がひとつ置かれた。忽兒眞 哈敦は怒って「いま私を敬わず、野別該を敬うのか」と言った。ついには給侍の失邱兒をむちで叩いた。〈
張石州は「失邱兒は、帝の給侍である」という。通世案、秘史は失乞兀兒とし、伯哷津は薛徹兒とする。又案、伯哷津の書は「酒を汲む者は、忽兒眞に汲みおわり、戻って那母該に汲んだ。忽兒眞は那母該の酒を見て、みなと同じでない、ゆえに怒り、給侍の薛徹兒を掌でむち打った」と言う。秘史は「まず訶額侖、合撒兒、撒察 別乞などにひとつの甕から馬乳酒を汲み、また額別該にひとつの甕を置いた。豁里眞・忽兀兒臣ふたりの妃が「我らの前になぜ先に置かないのか」と言った。給侍の失乞兀兒を叩いた」と言う。本書に拠れば、酒の多い少ないを争い、伯哷津は酒の善し悪しを争い、秘史は酒を汲む順番を争い、どれが正しいのかわからない。ただしこの事について西史は、すべて豁里眞を載せ忘れている。これは秘史を重視すべきである。〉泣いて言うには「どうして捏群 太石、葉速該〈
この下に原書では余分な命の字がある。秋濤が校正して削る。〉拔都︀〈都は原書では相、秋濤が校改する。〉二君が世を去り、〈捏群 太石は、原書では捏群太后。秋濤案、この二語は誤りがある。元秘史が「そして給侍の失乞兀兒を叩いた。失乞兀兒は「也速該 把阿都︀兒と捏坤 太子が死んでしまったので、このように人に叩かれる」と言ってから、大声で泣いた」と言ったことについて考える。案、失乞兀兒は、この失邱兒である。也速該 把阿都︀兒は、この葉速該 拔都︀、太祖の父・烈祖である。捏坤 太子は烈祖の兄である。捏坤は、本紀は聶坤とする。この書は捏羣とする。坤の字をある写本が群としたのかもしれず、群を誤って辟とした。后の字は、なんと石の誤りである。太后は、すなわち皇太子である。通世案、西史も也速該 捏羣 大石とする。何秋濤の考えに従い、辟と后の二字を改める。〉
私はひたすら〈曽植案、専を等とする。〉他人から辱められるに至った」と、そして大いに泣いた。このとき別里古台 那顏は〈原書では那の字がない。張石州は「那顔とあてる」。秋濤が拠って増した。通世案、秘史は別勒古台、元史 本伝は別里古台、太宗紀は孛魯古帶とし、食貨志は孛羅古䚟、伯哷津は別勒格台、蒙古源流は伯勒格德依とする。太祖の異母弟である。〉上の乞列思の仕事を受け持ち、〈原注に「外で馬を繋ぐ囲いの担当」とある。文田案、元史 本紀の注は「乞列思は、中国語で野外牧場である」。〉上の馬をかわいがり動かしていた。〈秋濤案、揺の字は誤りかもしれない。文田案、揺を控とする。〉播里は〈文田案、秘史は不里 孛闊とする、通世案、伯哷津は播魯とする。秘史は、忽禿黑禿 蒙古兒の子とし、太祖の大叔父である。〉薛徹 別吉の乞列思の仕事を受け持っていた。播里の従者が、我らの馬具を盗もうとしたので、別里古台がこれを捕えた。播里は怒って別里古台を切り、背が傷ついた。家来たちは闘おうとした。別里古台がこれを咎めて「この仇に、お前たちは仕返ししたいのか。私の傷はひどくない。しばらくこれを待て。私を理由に争ってはならない」。〈秋濤案、元史の別里古台伝、事の次第を述べていない。本紀は次第を書き、本書と同じだが、本書の数語を載せていない。本書の詳しさと同じでないに等しい。
〉家来たちは聴かず、〈通世案、秘史は太祖が聴かなかったとする。西史は家来たちは怒りを抑えられなかったとする。おそらく秘史は実直に書いたものに拠り、下書き文書とつながりがある。二書はすでに潤色を経たものを手本としている。〉それぞれ馬をとって乱れ突き、木の枝を切って激しく闘った〈[#前文の王国維は「執馬乱撞」を「執馬乳橦」と校正し秘史でいう不列兀惕つまり馬乳酒のかき回し棒を執ったとする]〉。我らの家来がこれに勝ち、かえって奪うところの忽兒眞・火里眞〈通世案、秘史は豁里眞とする。〉
ふたりの哈敦を、麾下に届けた。〈文田案、届を居とする。〉これによりよしみを絶った。のちに再び和をはかり、ふたりの哈敦を返しに遣わした。和平交渉をしている時、塔塔兒部長の蔑兀眞 笑里徒が〈蔑は原書では篾、張石州が校改する。秋濤案、秘史は蔑古眞 薛兀勒圖。通世案、伯哷津は摩勤 蘇里徒。〉金との約束に背いた。金朝皇帝は丞相完顏 相を遣わし、軍兵は塔塔兒を追い払い北に走らせた。〈秋濤案、元史類編を引いて「金は丞相完顏 襄を遣わし、軍兵は叛いた者を追い払い北に走らせた」とする。通世案、喇施特はこの役を帝が四十歳の時とする。その記述に拠れば、「帝はヒジュラ暦549年(1154年)に生まれ七十三歳で没した」とあり、この役は甲寅年(1194年)、宋の光宗 紹熙 五年、金の章宗 明昌 五年である。
洪氏は「完顏 襄の北伐について考えて、金史を見るに、塔塔兒の役にあたる。紀伝を合わせてこれを考えるに、なんとこれは丙辰年(1196年)の事で、甲寅の二年後である。元ははじめは史官はおらず、太祖本紀は、後から追憶して録を著したもので、年くぎりはまったく頼りにならない」と言う。
今、本書の癸亥年(1203年)に拠って「上春秋四十二」の文をこれに推しはかると、金の承安 元年 丙辰(1196年)で、太祖は三十五歳である。癸亥年のくだりの注を見よ。又案、通鑑輯覧は「金の明昌〈[#金朝の元号。1190年-1196年]〉の末から、北部合底忻と山只昆は、強さを恃みにして辺りは乱れていた。また廣吉剌というものがあり、とりわけ凶暴でなまいきで、たびたび諸部を脅し塞に入らせた。そして阻䪁も叛き、何年も続けて戦争した」と言う。詳しくは金史 内族宗浩伝を見よ。また内族襄伝は「左丞相夾谷淸臣は北を防衛し、不法行為に対処し、従属する辺境の統治があわただしくなり、襄を代わりの将軍に命じ云云。そこで軍を分けて東に向かう道に出し、襄は西に向かう道を通った。かくて東軍は竜駒河に至り、阻䪁にいどころを囲まれ、はなはだ急いで援けを求めた。襄は速く動いてこれを襲い破った。群衆はみな斡里札河に逃げた」と言う。合底忻は合塔斤。山只昆は、撒勒只兀惕。廣吉剌は、翁吉剌惕。阻䪁は塔塔兒支族の名かもしれない。
ただ喇施特は塔塔兒六部の名を挙げ、阻䪁に似たものはない。竜駒河は、今の克魯倫河。斡里札河は、秘史の浯勒札河、今の烏爾匝河である。諸部は金に叛き、そして太祖や王汗は金に協力した。後年諸部が同盟し、太祖や王汗と戦うが、すべての発端はこれである。又案、完顏 襄は、秘史の王京 丞相。王京は完顏の転訛であろう。〉上はこれを聞き、ついに近い者で兵を起こし、出て斡難︀河に至り、これを迎え討った。〈底本-345〉
〈秋濤案、斡を原書では幹とする。今、元史類編を引くところに拠って改める。又案、秘史は「大金は塔塔兒の篾古眞 薛兀勒圖などが、命令に従わないことを理由に、王京丞相に軍を指揮させ捕えに来る。太祖は知らせをうけた。太祖は「ただいまこの機会に乗じ、挟み撃ちにすべきである」と述べた。
そして脫斡鄰に対して人をやり「ただいま金国は王京をつかわして、まさに塔塔兒の篾古眞らが、浯勒札河で迎えうち襲って来た。彼らはまさに亡くなった我らが祖父の仇敵である。父は自ら我らを助けて挟み撃ちにすべきだ」と言わせた。
脫斡鄰は聞き入れて、軍馬を整えること三日、自らやって来た。太祖はまた主兒乞部の撒察 別乞・泰出に対して人をやり、まさにこの復讐の意思を述べてまさに去り、彼が助けに来ることを求めた。待つこと六日来なかった。太祖は遂に脫斡鄰と軍を率いて、浯勒札河に沿って動き、王京とともに塔塔兒を挟み撃ちにした」と言う。
案、太祖はこの時兵力なおひとつだけで、ゆえにきっと脫斡鄰の兵力を借りてともに行った。脫斡鄰、のちに王罕と称した。この書は脫斡鄰が援軍を出したことを載せておらず、脱文の疑いがある。又案、秘史は太祖の父烈祖が、過去に塔塔兒部人によって毒殺され、ゆえに太祖が復讐を志したことを載せている。此書はその事も載せ忘れている。
〉また月兒斤に助けに来るよう諭した。〈張石州は「考えるに元史 本紀は「しきりに薛徹 別吉に部を率いて助けに来るよう諭した」とする。おそらく月兒斤は、薛徹 別吉部の人である」という。秋濤案、秘史は主兒斤また主兒乞とする。これはこの月兒斤の字形を異にしたものである。曽植案、元史 史表、葛不律 寒七子の、第一子である窠斤 八剌哈哈、今の岳里斤は、その子孫である。月兒斤は、この岳里斤。又案、月兒斤の音は、主兒乞と似ていない〈[#「不近」は誤りにみえるが小漚巣刊本の第14葉7行にも文求堂本にもあるのでそのまま訳す]〉。おそらく同じ部の異称であろう。その称月兒斤は、主兒乞は斡勤 巴兒合黑の出、史表は窠斤 八剌哈哈とする。斡勤 窠斤 月兒斤 岳兒斤、みな同じ音の転訛で、祖先の名を部名としたのである。その称主兒乞は、秘史がその説明をそなえている。二者は必ずしもこじつけられない。
通世案、秘史の莎兒合禿 主兒乞、伯哷津は莎兒哈禿 月兒乞とする。月兒乞は、主兒乞の転訛であり、月兒斤も、主兒斤の転訛である。ひとりを称して、主兒斤と言い、数人を称して、主兒乞と言い、モンゴルの語法はそのようである。沈曽植が「同じ部であれば異称、月兒斤は斡勤の転訛である」とするのは誤りである。
〉六日待ったが来なかった。上は麾下の兵とともに紬剌禿失圖と戦う〈秋濤案、元史類編がこの書を引用して紬を納とするのは、これである。
〉忽剌禿失圖〈秋濤案、類編の引用は、この五字がない。〉の野で、〈秋濤案、秘史の忽速禿 失禿延は、この忽剌禿失圖である。
それこそが塔塔爾が砦を作った場所。通世案、速剌の二字は、必ずやひとつに誤りがある。〉車馬と食糧を獲りつくし、篾兀眞 笑里徒を殺し、また大きな真珠のついた布団、銀で包んだ車をそれぞれ獲った。〈秋濤案、元史類編はこれを引用し、衾を金とする。曽植案、衾の字は誤りではない。秘史蒙文は、これを銀の乳母車と真珠の布団とする。この文はその詞だけである。
この語に拠れば、秘史訳文を載せておらず、この紀を作った者がかつて蒙文原本を見たことがわかる。通世案、喇施特は嬰児の銀の揺車で車中の布団は金が刺繍されているとし、「当時のモンゴル人はつねづね見たことがなく、珍しいので言い伝えた」と自注する。
〉金兵は帰った。金主は我らが塔塔兒を滅ぼしたことを理由に、上に察兀忽魯の官を授けた。〈原注に「金の移計使のようなものである」とある。秋濤案、元史類編はこれを引いて、「金主は帝に授けて察兀忽魯とした」とする。曽植案、金の官制にある、招討使下、有副使、有判官、有勘事官云云、秩従七品が、元の官制の断事官の職位にあたることは自明である。太祖は札兀忽魯の職位を受ける、それは西北路招討司の勘事官か。又案、秘史は札兀忽里とする。秘史蒙文は、断事を札兒忽と言う。そうであるならば札兀忽里は、断事官である。
元史 百官志は、断事官を札魯忽赤という。布只兒伝は札魯忽とする。又案、移計は、招討の誤り。字形が似ており、伝写が誤るに至ったのである。
秘史で、王京は太祖に「帰って金主に奏上し、かさねて大いなる招討官の職位に、お前をならせよう」と語る。ここにその語意をまとめる。されば札兀忽里は、招討使ではない。原注は少し間違っているようである。通世案、続綱目は察兀禿魯とし、秘史蒙文は札兀惕忽里とし、西史は察兀特忽里とする。又案、秘史の王京は、完顏の転訛であり、いわゆる完顏 襄である。
〉また克烈を冊封して〈通世案、秘史は克列亦惕とし、喇施特は客剌亦特とする、元史 朮赤台伝は怯列亦とする。〉部長脫憐を王とした。〈秋濤案、原書は「為主」とし、誤り。いま元史類編の引くところに拠って改正する。又案、脫憐と秘史は合う。元史類編がこの書を引くところは、前後みな脫里とし発声が近く、訳語はたまに異なっている。これは「金は冊封して克烈部長脫憐を王にした」と言い、後文の「克烈部汪罕 可汗」はこの冊封して王とした脫里である。
当時を考えると卜魯欲 罕、太陽 罕のごときは、みな罕の称でおわっている。この脫里は金に冊封されて王となったことにちなみ、ゆえに王罕、また王 可汗と称し、元史 木華黎伝で見られる。これは汪 可汗とし、また訳文の違い。元史 太祖紀は「汪罕は名を脫里といい、金から爵位をもって封じられ王となった。西方の異民族は音を重く言い、ゆえに王を汪罕と称した」という。この論はまったく絶えた。元史類編は「案、元史はみな王を罕と称する。それにいう汪罕は、二字で一音を整えるものである。しかし旧史には表れず、汪罕の称号は終わり、その名と部は亡くなった。今みな脫里の名を書き、克烈部を冠し、これにより誤りを正す」という。
秋濤は汗を北方君長の名とし、王を王号に冠するあしらいはしない。元史類編はこれを論じ、いまだに金が王に冊封したことを考えるのを尊ぶ。通世案、脫憐、秘史は脫斡鄰勒とし、元史 哈剌哈孫伝は脫斡璘とし、伯哷津は脫忽魯兒とする。洪氏は「脫忽魯兒はかすかな誤りがあるとはいえ、秘史の訳音が確かに備わっている証と認められる」と言う。
〉おりしも我が家は哈連徒沢の間に居て、乃蠻部の人に掠奪されたとした。〈秋濤案、元史 太祖紀は「帝の家来が、乃蠻部の人に掠奪にあった。帝はこれを討つことを望み、さらに六十人を遣わして、薛徹 別吉から徴兵した。薛徹 別吉は、旧怨を理由に、その十人を殺し、五十人の衣服を捨て去ってそれらを帰した。帝は怒り「薛徹 別吉は、以前に我が失邱兒をむち打ち、我が別里古台を斬って傷つけた。今またあえて敵の勢いに乗って我らをあなどるというのか」と言った。そこで将兵は砂の河岸を越えて攻めた」と言う。
秘史では「太祖が攻め落とした後の本営は、合澧泐湖辺にあり、主兒乞によって五十人が衣服を剝がれ、十人が殺された。太祖は大いに怒った」と言う。
案、二説は同じでないところがあるとはいえ、薛徹 別吉が仲違いを起こしたと載せているのは同じ。この書の原本もまた、この事を載せており、本紀と同じ。伝写者によって取り除かれただけである。こちらが敵と言うところは乃蠻を示し、あちらは薛徹 別吉を示す。曽植案、哈連徒沢は、秘史の合澧泐湖である。
〉上は怒って「以前この別里古台は、彼に傷つけられた。我らは仲違いを捨て和を選んだが、聴かなかった。今なぜ敵の勢いに乗って我らを侮るのか」と言った。〈通世案、秘史で太祖が攻め落とした後の本営は、太祖が塔塔兒を負かし、守備兵を置いて帰った時であろう。合澧泐湖は、本書とこれを比べると、合澧泐惕というのにあたる。秘史は惕の音を略している。その地はわからないとはいえ、必ずやモンゴルの東にあり、乃蠻と互いに接してはいない。
どうしてその場所が掠奪されるであろうか。秘史西史、ともに乃蠻による侵掠の話がない。西史は「争いが収まり、月兒斤人との修好を望み、捕虜を送った。月兒斤は十人を殺し、奪五十人の衣服と馬を奪った。成吉思は怒って「以前これは我らの別里古台を傷つけ、修好を与えたが従わない。今また我らと互いに敵対し我らをあなどった」と言った」とする。
秘史は「太祖は大いに怒って、「なぜ主兒乞にこのようなことをされるのか云云。今回これまでの祖宗のために、ともに報復しようとしたが、彼らはまたも来ず、〈底本-346〉
さかさまに敵をたより、またも敵となった」と言った」とする。二書のいわゆる敵は、みな塔塔兒を示す。おそらく本書が哈連徒沢で侵掠に遭ったことと、この月兒斤に殺掠されたことを、誤って月兒斤を乃蠻としたのである。元史は話が通らないのをわきまえて、さらに乃蠻討伐と徴兵の話を加えようと望んだのは、乃蠻の侵掠と、月兒斤の殺掠という、はなれた二つの事のためか。ただ秘史は喇施特のところの中身と最も近い。修好して捕虜を帰したと称するのは、おそらくこれも潤色の辞であろう。
〉そこで大いなる川から兵を出し、朵欒 盤陀山に至り、〈欒は原書では奕、陀の字が抜けている。通世案、奕が欒の誤りであること疑いなし。秘史は朵羅安 孛勒荅兀とする。孛勒荅兀。モンゴル語で孤山である。本書は常に盤陀とする。今これに拠って改補する。
〉大いに月兒斤部を掠めた。薛徹と大丑は、わずか妻子数人とともに脱走した。〈秋濤案、これより月兒斤部は、太祖に併合されるところとなった。
秘史は「はじめ合不勒皇帝に七子いた。長男は幹勤 巴剌合。合不勒、民衆のうちから、度胸があり、気力があり、強く勇敢で弓のうまい人を選んで従わせた。ただ行くところ、みな攻め破り、敵対できる人はなかった。ゆえに主兒乞と名付けられた」と言う。太祖はこれを得て、兵力は強くなり始めた。〉
上が塔朵剌の野に居た時、克烈部の汪罕 可汗〈通世案、罕の字は恐らく余分である。後文も同じ。〉の弟札阿紺孛が身を寄せて来た。〈秋濤案、秘史は「成吉思は帖兒速の地にあり、客列亦部の札合敢不の来降があった」と言う。札合敢不は、この札阿紺孛である。通世案、後文で太祖が王汗を責める言葉の中に、塔剌速の野があり、秘史蒙文は忽兒班 帖列速惕とし、伯哷津は忽兒奔 塔剌速特とする。
克烈部領内にある。これが帖兒速の地である。朶剌の二字は、倒置かつ誤字の疑いがある。札阿紺孛は、朮赤台伝は札哈堅普とし、伯哷津は札罕不とし、「札罕不の本名は乞諫である。幼い時に唐古特に捕らえられ、閉じ込められてこの称を与えられた。人はついに名として呼ぶようになった」と言う。洪氏は「この節は、中国の書にない。札罕不は、唐書 吐蕃伝の贊博の二音である。諸史録と比べて秘史の諸音は、とりわけ正しく採られている」。
〉ちょうどそこで蔑里乞部〈通世案、秘史は篾兒乞惕とする。色楞格河辺に居た。〉と我らが会戦した。上と札阿紺孛はこれに敵対して迎え撃った。その衆は敗走した。〈
通世案、後文で太祖が語る中に「札阿紺孛は漢塞にいて、私が招いたと聞き、遠くから来て身を寄せた。私はまさに山に登って眺めた。さらに蔑力乞へ迫り云云」とある。
であればこれは太祖が札阿紺孛を招き、そして蔑里乞がその来帰を妨げ、ゆえに太祖は自ら帖兒速の地に至り、蔑里乞を退け、これを救けたのである。
〉このとき土滿 土伯夷・董哀諸部〈秋濤案、秘史は「客列亦部およびかの禿別干・董合などの姓も、また来降した」。董合は、この董哀である。文田案、夷を安とする。字の誤である。秘史は土綿 土別干。曽植案、土滿は土綿である。秘史は訳文なし、蒙文あり。又案、土伯夷は、元史 土別燕氏。通世案、土滿は部名ではなく、訳義は万となる。秘史蒙文は、禿綿 斡亦剌、訳文は万の斡亦剌。土綿 土別干は、あまたの土別干と言うようなものである。
〉及び〈原書では乃。文田案、乃を及とする。通世が因んで改める。〉克烈の敗散した人々も来降した。〈秋濤案、元史 本紀は、札阿紺孛が身を寄せた事を載せず、そして太祖が蔑里乞を破ったこと、及び諸部来降の事が、みな遺漏未載である。この書が正しいものとして当てよ。曽植案、札阿紺孛が来降し、おそらく王罕が乃蠻 亦難︀察に攻め破られたのでこの時に王罕は西遼に奔り、その軍勢は潰散した。
そのため董哀諸部も身を寄せて来たのである。この事は、秘史は阿雷の泉での盟の後について述べており、辛酉(1201年)壬戌(1202年)の二年のことである。敗走したのはこの時で、国を覆したのはこの時で、成吉思が徳を施したのはこの時で、王罕に悪い心が芽生えたのも、またこの時で、事情は誤っているようである。恐らくはこの書が正しいとしてあてるべきであろう。その事は明昌 四年(1193年)、承安年間(1196年-1200年)にあたる。合蘭只の戦いを見た後、王罕の兵勢はとても強く、太祖はとても危懼し、敗退してまもなく、国を立てるにふさわしい者として民を安んじた。
通世案、沈曽植の説は正しい。秘史巻五第十節「在後成吉思云云」から「住過冬了」〈[#§150から§151]〉まで、巻首にあたり、次第に乱れがなくなる。原書に錯簡があると疑われる。伯哷津の書は、朶闌山の戦の後を記し、「成吉思はこのとき四十才だった。この年、王汗弟札罕不と客剌亦特分族董喀亦特部の人が来帰した」と言う。洪氏は「この下に「太祖与戦」の一語がある。録と秘史を考えると、どれも「太祖と札合敢不が蔑兒乞を迎え撃った」と言う。ここは原文に奪誤があるかもしれず、ゆえに帝と札罕不が戦ったと間違ったのであろう。その下にさらに「後仍以帰汪罕」の一語がある。汪罕は既に来ており、旧部は確かに旧主に身を寄せ、これは道理にかなう。秘史等の書は載せ忘れており、これを付け足した」と言う。
太祖の四十才を考えると、喇施特の紀年に拠れば、甲寅年(1194年)になる。そして完顏 襄の北伐は、丙辰年(1196年)にあり、甲寅後の二年となり、札罕不の来帰も、またその年にあったとなる。これは宋 寧宗 慶元 二年、金 章宗 承安 元年である。〉
汪罕 可汗は以前に也速該 可汗と仲よくし、〈秋濤案、也速該 可汗は、つまり烈祖である。〉お互いを安荅と呼んだ。〈原注に「物を取り交わす友」とある。原書は交を変とする。秋濤案、今でいう諳達は、案荅の転音である。曽植案、元史 本紀の注は、「物を取り交わす友」とする。通世案、交が変と誤り、ついに変となった。今改める。畏荅兒伝は「按達は不変の交わりを定めることを言う」とする。
〉このようないわれは、はじめに汪 可汗の父忽兒札胡思 盃祿 可汗〈秋濤案、本書の後文で癸亥年(1203年)、忽兒札忽思 盃祿 可汗とする。元史 本紀は汪罕の父を忽兒札忽思 盃祿とする。秘史は忽兒察忽思 不亦魯 罕とする。〉の死後、汪 可汗が兄弟を殺戮し、〈秋濤案、秘史は「その父の兄弟を殺した」と言い、これと違いはない。元史 本紀と此は同じ。
通世案、西史は「王汗の祖默兒古斯 卜欲魯克 汗に二子があり、長男は忽兒札忽思 卜欲魯克 汗、次男は古兒 汗。忽兒札忽思は数人の子を生み、脫古魯兒というのが、王汗、額兒客喀剌というのが、札罕不という。さらに別に数人の子がある。王汗は父の死後に、その弟塔 帖木兒 大石・布喀 帖木兒および同族弟兄数人を殺した」と言う。原注に「古兒 汗は人名であり、喀剌乞䚟の古兒 汗ではなく、誤って混ぜるべきではない」とある。
秘史巻七も「あなたの父忽兒察忽思 不亦魯黑皇帝は、四十人の子があった。あなたはただ最年長というだけで、皇帝となった。〈底本-347〉のちにあなたは台 帖木兒・不花 帖木兒の二弟を殺した」とする。
これに拠ると、巻五で「汪罕は不亦魯罕の弟たちを殺した」と言う、弟は、子の誤写である。〉その叔父菊兒 可汗は、〈秋濤案、本書後文の癸亥年(1203年)、菊律 可汗とする。元史 本紀は菊兒。秘史は古兒 罕とする。
〉兵を率いて汪 可汗と戦った。汪 可汗を合剌溫の狭間に追い込んで破った。〈秋濤案、元史 本紀とこれは同じ。秘史は「追って合剌溫山中に至った」と言う。通世案、合剌溫の狭間は、土拉河のほとりである。見えたあと土兀剌河のほとりの黒林の間に流れ込む。
〉わずか百余騎で脱走し、也速該 可汗に奔った。〈張石州は「也速該 可汗は、尊ぶ一句にあたる」と言う。〉自ら兵を率いて菊兒 可汗を退け、西夏に走らせた。〈秋濤案、秘史は「也速該は古兒 罕を合申の地に退けた」と言う。合申は西夏である。また唐兀とも言う。〉さらに部民を奪って服従させた。汪 可汗は恩に感じ、ついに案荅の約束をした。〈張石州は「句はできあがっていない」という。秋濤案、元史類編が「ついに約束を請い案荅と称した」と言うのは、これである。これに従い当てる。
〉のちに汪 可汗の弟也力可 哈剌は、〈秋濤案、秘史は額兒客 合剌とする。〉彼が兄弟を多く殺したことをもって、〈秋濤案、元史 本紀は「也力可 哈剌は汪罕がこれを多く殺したことを怨んだ」と言い、語意がはっきりしない。この書が正しいとする。通世案、本紀は多殺の下に故の字があり、上につけて句となるようにあてれば、語意もはっきりする。
〉叛いて乃蠻部の亦難︀赤 可汗〈原書は亦難︀赤の上に立の字がある。秋濤案、元史 本紀「亦難︀赤は挙兵させられた」はこの立の字が余分で誤っている。又案、後文の甲子年(1204年)に亦年 可汗とし、秘史は亦難︀察とする。
〉亦難︀赤 可汗、兵を起こして汪 可汗を討伐し、克烈部民を奪いつくし、也力可 哈剌に与えた。汪 可汗は脱出してつぎつぎと三つの城に逃げ、〈曽植案、三つの城は秘史蒙文に見える。〉奔って契丹の主菊律 可汗のところに赴いた。〈原書では菊津可汗。秋濤が校改する。
案、この契丹は、後文で西契丹とも呼び、つまり西遼である。元史は「西遼の末主直魯古は、天禧と改元して、三十四年間在位し、乃蠻王屈出律が伏兵を使い、猟に出るところを伺い彼を捕え、その位を拠り所とし、ついには遼の衣冠を継承し、直魯古を太上皇として尊び、死ぬまで養った。」と言う。西遼は耶律 大石から直魯古まで、幾九十年のあいだ国があり、そして屈出律奄がその国にあり、よって西遼と号した。屈出律、つまりここで言う菊律 可汗である。札木合の民衆は、また局兒 可汗と推した。思うに菊児と局児は、北方の美称であり、ゆえにどちらも同じに聞こえる。
通世案、哈剌亦哈赤北魯伝は西遼の主鞠兒 可汗、秘史は合剌乞塔種族の古兒 罕。洪氏は「モンゴル語で、古兒は普くである。ちょうど統轄の汗と言うようなものである」と言う。
この古兒 罕を考えると、つまり直魯古である。直魯古が主の位を失ったのは、太祖即位六年のことで王汗が西に奔ってから十五年後であろう。
〉やがて再び叛き、畏吾兒西夏の諸城邑を渡り歩いた。〈秋濤案、秘史は「すぐに続けて畏兀唐兀二種族を経て行って」とする。唐兀は西夏である。
〉とちゅうで食糧が絶え、乳羊五頭を失った。縄で羊の口を縛り、その乳を奪って飲み、駱駝の血を採取し、煮て食べ、食に困まること甚だしく、かろうじて曲薛兀兒沢に至った。
〈秋濤案、秘史は古泄兒の湖。通世案、伯哷津の書は「辰の年、庫思古兒 諾爾に至り、成吉思 汗の居地に近づいた」と言う。辰の年は、丙辰年(1196年)であろう。喇施特はすでに札罕不の太祖への帰順を甲寅年(1194年)の事とし、ゆえに王汗が丙辰年に東に帰ったとする。だが完顏 襄の北伐は、丙辰年とされ、つまり王汗が東に帰ったのは、恐らく丙辰の二年後の戊午(1198年)にあたるであろう。これは宋 慶元 四年、金 承安 三年である。
庫思古兒 諾爾は、曲薛兀兒 澤である。洪氏は「西域史は後文で「むかし汪罕と也速該は、かつて同じ地に住んでいた」といい、また「汪罕は淖爾に至り、克魯倫河の辺りにいて、帝は河の辺りのどこかにいた」といい、つまりこの淖爾は、克魯倫河の南にあるようであり、西にあるようでもある。今は名についての考えはない」という。
後文で太祖が王汗を責める語のなかを調べると、曲笑兒 澤がある。也速該がかつて王汗とともに、古兒 汗を追ってその地に至った。西史がいうところの「かつて同じ地に住んでいた」は、その時なのであろう。そうであるならばこの沢は克烈部の古い領内にあり、克魯倫河に近い地ではないようである。
〉上はこれを聞き、むかし先君が案荅だったことを理由に、そこで彼を呼び寄せに近侍の塔海︀・雪也垓の二人を遣わした。
〈秋濤案、秘史は「勇士速客該に迎えさせた」という。速客該は、つまり雪也垓である。通世案、塔海︀、秘史は塔孩 把阿禿兒とし、速勒都︀孫氏である。雪也垓は、秘史は速客該 者︀溫とし、朵籠古兒氏である。太祖が初めて合罕になった時、ためしに二人を遣わして、これを王罕に報せた。ただこの王罕を迎える使いは、秘史はただ速客該があり、塔孩はない。
〉上は怯綠連河より自ら迎えていたわり、陣営のうちで安らかに落ち着かせ、大いに金品を施し与えた。
〈通世案、秘史は「成吉思自ら客魯連河の源頭に至り、王罕を迎えて会い、宿営に至り、そして家来たちに供給させた。この年、忽巴合牙の地で、冬を過ごした」という。忽巴合牙の地は、思うに客魯連河のほとりにあり、王罕はしばらくここに身を寄せ、その後まさに土剌河のほとりのもとの経営地に帰ったのである。
〉そのあとの秋、上と汪 可汗はいっしょに、土兀剌河のほとりの黒林の間で会って、父子となる契りを結んだ。
〈秋濤案、秘史は自ら汪罕に大いに金品を施し与えた後、汪 可汗は乃蠻人に苦しめられるところとなり、太祖はまた彼を救けた。汪罕はついに土兀剌の黒林に行き、成吉思に会い、父子の契りを結んだ。むかし王罕と成吉思の父は契りを交わし、その所以で父と呼んだ。今ついでさらに父子の契りを結んだのは親厚を示したことによるものである。文田案、怯綠連河は、つまり克魯倫河である。
通世案、伯哷津の書は「この年の秋、河上の喀剌溫 乞卜察勒の地で宴会し、重ねて父子のよしみを結んだ」と言う。河上については後文の注に「河名はすでにわからない」とある。多遜は「これは土拉河である」という。洪氏は「諸親征録と秘史を考えると、これである」と言う。
喀剌溫は、秘史蒙文は哈剌屯とし、黒林と訳す。多遜は「喇施特は喀剌溫 喀卜札勒を黒林と解いた」と言う。布哷特淑乃德兒は「モンゴル語は、喀剌を黒とし、鄂因を林とし、喀卜札勒を狭間とする」と言う。そうであるならばこの黒林の間は、前文の合剌溫の狭間とまさに同じである。
蒙古游牧記は「土喇河の東、東庫倫があり、その地は昭莫多という。訳は林木があることを言う。思うに元秘史がいう土兀剌河のほとりの黒林は、客列亦惕種の王罕一族が宿営したところである」と言う。
そうであるかはわからない。又案、秘史のこの事の記述は、忽剌安忽惕戦の後にある。本書もまたそのあとの秋とのみ言い、何年にあったかを不確かに指している。これが王罕が忽巴合牙を去った後の事につながるのは、あとの年にあたる。喇施特がこの年の秋と定めているのは、恐らく誤っている。〉〈底本-348〉
この年の冬、上は〈二字、秋濤が文脈を酌んで増した。〉月兒斤部で以前に脱走した薛徹 大丑を討ち、追いかけて帖列徒の狭間に至り〈通世案、秘史蒙文は迭列禿 阿馬撒剌とし、訳は迭列禿の口である。伯哷津は塔剌因 阿馬色剌とし、音が訛ったのであろう。
〉これを滅ぼした。〈通世案、主兒乞部の滅びは、秘史はすぐに朵剌安山役の後で述べている。此書は是の年の事を分けている。秘史はまた太祖が撒察・泰出を責めて之を誅ち、主兒乞部民を取り込み、帖列格禿 伯顏の子や孫、および幼子の孛羅兀勒を得て、主兒乞氏が名を得た理由、ついで別勒古台が不里 孛可を殺す事を述べている。此書はまったく載せていない。〉
翌年の秋、〈通世案、西史は蛇年とし、思うには丁巳年(1197年)であろう。となれば王汗が東に帰ったのは、すでにある戊午年(1198年)の、その次の年、己未年(1199年)、つまり宋 慶元 五年、金 承安 四年である。ただし秘史はこの戦を載せていない。過去にこの太祖が客魯漣河源の不兒吉崖に居た時、三種の篾兒乞が来襲し、孛兒帖夫人が捕らえられた。太祖は王罕及び札木合に出兵を乞い、篾兒乞を襲って破り、孛兒帖を奪還し、兀都︀亦惕の脫黑脫阿、兀洼思の荅亦兒兀孫を走らせ、合阿台 荅兒麻剌を捕えて、ほしいままに掠めて帰った。その事は太祖と札木合が仲違いする前にあり、国史はこれをこの年に移し、そして孛兒帖が掠められた辱めを忌み、王罕・札木合が一緒に助けたことを削り、太祖は恩を感じた等は、反対に太祖が恵みを施したこととした。思うに秦穆が粟を献じたことになぞらえることをもって、欲深い晋恵の閉糴の罪であろう。
〉上は哈剌哈河に向けて兵を起こし、〈通世案、これは捕る魚が流れ入る湖の合泐合河ではない。秘史に拠れば、札木合はかつて豁兒豁納黑 主不兒の地に居て、ひとつは豁兒豁納川とする。太祖は以前に札木合の援けを得て、篾兒乞を破り、相携えて豁兒豁納川に至り、一年余り一緒に住んだ。元史は思うに豁兒豁納を哈剌哈とし、かつ太祖が最初ここに住んだと誤ったのである。
〉蔑里乞部の主脫脫を討伐し、〈秋濤案、秘史は脫黑脫阿とする。通世案、西史は托克塔とする。〉莫那察山で戦い、〈通世案、秘史はこの名がない。額兒忒曼は們哲河とし、注に「今は曼津河、喀剌思 穆楞の地にある」といい、和渥兒特は「栗特兒の地図を調べると、曼査河が齊科伊河に流れ入り、色稜嘎河にあつまる」と言う。齊科伊河を考えると、水道提綱の楚庫河である。伯哷津はさらに孟察の地とする。また後文の太祖が王汗を責める語中に見える。
〉ついに掠めるところの兀都︀夷〈都は原書では相。秋濤案、兀相。夷をあてて兀都︀夷とする。後で太祖が汪 可汗に告げる語は、兀都︀夷とする。この書は、およそ都の字の多くが相と誤っている。〉蔑里乞二部、〈曽植案、二部は語が誤っている。秘史は兀都︀亦惕の脫黑脫阿、兀洼思の歹亦兒兀孫、合阿台 荅兒馬剌を、三種の蔑兒乞とする。兀都︀亦惕は、この兀都︀夷である。脫黑脫阿は、この脫脫である。そうであるならば兀都︀夷、その蔑里乞が一種の名である。兀都︀夷は一部ではなく、蔑里乞を一部とする。
〉その衆を取り込んだ。上はその収穫をことごとく汪 可汗にあてがった。その後〈通世案、西史は馬年とし、つまり戊午年(1198年)である。よって喇施特の紀年は信じられない。秘史は、この事が戌年に太祖が塔塔兒を掃討した時にあり、壬戌年(1202年)である。
〉人々が少しづつ集まり、我が軍との約束を破り、自ら蔑里乞部を侵略し、兀剌川に至り、〈秋濤案、蔑里乞は後文で滅里乞とし、兀剌川は後文で不剌川とし、みな訳語がそろって異なる。通世案、秘史は、兀都︀亦惕 篾兒乞 脫黑脫阿が不兀剌 客額兒の地にいたとする。この兀の上に不の字が抜けている疑いがある。兀に不をあてるのではない。不剌川は、今は布拉河辺の野といい、布拉はまた博拉とする。
蒙古游牧記は「土謝圖汗部の中の左翼末旗牧地は、東北は博拉河に至り、恰克圖軍台 及辺喀界〈[#訳せない。「邊喀の境に及ぶ」か]〉と接する」という。異域録は「博拉地方はみな草が生い茂り、とてもぬかるんでいて、たまり水が沢をなす。その東南の林木森が密で、景色は鬱蒼としている」。これは不兀剌 客額兒の地である。
〉脫脫の子を殺し〈秋濤案、この下、翁方綱本の原書は一字欠けている。〈[#四庫全書存目叢書本でも該当する一字分の空白を確認できる]〉〉土居思 別吉、〈秋濤案、秘史は脫古思 別乞とする。
〉捕らえるところの忽都︀台〈都は原書では相。秋濤が後文に拠って校改する。〉察勒渾〈秋濤案、後文は察魯渾とする。〉二哈敦〈曽植案、秘史蒙文は「彼の二女忽禿黑台・察阿侖を取り」とあり、訳文には名はない。通世案、伯哷津は忽禿黑台・察勒渾の二女。ひとりは秘史蒙文と合い、ひとりは本書と合う。二女も秘史と同じく、哈敦はおそらく誤っている。
〉および脫脫の次子和都︀を招き〈通世案、秘史巻六は忽圖とし、秘史巻九および西史は忽都︀。〉赤剌溫、二人が統べる部民が来た。わずかなもの以外は我らのために奪った。脫脫は八兒忽眞の狭間に奔った。
〈隘は原書では隊。翁単谿〈[#「単谿」は翁方綱の号]〉が元史 本紀に拠って改める。通世案、秘史は巴兒忽眞 脫窟木とし、額兒忒曼は巴兒古眞 脫古魯姆とする。施世杰は「これはまさに今俄羅斯国境の巴爾古情河ほとりの岸である。色楞格河は北に流れ俄羅斯の拜喀爾湖に入る。その湖の東北の隅に、湖へ西南に流れ入るひとつの小河があり、これが巴爾古情河である。いま俄羅斯国の河のほとりに城がひとつあり、巴爾古情城という」とする。元史 本紀は、咩撚 篤敦第七子納眞は、八剌忽の民の家に入り婿となった。
兄の子海︀都︀はようやく成人し、納眞は八剌忽 怯谷諸民を率いて、共に君主として立ち、八剌合黑河のほとりに宿営をつらね、河に橋をかけて、往来しやすくした。八剌忽は、巴兒古であり、八剌合黑河は、おそらく巴爾古情河であろう。
喇施特は色楞格河北諸部を巴兒古特と呼ぶ。瑪兒科 保羅は「喀剌科倫から北に四十日行き、巴兒古の野に至り、住民は蔑斯克里特と呼ばれる」という。蔑斯克里特は、蔑兒乞特である。
巴兒古の野は、思うに拜喀爾湖東の地であろう。そうであるならば湖東の地は、巴兒古特・蔑兒乞特諸部が入り混じった所である。巴兒古 巴兒古特の名称は、地名に依って部名とする、および部名に依って地名とする、いずれかはわからない。〉
その後〈通世案、西史は羊年とし、これは己未年(1199年)である。だが秘史は狗児年に王罕の篾兒乞掃討の後を述べているので、やはり壬戌年(1202年)中にあったとあてる。〉上と汪 可汗は盃祿 可汗を征伐した。〈秋濤案、元史 本紀は不魯欲 罕とする。通世案、秘史は〈底本-349〉古出古敦 不亦魯黑とし、額兒忒曼は卜欲魯克とする。元史の魯欲は、欲魯の倒置。伯哷津の書は「乃蠻 亦難︀赤 汗がまず亡くなり、二子は太陽 汗といい、卜欲魯克 汗といった。太陽 汗は、名を太亦布哈という。金朝から冊封を受け大王となり、ゆえに大王 汗という。モンゴル人は訛って太陽 汗とした。乃蠻には古出魯克 卜欲魯克の称号があり、ゆえにその弟は卜欲魯克 汗という。兄弟は仲が悪く、分国して治めた」とある。
洪氏は「秘史の古出古敦は、その名にあたる」と言う。多遜は「その弟は北にある国境を治め、阿爾泰山に近く、その兄は南にある地を治め、沙漠に近かった」と言う。案、大王 汗ははなはだ鮮やかであることをいい、これと王汗が得た名の由来が混りあって誤ったことが明らかにわかる。克烈 乃蠻諸王の系属は、ただ喇施特が詳しく、元史も親征録も秘史もみな及ばない。〉黑辛八石の野に至り、〈文田案、黑辛八石は、秘史は乞溼泐巴失とし、湖に関わる名である。劉郁の西使記は、乞則里八寺と称する。それこそが龍骨河の湖沼である。水道提綱にいう「畏隆︀古河、奇薩爾巴思 鄂模なる沼、周囲の長さは四十里」である。奇薩爾巴思は、黑辛八石四字の揃った音である。通世案、西域水道記の「噶勒札爾巴什 淖爾、また赫色勒巴什とも言う」。淖爾は鄂模である。洪氏は「黑辛八石の野は、淖爾に近い地とし、また湖の名を名とする。俄羅斯地図、烏隆︀古河が注ぐ淖爾、その北百余里、科則勒塔斯山があり、またそれは乞濕泐巴失の音である」。
案、西史は乞濕勒塔什とする。乞濕勒塔什は、山の名で、赤い石である。乞濕勒巴什は、湖の名で、赤い頭である。湖に頭の赤い魚がおり、それにちなんだ名である。二つの名は同じでないが、その地はお互いに接している。
〉その民を捕らえ尽くした。盃祿 可汗はまず也的脫孛魯を遣わし、〈秋濤案、元史類編を引いて、孛は不とする。文田案、秘史は也廸 土卜魯黑とする。〉百騎を前鋒として統率した。我が軍は之を追い込んだ。走って高山にたてこもった。その馬の鞍は転げ落ち、これを捕らえた。〈秋濤案、元史類編を引いて、鞍を騎とする。通世案、秘史は「時に不亦魯黑は兀魯黑塔黑の地の溑豁黑川にいた。成吉思と王罕は到った。不亦魯黑は対陣できず、阿勒台山を立ち去った。忽木升吉兒の地の兀瀧古河を追い至り、不亦魯黑の官人也廸 土卜魯黑の哨兵に遭った。成吉思の哨兵に、山の上に追い立てられた。そこで馬の肚帯が断たれ、とどまり捕まった。乞溼泐巴失湖に追い至り、不亦魯黑はついに終わりとなった」と言う。
兀魯黑塔黑の溑豁黑川、本書は丙寅年(1206年)兀魯塔山莎合川とする。施世杰は「溑豁黑川は、今の索果克河は、科布多河の上源となる」と言う。阿勒台山は、阿爾泰山であり、この阿爾泰東南の幹山は、科布多城の西南にある。忽木升吉兒は、思うに今布拉靑吉兒河の傍の地であり、地名によって河は、また靑吉斯河という名である。兀瀧古河は、烏隆︀古河である。
靑吉斯河は、阿爾泰山南麓を出て、南に流れ東北来の布爾干河と合い、烏隆︀古河となり、折れて西に流れ、ため池は赫色勒巴什 諾爾をつくる。地名地形みな合う。此に拠れば、前鋒を捕らえたのは、烏隆︀古河のほとりであり、然る後に赫色勒巴什の地に追い至った。本書は叙述が詳しくないようである。西史はすべて本書と同じで、ただ「卜欲魯克は侃侃助特に逃げた」の一語が多い。侃侃助特は、元史の謙謙州は、唐努山烏梁海︀境内にあり、詳しくは元史訳文証補と元史 地理志 西北地附録釈地を見よ。
〉その冬、上と乃蠻部将曲薛吾・撒八剌二人、〈文田案、秘史は可克薛兀・撒卜剌黑。通世案、秘史と西史、みな一人を二人とし、誤っている。喇施特は「可克薛古は結核の音とし、撒卜剌克を名とする」と言う。
〉拜答剌邊只兒の野で遇い、〈文田案、秘史は巴亦荅剌黑 別勒赤兒とする。曽植案、拜荅剌、これは今の拜達里克河。通世案、蒙古游牧記は「拜塔里克河は、また拜達里克とする。源は枯庫嶺の南麓を出て、西南に流れ、庫倫伯勒齊爾の地を経て、沼は察罕泊とする」。とすれば巴亦荅剌黑 別勒赤兒は、拜塔里克河のほとりの庫倫伯勒齊爾の地か。
喇施特は「むかし乃蠻主は汪古部の娘拜荅剌克を娶り、巴勒赤列の地で結婚した。モンゴルはそのまま人名地名ともに称とする。ある僅かの人は拜荅剌克を称した」と言う。こじつけることを危ぶむと説く。又案、伯勒齊爾は、モンゴル語の牧場である。この名、なんの地でもなく、きっと庫倫伯勒齊爾を指さない。
後文に王汗等は也迭と案臺河を過ぎたと見え、つまりは東に帰る軍であり、札布干河と烏里雅蘇台河に沿って進んだようで、拜塔里克河に至る南ではない。拜答剌邊只兒の地は、結局わからない。
〉日が暮れ陣を並べて宿営し、明日戦うことを決めた。この夜汪 可汗は陣で多くの火を燃やし、〈秋濤案、元史類編は示を作る。〉人が疑わぬようにさせて、密かに軍勢を哈薛兀里〈秋濤案、元史類編は薛を薩とする。〉河のほとりに移した。〈文田案、西域水道記は、「喀喇 淖爾の周囲は数里で、布拉干河の源南十余里にあり、東南に百里流れ、布拉干河に入る」。それがこの哈薛兀里河である。秘史は合剌泄兀勒河とする。
この場所は哈剌薛兀里としてあてる。通世案、元史類編は哈薩兀里河。誥必勒は「これは今の哈綏河」、哈綏河は、また哈瑞河ともいい、杭愛山頂の西南幹山を出て、東北に九百里流れ、色楞格河に入る。秘史は「合剌泄兀勒河をさかのぼり」と言い、西に流れるこの河とあてる。哈綏河と合わない。〉
時に札木合は幕下にあり、〈合の字は原書では抜けており、張石州が校増した。通世案、西史はまた「札木合は成吉思軍に従った」と言う。ただ秘史は「そこで札木合と王罕がいっしょに動いた時云云」と言う。札木合を考えると、太祖と安荅だったといえども、十三翼の戦から以後、深い讎に変わった。
どうして彼が太祖に従う事があろうか。思うにこの役は壬戌年(1202年)の末にあった。前年の辛酉年(1201年)、札木合は諸部を率いて、太祖と王罕を謀り、戦いに破れて軍勢はついえ、諸部は離れそむきやむを得ず王罕に降り、そのまま軍に身を寄せたのである。この役は辛酉年(1201年)の前にあり、本書が述べるように、札木合はもとより大きな豪族だったので、太祖に従わないのみならず、王罕にも属さなかったのである。〉日が出て、汪 可汗が旗幟を立て元のところにいないのを望み見て、彼を追いかけて「王は多くを知っているのか否か。我が兄弟は人にたよる野鳥のようなもので、ついには必ず飛び去る。私も同じく白翎鵲である。家の上に棲息し、安心して自ら去ろう。私がためしでこれを言おうか」と問いかけた。
〈秋濤案、この段は語意がはっきりしない。秘史は「札木合は王罕に対して「我は白翎雀の子であり、帖木眞は去りゆく告天雀の子である」と説いた」とある。元史 本紀「札木合は汪罕に「我はあなたにとって白翎雀であり、他人は鴻雁でしかない。白翎雀は、寒暑で常に北方にある。鴻雁は寒さに遇えば南に飛就んで暖まるのみ」と言った。意味は帝の心は保てないと言う」。
二書いずれもこれと異なる。語を較べれば明らか。通世案、西史は「札木合は王汗に付いて耳打ちし「我が友は不変の道徳心がなく、鴻雁が冬に遇うように飛び去る。私は白翎雀と同じで、寒暑ですみかを変えない」」と言う。本書の我が兄弟、元史の他人、西史の我が友、みな太祖を指す。みな二字が余分で、この余分は同じ誤りの疑いがある。
〉部〈底本-350〉将曲憐 拔都︀はこれを聞いて嘆き「愛すべき兄弟の間に至り、この言葉は何の為なのか。」と言った〈秋濤案、秘史は古鄰 把阿禿兒の言葉とする。通世案、秘史は兀卜赤黑台という人で、古鄰部の名に似ている。西史は兀卜赤兒 古鄰 巴哈都︀兒とし、「兀卜赤兒、一種の紅い果実の名で、婦女が洗顔に使う。古鄰赤面が、この名称のいわれである。成吉思もかつてこの果実を顔を染めるのに用いた」と言う。
〉和都︀・赤剌溫は、また汪 可汗が叛いたことにより、脫脫のところに居たのを父のもとに身を寄せた。〈通世案、因是の二字、札木合の離間を指すようである。秘史は乃蠻のまさに襲掠の後で、「この機会にちなみ、また彼の民を連れて離れ、彼の父と合流することを望み、薛涼格河に沿って去った」と言う。最も事実に合っている。〉
上は汪 可汗が移り去るのを見て、「この者は二心が無いか」と言った。〈通世案、秘史は「彼はまさに私を焼飯にして引き返そうとした」と言い、西史は「私は今火のあなの中にいて、王汗は私を棄てた」と言う。〉ただちに陣を解いて去り撒里 川に駐留した。〈文田案、秘史は撒阿里 客額兒とする。〉汪 可汗は土兀剌河に至り、
〈通世案、秘史は此句がない。王罕は帰途で乃蠻に襲われ掠められ、土兀剌河に達していないのである。伯哷津は塔塔兒 土霍勒の地とする。その地は今はわからないが、土兀剌河の誤りである証とできるであろう。〉その子亦剌合 鮮昆、および札阿紺孛は、〈通世案、伯哷津は伊勒喀 鮮昆・札罕不とする。秘史は桑昆とし、札合敢不はない。秘史に拠れば、この役は壬戌年(1202年)にあり、札合敢不の乃蠻に奔るのは、壬戌(1202年)の前にあり、王罕軍に従っていないのは、明らかである。
〉也迭と案臺河から〈文田案、秘史は額垤兒 阿勒台の川股とする。通世案、西史は「二人はいっしょに伊迭兒 阿爾泰の地に至り、その地は河があり林木が多かった」とする。秘史では帝はこれを渡り帰ったと言う。思うに太祖がまず渡り、王罕等があとで至ったのであろう。蒙古游牧記は「伊第爾河は、古くは厄得勒とした。源流は喀爾喀西の鄂勒伯稽山との境を出て、東に流れ、齊老圖河が西南から合流する。また東北に流れ、色楞格河に入る」。額垤兒 阿勒台の川股は、伊第爾河源の地を言うのであろう。
〉父の軍と合流した。曲薛吾 撒八剌は、その不備に乗じて、その部衆を捕まえ、〈通世案、秘史は「王罕の背後を襲って、桑昆の妻子と民衆を捕らえた」。本書は妻子を載せ忘れている。西史は眷属の字があり、つまり妻子である。
〉また汪 可汗のところの住居と民と牛馬と輜重とを掠めて帰り、〈通世案、秘史は「また将兵は王罕にある帖列格禿の口のなかばの民衆を捕えて去った」。撒察・泰出が捕まった地帖列徒と較べると、一文字多い。伯哷津は塔剌因 阿馬色剌と前文のものを同じとする。
〉亦剌合・札阿紺孛は僅かに身をもってまぬがれ、はしって汪 可汗に告げた。汪 可汗は亦剌合に命じて、自分の兵にこれを追わせようとした。さらに使いを遣わして告げて来て、「乃蠻は非道を行い、我が人民を捕らえた。あなたは良将を四人お持ちである。貸して我が怨みを雪ぎ人民を還すことができようか」と言った。上はさきの恨みを捨て、ついに遣わすところの博爾朮 那顏、
〈通世案、秘史は孛斡兒出とし、阿魯剌惕氏。かつて太祖を援けて賊を追いかけ、太祖が孛兒帖を娶った後に至り、遂に来属した。西史は孛古兒濟 諾顏とし、蒙古源流は阿爾拉特 博郭爾濟 諾顏とする。元史に伝がある。
〉木華黎 國王、〈通世案、秘史は模合里、また木合黎、札剌亦兒氏とする。最初は主兒乞部に属し、太祖が主兒乞を平定した時、父古溫兀阿に従って来て属した。伯哷津は木訶里 國王。洪氏は「木華黎は王に封じられた後、これにより国王と称し、脫必赤顏の原本にこれのようなものが見える」と言う。秘史は木合里とする。これは訶の字音を作り、史に木華黎と称するのが見え、音はあまり合っていない。元史に伝がある。
〉博羅渾 那顏、〈通世案、秘史は孛羅兀勒または孛羅忽勒とする。元史 本伝は博爾忽、許兀愼氏とする。太祖が主兒乞を平定した時、孛羅兀勒はなお幼く、主兒乞営内にあり、古溫兀阿弟者︀卜客がこれを得て、訶額侖に献じた。西史は孛羅古勒 諾顏。
〉赤老溫 拔都︀〈通世案、赤老溫は前に見え、伯哷津は赤老根 巴哈都︀兒とする。秘史、速勒都︀孫氏。辛酉年(1201年)、闊亦田戦後、父鎖兒罕 失剌に随い来属した。今のこの役で、赤老溫はすでに麾下にあり、辛酉(1201年)の後の年の事であることはいよいよ明らかである。
〉四将は、出兵しこれを助けに行った。我が軍はあわせて至り、亦剌合はその将〈其将は原書では将其。張石州は「二字は倒置の疑いがある」と言う。今改める。〉迪吉火力・亦禿兒干盞塔兀等二人とともに先んじて〈通世案、秘史はこの名はない。額兒忒曼は的斤火里・伊土兒干額德克とし、伯哷津は的斤火里・亦土兒干約塔黑とする。
〉追って忽剌河山に至った。〈通世案、秘史は忽剌安忽惕の地とする。〉曲薛吾 撒八剌は敵を迎えて捕らえ〈秋濤案、原書はこの下に之の字があり、余分である。擒の字は続く迪吉火力、亦禿兒干盞塔兀二人にあてる。
〉迪吉火力・亦禿兒干盞塔兀二〈原書は一とする。秋濤が校改する。〉人。流矢が亦剌合の馬の股に当たり、捕らえられそうになった。少しして四将の兵も至り、〈通世案、西史はここに孛古兒濟駛良馬の事がある。〉亦剌合を救い、軍勢を大いに負かし、奪い取り尽くして、汪 可汗に返した。
〈秋濤案、元史 本紀は「汪罕は亦剌合に命じ、卜魯忽䚟と共にこれを追った」と言う。又「軍勢が至らず、亦剌合ゆえに曲薛吾を追い、これと戦い、大敗した。卜魯忽䚟は捕まった。流矢〈[#「流矢」は底本では「流失」]〉が亦剌合の馬の股に当たり、捕らえられそうになった。少しして四将の兵が至り、乃蠻を攻めて走らせ、奪い取り尽くして、汪 可汗に返した」と言う。つまりこの事である。
言うところの亦剌合の将は、卜魯忽䚟と言い、これと同じではない。迪吉火力亦禿兒は、卜魯とする。卜魯と禿兒は音が近い。干盞塔兀は、忽䚟とする。また音が近い。当時この書はみなモンゴル文字を用いていた。後に訳者を招き、対音は同じでない字を用い、ついに互いに異なる聞こえ方になった。曽植案、強いてひとつにすべきでない。史当別有所本耳。〈[#訳せない。「元史は別のところから当てただけである」か]〉
〉可汗は深く上の徳に感じ、謝して言うには「以前に困窮し、〈原書は困乏を用乏とする。秋濤が元史類編に拠って改める。〉あなた様を責めて自分勝手な考えを加え〈原書は加意を切切とする。秋濤が元史類編に拠って改める。〉〈底本-351〉なぐさめ安んじた。今すでに国を亡くし、またこれを奪い返した。いったい何をもって報いるであろうか」。〈原書は不の字が欠けている。秋濤が元史類編に拠って補った。通世案、この語はみな西史と同じ。
秘史は「かつて彼の良い父親があり、まさに私が負けたところの民衆を救って私に与えた。今彼の子は同じく、私が負けたところの民衆を、また四傑を遣わして救って私に与えた。彼の恩に報いるに、天地が護り助け知らんことを願う」と言う。王罕は子弟の品行が悪いことを憂いて、ついに土兀剌河のほとりの黒林で太祖と会い、重ねて父子のよしみを結んだ。これは本書では王罕が東に帰った後に述べている。又案、西史はここに王汗が孛古兒濟を招いて衣や什器を贈った事がある。
〉時に脫脫が再び八兒忽眞の狭間を出てきたと聞き、〈原書は入忽真隘とする。秋濤が校改する。〉統烈の沢に居て、上は兵を率いて再びこれを討った。上と弟哈撒兒が、乃蠻部を討った後、忽蘭盞側山に至り、〈曽植案、この山は、恐らく塞北紀行〈[#「塞北紀行」は底本では「辺𡎇紀行」]〉の忽蘭赤斤地方であり、訳し改め忽闌齊勤は、塔米爾河の西南にある。〉
大いに之を敗り、諸部民を殺し尽くし、その屍を取り、これにおいて号令を申して軍を還した。〈通世案、このくだりは、秘史に無い。伯哷津の書は「この冬、托克塔がまた巴兒古眞が出て、まさに変を起こそうと謀ったと聞いた。成吉思と弟朮赤 哈薩兒は共に話し合い、事実ではない恐れがあるとし、またその力もないと考え、しばらくこれを放って置いた」と言う。
本書と異なる。末尾の二句、思うに後文の「勢いが弱く足りずおもんばかった」の異訳であろう。〉この時〈原書では時是とする。張石州は「倒置が疑われる」と言う。〉乃蠻は勢いが弱く足りずおもんばかったのだった。〈通世案、秘史は成吉思自ら乃蠻を撃ち還って撒阿里 客額兒に至るくだりの後文で「また将は乃蠻種族人を計量し、数を当て来て取らなかった」と言う。これまさにこの一句のもとである。〉
上は薩里河の不魯吿崖で汪 可汗と会い、〈通世案、秘史は、太祖が孛兒帖を娶った後、かつて客魯漣河源の不兒吉岸に居て、それがこの不魯吿崖である。蒙古游牧記は「車臣 汗部の中の右後旗牧地は、客魯倫 敖嫩の二河源にあたる。客魯倫河は、源が肎特山東南を百余里の支峯西南麓を出て、西に流れまた西南に流れ、肎特山頂の南また西南を経て、白勒肎河があり、西北土剌色欽の東麓から、東南に流れ合流する」と言う。白勒肎河、今の図は博爾肎河とする。不兒吉岸、これは博爾肎河岸の地撒阿里 客額兒にあたり、客魯倫河の上流にあり、その地は頗る広く、不兒吉岸を囲んで中にあり、ゆえにまた薩里河不魯吿崖と称する。河は川とし、告は吉とする。〉
出兵して泰赤烏部を征し、部長の沆忽 阿忽出と、〈原書では沆は流。張石州は「元史の紀は部長を沆忽などとする。流の字は誤っている疑いがある」という。秋濤案、秘史は「泰赤兀部、阿兀出 把阿禿兒が有り」と言い、つまりこれである。通世案伯哷津の書、これは盎庫兀庫楚とし、前文の阿忽失を阿忽朱とし、二人のようで、実は一人である。秘史は、これを阿兀出とするが、沆忽 阿忽出はない。〉
忽憐・忽都︀塔兒〈通世案、西史は忽里兒 巴哈都︀兒・忽都︀達兒とする。〉など、斡難︀河で大いに戦い、上はこれを破った。帖泥忽都︀・徒思曰哥察兒 別吉〈通世案、思うに二人の名であろう。〉塔兒忽台 希憐禿〈通世案、これは秘史の塔兒忽台 乞鄰勒禿黑。〉忽都︀荅兒を襲い、月良禿剌思〈通世案、洪氏が訳した伯哷津の書は、恩古特禿剌思と言い、「本名はきっと烏良兀特禿剌思であり、訳音はみな揃っていない」と言う。今案、多遜は額連庫特禿剌思とする。〉の野に至りこれを捕らえた。〈通世案、塔兒忽台 希憐禿が捕らえられるのは、前文の失力哥 也不干がこれを捕ったの事。秘史はこれをはなはだ詳しく述べている。今捕らえたと言うが放ったと言わず、おろそか。西史はこれを殺したといい、最も誤っている。
〉阿忽兀忽出、〈通世案、これは前文の沆忽 阿忽出。〉忽敦 忽兒章〈秋濤案、前に塔海︀荅魯を殺したこの忽數 忽兒章である。あの数の字は思うに誤っている。元史は忽敦 忽兒章の名を載せていない。そして「泰赤烏部人に殺された塔海︀荅魯」と言うのは、つまりこの人とわかるのは明らかである。
〉は八兒忽眞の狭間に走り、〈原書では入児忽其隘とする。秋濤が校改する。通世案、この役で泰亦赤兀惕の最も頑強な者は、阿兀出 把阿禿兒である。秘史は「成吉思は阿兀出を追った。阿兀出は自分の部落に至り、将と民衆を立たせ、斡難︀河を渡り過ぎ、軍馬を整え、成吉思が来て対戦するのを待った。成吉思はやがて到り、何度も戦い続けた。
日が暮れて、各々が戦い抗しあう所で宿った」と言う。また「成吉思と将は阿兀出ら子孫を殺し尽くし、将は百姓を起こし行かせて、忽巴合牙の地に至りそこで冬を暮らした」と言う。今ただ「八兒忽眞の狭間に走り」というのは、はなはだおろそかでもある。
〉忽憐は乃蠻部に奔った。〈通世案、この戦いは、史録みな年を書かず、西史は猴年(1200年)の春の事とし、つまり宋 慶元 六年、金 承安 五年である。秘史に拠ってこれを考えると、辛酉(1201年)十一部の連合軍は、泰亦赤兀惕が実質か。
闊亦田で軍が潰えて、王罕は札木合に述べて、太祖は泰亦赤兀惕を追い、この戦いがあったことにより、泰亦赤兀惕が滅び始める。そうであるならばこの戦は辛酉年(1201年)にあり闊亦田戦の後。
史録はこれを阿雷の泉の会盟の前に述べ、誤っている。また阿雷の盟は、元史類編は「諸部みな太祖の威を畏れ不安がった」と言い、正しい。元史は「乃蠻は泰赤烏の負けを聞き」の一句を加え、誤っている。西史は「哈荅斤 撒兒助特二部、もともと成吉思と不和で、泰赤烏特についた」といい、そのとおり。それは「やがて泰赤烏特の滅亡を聞き、ますます不安になった」と言い、そのとおりではない。思うにみな斡難︀河のほとりに接した戦いを望み、泰赤烏がまだ敗滅していないのを知らなかった。〉
その後〈通世案、西史は猴年(1200年)の事とする。秘史は「其後鶏児年」といい、初めて鶏児年と紀年があり、辛酉(1201年)は、宋 嘉泰 元年、金 泰和 元年である。〉哈荅斤〈通世案、秘史は合塔斤とし、孛端察兒の長兄不忽 合塔吉の子孫である。〉散只兀〈通世案、秘史は撒勒只兀惕とし、孛端察兒の次兄不合禿 撒勒只の子孫である。
〉朵魯班〈通世案、秘史は朶兒邊とし、都︀蛙 鎻豁兒の四男の子孫である。〉塔塔兒 弘吉剌〈通世案、秘史は翁吉剌とし、蒙古源流は鴻吉喇特とする。〉諸部は、会して阿雷泉のほとりで盟約し、〈通世案、秘史は阿勒灰 不剌阿。下の阿はおそらく合の誤りであろう。額兒忒曼は阿雷 布拉克とする。〉白馬を胴切りにして誓いとし、我が軍と汪 可汗を襲うことを望んだ。〈底本-352〉
〈通世案、秘史は「合塔斤ら十一部落は、阿勒灰 不剌阿の地で、聚会して話し合い、札木合を君主に立てることを望んだ。部の衆は馬を殺して誓いを云云」と言う。この阿勒灰の会は、札木合を立てる相談である。そしてついに犍河に至り法制が成った。もともとその場限りの事である。本書は札木合を立てることを望んだことを言わず、ゆえに犍河の会と後日が、一つの事になっており、事実でない。
〉ここにおいて弘吉剌部長迭夷は〈通世案、これは秘史の德 薛禪であり、太祖の妻孛兒帖の父である。ただし秘史はこの事を載せていない。元史 本伝は特 薛禪とし、また特因 薛禪とする。蒙古源流は岱徹辰とし、額兒忒曼はこれと同じで、伯哷津は特因色辰とし、元史と同じ。
〉人を遣わして告げて来た。上はこれを聞き、ついに汪 可汗と虎圖の沢より出兵し、〈通世案、伯哷津は虎敦 諾爾とし、「斡難︀河に近い」と言い、考えはない。
〉盃亦烈川で戦い、〈通世案、伯哷津は魚を捕るための諾爾とする。これは今の貝爾 諾爾。〉大いにこれを破った。〈秋濤案、元史類編を引いてこれを「その時に有哈荅吉部・散只兒部・朵魯班部・塔塔兒部・弘吉剌部、みな太祖の勢いを畏れ不安に思い、ひそかに阿雷の泉で会い、馬を斬って誓いとし、共襲我が軍を共に襲うことを望んだ。弘吉剌部長迭彝は、事が成らないことを恐れ、ひそかに人を遣わして変を告げた。帝はこれを聞き、ついに虎圖沢より出兵し、盃亦烈川で迎え撃ち、諸部衆を大いに破った。これにより弘吉剌は心から付き従った」と言う。
案、邵遠平氏が引くところを詳しく較べると、これが原本にあたる。今の本は後の人が節を削った疑いがあり、改正したものに拠るべき。通世案、秘史はこの戦いを載せていない。〉
冬、汪 可汗は兵を分けて曲綠憐河より、〈原書は自の字が抜け、曲は誤って由とする。由の下、何秋濤氏は怯の字を補い、「元史 本紀は「由綠憐河より行き」と言い、とすれば誤りは古くからのものか」と言う。李氏は「元史 太祖紀も、「由綠憐河」とする。由は曲の字のくずれ。そうであるならばこの録の誤字は、明初より元史のもともとの本に見られ、すでにこのようであったか。曲綠憐は、つまり克魯漣河である」と言う。通世が元史に拠って自の字を補った。怯の字は必ずしも補わない。〉忽八海︀牙山を目指して〈曽植案、秘史の忽巴合牙の地。〉先に出発した。部の人々は遅れて列を成して進んだ。その弟札阿紺孛は、汪 可汗が心変わりしやすいので、ついに渾八力で謀り〈秋濤案、秘史は忽勒巴里とする。通世案、伯哷津は忽勒巴爾とする。
〉按敦阿述〈秋濤案、秘史は阿勒屯 阿倏黑とし、通世案、伯哷津は阿勒屯 阿速克。〉燕火脫兒〈通世案、秘史は額勒 忽禿兒とし、伯哷津は伊勒 忽禿兒とする〉延晃火兒〈通世案、秘史はこの人がない。伯哷津は伊兒晃火兒。〉の四人は「我兄は立派な心がなく、兄弟を屠り滅ぼし、敵対して契丹に奔った。〈原書は丹の字が欠けている。張石州が補った。通世案当の字、これは嘗の誤りが疑われる。
〉このようなその心性を見せて、ついに我らを保全せず、また国を安らかにさせられない。今どうしてここにどどまるよう計れようか」。〈通世案、この語は、秘史が最も詳しい。〉按敦阿述は漏らして汪 可汗に語った。燕火脫兒および納憐を捕らえるよう命じ〈原書では憐納、秋濤が校改する。通世案、この注本は署名がなく、今改めるというのみ。思うに何氏の校本は、底本が皆そう書いており今改める。および李沈二氏が重ねて校正し、秋濤の名をもって今の字を変えているが、たまに変わるに至っていない。後文はまたときどき署名がないところがある。今みな秋濤が校改したものとして改め、ときには秋濤案の三字を加える。
〉二人が、本営に至り、その縛を解かれ、燕火脫兒に言わせて「私は西夏から来たが、道中は飢えて苦しみ、誓いの言葉を思い出し、忘れた。我が心は汝にないのである」と言った。〈文田案、想誓の想は、盟の字を当てる。〉その顔に唾を吐いた。集まっていた人々は、みな立ってこれに唾を吐いた。按敦阿述は「私もこの謀りごとにくみした。王を捨てるに忍びず、それゆえに告げ来たのである」と言った。汪 可汗はたびたび札阿紺孛を責め、「お前は常によこしまな考えを持っている」と言った。札阿紺孛は心配になり、そのあと燕火脫兒・延晃火兒・納憐 太石
〈石は原書では后。秋濤案、秘史は阿憐 太子があり、これが疑われる。后の字は恐らく誤っている。通世案、本書は太子を太石とすることが多い。これは前文の捏群 太石の類が改正したことに拠る。〉らがともに乃蠻に奔った。〈通世案、西史の「みな乃蠻に奔った」の下に、「まず人を遣わして太陽 汗に告げて「阿勒屯 阿速克は、その兄王汗にそしられ、ゆえに我らは奔って来た。心と力を尽くすのを願い、新しい主として仕える」と言った。乃蠻はこれを受け入れた」と数語あり、他の書では見られない。又案、この事は、西史は庚申(1200年)冬につないでいる。だが秘史は辛酉(1201年)の後、壬戌(1202年)の前に述べ、これを辛酉(1201年)冬の事とする。〉
その冬、汪 可汗は忽八海︀牙兒に居た。〈秋濤案、児は山の字の疑いがある〉上は徹徹兒山に駐軍し、〈曽植案、遼の属国は、察がある。察里はおそらく徹徹兒山に住む者であろう。通世案、後文は徹兒とし、伯哷津は乞䚟国境上の札哈察兒とする。詳しくは徹兒の注にある。〉出兵して塔塔兒部長阿剌 兀都︀兒を討伐し〈通世案、西史は阿剌克 烏都︀兒とし、蔑兒乞特の酋長とする。〉哈太石〈原書では后とする。張石州が校改する。通世案、西史は乞兒罕 大石とし、泰赤烏特の酋長とする。〉察忽斤〈通世案、伯哷津は察忽兒、額兒忒曼は札烏忽兒とする。〉帖木兒〈通世案、伯哷津は開兒伯克とし、額兒忒曼は開兒伯克兒とし、これと合わない。〉〈底本-353〉
らが、答蘭 捏木哥兒の野で戦い、〈通世案、秘史は荅蘭 捏木兒格思の地とし、額兒忒曼は荅蘭 帖木兒斤とする。この哥児の二字は、倒置が疑われる。その地は合泐合河と兀勒灰河の間にあり、後文で見える。〉大いにこれを破った。〈通世案、この戦は、西史も庚申(1200年)冬につなげる。そして秘史は「狗児年の秋」といい、後文の壬戌(1202年)塔塔兒討伐の役である。思うに本書は一つの事を二つの事とし誤っている。〉
時に弘吉剌部もまだ従っていなかった。上の弟哈撒兒は別のところに居て、麾下哲不哥〈秋濤案、者︀卜客と当てるか、秘史を見よ。通世案、秘史は、太祖が主兒乞を平定した時、札剌亦兒種人帖列格禿 伯顏の三子が来降し、第三子者︀卜客は、太祖の弟合撒兒に仕えた。〉の計に従い、これを掠めていった。上は深くきびしく責めた。この弘吉剌がついに札木合に附いたことで、
〈通世案、西史はこのところに鶏年の字を挿し込む。そして十一部同盟が乱を起こしたのは、まさに辛酉年(1201年)である。阿雷の会と、犍河の会は、両年につらなっており分けられない。〉ともにするところの亦乞剌思・火魯剌思・〈火は原書では大。張石州が校正する。〉朵魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸部は、犍河で会い、〈通世案、秘史は刊沐漣河洲の地とする。沐漣は、モンゴル語で河である。
洪氏は「今の俄羅斯地図を調べると、額爾古訥河東に旱河という支流があり、呼倫 淖爾の東北約三百里にある。水道提綱は「克魯倫河は、また折れてまっすぐ北に流れ、東南から浯輪河など五つの川と合流する振河があり、西北に流れ合流する」。内府輿地〈[#「内府輿地」は淸の康熙帝時代の地理書]〉は根河とする。
根・振・旱・腱・刊、みな訳音が異なる。秘史は「額兒古捏河に沿って進み、刊沐漣に至る」と言い、必ずやこの河である。札木合がむかし額兒古捏河に居たことが、秘史に見える。よって諸部みな額兒古捏の南にあり、北に行きともに合い、ゆえに沿って進みと言うのである」と言う。
〉共に札木合を局兒 可汗として立て〈曽植案、秘史蒙文は古兒合、説明は「古兒は、普くである。合は皇帝である」と言う。そうであるならば局兒 汗は、思うに諸部の長であり、大皇帝というようなものか。通世案、西遼の古兒 汗は同じ意味である。
〉我らを侵略しようと謀った。禿律別兒河の岸で盟約し、〈律は原書では津。秋濤が元史 本紀に拠って律とする。通世案、西史は禿拉沿とし恐らく誤っている。〉
「すべての我ら謀りごとを同じくし、この誓を漏らす者があれば、岸のように砕き、林のように切る」と言って誓とした。言い終わり、ともに足をあげて岸を踏み、刀をふるって林を切り、人々を駆けさせ馬を駆けさせ、残らずわが軍に走り向かった。塔海︀哈という者があり、その時は人々の中に居た。上の麾下照烈氏抄吾兒
〈秋濤案、元史 本紀は抄吾兒とする。元史 列伝は召烈台 抄兀兒とし、通世案、照烈氏、つまり秘史の沼兀列亦惕氏、また沼列歹氏と言う。ゆえに召烈台ともする。元史の伝は誤っていない。
〉とこれは親しかった。行ってこれと会い、並んでいっしょに駆け、まことにこの謀計を知らないでいた。塔海︀哈の馬の鞭が彼の肋骨をついた。抄吾兒は振り向いた。塔海︀哈は彼に目くばせした。抄吾兒は悟り、下馬して寝るふりをした。〈[#「臥」は四庫全書存目叢書本では「施」で「小便をする」の意]〉塔海︀哈は寄り添い彼に河上の盟を告げ、「事は差し迫っている。お前はどこにいくのか」と言った。抄吾兒は驚き、ただちに帰り、火魯剌氏也速該に遇いその事を言い、まさに急いで上にこれを告げようとした。
也速該は「私は常に婦人の子であり、〈秋濤案、四字に誤りの疑いが有る〉忽郞不花と〈曽植案、忽郞不花は、おそらく忽郞不荅であろう。これは後文の忽蘭八都︀である。おそらく豁羅剌思の有力者であろう。ゆえに彼がこれを知ることを恐れた。〉昼も夜もなく往来している。私のそばの人はみな幼子があり動かず家人大力台だけがともにする」と言った。〈曽植案、大力台の大の字は誤りで、火とする。火力台、つまりは秘史巻五の豁里歹である。この火魯剌氏、秘史は豁羅剌思とし、明らかとしてよい。
〉それで大力台が誓うよう命じて去り、蒼い驢馬と白い馬に乗せた。これに委ねて「お前が彼のところに着いたら、ただ上および后とともに我が壻の哈徹兒に会って、これを言え。〈秋濤案、哈徹兒は、おそらく太祖の弟哈撒兒であろう。通世案、何を言っているのか。西史は「朮赤 哈薩兒は巴忽兒達爾という子がいる。その母阿爾壇 哈敦は、火魯剌思人」と言う。そうであるならば也速該は、思うに阿爾壇の父である。
〉もしも他人に漏らしたら、お前の腰を断ち、お前の背を裂くことを願う」と言った。誓いが終わり、ただちに行った。〈通世案、西史は塔海︀哈 抄吾兒がなく、也速該を麥兒吉台とし、火力台の舅とする。火力台はその謀計を聞き、そして麥兒吉台に語った。麥兒吉歹は耳の切れた白馬を預かり、使いして速く往い変を告げた。秘史もだた「豁羅剌思種の人豁里歹に、古連勒古の地に至らせ、成吉思に告げた」と言う。
本書はひとり詳しく述べている。しかし諸書は太祖の所在を記さず、秘史に頼り、まだ古連勒古に居ると理解する。おそらく札木合と離れこの地に帰ってから、十有余年、いまだかつて他に移らなかった。前文の「上は薩里河の不魯吿崖で汪 可汗と会い」は、この年の闊亦田戦の後の事である。ここに至って始めて不魯吿崖に移った。これはつまり孛兒帖を娶った後にしばらく居たところの客魯漣河源不兒吉岸である。また前文の自ら乃蠻を撃ち帰って、薩里川に駐留したのは、明年壬戌(1202年)の事である。これより後、薩里の野は、永らく太祖の竜庭となったのであった。
〉道の途中で忽蘭八都︀に遇った。〈曽植案、元文類 張士観昌王世徳碑に「諸部に諭旨し、おのおの子弟を遣わして入侍させた。火魯剌帶部哈兒八台は聖旨を違えた。忠武王に命じて孛圖に兵千人を出させてこれを誅した」とある。哈兒八台は、おそらくこの忽蘭八都︀であろう。通世案、伯哷津は「槐因人、泰赤烏特部のなかま」と言う。槐因は樹林を言う。
いわゆる森の民で、泰赤烏特に属する者。〉哈剌蔑力吉台〈通世案、伯哷津は「これは火魯剌思人」と言い、誤っている恐れがある。蔑兒乞人とあてる。〉軍が囲み、その遊軍の兵に捕らえられる所となった。〈底本-354〉
百を以って〈秋濤案、欠けた字がある。〉得て解いた。そこで獺色の完全な馬を贈り、「この馬は、危険から遁れることができ、人に追いつくことができる。乗り捨ててよい」と言った。
〈通世案、西史は「哈剌蔑兒乞歹が見つけてこれを捕らえた。だがこの人も成吉思に心を寄せており、己の黒馬を云云」。〉やがてまた氊車白帳の隊に遇い、札木合勢に至った。〈通世案、西史は別隊が札木合の白い幕舎を載せていたとする。〉隊中の人が出て抄兀兒を追った。抄兀兒は馬に乗って馳け尽くして脱し、上の前に至り、つぶさに前の謀計を告げた。上はただちに兵でこれを迎え、
〈通世案、元史は、兵の上に起の字がある。おそらくこれは抜けている。秘史は「成吉思と王罕を攻めることを望んだ」と言う。また「成吉思は王罕に人を遣わして告げて助けた。王罕はここに軍馬を収集し、成吉思がやって来た。王罕と成吉思は互いに接し合いつつ、客魯連河に沿って行き札木合を迎え」と言う。史録西史、どれも王罕を言わず、王罕の功をかくそうとするかのようである。洪氏は反対に「この役は、汪罕は会う約束には至らず、秘史は元史の紀のこれを引用し、いろいろ錯誤している」と言う。その秘史については、細かく考えていないようである。又案、秘史は海︀剌兒の戦いはなく、すぐに後文の「上先遣騎」のくだりで触れる。〉海︀剌兒 帖尼火魯罕の野で戦い
〈秋濤案、元史 召烈台 抄兀兒伝は、海︀剌兒 阿帶亦兒渾とする。通世案、西史は亦提火兒罕とし、上三字の音が脱落している。華而甫は墓地と解釈し、罕默兒は七つの墳丘と解釈した。洪氏は「場所は刊河の南。海︀剌兒正河の名は、帖尼支河の名で、火魯罕、モンゴル語で小河をいう」と言う。案、海︀拉兒河は今は開拉里河とする。源は諾尼河源の山の西麓を出て、東より西北に流れる河川に合流し、呼倫湖の東北に流れ出る川と合流する。水道提綱を見よ。和渥兒特のモンゴル図は凱剌兒とする。
〉これを破った。札木合は脱走し、〈秋濤案、元史 召烈台 抄兀兒伝は「札木合らを滅ぼし尽くし」とする。案、札木合は、癸亥年(1203年)になお健在で、汪 可汗とともにモンゴルを討伐しに来ており、であれば伝は誤りである。
〉弘吉剌部が来降した。〈秋濤案、元史 召烈台 抄兀兒伝は「時に哈剌赤・散只兒・朵魯班・塔塔兒・弘吉剌・亦乞列思などがあり、堅河のほとり忽蘭也兒吉の地にいて、札木合を帝として奉じようと謀り、まさに太祖に不利になった。抄兀兒はその謀計を知り、馳けて太祖に告げた。ついに兵をもって海︀剌兒 阿帶亦兒渾の地を収め、札木合らを滅ぼし尽くした。ひとり弘吉剌が入り降った。太祖は荅剌罕の名を賜うた」と言う。つまりこの事である。元史 本紀は諸部を載せ、親征記〈[#「記」はママ。元史類編に含まれる聖武親征記のことか]〉と合う。
伝は火魯剌思・哈荅斤二部はなく、哈剌赤部が多い。ひとりこれは異なる。堅河は、犍河である。通世案、秘史「弘吉剌部が来降した」の句がない。これは癸亥(1203年)の合蘭只戦後の帖木哥 阿蠻の降伏の事を言う。思うに元史はしまいにこれを言ったのであろう。抄兀兒伝の哈剌赤は、この火魯剌思の音の変化にあたり、哈荅斤の字の誤りではない。〉
壬戌(1202年)〈原注「宋 理宗 景定 三年、金 章宗 泰和 三年」。張石州は「壬戌(1202年)は、まさに宋 寧宗 嘉泰 二年、金 章宗 泰和 二年である。」と言う。通世案、史録はここから紀年の存在が始まり、秘史と合う。ただし秘史に拠ると、この役は前文の荅蘭 捏木兒哥の戦いである。これは二つの事に誤って分け、そしてこの場所の戦地名を失った。
〉兀魯回失連眞河で挙兵し、〈曽植案、これは秘史の浯泐灰溼魯格泐只惕という名の川。通世案、沈曽植は秘史巻七を引いている。巻五はこの戦いの場所を述べ、兀勒灰河失魯格勒只惕の地とする。伯哷津は兀魯灰失魯楚兒只特河とし、秘史と字数が合う。水道提綱は「蘆河は、現地の呼称は烏爾虎河で、源は索岳爾濟山を出て、南に流れ山麓に沿って行き、西南に曲がりくねり、三百里進み、烏珠穆沁左翼東六十里を経て、折れて西に流れ、北は色野爾濟河と合流し、南は音札哈河賀爾洪河に合流し、右翼の境界に入り、克勒河の源流の枯れた地に至る」と言う。
蒙古遊牧記は「烏珠穆沁左翼の牧地は、索岳爾濟山の西にあたり、鄂爾虎河があり、その游牧地を繞り、和里圖 淖爾に集まる」。また「一統志図は吳兒灰とし、方略〈[#訳せない。平定羅刹方略のことか]〉は吳兒會・烏爾會・烏勒揮・吳爾揮とする」と言い、洪文卿は「考えるに兀魯灰河はこれである。色野爾濟は、索岳爾濟である。山名は、河名でもある。急いで色野爾濟を読むと、失連眞になる」と言い、ゆえに史録みな河名とする。
失魯楚兒只は、つまり索岳爾濟の訛りである。秘史が言う地名は、また音を表す文法の字である中があり、たがいに合わない。俄羅斯地図は、兀魯灰は音を烏拉圭と変え、色野爾濟は蘇攸勒奇とする。ふたつの河が合流して淖爾となるのは、蒙古游牧記と合い、水道提綱と合わない。内府輿図は烏爾揮河とし、かたちは俄羅斯図略と同じで、提綱の言う所とあまり符合せず、ただこれにめぐり入る淖爾もない。また虞集の句容郡王世勲碑に「也只里王が叛いて王火魯哈孫の所を攻めた。王は成宗〈[#「成宗」はテムル・カンの廟号]〉に従い、軍を移してこれを援け、諸兀魯灰を破り、哈剌溫山に帰り至り、夜に貴列河を渡り、叛王哈丹之軍を破り、遼左諸部のすべてを得た」とある。
兀魯灰はこの河であり、哈剌溫山と近く、遼東とも近い。秘史を調べると、太祖と塔塔兒四種は、荅闌 捏木兒格思の地で戦いこれを破り、ついに兀勒灰河に至り、四種の奧魯を掠めた。この兀勒灰河は、四種が遊牧する地で、荅闌 捏木兒格思の南にある。秘史巻七により、太祖は浯泐灰川をさかのぼり、荅闌 捏木兒格思に入り、またその地より合泐合河に沿って北に帰った。今この書は兀魯回河で挙兵したと言い、戦地もその南にあるようで、誤っている。
〉案赤 塔塔兒・察罕 塔塔兒を征伐した。〈通世案、秘史は察阿安 塔塔兒など四種とする。喇施特は「塔塔兒はあわせて六部」と言い一つ目は禿禿瑠特と言う。二つ目は阿勒濟と言い、案赤である。三つ目は札干と言い、察罕である。残りの三部は、多桑は庫音・特拉特・別爾奎とし、額兒忒曼は奎新・訥載特・頁爾奎とする。
〉その夏、兵をとどめて暑避した。あらかじめ軍兵をいましめ「もし敵を破って退けたら、遺物を見捨てて、顧みず慎め。戦いが終われば、ともにこれを分ける」と言った。〈通世案、この下、秘史は「もし軍馬が退き動かされれば、もとの押し出されたところに至り、再び戻って力戦せよ。もとの押し出されたところに至れば、翻らない者を斬れ」と数語が有る。西史も載せていない。〉戦い尽くして、たびたび勝った。族人案彈・火察兒・荅力台の三人が約束に背いた。〈通世案、案彈は按壇であり、秘史の阿兒壇 斡惕赤斤、忽圖剌 合罕の第三子、太祖の大叔父の子とする。火察児は、秘史の忽察兒 別乞、捏坤 太子の子、太祖の従兄とする。荅力台は、秘史の荅里台 斡惕赤斤、〈底本-355〉把兒壇 把阿禿兒の第四子、太祖の末の叔父とする。皆すでに前文に見える。
〉上は虎必來〈秋濤案、秘史は忽必來とする。〉折別二将に命じて、〈通世案、秘史の忽必來、巴魯剌氏、太祖が札木合と離れた時に来属した。折別は、哲別、秘史の者︀別、前年辛酉(1201年)斡難︀河で、戦った後、泰亦赤兀惕軍中から来降した。そして闊亦田役は、実は斡難︀河戦の前に在り、者︀別は嶺から見て上を射た。太祖の馬の首骨を切った。今者︀別はすでに太祖の麾下にあり、本書が闊亦田役があった後とする誤りを述べているのは明らかと見てよい。〉その場所を奪い尽くし獲り軍中で分けさせた。〈通世案、この下、秘史は叙事が甚だ詳しい。一、太祖ついに兀勒灰河に至り、四種の塔塔兒の奧魯を掠めた。二、太祖と親族が話し合い、塔塔兒の男子の年長者を殺し尽くし、残りを奴婢として分け、もって父の仇に報いた。別勒古台がその謀計を洩らし、塔塔兒は山寨に籠って抗戦し、軍兵が多く死傷した。太祖はこれから別勒古台・荅里台に軍議を許さなくなった。三、太祖は塔塔兒の也客 扯連の娘也速干を受け入れた。也速干はその姉也遂を薦め、太祖はそのまま也遂を納めた。
四、太祖が也遂の前夫を殺した。この四つのくだりは、史録西史いずれも載せていない。思うに脫必赤顏原本はすでにこれが欠けていた、あるいはうっかり抜けた、あるいは言うのをはばかったのであろう。
秘史はまた「狗児年、太祖が塔塔兒を滅ぼした時、王罕は篾兒乞を滅ぼし去り、脫黑脫阿を追い、巴兒忽眞 脫窟木の地に入り、その長子脫古思 別乞を殺し、その娘二人忽禿黑台・察阿侖及び妻子を捕まえ、その二子及び民衆を捕まえた。財物を取ったが、太祖に一つも贈らなかった」と言う。これは不兀剌川の役であり、そして兀勒灰河の役と同じ時である。
本書は誤って莫那察山の戦いの後に述べている。塔塔兒と篾兒乞はすでに平定され、太祖と王罕は兵を連ね、乃蠻の不亦魯黑 汗を討ちに行った。そして乃蠻も阿勒灰泉の集会をともにしたのである。ここにおいて兀瀧古河の捕縛、乞溼泐巴失の剿滅、巴亦荅剌黑の対戦、王罕の移営、札木合の讒言があった。
太祖はすでに撒阿里に帰り、さらに四傑を遣わして客列亦部を救った。これにより王罕は徳を感じ、重ねて父子のよしみをはかった。これみな壬戌年(1202年)中の事である。思うに十一部の乱は、酉戌両年に跨り、阿勒灰泉を発端に、乃蠻の役で終わった。秘史の叙述は、本に順序がある。本書は王罕が東に帰った後のことが、篾兒乞乃蠻の役を先に述べ、乃蠻との開戦の前にあり、しかし闊亦田役は、反対に不亦魯黑 汗敗遁の後にある。転倒と錯誤があり、調べ正せない。〉
この秋〈通世案、闊亦田の役は、秘史では辛酉年(1201年)にあり、思うに刊河の会と、あい連なり、時期は離れていない。ゆえに両汗の東征は、還らずまた行き、諸部は兵を率いて、散らずにまた集まる。〉乃蠻の盃綠 可汗は、〈通世案、盃綠は、つまり盃祿で、秘史の不亦魯黑。不亦魯黑および刊河の盟は、ゆえに両汗が塔塔兒篾兒乞を滅ぼした後、連戦して窮め討ち、不亦魯黑は北に逃れ、乃蠻の勢いはついに弱まった。
乃蠻の役に使いを立てたのは前にあり、本書が述べるように、不亦魯黑は、どうして自ら来て両汗と抗戦できようか。本書の順序の顛倒は、やはり明らかである。〉蔑力乞部長脫脫 別吉と会い、〈通世案、西史は托克塔 別乞とする。〉朵魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸部、および阿忽出 拔都︀・〈通世案、kこれは前文の阿忽失 拔都︀、また沆忽 阿忽出、秘史の阿兀出 把阿禿兒、泰亦赤兀惕部長である。西史は撒兒助特部長とし、後文で哈荅斤人ともし、ともに誤っている。
〉忽都︀花 別吉〈通世案、西史は「衞剌特部長忽都︀花 別乞は、朵兒奔部人である」と言う。本書の後文は、猥剌部長とも言う。衞剌特部は額尼𧶼河上流に居て、朵魯奔部と隣接していた。〉らは、来て我が軍と汪 可汗を攻撃した。上はまず捏干 貴因都︀・徹兒・赤忽兒黑諸山を展望する高みに騎兵を遣わした。赤黑山〈秋濤案、赤忽兒黑山とする。〉より来る騎兵があり、乃蠻がだんだんと至ることを告げ、
〈通世案、秘史は「成吉思は阿勒壇ら三人を先鋒とし、王罕は桑昆ら三人を先鋒とした。その先鋒のうち、さらに人をつかわして、前に移って額捏堅 歸列禿・徹克徹列・赤忽兒忽の三つの地を見張った。その阿勒壇らが兀惕乞牙の地に至った。赤忽兒忽を見張りする人があり来報して「敵人まさに至る」と話した」と言う。徹克徹列・赤忽兒忽、秘史巻一は扯克徹兒・赤忽兒古両山とし、また扯克扯兒の地とし、巻二は扯克徹兒・赤忽兒忽両山とし、「客魯漣河に沿って行き、両山の間に到り、德 薛禪の家を尋ね」と言う。德 薛禪、つまり迭夷、翁吉剌部長である。巻七も「合泐合河は捕れる魚がいる湖に流れ入り、帖兒格ら翁吉剌があり」と言う。この翁吉剌部、両山の間に居て、貝爾 諾爾に近く、つまりは両山は貝爾 諾爾に近いとみとめてよいであろう。徹兒は脱字があるかもしれない。
〉上と汪 可汗は兀魯回失連眞河より〈連は原書では速。秋濤案、速はきっと連であろう。通世は前文に拠って、速を連と改める。案、兀魯回河は、四種の塔塔兒の奧魯がいる所である。この時塔塔兒はまだ滅んでおらず、ちょうど仲間の部と兵を連ね、両汗を脅した。両汗はどうして悠然と彼らの狩場を過ぎることができたであろうか。秘史はこの句がない。西史はこれと同じで、おそらく脫必赤顏本に誤りが有るのだろう。〉軍を移して塞に入った。
〈秋濤案、いわゆる入塞と出塞は、阿蘭塞を指すのである。文田案、塞に寨をあてる。曽植案、阿蘭塞は、思うに金のそばの城だろう。太祖は以前に金の官職を受け、ゆえに事が差し迫れば、いつも南に引いて塞をたのみとした。後に王罕と戦った後、退軍は荅蘭 捏木兒に至り、真相もまた互いに似ている。この時なおも大国を頼みとして自らを強くした。ゆえに入貢時に、衛紹王に相まみえたこと、および耶律 阿海︀兄弟が心からつき従うことは辛未(1211年)の前である。その間もわずかな略奪さえ免れないのは終わっている。元史 禿花伝「衆を率いて太祖に帰順し、道案内をして金との境に入り、牧馬と多くの人を獲った」。班朮河の水を飲む以前にあった。これはその事である。又案速不台伝「兄忽魯渾は百戸を率いて太祖に従い、乃蠻部主と、長城の南で戦った。忽魯渾は射てこれを退けた。その衆は闊赤檀山に奔りそして潰えた」。この戦いの事である。乃蠻部主は、盃祿であり、長城は、軍を移して塞に入った所である。
通世案、喇施特は「汪古部地に向かって行くと、哈剌溫 赤敦に近づく」と言う。洪氏は「元史の阿蘭塞とするところは、金の東北の国境に近い山である」と言う。通世は別に案があり、後文で見える。〉汪 可汗の子亦剌合は北のはずれに居て、遅れて至り、高嶺に拠って居住した。盃祿 可汗はこれを侮って「彼の軍はしまりがない。その軍勢を待ち迎えて、私はこれを悉く追いつめよう」と言った。この時に阿〈原書は附とする。秋濤が校改する。〉忽水〈原書は大とし、秋濤が校改する。〈[#「忽水」はママ。後文の忽都︀を考えると「忽水」は「忽出・火」の誤植の恐れがある]〉〉都の一部の兵が、乃蠻に従って来て、先鋒と合い、〈底本-356〉〈通世案、喇施特は「阿忽出 巴哈都︀兒および托克塔 別乞の弟忽都︀を遣わして前鋒とした」とする。那珂氏自注「托克塔の子に忽都︀がいる。弟も忽都︀と言う」。
〉将は戦った。はるかに眺めるに亦剌合軍勢は動けず、ついに帰った。亦剌合は考えてただ塞に入り、我が軍に会い戦うふりをし、輜重を他所に置いた。〈通世案、このところ秘史はとてもおおまかで、ただ「その阿勒壇らはついに前へ迎えゆき消息をとらえた。軍中、札木合は先鋒の阿兀出 把阿禿兒ら四人と出会って、相談をし、空の色がすでに晩であるのを見て、退いて大軍で宿営した」と言う。〉上と汪 可汗は、阿蘭塞をたのんで壁とし、闕奕壇の野で大いに戦った。
〈奕は原書では蛮。秋濤案、畢沅氏は史を引用して、圖奕壇とし、徒伊壇と改める。殿本は闕奕壇とし、吹丹と改める。どれがよいのかは知らない。文田案、闕奕壇の三字、元史 本紀に拠って改正する。また秘史に拠って闊亦田とし、図と闕はひとしく誤りとわかり、蛮の字もまた奕の字を上半分に減らして書き写し誤るに至ったのである。曽植案、秘史に拠り、戦地を闊亦田とし、蛮は奕の字の誤りとする。闕と闊の音はもともとは互いに近く、図も誤った字である。通世案、喇施特は奎騰の地とする。
洪氏は「闊亦田の異文である。元史語解は「奎騰は冷たい」と言う。この地はもともと寒く、また雨雪に遇い、ゆえにみなこわばり凍える。秘史がこれを観るところと合い、この役は敵兵は戦わずして潰えている。史録は闕奕壇で大いに戦い、恐らくこれは誤りである。蒙古游牧記は「蘇尼特左翼旗の東北四十里に寒山が有り、モンゴル名奎騰」。この地のようである」と言う。〉彼は風を祭った。〈通世案、秘史は「次の日になり、成吉思軍と札木合軍は相接し、闊亦田の地で対陳した。布陳する間、札木合軍のうちの不亦魯黑・忽都︀合両人は、風雨を招くことのできる術があり云云」。不亦魯黑は、乃蠻の汗で、忽都︀合は衞剌特の長である。この時札木合が古兒 汗として統括し、ゆえに諸部連合の兵を札木合軍とみなして述べるのである。
〉風はたちまちひるがえり、雪に迷わされ、軍は乱れ、水堀は埋まり空堀は失われ、堀は元に戻ったかのようであった。〈通世案、秘史は「札木合らはみな「天は守り助けず、ゆえにこのようである」と語り、軍は遂に大いに潰えた」。〉その時札木合と盃祿 可汗はともに、いまだ道理に適わず、札木合は兵を引き返し、可汗に立てた諸部と遇い、悉く討ってこれを捕らえた。〈秋濤案、元史 本紀は「道すがら自分を立てた諸部は、大いにほしいままにして掠めて去った」と言う。案、二文どれも難解だが、元史 本紀の文がもっとも誤っている。通世案、秘史は「札木合軍がみな潰え散った後、乃蠻ら十一種は、おのおのの部落に帰った。札木合はまさに彼を立てた人々を掠めて、額洏古涅河に沿って帰り去った」。三文みな意は明らかで、願船が何を言っているのかわからない。西史も「札木合は戦いに負けたのを知りただちに退き、以前に自分を汗に立てた諸部を掠めた」と言う。額兒忒曼は「哈荅斤等部を掠めて、負けに乗じて切って奪った」と言う。話はありのままの事実と合っている。
又案、秘史はこの後文で「これにおいて王罕は札木合を追い、成吉思は泰亦赤兀惕種の阿兀出 把阿禿兒を追い云云」と言う。おそらく十一部の中で札荅剌と泰亦赤兀が最も強く、ゆえに両汗は分かれてこれを追ったのである。これにおいて斡難︀河の戦があり、泰亦赤兀部はついに滅んだ。この書は誤って阿雷泉の会盟の前に書いている。札木合はおそらく王罕に降り、ゆえに両汗は乃蠻を征伐するにおよび、陣営にある王罕に従うに及んだ。また斡難︀河の戦では、太祖が頸を傷つけられた。者︀勒篾は血を吸い取り、また敵営に潜入し、太祖が飲む酪を盗み、太祖はその忠に深く感じ入った。翌日に敵はひとりでに潰え去り、太祖はその軍勢を追って捕らえ、鎻兒罕 失剌の娘合荅安を得た。秘史の叙述はすこぶる詳しく、史録いずれも載せていない。
さらに翌日、鎻兒罕 失剌が来属し、早く降れなかった理由を述べる。者︀別も降り、闊亦田の役で帝の馬を射たことを告白し、そして死を請うた。太祖はその隠さないことをほめた。太祖は阿兀出の子孫を殺し尽くし、その民を捕らえた。また泰亦赤兀部失兒古額禿と二子の阿剌黑・納牙阿〈[#「納牙阿」は底本では「訥牙阿」。後文も同じ]〉、その主塔兒忽台を捕らえてまさに来て献じようとした。やがて納牙阿はこれを逃がした。太祖はまたこれをほめた。かぞえあげた事はみな元史の伝で見られる。この書は誤って斡難︀河のほとりの宴会の前に書いており、また極めておろそかである。
又案、秘史は合塔斤ら十一部落と称し、また乃蠻ら十一種と称するが、その部名を列挙せず、今秘史と本書を合せてこれを考えると、この時に兵を連ねていた者は、実に十一部あり、札答剌・泰亦赤兀・合塔斤・撒勒只兀・亦乞列思・豁魯剌思・塔塔兒・翁吉剌・篾兒乞・朶兒邊・乃蠻である。札答剌部は額爾古納河のほとりに住み、泰亦赤兀部は敖嫩河の下流に住み、合塔斤以下三部は、おそらくみな乞顏泰亦赤兀の西、塔里・呼倫二湖の辺に住み、豁兒剌思部は敖嫩河の北に住み、塔塔兒部は烏爾孫・烏爾會両河の間に住み、翁吉剌部は喀爾喀河の下流に住み、篾兒乞部は色楞格河の下流に住み、朶兒邊部は拜喀爾湖畔に住み、乃蠻部鄂爾坤河の西に住み、兄弟は国を分けて治め、不亦魯黑 汗はその西北境を治めた。
そして乞顏部は敖嫩・克魯倫両河の源に住み、客列亦部は土剌河のほとりに住む。翁吉剌以上八部、みな乞顏の東にあり、ただ篾兒乞以下三部は乞顏の西北にあった。乃蠻は刊河の会に赴き、色楞格河の上流に沿って下ったことにあたり、篾兒乞と朶兒邊二部は、共に肯特山の北を経て、敖嫩河を渡って東に進んだ。諸部が起こした出来事は東にあり、合戦も東であった。盃亦烈川の戦と、海︀剌兒河の戦は、克魯倫河の東であった。闊亦田の役も、貝爾 諾爾を去ったことにあたりあまり遠くないのである。
この書の叙述は誤りが多い。秘史を調べると、阿勒灰泉の会、刊河の会、闊亦田の役、斡難︀河の戦、みな一時期の事であり、辛酉年(1201年)中にあった。史録が言うところの弘吉剌部長迭夷が変を告げたことは、豁里歹の事と、抄吾兒の事、もとがみな同じ事であり異聞である。そのうちのひとつを選び取るのは、さしつかえない。史録は二つの事として分け、それぞれを二つの会の下に繋げており、誤っている。また諸部の挙兵は、乃蠻・泰亦赤兀みな共にしたか。だが元史は「諸部は乃蠻・泰赤烏の敗報を聞き、みな勢いを畏れて不安がった」と言い、喇施特は「泰赤烏の滅亡を聞き、ますます不安がった」と言う。
これはみな乃蠻の役を述べるもとの話は斡難︀河の戦より前の誤りであり、二部の敗滅を知らず、事実はこの後にあったのである。おそらく太祖と王罕の結托は、諸部みなこれを畏れ忌み、ゆえにこの謀計があった。もし翁吉剌が姻戚でありながら敵対すれば、ただ合撒兒による侵掠への怨みによるものである。思うに刊河の会を理由として正しいとするのは、その通りではない。諸部が軍勢をひそめて来て、両汗を襲おうとし、おそらくは額洏古涅河をさかのぼったのである。
両汗は客魯連河に沿って動いて札木合を迎えうち、ここにおいて海︀剌兒河の戦があり、
敵軍はここから南に移った。両汗の先鋒は額捏堅 歸列禿・徹克徹列・赤忽兒忽の三つの地に至り、高みに乗り入れ遠くを見渡した。その徹克徹列・赤忽兒忽両山は、貝爾 諾爾に近く、前文で述べたとおり。そして赤忽兒忽の哨兵は、敵人がまさに至ろうとしていると告げることができ、翌日両軍は闊亦田の地で遇い、闊亦田も、赤忽兒忽が遠く離れていないとみなし、史録の阿蘭塞は、喇施特の喀剌溫 赤敦、その地はわからないといえども、ゴビ砂漠の南でないことは確かである。秘史は、太祖は孛斡兒出を右手の万戸として、金山に至る西を所管させ、木合黎を左手の万戸として、合剌溫山に至る東を所管させ、そこはモンゴルの東のはずれにある。
おそらく金が起こった東の辺地は、諾尼江諸源の地であり、みな上京道に属する。興安嶺の西麓は、喀爾喀河源の地であり、金のはずれの塞とされるも、わからない。喇施特は「翁吉剌特部は、喀剌溫 赤敦の地に住む」と言い、また「モンゴルは乞䚟の国境で与り、齋阿兒郤山がある」と言う。このいわゆる興安嶺の北幹はモンゴルと女直を分け、そして翁吉剌特はその西麓に住む。よっていわゆる翁吉剌特が漢塞に近いとするのは、誤りか。本書は「上は兀魯回失連眞河より軍を移して塞に入った」と言う。この時太祖はまだ兀勒灰河の地に入っていない。〈底本-357〉
思うに兀勒灰河の役の前に述べた誤りの理由は、この地名を記すことに拘泥するからであろう。喇施特が「汪古部の地に向かって行く」と言うに至り、「山間を過ぎて汪古部の地に至る」と言い、金泥で書いた系譜の原文でないことを恐れるので、編者はこれに意を加えるのである。盃亦烈川の戦は、史録は前にあったと述べる。だが地勢をもってこれを考えると、海︀剌兒河の戦の後にあったとすべきであり、闊亦田役の前となる。そのうえ叙事は根本が多く重複し、盃亦烈と海︀剌兒、根本が同じ事を異なる伝聞にし、これまたわからない。二つの戦いいずれも秘史は載せず、真偽を明らかにするのは難しい。闊亦田の軍が潰え、諸部が散り帰り、思うに皆北に向かって走った。王罕は札木合を追ってこれを降し、太祖は泰亦赤兀を追ってこれを剿滅した。乃蠻 蔑兒乞 朶兒邊の三部は、これ斡難︀河を渡って西に遁れたとする。泰亦赤兀はことごとく平定され、太祖は忽巴合牙に帰った。札合敢不らは王罕に叛いたのは、正にこの時であった。
そのいわゆる「曲綠憐河から忽八海︀牙山を目指す」は、王罕が札荅剌部を平定し終わり、克魯倫河を遡って西に帰り、太祖の冬営の地を通ったということである。翌年壬戌(1202年)、太祖は塔塔兒を滅ぼし、王罕は篾兒乞を滅ぼし、刊河会盟の輩をみな討ったのである。太祖は塔塔兒を荅闌 捏木兒格思で破り、ついに兀勒灰河に至り、その巣窟を滅ぼした。
これによって太祖の兵は、初めて漠南を蹂躙したのであった。その後両汗は兵を連ねて乃蠻を征伐し、敵地に攻め入ること数千里、阿爾泰山を過ぎ遠ざかった。羣部ことごとく平らげられたことで、後顧の患いはなくなったのであった。そうであるならばこの役は必ずや最後にあるべきである。秘史が述べる所の根本は確かで疑いない。何を思って脫必赤顏はその順序を乱したのか、太祖の経略の足跡を、錯乱不明にした。はなはだ惜しむべきである。ゆえにこれを論じてつまびらかにする。〉
その冬、上は塞を出て阿不禮闕惑哥兒の山に駐留した。〈文田案、秘史は忽巴合牙。曽植案阿不禮は、阿不札とあてる。通世案、秘史巻八の阿不只阿 闊迭格兒の地。思うに本書の根本は阿不札 闊忒哥兒とし、札を礼と誤り、闊忒を闕惑と誤った。秘史の後文は阿卜只合 闊帖格兒と通す。児格の二字は倒置である〈[#「児格」の倒置は十五巻本にのみ見え、葉氏観古堂本や四部叢刊本などの十二巻本にはない]〉。「太祖は巻狩り場から還りこの地に至った」と言い、つまりこれもモンゴルの地である。西史は訛って阿兒郤 宏古兒の地とした。秘史に拠ると、これは明年癸亥(1203年)に続く冬営の地である。しかし本書西史みな誤ってこの年と書く。喇施特は「もともとは翁吉剌特冬営の地とする。冬は水がなく、雪をもって水とする。その後呼必賚 可汗が阿里不哥を色木兒台湖で破り、やはり阿兒郤 宏古兒と遠くへだたっていない」と言う。
色木兒台湖は、元史 世祖紀の昔木土腦兒である。洪氏は俄羅斯地図に因って引き、独石口の東北四百里、多倫 淖爾の正北二百里に、沙博爾台 淖爾があり、蒙古游牧記の蘇尼特右旗翼の南六十里に、泥の湖があり、モンゴル名西巴爾台、「みな昔木土の転音のようである」という。昔木土腦兒は蘇尼特の境界の内にあり、あるいは然り。ただ阿不只阿 闊迭格兒は漠北にあり、蘇尼特の地とは相接していない。喇施特はおそらく誤っている。
〉汪 可汗は別里怯沙陀の中に居た。〈於は原書では族。曽植案、族を於とする。通世が因んで改める。曽植案、秘史は「札木合は太祖が気後れしていると知り、阿勒壇らと話し合い、者︀者︀額兒 溫都︀兒山の陰の別兒客額列の地の桑昆のところに到り云云」。この別里怯沙陀は、この文の別兒客額列である。モンゴル語で、砂や小石の多い河原を額列惕と言う。通世案、この時に両汗は自ら乃蠻を撃って帰り、太祖は撒阿里 客額兒にいて、王汗は土兀剌河の黒林にいた。別里怯沙陀は、桑昆がいたところである。王汗がそこにいたと言うのは、誤り。〉
この時に上と太子朮赤は〈通世案、秘史は拙赤とし、太祖の長子であって、皇太子ではない。モンゴルの諸皇子は、みな太子を称し、ゆえに朮赤太子と言ってさしつかえない。もし太子朮赤と言うならば、皇太子とまぎらわしい。元史に伝があり、元史訳文証補に補伝がある。〉汪 可汗の娘抄兒伯姫を娶るよう求めた。〈通世案、秘史は察兀兒 別乞とする。汪 可汗の下に女の字が抜けている。〉汪 可汗の孫〈張石州は「元史の紀は子とする」と言う。通世案、秘史は桑昆の子禿撒哈とし、つまり王汗の孫である。元史の紀は誤っている。〉
禿撒合も、上の公主火阿眞伯姫を求めた。〈通世案、秘史は豁眞とし、西史は庫眞 必吉とする。元史は火臣 別吉。元史類編に伝がある。〉ともに話がまとまらなかった。〈通世案、秘史に拠れば、察兀兒を娶り、豁真を嫁がせるのはどちらも太祖の考えが出たもので、つまり桑昆は太祖を侮り親しくするのをよしとしなかった。これとやや異なる。〉これよりしだいに疎遠になった。札木合はこれを聞き、〈通世案、秘史は桑昆に話しに行ったのを癸亥年(1203年)春の間の事とする。
〉亦剌合に話しに行って「わが案答〈原注に「いわゆる太祖である」。旧本はこの注を誤って本文に入れた。張石州が考えて校正する。〉は常に乃蠻の太陽 可汗に使いを遣わしやりとりしている。時まさに君に不利になりつつある。今もし兵を分けてくれれば、私は従い寄り添って力を合わせて助けよう」と言った。〈原書は協を誤って脇としており、秋濤が校改する。〉その時に亦剌合は別の所にいて、〈通世案、伯哷津は阿拉忒の地とし、これは別兒客 額列惕の下三字音である。
〉父の汪 可汗と来て会った。上の族人答力台 斡眞斤・〈通世案、真を直とする。〉案彈・火察兒・答海︀忽剌、〈通世案、後文は塔海︀ 忽剌海︀とし、西史は忙忽特人圖該忽兒海︀。この剌の下は一つ海の字が抜けている。〉答兒斤 木忽兒 哈檀・〈通世案、西史は阿荅兒斤人木忽兒 忽闌。これは前文の十三翼中の木忽兒 好闌。この答の上は阿の字が抜けている。哈檀と忽闌、形と音はともに異なる。あるいはともに木忽兒の二人か。〉
札木哈らが我らに背き、迨且〈秋濤案、二字は誤りがある。〉亦剌合に話し、これに話して「吾らは力を尽くしてあなたをたすけ、月倫太后諸子を討つことを願う」と言った。〈曽植案、案壇・火察兒らは、太祖・札木合・汪罕の間を往来し、たちまちあちこち、仲違いを組み立てた。まことに浮気者である。詳しくは秘史を。札木合は二人に伝言して、太祖と汪罕との戦いの後、二人に伝言して、言うところは同じである。そして汪罕は始終太祖の心をほめなかった。亦剌合はふたごころがあり、またなお諸人を先導した。この書がこの事情を述べるところは、秘史に較べると詳しい。元史 本紀はこれに拠って根本とし、そしてこの類の事情をことごとく削り、箱を買って珠玉を渡すのに近い。〉亦剌合はこれを信じ、車帳は互いにへだたり兵に共謀させた。塞罕 脫脫干を遣わし〈曽植案、秘史は撒亦罕 脫迭額とする。通世案、伯哷津は撒而罕禿荅とする。〉これを汪 可汗に言った。汪 可汗は「札木合は、言葉巧みで信じる人は少なく、〈底本-358〉信じるに足りない」と言った。
亦剌合は「彼の言っていることは有口有舌〈[#訳せない。「実際の発言のようにありありとしているので嘘ではない」の意か]〉、なぜ信じないのか」と言った。たびたび人を遣わしてこれを言った。汪 可汗は「私はお前をいましめたが、お前たちは従わない。吾が身が立っていられるのは、実に彼を頼みとするからである。いまもに老いて遺骸になろうとしており、安心して寝られない。今多く喋ったことは止まらない。お前はこれをうまくできるだろう。私の憂いを母は捨てる」と言った。やがてしかし考えが変わり、我が牧地をことごとく焼いた。〈通世案、西史作「鮮昆はひそかに人を遣わして我が牧地の草を焼いた。」とする〉
癸亥(1203年)春、〈秋濤案、宋 嘉泰 三年、金 泰和 三年。曽植案、元史 耶律 阿海︀伝は、癸亥歳(1203年)冬、西夏に進攻するできごとがあった。〉汪 可汗は偽計をしかけ、〈通世案、秘史西史みな「桑昆と部下たちが謀った」と言う。〉「彼は以前に我が方に求婚したが、従わなかった。今これを許すのがふさわしい。約束して定めた宴にこれが来るのを待って、必ずこれを捕らえよう」と言った。ついに不花台・乞察を遣わして〈文田案、秘史は不合台・乞剌台とする。ただし録は太祖に婚宴に来るよう請う人で、秘史は太祖の代わりに婚宴に赴く人のみ。通世案、伯哷津は烏黑台・昆察特。洪氏は「哀忒蠻〈[#おそらくエルドマンのこと]〉訳の海︀察特は、乞察とほぼ近い。思うに二人は余分に増え、従えない」。
〉来るように請うた。上は麾下十騎を率いて、これに赴くために行き、蔑里哥〈秋濤案、秘史は蒙力克とする。〉の帳中で宿った。あさって、蔑力也赤可が察知したことがあり、〈也は原書では池。秋濤案、この句は誤りがある恐れ。秘史が載せる所では、蒙力克は太祖のために謀ったのである。文田案、秘史「蒙力克の家に宿った。蒙力克は「求めた時に与えなかった。ただいまどうして特別に許婚の宴席に食べに来るよう請うのか。でなければ、ただ断って春の間に馬が痩せ、しばらく馬を養うと言って、離れるな」と説いた」。これがその事である。また蔑里哥は、元史 伯八伝は、明里 也赤哥としこの所の上下の両句は、一つは蔑里哥とし、一つは蔑里 也赤可とし、翻訳の誤りがはなはだ多い。也の字は伝写され、さんずいも加えて池とした。曽植案、也赤可謀は、この句は誤っていない。秘史蒙文は額赤格とし、解くと「父である」という。後文に拠ると、九十五功臣は、蒙力克をこの筆頭とする。そして秘史蒙文は、前後を通してみな蒙力克 額赤格と呼び、ただ本名とともに言うのももっともである。そうであるならば蒙力克 額赤格は、斉の桓公にとっての仲父のようである。池の字は也とあてる。也赤可は、つまり額赤格である。
又案、元史 氏族表は明里 也赤哥とする。通世案、作りあてて用いた疑いのある字がある。秘史、蒙力克は、晃豁壇氏、抄眞 斡兒帖該の第二子晃豁壇の子孫、察剌合老人の子。〉使いは戻って汪 可汗に語り「私の牧の家畜たちはやせて弱っており、いまは家畜たちにつきそって考える。〈文田案、思を喂〈[#喂は「動物にえさをやる」]〉とする。〉あわせて一人に彼の宴に赴くよう命じ、とどまろう。」と言った。使者を遣わし終えて、上はただちに帰った。その時に汪 可汗の近侍也可 察合蘭は、〈秋濤案、秘史は也客 扯連とする。通世案、西史は也格 札闌とし、また也客 扯闌とする。秘史巻六は阿勒壇の弟と言う。だが巻一は明らかに忽闌 把阿禿兒の子と言い、つまり弟は、従弟の誤りである。〉上を謀る企てを聞き、帰ってその妻に語り、ついでに「これを上に漏らすと言う人がいれば、私はどんな褒美があるだろうか」と言った。その子亦剌罕は〈
通世案、秘史はその妻を阿剌黑亦惕とし、伯哷津はその妻阿剌克因特。洪氏は「録の誤り」と言う。〉これを止めて「これはその言葉に根拠がなく、他人が事実にしてしまうのを恐れる」と言った。也可 察合蘭の牧夫である乞力失は〈秋濤案、秘史は乞失里黑とする。文田案、乞力失を乞失力とする。だがこの二字は、思うに明らかに最初の伝写がすでに誤倒し、ゆえに元史 本紀も、この誤りに沿っているのである。これは他書をもって明らかにできる。
秘史巻一は、乞失黎黑とする。その明かし一である。また六巻は、乞失里黑とする。その明かし二である。邱処機〈[#「処機」は長春真人の諱]〉の西遊記は、吉息利とする。その明かし三である。元史の、哈剌哈孫は、この人の曽孫で、そして哈剌哈孫伝、及び元文類 順徳忠献王碑、及び輟耕録、みな啓昔禮とする。すべてこれみな乞失力三字の対音である。その明かし四である。此不得但以本紀之沿誤為拠者。以本紀之誤、即誤於此録之誤文故也。〈[#訳せない。「これはただ元史 本紀の誤りに沿って拠ったのではない。元史 本紀の誤りは、親征録の誤りが原因である」の意か]〉〉月ごとに〈通世案、これは日の誤り。〉馬乳酒を提供し、まさに至り、 馬湩、適至、かすかに聞く所があった。その弟把帶に問うて
〈秋濤案、元史 木華黎伝は拔台とし、秘史は巴歹とする。通世案、これは前に聞こえる乞失力が、把帶に告げ、西史はこれと同じ。秘史は前に聞こえる巴歹が、乞失力黑に告げた。秘史西史、みな伴侶に言い、弟に言わない。〉「たまたま謀るところは、何事か。それを知っているか」と言った。把帶は「知らない」と言った。察合蘭〈秋濤案、前文で言う也可 察合蘭は、ここで言う察合蘭であり、その省文である。〉の次子納憐は、〈秋濤案、秘史は納鄰 客延。〉帳外で坐りちょうど矢じりを研いでいて、これを聞き、罵って「割舌なら、私は言わないほうが良いか。今や事はすでにそのとおりで、誰にも口に出させない」と言った。
〈文田案、割舌は、漏洩つまり舌を抜くにあたる。秘史は「ちょうどわずかに私が話したことを話せば、これはまさに舌を取るべき」、これである。〉把帶は乞力失に語り「私は今知った。上に赴いてこれを言うのをともにすべきである」と言った。〈同は原書では因。秋濤案、秘史は「繋がれた二頭の馬、一人が一頭に乗って、かの夜に帖木真の帳房に到った後すべて話し、」と言いこれを同じ字としてよい。〉ついに自分の帳に入り話を行った。一頭の羊がとらえてあり、これを殺し、寝台を裂いて火を焚いて煮て、夜に馳けて上に会ってその謀計を告げ、「汪 可汗はまさに太子と相談し、その計を整えた」と言った。〈通世案、秘史巻一は、両人を荅兒罕〈[#「荅児罕」は底本では十五巻本の「荅剌児罕」]〉官人とする。西史は「今は貨勒自彌 荅剌罕・土蠻 荅剌罕・薩塔克 荅剌罕があり、みなこの二人の後裔」と言う。〉上はこれを聞き、〈底本-359〉阿蘭塞で軍を止め、たちまち輜重を失連眞河のほとりに移し、〈通世案、伯哷津は失魯楚兒只特山とする。洪氏は「前文は河名とし、ここは山名とし、すなわちこれは色野爾濟の訛」と言う。また諸本この場所に阿蘭塞はない。
阿蘭塞は、色野爾濟河に近い地ではなく、前文で見た通り。案、太祖が王汗に求婚したのは、土拉河でもとの誓いをさらに強めた後で、両汗いずれももとの経営地に居た。桑昆の居所である別兒客の野も、土拉河に遠くない距離のようである。今や仲違いがひとたび開かれ、合戦は東方において突然起きた。その理由はつまびらかではない。秘史は「成吉思は巴歹 乞失里の話を聴き終わり、その夜になって、近く付き従う頼れる仲間たちに知っていることを話し、かつ家財道具を棄て終え、そのまま卯 溫都︀兒の山陰に行って隠れた」と言い、西史も「帝はすみやかに営を移し失魯楚兒只特山の路に向い去った」と言う。
太祖はこの時すでに塔塔兒の地にいたようである。ただこの時に王汗は大いに兵が強かった。太祖は桑昆の謀計を聞き、力が敵わないことを慮り、あわただしく逃げかくれ、東のはずれに難を避け、王汗父子はこのあとを追いかけたか。記載は簡略である。その間の事情は、今は調べられない。嚕卜嚕奎の書の中に「翁汗は軍を集めて軼摩阿勒の地を侵し、成吉思を討った。成吉思は塔塔兒の地に遁れ、潜み隠れたか云云」と言うのがある。これがあるいはその事柄と合うかについても、知ることはできない。
〉急ぎ折里麥を前鋒として遣わした。〈曽植案、この戦は、主兒扯歹が、特に先鋒の第一等とされ、秘史の叙述ははなはだ明らかである。しかし元史は畏荅兒にまとめている。これまた折里麥を先鋒にしている。折里麥は、秘史の者︀勒蔑、速不台の兄、また太祖開国の元勲である。伝は異なる言葉が聞こえ、思うに強いて合わせるのが難しい。又案、秘史は、者︀勒麥を後哨とする。〉自らは莫 運都︀兒山の陰に行った。
〈通世案、秘史蒙文は卯危 溫都︀兒とする。卯危は「良くない」の意で、溫都︀兒は「高い」の意。訳文は卯 溫都︀兒山とする。所在不詳。洪氏は蒙古游牧記を引用し、克什克騰旗の西南四十三里に、漠海︀恩都︀爾山があり、「漠海︀は卯のような音と合う」と言う。だがその地は南に偏っているようで、これと同じではない。〉汪 可汗も兵を統率して、莫 運都︀兒山の南から、忽剌河より卜魯哈二山に来た。〈秋濤案、意見を待つ。曽植案。すでに二山と言い、河と言えない。秘史は忽剌安 不剌合惕の地とし、つまり河の字は、おそらく阿の字の誤りである。通世案、額兒忒曼は枯倫別兒喀特とし、枯倫湖に近い地という。伯哷津は紅柳林の中とし、モンゴルは烏闌 不兒罕と称する。
洪氏は「秘史は忽剌安 不剌合惕のようにあてる。明 茅元儀 武備志、韃靼方言では、紅を伏剌案といい、柳を補兒哈といい、明らかとしてよい。録の音は近く、この二山の称は、誤りである」。又案、秘史の不剌合惕、後文は不兒合惕とする。〉近侍に太出・也迭兒二人の者があり、〈曽植案、姚燧 徐国公神道碑は「燕只吉臺氏の祖太赤、初めは突騎百夫宿衛を率い、のち太宗に従い中国を治めた」。太赤、おそらく太出だろう。又案、秘史蒙文、来報者を赤吉歹・牙的阿二人とし、牙的阿は、也迭兒である。通世案、秘史訳文は阿勒赤歹の馬を放牧していた赤吉歹等とし、阿勒赤歹は、太祖の弟合赤溫の子で、元史 表の済南王按只吉歹である。
伯哷津は伊兒吉歹の従者泰出 欽黑歹 牙都︀兒とする。洪鈞は「伊阿の二音は互い誤り、モンゴル・ウイグル文同じ。秘史は赤吉歹とし、録は泰出とする。これをこれと較べると、秘史は泰の字音を失い、録は吉歹の音を失った」と言う。案、泰赤の子孫は、燕只吉台氏を称し、また晏只吉䚟氏とする。おそらくその主の名をもって姓としたのであろう。〉牧馬にしたしみ、汪 可汗軍が至るのを見て、すみやかに告げに来た。上はおりしも軍を合蘭只の野に移し、〈曽植案、合蘭只、秘史は合剌合勒只惕とする。通世案、後文は合蘭眞沙陀とし、秘史は合剌合勒只惕 額列惕の地とし、額兒忒曼は合蘭沁 阿勒特とする。阿勒特は、額列惕の転訛、いわゆる広野、あるいは沙陀である。合剌合勒四字の音を合せて合蘭とし、只惕が眞に転じた、あるいは惕の音を省いた。喇施特は「その地は女直との国境上にある」と言い、また「鄂兒奎河から遠くない距離」と言う。
元史 畏答兒伝は哈剌眞の地とする。德邁拉は「哈剌眞は土剌・敖嫩両河の間にある」と言いおそらく喀剌郭勒を指すのであろう。多遜は「哈剌眞を喀爾喀河南源の哈爾渾河とあてる」と言う。施世杰も「合剌合勒只惕、つまり喀爾喀河」と言う。ともに確かな証拠は得られていない。西史は「忙兀特の将忽亦兒荅兒は先に進むことを請い、敵の背に出て、我らの纛を奎騰の山に立てた」と言う。これに拠れば、この戦と前の闊亦田役は近い地である。〉備えが及んでおらず、日が山を銜え、〈通世案、西史は「日の出の時に、あわただしく戦いの事を備えた」とする。〉ただちに兵を整え戦いに出た。まず朱力斤部の軍勢を破った。〈秋濤案、秘史は只兒斤とする。〉次に董哀の軍勢を破り、〈秋濤案、元史 紀は董哀部とし、秘史の董合亦惕とする。〉また火力 失烈門 大石の軍勢を破った。〈張石州は「元史 紀は火力 失烈門部とし、大石の二字はない」と言う。秋濤案、秘史は豁里 失列門 太子。大石の二字は、太子訳音の違うものである。ここで前後に見える太后というのは、大石の誤りである。文田案、火力 失烈門 大石は、火力 失烈門 台吉である。上の五字はその名で、台吉は、今もなおモンゴルにあるこの官職である。通世案、西史は「この役は成吉思 汗の一生で有名な戦いで、モンゴル人はこれを手引きと称賛し今に至る」と言う。秘史の叙述は極めて詳しく明らかである。王罕は札木合に軍勢を統率するよう命じた。
札木合は王罕が太祖に敵わないのを知り、ひそかに太祖と意を通じた。太祖は兀魯兀惕部長主兒扯歹・忙忽惕部長忽亦勒荅兒を先鋒として、まず王罕の先鋒只兒斤の勇士合荅黑を破り、次に土綿 土別干姓の阿赤黑失侖を破った。忽亦勒荅兒は傷つき落馬した。斡欒 董合亦惕が衝いて来て、主兒扯歹がこれに勝った。斡欒 董合亦惕勇士と豁里 失列門 太子が、一千の護衛軍を率いて衝いて来て、主兒扯歹がまたこれに勝った。元史に朮赤台と畏荅兒の伝があり、ともに正しいとみてよい。本書はいい加減なこと甚だしい。〉軍勢は進んで汪 可汗の護衛に迫った。その子亦剌合は馳せ来て陣を衝いた。我が軍はこれを射て頬に当てた。その勢いは大いにくじけ、兵を集めて退いた。
〈通世案、秘史は「成吉思は勝ち、日がすでに暮れるのを見て、軍を集めて退き、夜になり戦地を離れ宿った」と言う。本書に拠る「日が山を銜え」という語は、勝ちが決まった時のことであり、西史に拠る「日が出る時」という語は、一日じゅう戦ったことである。畏荅兒伝が「日暮れ時に至るもなお追いかけ続け」と言うのを見ると、一日じゅう戦ったのが、事実に近いとする。
秘史はまた「次の日に軍勢を確認すると、斡闊台・孛羅忽勒・孛斡兒出の三人が少なかった。その夜、成吉思は敵が追って来て襲うことを恐れ、軍勢を整え戦いの支度をした。空が明るくなり、三人は逃げ帰って、敵がすでに去ったと告げた。ここにおいて成吉思は浯泐灰 溼兒格泐只惕川を遡り、荅闌 捏木兒格思の地に入った」と言う。西史はまた「王汗の軍勢はなお盛んで、成吉思は敵わないと見て、すみやかに引き退いた」と言う。そうであるならば太祖は勝ったといえども、敵勢はまだ大いに挫かれてはいないことになる。さらに太祖が浯泐灰河を遡ったことに拠ると、戦地は四種の塔塔兒のなじみの土地にあったようであり、考える価値はある。
〉上はまた兵を率いて斡兒弩兀 遣惑哥山の岡に至った。〈斡は原書では幹。文田案、秘史の斡兒訥屼山で、今は喀爾喀河の南岸にあるとする。曽植案、秘史巻七「忽亦勒荅兒が亡くなり、〈底本-360〉合兒合川の斡峏訥屼山にこれを葬った」。斡峏訥屼はこの斡兒弩兀である。幹の字は誤り。〉軍はおよそ四千六百騎、〈秋濤案、秘史は「軍勢を確認すると、二千六百あった」とする。〉哈勒合河に沿って〈秋濤案、秘史は合泐合河とする。文田案、今のモンゴルの喀爾喀河。〉従い進み、両隊に分け、上は自ら二千三百騎を率いて、河の南岸に行った。兀魯吾〈秋濤案、秘史は兀魯兀惕とする。〉
𢗅兀〈兀は原書では児。秋濤案、秘史は𢗅忽惕とする。曽植案、児を兀とする。〉二部は、二千三百騎を率いて、河の北岸に行き、〈秋濤案、秘史「成吉思は三千三百を率い、河の西のほとりに沿って起こした。兀魯兀惕 𢗅忽惕は一千三百を率い、河の東のほとりで起こした」。その兵数と方位、みなこれと異なる。通世案、喀爾喀河は、摩克托里山より出て西北に流れ貝爾 諾爾に入る。この南岸は、秘史の西のほとり、北岸は東のほとりである。方位は必ずしも異ならない。西史の兵数は本書と同じ。ただ河の流れに従うのが、誤って河を遡っている〉
上は先に親家となった弘吉剌部をもって、使いを遣わしその長帖木哥 阿蠻部に、〈秋濤案、秘史は帖兒格とする。曽植案、秘史蒙文は「捕魚兒湖に帖兒格 阿蔑勒ら翁吉剌があり」と言う。阿蔑勒は阿蠻である。又案、秘史蒙文で、札木合を共に立てた十一部は、翁吉剌敦種迭兒格克・額蔑惕・阿勒灰などを頭とする。迭兒格克は帖木哥・額蔑惕は阿蠻である。
〉言うには「お前がもし来て従えば、女子而容〈秋濤案、四字未詳、〉外甥の資質がともにある。〈文田案、而を面とする。言うなれば「お前がもし降れば、女児の外見、および外甥の面目、ともに好く見える」。おそらく訶額侖を太祖の母とし、孛兒帖を太祖の妻とし、みな宏吉剌氏。太祖を宏吉剌の外甥とするのである。秘史は「むかしの婚姻を思うなら、投降すること。よしとしないなら、すぐに戦うこと」と言う。この数語の意である。曽植案、秘史蒙文は、「外甥容貌、女子顔色」の誤りがあり、この書のところが根本である。秘史訳文は無い。〉そうでないならばお前に兵を加えようか」。
〈通世案、秘史はこの下で「翁吉剌都︀は投降した。成吉思は他が投降するのに頼り、もろもろ重ねて騒がず落ち着いた」と言う。この句も少しよくない。〉ついにたどり着いた、董哥沢の〈秋濤案、秘史は統格黎小河とする。〉脫兒合火兒合の地に〈曽植案、この地名は、秘史にない。通世案、秘史蒙文は統格 豁羅罕とし、西史は「成吉思は董嘎 諾爾の傍、脫魯合豁兒罕の地に駐留した。この地は湖あり河あり、水草が茂り美しい。よって兵士や馬が休息する」と言う。火兒合豁羅罕、みな豁兒罕の誤りで、モンゴルで小河を言う。董哥と脫兒合は音が近く、おそらく湖河は同じ名だろう。秘史は河名を挙げ、湖名を略す。その地は詳しくわからない。華而甫は「これは達賴 諾爾」と言う。霍渥兒特は「因果達河の支河に、唐嘎河があり、巴兒渚︀納湖に近い」と言う。〉軍を駐留した。
上は阿里海︀を遣わし、〈秋濤案、秘史は阿兒孩 合撒兒・雪格該 者︀溫二人とする。通世案、阿里海︀は阿兒孩 合撒兒、札剌亦兒部の人。雪格該も速客該とする。朵籠吉兒氏、者︀該 晃荅豁兒の子。太祖が札木合と離れた時ともに来属した。〉汪 可汗に伝えて責めて、「我らは大軍を合わせ、董哥沢の間に駐留し、草は茂り馬は肥えた。汪 可汗にこれを言って与える、昔あなたの叔父菊律 可汗は、〈秋濤案、前文で菊兒 可汗とする。〉かつて「あなたは、我が兄忽兒札忽思盃祿可汗の位、〈秋濤案、前文で忽兒札胡思 盃祿 可汗。
〉我に与えず、自らこれを奪った」と言った。あなたはまた諸兄弟を殺し、いつわって「太 帖木兒、および不花 帖木兒の輩のことは、知るところではない」と言った。これゆえ菊律 可汗は、あなたを哈剌溫の狭間に追い詰めた。あなたは窮迫して策がなく、〈通世案、この一句、秘史は「あなたはあの時にすすめて娘の忽札兀兒 兀眞を蔑兒乞の脫黑脫阿に献じて与えた」とする。〉わずか百騎で帰ってきた。我が先君は兵を率いてあなたとともにし、かつての恥を雪いだ。泰赤 兀都︀兒 吾難︀・八哈只〈曽植案、秘史蒙文は忽難︀・巴合只とする。〉二人が、兵を助けたのがいかほどだったか知りようがない。〈通世案、伯哷津は「泰赤烏特の兀都︀兒 諾延・巴合只二人は、多くない兵を率いた」とする。兀都︀兒 諾延は、兀都︀兒 吾難︀である。額兒忒曼は都︀兒富延とし、秘史は忽難︀とし、ともに人名が揃っていない。この書は泰赤の下に、おそらく烏の字が抜けている。
〉その時に哈剌不花出谷の上の道を通って、また阿不札不花哥兀の山を出て、また禿烈壇・禿零古・〈通世案、伯哷津は土拉壇・禿郞古特とする。〉盞速壇零古闕羣の狭間・〈通世案、伯哷津は喀卜察兒とし、すなわち狭間のモンゴル語で、狭間の名は無い。〉曲笑兒沢を登り、〈通世案、伯哷津は古蘇兒 諾爾とする。前文の曲薛兀兒沢は、伯哷津は庫思古兒 諾爾とし、秘史は古泄兒湖とし、音はとても近くおそらく同じ地であろう。〉要害の地を渡り歩き、すぐにその国境に至った。〈便は原書では使。通世が校改する。〉ちょうどそこで凶作にあい、その国は苦しんだ。枝〈秋濤案、おそらく誤りがある。〉菊律 可汗は時にこれを聞き、塔剌速の野に我らを避けた。
〈通世案、秘史蒙文は忽兒班 帖列速惕とし、伯哷津は忽兒奔 塔剌速特とする。および前文の塔朵剌の野は、秘史は帖兒速の地として同じ。〉我らはまたこれに迫った。わずか数十騎をもって遁れ、河西の国に走り、またそむいて帰らなかったか。〈張石州は「この段を元史 本紀と比べると語が加わり詳しく、そして調えられた字が多い」という。〉我が先君は土地と人民をことごとくあなたに返した。これにより結んで案答となった。我らはついにあなたを尊んで父とした。これが私があなたにしてさしあげたこと、その一である」と言った。また「父〈底本-361〉汪 可汗。あなたはその時に雲の中に埋まるようであり、日が底に没するようであった。〈通世案、西史は「あなたは日の入る地に避けて住み、その中に隠れ沈み、」洪氏は「西遼は西にあり、ゆえに言う。」と言い元史は「王は乃蠻に攻められるところとなり、西の日が没する処に奔った」とする。〉あなたの弟札阿紺孛は漢塞の間にいた。〈通世案、伯哷津は察富古特の地とし、「これは乞䚟の地」という。元史は金との国境とする。
〉私は名声をあげ世にとどろき、手で帽子を挙げ、大いに憂えてこれを招いた。彼はそれを聞いて私を呼び、私が招くのを見て、遠くから他の事を投げ捨てて帰って来た。私はそこで山に登って望み、ひとつの借家で来るのを待った。また三部の蔑力乞を追い込んだ。〈通世案、秘史がいうところの三種の篾兒乞、兀都︀亦惕・兀洼・合阿惕である。札阿紺孛の来降時、蔑兒乞は太祖と戦うことを望んだ。太祖と札阿紺孛は迎撃しこれを破った。つまりこの事である。〉私はそれが遠くから来たことを理由に、あえて死を命じたのである。つまり私は兄を殺し弟を討った。それは誰か。薛徹 別乞は我が兄、大丑魯は弟。
〈吾は原書では告、兄は原書では弟、乞の字が原書に誤って丑の下に入った。秋濤案、原文の誤りはわからない。元史 本紀はこのくだりを載せ「王は乃蠻に攻められるところとなり、西の日が没する処に奔った。王と弟札阿紺孛は金との国境にいた。私はすみやかに人を遣わして呼び戻した。またもや蔑里乞部人に追い込まれる所となった。私は請け負って我が兄薛徹 別及及び我が弟大丑をかつて殺した。これが王に対する大いなる功、その二である。」と言う。案、本紀は親征記を取り、潤色を加え、そして場所と順序、とどのつまり事実と合わない。場所は欠落が疑われる。秘史もこの語を載せていない。曽植案、告の字、おそらく吾の字の誤り。この事、秘史は札阿紺孛来帰の前に述べている。通世案、伯哷津は「私は我が兄弟を蔑兒乞の中から助けるよう命じ、始めて満足して察富古特の地から来た。しかし彼を助ける人は、やがて殺される人となり、私もまた我が兄弟二人を殺したあなたを用いた。それは誰か。我が兄薛徹 別乞、我が弟泰出勒」とする。洪氏は「多桑哀忒蠻訳は、「薛徹泰出がかつて救った」と言い、元史と同じ。伯哷津が訳すところは、翻訳し損ないがあり、二人がかつてこれを救うの意は、言葉の中に濁りが含まれる。数語が後ろに入っているのは、親征録だけがこれをわかっている証である。史と録を知るところを用いてそれぞれ違って言うのは、つまりは根本が同じなのである。泰出の名、この場所でひとり尾音が増え、録の中の魯の字を確かな証拠するのはもっともなことである。三人の訳本を合わせ、史録をもって物事がよくわかり、あるいは大きな誤りはない。前文の記事は、帝のこの言と、ところどころ一致ができない」と言う。
主兒乞氏の滅びを考えると、太祖の塔塔兒攻めに従わないのが理由で、かえって敵の勢いが乗り自分を越えたのである。今札阿紺孛にこれを殺させたと言うのは、おそらく二人が蔑兒乞に附いて滅ぼされた理由をしゃべっているのであろう。吾の字と兄の字と乞の字は、元史と西史に拠って校正する。〉これが私があなたにしてさしあげたこと、その二である」と言った。また「父汪 可汗。汝はやがて雲の中から出て、日の底からあらわれ、私に身を寄せて来た。あなたに〈原書では日。秋濤が校改する。〉ひもじいことが半日を過ぎぬよう、弱り疲れることがひと月にならぬようしてさしあげた。〈通世案、西史は「半日と空けずに、あなたに食事を与え、一月と空けずに、あなたに衣服を与えた」とする。意はまったく同じ。〉ゆえにそうであるならば、何なのか。私はむかし兀都︀夷部と戦った、哈丁黑山〈通世案、元史は哈丁里。〉の西で、木奴又力の野で、〈曽植案、これは前文の莫那察山。通世案、秘史蒙文は木魯徹 薛兀勒とし、額兒忒曼は木里察 克速兒とする。〉家畜と輜重を多く得て、ことごとくあなたに与えた。ひもじいことが半日を過ぎぬよう、〈日の字が原書から欠けており、秋濤が校正して増やした。
〉弱り疲れることがひと月にならぬようにしたのは、実はこれによるのである。これが私があなたにしてさしあげたこと、その三である」と言った。また「父汪 可汗。以前あなたは滅里乞を征伐し、不剌川に軍勢をつらねた。斥候をその部長脫脫に遣わした。〈候は原書では俟。通世案、西史は「遣使」の上に我の字がある。俟を候とし、候は虚実である。今改める。〉陣で待たずに先に戦いをしかけ、〈通世案、西史は「あなたは機に乗じることができると考え、私に告げることなく自ら兵を進めた」とする。元史も「王は私に告げなかった」と言う。〉忽都︀台・察魯渾の二哈敦を捕らえて、ついでにその二子火都︀・赤剌溫を繋いで、部こぞって叛き身を寄せた。〈通世案、西史はこの下に「わずかのものをも私に残さなかった」の句があり、元史もこれがある。〉あなたはまた曲薛兀 撒八剌にあなたの人民を追い襲われ、使いが私に告げに来た。私は四将を遣わし、率いた兵は戦いこれを破り、掠められたものをことごとくあなたに返した。これが私があなたにしてさしあげたこと、その四である」と言った。〈秋濤案、滅里乞は、前文では蔑里乞とし、不剌川は、前文で兀剌川とし、忽都︀台は前文で忽相台とし、察魯渾は、前文で察勒渾とし、曲薛兀は、前文で曲薛吾とし、火都︀は前文では和都︀。
〉また「昔私は哈兒哈山谷を出て馬君〈[#訳せない。文求堂本では句点が「馬。君」と入る]〉忽剌河 班荅兀 卓兒完忽奴の山〈曽植案、秘史は勺兒合勒崑山の忽剌阿訥屼山に行ったとする。これは字が誤っている疑いがある。通世案、伯哷津作「哈剌河の浜は、忽剌安必 兒荅禿兀特と近い卓兒格兒痕山」とする。哈兒哈山谷、これは哈剌河の浜。馬君は思いつかない。忽剌河は、秘史の忽剌阿訥屼惕、西史の忽剌安。班荅兀は、孛勒荅兀惕、モンゴル語で孤山の複称である。西史は訛って必兒荅禿兀特とする。
卓兒完忽奴は、秘史の勺兒合勒崑、また西史の卓兒格兒痕。秘史で忽剌安忽惕の戦いの後、王罕は土屼剌の黒林で、成吉思と会い、結んで父子となり、「もし離間させようとする人があれば、求め聴き信じることはするな。自ら対面して話し合い、信じるべきか比べよ」と言い合った。今太祖は過去をさかのぼってその事を述べているのである。ついでに考えてわかるのは忽剌阿訥屼惕は、忽剌安忽惕。阿と訥の音が合わさって安になり、忽剌河 班荅兀、これも前文で忽剌河山とする。それは同じ地であることは甚だ明らか。
おそらく王罕は太祖が再び救ってくれたことの恩を感じ、忽剌安忽惕で発したこの言葉は、土兀剌河のほとりに帰り終えて、重ねて父子の交わりを定めたものである。又案、哈兒哈、東方の喀爾喀河ではなく、土剌河南の喀魯哈河にあたる。蒙古游牧記は「喀魯哈河は、源は翁金河の北、土剌・鄂爾坤二河の間の平地を出て、西北に百里ほど流れ、転じて東北に三百余里を流れ、土剌河に入る」と言う。
〉互いを見た時、その時に言うのを止められようか。「たとえ毒牙の蛇に傷つけられようと、〈底本-362〉心を乱すな。我ら二人が互いの唇と歯を見て、ようやくへだて離れるべきである」。あなたは今や蛇に傷つけられて私とへだたるか。互いの唇と歯を見て私から離れるか。父汪 可汗よ。私は時に靑鶏や海鶻のように、赤兒黑山より、飛〈原書は揮とし、秋濤が校改する。〉び越えて、盃而の沢を、〈通世案、伯哷津は赤兒古山・捕魚兒 諾爾。二書は赤の下にどちらも忽の音が抜けている。洪氏は「赤忽兒忽山は、捕魚兒 淖爾と近く、この山にあたる。秘史巻一も、赤忽兒古とする。この忽の訳と古の訳の見分けは、みな悪くなく、みな音は定まらない」。〉班腳鶬を捕まえて帰った。
〈通世案、西史は藍色の足で灰色の翼の鶴とする。西史とこれを比べると、この後文は「これのようというのは誰か。朶魯班塔塔兒諸部がこれである。私はまた藍色の鷹のように、古闌 諾爾を越え、藍色の足の鶴を捕らえ、あなたに届けた」の数句が抜けている。洪氏は「藍色の鷹は、おそらくこれは海東靑の誤訳であろう。古闌は、必ずやこれは枯倫の誤であろう。録は鶬とし、これは鶴を言う。正字を調べると「鶬は、鶴のように大きく、靑蒼色で、また灰色のものをあり、首は長く脚が高く、頬紅のような赤色は首筋にない」とわかり、また正韻は「鶬は、水鳥である」。それが鶴のようであることにより、西書は訳して鶴とした。それを水鳥とすることで、この二湖でこれを捕らえたことになる。またこの数部はみなこの両淖爾の左岸の近くに居ると見ることができる」と言う。又案、元史も五部の名を挙げる。明初に用いられた本は、まだ脱文がなかったのである。ただし鶬を餓雁に変え、筆を用いること非常にほしいままである。
〉これのようというのは誰か。哈荅斤・散只兀・弘吉剌諸部これである。〈諸は原書では譜。張石州は「諸の誤りの疑い」と言う。〉あなたはどうして彼ら諸部の力を借りなかったのか。〈力は原書では立、秋濤が校改する。〉私を驚き恐れさせる。これが私があなたにしてさしあげたことの五である」。また「父汪 可汗。あなたは何〈原書では可、秋濤が校改する。〉をこれまで私にしてくださったか。私はすべてこのようにあなたにしてさしあげた。それとともに私を驚き恐れさせ、どうして我が衆にかまどに火を入れさせて憩わせずに、寝床に横になって安んじ、私の愚息愚妻を安らかに寝させるのか。〈通世案、これは秘史「どのような咎めと責めによって、私の家業を破壊するのか」の意である。
〉私はなおもあなたの子であり、勢力が弱小といえども、あなたを他に心を寄せさせない〈張石州は「他の下が一字抜けている疑い」と言い通世は、抜けた所はおそらく衆の字であると言う。〉私は愚かとはいえ、あなたを他の賢い人に心を寄せさせない。〈通世案、秘史は「私の所有は少ないとはいえ、いまだ多くを求めさせたことはなく、悪いとはいえ、いまだ良いものを求めたことはない」と言い言葉には欲張りなところはない。西史も「いまだに私の得たものは少なすぎて、私は多くが欲しい。得たものは悪く、私は良いものが欲しい」と言う。秘史と意は同じ。本書は誤訳のようである。〉たとえば両輪の一つが失われれば、進めず、いたずらに牛に汗をかかせ、〈ある人は「徒使の字は誤りの疑い」と言う。秋濤案、これは誤りではない。おそらく乗り物の車と牛を例えとしている。庚熙〈[#「庚熙」は跋に名が見えるが詳細不明。文求堂本ではただ「熙」とある]〉は後文「徒使跳躍」と同じ意とする。〉これを自由にすれば盗まれる恐れがあり、これをつなげばまさに飢える。また両輪の一つがたまたま離れれば、牛がいきり立って首が壊れ、いたずらに跳躍させても、進めない。私を車と比べれば、ただ一つの車輪ではないか」。〈通世案、秘史もこの比喩がある。今その俚言を抜粋する。「もし私とあなたが、車の両轅のように一つの轅が折れれば、牛は拽くことができない。また両輪のようでもある。一輪が壊れれば、車は進めない。私はどうして一つの轅や一つの車輪と比べないことがあろうか」。語はとても簡単で明瞭。本書は両轅を、これまた誤って双輪とし、重ねてのしゃべりは煩わしく無駄で飽きるほどである。西史もそうである。
〉すべてこれ汪 可汗を諭すものである。〈通世案、この一句、西史にもこれがある。洪氏は「技を繰り出すかのようである」と言う。前文の王汗を諭す辞は全部で六段。秘史はその第二段、四段前節、五段後節がない。三段は意が同じで辞が異なる。その他みな言葉の質は実に近い。おそらく脫必赤顏の作者は、秘史原本に拠り、潤色を加えたので、本書も西史も、みな文飾が多いのである。又案、秘史はこの下に、「王罕は歎息し、指を刺し血を出し、使者に事を与え、及び太祖は札木合に告げ」との語がある。本書も西史も載せていない。〉この時に上の族人火察兒・案彈は汪 可汗部中にあった。上は使いによって彼らに「あなたたち二人は私を殺すことを望んだ。これを投げ捨てようか、これを土中に埋めようか。〈通世案、西史は「あなたたち二人は私を憎んだ。まさになお私を地上に留めるか、それとも私を地下に埋めるか」とする。〉私は常に大叔父八兒合 拔都︀〈
秋濤案、元史 本紀は八剌哈。曽植案、秘史一、忽禿黑禿 主兒乞は二子を生んだ。一人目の名は薛扯 別乞、二人目の名は台出で、主兒乞とする。秘史四、また「主兒乞種人莎兒合禿 主兒乞は彼の子撒察 別乞・泰出を連れて身を寄せて来た」と称する。撒察は薛扯、泰出は台出。莎兒合禿、これはおそらく忽禿黑禿、だが対音が合わず、通しきれない。この八兒合 拔都︀は、元史 表の窠斤 八剌哈哈、秘史の斡勤 巴兒合黑である。通世案、莎兒合禿 主兒乞、秘史巻一は忽禿黑禿 主兒乞とし、おそらく忽禿黑禿 蒙古兒という叔父がいたことにちなみ、たまたま誤って書かれたのであろう。〉の二人〈通世案、人を孫とする。秘史と西史は把兒壇の子とし、誤り。西史はその下に及の字がある。洪氏は「及の字は少なからず途切れている。把兒壇の子荅力台はなお健在だった。思うにこれを指す語句が隠れている」と言う。叔父を指して祖父の子と言うのは、おそらくこの称で呼ばないであろう。元史も「思うに薛徹・大丑の二人は、まさに我が大叔父八剌哈の子孫で、これを立てようと望んだ」と言う。この八兒合の字を削ったのは誤りではない。
〉薛徹・大丑、〈秋濤案、この句の上に薛徹 別吉の四字を当てて、上で言う二子とする。通世案、何氏もまた元史のところの誤りを行っている。〉「どうして斡難︀河の地を主無しにするのか」。しきりに君主の座を譲ったが、聴かなかったのである。また火察兒に告げて「捏群 太石の子であるあなたをもって、〈群は原書では辟。秋濤案、捏辟太石は、つまり捏坤 太子、すでに前で見た。元史 本紀は「そこで伯父聶坤の子であるあなた火察兒を、再びこれに立てようと願った。あなたは再び固辞した」と言う。これに拠れば火察兒は、まさに太祖の年上のいとこである。文田案、辟は群の字の誤り。羣と改めて、捏坤となるのは明らか。坤の字を改めることは通せない。通世は前例に拠り、辟を群に改める。〉我ら族中は立てよう」と言った。あなたはまた聴かなかった。また案彈に告げて「あなたを忽都︀剌 可汗の子とする」と言った。父がかつて可汗と言ったことをもって位を推した。あなたはまた聴かなかった。私はことごとく〈底本-363〉重ねて譲ったが、あなたたちは聴かなかった。私が立ったのは、まことにあなたたちが推したからである。
〈通世案、忽圖剌 合罕の没後、モンゴルには久しく君主がなかった。札木合の所から太祖へと遁れ身を寄せ、諸部の多くが来属するに及んだ。阿勒壇・忽察兒・撒察 別乞など、共に話し合って太祖を合罕として立て、成吉思を号した。今「諸人みな位を辞し、太祖が推された」と言うのは、つまりその時の事である。元史と親征録は諸人が太祖を立てた事を載せておらず、この語が利用されるところは一度もなく、人をしてほとんど理解不能にさせる。又案、薛徹・大丑、合不勒 合罕長子の孫である。大叔父というゆえに、秘史も大叔父が生きていることを言う。
火察兒は、也速該の兄の長子である。案彈は、その父がすでに合罕となっていた。みな別々に立てたのである。太祖ひとりが推されたのは、その徳が民衆が服従するに足るものだったことによる。モンゴルの父祖の昔からのしきたりではない。〉私は辞退しなかったので、住むところに蒿や萊をいつまでも生えさせることを望まず、〈生は原書では止。張石州は「これに生の字を当てる」と言う。〉木を切って車の通る道を阻むのは、私の年来の望みである。仮にあなたたちが君主となれば、私は先鋒となり、輜重を捕獲し、またあなたに帰すのである。私を諸君に従わせて狩をさせ、私はまさに獣を遮り崖に迫り、あなたたちに後ろについていかせて楽に射させてあげられるだろう」と言った。
〈通世案、「仮にあなたたちが君主となれば」以下、西史は「私はすでにあなたたち衆人の主となり、常に私の家来たちに恵み与えることを思い、捕虜や家財や家畜や男女人民を、ことごとくあなたに与え、広野の獣を、あなたのために囲い合い、山林の獣を、あなたに向かうようこれを駆け追った」。秘史を調べると、阿勒壇らが太祖を立てた時、誓って「お前を皇帝にならせれば、多くの敵のところに行き、私を先鋒とし、ひとえに美女婦人ならびに良い馬を捕まえ、すべてを奉げ来てお前に与えるであろう。野獣のところに行って打ち囲み、私は真っ先に野獣の囲いを出てお前に与えよう」と言った。太祖のこの言、あたかもこれと符合する。そもそも誓いを言った時を述べた意味は、諸人が盟約に叛いたことを責めるためである。西史はやや修正が加わり、かえってもとの意味を失った。
〉また案彈・火察兒に告げて「三河の源は、我が祖がまことに興した。母は他人がここに住むよう命じた。」と言った〈通世案、三河の源は、いわゆる斡難︀・客魯連・土兀剌三大河の出る所で、つまり不兒罕山麓の地である。張穆は「元秘史「太祖は桑古兒河のほとりから出発し、客魯連河の源のほとりの不兒吉と言う名の地の岸の付け根の前に到り、居住させ、」は肯特山の南にあり、車臣 汗部中前旗の遊牧地の境界で、西は土拉にせまり、北は斡難︀をたのむ。いわゆる三河の源はこれである。これはモンゴル発祥の始まりか」と言う。張穆の説は正しいと考える。ただし三河の源は、含むところがやや広く、必ずしも不兒吉崖を指さない。西史は「朶奔 巴延は、敖嫩克嚕倫土拉三河発源の地に住んだ」と言い、遠祖以来、代々その地で遊牧した。また太祖が初めにここに居たのではない。又案、秘史は「お前はこの三河の源頭を守り正しく住みつくことができ、よその人を居住させるな」と言う。この語に拠ってこれを考えると、三河の源は、すでに二人に属していたようである。おそらく太祖は王汗父子が侵襲するのを心配し、すみやかに祖宗のなじみの地を棄てて遠く去り、ゆえに二人が代わってここについたのである。〉また脫憐に告げて、〈秋濤案、これは別の脫憐で、汪罕ではない。秘史は脫斡鄰。〉私の弟である。私はお前が祖父の祖父の奴隷で
〈高は原書では誤って馬とし、秋濤が校改する。〉祖父の父の門番だったことをもって、ゆえにお前を尊び弟とみなしたのである。〈通世案、祖父の祖父はいわゆる屯必乃 薛禪、祖父の父はいわゆる合不勒 合罕。〉お前の祖塔塔、〈秋濤案、秘史は斡黑荅とする。通世案、伯哷津は充克 禿圖とする。〉および我が祖は察剌合 令忽・〈秋濤案、秘史は察剌孩 領忽とする。通世案、察剌孩 領忽は、屯必乃の叔父である。〉統必乃〈秋濤案、秘史は屯必乃とする〉二君を捕らえるところとなった。塔塔は雪也哥を生み、〈秋濤案、秘史は速別該とする。通世案、伯哷津は𧶼克布兒とする。
〉雪也哥は闊闊出 黑兒思安を生み〈秋濤案、秘史は闊闊出 乞兒撒安とする。通世案、伯哷津は闊闊出 希兒思とし、安の字が失われている。〉思安は折該 晃脫合兒を生み、〈該は原書では談とする。秋濤案、秘史は也該 晃脫合兒。通世案、談を該とする。秘史巻四、また者︀該 晃塔豁兒とし、またこの人である。伯哷津は哀克 宏脫合兒とする。
〉合兒がお前を生んだ。お前は代々奴隷で、誰の国土を、お前が取れようか。ほしいままに我国を得て、案彈・火察兒必ず与えないであろう。昔我らは汪 可汗のところに居て、早く起きて、私は王の青い盃で馬乳を飲むことができた。お前たちが起きて、私が先に飲んだことを知って妬んだか。私は今や去りお前たちはほしいままにこれを飲む。我が弟脫憐よ、お前がいくら費やしたか量れるか」。〈通世案、秘史は太祖が札木合に告げる語を載せ、「皇帝父親のところに行き、まさに私を妬んで憎んで、分離させた。過去に、毎日誰が早起きした者が、父親の青い盃の馬乳を飲んだことのがあった。私が常に早起きするので、嫉妬した。今や皇帝父親の青い盃でたらふく飲むかのように、いかほど費やすのか」。太祖が九歳の時に父を亡くした考えると、十一歳で斡難︀河のほとりに居て、札木合と安荅になった。二人は王汗の所で同居し、おそらくその時のことであろう。もし脫斡鄰であれば、これは乞顏氏の奴僕である。どうして太祖と王汗の青い盃を争えようか。本書はこの語を脫憐に告げるものと誤り、ついに札木合に告げる語をすべて失った。洪氏は反対に「秘史はおそらく誤っている」と言うが、その理由はわからない。〉また案彈・火察兒に告げて「お前がもし我が父汪 可汗と事を構えるなら、お前が察兀忽魯〈忽は原書では勿。原注に「太祖の自称である。前に注あり」。通世が前文に拠って、勿を忽に改める。
〉の仲間にお前が連なることを疑わさせるな。〈通世案、秘史は「お前は今や私のもとを離れ、王罕のところにいる。お前は良き仲間となって、始めがあり終わりがなく締めくくり、「お前たちはすべて帖木眞に頼って、帖木眞がいなければ、用いるに当たらない」と人に議論させるな」と言う。西史は「お前たち二人は今や我が父王汗に従い、母は始めにいて終わりにおらず、お前たちが日に向かうふるまいは、みな札兀特忽里の力であると人に述べさせよ」とする。やはりその意である。本書は誤訳のようである。〉ただちに汪 可汗は人を交した。易厭〈[#訳せない。「侮って嫌がった」か]〉。〈汪は原書では正、易は原書では馬とする。ともに秋濤が校改する。〉私はなおもあなたであり、ましてやあなたの仲間である。たとえ今夏、〈通世案、不及の二字をあてる。西史は「たとえ今年お前たちに及ばなくても」とする。〉どうして冬が到来しないことがあろうか。また私の父とする汪 可汗は「案敦 阿速・渾八力二人を遣わして来報させるべきである。〈渾は原書では運。秋濤案、前文で案敦 阿述・渾八力。通世案、〈底本-364〉伯哷津は阿勒屯 阿速黑・忽勒巴爾とする。運を渾とする。〉そうでなければ一人を遣わせ。かつて
〈原書は誤って暑の字とし、秋濤が校改する。〉我が麾下𢗅納兒 拔都︀は、〈曽植案、秘史九十五功臣名の内、馬剌勒その人があり、おそらく忙納兒 拔都︀であろう。通世案、伯哷津は木訶里 巴哈都︀兒とする。〉彼の銀鞍の黒馬を失い王の所にある。持ってくるよう請う。〈請は原書では竜、通世が校改する。〉鮮昆 案塔。〈昆は原書では晁。原注に「つまり王子亦剌合である」。秋濤案、鮮晁案答は、後文の鮮昆で、おそらく汪 可汗の子であろう。太祖の父は汪 可汗とおさめ、よって子がともに案答とした。後文「王子鮮昆は「彼はいつ真心で私を案答として遇したのか」と言った」。太祖とこれが結んで案塔となった証にでき、ゆえに案塔をもってこれを称した。塔と答の字は異なり音は同じ。思うに晁と昆の字は形が相似ており、しかし音声は曲がり異なり、必ず一つ誤っている。前文で「汪 可汗は土兀剌河に至り、その子亦剌合 鮮昆云云」と言うのを考えると、昆とするのは正しい。〉あなたはまた必力哥 別吉と脫端の二人を遣わせ。〈秋濤案、必力哥、これは後文の別力哥、おそらく亦剌合の家来であろう。〉そうでなければ一人を遣わせ。札木合 案答、及び阿赤失蘭・阿剌不花・帶亦否・
〈曽植案、阿赤失蘭は、秘史は阿赤黑失侖とする。阿剌不花帯は、おそらく元史不忽木伝の中の海︀蘭伯である。通世案、喇施特の王汗部族考の中に、阿剌不花があり、帶兒がある。帶亦否は、帶兒。否は児とする。〉火察兒・案攤、おのおの二人を遣わして来い。私が東に向うのに従い、納兒と脫憐をともに陳𨍸兀の源に呼び来会すべきである。〈通世案、西史は捕魚兒 諾爾とし、誤りの恐れ。〉西に向うのに従い、哈八剌漢︀答兒哈の山から出るべきであり、〈通世案、伯哷津が哈潑哈兒哈荅兒罕の路とする。〉忽魯班不花諸︀思河に従って来るのである」と言った。汪 可汗は上の前の言葉を聞き、「ただ我が子がこれを判断する」と言った。王子鮮昆はその父に語って「彼はいつ真心で私を案答として遇したのか。牡牛は玩具のように我らを見るのみ〈通世案、秘史が述べる桑昆の言葉は、「彼は何度安荅であると告げたことがあったか。ただ脫克脫阿 師巫 囘囘羊の尾に続いていくと語るのみ」と言う。伯哷津はただ「彼は私を諳達と称したが、さらに常に私を罵っていた」と言う。注に「下に托忽布特の一語がある。蔑兒乞の托克塔であろう。語意は難解」と言う。洪氏は「これは秘史で見える。訳注があるといえども、而やはり難解。惑わないのか西人は訳せないのである。録は「玩具のように我らを視る」と言い、これまたやむを得ない要約の言葉である」と言う。
〉なぜかつて王を称して父としたか。牡牛は老いた奴隷のように我らを見るのみ。〈通世案、秘史は「彼は何度皇帝父親であると告げて来たか。ただ殺人を好む老人と語るのみ」と言う。西史の意は同じ。これはただ老いた奴隷と言い、意はまだ足りない。〉またなぜかつて弁舌の巧みな者を遣わしたか。馬を扱いこなし駆けて我らを追う。〈通世案、西史は「今日は使いを遣わさず、ただ一戦あるのみ」とする。及我は、及彼とする。〉彼が我らに能く勝てば、我が国を治めて取る。もし我らが彼に勝てば、またその国を取るのである」。そこでその部将別力哥〈秋濤案は前文の必力哥。〉別吉・脫端が戒めて、〈曽植案、秘史「桑昆は必勒格 別乞・脫朵延に命じて、将は旗纛を起立し、殺し合いを準備した」。必勒格 別乞、これは必力哥 別吉、脫朵延は脫端である。〉「釜を備え、旗を建て、〈通世案、西史も旗とする。ただ秘史は纛を設けるとし、やはりモンゴル本来の姿が保たれている。〉
馬にかいばを与え、待ってから進むのである」と言った。上は汪 可汗に使いを遣わし終えて、ついに兵を進め、弘吉剌別部の溺兒斤を掠め捕らえて行き、班朱泥河に至り、〈通世案、秘史は巴泐渚︀納の湖とする。朮赤台伝は班眞の湖。洪氏は「これと俄羅斯地図を考えると、斡難︀河北、俄羅斯国境内、巴兒渚︀納沼がある。俄羅斯語の音は巴勒赤諾のようである。泊の北に圖拉という河があり、音果達河に入る。俄羅斯地図でこれを見るについては、河と泊は互いに関連しない。あるいは水が漲った時に、河に通って入る。あるいは近くの地になお小河があり、図にまだ載せていない。ゆえに史録は河の名とする。俄羅斯人は游歴してここに至り、「その地は林木が多く、駐夏に都合がよく、兵を遁れることができる。モンゴル人はなおこの地を成吉思 汗避難の地とする」と言う。巴兒渚︀納を淖爾名とし、秘史だけがこれである」と言う。〉水を飲み人々は誓った。〈
秋濤案、元史札八兒伝、「太祖と克烈汪罕に争いがあった。ある夜、汪罕はひそかに兵を来させた。忙しく慌ただしく備えられず、軍勢は大いに潰えた。太祖はすみやかに引き去り、従い行く者わずか十九人、札八兒はここにともにあった。班朱泥河に至り、食糧はみな尽きて、はるかに遠く食べ物を得られなかった。北から来た一頭の野馬に会い、諸王と哈札兒はこれを射て倒した。そのまま草を裂いて釜とし、石で火を起こし、河の水を汲み、これを煮て食べた。太祖は手を挙げて天を仰ぎ誓って「私に大業を治めさせるならば、諸人と甘苦を同じくするのは当然である。もしもこの言葉を変えるならば、河の水のようであれ」と言った。感泣しない将士はなかった」。元史の記に拠れば、この書と事情はやや異なる。通世案、元史 太祖紀は「河水はちょうど濁っていた。帝はこれを飲んで衆に誓った。その時に汪罕の勢力は盛強で、帝は微弱で、勝敗はわからず、人々はとても危ぶみ恐れた。みなともに河の水を飲んだことは、これを飲渾水と言い、その家来が艱難を同じくしたことを言うのである」と言う。
西史に拠ると、太祖が巴兒渚︀納に至るのは二度。合闌眞戦後に一度至り、使い者を遣わした後に再び至った。飲渾水は、戦後に至った時にあった。「王汗の軍勢はなお盛んで、成吉思は敵わないと考え、すみやかに引き退いた。退いた後で部衆は散り散りになった。そこで巴兒渚︀納に避けて行った。この地はいくつかの小河があり、この時に水は涸れて濁って流れており、わずかに濁り水を飲むことができた。成吉思は意気盛んで水を酌んで、従者とともに誓った。当日に従者は多くなく、これを巴兒渚︀特と称し、後世に及ぶまで長く賞したのである」と言う。洪氏は「札八兒伝を見ると、戦後ここに至ったようである」と言う。
そして太祖は戦後、浯泐灰河を遡り、合泐合河に沿って下り、捕魚兒湖を過ぎ、統格黎小河の東のほとりに至り、その後で使いを遣わした。使いを遣わす前に、巴兒渚︀納に至ったことはかつてなかった。西史は誤った恐れがある。〉その時に亦乞列部人の孛徒がおり、〈秋濤案、前文の泰赤烏部との戦いの時、亦乞剌部人の捏群の子孛徒は人を遣わして変を告げ、この孛徒である。この書及び元史は、どちらもあるいは亦乞剌部、あるいは亦乞剌思部、あるいは亦乞列部とする。元史は孛禿伝があり、その人である。亦乞列思氏と言う。続宏簡録は、亦乞烈氏とする。その実はともに同じ。〉火魯剌部に迫り破られ、それにより上に会って同盟した。〈通世案、この事、秘史は載せていない。逆に豁魯剌思人㮶斡思察罕らが戦わずに降ったとある。また囘囘の阿三が汪古惕部から来て太祖にあったとある。〉この時に上の〈通世案、弟の字が抜けている。〉〈底本-365〉
哈撒兒は、別れて哈剌渾 只敦山におり、〈通世案、秘史は合剌溫山とし、元史は哈剌渾山とし、西史は合剌溫 赤敦山とする。これと前文の合剌溫の狭間は、西史は喀剌溫 喀卜札勒とし、秘史訳が黒林の間としているのと異なる。前文の阿蘭塞は、西史も合剌溫 赤敦とする。これと同じか異なるかはわからない。〉妻子が汪 可汗に捕らえられ、幼子脫虎を抱えて走り、〈曽植案、元史 宗室世系表は、脫忽大王、つまりこの脫虎。〉食糧が絶え、鳥を探し卵を食べ、〈通世案、西史は「死んだ獣を食べた」と言い、秘史の「生の牛皮と筋を食べ」と、語意は似ている。ここは誤訳の恐れがある。〉来て河岸で会った。〈通世案、秘史、合撒兒はその妻と三子也古・也松格・禿忽を王罕のところに置き去りにし、身を尽き果して家来数人と逃げ、合剌溫山に成吉思を尋ね、会えなかった。食糧は尽き、生の牛皮と筋を食べ、巴泐渚︀納湖に行き至り、成吉思と会った。これに拠れば合剌溫山は、合撒兒がいた所ではなく、太祖を尋ねた所である。ゆえに王罕のところと近くなく、逆に太祖が駐留する所と近かったか。考える価値はある。
〉上と汪 可汗は、合蘭眞沙陀の地で戦い〈通世案、これはいわば前の戦いである。西史は「王汗は合闌眞戦の後から」とし、最も明瞭。元史は誤って哈蘭眞大戦は実にこの時あったと言い、そこで前文に「汪罕の兵が至り」の字を加え、「汪罕は大敗し」の字を下に加え、そして前後は、「合蘭只の野に軍を移した」の語を削った。合蘭眞が合蘭只であると知らず、使いを遣わした後に合蘭眞の戦いがないのである。〉汪 可汗は只感忽廬の地にいた。〈通世案、伯哷津は起特忽魯 哈特額列特とする。洪氏は「只感忽廬、これは起特忽魯。あるいは原書は只忒とし、訛って只感とした」と言う。〉その時に上の麾下答力台 斡眞、〈斡は原書では幹、通世が校改する。後文も同じ。
〉案彈 折溫、〈曽植案、秘史に速客該 者︀溫がある。かの者︀溫は、この折溫である。その音の呼びを整えれば、 今の語が章京を呼んで札顏とするのと、極めて相近い。元史 兵志に「札魯花赤及び札也種の地元民などが応じて、二十人ごとに一名を軍に出す」。かの札也は、語を訳すと章京となる。この折溫も、札也と解く〉火察兒 別吉・札木合・〈秋濤案、この諸部、みな太祖のもとの部であり、汪 可汗の麾下にあった。ゆえに太祖はまず人を遣わしてこれを諭し、汪 可汗と共謀していた諸部は、太祖に応じた。通世案、札木合を麾下に列するのは、でたらめに近い。
〉八憐 梭哥台・〈曽植案、元史伯顏伝「モンゴルの八隣部人。曽祖父述律哥圖は太祖に仕え、八隣部左千戸とされた」。述律哥圖、この八隣 梭哥台である。通世案、述律哥圖は、本書は失力哥 也不干とし、泰赤烏部が滅んだ時、父子が来属した。おそらくは王汗について叛くことはなかった。伯哷津は渾八鄰・蘇克該。渾八鄰、おそらく前文の渾八力であろう。ここは渾の字が失われている。本は部名ではない。
蘇克該、つまり秘史の速客該 者︀溫、者︀該 晃答豁兒の子で、脫斡鄰と兄弟である。阿兒孩 合撒兒とともに、王罕・桑昆へ使いをした。阿兒孩は帰った。速客該は妻子が脫斡鄰の所にいたので、よって留まって帰らなかった。これに至り脫斡鄰らと共に王汗を謀ったのである。梭哥台、すなわち速客該。速客該と音が似ず、むしろ述兒哥圖に近い。あるいは訳に応じた者が誤って八鄰部人述兒哥圖としたのである。〉脫憐・〈通世案、秘史の脫斡鄰の弟。この下に原書は余分な海の字があり、今削る。
〉塔海︀・忽剌海︀等、また忽都︀花部の人々は、〈通世案、古い本は花を答とする。おそらく洪氏が校改したのだろう。西史の部族考は忽都︀呼特とする。洪氏は「答は特の変音である」と言う。〉汪 可汗の所にいて、ともに汪 可汗を害そうと謀り、「これに従えない」と言い、将は叛き離れた。汪 可汗はその事に気づいて、これを迎え討った。〈原書は討迎とし、誤っている。張石州が校改する。〉この時に答力台 斡眞、八隣〈
秋濤案、前文で憐とする。通世案、元史は把憐部、額兒忒曼も部名とする。伯哷津は渾八鄰とし、人名とする。秘史を調べると、蔑年 巴阿鄰氏は、太祖が札木合から離れた時、すでに来属し、今に至って初めて降ったのではない。おそらくこれは本人の名であり、訳者は部名と誤り、そして元史はこれをふまえた。〉撒合夷・嫩眞〈通世案、伯哷津は宏廓攸特とする。秘史巻八「太祖は客列亦惕汪豁眞姓の人を巴歹 乞失里黑に与え」、また巻四蒙文「溫眞・撒合亦惕両種人」。洪氏は「汪豁眞と溫眞ははなはだ一致し、溫眞と嫩眞はますます一致する。おそらく同族の異文であろう。西史の部族考は呼眞とし、またこれも豁眞の変音である」と言う。汪豁眞を考えると、汪を略すのは適さない。宏廓攸特、溫眞、嫩眞、みな汪豁眞の異文である。呼眞、これは輟耕録の忽眞、元史の許兀愼また旭申、蒙古源流の烏古新、汪豁眞が別れて一姓となったのである。
〉諸部、頭を地面につける最敬礼で服従してきた。案彈 折溫・火察兒 別吉・忽都︀花・〈都は原書では相。秋濤案、相を都とする。〉札木合らは、乃蠻王泰陽 可汗に奔った。〈通世案、秘史はこのくだりが抜けている。次のくだりの初め、西史に「この年の秋、成吉思は巴爾渚︀納より兵を起こし、将は斡難︀河より王汗を攻めた」という句がある。〉〈[#後文は底本から抜けた原書の文の訳]〉上は班朱河より軍を移した。秋、斡難︀河の源で大いに集まり,進んで汪 可汗を征伐した。
上は哈柳答兒・抄兒寒二人を使いに遣わし、〈寒は原書では塞。秋濤案、秘史は合里兀荅兒・察兀兒罕とする。曽植案、塞を寒とする。通世案、西史は音が秘史と同じ、よって塞を寒に改める。後文も同じ。〉汪 可汗の所に行き、いつわって上の弟哈撒兒が語り、これを述べて「はるかに仰ぎ見る我が兄は、遠く離れてたちまち遠くなった。楗渉径〈[#訳せない。直訳は「かんぬきが道を歩き回る」]〉、〈秋濤案、句に誤った字がある。〉従う所がわからない。近ごろ我が妻子が父の所にいると聞いた。私はいま木を覆って枕とし土くれを敷物とし星を仰いで臥せる。私はまことに王父を頼り、ゆえに無理にでも請うものである。〈請は原書では諸。秋濤案、おそらく後文に文の抜けがある。通世案、諸を請とする。〉王がもしこれを従わせるならば、私はいつまでも王父に服従するであろう」と言った。
〈秋濤案、秘史は「成吉思は謀って、合里兀荅兒・察兀兒罕二人を遣わして、合撒兒の使いとして、ゆき王罕に対して〈底本-366〉述べ「我が兄の姿は、望めど現れない。道路を踏んでいても、また訪れても見えない。彼に叫んでも、他にはまた聞こえない。夜間に星を見て枕を土につけて寝る。私の妻子が、父親皇帝のところに現在もいると知った。もし一人の頼れる人を来させれば、私は父親のところに行く」と言った」と言う。その語を較べると明晰である。通世案、洪氏訳伯哷津の書は、使者は語り「我が兄は私と離れ、今は所在がわからない。我が妻子はみな王の所にいて、私はどこに帰ろうか。私は今や木の葉を寝床とし、土や石を枕とし、星を眺めて寝る。私は父に従うことを願う。もし王が私の前の功労を考え、わが身を奉げることを私に許すなら、ただちに手を縛って降伏するであろう」と言った。秘史も「成吉思も使臣に対して「あなたが去り、私はすぐに身を起こした。あなたが巡って来た時、ただ客魯連河の阿兒合勒苟吉の地に行き約会しよう」と言った。ただちに主兒扯歹・阿兒孩両箇を先鋒とし、客魯連河の阿兒合勒苟吉の地に行った」と言う。大祖は途中で兵を進めたと考えてよい。〉汪 可汗は応じて亦禿兒干を使いに遣わし、〈秋濤案、秘史は亦禿兒堅とする
〉私は溜水を入れる器に血を盛って煮て、〈秋濤校本は我の下に使の字を増やしている。通世案、使の字を必ずしも増やさない。我の字は、字の誤りとする。西史は「牛の角に血を盛る」とする。元史は「皮袋に血を盛る」とする。〉これと盟約しよう。哈柳答兒 抄兒寒二使と、将亦禿兒干が来た。〈秋濤案、秘史は「亦禿兒堅は陣営がはなはだ多いのを望み見て、すぐに返り走った。察忽兒罕は後ろから矢を射て、将亦禿兒堅の馬の尻を鋭く射て坐らせた。そこに将亦禿兒堅は捕らえ留められ、将は太祖のところに至った」と言う。この二使は亦禿兒干が来たのを捕らえ、一緒に来ていない。〉上は言葉を与えず、ただちに哈兒抄兒のところに送った。
〈秋濤案、秘史は「合撒兒に送り殺させた」と言い、これと不同。秘史に従うとする。通世案、児抄の二字は、撒の字の誤り。西史は「合里兀荅兒はおのれの陣営を望み見て、それ〈[#亦禿兒堅のこと]〉が見て轡を返し、馬が良く行き速く走って、追えなくなることを恐れた。そこで馬を下り、偽って「馬蹄の下に細かい石があり、願わくはこれを除くのを助けてもらいたい」と言い、それを引いて馬から下ろした。下りるとそのまま捕らえて、成吉思に献じた。成吉思は朮赤 合薩兒に与えることにした」と言う。秘史と事情がかすかに異なる。秘史は「合里兀荅兒の馬は早く、追いつくも捕らえかね、前方を横切り探っていると」という語がある。西史は馬が良く速く走るのを亦禿兒干のこととする。〉上は二人の使いを道案内にして、〈二は原書では三、導は原書では尊とし、秋濤が校改する。
〉兵を率いて夜に速く走り、〈通世案、秘史は「合里兀荅兒らは太祖に対して述べて「王罕は防御せず、今や金を散らした帳を起こしているのが見え、宴会させている。私は昼夜続けて行き、不意に襲って除くのが好みである」と言った。太祖は「よし」と言いそのまま主兒扯歹 阿兒孩を先鋒にして、昼夜続けて行った」。最も事情が細かくわかる。〉徹徹兒 運都︀山に至り、〈張石州は「元史 紀は折折 運都︀山とする」と言う。秋濤案、秘史は者︀折額兒 溫都︀兒山とする。通世案、秘史は山名の下に地名があり、折兒 合不赤孩の地の口と言う。者︀折額兒は、前文で者︀者︀額兒とする。東方の徹徹兒山と同じではない。誥畢勒・多遜みな「克魯倫・土拉両河の間にある」と言う。大佐祐︀勒は「今の烏爾噶に近い」と言う。烏爾噶は、庫倫である。
〉不意にそれを出して、汪 可汗軍を破り、克烈部の人々をことごとく降した。〈通世案、秘史に拠ると、この戦もまた激しく、太祖は三昼夜にわたって攻囲し、わずかにこれに勝てた。合荅黑 把阿禿兒をもって王罕を逃げ去らせ、留まって力戦した。又案、秘史はこの下に太祖が合荅黑の勇を愛で、赦し殺さず、その衆を率いさせ、忽亦勒荅兒妻子につけたくだりがある。孫勒都︀歹種人塔孩 把阿禿兒に恩賞があり、只兒斤百人を与えた。太祖は自ら札合敢不の長女亦巴合を娶り、次女莎兒合黑塔泥を拖雷に与えた。巴歹 乞失里黑の功を賞し、王罕の金を散らした帳や金の器皿などを与え、汪豁眞姓の宿衛を統率させ、様々な恩典を加えた。この冬に阿不只阿 闊迭格兒の地などに駐留し治めた。本書と西史どちらも載せず、おそらく脫必赤顏原本がすでにこれを略していたのであろう。
〉汪 可汗はわずかに子と数騎をもって脱走した。その左右を顧みて、〈顧は原書では頼。秋濤案、顧とする。〉その子亦剌合に語って「我ら父子は互いに親しみ、それが絶えるべくして絶えるか。今このとりなしにより、ついに絶えるか」と言った。〈この字の下、秋濤が輩の字を補う。竟は原書では児とし、秋濤が校改する。通世案、輩の字を補う必要なし。父子は自分と太祖を言い、とりなしは亦剌合らの悪だくみに従って誤ったことを言う。西史は「離れた人に与えて応えず、人はまた私から離れず、私自らこれを離れた。今この厄災に遭うのは、みな一人の罪である」と言う。やはりその意である。
〉捏群 鳥孫河に至り〈群は原書では辟、孫は原書では柳。秋濤案、秘史は涅坤の水とする。この辟の字は、また坤とする。文田案、これも捏羣とする。通世案、秘史は的的克 撒合勒の地の涅坤の水の所とする。西史は乃蠻との境界の捏坤を烏孫とする。烏孫は水である。柳を孫とする。〉乃蠻部主太陽〈秋濤案、秘史は塔陽とする。
〉可汗の将火里 速八赤〈秋濤案、甲子年(1204年)は火力 速八赤とする。通世案、秘史は豁里 速別赤とする。〉帖迪沙〈通世案、伯哷津は騰喀沙兒とする。〉によって二人は殺された。〈通世案、西史は「その首を太陽 汗に送った。太陽 汗はその自分勝手な殺害を責めた」と言う。秘史は「王罕は捕まえられ、自らその名を言った。豁里 速別赤は信じずこれを殺した。桑昆は逃げ去り、従者闊闊出は妻が諫めるのを聴かず、桑昆を棄てて太祖に身を寄せた。太祖はこれを誅し、その妻を賞した。
乃蠻塔陽の母古兒別速は人を遣わし王罕の頭を取って来させ、音楽を奏でてこれを祭った。時にその頭が笑った。塔陽は良くないこととして、踏んでこれを砕いた」と言う。また可克薛兀 撒卜剌黑が乃蠻のまさに滅ばんとするのを歎く話がある。おそらく脫必赤顏はそれを経ずこれを削った。西史はまた太陽が王汗の頭を飲む器にした事を載せる。これは匈奴の故事で耳にする。今頭が砕けた。器とするのは難しい。〉亦剌合は西夏に走り、西に亦卽納城を過ぎ、〈秋濤案、亦卽納は、卽亦集乃路とする。通世案、今の額濟納旧土爾扈特モンゴル游牧の所。〉波黎 吐蕃部に至り、〈曽植案、元史案竺邇伝は、子の国寳は皇子闊端に従い西征し、吐蕃呵里禪・波黎揭諸部の酋長を帰順させた事があった。波黎揭は、この波黎 吐蕃である。
又案、波黎はおそらく今の布隆︀吉爾の地であろう。通世案、伯哷津は波魯土伯特とする。剌薩唐〈[#訳せない。「薩都剌」の誤りか]〉碑、漢文は吐蕃と称し、吐蕃文は土伯特とする。吐蕃は、おそらく土伯特の転訛であろう。遼史 興宗紀 重熙 十六年云々、鐵不得国は使いを遣わして来て夏から防備するための出兵を乞うた。鐵不得は、元史語解は圖伯特とする。道宗紀 淸寧 六年に公主を土伯德王の子に嫁がせた。元史語解は誤って土の字が抜け、伯特と改めている。秘史巻十三で晃孩ら三人が太祖を諫めた言葉の中に、「私たちを西番の狗のように行かせることを薦めた」の句がある。
西番の字は、蒙文では土伯特とする。馬兒科 波羅紀行にも、迭伯特猛狗の語がある。阿剌伯人は早くから土伯特の名を知っていた。唐末、瑣烈曼、伊本 庫兒達特畢、五代時、馬蘇第、みな體伯特を言う。ひとりでに西人は西蔵を體伯特と呼んだ。しかし国の人は今やこの名を知らず、自らを称して博特としたが、その語は印度から出た。洪氏は「波黎 吐蕃は、おそらく布隆︀吉爾であろう、ゆえに西人は波魯と訳したのである」と言う。〉ただちに討って掠め、しばらくここに留まることを望んだ。〈底本-367〉吐蕃は部衆を集めてこれを追い払った。西域に散り走り〈域は原書では誤。〉白先は徹兒哥思蠻の地にいて、黑鄰赤哈剌に殺された。〈秋濤案、元史は「龜玆国に至った。龜玆国主は兵をもってこれを討ち殺した」と言う。曽植案、白先を曲先とする。これは龜玆の音の転訛である。耶律 希亮伝は苦先とし、耶律文正の西游録は苦盞とする。今の書は庫車とする。通世案、伯哷津は「逃げて和闐・喀什噶爾に近い地に至り、苦先 古察兒 喀思を貪ったと言い、哈剌赤部主克力赤哈剌に捕らえられ殺された」と言う。苦先は、曲先であり、龜玆の転訛ではない。明史 西域伝は「曲先衛は、東を安定に接し、粛州の西南にある。古くは西戎、漢は西羌、唐は吐蕃と言った。
元朝は曲先答林元帥府を設けた」と言う。その安定衛は甘州の西南一千五百里の距離で、広さは千里。そうであるならば曲先の西北は和闐に接し、言わば和闐近地である。そして耶律 希亮伝の苦先は、庫車を指すようである。西游録の苦盞は、明の言う「塔剌思の西南四百余里」である。これは霍闡城である。古察兒は、居徹兒であり、塞哩甫 額丁戦勝史は「帖木兒東征の第五役は、まず軍が喀馬哷丁を布干 阿錫彀勒で破った。帖木兒は進み続け、追って庫察兒に至った」と言う。おそらく喀什噶爾に近い地であろう。哥思蠻はわからず、哈剌赤、おそらく龜玆の転訛であろう。抄兀兒伝にも、哈剌赤があり、これと異なる。伯哷津はまた「人が言うには、この部主はまたその妻子を捕らえ、成吉思に献じて帰順した」と言う。
〉上は汪 可汗を滅ぼし終え、この冬、帖麥該川で大いに狩りを行った。〈秋濤案、これを甲子年(1204年)の帖木垓川とする。曽植案、秘史は帖蔑延 客額兒とする。通世案、西史の地名は秘史と同じ。
〉宣布号令し、凱旋して竜庭に帰った。〈通世案、竜庭は、文飾の言葉であり、地名ではない。西史は「もとの居場所に帰って留まった」と言う。これは撒阿里 客額兒の地を指すか、あるいは忽巴合牙駐冬の地を指すか。秘史は「自ら巻狩りの所に来て回り、阿卜只合 闊帖格兒の地から立ち去り、合勒合河に至り斡兒訥兀の地の客勒帖該 合荅の地に行って下りた」。この斡兒訥兀は、前文の合兒合水の斡峏訥屼山ではなく、合闌眞戦後に過ごした地である。本書の後文に拠ると、西方の喀魯哈河のほとりの地である。太祖は乃蠻を征伐し、まさにその地に至った。後文で見える。秘史が猟場から帰り、すぐにその地に留まったと言うのは、誤りである。本書に従って当てる。宣布号令は、西史は札薩を宣布し、衆に命令したとする。札薩は号令である。秘史は太祖が軍馬の数をかぞえ、千百戸の牌子頭を立て、六人の扯兒必官を設け、宿衛、散班、護衛、厨子、把門人、管馬人らを選び、その職制の事を定めたことを載せ、これがいわゆる札薩である。
〉上は年齢が四十二歳になった。〈通世案、これに拠って逆に推しはかると、太祖は宋 高宗 紹興 三十二年、金 世宗 大定 二年、壬午(1162年)の生まれとなる。蒙古源流が言うところの「仏が涅槃に入ってから三千二百九十五年後の歳次壬午の生まれ」はこれである。秘史は「帖木眞九歳の時、也速該は殺された」と言う。であれば也速該は宋 孝宗 乾道 六年 金 大定 十年 庚寅(1170年)に死去したことになる。元史 太祖紀は「在位二十二年の丁亥(1227年)に崩御、年齢は六十六」と言い、これも本書と合う。
しかし喇施特のモンゴル史および西域の諸書は、みな「帝は猪年に生まれ、猪年に崩御、十三歳で父を失ったのは、やはり猪年であり、年齢は七十三」、あるいは「成吉思 汗と称したのは、やはり猪年であった」と言う。であれば従うと宋 紹興 二十五年 乙亥(1155年)に生まれ、父を亡くしたのは宋 乾道 三年 丁亥(1167年)、そしてそれが汗を称したのは本紀 元年 丙寅(1206年)の三年前、宋 寧宗 嘉泰 三年 癸亥(1203年)となる。その説はおそらく誤っている。男子の生死および父から家を継ぐことや帝位にのぼることは、みな人生の大事である。今太祖の四大事は、みな亥年にあり、偶然とはいえ、はなはだ変わったこととすべきである。罕默兒は「波斯〈[#「波斯」はペルシア]〉人は深く成吉思 汗を憎み、ゆえにその生死と即位を、みな猪年にあったことにしたと言う」と言う。おそらく謨罕默特敎徒は、猪を汚穢とみなし、ゆえに罕默兒の云うことはもっともである。だが洪氏は異なる考えがあり、「元史などの書を、信じ切ることはできず、他国の異論を、疑い切ることはできない」と言い、附見太祖本紀訳証後〈[#訳せない。「太祖本紀の訳を見ることが後で証になると付け加える」か]〉。〉
その時に乃蠻太陽 可汗は月忽難︀を使いに遣わし〈曽植案、秘史蒙文に拠ると、乃蠻が遣わした使いは、脫兒必 塔失という名で、汪古が太祖に遣わした使いは、月忽難︀という名である。秘史訳文は、月忽難︀の名が出てこない。これに倣うと汪古の使いの名を乃蠻の使いの名としたのは誤りである。通世案、額兒忒蠻は卓忽難︀とし、これと同じ誤り。〉王孤〈孤は原書では狐、張石州が校改する。〉部主阿剌忽思 的乞火力を謀り〈原注「今の愛不花駙馬丞相白達達がこれである」。張石州は「元史 紀は白達達部阿剌忽思とし、であれば注の中の速速の字は誤りである」。秋濤案、この事は元史 阿剌兀剔吉忽里伝に見える。伝は「阿剌兀思 剔吉忽里、汪古部人で沙陀雁門の子孫の出である。遠祖卜國は、世爲部長。時に西北に乃蠻という国があり、太陽 可汗と言うその主は使いを遣わて約束をしに来た。阿剌兀思 剔吉忽里は違えて追いかけ、その使いを捕らえ、酒六樽を奉げて、その謀計を太祖に告げに来るよう整えた」と言う。つまりこの事である。
汪古は、この王孤であり、阿剌兀思 剔吉忽里は、この阿剌忽思 的乞火力であり、みな訳語がそろって異なる。注の中の白達達の字は、また誤って白速速となっている。思うに邵遠平 元史類編 太祖の娘 阿剌海︀ 別吉公主の伝は「孛要合に嫁いだ、汪古部人。父は阿剌兀思 剔吉忽里で、もとは白達達部主。乃蠻 太陽 可汗は白達達部と約束する使いを遣わし、ともにモンゴルを抑えようと望んだ。阿剌兀思は聞き入れなかった」と言う。始めの話と本紀は合う。おそらく邵遠平はこの本に拠り、白達達の字は、いうまでもなくまだ誤っていない。又案、モンゴルの他部が無く一部で二名。この王孤、まさに部落名である。
白達達は、その種族名であり、つまり白韃靼である。阿剌兀思の子孛要合。孛要合の子君不花、定宗の娘葉里迷失公主を娶った。愛不花は世祖の末娘月烈公主を娶った。この注の憂不花駙馬は、憂を愛に当て、字形は近いが誤っている。愛不花について元史は経歴を言わない。ここで言う丞相も、元史の欠落を補う。通世案、秘史は汪古惕種の主阿剌忽失 的吉惕忽里。吉惕を、西史は斤とする。
〉「近ごろ東方に王を称する者があると聞いた。日と月は天にあり、事の道理を明らかに悟りこれを見る。世にどうして二人の王があろうか。あなたがわたしを右翼に加えられるならば、その弓矢を奪おう」と言った。阿剌忽思は、ただちに朵兒必 塔失を使いに遣わし、この謀計をまず上に告げ、のちに一族あげて身を寄せて来た。我らと王孤部が仲が良いのは、これにもとづく。〈曽植案、閻復高唐忠献王碑は、帶陽の使いを卓忽難︀と言い、汪古の使いを禿里必 塔思と言い、これと同じ。又案、朵兒必 塔失は、秘史の脫兒必 塔失である。また乃蠻の使いの名を汪古の使いの名とする誤りにより、みな秘史に拠るのが正しいとみなす。通世案、このくだりは、秘史はやや詳しい。その略は「塔陽は王罕の頭を砕き終え、可克薛兀 撒卜剌黑は「塔陽皇帝は柔弱で、乃蠻は滅びの兆しがある」と言った。
塔陽は「東のはずれに達達がいて〈底本-368〉、老王罕を追いかけ死へ走らせた。彼は皇帝になるのを望まないのか。天にはただ一つの日月があり、地にどうして二人の主があろうか。私は今行ってあの達達を取ろう」と言った。その母克兒別速は「達達の民は息が臭く、衣服は黒ずんでいる。捕らえてくるのに何の備えがいるのか、これは遠くないようである。もし美女がいれば、捕まえて来て沐浴させて牛や羊の乳を搾らせるのみ」と言った。塔陽は「これは何が難しいものか。私は行って彼の弓箭を奪おうと思う」と言った。撒卜剌黑は歎息し、大言しないよう戒めた。塔陽はついに聴かず、脫兒必 塔失を汪古惕種に告げに遣わし云云。阿剌忽失 的吉惕忽里は月忽難︀を遣わし、太祖に告げて「乃蠻塔陽は私に右手になるよう請うたが、私は従わなかった。あなたが防衛しなければ、来てあなたの弓箭を奪う恐れがある」と言った」となる。汪古部の使いが来たのは、太祖がもとの経営地に帰る前、帖蔑延で狩りをしていた時にあり、ゆえに狩場にとどまって乃蠻を討つ話し合いをした。本書はまず狩場から帰ったと記し、翌年に帖木垓川で会ったとまた言い、誤っている。〉
甲子(1204年)〈原注「宋 景定 五年、金 泰和 四年」。張石州は「宋 嘉泰 四年とする」と言う。〉春、帖木垓川で大会を行い、〈秋濤案、癸亥年(1203年)の帖麥該川とする。通世案、西史は前文で帖蔑延 客額兒とし、ここは帖木該 必丁禿勒庫珠特とする。秘史蒙文は帖蔑延 客額兒の低い所、禿勒勤扯兀的の地名がある。西史と比べると、必丁の音が少ない。〉乃蠻討伐を相談した。百官は察して「今は流行り病のなかで畜牧している。秋高く馬肥ゆるまで待ち、のちに進めば良い」と言った。上の弟斡赤斤 那顏は〈通世案、これは也速該第四子帖木格 斡惕赤斤、元史 表の鐵木哥 斡赤斤。斡は原書では幹、今改める。
〉曰「母は馬が痩せているのを心配し、我が馬はなお健やかである。今や勢いはこのように癒え、それは緩んだとすべきであろう。私が敵を見たところでは、きっとこれを破る。もし戦いに勝つなら、後日この地を目指す太陽 可汗に捕らえられれば、この名誉は奪われる。勝負は天にあり、必ずや進むべきである」。上の弟別里古台 那顏も「乃蠻は王の弓を奪うことを願っている。もしついに奪われれば、我らはどうするのか。彼の国は大きい馬が多く、大言を吐くのは欲しいままになる。今我らが不意にこれに攻め入れば、国が大きいといえども、必ずや山林に逃げ散る。馬が多いといえども、必ずや原野に捨て去る。その油断を不意に襲い、その弓矢を奪うのが、どうして難しかろうか」と言った。人々は大いに褒めた。満月になる十五日に纛を祭り、早朝に乃蠻を討伐する兵を進めた。
〈通世案、西史は十五日に兵を起こしたとする。額兒忒曼は「西域暦六月十五日に兵を起こした。歐羅巴暦では、二月十九日になる」と言う。洪氏は「中国暦と西暦は食い違い、多ければ四十余日に至り、少なければ十余日に至り、中国暦の正月十五日と当てる」と言い秘史は「四月十六日、成吉思は旗纛を祭り終え、乃蠻に征伐に行った」と言う。四月十六日は、おそらくモンゴルの大祭の日であろう。秘史巻二、帖木眞が泰亦赤兀惕に捕らわれた時、「まさに四月十六日、泰亦赤兀惕の人々は、斡難︀河のほとりで宴会をした」。巻三、帖木眞・札木合は、一年半同居し、「いつぞや住まいをそこから起こした時は、まさに四月十六日であり、一同は車の前を先頭で行き云云」。太祖が大事を挙げるのは、四月十六日に行うのは、おそらくこれに基づく。正月十五日の説は、おそらく根拠がまだ足りない。〉秋、再び哈勒合河建忒垓山で会い、
〈忒孩は原書では或檀、張石州が翁方綱本に拠って改める。通世案、伯哷津云「乃蠻との境外の客勒忒該哈荅に行き至って、哈剌河にせまった。駐軍で多くの日が経ち、敵が到着せず、戦えなかった。秋にまた将士が会い、兵を進める相談をした」。哈剌河は、この哈勒合河である。太祖が王汗を責める語の中にも、哈剌河のほとりがあり、本書は哈兒哈山谷とする。みな今の喀魯哈河である。客勒忒該哈荅は、哈荅は山をいい、つまりこれは建忒該山である。秘史の合勒合河斡兒訥兀の地の客勒帖該 合荅の地も、またこの地であり、誤って出征の前に書いた。
〉まず麾下の虎必來 哲別二人を先鋒として遣わした。太陽 可汗案臺より至り、〈通世案これは阿爾泰山で、阿勒坦とも言う。胡語で阿勒坦は金を言う。これは古い金山である。その頂きは科布多城の西北烏普薩池の西にあり、西北諸山の祖とされる。支峯は谷のように延び、分かれて四つの枝となる。それを特思河の北千里を東北にめぐると、東は唐努山の一枝をなし、また東南に杭愛山の北を接する。その頂きの南は百余里を東に一枝向かい、烏蘭郭馬山をなし、奇勒稽思泊の北を繞り、また東南は白勒克那克科克依山をなし、また東は杭愛山の南に接する。白勒克那克科克依山の南麓は、今は烏里雅蘇台城がある。塔陽 汗はおそらくその近い地にいた。〉杭海︀山〈通世案、秘史は康孩とし、今は杭愛山とし、鄂爾坤河の西にある。山脈は阿爾泰の東北より唐努嶺を支え来て、南へ南へと向かう。その頂きは色楞格河の北源が出るところの山をなし、その尾は塔米爾河の南源、鄂爾坤の南源が出るところの山をなす。〉の哈只兒兀孫河に陣取り、〈曽植案、つまり秘史の合池兒の水である。モンゴル語は水を兀孫とし、今の書が烏蘇とするのはこれである。すでに兀孫と称し、また河と称し、文を重複するのは、後文の辛 目連河と同じである。〉兵を引き寄せて敵を迎えた。我が軍は斡兒寒河に至った。
〈寒は原書では塞。曽植案、塞を寒とする。文田案、斡兒寒河は、今の鄂勒昆河である。通世案、秘史は前文で斡兒洹河や、斡兒罕河とし、後文で斡兒豁水とし、今は鄂爾坤河とする。源は杭愛山の尾を出て、東南に流れ、そして東に、そして東北に、折れて西北に流れ、塔米爾河が西南から合流し、また北に流れ、東北に折れ、土剌河が南から合流し、また東北に、折れて流れ、色楞格河に入る。又案、西史はこの句がない。兵を引き寄せて敵を迎えたことは、先鋒として兵を遣わしたとする。秘史に拠れば、モンゴル軍は鄂爾坤河に至らなかったようである。河を渡ったのは、塔陽 汗であり、納忽崖の地で戦い、それが河の東にある。我軍の二字は、おそらく余分な誤りであろう。あるいは先鋒とする。〉太陽 可汗は、蔑里乞部長脫脫〈秋濤案、秘史は脫黑脫阿とする。又案、元史巴而朮阿而忒的斤伝は、脫脫を太陽 可汗の子と誤っている。〉克烈部長札阿紺孛、阿隣 太石、〈秋濤案、札阿紺孛は、克烈部汪 可汗の弟で、前文で乃蠻に奔った者である。おそらく汪 可汗が亡くなった後、部衆はこれに身を寄せ、ゆえに克烈部長と称したのであろう。〈底本-369〉
阿隣 太石は、おそらく前文の札阿紺孛とともに乃蠻に奔った納隣太后であり、人名であろう。あの文の阿を誤って納とし、石を誤って后としたのである。通世案、西史は前文で納鄰とし、今は阿鄰とし、これと同じ。ただ礼罕不がない。〉猥剌部長忽都︀花 別吉、〈秋濤案、忽都︀花 別吉は、すでに前文の盃祿 可汗が来て我が軍に攻め入ったくだりの中に見え、また後文の戊辰年(1208年)にも見え、「斡亦剌部長忽都︀花 別吉、我が先鋒に遇い、戦わずして降った」と言う。幹を斡とする。斡亦剌部は、猥剌部であり、音は同じで、訳字がたまたま異なる。〉および札木合
〈通世案 西史は札只剌部長札木合とする。本書は札木合を部名としているようである。本書と元史は往往にしてこの誤りがある。〉禿魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸部と合流した。時に我が隊の中の一頭の白馬の帯が鞍を損なわせ、〈通世案、西史は「鞍が翻って腹に落ちた」と言い秘史とともに異なる。後文で見える。〉驚き走って乃蠻軍を突いた。太陽 可汗と人々は気づいて「かの軍の馬は弱っており、可尾而進〈[#訳せない。「後ろに進んでさしつかえない」か]〉。馬が少し穏やかになるのを待って、兵士にこれを与えて戦おう」と言った。〈通世案、意が整わない。西史は「モンゴルの馬はやはり痩せている。我らが軍を引けば、彼らは必ず後ろを追ってくるが、馬の力はいよいよ減る。我らが再び戦えば、必ず勝ちを手にできる」。
〉勇将火力 速八赤は〈秋濤案、前文は火里 速八赤とする。〉「昔君父亦年 可汗、〈秋濤案、前文は亦難︀赤 可汗とし、秘史は亦難︀察 必勒格、その太陽 可汗の父である。〉勇戦し避けなかった。士の背と馬の尻は、未だかつて人に見られたことはなかった。今何を怯えるのか。まことにこれを危ぶむならば、なぜ菊兒八速に来るよう命じないのか」と言った。〈原注「太陽 可汗の妻である」。秋濤案、秘史は古兒別速とし、その太陽の母で、妻ではない。文田案、親征録が言う太陽の妻は、秘史が言う塔陽の母。この録が正しく秘史が誤り。塔陽は太祖と帝位を上手く争うことができた。その母も中年の人。秘史は「太祖が戦って塔陽に勝ち、これを後宮に納めた」と言う。天下に美人多く、なぜなにがなんでも老婦なのか。録はその妻と言い、この言が当を得ている。
〉太陽 可汗はよって軍勢を率いて来て手向かった。〈通世案、秘史は乃蠻とともに兵を連ねる諸部名を載せていない。しかし叙事ははなはだ詳しい。「成吉思は乃蠻を征伐した。客魯連河をさかのぼり、者︀別・忽必來を先鋒として使い、撒阿里 客額兒の地に至り、康合兒合山にいた乃蠻の先鋒と遇い、行き来し退けあった。隊中の騎兵が鞍を壊した白馬は、乃蠻の人に捕らえられた。皆は「達達の馬は痩せている」と言った。大軍が続いて至った。朵歹 扯兒必は「我が兵は少なく遠くから来た。よろしくここで馬を養い多く疑兵を設け、撒阿里の野に広げ満たし、夜に各人五か所に火を焚かせるよう命じるべきで、彼らの兵は多いといえども、その主は軟弱で、必ず驚き迷う。
このようにして我らの馬を満腹にし終えて、その後に彼らの哨兵を追い、じかに本陣にあてて、その不備を撃てば、必ず勝つ」。成吉思はこれに従った。乃蠻の哨兵は驚いて「達達の兵は少ないと聞く。焚火が星のようなのはどうしたことか」と言った。そして塔陽に知らせた。塔陽方は康孩の地合池兒川のほとりにあり、その子古出魯克に告げさせて「達達の焚火が星のようで、その兵は必ず多い。人は常に「達達は眼を刺されても眼を動かさず、顎を刺されても身を避けない」と言う 今もし彼らと兵を構えれば、後は必ず解き難いであろう。
達達の馬は痩せていると聞く。私が軍勢を率いて退き、彼らを誘って金山に至れば、彼らの馬の力はいよいよ乏しい。そのあとに戻ってこれと戦えば、勝てる」と言った。古出魯克はこれを聞いて、その父を罵り、これを婦人と比べた。豁里 速別赤は歎いて「あなたの父亦難︀赤 必勒格は敵に臨んで、士の背と馬の尻、未だかつて人に見られたことはなかった。今あなたは何に怯えるのか。すでにあなたがこのようであるのを知れば、あなたの母古兒別速、婦人といえども、軍を率いるに足りるであろう。惜しむべきは可克薛兀 撒卜剌黑老で、我が軍の法度はすこぶる緩んでいる。これは達達が天運を得ないことがあろうか」と言った。馬に跨り矢筒を叩いて去った。塔陽はこれを聞き、怒り奮い立って進み、遂に塔米兒河に従って動き、斡兒豁水を渡り、納忽山の崖の東の察乞兒馬兀惕の地に至った」と言う。「客魯連河を遡った」と言うのは、おそらく誤り。
土兀剌河に従って動いたと言うべきなようである。撒阿里 客額兒は、竜庭の地ではない。漠北には撒阿里という名のところが多い。この撒阿里の野は、喀魯哈河の西にあるとあてる。康合兒合山も、河の名が名を得たことにちなむようである。塔米兒河は、今は塔米爾河とする。源は枯庫嶺の東麓を出て、東に流れ、たまって台魯勒倭黑池をなし、また東北に流れ、鄂爾坤河に入る。塔陽は鄂爾坤河を渡り、納忽山に戦った。納忽山も、鄂爾坤・喀魯哈両河の間にあるとあて、庫庫赤老圖山は南連山中をもってする。〉上は弟哈撒兒の主軍をもって、自ら軍列を指揮した。〈通世案、秘史は「成吉思は軍を整え陣を押し出し、自ら先鋒となり、弟合撒兒が中軍を指揮し、斡赤斤が従軍する馬を管理した」と言う。
〉時に札木合は太陽 可汗に付き添い、上の軍容が厳しく整っているのを望み見て、そこで左右に語って「あなたたちは案荅の動きが秀でて優れているのを見た。乃蠻の言葉に「革を作り損ねて皮を失っても、なお貪って捨てない」がある。なんとこれに当たるではないか」と言った。
〈通世案、語がすこぶる拙劣である。秘史は「あなたたちは「達達を見れば、小さな黒い牡羊や子羊、蹄の皮を残さないかのようである」と重ねて言う。あなたはただいま試して見よ」。洪氏訳の伯哷津の書は「乃蠻は向って来て敵に臨み、「小さな牛羊を屠って、足から首筋に至るまで、あわせて皮革も残さないかのようである」と言われている。今できるかどうか試して見よ」と言う。最も筋道が通っている。元史も「乃蠻はやっと挙兵し、モンゴル軍を見て、黒い牡羊や子羊のようである。意は蹄皮までも残さない」。語は秘史と甚だしく似ている。編者は或いは秘史を見たか。そもそも秘史の訳者は逆に元史の字を用いたか。〉遂にもとの部兵をたずさえて走った。〈通世案、秘史のこのくだりは、塔陽・札木合の問荅を述べる。伝奇小説を読むかのようである。札木合といえども太祖に敵せず、もとより太祖の英武に心服し、塔陽に対して達達の勇猛無敵を誇った。その供述は我が斉藤実盛の平氏軍中にあって、坂東武士の勇を誇るかのようである。札木合は塔陽に答え終え、遂にはその語を太祖に告げる使いを遣わし、「塔陽はこれを聞き、驚き恐れ乱れ迷い、あわてて退き山を登り、戦う意志をことごとく無くした。私はすでに彼を棄てて去った。安答よ励め」と言った。末の一節は札木合が捕らえられた後のあまたの問答を生む。史録すべてがこれらの語を省いたのは、惜しむべきである。〉この日、上とこれの大戦は夕方に至り、太陽 可汗を捕らえて殺した。乃蠻勢は潰え、夜に険しい所に走り、納忽崖を落ちた者は、数えあげられなかった。日が明けて、残りの人々がことごとく降った。
〈通世案、秘史は「太祖は日の光の色が夕方になるのを見て、納忽山を囲んで宿った。その夜乃蠻は遁れようと望み云云。日が明けて、塔陽を捕らえてとどめた。その子古出魯克は、一所にいなかったことで、抜け出すことができ、わずかの人を連れて逃げ、軍が追いかけてくるのを見て、塔米兒河に拠った宿営は定らず、再び走った。阿勒台山の前まで襲って至り、勢いはますます苦しく行き詰まり、遂に将兵をことごとく捕らえた」。西史も太陽が重傷で起きられず、火力 速八赤らがこれを励まし、応えなかったと述べる。諸将は遂にみな下山し力戦して死に、成吉思はその勇を褒めたなどとする。これも秘史と本書はともに載せていないのである。〉これにおいて禿魯班・塔塔兒・哈荅斤・散只兀諸部も〈底本-370〉来降し〈通世案、秘史は「札木合と一緒にいた達達、札荅闌・合塔斤などの種も、またすべて来て投降した」とする。札荅闌の字が少ないのは良くない。〉
その冬再び脫脫を征伐し、〈通世案、秘史は「秋、太祖は蔑兒乞 脫黑脫阿と、合剌荅勒 忽札兀剌の地で戦いこれを破り、追って撒阿里 客額兒の地に至り、その人々を捕らえた。脫黑脫阿と同二子忽都︀ 赤剌溫は、従者数人を連れて走り去った」と言う。〉迭兒惡河源の不剌納矮胡の地に至った。〈通世案、伯哷津は塔兒河とする。〉兀花思 蔑兒乞部長帶兒兀孫は、〈児兀は原書では倒置している。秋濤案、秘史は豁阿思 蔑兒乞種の人荅亦兒兀孫とする。これに拠って、帶兒兀孫とあてる。曽植案、この三種の蔑兒乞のひとつが、秘史巻三の兀洼思 歹亦兒兀孫である。通世案、後文は帶兒兀孫とし、因乙兀児〈[#訳せない。「何らかの名詞乙兀兒に因む」か]〉。
〉娘忽蘭 哈敦を上に献じ、〈秋濤案、忽蘭は、秘史は忽闌とする。哈敦は原書では吟勅とし、秋濤が校改する。〉人々を率いて来降した。彼の力を弱めて、諸翼の中に散らせ置き、室壩之〈[#訳せない。「壩」は水をせき止める堰の意。「これを家の守備とした」か]〉。〈秋濤案、この句はまだ詳しくわからず、おそらく脱文がある。秘史に拠ると、娘を献じた荅亦兒兀孫は、まだ再び叛いていなかった。叛いた者は、その蔑里乞の他の部である。これとともに謀叛した。通世案、西史は「帶兒兀孫は「部衆は馬がなく、征伐に従えなかった」と言う。成吉思はその衆を輜重と後営に散らし、営ごとに百人ずつその勢を分けるよう命じた」と言う。〉その人々はすこぶる不安がり、再びともに叛き、再び輜重に留まった。〈秋濤案、𤰛の字は、字典になく、欠けて誤りがあるかもしれない。曽植案、この𤰛の字は略字とする。〉我が兵と戦い再びこれを奪った。〈通世案、秘史は「先に投降した蔑兒乞が老営内で背いて、在営内にいた家人は戦いに勝たれた。
成吉思は「彼らを一所におけば、彼らはまた叛く」と言った。各人をいくつかに分けさせた」と言う。本書と西史に拠れば、先に分けて後で叛かれ、秘史に拠れば先に叛かれ後に分けるのである。いずれが正しいのかわからない。〉上は兵を進め蔑兒乞を泰安寨で囲み、〈寨は原書では塞。秋濤案、元史 本紀は、泰寒寨とする。通世案、秘史蒙文は台合勒 豁兒合とし、訳文は台合勒山寨とし、西史は台合勒 忽兒罕とする。塞を寨とする。〉麥古丹・脫里孛斤・蔑兒乞諸部をことごとく降して帰った。
〈通世案、伯哷津は「麥端・脫塔哈林・哈俺諸衆をことごとく取り、みな蔑兒乞部人」とする。洪氏は「麥端は麥古丹であり、脫塔哈林は脫里孛斤の転訛である。哈俺は考えがない。多遜は支恒とする。元史牙忽都︀伝を調べると、察渾 滅里乞氏を娶っている。察渾と支恒は音が近く、あるいはこの一族」と言う。〉部長脫脫はそれを抱えて〈下が一字欠けている。通世案、西史は子の字があり、補い当てる。〉盃祿 可汗に奔り〈盃は原書では盈、秋濤が校改する。案、元史 本紀「ゆえに再び蔑兒乞部を征伐した。その長脫脫は太陽 罕の兄卜魯欲 罕に奔った」。卜魯欲 罕は、盃祿 可汗である。〉帶兒兀孫はやがて叛き、残っていた家来を率いて薛良葛河に至り
〈秘史に薛涼格河があり、つまりこれである。秋濤案、今の色楞格河とする。〉洽剌溫の狭間〈通世案、伯哷津は色楞格とし洪氏は河浜呼魯哈卜察を「つまり録の洽剌溫である。哈卜察は、義は狭間と言う。呼魯と洽剌は音が異なり、おそらく治は哈の誤りであろう」と言う。この哈剌溫の狭間を考えると、土兀剌河のほとりの黒林とは異なる。〉に家を築いて住んだ。〈通世案、西史に拠って、室は寨とする。〉上は孛羅歡 那顏および赤老溫 拔都︀の弟闖拜の二人を遣わし、〈都は原書では相、秋濤が校改する。案、闖拜は、秘史は沈白とし、また沈伯とする。通世案、孛羅歡 那顏は、前文の博羅渾 那顏である。西史は孛兒忽勒 諾顏とする。秘史は載せていない〉右軍を率いて、これを討ち平らげた。
〈通世案、秘史に拠ると、沈白が右手軍を率いて攻め破ったのは、台合勒寨で、哈剌溫の狭間にたてこもった帶兒兀孫の事ではない。本書とやや異なる。また「成吉思自ら行って脫黑脫阿を追い襲い、金山に到り、住んで冬を過ごした。年が明けた春、阿來嶺を越えて去った」と言う。この事、本書は載せていない。又「ちょうどそこで乃蠻 古出魯克と脫黑脫阿が合流し、額兒的失 不黑都︀兒麻河の源で、軍馬を整えた」と言う。これは本書の丙寅年(1206年)の事である。また「成吉思はその地に至り、彼らと殺し合った。脫黑脫阿は矢が集中して死んだ〈[#「乱箭」は流れ矢ではなく弓矢による集中攻撃の意]〉」と言う。これは本書の戊辰年(1208年)の事である。秘史の文は、終わりの言葉は後文の事のようである。〉
乙丑(1205年)、〈秋濤案、宋 開禧 元年、金 泰和 五年。通世案、秘史、牛児年、太祖はひとつの鉄車を造り速別額台に与え、脫黑脫阿の子忽都︀らをどこまでも追いつめるよう命じ、必ずこれを滅ぼし、かつ誡勅行軍之道〈[#訳せない。「行軍の手引きを命じていましめた」か]〉。東西諸史を調べると、この事は太祖 十二年 丁丑(1217年)にあった。おそらくモンゴルは十二支を用い、十干を用いず、ゆえに紀年が誤りやすく、ついに丁丑(1217年)を乙丑(1205年)としたのである。次に札木合が捕らえられ、従容として死に就いた事を述べ、太祖と札木合の問答を詳しく載せる。おそらく二人は幼いころ親友となり、長じて仇敵となった。干戈の間に相まみえること数度といえども、互いを安答と称し、生涯変わらなかった。張耳と陳余のようではなく、仲が悪くなるや、赤の他人へと変わった。札木合自らその罪を知り、重く恥じて運命に安んじ、ほめるに足る者でもあった。太祖が札木合に叛いた下僕を誅し、および前文で納牙阿をほめたように、刑賞ふたつは適っており、誠が君道に適い、漢の高祖が季布を赦し、丁公を誅したことに比べるに値する。太祖の所に至り札木合を遇するに、心が広く大らかで、義に由り礼に従い、最もますます漢の高祖が田横を待つ。これらの美談は、史録は載せず、惜しむべきである。
〉西夏を征伐し、力吉里寨・經落思城を攻め破り、〈通世案、伯哷津は乞鄰古撒城とし、音は近くない。であれば經は乞鄰の合音である。古い読みで虚字とするのは、おそらく誤りである。西史に拠れば、二城ともに攻めこれを下し、経と言うべきではない。〉大いに人民を掠め、多くの駱駝を捕らえて帰った。〈曽植案、力吉里寨は、也吉里寨とする。これは曷思 麥里伝の也吉里海︀牙で、元史 河源附録の應吉里州である。力は也の壊れ字である。この時は勝って守っておらず、丙戌(1226年)に再びこれを取り上げる。〈底本-371〉〉
丙寅(1206年)、〈秋濤案、この年は元朝の太祖を帝と称した元年とされる。今や年ごとの干支の下にこれを増注し、検証に都合が良い。時に宋 寧宗 開禧 二年。元史 本紀は「この年、実に金 泰和の六年である」と言う。〉諸王百官が斡難︀河の源で大会を開き、九つの吹流しの白旗を立て、〈通世案、秘史は九脚の白い毛の飾りがついた纛とする。思うに纛の竿は九脚、各々ひとつの毛の飾りが繋がれ、九つの吹流しではなく、白旗でもない。蒙古源流に九つの烏爾魯克の名称があり、親軍九隊の隊長を言う。西人は源流蒙文に拠り、九師の名を挙げ、博郭爾濟、博羅郭勒、托爾干 沙剌、摩和賚、者︀別、蘇伯格特依、濟勒墨︀、錫吉 呼圖克、哈剌乞拉果と言う。霍渥兒特はふまえて「ひとつの大きな纛を立て、九つの白施を重ねてこれに繋き、もって九つの烏爾魯克を表した」と言う。九つの烏爾魯克の名称を調べると、他の書には見えるところがない。白旄に必ず九つを用いる、その理由があるが、彼は意味を解き明かすことを軽んじている。ゆえにとりあえず附記し、参考に備える。〉ともに上の尊号を成吉思皇帝と名付けた。
〈通世案、秘史は、阿勒壇・忽察兒・撒察 別乞などが相談して、太祖を皇帝に立てて、成吉思と号したことは、十三翼戦の前にある。ここに至ってまた「成吉思は将兵や部民をことごとく捕らえた。寅年に、斡難︀河の源頭で、九脚の白旄纛を立て、皇帝となった」と言う。言わんとするところはおそらくその再即位であろう。このように創業開国の君が、再び即位の式典を挙げるのは、古今にしばしばその例が見える。晋末の群雄は、多くが初めに天王を称してのちに皇帝を称した。後魏の道武帝は初めに魏王を称し、登国という年号を定めて、あとから皇帝を称した。遼の太祖は初め契丹 可汗の位を継ぎ、後に天皇王と称し、神冊という年号を定めた。淸の太祖は滿洲國 可汗を称し、天命という年号を定めた。太宗はこれを継ぎ、天聡と改元し、あとから大淸皇帝を称し、崇徳と改元した。これはみな初めに小国の主となり、のちに大国の主となった。銭竹亭は「元史の紀はただ「丙寅歳(1206年)、羣臣が尊号をたてまつり、成吉思皇帝と名付けた」と言い、成吉思の号が知られないことが、おそらくすでに久しかったのであろう。さきに合罕を称した者は、一部の主である。のちに皇帝を称し、はじめて群部の主となった。どうして罕の一節を略して書かないことがあろうか」と言う。この説は合っている。又案、蒙古源流は「戊戌年(1178年)、特穆津は十七歳、布爾德 哈屯はやっと十三歳で、遂にこれ夫婦となった。特穆津は二十八才になり、干支が己酉(1189年)の年に、克魯倫河の北のはずれで汗の位についた、索多 博克達 靑吉斯 汗と称した」と言う。これに拠れば、太祖は金 世宗 大定 十八年に第一夫人を娶り、大定 二十九年に汗の位についた。この時に太祖は客魯連河源の不兒吉崖にいて、ゆえに克魯倫河の北のはずれで即位したとする。言うところの斡難︀河源の大会ではない。蒙古源流の叙事は、言うまでもなくでたらめが多く、紀年もおおむね根拠が不足している。だがこの二つ事は食い違う所がなく、秘史の欠落を補うに足る。洪氏はしかし「蒙古源流はまことにたわ言であり、秘史も妄談に属する」と言い、的確な評論ではない。
その後「干支が戊辰(1208年)の年、四十七歳で、九つの烏爾魯克をもって命令を下すに、ともに国を作り力を尽くし、功労が著しい者を、美号と爵位と重賞と厚禄を集めて序列し、褒美を与えた」、とあるのは秘史の九十五功臣の受賞の事で、その年は二年の差がある。己酉(1189年)から二十年間に至る事蹟は、みな秘史や史録と合わないことが多い。又案、志費尼の書は「かつて故事を司るモンゴル人に出会い、私に「むかし闊闊出がいて、その人は予知能力があったようである。冬季の極寒の時、裸体になって歩き、道で大声で、「天の言葉を聞くに、まさにいやしくも帖木真に天下を率いさせんとす」と叫んだ」と告げた」と言う。喇施特は「蒙力克 額赤格の子闊闊出は、吉凶の言葉を好み、顔立ちは狂っているようであった。人々はこれを称して帖卜騰格理と言った。人々に言いふらして、「今すでに古兒 汗にあまた勝った。古兒 汗の名はいやしくも称するに足りない。大いなる天は成吉思 汗の号を与える」と言った。人々はこれに従った。
成は堅く強いの義とし、吉思は数が多いとする。世にはあるいは誤って「王汗を平らげた後、ただちに成吉思 汗を称した」と伝わった。そしてモンゴル国史は、まさに乃蠻を平らげた後の虎年が即位の時であると載せている」と言う。蒙古源流は「むかし三日間毎朝、家の前方の石の上に、五色の鳥がいて、靑吉斯靑吉斯と言って鳴いた。遂にそのめでたいことが叶い、呼び名を索多 博克達 靑吉斯 汗と称した。その石はたちまち裂け開き、内にひとつの玉宝印があり、四角で縦横ともに五寸ほどの長さだった。背には亀のつまみと竜のすじが施され、篆書体の字が彫られ云云」。成吉思の号を考えると、ただ古兒 汗を称したようなことに過ぎずもはや、深い義はない。太祖がやっとモンゴルの合罕の位を継いで、自らその号を用いた。
丙寅(1206年)の大会に至り、要職に名前がなく、だから論功行賞と法度の制定があったのである。秘史は「太祖は命じて孛斡兒出・木合黎・納牙を右手左手の中軍で万戸とし、功臣九十五人は、みな千戸とし、宿衛 護衛 将士を増設し、食糧や飼料を選り分ける法を定め、その職務担当者を明らかにし、その賞罰を厳しく言った」とする。それが羣臣を褒め慰め戒めることは、もっともこのうえなく適合し実直である。これはモンゴルの歴史の中にあって、比べるべき手本はなく、元朝の基礎となる事業は、これにおいて初めて定まったのである。のちにこの年が太祖の紀元とされたのは、おそらくこれが理由である。今や元史と親征録はこの建国の大事を載せ忘れ、ただ尊号の一節を記す。手抜かりなこと甚だしい。〉再び兵を起こし乃蠻を征伐した。盃祿 可汗は兀魯塔山莎合川のほとりまで飛ばして狩りをしていたのを、これを捕らえた。
〈張石州は「元史 紀は「帝はすでに即位し、再び乃蠻を征伐した。時に卜魯欲 罕は兀魯塔山で狩りをしていたのを、これを捕らえた」とする。おそらく卜魯欲 罕は、盃祿 可汗であり、「川のほとりでこれを捕らえた」の一語も、この書で加わった偽りであろう」と言う。通世案、伯哷津は「卜欲魯克は兀魯黑塔克山の下の莎酌河のほとりで鳥を飛ばして狩りしていた。兵が至りこれを殺した」とする。洪氏は「飛猟の二字は、これで始めて解けた」と言う。秘史巻六は、兀魯黑塔黑の地の溑豁黑水があり、前文の盃祿 可汗征伐のくだりの注を見ると、ほかでもなくこの兀魯塔山莎合川である。霍渥兒特は「兀魯黑塔克は、大きな山と言うようなもので、阿爾泰山を言う」。又案、秘史は不亦魯黑を破りこれを捕らえた事を載せていない。乞溼泐巴失戦の後、不亦魯黑の名は再び見えない。志費尼は古出魯克・托克塔が西に走った事を述べ、また卜欲魯克 汗に奔ったと言わない。〉この時太陽 可汗の子屈出律 可汗は、〈秋濤案、後文はみな曲出律とし、元史 本紀は屈出律 罕とする。〉脫脫とともに遁走し、也兒的石河に奔った。
〈秋濤案、秘史は額兒的失河とする。通世案、秘史は「成吉思自ら行って脫黑脫阿を追い襲い、金山に到り、留まって冬を過ごし、明くる年の春、阿來嶺を越えて去った。ちょうどそこで乃蠻の古出魯克と脫黑脫阿が合流し、額兒的失 不黑都︀兒麻河の源で、軍馬を整えた」と言う。明くる年は前年の乙丑歳(1205年)を言う。洪氏は「也兒的石河は、額爾齊斯河である。額爾齊斯の上流を調べると、華額爾齊斯、喀剌額爾齊斯がある。華は黄を言い、喀剌は黒を言う。黄と黒の二つの川が合流し、額爾齊斯河となる。光緒 九年(1883年)、中俄科布多界約〈[#「中俄科布多界約」は中ロ間で結ばれた国境協定]〉には、黒伊爾特什河、つまり喀剌額爾齊斯河がある。伊爾特什と也兒的石は音が合う。これに拠って見ると、額爾齊斯河も、必ずや也兒的石と称する。今の西方の国の地図は、伊爾帖石とする」と言う。〉〈底本-372〉
丁卯(1207年)〈二年、宋 開禧 三年、金 泰和 七年。〉夏、留まった。〈この下に脱字があり、秋濤が校正して「兵避暑」の三字を補う。通世案、何氏はおそらく壬戌(1202年)夏の例に拠っているのであろう。〉秋、再び西夏を征伐した。冬、克斡羅孩城。〈斡は原書では幹。通世が元史に拠って改める。西史は「兔年秋、合申が貢物を治めず、奉らず言い交わしたので、再びこれを征伐し、おのおのの城を攻め下した」と言う。合申は河西の転訛で、西夏を言う。〉先に〈通世案、元史はこの年とし、西史はこの役の先。〉案彈 不兀剌の二人を遣わし〈曽植案、不兀剌、秘史は不合とし、九十五功臣中の不合駙馬である。通世案、伯哷津は阿勒壇 布喇の二人とする。布喇は使いを受け賜り、不合と道案内が異なった。不合は、本書は不花とし、戊寅(1218年)朮赤太子北征のくだりで見える。
〉乞力吉思部に使いをした。その長斡羅思 亦難︀及び阿忒里剌二人は、我が使いが来たのをともにし、白い海靑と名鷹を献じた。〈秋濤案、元史 本紀は「この年、案彈 不兀剌の二人を使いとして乞力吉思に遣わした。やがて野牒亦納里部、阿里替也兒部は、みな使いを遣わして名鷹を献じて来た」と言う。この鷹を献じた者は、他部の人で、乞力吉思部長ではない。二説は互いに異なり、どちらが正しいかまだ詳しくわからない。曽植案、元史 本紀の野牒亦納里は秘史での禿綿 乞兒吉速惕の官人也迪 亦納勒である。これの亦難︀は、おそらくその人であろう。阿忒里剌は、おそらく阿里忒剌とし、つまり阿里替也兒であり、みな人名で、部名ではない。又案、秘史蒙文は、禿綿 乞兒吉速 那顏で帰順した者は全部で四人、也迪と言い、亦納勒と言い、阿勒迪額兒と言い、斡列別克 的斤と言う。也迪は、元史 本紀の野牒であり、亦納勒は、元史 本紀の亦納里であり、これの亦難︀である。
阿勒迪額兒は、元史 本紀の阿里替也兒は、この阿里忒剌である。忒里の二字が乙〈[#「乙」は中国で文字の転倒を意味する記号表現]〉に当たるのは疑いない。通世案、秘史「兔児年、成吉思は拙赤に命じて、右手軍を率いて、槐因 亦而堅を征伐しに行き、不合に道案内を命じた。斡亦剌種の忽都︀合 別乞は土綿 斡亦剌といっしょになって、さきに来て帰順し、付き従って拙赤を導き土綿 斡亦剌に進んで行き、失黑失惕の地に入り至った。斡亦剌・不里牙特・巴兒渾・兀兒速特・哈卜哈納思・康哈思諸種は、すべて投降した。土綿 乞兒吉速勒種のところに至った。その那顏 也迪 亦納勒・阿勒迪額兒・斡列別克 的斤など、もまた帰順し、白い海靑と白い騸馬と黒い貂鼠をささげて、拙赤にお目どおりしに来た。
失必兒・客思的音・巴亦特 禿哈思・田列克・脫額列思・塔思 巴只吉など槐因 亦而堅は、拙赤がすべて収め捕らえた。そのまま乞兒吉思の万戸千戸、ならびに槐因 亦而堅の那顏を率いつつ、海靑や騸馬や貂鼠などの物をささげつつ、戻って来て成吉思にお目どおりした。成吉思は斡亦剌種の忽禿哈 別乞を先に帰順させ、扯扯亦堅という名の娘を奨めて、彼の子亦納勒赤に与え、拙赤の娘豁兒哈を奨めて亦納勒赤の兄に与えた」と言う。槐因 亦而堅は、訳では林の民とする。
モンゴル語では、槐因は林を言い、亦而堅は亦而干や亦而根にもし、みな民衆を言う。土綿は、万であり、その衆が盛んであることを言う。乞兒吉速勒は、乞兒吉思、または本書の乞力吉思である。多遜は「この部ははなはだ広い地に住み、安噶剌河の西、阿爾泰山の北を東に偏って居た。乃蠻はその東南に居て、肯河・肯肯助克、その境内にあった。生活様式は遊牧とはいえ、城郭もあった」と言う。也迪 亦納勒、阿勒迪額兒、みな人名である。元史 本紀は誤って部名とする。多遜は喇施特を引いて「乞兒吉思人は、その酋長を称して伊納勒と呼ぶ」と言う。
つまり秘史の亦納勒で、本書の亦難︀である。また「乞兒吉思は数部に分かれている。一部の名は哲寧 俺 別提。その酋長の名は、原書の字跡が、ぼんやりして判別できない。一部の名は別提 烏倫、あるいは別提 阿福︀隆︀とする。その酋長の名は烏洛斯 伊納勒」と言う。別提 烏倫は、伯哷津は也迪 鄂倫とする。烏洛斯 伊納勒は、本書の斡羅思 亦難︀である。そうであるならば秘史のいわゆる也迪 亦納勒は、也迪部の酋長であり、そして烏洛斯はその名である。西史で人名が判別できなかった者は、おそらく秘史の阿勒迪額兒であろう。伯哷津は「二部の酋は盛大な儀式で歓待し、阿里克 帖木兒・阿特黑剌黑の二人の家臣を遣わしともに来て狩りに使う白色の鳥を献じた」と言う。阿里克 帖木兒は、額兒忒曼は阿里伯克 帖木兒とし、つまり秘史の斡列別克 的斤である。
一人の使いの名である阿特黑剌黑に拠れば、本書の阿忒里剌は、里を黒とする。秘史に委吾種の使臣阿惕乞剌黑がある。これは委吾の使いを乞兒吉思の使いとし誤っている。この役は、朮赤の北征であり、先に斡亦剌諸部を降し、そのまま乞兒吉思および林の民諸族を治めた。太祖の脫黑脫阿西征の役とは、まったく関わりがない。本書はしかし忽都︀合の帰順のことを、戊辰(1208年)の脫脫再征のくだりを後文に書き、誤りである。洪氏は「元史 本紀は、斡亦剌の降伏が三年(1208年)にあり、そして乞力吉思の帰順が二年(1207年)にある。これを西の地図で考えると、秘史に従い当てるのは、先に斡亦剌を治めた、東から西への、軍の進路にまさに合う」と言う。〉
戊辰(1208年)〈三年、宋 嘉定 元年、金 泰和 八年。〉春に西夏から凱旋した。夏に〈原書は夏の字が欠落しており、秋濤が元史 本紀に拠って補う。〉竜庭で避暑した。〈鳳鑣案、耶律鑄の双渓酔隠集の凱楽歌詞には、後ろに竜庭の詩があり、注は「後漢書の燕然の銘に「高い門を越え、鶏や鹿を下げ、石の多い河原や荒地を経て、大きな砂漠を渡り、流れしたたる水を越え、ようやく馬に跨り安んじ、乗りながら酒盛りをして、竜庭に至った」とある。前後の諸伝の出来事をもってこれを考え、また塞を出て三千余里をもってこれを考えると、竜庭は和林の西北の地である」と言う。文田案、元史 太祖本紀、三年夏、竜庭で避暑。この時王罕乃蠻ともに滅び、ゆえに和林の西北に至ったとしてよいであろう。とすれば避暑はおそらく太陽 罕の故宮で行われたであろう。通世案、西史は「竜年に合申から凱旋し、本拠に帰って避暑した」と言う。洪氏は「竜庭に合う地名はないと見てよく、訳者の文飾の詞とみなせる」と言う。〉
その冬、再び脫脫および曲出律 可汗を征伐した。時に斡亦剌部長忽都︀花 別吉などが、〈斡は原書では幹。秋濤案、幹を斡とする。通世が元史に拠って改める。〉我が先鋒に遇い、戦わずに降った。〈曽植案、秘史は禿綿 乞兒吉思、忽都︀合 別乞の兵への征伐の道案内は、この先に降った乞力吉思は、後に降った忽都︀花の、おそらく誤りであろう。通世案、忽都︀花は北征の師で降った。この西征の役と、もとは関わりがなく、前文の注に見える。〉卿らを案内に用いたついでに、也兒的石河に至り、蔑里乞部をことごとく討った。脫脫は流れ矢に当たり死んだ。曲出律 可汗は、わずか数人とともに〈底本-373〉脱走し、契丹の主菊而 可汗に奔った。
〈秋濤案、ここで言う契丹は、西遼である。西契丹とも称する。曽植案、遼史 天祚本紀では、大石が即位し、葛兒 汗を称した。葛兒は、菊而であり、また古兒 局兒ともする。その子孫はおそらく代々これを称したのであろう。元史布魯海︀牙伝は、また居里 可汗と称する。通世案、秘史は「成吉思は額兒的失 不黑都︀兒麻の地に至り、脫黑脫阿と殺し合った。脫黑脫阿は乱れ矢に当たり死んだ。その遺体を救い去ることができず、その子はただ彼の頭を切って救い去った。人馬は敗走し、額兒的失水を渡り、溺死者は過半におよんだ。残りも皆ちりぢりに逃げた。これにより乃蠻の古出魯克は委兀・合兒魯種を過ぎ去って、回回の地に至り垂河に行き、合剌乞塔種の人古兒 罕と合流した」と言う。垂河は、古碎葉河であり、西遼の都城虎思斡耳朶のあるところである。
俄羅斯の地図は珠河と言い、淸の地図は吹河と言う。多遜訳の志費尼の書は「1208年、乃蠻の大陽 汗の子古出魯克は、蔑兒乞特の汗托克塔合と合流し、伊兒的失河のほとりに強い兵を集めた。成吉思軍は哲姆河のほとりで打ち破り、托克塔を捕らえた。古出魯克は遁れ去り、別失八里克に奔り、庫札に奔り、1208年、遂に喀剌乞䚟古兒 汗の国境にまで達した」と言う。西暦1208年は、この戊辰年である。古出魯克と托克塔が合流したのは、秘史に乙丑年(1205年)とあり、本書に丙寅年(1206年)とある。志費尼は1208年とし、かかる数字の誤りが疑われる。
哲姆河は、後文の嶄河である。志費尼は也兒的失の役と嶄河の戦をもって、誤ってひとつに混ぜた。ただ古出魯克が西遼に達した年は、本書と合っている。秘史はこれを乙丑年(1205年)に繋げ、おそらくこれを言うのを終えたのであろう。別失八里克は、畏吾兒の都城で、今の新疆迪化府に属する濟木薩である。庫札は、多遜は「つまり今の庫車」と言う。だが伯哷津は庫爾車とする。洪氏は「これはおそらく今の庫車ではなく、伊犁に属する城で、華文では固爾札と言う」。秘史は「委兀の合兒魯種を過ぎ」と言う。委兀は畏吾兒、固爾札は、おそらく合兒魯部の国境で、洪氏の説に従うべきであろう。又案、長春真人の西遊記で、鎭海︀は白骨甸について述べ「古戦場である。すべての兵が疲れてここに至り、十のうち一も帰ってこない。死地である。近頃は乃滿の大軍勢も、ここで敗れた」と言った。西遊記の行程を考えると、白骨甸は不爾干河の前にある。おそらく古出魯克らが伊兒的失河のほとりで破れ、南に畏兀兒へ奔ろうとして、白骨甸に至り、モンゴルに追われ掠めとられるところとなり、兵はさらに多く倒れた。〉
己巳(1209年)〈四年、宋 嘉定 二年、金 衛紹王 大安 元年。〉春、畏吾兒国主亦都︀護は〈秋濤案、亦都︀護は、その国主の称号であり、人名ではない。その人名は巴而朮阿而忒的斤となる。元史に伝がある。事績を載せるところは、この書の詳しさに及ばない。通世案、秘史は委吾種の主亦都︀兀惕とする。西史は伊第庫特とし、義は幸いの主となる。〉上の威名を聞き、遂に契丹の主が置いた監国少監を殺して〈秋濤案、これは西遼が置いた役人である。通世案、ある書物では沙監とする。伯哷津は「哈剌乞䚟は沙均という監国大臣によって遣わされた」とする。洪氏は「親征録の沙監」と言う。岳璘帖穆爾伝は「その兄仳理伽普華は十六才で宰相を継いだ。時に西契丹はまさに強く、威は畏兀を制し、太師僧少監に命じて其国に来臨させ、驕ってほしいままに力を用い、奢ってほしいままに私腹を肥やした。畏兀王はこれを憂い仳理伽普華に謀って「謀って安心して出るよう奨めよ」と言い対して「少監をうまく殺して、わが衆を整えて、大モンゴル国に身を寄せれば、彼は必ず恐れおののく」と言った。そのまま軍勢を率いて少監を囲みこれを斬った」と言う。
〉和議を求めることを望んだ。上はまず案力也奴奴・答拜の二人を使いとしてその国に遣わした。〈曽植案、案力也は秘史の阿惕乞剌黑、奴奴荅拜は、秘史蒙文の荅兒伯である。秘史は亦都︀護の使臣と称し、太祖の使いとは言っていない。通世案、伯哷津は阿勒潑魚土克、迭兒拜とする。後文に拠って安魯不也女・答兒班、力を不と当てたようで、答の下は児の字が抜けている。
〉亦都︀護は大いに喜び、我らを待ちはなはだ厚く礼をつくした。ただちにその官として別吉思・阿鄰 帖木兒二人を遣わし、〈曽植案、つまり哈剌亦哈赤北魯伝の阿憐 帖木兒都督である。通世案、伯哷津は博古思阿世阿忽赤・阿闌 帖木兒とする。洪氏は「上の一人の名は、親征録は不完全。別吉思は古の字の誤りのようである」と言う。知服斎叢書を調べると、吉を古とする。秘史は阿惕乞剌黑 荅兒伯。本書と西史、ともに上の一人を乞兒吉思の使いとし、下の一人を太祖の使いとする。多遜は喀塔勒迷施喀塔・鄂穆兒烏古勒・塔塔哩の三人とする。
〉入って奏し「臣の国は皇帝の威名を聞き、ゆえに契丹の古いよしみを棄て、まさに捧げて使いを遣わし来て真心を通わせ、自ら従い奉り、なんとかたじけなくも皇帝の使いが遠く、我が国に降臨した。雲が開き日を見て、氷が溶け水を得たかのようである。喜びはこれに勝らない。今をもって後をもって、部衆をみな率いて、下僕となり子となり、犬馬の労を尽くすのである」〈通世案、西史の語意はこれと同じ。秘史は「私は皇帝の声と名を聞くことができ、雲が晴れ日が見え、すべて氷が消え水が表れたかのようで、非常に喜ばしい。もし恩賜が得られるなら、願わくは第五子となり、気力を出すものである」と言う。布哷特淑乃德兒は「西史の文は、元朝秘史に拠って順を追って字を訳し出したかのようである。この類ははなはだ多いようである。秘史と喇施特集史の根本が同じであることの証としてよい」と言う。おそらく本書と西史どちらも脫必赤顏を根本とし、そして脫必赤顏は秘史原本を底本として多く用いているのである。
〉この時蔑里乞の脫脫は流れ矢に当たり死んだ。脫脫の子四人は、遺体すべてを収めることができないので、そのままその頭を取り、也兒的石河を渡り、〈「脫脫の子四人は」は原書では七人の子が欠落し、秋濤が元史に拠って補う。曽植案、元史巴而朮伝「脫脫の子火都︀・赤剌溫・焉札兒・禿薛干四人は、遺体すべてを収めることができないので、そのままその頭を取り、也兒的石河を渡り」。二十二史考異は「焉を馬とする」と言う。通世案、元史類編は、親征記を引いて、脫脫の四子の名があり、巴而朮伝と同じ。洪氏訳伯哷津の書は、忽都︀・赤剌溫・赤攸克・呼圖罕蔑兒根とし、「忽都︀は托克塔の弟を言い、つまりは西域史の仮説」と言う。だが布哷特淑乃德兒は、伯哷津の書を引いて、托克塔の六子を列ねて、忽都︀、赤剌溫、禿撒、呼勒圖罕蔑兒根、禿球思、赤攸克と言う。禿球思は、秘史の脫古思 別乞で、王汗に殺された者である。伯哷津は前文で、托克塔長子とする。禿撒は、額兒忒曼は禿薛とし、つまり禿薛干である。秘史巻九に、忽都︀合の名がある。洪氏は、「呼圖罕は忽都︀ではないようだ。二十二史考異に従うところなく、ただ疑いがあるとすべき」と言う。馬札兒と赤攸克は、音が大いに異なり、〈底本-374〉その人の同異はわからない。
〉まさに畏吾兒国に奔ろうとした。〈将は原書では特、秋濤が元史に拠って改める。〉脫脫はまず別干という者を遣わし〈通世案、伯哷津は哀不干とする。先遣使の上に、脫脫の名はない。使者を放ったのは、脫脫の四子であって、脫脫ではない。〉亦都︀護に使いした。亦都︀護はこれを殺した。四人が至り、畏吾兒と嶄河で大いに戦った。〈秋濤案、元史巴而朮阿而忒的斤伝は、襜河で、ひとつに蟾河ともする。又案、原書はこの下の殺の字が余分であり、今削る。
通世案、蟾河としているのは、速不台伝である。西史は哲姆河とする。今は昌吉河である。昌吉城は、元の時に彰八里と称し、また昌八里ともする。八里城である。城が昌河を臨んでいるので、名となった。巴而朮阿而忒的斤伝は「帝は大陽 罕を征伐し、その子脫脫を射てこれを殺した。脫脫の子四人は、遺体すべてを収めることができず、そのままその頭を取り、也兒的失河を渡り、まさに亦都︀護に奔ろうとし、まず使いを遣わして行かせた。
亦都︀護はこれを殺した。四人が至った。襜河でともに大いに戦った。亦都︀護はその宰相を来報させに遣わした」と言う。脫脫を大陽の子とするのは、思いがけなく曲出律と混ざり合ったのである。残りはみな本書と合い、おそらく根本は本書であろう。これに拠ると、脫脫は也兒的失河のほとりで死に、四子は嶄河で大いに戦い、そして四子と戦ったのは、畏吾兒人であって、モンゴル人ではない。伯哷津が訳すところも、また本書と同じ。
本書と西史を考えると、太祖 十二年 丁丑(1217年)に、再び嶄河の戦いがあり、この役と異なる。この役は、四子と畏吾兒が戦い、本書および巴而朮伝は、みなその勝敗を言わない。伯哷津は「哲姆河で戦い、その衆を退けた」と言い、それはこの四子の敗走である。丁丑(1217年)の役は、速不台が嶄河で戦い、蔑兒乞を根絶やしにした。速不台伝が載せるところは、これである。この嶄河とは異なる地のようである。後文で見える。〉亦都︀護はまずその官阿思蘭・乾乞・孛羅的斤・亦難︀海︀牙倉赤四人を遣わし、
〈通世案、伯哷津は阿兒思蘭 兀喀・察魯忽 兀喀・孛拉的斤・亦納兒乞牙松赤とする。〉蔑力乞の事を告げに来た。〈通世案、西史はこの間に、「やがて二使は成吉思の使いとともに至った」の句がある。洪氏は「親征録は先に四人が遣わされ告げ来たと言う。西域史は語意がこれと合うので、四使が行くのは先にあり、二使が行くのは後にあるようである」。〉上は「亦都︀護は真心から尽くして私と協力し、それにゆえに来て献じることがあったのである」と言った。〈通世案、この句はおそらく誤って抜けがあるであろう。西史はこの句はなく、後文で「再び二使を遣わし行って貢物を取り立てて献じた」とする。〉尋ねて安魯不也女・答兒班の二人を遣わし、〈通世案、安魯不也女は、前文の案力也奴奴であり、西史は阿勒潑魚土克。答兒班は、前文の答拜である。西史は迭兒拜。班はおそらく拝の誤りであろう。〉再びその国に使いした。亦都︀護は使いを遣わし珍宝と地方の産物をたてまつり貢物とした。
庚午(1210年)〈五年、宋 嘉定 三年、金 大安 二年。〉夏、上は竜庭で避暑した。〈張石州は翁本に拠って改め避を遣とする。秋濤案、もとのまま避とする。通世案、西史は「馬年の夏、畏兀兒に再び使いを遣わし、時に帝は軍中にあった」とする。本書とかすかに異なる。〉秋、再び西夏を征伐し、孛王廟に入った。その主失都︀兒忽が出て降り、〈都は原書では相。通世案、相を都とする。夏 襄宗 李安全は、国語の名は失都︀兒忽で、陳桱の通鑑続編で見える。〉娘を献じてよしみとした。
〈秋濤案、元史 本紀は「四年己巳(1209年)春、畏吾兒国が来て服従した。帝は河西に入った。夏主 李安全は、その世子を遣わし軍を率いて戦いに来た。これを破り、その副元帥の高令公を捕らえた。克兀剌海︀城では、その太傳である西壁氏を捕らえた。進んで克夷門に至って、再び西夏の軍を破り、その将である嵬名令公を捕らえた。中興府に迫り、河の水を引いてここに流し込んだ。堤が切れ、水がそれて堤が崩れた。そのまま周囲を壊して帰り、太傳の訛荅を遣わして中興に入れ、西夏の主を招いて諭した。西夏の主は娘を納めて和を請うた」と載せる。
およそこれらの諸事は、みな己巳年(1209年)に載せ、しかしこの書は庚午年(1210年)に載せている。どちらが正しいかまだ詳しくわからない。また元史 本紀は「五年 庚午(1210年)春、金は謀って征伐しに来て、烏沙堡を築いた。帝は遮別にその軍勢を襲って殺すよう命じ、遂に敵の地を東に攻め取った。初めて帝は金朝に金品を毎年貢ぐようになった。金の主は衛王である允済を使わして静州で貢物を受け取らせた。帝は允済が無礼であるのを見た。ちょうど金の主が亡くなり、允済が位を継ぎ、国に至る詔があり、「ありがたく命を受けるべきである」と言ったと伝わる。「新君は誰であるか」と問うた。金の使いは「衛王である」と言った。帝はにわかに南に向かって唾を吐き「私は中原の皇帝を考えて、天上人とみなした。これらの平凡な儒者はこれにしたのか。どうしてありがたく受けるものか」と言った。ただちに馬に乗って北に去った。金の使いは帰って言った。
允済はますます怒り、帝が再び入貢するのを待って赴いて来た場でこれを害そうと望んだ。帝はこれを知り、遂に金朝と切り、ますます備えのために兵を厳しくした」と載せている。以上を考えると、本紀は庚午年(1210年)に、太祖と金人の開戦の事を詳しく記している。しかし親征記と秘史みな載せず、とりわけ不可解である。耶律 楚材の湛然居士文集を調べると、進征西庚午元暦表にあり、略は「庚午年(1210年)に、天の啓示が帝の心にあり、南伐を決めた。辛未(1211年)の春、天の命を受けた兵は南に渡り、五年かいなやで、天下を治め定めた。これは天の授けであり、人に非ざる力の及ぶ所であり云云」と言う。これは太祖の伐金の意志であり、まさに庚午年(1210年)に始まった。親征記は載せず、手抜かりでもある。
通世案、本紀の兀剌海︀城は、西史は兀剌孩城とし、つまり丁卯年(1207年)のところの克斡羅孩城である。孛王廟は、おそらくその城の中にある。丁卯(1207年)では勝ったので守らず、ここに至って再びこれに入ったのである。又案、両朝綱目備要は「允済は軍勢を遣わし分かれて山に留まり守らせた後、鐵木眞を襲って殺すことを望みその後に兵を持って来て深く入れた。金の乣軍に会い、モンゴルまで行きその事を告げる者があった。モンゴルは人を遣わしてこれを伺い実情を知り、そのまま動くのを延ばし進まなかった」と言う。これが元史の「金は謀って征伐しに来て」の事である。金史 衛紹王 本紀は「大安 二年(1210年)九月丙午、首都は戒厳となり、良い日に巡撫を出した。百官は皇帝に謁見を請うたが、許さなかった。この年に人々をいましめて、辺りの話を伝えられないようにした」と言う。
続通鑑綱目は「金の納哈 買住は北の郊外を守り、モンゴルがまさに辺りを侵そうとしているのを知り、奔って金主に告げ云云。金主はそれが勝手に争いを起こしたとしてこれを捕らえた」と言う。また「モンゴルはたびたび金の西北の国境を侵掠し、その勢いは次第に盛んになった。金人はあわただしくなり、遂に人々が辺りのことを話し伝えることを禁じた」と言う。畢沅の続 資治 通鑑は「金は太平を受け継いで日が久しく、にわかにモンゴルが戦争をすると聞き、人々の心は恐れ心配し、流言が四回起きた。九月丙午、中都︀は戒厳を云云。やがてモンゴルがいまだかつてない大人数であると知り、戒めは解かれ始め、たちまち人々をいましめてあたりの事を話し伝えられないようにした」と言う。諸書を照らし合わせると、モンゴルの南伐は、まさに庚午年(1210年)に始まった。但し烏沙堡の役は、金史 獨吉 思忠・完顏 承裕伝は、みな辛未年(1211年)の事とし、本書と合う。元史は繰り返して庚午(1210年)辛未(1211年)両年に述べ、恐らく誤っている。〉
辛未(1211年)〈六年、宋 嘉定 四年、金 大安 三年。〉春、上は怯綠連河に居た。時に西域の哈剌魯部主阿昔蘭 可汗が帰順し、〈底本-375〉ついでに忽必來 那顏が上にまみえた。〈忽必來は原書では来の字が欠けている。秋濤案、きっと下に来の字が抜けている。秘史は「太祖は忽必來に合兒兀惕種を征伐するよう命じた。その主阿兒思闌はただちに投降し、来拝して太祖にまみえた。太祖は娘を与えた」と言う。つまりこの事である。合兒魯兀惕は、哈剌魯である。阿兒思闌は、元史 本紀は阿昔闌 罕とし、この阿昔蘭 可汗である。忽必來も、また太祖が任じた驍将である。曽植案、元史 公主表、脫烈公主は、阿兒思蘭の子也先不花駙馬に嫁いだ。通世案、哈剌魯は、唐書の葛邏祿であり、元史 地理志は柯耳魯とする。経世大典の地図は、その地が阿力麻里の西北にある。
多遜訳志費尼の書は「突︀兒克喀兒魯克の酋喀押立克の君阿兒思闌 汗と、阿勒麻里克の君鄂匝兒は、以前は喀剌乞䚟の古兒 汗に属していた。1211年、成吉思に帰順した。成吉思は一族の女性を阿兒思闌に嫁にやった」と言う。喀押立克は、元史 憲宗紀は海︀押立とする。大佐裕勒は「ゆかりの地は今の闊怕勒の地に近い」と言う。柯耳魯と哈押立は、ともに元史訳文証補が詳しい。沈氏は合剌魯とし、つまりは阿兒斯蘭 回鶻であり、その説は誤り。遼史 阿薩蘭 回鶻は、宋史 西州 回鶻であり、国号は高昌である。
後でさらに龜玆に移り、あるいは龜玆 回鶻と称した。後でさらに別失八里に移り、元人はこれを畏吾兒と言い、また委兀兒とした。回鶻の別部は、碎葉河濱を建国した者があり、回回敎人はこれを東突︀兒克と言った。宋初、国勢ははなはだ盛んであった。その王はしばしば阿兒斯闌 汗とも称した。後に西遼に追い払われ、河の間の地に移り、元太祖八年(1213年)、貨勒自彌に滅ぼされた。この二国はどちらも阿兒斯闌 汗がいた。しかしみなこれは回鶻であり、海︀押立の柯耳魯種と同じではなく、関連付けるべきではない。〉亦都︀護兒〈秋濤案、これは前文の亦都︀護である。太祖は第五子となるよう命じたので、ゆえに亦都︀護兒と称するようになり、石晋が児皇帝を称したようなものである。
〉も来朝し、奏して「陛下がもし臣に恩賜なされれば、遠くはことごとく聞き、近くはことごとく見るよう使いし、天子の服のほつれを繕い、金帯の星の飾りを拾い、まことに陛下四子の次席にあることを願い、その力を尽くすのである」と言った。上はその言葉を喜んで、息女を娶らせ、五番目の弟に序列した。〈秋濤案、この語はまだはっきりしない。考えるに秘史は「委吾種の主亦都︀兀惕は、使臣阿惕乞剌黑らを遣わし、成吉思のところに来て、「私は皇帝の声と名を聞くことができ、雲が晴れ日が見え、すべて氷が消え水が表れたかのようで、非常に喜ばしい。もし恩賜が得られるなら、願わくは第五子となり、気力を出すものである」と言った。成吉思は「あなたが来て、娘をあなたに与え、あなたを第五子にしよう」と言った。
これにより亦都︀兀惕は、金銀珠子緞疋などの品物を捧げて、来ておじぎをし成吉思にまみえた。かくて阿勒阿勒屯という名の娘をもって与えた」と言う。載せるところを詳しく比べるのは、考証に役立つことが親征録を補うからである。通世案、袞衣は、国君の服である。洪氏訳伯哷津の書は「帝がもし私をしもべの列に置いてくだされば、遠きにも近きにも私が陛下の襟や帯の間に身を寄せていることを知らせることができる」と言う。注は「語意がはなはだ訳し難い」と言う。おそらく伯哷津の訳文はあるいは誤解があるであろう。〉将脫忽察兒を遣わして二千騎を率いて〈原書は二十とする。秋濤は三千と校改する。通世案、何氏は後文の「脫忽察兒三千騎」の語に拠って、三千と改めた。しかし西史は二千人と言う。本書の十の字は、明らかに千の誤りである。二字を必ずしも改めない。〉西の辺りの異民族の見張りに出した〈秋濤案、これは後文で言うところの征西の先鋒脫忽察兒である。丁丑年(1217年)にある。通世案、西史は「この年の春、金を討伐する命令を下し、まず脫噶察兒に二千人を率いて後路を防ぐよう命じた」と言う。原注「いわゆる後路は、おそらく客剌亦・乃蠻ら降った人々が、大軍が出たのに乗じて変を謀るのを防ぐことであろう」。考えるに二部はみなモンゴルの西にあり、ゆえにこれを西の辺りの異民族と言った。〉
その秋、上は初めて人々に南征を誓い、〈秋濤案、元史 本紀「二月、帝自ら率いて南伐し、金の将である定薛を野狐嶺で破り、大水濼や豊利などの県を取った。金は再び烏沙堡を築いた。七月、遮別に命じて烏沙堡及び烏月営を攻めさせこれらを攻め落とした」。この太祖が人々に南征を誓ったのは、春であって秋ではない。親征記と異なる。湛然居士集も「辛未(1211年)の春、天兵は南に渡った」と言う。元史の紀をもって正しいとする。〉大水濼を治めて、また烏沙堡および昌桓撫の各州を攻め落とした〈通世案、水道提綱は、蘇尼特部が諸湖を載せ、最大のものは呼爾泊と言い、左翼の東南六十五里にある。沈子敦は「呼爾泊は、おそらく大水濼であろう」と言う。烏沙堡は、今の山西省大同府北塞外にある。
三州は、みな金の西京路に属する。昌州は撫州の西北にあり、今の蘇尼特右翼西南である。桓州は、今の庫爾圖巴爾哈孫であり、独石口の外 上駟院 牧廠北にある。撫州は、今の張家口の外にあり、鑲黄など四旗牧廠の西南二十里である。又案、続綱目は「モンゴルは雲中・九原を侵して乱し、休むことなく年が続いた。嘉定 四年(1211年)、遂に大水濼を破り進んだ。金主は恐れ始め、四月に買住を許し、西北路招討使粘合 合打を遣わして和を求めた。モンゴル主は許さなかった。
金主は平章政事獨吉 千家奴・参知政事完顏 胡沙に命じて、省事于撫州に行かせ、西京留守紇石烈 胡沙虎を枢密院事に行かせ、モンゴルへの防ぎとした。秋、千家奴・胡沙は烏沙堡に至り、防備はいまだ及ばず、モンゴル兵はたちまち至り、烏沙堡 及び 烏月営を攻め落とした。八月、モンゴル主は勝ちに乗じて白登城を破り、遂に西京を攻めること、およそ七日。胡沙虎はおじけづき、麾下を率いて城を棄て囲みを突いて遁れ去った。モンゴル主は精騎三千でこれを追った。金兵は大敗した。追って翠屏口に至った。遂に西京および桓・撫州を取った」と言う。
金史 衛紹王紀は、大安 三年 四月に太祖の来征を書き始め、事実でない。おそらく太祖の親征は春にあり、金主は和を求め辺りを備えるのは夏にあり、そして西京諸州の陥落は、秋にあったのである。本書は秋の始めに南征と言い、正しくない。また元史は「豊利などの県を取った」を七月の前に書き終え、しかし年が明けた壬申(1212年)春、再び「帝は昌桓撫の各州を破った」と言う。年月が誤り、記述が重複している。速不台伝は「歳壬申(1212年)、金の桓州を攻め、まずその城を登って攻め落とした」と言う。石抹 明安伝も「歳壬申(1212年)、太祖は軍を率いて、金の撫州を攻め破った」と言う。みな本紀の誤りに沿ったのである。
〉大太子朮赤、二太子察合台、三太子窩闊台は、〈原注「太宗である」。通世案、原注の三字、原書では正文に入れており、今校改する。又案、三子の名は、秘史は拙赤 察阿歹 斡歌歹とし、蒙古源流は珠齊 察干岱 諤格德依とする。〉雲内・東勝・武・宣寧・豊・靖等州を破った。金人は恐れて西京を棄てた。〈秋濤案、金の西京は、今の大同府である。通世案、諸州みな金の西京路に属する。雲内州は、今の山西省 朔平府 右玉県である。東勝州は、今は帰化城の西南百四十五里にある。武州は、今は山西省 寧武府 神池県の東北にある。金は宣州はない。宣寧は、県名で、金の大同府に属し、今の朔平府 左雲県である。元史は宣寧を改めて朔とする。金の西京路に属する朔州は今は朔平府に属する。〈底本-376〉
豊州は、今は帰化城土默特牧地である。金は靖州はなく、おそらく浄と当てるのであろう。金の西京路は浄州にあり、今の四子部落西北にあり、喀爾喀と境を接している。元史はしばしば浄を誤って静とし、また誤って靖とする。元史 太祖紀 四年に、「衛王允済は静州で貢物を受けた」という語がある。金史 馬慶祥伝「家を浄州天山に移した」。元史 月合乃伝は静州とし、馬祖常伝は靖州とする。〉また哲別を遣わし軍勢を率いて東京を取った。哲別はその中堅を率いて軍勢は城を落とし、〈通世案、前文に難の字が抜けているかもしれない。
〉ただちに五百里を引き退いた。金人は我が軍はすでに戻って来たと言い、再び防備しなかった。哲別は軍中を戒め、一騎が一馬を引き連れて、一昼夜駆けて急に攻めに帰り、〈急は原書では忽、秋濤が校改する。〉大いにこれを掠めて帰った。〈秋濤案、金の東京は、今の遼陽州である。この年の者︀別が中京を攻めた経路を考えるに、速やかに東京に至ることはできない。元史の紀は誤りを載せているかもしれない。本紀は辛未年(1211年)に「九月、居庸関の守将は遁れ去った。遮別は遂に関に入り中都︀に至った。」と載せる。だが壬申年(1212年)、「十二月甲申、遮別は東京を攻め、攻め落とせず、ただちに引き去り、夜に馳けて戻り、襲ってこれに勝った」と載せ、この書の年月と合わない。
秘史では「者︀別は居庸関に行って取った。成吉思は関に入り下馬して宿営し、軍馬を遣わして北平などの郡を攻め取った。者︀別にを攻め取らせて、勝てず帰り、六日かかる距離から翻って回り行き、人毎に馬一匹を引き従えて、昼夜兼行し、金人の不意をついて密かに当たらせて、まさに東昌を取ろうとした。者︀別は東昌を取り終え、帰って来て成吉思と合流した」と言う。この秘史とこの書の言う所は、根本はひとつの事につながっており、秘史は東昌を取ったとした。東昌を考える。金の時代は博州の地として存在し、中京と遠く隔たっている。辛未年(1211年)、元兵はなおまだ博州に至っていない。ただ癸酉年(1213年)、太祖は居庸関を越え、兵を三道に分け、博・済・浜・棣などの州を破り始めた。この者︀別が東昌を襲い取ったのは、癸酉年(1213年)にかかる事は疑いない。又案、秘史はおそらく明朝初年に訳したところに関わり、ゆえに称して燕京を北平と言い、博州を東昌と言う。これも銭竹汀と徐星伯の諸先生がまだ論じ及んでいない所である。
ついでにこれを付記しておく。通世案、何の説は正しい。哲別は東京を取り、また西史に見え、事情が合わない。ただ吾也而伝は「太祖五年、吾也而と折不 那演は金の東京を攻めて功があった」と言う。折不 那演は、哲別 諾顏である。哲別が東京を攻めたことがあったようである。だが太祖五年と言うのは、本書及び太祖紀とどちらも合わない。耶律 阿海︀伝は「太祖は即位し、左帥闍別に漠南を攻め取るよう勅し、阿海︀を先鋒とし、烏沙堡を破り、宣平を戦い、澮河を大いに勝ち、遂に居庸を出て、燕北に兵を輝かせ、宣徳と徳興の諸郡を攻め落とし、勝ちに乗じ次いで北口を攻め紫荆関を下した」と言う。この阿海︀は常に者︀別の先鋒とされ、そして者︀別は常に大軍を従えて転戦したのである。
者︀別が鵞鳥のように素早いとはいえ、どうして北京路を越えてすぐに東京を攻める暇があるであろうか。また耶律 留哥伝は「歳壬申(1212年)太祖は按陳 那衍に命じて、軍を行かせて遼東に至った。留哥が率いる部はこれに降り、共に金軍を破った。帝は按陳を召還し、可特哥を留哥に付き添わせその地に留まった。癸酉(1213年)春、人々は留哥を推して遼王とした云云」と載せる。これで遼東を経略した者は、按陳と可特哥で、者︀別は一緒でなかったか。また槊直腯魯華伝はそれが木華黎に従ったことを載せ、歳辛未(1211年)、遼東遼西の諸州を破り、遂に東京を収めた。辛未は、この年である。そして木華黎は遼東西を定めたのは、乙亥(1215年)丙子(1216年)の間にあった。
この紀年の誤りは、哲別を木華黎と誤ったのではない。石抹 也先伝もまた也先が木華黎に従い、奇計を用い、東京を取ったと載せる。ますます東京を定めたとわかる者は、木華黎であり哲別ではない。しかし秘史の北平は、蒙文は中都︀であり、訳文は北平とし、ゆえに明人が訳改したとするのがわかる。東昌に至っては、蒙文も東昌と言い、博州と言わない。
これは明人が訳改して東昌としたのではない。元史 地理志「唐の博州は、金は大名府に属し、元初は東平路に属し、至元 四年(1267年)、分かれて博州路となり、十三年(1276年)に東昌路と改めた」。この東昌の名は、世祖の時から始まった。元初の史臣が、どうしてこれを知り得ようか。考えるに、この歳に元軍は諸州を破り、本書と西史は、みな東勝があり、大同府西北境とする。哲別が奇功を立てたのは、この地に当たる。おそらく秘史の原書は、根本は東勝であり、そして明人が音訳し、誤って東昌とし、元初に東昌が無いことを知らなかったのである。修正秘史もまた、誤って東京とし、本書と西史はこれに沿い、東京が哲別の取った所でないことを知らなかったのである。〉
上とその将は撫州を出発し、金人は招討九斤監軍爲奴らをもって〈九斤は、元史は紇石烈 九斤とし、続綱目は完顏 九斤とする。爲奴は、続綱目は完顏 萬奴とし、伯哷津は斡奴とする。洪氏は「つまり爲奴」と言う。秋濤案、爲奴の二字に誤りが疑われる。文田案、爲奴を萬奴とする。つまり元史 太祖紀の蒲鮮 萬奴である。太祖紀で金の宣撫蒲鮮 萬奴は、塔思伝は金の咸平路の宣撫完顏 萬奴とする。考証は「蒲鮮を金の庶姓とみなし、完顏を金の国姓とみなす。一人が二つの姓の理由はなく、紀と伝に必ずひとつ誤りがある。あるいは当時は姓を賜わったことがわからなかった」と言う。
劉祁帰潜志の梁詢誼のくだりは「宣宗は南に渡り、一族の萬奴は叛いて上京を占拠した」と言う。東平王世家は「完顏 萬奴は、金の宮中の一族である」と言う。であればまた賜った姓ではないようである。しかし金史 宣宗紀、元史 王珣伝、及び高麗史は、みな蒲鮮とし、その理由はわからない。〉大軍を率いて、野狐嶺で防備し、〈通世案、直隷 宣化府 万全県の北三十里、張家口の外にある。秘史蒙文は忽捏堅 荅巴とする。忽捏堅は狐を言い、荅巴は嶺を言う。〉また参政胡沙をもって〈通世案、これは完顏 承裕で、金史に伝がある。〉軍を率いて後に続いた。契丹の大将は、〈通世案、伯哷津は金の将巴古失・桑臣二人とする。
〉九斤に謀って「彼が新たに撫州を破り、獲物を軍中に分賜して、野で馬を放し飼いにしたと聞いた。思いがけないことが起きた際は、速やかに駆けつけてこれを防ぐがよい」と言った。九斤は「これは詭道である。もし馬が歩んでともに進まないなら、すべて謀略である」と言った。上は金の馬が至ったと聞き、進んで獾児觜で防いだ。〈通世案、野狐嶺の北にある。西史は「帝は知らせを聞き、軍中はちょうど食事をしており、飯を棄てて出兵し、二軍によって獾児觜で防いだ」。
〉九斤は麾下の明安に命じて〈通世案、元史は石抹 明安とし、伝がある。〉「お前はかつて北方に使いし、もとより太祖皇帝と面識がある。〈秋濤案、九斤の言葉は、太祖と称したのはふさわしくなく、また生きている時は謚号で称するのは正しくない。これは元代史臣の言葉であり、ちょうど春秋左氏伝で石碏が「陳の桓公〈[#「桓公」は嬀鮑の謚号]〉は王から気に入られている」と言ったようなものである。通世案、西史は成吉思 汗とし、元史明安伝はモンゴル国王とする。
〉願わくは行って陣をよく見て、〈其は原書では共。通世が元史明安伝に拠って改める。〉挙兵の理由を問うて、〈底本-377〉金国がどうしてあなたを恨んでこの出兵をするだろうか。もしそうでないなら、これを辱める」と言った。明安は来て敎えたようにし、たちまち馬をむち打って来て降った。上は麾下にこれを縛るよう命じ、我が戦いが終わるの待ってこれに問うた。そのまま九斤と戦い、大いにこれを破った。その人馬が死者を踏みにじること、数え切れなかった。〈通世案、西史は「乞䚟・哈剌乞䚟・主兒只諸軍は大いに敗れ、野のすみずみまで屍が横たわった」と言う。いわゆる漢と契丹と女直の軍である。秘史は「者︀別は進んで絶え間なく続く金国の軍馬を殺し破った。成吉思の中軍は後に従い至り来て、進んで金国の契丹女眞などの奮い立つ軍馬をすべて破った」と言う。これまた詳しい。〉彼らに勝ったことで、再び胡沙軍を會合砦で破った。〈通世案、金史 衛紹王紀は「大安 三年 八月、千家奴・胡沙は撫州より軍を退き、宣平に駐留した。九月、會河砦で大敗した。」と言い完顏 承裕伝は「八月、大元の大兵は野狐嶺に至った。承裕は勢いを失い、防戦する勇気がなく、退いて宣平に至り云云。その夜承裕は兵を率いて南に行った。大元の兵はこれを追って撃った。明くる日、会河川に至った。承裕の兵は大いに潰えた。承裕はかろうじて抜け出して宣徳に走り入った」と言う。殿本は改めて川を堡とする。宣平は、金 西京路 宣徳州の属県で、ゆえに城は今の直隷 宣化府 懐安県の東北にある。会河堡は、今の宣化府 万全県の西にある。元史 本紀は「六年(1211年)八月、帝は金の軍隊に追いつき宣平の会河川で戦いこれを破った」と言い、おそらく承裕伝に拠っているのであろう。又案、獾児嘴の戦は、野狐嶺の戦である。元史は辛未(1211年)二月に「金の将である定薛を野狐嶺で破った」と書き、壬申(1212年)春再び獾児嘴の戦いを述べ、二つの戦いの根本がひとつの事かはわからない。さらに辛未(1211年)二月、北軍はいまだ撫州を破っていない。どうして野狐嶺の戦をできるであろうか。定薛の名は、かろうじて察罕伝に見え、これも大元帥ではないかもしれない。獾児嘴の戦は、本書に拠ったようである。そして年月は皆誤っている。〉金人の精鋭は、ことごとくここで死んだ。上は帰って明安に「私とお前に仲違いはなく、どうして人々が辱め合うことがあろうか」と言った。答えて「臣はまえまえから帰順する考えがあり、もし災いが起きたらと恐れ、ゆえに敎えに従った。天顔を仰ぎ見ない理由これあろうか」と言った。上はその言葉を善しとし、これを放つよう命じた。
壬申(1212年)〈七年、宋 嘉定 五年、金 衛紹王 崇慶 元年。通世案、西史は猴年を書き忘れ、ゆえに宣徳・徳興の役は、みな辛未年(1211年)の事とする。〉宣徳府を破り、徳興府に至り〈秋濤案、金の宣徳府は、今の直隷 宣化府である。徳興府は、今の直隷 保安州である。通世案、金の宣徳州は、まだ府を称していない。元が昇格させて宣寧府とし、後に宣徳府に改められた。秘史と元史どちらも府とし、ひとり西史は州とする。〉勢いを失い引き退いた。四太子也可 那顏・赤渠駙馬は兵を率いて、徳興境内の諸堡をことごとく治めて帰った。後に金人が再びこれを収めた。〈曽植案、元史 祭祀志は、太廟金主と、太祖主は、題して成吉思皇帝と言い、睿宗主は、題して太上皇也可 那顏と言う。この四太子也可 那顏は、かの太上皇也可 那顏の文と同じで、いわゆる拖雷である。又案、赤渠、元史 太祖本紀は赤駒とし、元史 公主表は赤窟とする。通世案、秘史は出古とする。
伯哷津の書は「徳興府を攻めた。その地は園亭果木にあり、醸酒がはなはだ多い。金の守備は精兵を用いた。降せず退いた。圖里 汗・赤古古兒干に命じて兵を率いて再び行かせて、城に登りその敵のやぐらを壊し、これを破って帰った。帰った後でこの城は再び叛いて金に属した」と言う。圖里 汗は、つまり四太子也可 那顏である。洪氏は「也可は大である。義は大那顏となる。拖雷はこの称を持ち、西域史の後文で見える。西域史はこれを汗とみなし称する。おそらく西域王は、みな拖雷の後、ただ王の追号の意であろう。また西域史は拖雷と言わず、圖里と言い、称号の意味を鏡としたと言う。元史語解を調べると「圖里は鏡である」とある。元史がこれを拖雷としたのは誤りとみなせるようだ」と言う。また「古兒干は、駙馬である」と言う。続綱目は「壬申(1212年)春、モンゴルは金の宣徳府を落とし、そのまま徳興府を攻め、険しい壁を登った。金人はこれを防いだ。モンゴル兵は戦いに負けた。モンゴル主の第四子拖雷と赤駒駙馬は、引き返して楯を抱えて先に登りこれを射た。金兵は引き退いた。モンゴルはそのまま徳興境内の諸城堡をことごとく攻め落とし去った。金人は戻ってきてこれを守った」と言う。本書と合う。元史 本紀は、辛未年(1211年)において、「九月、徳興府を攻め落とした」とすでに書き、癸酉年(1213年)に至り、「秋七月、宣徳府を落とし、そのまま徳興府を攻めた。皇子拖雷と駙馬赤駒が先に登ってこれを攻め落とした」と再び書く。どちらも誤り。辛未(1211年)之文は、おそらく金国志に拠って誤ったのであろう。だが金史の衛紹王紀と、紇石烈執中伝に拠ると、「大安 三年(1211年)十一月、執中は自ら歩兵と騎兵二万を請うて宣徳州に留まって守り、助けて三千人を与え嬀川に留まり守った」。つまり辛未年(1211年)、宣徳と徳興は未だかつて落ちていなかった。癸酉(1213年)の文は、本書を根本としているようで、壬申(1212年)の役をもって癸酉(1213年)秋の事とし、「金人は再びこれを収めた」と「上は再びこれを破った」の二事を省き、また誤りである。〉
癸酉(1213年)、〈八年、宋 嘉定 六年、金 衛紹王 至甯 元年、九月以後、宣宗 貞祐 元年。通世案西史は次の年とする。洪氏は「この次の年は癸酉(1213年)にあたる。前文で猴年を抜き捨てて、そのまま壬申(1212年)にした」と言う。〉秋、上は再びこれを破り、そのまま軍を進めて懐来に至り〈通世案、懐来は、遼の古い県で、金は嬀川と改め、西京路 徳興府に属する。今の直隷 宣化府 懐来県である。〉金の将軍 高琪〈金の字は原書で欠けており、秋濤が構成して補う、通世案、元史 本紀は、金の行省完顏 綱・元帥 高琪とする。金史 完顏 綱、徒單 鎰、朮虎 高琪の伝、いずれも「至寧 元年(1213年)、綱は縉山に戦いを視察しに行って、大敗した」と言う。しかし西史も綱の名を載せておらず、であれば脫必赤顏原本は、根本はこれが抜けている。おそらく原書では帥の上に金元の二字があったのであろう。又案、朮虎 高琪は、金史に伝がある。この時は鎮州防禦使、権元帥右都監とされた。モンゴル人がこの元帥であるというのは、伝聞の誤りである。
〉将兵ともに戦った。我が軍が勝ち、追って古北口に至り、〈通世案、順天府 密雲県 東北 百二十里にある。そして後文に怯台 薄察などが軍を整えて防ぎ守ったことが見え、哲別は居庸の南口を破り、進んで北口に至り、二将と合流し、つまりこれは古北口ではなく、居庸の北口である。札八兒伝は「金人は居庸の塞と、冶鉄鋼関門を頼みとし、鉄びしを百余里に布いて、精鋭をもって守った」と言い、またこれは後文の「金人は山を掘り壁を築き、力を尽くして備えとした」の事である。元史 本紀、旧本は古の字がない。殿本ではじめて古の字があり、後世の人の無駄な増やしである。〈底本-378〉耶律 阿海︀伝も「勝ちに乗じて北口に宿営した」と言い、古の字はない。
畢秋帆の続資治通鑑は、元史の旧本に従い、札八兒伝に拠って、居庸の備えと述べ、また北口を居庸の北口とする。西史は哈卜察勒とし、義は狭い口で、口の名を載せない。そしてふところから来て追って狭い口に至り、居庸と見なすことがわかる。そうであるならばこの北の字が誤って余分に足されたことは疑いない。〉大いにこれを破った。死者は数え切れない。時に金人は山を掘って帥を築き、〈秋濤が寨の字を校改する。通世案、これは壁の字の誤りである。〉力を尽くして備えとした。上は怯台・薄察らを留め〈曽植案、趙柔伝に「癸酉(1213年)、太祖は兵を遣わし紫荆関を破った。安心させて人々を降した。行省八札は奏上して、従って涿易二州の長官とした」とある。八札は薄察である。又案、朮赤台之子の名は怯台であり、秘史九十五功臣名は、また客台客帖の二人があり、怯台と並んで発音が近い。
不知この怯台を誰に当てるかはわからない。又案、無名氏皇氏墓志は、国朝の初め、皇は兵を木華黎国王に属すよう整えて、宗王克忒は、千戸を司った。克忒は怯台で、本紀は可忒とする。主兒扯歹は、太祖と同じ孛端察兒の子孫とされる。宗王と称し、つまり克忒が主兒扯歹の子怯台であることは、疑いない。通世案、元史 本紀は可忒・薄刹とする。郝和尚拔都︀伝「郡王迄忒の麾下にあった」、考異は「おそらくつまりは朮赤台の子怯台であろう」と言う。伯哷津は翁吉剌特二将哈台・布札とする。〉軍を整えて防ぎ守り、ついに将は軍勢が別れて西に行き、紫荆口から出た。〈将の字と由の字は原書で欠けている。張石州が翁本に拠って増やす。通世案、紫荆関は直隷 易州 西八十里 紫荆嶺の上である。〉金主はこれを聞き、大将奧敦を遣わし
〈張石州は「元史 本紀は屯とする」と言う。通世案、金史 章宗 衛紹王の二紀 及び李英の伝に、烏古孫 兀屯があり、おそらくこの人である。〉将兵は狭間を防備し、平地に至らさせなかった。それが至ったころ、我が軍勢は関を越えたのである。そこで哲別に命じて、軍勢を率いて居庸の南口を攻め、〈通世案、居庸関は、順天府 昌平州の境にある。州の西北二十四里を、居庸南口とする。南口から十五里上ったところを関城とする。また八里を上関とする。また十七里は、宣化府 延慶州の八達嶺である。嶺の上に城があり、元人はこれを居庸北口とした。〉その不備なところに進んでこれを破り、兵を進めて北口に至り、怯台・薄察の軍と合流した。
〈通世案、元史 本紀は「契丹は誤って魯不兒等が北口を差し出し、遮別は遂に居庸を取り、可忒・薄刹と会った」と言う。殿本は古北口とし、前と同じく誤っている。洪氏は「古 北 紫荆 居庸、どれも長城の狭間口である。この古の長城は、金の内地にある。金は長城を築き、更に辺りの外にあった。いわゆる「山を掘って境とし、汪古部の一軍がその要衝を守った」である。汪古はモンゴルを導いて兵を進め、険しいところを取り除いて無くし、昌・桓・撫の州はみな保てなかった。これに至り三関もことごとく失い、中都︀は危うくなった。
親征録は詳しく明らかに叙述している。西域史を合わせてこれを見ると、太祖の用兵の道がわかるようになる。元史札八兒伝が、居庸を破った事を述べているのは、すべてあてにならない」と言う。〉やがて再び諸部精兵五千騎を遣わし、怯台・哈台二将がひとつになって中都︀を囲んだ。〈囲は原書では固、秋濤が校改する。曽植案、哈台は、おそらく九十五功臣中の合歹駙馬であろう。通世案、西史は「喀台に五千騎を率いて中都︀の往来大路を守るよう命じた」とする。喀台は怯台で、哈台がない。〉上は自ら兵を率いて泳・易二州を攻め、〈通世案、二州は、金の属中都路。涿州は、今の属順天府。易州は、今の属直隷。
〉その日にこれを攻め落とした。〈通世案、金史 宣宗紀は、貞祐 元年(1213年)十月、大元兵が涿州を下したと載せる。関に入った月にすぐこれを攻め落としていないようである。西史は「自ら兵を引き連れて涿州を攻め、二十日にこれを破った」とし、易州が少ない。元史木華黎伝も、ただ涿州を攻め落としたと言い、金史と合う。又案、庚午(1210年)癸酉(1213年)の間、元史の叙事は多くが入り組んでいる。おそらく諸書を採って出来上がった文章を組み合わせ、事情を詳しく調べていない。庚午(1210年)春、遮別は鳥沙堡を襲いその軍勢を殺した。辛未(1211年)秋、遮別は再び烏沙堡を攻め落とした。これは前であって後ではない。辛未(1211年)豊利などの県を取り、豊利は、撫州の属県である。壬申(1212年)春、帝は昌・桓・撫などの州を破った。これは前であって後は誤りである。昌・桓・撫などの州を破ったのは、みな前年にある。辛未(1211年)二月、帝は金将定薛を野狐嶺で破った。壬申(1212年)春、再び金将紇石烈九斤らと、獾児嘴で戦い、大いにこれを破った。獾児嘴の戦いは、つまり野狐嶺の戦であり、この戦は実は辛未(1211年)八月にあり、前文で大水濼を取ったのは烏沙堡を攻め落とす前と述べているのは、月が合わない。金将の名も疑うべきである。後文は本書に拠ったようで、年月が皆誤っている。辛未(1211年)九月、徳興府を攻め落とした。
壬申(1212年)九月、察罕が奉聖州を取った。奉聖州は、徳興府の旧名である。明昌年間(1190-1196年)以後は府に昇格され、元は再び奉聖州に改めた。而癸酉(1213年)七月、皇子拖雷らは、再び徳興府を攻め落とした。辛未(1211年)の役は、恐らく金史に拠って誤ったのであろう。察罕の事は、別れて他書を採っている。拖雷らの事は、本書に拠っている。本書は壬申(1212年)癸酉(1213年)両役がある。元史 本紀はその壬申(1212年)役を取り、癸酉(1213年)に書き、また原文と異なる。縉山の大敗と、居庸の防衛失敗は、癸酉(1213年)の秋にあり、金史完顏 綱・朮虎高琪の諸伝で証明できる。元史 本紀辛未(1211年)九月、すでに「居庸関の守将は遁れ去り、遮別はそのまま入関し、中都︀に至った」と言い、これは金史 衛紹王紀に沿った誤りである。
衛紹王は自ら主君を殺し国は窮まり、記注に亡くなったことを記し、王鶚はもとより詳述できず、紀の賛が見える。ゆえに叙事のおおざっぱなこと最も甚だしい。大安 三年(1211年)、会河堡を破った後、すぐに「居庸関の守りを失い、大元は軍を進めて中都︀に至った」といい、「東に平濼を過ぎ、南に淸滄へ至り、臨潢から遼河を過ぎ、西南に忻代に至り、みな大元に服従した」と言い、これはみな至寧 癸酉(1213年)以後の事である。ゆえに癸酉(1213年)秋、再び述べることなく居庸は守りを失った。もし居庸の守りを失ったのが辛未(1211年)にあったのであれば、癸酉(1213年)の役は、どうして北軍が紫荆から出なければならないであろうか。元史はもとより金史に拠り、辛未(1211年)秋において、遮別の入関を書き、癸酉(1213年)秋に至って、再び本書に拠って、懐来 居庸の戦を述べ、ゆえにこのように重複をした。〉はじめて軍を分けて三道とした。大太子 二太子 三太子を右軍とし、太行に沿って南に進み、保州・中山・那・洺・〈原書では洛とし、秋濤が校改する。〉磁・相・輝・衛・懐・孟等州を破り、その定・威両州の境を棄て、〈秋濤校本は棄其の二字を削っている。通世案、削る必要はない。中軍も「東平 大名を棄てて」の語がある。〉黄河に至り、〈河の字、秋濤が校して補った。〉大いに掠めて帰った。
〈秋濤案、元史 本紀は「この秋、兵を三道に分け、命じて皇子朮赤・察合台・窩闊台を右軍とし、太行に沿って南に進み、保・遂・安粛・安定・邢・洺・磁・相・衛・輝・懐・孟を取り、沢・潞・遼・沁・平陽・太原・吉・隰を掠め、汾・石・嵐・忻・代・武などの州を攻め落として帰った」と言う。元史 本紀にあってこの書に欠けているのを数えると、遂州 安粛州 安州 沢州 潞州 遼州 沁州 吉州 隰州 汾州 石州 嵐州 忻州 代州 武州 及び太原・平陽二府となる。その定州は、中山府である。通世案、保州は、金 属中都路、今の直隷 保定府 淸苑県である。中山・邢・洺・磁・相は、みな金 属河北西路で、今の属直隷である。
〈底本-379〉中山府は、今の定州である。邢州は、今の順徳府で、沼州は今の広平府である。磁州は、今の広平府 磁州である。相州は、唐宋の旧名で、金は彰徳府と改め、今はこれに従う。輝州は旧衛州 蘇門県で、貞祐四年(1216年)九月壬申、州に昇格し、属河北西路とした。元は輝県と改め、属衛輝路とした。今の河南 衛輝府 輝県である。衛州は、金 属河北西路で、元が改めて衛輝路を置いた。今の河南 衛輝府である。この二字は、元史は衛輝とする。続綱目の諸州名は、元史に拠らず、本書に拠り、また衛輝とし、よっておそらく輝衛は倒置している。懐孟は、金 属河東南路である。懐州は今の河南 懐慶府。孟州は、今の懐慶府 孟県。定州は、中山府であり、明昌年間に再び府に昇格し、明で再び定州と言われた。おそらくすでに取ったのを再び棄てたのであろう。威州は、金 属河北西路で今の直隷 正定府 井陘県である。〉哈撒兒及び斡津 那顏・〈原書では幹律。文田案律を津とする。通世案、元史は斡陳 那顏とし、幹も斡とする。今よって二字を改める。西史も斡陳 諾延とし、原注に「翁吉剌人」とある。これは特 薛禪の孫で、按陳 那顏の子である。元史に拠ると特 薛禪伝に見える。
〉拙赤䚟・〈通世案、伯哷津は主兒赤歹とし、原注に「成吉思 汗の幼子」とある。陳桱の通鑑続編では、太祖の六子は、朮兒徹歹という彼の庶子である。伯哷津も「名の忘れられた乃蠻の女性が、成吉思 汗に従い朮兒徹という子を生んだ」と言う。洪氏は「朮兒徹は、必ずや主兒赤であり、歹の字音が失われた」と言う。蒙韃備録を引くと、考証が頗る詳しい。〉薄刹〈曽植案、薄刹は前文で薄察とする。燕州を攻め大将となり、拙赤䚟らとともに、元史にその伝がなく、他のところに名もまた見えない。みな不可解である。察するにおそらくこれは塔察兒であろう。塔察兒は、別名が倴盞で、対音は薄察と近く通る。伝はそれが太祖に従い燕州を平らげたと称し、事情も合う。〉を左軍とし、東海に沿って、洙・沂などの城を破って帰った。
〈秋濤案、金は洙州がなく、おそらく灤の字の誤りであろう。元史 本紀は「皇弟哈撒兒及び斡陳 那顏・拙赤䚟・薄刹は、左軍となり、海に沿って東に行き、蘇州 平灤 遼西の諸郡を取って帰った」と言う。元史 本紀に拠れば、この左軍は東に平灤へ至り、いまだかつて南に淄沂を渡っていないのである。沂州は、元史 本紀では中道軍が取ったうちに列ねており、どちらが正しいかまだわからない。通世案、灤州は、金の属中都路で、今の属直隷永平府である。沂は薊の壊れ字を当てる。薊州は、金の属中都路で、今の属順天府。続綱目も灤・薊を破ったとする。〉上と四太子はともに、諸部軍を率いて、中道より、そのまま灤・〈秋濤案、深とする。おそらく前文の灤の字はすでに誤って洙とされ、後人がでたらめによってこの字を改め灤としたのであろう。〉漢・〈秋濤案、河北と山東に漢州はなく、字は莫とする。おそらく莫を漠と誤り、さらに漠を漢と誤ったのであろう。〉河間・開・〈通世案、何氏は開がその次でないことをもって、益都の後文にこれを移した。だがもし元史の順番に従えば、深開は、みな景献の下に移すべきであろう。開は益都の後文にあり、その順番が適切であるとは限らない。今しばらく古いままとする。〉淸・滄・景・献・済南・浜・棣・益都〈原書は相が多く、秋濤が校改する。〉などの城を破った。〈秋濤案、元史 本紀は「帝と皇子拖雷は中軍となり、雄・覇・莫・安・河間・滄・景・献・深・祁・蠡・冀・恩・濮・開・滑・博・済・泰安・済南・浜・棣・益都・淄・濰・登・萊・沂などの郡を取った」と言い元史 本紀にありこの書に欠けているものを数え上げると、雄州 覇州 祁州 蠡州 冀州 恩州 濮州 滑州 博州 済州 泰安州 溜州 濰州 登州 萊州 沂州、の全部で十六州となる。
その安州は、右軍とともに取ったところで二重に出る。その解釈についてはまだ詳しくわからない。また元史 本紀は「この年、河北の郡県をことごとく攻め落とし、ただ中都︀・通・順・真定・淸・沃・大名・東平・徳・邳・海州十一城は降っていない」と言う。この淸州がまだ落ちていないのは、この書が中軍は淸・滄を破ったと言うのと、元史の文とは合わない。通世案、深・莫・河間・淸・滄・景・献はみな金 属河北東路であり、今の属直隷である。深州の城跡は、今の深州 南二十五里にある。莫州の城跡は、今の河間府 任邱県 北三十五里にある。河間府、今も元のままである。淸州は、今の天津府 靑県である。滄州の城跡は、今の天津府 滄州 東南四十里にある。景州は、大安年間(1209年-1211年)に更に観州になった。今の河間府 東光県である。献州は、今の河間府 献県である。開州は、金 属大名府路であり、今の属直隷大名府である。済南・浜・棣・益都は、みな金 山東 東路で、今の山東である。済南府は、今も元のままである。浜州は、今の属武定府である。棣州は、今の武定府である。益都府は、今の靑州府である。続綱目は雄・漠・淸・滄・景・献・河間・浜・棣・済南などの郡とし、これも本書に拠っているようである。
莫を誤って漠とし、何氏の意見は正しい。そうであるならば灤も雄の誤りとすべきであり、よって開は余分な字であろうか。雄州は、金 属中都路で、今の直隷 保定府 雄県である。又案、金史 宣宗紀は、貞祐 元年(1213年)十一月、大元の兵は観州を攻め取った。観州は、景州である。また河間府 滄州も攻め取った。二年 正月 辛未、彰徳府を攻め取った。彰徳府は、相州である。また益都府も攻め取った。乙未に懐州を攻め取った。二月壬辰、嵐州を下した。時に山東 河北 諸郡は守りを失い、ただ真定・淸・沃・大名・東平・徐・邳・海の数城がわずかにあるのみとなった。河東州の県も多くが焼き滅ぼされた。三道の侵掠は明らかにすることが可能であり、癸酉(1213年)十一月に始まり、甲戌(1214年)二月に終わったのである。又案、李英伝、貞祐 三年(1215年)三月、英は淸州から食料を運ぶのを監督して、中都︀を救った。金史 宣宗紀、その年の七月、河間の孤城を助け、その軍民を移し、穀物を淸州に留めた。この淸州はいまだ破られずに残ったのである。金元二史どちらも淸州が下っていないと言い、従ってよい。〉東平・大名を棄てて攻めず、〈秋濤案、平和が長く続き、民は兵を知らなかった。ゆえに元兵の至るところ、眺めるだけで道を開いてなびいたのである。むかし安禄山が兵を挙げ、河北二十四郡をみな破ったのも、この類である。東平・大名二郡は、金人は兵営と将軍がありこれを守った。おそらくその人がなお能く守り防いだので、避けて攻めなかった。通世案、東平府は、金 属山東 西路であり、今の山東 泰安府 東平州である。大名府は、金 大名府 路治で、城跡は今の直隷 大名府 元城県の東にある。〉残りはみな眺めてばかりなので攻め落とした。下して令北に帰ることを命じた。再び木華黎を遣わし、密州を囲んで攻めこれを落とした。〈通世案、密州は、金 属山東 東路、今の山東 靑州府 諸城県である。〉上は中都︀に至り、ただ来て合流した。
甲戌(1214年)〈九年、宋 嘉定 七年、金 貞祐 二年。通世案、西史は誤って鶏年とする。〉上は中都︀の北の郊外で駐蹕した。〈秋濤案、元史 本紀は「中都︀の北郊に駐蹕した」と言う。〉金の丞相 高琪は〈通世案、高琪伝、この時は平章政事になっていた。〉その主と謀って「彼らの人馬は痩せて病んでいると聞く。これに乗じて決戦しよう」と言った。丞相 完顏 福︀興は〈通世案、承暉は、本名は福︀興で、金史に伝がある。この時に平章政事 兼 都元帥となっていて、間もなく右丞相に進んだ。〉「良くない。我が軍は、身は都城にあり、家族の多くが道筋に住んでいる。〈諸は原書では都とし、秋濤が校改する。〉その心の向背はわからない。戦いに敗れれば必ず散る。もし勝ったとしても、妻子を思って去る。祖宗の社稷の安危は、この振る舞い次第である。よく考えるべきであろう。〈底本-380〉今は使いを遣わし和を話し合うかのように謀れ。彼らの主人が軍を帰すのを待って、
〈主は原書では吉、秋濤が校改する。〉さらにこれを相談するのは、どうであろうか」と言った。金主はその通りであるとして、使いを遣わして和を求め、そのために衛紹王公主を献じ、〈通世案、金史 宣宗紀のいわゆる公主皇后である。〉福︀興に命じて上に送って来て、野麻池に至りそして帰った。〈通世案、秘史は「王京自ら送って莫州撫州の山のはしに至り言葉を述べて帰った。軍人は金銀等物を受けて、熟絹を用いて縛り、力の限り馬に荷を載せて去った」と言う。王京は完顏の転訛で、完顏 福︀興を言う。莫州は、おそらく余分であろう。〉
夏四月、〈張石州は「元史 紀は五月とする」と言う。通世案、西史は「この年すでに四か月が過ぎた」と言う。洪氏は「つまり五月である。元史 本紀は合っており、親征録は合っていない」。金史 宣宗紀は「五月壬午、車駕が中都︀を発し、七月に南京に至った」と言う。〉金主は汴梁に南遷し、〈遷は原書では還、秋濤が校改する。通世案、これは金の南京で、今の河南 開封府である。〉その太子を留め、中都︀を守り、丞相完顏 福︀興には左相秦忠を補佐としてつけた。〈秋濤案、元史は参政の抹撚 盡忠とする。通世案、抹撚 盡忠は、本名は彖多で、金史に伝がある。この時に尚書左丞となり、左相ではなく、また参知政事でもない。間もなく平章政事 兼 左副元帥となった。〉金主は涿に去った。契丹軍はその後、良郷に至った。〈通世案、これは県名であり、金 属中都︀ 大興府で、今の属順天府であり、府の西南七十里にある。〉金主はこれを疑い、おおもととなる給与や鎧や馬を奪うことを望んで住居に帰り
〈通世案、営を官とする。続綱目は「供をして乣軍を防ぐよう命じて、元朝は鎧と馬をあてがい、ことごとく再び役目に戻った」と言う。〉契丹の軍勢は驚き、遂に総大将の素溫を殺し〈通世案、伯哷津は鮮袞とし、通鑑輯覧は索袞とし、注は「以前は捜溫とした」と言う。〉そして叛き去り、斫荅〈斫は原書では聴、秋濤が元史 本紀に拠って改める。翁方綱本は砍とする。〉比涉兒・札剌兒を推して将軍とし、〈通世案、伯哷津は志荅・比涉兒・阿剌兒とする。通鑑輯覧は卓達・必什哷勒・札拉喇とし、注は「以前は札達・筆什爾・査剌兒とした」と言う。〉そして中都︀に戻った。福︀興は変を聞き、軍は廬溝で阻み、〈通世案、順天府の西南四十里、良郷県の東三十里にある。
〉渡れないようにさせた。斫荅は副将の塔塔兒を遣わし、軽騎千人を率いて、密かに川を渡り、前後から橋を守る人々を撃ち、〈腹は原書では服、通世が校改する。〉大いにこれを破り、橋に近づく者からことごとく衣 甲 器械 牧馬を奪った。〈通世案、西史は「軍装 馬匹をことごとく奪い、中都︀一帯の牧羣を掠め、駆けて守衛を追い払った」と言う。元史が載せるところは「辛未(1211年)十月、金の羣牧監を襲い、その馬を追い払って帰った」である。あるいは根本のこの事が誤って伝わったのであろう。〉これにより契丹の軍勢は次第に揺れ動いた。先ずこの耶律 留哥は国の中央で災いが多いことを理由に、東京・咸平などの郡を抑えて〈通世案、金の咸平路 咸平府は、今の盛京 奉天府 鉄嶺県 東北四十里にある。
〉自ら遼王を称した。斫荅・比涉兒らは、使いを遣わして上の宿営に行ってよしみを通じ、また遼王にもよしみを求めた。時に遼王も来降した。上は命じて元帥とし〈元は原書では瓦、秋濤が校改する。〉広寧府に居させた。〈通世案、金 属北京路で、今の盛京 錦州府 広寧県である。元史 太祖紀は、木華黎が広寧府を降したこと、及び留哥が来朝したことは、乙亥年(1215年)にある。留哥伝は、按陳 那顏と誓ったのが、壬申年(1212年)にあり、参内と謁見は乙亥年(1215年)にあり、広寧が帰順したのは、丙子年(1216年)にあり、みなこれと異なる。続綱目は「丙子(1216年)夏四月、遼王留哥はモンゴルに降った。モンゴルの主は元帥として用い、広寧府に居させた」と言う。〉金主は南遷し、招討使の也奴を〈曽植案、乜奴とし、つまり萬奴である。〉咸平等路の宣撫とし、再び移って忽必阿蘭で治めた。ここに至りまた人々が来降したことをもって、やはり子鐵哥を遣わして質を入れた。やがて再び叛き、自ら東夏王を称した。
〈通世案、西史はこの後文に、「そうである理由は、帝が金の地をすでに多く攻め取ったので、金主が厳しくむごいことを繰り返し、ゆえに人々はみな心が離れ、各々が土地を占拠して自立した」の数語がある。洪氏は「この数語は、必ずやこれは拉施特が増入したものであろう。帰潜志は「宣宗は刑法を喜び、政治はなおも威厳があった」と言う。この語は実に根拠がないことではない」と言う。〉
五月に、〈秋濤案、元史 紀は七月とする。通世案、西史は「この年すでに五か月が過ぎていた」とし、つまり六月である。史録ともにみな同じでない。金史 宣宗紀は「八月庚子に皇太子が中都︀から至った」と言う。おそらく七月に金帝が太子を呼び寄せたのは、翌月に南京に至ったことであろう。〉金の太子は、〈原書はこの子の字が抜けており、秋濤が補う。〉福︀興・秦忠らを留め、中都︀を守り、やはり汴梁に走った。上は契丹の将兵が身を寄せて来たことをもって、遂に散只兀兒木合 拔都︀〈曽植案、元史 紀は三摸合とする。通世案、石抹 明安伝は、三合 拔都︀とする。西史は撒兒助特人撒木哈とする。撒兒助特は、史録は散只兀とする。元史 抄兀兒伝は、誤って散只兒とする。元史類編 皇后伝は録を引いて、また散只兒とし、今のこの文も余分な児の字がある。そして木の上に撒の音字が抜けている。あるいは児の字はきっと撒もしくは三の誤りであろう。〉契丹の先鋒の将明安太保〈通世案、元史は石抹 明安とする。石抹氏は、契丹で目立つ姓である。明安伝「中都︀はすでに下り、太傅に当たった」。二十二史考異は「和林広記は、太保明安と称する。これがいう太傅は、おそらく誤り」と言う。〈底本-381〉本書は太保と称し、和林広記と合う。
〉兄弟らに命じて郷導とし、我軍を引いてこれと合流した。至って斫荅らと力を合わせて中都︀を囲んだ。〈通世案、中都︀の陥落は、金史と元史、どちらも乙亥年(1215年)の事とする。この間に乙亥の二字が抜けている。西史も年の区別を載せていない。〉金主は点検の〈二字は原書では倒置し、通世が校改する。意見は後文で見る。〉慶寿と元帥の李英を、〈原書は季英とする。秋濤案、金史 帰潜志は李英とする。通世案、金史 宣宗紀は、元帥左都監の烏古論慶寿と、御史中丞の李英とする。二人とも伝がある。慶寿伝に、宣宗が汴京に遷り、右副点検と改め、月が過ぎて左副点検と改めた。貞祐 三年(1215年)、中都︀は極めて危うくなり、元帥左都監に改め云云とある。〉食糧を運び道を分け、戻って中都︀を救った。〈原書は東都とし、秋濤が校改する。
〉一人当たり八斗を与えた。人々を励ますことで李英は自信を持った。慶寿は涿州の旋風寨に至り〈通世案、石抹 明安伝は宣封寨とする。〉李英は覇州靑戈に至り、〈通世案、覇州は、金 属中都路である。今の属順天府で、府の南二百十里にある。〉みな我が軍の獲る所となった。〈通世案、李英の敗北は、金元二史、いずれも乙亥年(1215年)五月に繋げている。〉やがてその食糧は絶え、中都︀の人は自ら互いを食べた。福︀興自ら毒を飲んで死に、秦忠も城を捨てて走った。明安太保が入ってこれを占拠し、使いを遣わして戦利品を献じた。〈通世案、中都︀の陥落は、金元二史、いずれも乙亥年(1215年)五月に繋げている。
〉上は時に桓州に駐留し、〈原書は桓丹とし、秋濤が元史 本紀に拠って改める。〉そのまま忽都︀忽 那顏・〈曽植案、秘史は失吉 忽都︀忽とし、訶額侖太后の養子である。通世案、蒙古源流は錫吉 呼圖克とし、伊遜 烏爾魯克のひとりである。秘史巻四で、太祖が金軍を助けて塔塔兒を破った時、宿営の中で拾った小児であり、母訶額侖に与えることで、これを養わせ、失乞 忽都︀忽と命名し、第六の子と呼ばせた。多遜は「失吉 庫圖庫は成吉思 汗が塔塔兒を征伐した時に捕らえた童子である。その時孛兒台夫人はなお子が生まれておらず、これを育てさせ、かくて子のように待遇した」と言う。それが孛兒台の養子であることは、秘史と異なる。
〉雍古兒 寶兒赤・〈原書は寶光赤とする。曽植案寶光赤は、秘史蒙語は保兀兒赤とし、意味は料理人を言う。そうであるならば光は兀の字あるいは児の字の誤りであろう。通世案、秘史巻四「汪古兒は飲み食いを管理した」、巻十「蒙格禿 乞顏の子汪古兒厨子」。元史語解「博囉赤は、厨官である。巻十は博兒赤、巻十八は博而赤、巻九十九は博爾赤、巻一百三十四は寶兒赤とする」。この光を児とするのは疑いない。今改める。〉阿兒海︀ 哈撒兒の三人に命じて、中都︀の金蔵を検視した。時に金の留守哈答 國和らは、〈通世案、秘史は金臣合答とする。〉金幣を捧げ持って、拝見の礼をした。雍古兒・哈撒兒がこれを受けた。〈秋濤案、雍古兒の下は、おそらく阿兒海︀の三字が抜けているであろう。〉ひとり忽都︀忽は拒み受けず、一方で哈答はその物を分けて来させて〈哈答の下、秋濤は及の字を補う。
〉上は忽都︀忽に問うて「哈答らはこれまでにお前に物を与えたか」と言った。対して「それはある。いまだあえてこれを受けていない」と言った。上はその理由を問うた。対して「臣はかつて哈答に「まだ城が落ちていない時は、寸帛尺縷は、みな金主の物である。今すでに城は落ち、すべて我が君の物であろう。お前はまたどうして我が君の物を盗んで勝手に恵むことができるのか」という言葉を与えた」と言った。〈私恵は、原書は和意とし、秋濤が校改する。〉上はまさにこれをほめ、〈秋濤は改めて佳を嘉とする。〉物事の本質をわかっているとお思いになられた。そして雍古兒・阿兒海︀ 哈撒兒らを重く責め、〈秋濤案、「金主は点検の…を」からここについては、旧本はいずれも甲戌(1214年)年の中都︀を囲むの下にある。今案、中都︀の陥落は、大事である。金史元史、みな乙亥年(1215年)の事とする。この録では甲乙二年ふたつともに載せている。これは「中都︀の人は自ら互いを食べた。福︀興自ら毒を飲んで死に、秦忠も城を捨てて走り、明安太保が入ってこれを占拠し」と言う。乙亥年(1215年)に「完顏 福︀興は薬を仰いで死に、抹撚 盡忠は城を棄てて走り、明安が入ってこれを守った」と言う。考えるに前文は「左相秦忠を補佐として」、及び「太子は秦忠に命じて中都︀を守らせた」と載せる。
みな秦忠とし、このくだりと合う。紀の事もこのくだりはやや詳しい。おそらくこのくだりは、その録の原文で、錯簡が甲戌年(1214年)に入ったのであろう。のちの人はそれと元史が合わないので、乙亥年(1215年)内に繰り返して、推し量って三語を増やし、ゆえにひとつの事が繰り返し両年で見えただけであろう。今このくだりを乙亥年(1215年)に入れて整え、その重複する三語は、削り去って書き残さなかったということである。通世案、何氏校本は、「金主は点検の…を」以下二百四十六字を、乙亥年(1215年)の「覇州で戦いこれを破った」の下に移している。だが李英の事が重複し、文のすじは更につながらない。ましてや西史も金主云云をもって「中都︀を囲み」の句を受け、本書と同じである。おそらく脫必赤顏原文の順序がもともとこのようであり、この本の錯簡ではない。ゆえに今なお古いものを元のまま用い続けるが、年月の誤りは、これと別の話である。いわゆる後の人が推し量って増やすに至り、となれば乙亥(1215年)の全文はみなその通りで、何氏が三語を削ったのは止めない。後で見える。〈[#那珂氏が前述しているように本作品の底本は四庫全書存目叢書本の史45-171上11行から史45-172上1行に繋げている。何氏校注本では、史45-172上1行の文「時金通州元帥…」を、小漚巣刊本では72葉14行の後に、文求堂本では96頁の後に、それぞれ繋げている]〉
〉不珍也〈[#訳せない。「良しとしなかった」か]〉。〈通世案、この語は難解である。誉めなかったの意か。あるいは誤脱があるのであろうか。西史ではこの語がまったく無い。〉哈答はその孫の栄山に会ったことにより帰った。〈通世案、見其の二字は原書では倒置し、今校正する。西史は「哈荅はその孫尼克𧶼を手を引いて助け、帝に会いそして去った」と言う。洪氏は「尼克𧶼は榮山の転音である」と言う。〉時に金の通州元帥七斤が軍勢を率いて来降した。〈原書は也斤とする。秋濤案、也斤はやはり七斤とする。通世案、通州は、金 属中都路で、今の属順天府であり、府の東四十里にある。七斤は、姓は蒲察氏である。金元二史では、七斤の降伏は、乙亥(1215年)正月にあった。〉ただ張復・張鑊柄・眾哥・也思元帥は、立てこもって信安を守り降伏しなかった。〈曽植案、張復は、高陽公張甫である。眾哥は河間公移剌 重嘉努であり、また重格とし、旧本は眾家奴とする。両人いずれも九公の列にある。その信安を守った事は、金史が詳しい。張鑊柄は、おそらく張進であろう。後に金人は滄海公として封じ、張甫と同じく信安を守った。ひとり也思のみは考えがない。
張鑊柄への称賛は、まさに郭蝦蟆や葛鉄槍のようであり、当時の軍中はこれを習いとした。通世案、張復の張は、原書では帳。今は沈氏説に従い校改する。伯哷津は張忽・張忽斤・衆格・阿失林とする。信安は県名で、金 属中都路 覇州である。城跡は今の順天府 覇州 東五十里にある。又案、金史 紀伝は、張甫ははじめてモンゴルに降り、涿州の刺史である李瘸驢がこれを招いた。〈底本-382〉
興定 元年(1217年)正月、張甫と張進がともに来降した。二年(1218年)八月、河北行省の侯摯は李瘸驢を権中都路 経略使とし、張甫を副使とした。三年(1219年)閏三月、瘸驢を中都︀ 東路 経略使とし、雄覇から以東をみな従えた。瘸驢はモンゴルに降り、張甫がこれに代わり、張進を中都︀ 南路 経略使とした。移剌 眾家奴は戦功を積み、次第に河間路 招撫使へと昇進した。四年(1220年)二月、眾家奴は河間公に封じられ、河間府と献・蠡・安・深の各州を治め、張甫は高陽公に封じられ、雄・覇の各州と静海・宝抵・武淸・安次の各県を治めた。元光 元年(1222年)、眾家奴が治める州と県はみな守りを失い、移って信安にとどまって守ったが、そこは張甫の境内だった。
張甫が奏して信安は鎮安府と改まり、二人は兵を合わせて、河間府と安・蠡・献の三州を取り返した。二年(1223年)、ともに鎮安を保ち、各々が一方に当たった。伝の賛に滄海公張進や易水公張進とあり、おそらく昇進してまた後で郡公になったのであろう。史の文に拠ると、三人は信安を守り、以後に興定年間(1217年-1222年)があった。そして大金国志 貞祐 三年(1215年)の条は「燕南雄覇の数州は、まさに三関の旧地であり、塘濼は深く阻み、兵は入られなかった。朝廷は将張甫張進二人を遣わし、信安に留まり軍にこれを守らせた。北は燕山まで百八十里の距離である」と言う。これは張甫がまだモンゴルに降っていない前のことで、とっくに信安を守った事があり、つまり金史はこれを省略したのである。〉上は魚兒濼に駐軍し
〈通世案、通鑑輯覧は「今の鑲黄旗の牧廠にあり、ゆえに興和城の西である。金史地理志は、柔遠県に大魚深があり、つまりこれである」と言う。魚兒濼は西遊記に見える。長春はおそらく村里で過ごして泊り、北に行き沙陀を越え、半月で至った。また張徳輝の紀行にも見え、魚兒泊と言う。徳輝は昌州の北の廃城から、十一駅を行って至った。泊の東の水際には、公主離宮がある。沈子敦は「ここの公主は誰が管理しているところなのか知らない。おそらく離宮は、もとは帝の住まいで、後に公主に与えただけである。魚兒濼は昌・撫などの州の沙漠の北にあたる。地志家が興和城の湖を常にあるとするのは、とりわけ誤っている。太祖は撫州の境で避暑していない」と言う。西史はこの句の前に、「犬年」の字があり紀年はまったくの誤り。〉三合 拔都︀に命じて、〈命は原書では合とし、秋濤が校改する。
通世案、本紀は撒里知兀䚟 三摸合 拔都︀魯とする。つまり前文の散只兀兒木合 拔都︀であり、続綱目は三哥 拔都︀とし、また撒沒喝︀とする。大金国志は、宋の通鑑を引いて、撒沒曷とする。〉モンゴル軍の万騎を率いて、西夏から、〈西夏は原書では夏西。通世案、二字は誤って倒置している。元史も続綱目も、みな西夏とする。今因んで改める。〉京兆を討ち、潼関を出て、嵩・汝などの郡を破り、直ちに汴梁を取り、杏花営に至り、大いに河南を掠め、戻って陜州に至った。〈通世案、京兆府は、今の陜西 西安府で、潼関は、今の陝西 同州府 華陰県の東四十里で河南 陜州 閿郷県の西六十里にある。嵩・汝・陜の三州は、金 属南京路である。嵩州は、今の河南 河南府 嵩県である。汝と陜はいずれも今の河南直隷州である。杏花営は、金の南京 西二十里にあった。
〉凍った河を行き、〈冰は原書では兵、張石州が校改する。〉そのままようやく北に渡った。〈秋濤案、元人は乙亥(1215年)丙子(1216年)両年に、ともに西夏から将を遣わして、関中に入り、潼関を攻めた。乙亥(1215年)に潼関を攻めるも降せず、嵩山小路から汴京に向かって行ったのは、この年の事である。丙子(1216年)に攻めて潼関を破り、金人は戻って再びこれを取った。乙亥年(1215年)の事は、金史 宣宗紀、元史 太祖紀、ともに載せず、しかし諸列伝の中に見える。丙子年(1216年)の事は、二紀みなこれを載せる。この書はさらに丙子年(1216年)の事がない。おそらく互いに詳しいのと省くのがある。ただ乙亥年(1215年)の事は、元人はなおまだ潼関を得ておらず、しかしこれは「潼関を出て」と言いおそらく嵩山小路より、潼関の外をめぐり、ゆえにそのように言ったのであろう。通世案、潼関の両役は、実は一つの役である。
金史 宣宗紀、胥鼎、完顏 仲元、必蘭 阿魯帶、尼龐古 蒲魯虎の諸伝を合わせ考えると、貞祐 四年(1216年)八月、元兵は延安を攻めた。九月、簽枢密院事の永錫を御史大夫とし、兵を率いて陜西に赴き、上手く従事した。十月、弓の名人や狩人を招いて、武芸を練習し、山道を知る者は、陝と号の各州の要地に分かれて留まり守った。完顏 仲元に知帰徳府事を遥授するよう命じ、山東花帽軍を率させ、軍を盧氏という地に移させ、商州 経略使と改めた。元兵は潼関を攻め、守りの兵はみな潰えた。西安軍節度使尼龐古 蒲魯虎は防戦し、兵は敗死した。
戊辰、元兵は汝州を攻め取った。仲元軍は商・虢に向かって行き、再び嵩・汝に至り、みな追いつかなかった。河東行省の胥鼎は、元兵がすでに関を越えたと聞き、庚午、潞州元帥左監軍必蘭 阿魯帶を遣わし、軍一万を率い、孟州経略使徒單の百家は、軍五千を率いて、仮設道路から河を渡り、関陜に赴き、自ら平陽の精兵を率い、赴いて帝都を助けた。十一月壬午、胥鼎は帝都に入り、尚書左丞の官を授かり、枢密副使を兼ねた。乙酉、元兵は澠池〈[#「澠池」はママ。実録では「沔池」]〉に至った。右副元帥蒲察 阿里不孫の軍が潰えて逃れ、阿魯帶も傷を負った。元兵は陝州を過ぎ、三門集津から北に渡り去った。
戊戌、華州元帥府は潼関に戻った。十二月癸亥、元兵は平陽を攻め、胥鼎は兵を遣わし防戦した。元兵は不利で、すぐに去った。仲元は天子に文書をたてまつって「近日敵兵は禁坑から出て、遂に潼関を失うであろう」と述べた。禁坑は禁谷という別名があり、今は潼関庁の南にある。そこで元兵は抜け道からめぐり出て、そして潼関は破れたのである。元史 本紀は「丙子(1216年)秋、撒里知兀䚟 三摸合 拔都︀魯は軍を率いて、西夏より、関中に向かって行き、遂に潼関を越え、金の西安軍節度使尼龐古 蒲魯虎を捕らえ、汝州などの郡を攻め落とし、汴京に至って帰った」と言う。おそらく三合 拔都︀は、丙子(1216年)八月に陝西に入ったので、十月に潼関を越え、十二月に北に戻ったことは、金史 紀伝で証明できるであろう。本書の叙事は、いずれも両史と合うが、年月は詳しくない。
考えるにそれを七斤来降云云の文と繋いで、誤って乙亥年(1215年)の事としたようである。大金国志は「貞祐 三年(1215年)八月、大軍は河東より河を渡り、潼関を攻め、下せなかった。そこで嵩山小路より、汝州に向かって行った。山と谷川に出会い、そのたびに鉄の槍を互いにつなぎ、連接して橋となして渡った。これにより潼関の守りは失われた。金主は急いで山東に花帽軍を呼び寄せた。十月、大軍は杏花営に至り、汴京まで二十里の距離となった。花帽軍はこれを打ち破った。大軍は再び潼関を取り、三門析津より、凍った河に乗って、灰を撒いて兵を導いて渡った。これより再び出なかった」と言う。いわゆる大軍は、みなモンゴル兵を言う。その「下せなかった」と言うのは、金と元の二史でわずかに異なる。だが後文で「これにより潼関の守りは失われた」と言う。ならば潼関をついに下さなかったというのも誤りである。
「嵩山小路より」と言い、つまり潼関の抜け道から遠くはなく、そこで潼関を越えた後に汝州の細道に向かって行ったのである。「花帽軍を山東に呼び寄せ」と言うのは、つまり完顏 仲元に命じて入って助けた事である。それと丙子(1216年)の役を一事とするのは、疑うべくもない。そして誤って乙亥年(1215年)の事としたのは、本書と同じ。続綱目はまさに乙亥年(1215年)において、本書と金志を合わせて取って、三合 拔都︀南侵の事を述べ、そして「潼関は守りを失った」と「これより再び出なかった」の二句を省いた。また丙子年(1216年)において、金元二史に拠り、「冬十月、モンゴル兵は金の潼関を収めて、次に嵩と汝の間云云」と言う。であれば金志 紀年の誤りに拠り、遂に一事を分けて両事にした。これは偽りに沿ってさらに誤ったのである。畢氏の続通鑑も、また続綱目の誤りを受け継いでいる。
〉金の元帥那答忽監軍斜烈は、北京を率いて来降した。〈秋濤案、北京の字はおそらく誤りがある。曽植案、那答忽は寅荅虎であり、斜烈は完顏 昔烈であり、今訳して錫琳という者に改める。那答忽は、原文はおそらく邪答忽とする。邪と寅は音が近い。この書は邪と那の二字が往往にして互いに転訛する。通世案、続綱目の甲戌(1214年)九月のくだりは「木華黎は金の北京を攻めた。北京の副将完顏 昔烈と高徳玉らは、守将の銀靑を殺し、寅答虎を推して指導者とし、まもなく城をささげて降った」と言う。このくだりと合う。そして伯哷津の書は「撒木哈は黄河を渡り、西京に向かって行った。金の西京を守る二将は、寅荅爾と言い、罕撒兒 撒烈と言い、城を出て迎えて降った。撒木哈は降を受け入れ帰った」と言う。洪氏は「つまり那塔忽 斜烈の二人である。録は北京とし、誤りである」と言う。
そうであるならば寅答虎 昔烈は、ある場合には北京の将となり、ある場合は西京の将となり、根本は正しいとして伝聞の言葉が異なっている。〈底本-383〉学識の乏しい人がただ元史に拠ったかのようで、でたらめに西京を北京として改めたのである。又案、金史 奧屯 襄伝は「貞祐 三年(1215年)正月、奧屯 襄は北京宣差提控完顏 習烈によって害された」と言う。習烈は昔烈である。銀靑というのは、つまり奧屯 襄である。元史 木華黎伝も、銀靑とする。銭氏の二十二史考異は「銀靑は、おそらくその官名をほめたもので、銀靑光禄大夫を言い、人の姓名ではない」と言う。寅答虎の降伏は、元史 紀伝みな乙亥年(1215年)の事とする。続綱目は甲戌年(1214年)に繋ぎ、おそらく蘇天爵の元朝名臣事略をふまえて誤ったのであろう。
〉上は脫脫欒 闍兒必を遣わし、モンゴル契丹漢軍を率いて南征させた、〈通世案、元史木華黎伝は「木華黎は天子に命じられて、張鯨が率いる北京の十提控兵を用いて、掇忽闌の後ろについて、まだ服属していない州郡を南に征伐した」と言う。石抹 也先伝「也先に命じて、脫忽闌 闍里必を補佐させ、張鯨などの軍を取り締まらせ、燕南のまだ下っていない州郡を征伐させた」。石抹 孛迭兒伝「奪忽闌 闍里必に従い、山東や大名を征服した」。脫脫欒は、脱の下に忽をあてる。続綱目は奪忽蘭 撒里必とする。撒は撤とする。撤里必、闍里必は、闍兒必であり、また秘史の扯兒必で、護衛と散班の長である。伯哷津は蒙格力克の子脫侖 扯兒必とし、脫侖 扯兒必は秘史に見える。
〉真定を降し大名を破り、東平に至り、水に阻まれ勝てず、大いに掠めて帰った。金人は再びこれを取った。〈通世案、太祖 十年 乙亥(1215年)から十四年己卯(1219年)に至るまで、真定を降し、大名を破り、東平を掠めた事はない。金元二史 本紀 諸伝を合わせ考えると、乙亥(1215年)十二月、史天倪は大名を囲んでその城を破り、丙子(1216年)十二月、元兵は大名府を攻め取り、しかしその前後は真定と東平の事を載せていない。丁丑(1217年)秋、木華黎はモンゴル・乣・漢の諸軍を率いて南征し、遂城と蠡州を攻め落とし、冬に中山府を攻め取り、磁州を下し、大名府を収めて、東に進んで益都・処・沂・登・萊・濰・密などの州を平定した。
これは癸酉(1213年)以来の大征伐である。だがまたも大名があり、しかし真定と東平がない。ただ十五年庚辰(1220年)、木華黎はその土地を征服して満城に至り、金の恒山公である武仙が真定を差し出して来降した。六月、楊在を遣わし大名を攻め下させた。七月、東平の厳実は彰徳・大名・磁・洺・恩・博・滑・濬などの州の戸三十万を収めて来降した。十一月、東平に進んで攻め、勝てず、厳実および梭魯忽禿が留まってこれを守り、囲むのをやめて洺州に向かって進み、兵を分けて河北諸郡を攻め取った。おおむね本書と記述が合っているようである。だが軍を率いていたのは木華黎であって、脫侖 扯兒必ではない。また脫侖が命を受けたのは五年後のことである。おそらく本書のこの文は抜けや誤りがあるであろう。又案、「不珍也」から後のここに至るまでの、百五十二字は、旧本では誤って辛巳年(1221年)の「攻玉竜傑赤」の下に入り、そして辛巳年(1221年)「之城云云」以下の八十四字は、また誤ってここに入っている。今は西史の順序に拠って、それぞれその原文を元通りにする。何氏校本は、初めてこの錯簡が正されており、李・沈の二君はみなこれに従っている。だが「不珍也云云」の十三字は、何氏はおそらくそれを解くのに苦しんだのであろう、遂に誤って不珍也哈答を西域の城名とし、玉竜傑赤の下にそのまま残しておき、そして「因其見孫栄山而還」の八字を削り、「時金通州」以下を、「哈撒児等」の句につなげた。今は洪氏の説に従って校正する。また何氏は「金元帥那答忽」以下五十四字を割って、「取城邑、凡八百六十有二」の下に入れ、「諸史に拠って年月を考え正す」と言う。だが那答忽 斜烈の来降は、三合 拔都︀に降ったのである。語句は縮めてつがれており、切れて分かれているのは都合が悪い。旧本に従って当てる。〉
乙亥(1215年)、〈十年、宋 嘉定 八年、金 貞祐 三年。通世案、乙亥(1215年)より以後一百一字は、元史 太祖紀の乙亥(1215年)の文中の語と全く同じで、これは本書の原文ではなく、後の人が元史から取ってこれを攛入したである。おそらく本書の前文は、誤って乙亥の字が抜け、ゆえに後の人が乙亥の事蹟が失われたと疑い、自らなぞらえて補って正し、七斤 寅答虎の降伏、中都︀の陥落を知らず、いずれも前文と重なり、もとをが削り去ったのである。但し何・沈諸君が、すでに注の文があることに因み、削ることを望まず、今しばらくこれを併存する。
〉金の右副元帥七斤が通州をひきいて降った。〈原書は道州とし、張石州が元史 本紀に拠って改める。曽植案、蒙韃備録は「首相の脫合太師は、まさにこの兔花太師の兄である。もとは女眞人で、極めて悪賢い。その次の韃人の宰相は、まさに率埓奪合である。また女眞の七金宰相がいる。残りの者はいまだ名を知らない。おおむねみな女眞の亡命官人である」と言う。考えるにこれはつまり七斤が後に宰相となったのである。三公宰相二表の見落としを補うに値する。元史 特 薛禪伝「唆兒火都︀も、案陳の子である。親征に従った功により、太祖の宮中にあり、左丞相を遥授し、千戸となり、重ね重ね塗金銀章を賜り云云」。蒙韃備録の率埓奪合は、唆兒火都︀である。奪合は合奪とし、おそらく伝は誤って倒置して写したのであろう。
蒙韃備録は善い本がなく、校正するてだてがないのである。伝の文は前文で唆兒火都︀とし、後文で唆魯火都︀とする。通世案、元史 本紀の乙亥(1215年)の後文に、春正月の三字があり、七斤の上に蒲察の二字がある。〉木華黎は北京を攻めた。〈秋濤案、金の北京 大定府は、今の承徳府 建昌県の地である。この時なお金が守っていたと思われる。金人が熱河以東から遼陽に至ったとみるべきで、それでも数千里の地にある。その甲戌年(1214年)は、一敗したことを理由として、汴京に南遷し、金の失計は甚だしい。通世案、元史 本紀は木華黎の前文に、二月の二字がある。〉金元帥寅答虎らは城をひきいて降った。〈寅答虎は、原書では寅花麾とする。秋濤案、元史 本紀は烏古論 寅答虎とする。曽植案、花は荅の字の誤りである。通世案、花麾の二字が誤写なのは疑いない、今改める。又案、元史の旧本は寅答虎 烏古倫とし、殿本は改めて烏庫哩 伊勒都︀呼とした。
考証は「考えるに烏庫哩は金の目立つ姓である。もしこれが二人なら、一人を名で呼び一人を姓で呼ぶのはふさわしくない。この事、金 宣宗本紀は載せていない。蘇天爵の名臣事略は「木華黎は北京を攻めた。金の守将である銀靑は城をめぐって自ら守った。その将である高徳玉らは銀靑を殺し、烏古論 寅答虎を推して指導者とし、まもなく城をひきいて降った」と載せる。これを調べると続通鑑もまた同じである。太祖九年(1214年)の事とみなす。年月が合わないとはいえ、姓名は合う。また以下の文の寅答虎烏が留守するの文義を考えると、それは名と氏の顛倒とみなして疑いない。今拠って改める」と言う。畢氏の続通鑑考異は「おそらく筆を載せた者が烏古論を姓とし、寅答虎を名とすることを知らず、文に顛倒があるだけであろう」と言う。銭氏の諸史拾遺も「東平王世家は烏古倫 寅答虎とする。烏古倫は、寅答虎の氏で、二人ではない。史臣は姓名をわきまえず、その文を傎倒し、遂にもう一人いるかのように分けた」と言う。
だが元史 史天祥伝は、「乙亥(1215年)、大師と烏野兒は、その北京留守の銀答忽と同知の烏古倫を降した」。烏野兒は、吾也而である。銀答忽は、寅答虎である。烏古倫は、烏古論である。烏古論を寅答虎の部下とし、元史はその名を失い、そして本紀もその官名が抜け、ゆえにそれを一人のみと疑わさせた。明初の史臣は、史の事に暗いとはいえ、どうして烏古論を姓とすることを知らないのか。
〉金の御史中丞である李英は、軍を率いて中都︀を助けた。覇州で戦いこれを破った。〈通世案、元史 本紀は金の上に三月の二字があり、李英の下に等の字がある。〉完顏 福︀興は薬を仰いで死に、抹撚 盡忠は城を棄てて走り、明安が入ってこれを守った。〈通世案、元史 本紀は完顏の上に、「五月庚申、金中都留守」の九字がある。〉〈底本-384〉史天倪に命じて南征させ、平州を取った。〈通世案、元史 本紀は取平州の前に、八月天倪の四字がある。平州は、金 属中都路で、今の直隷 永平府。〉木華黎は史進道などを遣わし、〈史は原書では大。張石州は「元史 本紀は賜進道とする」と言う。誤った案であり、大進道は史進道の誤である。進道は、秉直の弟で、天倪の従父である。木華黎に従って広寧府を攻めた。同じことが進道神碑に見える。通世案、殿本は史進道とする。銭氏の考異は「監本の、元史は賜ったものと誤ったのかもしれない」と言う。今因んで改める。〉広寧府を攻めてこれを降した。この秋に取った都市はおおよそ八百六十二である。〈通世案、前文は後の人の攛入の文である。〉
丙子(1216年)〈十一年、宋 嘉定 九年、金 貞祐 四年。通世案、西史は鼠年とする。紀年が再び合った。元史 本紀は「春、臚朐河の行宮に帰った」と言う。西史では「牛年、帝は軍を引き上げた」と言う。洪氏は「これは子年に軍を引き上げたはずである」と言う。今前文を考えると「上は魚兒濼に駐軍し、三合 拔都︀に命じて云云」は、丙子年(1216年)の事である。元史 史天祥伝も「丙子春、魚兒濼で太祖にまみえた」と言う。つまり丙子(1216年)春夏に、太祖はなお魚兒濼に駐留していた。西史の記すところは、おそらくその真を得ている。〉錦州の指導者である張鯨は錦・広寧など郡をひきいて来降した。まもなく再び叛き、自ら遼西王と号して、大漢と改元した。上は木華黎に命じて左軍をもってこれを平定した。〈秋濤案、張鯨への誅伐は、紀は乙亥年(1215年)とし、これと異なる。
元史は木華黎がこの年に討つところを載せるのは、その張鯨の弟の張致である。通世案、錦州は、金 属北京路で、今の盛京 錦州府である。元史 本紀は「九年甲戌(1214年)冬、錦州の張鯨は、その節度使を殺し、自立して臨海王となり、使いを遣わして来降した。十年乙亥(1215年)四月、張鯨に命じて、北京の十提控兵を率いて南征に従った。鯨謀は叛き処罰された。鯨の弟である致は、遂に錦州を占拠し、漢興皇帝を僭号し興竜と改元した。八月、木華黎は也進道などを遣わし、広寧府を攻めこれを降した。十一年丙子(1216年)春、張致は興中府を攻め落とし、木華黎が討ってこれを平定した」と言う。
銭氏の考異は「史進道神道碑を調べると「丙子(1216年)、錦州の賊の首魁である張致が叛いた。丁丑(1217年)、従王提大軍攻抜之〈[#訳せない。「王珣の後ろについて大軍を差し出しこれを攻め落とした」か]〉、張致は処刑された」とある。この紀は張致が乙亥(1215年)に叛き、丙子(1216年)に平定したと書き、いずれも一年の差がある。おそらく元明善の編集に沿った木華黎世家の誤りであろう。碑を典拠とするのがふさわしい。元史 史天倪伝の史枢の項に「父の天安が、丁丑(1217年)に従軍して叛人張致を討ちこれを平定した」、まさに碑と合う。何実・王珣伝は、ともに張致の叛乱を丙子歳(1216年)に繋げた。ただ王珣伝は張致の誅伐はこの年にあったと称し、やや合わないところがあるだけである」と言う。また「進道碑に拠ると「丁丑(1217年)、張致は処刑され、王はさらに長老に命じて広寧府に招集し、兵及び城下は、開門して迎えて降った」。これまた丁丑年(1217年)の事である。広寧と錦州は土地が接しており、ゆえに張致を平定したことで、ともにこれに降ったのである。元史 本紀が書くところの年月は、いまだ信じられないものが多い」と言う。そうであるならば張致の誅伐は丁丑(1217年)にあり、この年に討ったのは、張鯨があたる。本書が記すところが紀と合わないのを誤りとみなすべきではない。〉
丁丑(1217年)〈十二年、宋 嘉定 十年、金 宣宗 興定 元年。〉上は大将速不台 拔都︀を遣わし〈抜は原書では援とし、秋濤が校改する。〉鉄で車輪を包んで、蔑兒乞部を征伐し、〈通世案西史は「牛年、帝は軍を引き返した。蔑兒乞人が逃げて乃蠻の西の境外に至ったと聞き、人々を集めて再び攻めることを相談し、その地は山が高く路は険しい、そこで速不台 巴哈都︀兒に命じて軍を率いさせ、車輪に鉄の釘を密に布いて、さまざまな山道を行き変わらず壊れなかった」と言う。
秘史は「牛児年、成吉思は速別額台に一箇の鉄車を造って与え、脫黑脫阿の子忽都︀らを襲いに行かせ、対して「彼らと我らは殺し合って破り、走って出て行った。馬採り竿を帯びた野生馬のようであり、矢の当たった鹿と同様である。翼で天に飛び上がるならは、お前は海靑のように捕らえて下ろして来い。如鼠のように地を掘って入るならば、お前は鉄の鍬のように掘り出して来い。魚のように湖水に走り入るならば、お前は網のようにすくい取って出して来い」と言った。また「お前は高山を越え、大河を渡り、軍勢の馬匹が痩せないよう追いかけるべきで、食糧が尽きないように行き、先ずは馬を愛しんで惜しむのが大切である。路は巻狩りしにくいと聞く。もし食糧が原因で巻狩りを求めるならば、ほどよく考えて求めよ。馬のしりがいとくつわを多くつけるのは許さない。軍は馬を走らせないようにせよ。もし号令を違える者があれば、私が知り得た者は、ただちに捕らえる。知り得ない者は、そこでの旧来どおりとする。慎み深くすべきである。もし天が護り助けるなら、将脫黑脫阿の子らを捕らえ留めたら、そこで殺せ」と言った。
かさねて「むかし私が小さい時に、三種の蔑兒乞に捕らえられそうになり、私はほぼ不兒罕山を三度めぐった。このような仇のある人々が今や言葉を放って去った。私はお前に追い極めさせるのを望み、ゆえにお前に鉄車を造り与えたのである。お前が私から遠く離れようとも、近くにいるも同然である。行け、天は必ずお前を護り助ける」と説いた」と言う〉先に遣わした征西の先鋒である脫忽察兒三千騎と合流し、〈通世案、西史は二千騎とする。三を二とするのがふさわしい。辛未年(1211年)、脫忽察兒は西の辺りの異民族への先鋒をした。また二とする。〉嶄河に至り、その長と出会って大いに戦い、ことごとく蔑兒乞を滅ぼして帰った。〈秋濤案、速不台伝は、蔑兒乞征伐の事が、丙子年(1216年)、及び己卯(1219年)冬にあって、ことごとくその人々が降ったと載せる。この書はおそらくこれを言い終えている。通世案、伯哷津はこの戦を記し、また牛年の事とする。多遜は「1216年、速不台は篾兒乞特を阿爾泰山に攻め、軍は哲姆河に至り、ことごとくその人々を滅ぼした。托克塔の弟庫都︀と托克塔の二子いずれも陣で亡くなった。一子庫圖は善く射ることができ、默兒根の称をもっていた。速不台はこれを生け捕りし、檻に入れて朮赤に送り届けた。朮赤は射るよう命じた。首に矢があたり、次の矢は前の矢の矢柄を引き裂いて、また当たった。
朮赤は大いに喜び、使いを馳けさせて太祖に告げ、その死に寛大な措置を乞うた。太祖は「蔑兒乞特は私の深い仇である。善く射る仇人を留めておけば、まさに後患となるであろう」と言った。変わらず命じてこれを殺させた」。西暦1216年は、太祖 十一年 丙子である。速不台伝は「滅里吉は強く盛んで付き従わなかった。丙子(1216年)、帝は禿兀剌河の黒林で諸将に会い、「誰か私のために滅里吉を征伐する者はいないか」と問うた。速不台が行くのを請うた。帝は誉めてこれを許した。そこで副将に阿里出を選び、百人を率いて先に行き、その備えの有無をうかがった。速不台が続いて進み云云。己卯(1219年)、大軍は蟾河に至り、滅里吉と出会い、一戦して獲その二将を捕らえ、ことごとくその人々を降した。その部主霍都︀は欽察に奔った。速不台はこれを追い、欽察と玉峪で戦いこれを破った」と言う。
諸書を考え合わせると、おそらく丙子年(1216年)に将に命じ、丁丑年(1217年)に嶄河で戦い、己卯年(1219年)に至り、残党はことごとく鎮まったのである。哲姆河蟾河は、いずれも嶄河である。本書の己巳年(1209年)の嶄河と、元史 巴而朮伝の襜河は、河名が全く同じだが、しかしその地は異なる。秘史巻十一は「太祖は速別額台に命じて、脫黑脫阿の子〈底本-385〉忽禿 赤老溫などを追わせ、追って垂河に至り、将忽禿らを追い詰めて滅ぼし終えて帰って来た」と言う。
垂河は、今の吹河である。洪氏は哲姆河を吹河と改めたことに因んで、「蟾河鄭河、みな吹河の転訛である」と言う。しかし華而甫書は「乃蠻の古出魯克は、やがて喀剌乞䚟の国を横取りし、阿而麻里克を受け継ぎ、その王鄂匝兒を殺し、喀什噶爾を奪い取り、和闐を平定し、遂に畏兀兒の地を襲撃し、托克塔の二子を遣わして蔑兒乞特・乞兒吉思を誘い、托克塔の弟を闊闊 諾爾に遣わして、禿馬特が乱を起こすよう誘った。成吉思は哲別 諾顏を遣わして、古出魯克を征伐し、速不台 巴哈都︀兒は蔑兒乞特を滅ぼした。速不台は闊索郭勒湖のほとりで大いに戦い、托克塔の三子を殺し、第四子を生け捕り云云」と言う。残りは多遜・伯哷津と同じ。これに拠ると、蔑兒乞これは敗残兵であることが明らかで、後文の吐麻部乞兒吉思部の叛乱に及ぶ。いずれも古出魯克がこれを煽ったことによるものである。闊闊 諾爾はよくわからない。
闊索郭勒は、淸図はあるいは庫蘇古爾とし、烏魯克姆河源の東にある。霍渥兒特は「華而甫のいわゆる「蔑兒乞特人がモンゴル北境に至り、諸部を煽り起てた」は、その拠るところがわからない。諸書を照らし合わせて考えると、成吉思は金の征伐から戻って、先ず禿馬特を平らげ、次に哲別に古出魯克を征伐させ、速不台及び朮赤に蔑兒乞特を征伐させ、哲姆河のほとりでこれを破った。この戦いはモンゴル北境ではなく、突︀兒基斯單東境であった。華而甫はきっとこれを読んで哲姆を克姆としたのであろう」と言う。今案、華而甫が述べる所は、いまだすべて捨て去られてはいないとしてよい。
蔑兒乞人が諸部を煽り起てたのは、おそらく阿布勒噶錫の書に拠ったのであろう。その話は時勢をぴたりと当てており、疑うべきではない。速不台は蔑兒乞を征伐し、朮赤が同じく行き、そして本書の後文は戊寅年(1218年)に朮赤が乞兒吉思を追って、謙河に沿って下り、北境諸部を招いて降したと載せる。そうであるならば丁丑(1217年)の嶄河の戦いは、謙河の上流にあったとすべきようである。記すのは待って後文で考える。又案、霍都︀が欽察に奔ったのは、また土土哈伝で見え、「太祖は蔑里乞を征伐し、その主火都︀は欽察に奔った。欽察国主亦納思がこれを受け入れた。太祖は使い遣わしてこれを諭し云云亦納思が答えて言い云云。太祖ははじめて将にこれを討つよう命じた」と言う。秘史も「蔑兒乞の忽都︀ 合勒 赤老溫は、康里や欽察種を過ぎて行った」と言う。この事は、西域諸史に、少しも見える所がない。
喇施特は「忽都︀は奇卜察克に奔ることを望み、モンゴル軍は捕らえてこれを殺した」と言う。伯哷津の史巻一第七十三頁に見える。また多遜の史は巻一第百八頁に、「蔑兒乞特酋長禿克托干はモンゴルに追われる所となり、人々を率いて氈的の北に走り、その部下に殺されモンゴルがその軍勢を海︀哩・哈迷池両河の間で破り、これを殲滅した」と載せる。これに拠ると、速不台はこの役で、いまだ遠く欽察に至っていない。蔑兒乞の残りの人々は康里の境に入り、諸書に証拠がある。嶄河のことごとく蔑兒乞を滅したという話もまた、いまだ必ずしもその通りではない。額兒忒曼は「呼勒圖罕は奇卜察克に奔りそして捕らえられ、朮赤はこれを殺すよう命じた」と言う。この東西史書の選び取った話は、強く引き合う。霍渥兒特も「禿克托干は、つまり喇施特之呼勒圖罕である」と言う。
だが呼勒圖罕は、捕らえられた後に殺され、禿克托干は、部下に殺された。これまた引き合わせられない。〉この歳、吐麻部主〈秋濤案、元史の紀は「この歳、禿滿部が叛いた」と言う。おそらく禿滿は吐麻であろう。この吐麻部主の下に、語の誤りや抜けがある。原書の文はこの下が、つまり西域征伐の事に繋がれている。考えるに太祖の西域征伐は、己卯(1219年)に始まり、乙酉(1225年)春に至って帰国し、出師からおよそ七年である。この年に征西の事があるのは有り得ない。
またこの下りはすでにこの歳を言い、歳末に繋げて当てると、あった時の月の事に当たらず、後で繋ぎがひっくり返る。それは錯簡がはなはだ明らかである。今 元史 本紀を考えて、この下の「避暑八魯湾川」、及び「候八剌那顔」などの事を取り、癸未年(1223年)に移す。その癸未年の所が「都剌莎合児、既附而叛云云」と載せているのは、またこの年の文であり、誤ってあれを入れたのである。今ともに考えて正す。又案、秘史は「孛羅忽勒に命じて豁里 禿馬惕種を征伐させた」と言う。禿馬は吐麻である。その官人歹都︀禿勒は、禿剌である。このいわゆる都︀剌莎合兒というのは、北方語がある時は多くある時は略し、訳語がたまたま異なったのである。通世案、秘史巻一は「闊勒 巴兒忽眞の地の主人巴兒忽歹 篾兒干には一人の女児があり、名を巴兒忽眞 豁阿といい、豁里 禿馬敦部落の官人で名を豁里剌兒台 蔑兒干という者に嫁され、妻となり、これが阿闌 豁阿という名の女児を生んだ」と言う。豁里 禿馬敦は、豁里 禿馬惕であり、またこの吐麻部である。喇施特は禿馬特を巴兒古特中の一部落と思い、重ねて「禿馬特部は、巴兒古眞 脫古魯姆の地に住む」と言う。巴兒古特及び巴兒古眞 脫古魯姆は、前文の八兒忽眞の狭間の注で見える
〉都︀剌莎合兒は、すでに付き従ってたが叛いた。〈秋濤案、都︀剌莎合兒を、吐麻部主の名とする。説の詳細は前文にある。曽植案、都︀剌莎合兒は、秘史の豁里 禿馬惕官人歹都︀忽勒 莎豁である。蒙文はこのようになる。訳文はとどめて歹都︀禿勒とする。通世案、華而甫の書は塔禿剌克速喀兒とする。洪氏訳伯哷津の書は、秘史と本書の字をともに取り、歹都︀禿勒 莎合兒とする。本書はみな前文に、おそらく脱字があるであろう。
〉上は博羅渾 那顏・都︀魯伯二将に命じてこれを討って平らげさせた。博羅渾 那顏はかの地で卒した。〈秋濤案、都剌からここに至るまで、旧本では誤って癸未年(1223年)の「循河而南」の下に入っている。今考えて正す。又案、博羅渾 那顏は、巻首で良将四人のひとりと称したところと、都︀魯伯とで二人とする。元史は博羅渾を博爾忽とする。伝は「博爾忽は、許兀愼氏である。太祖に仕え第一千戸となり、敵地で歿した」と言う。元史の文がその事をこのように記すのは、これを省略するのが甚だしい。畢沅は「博羅渾の官位は千戸にとどまり、他に戦功はない」と言う。おそらくわずかに元史に拠り、他書で調べることを考えなかったのであろう。今禿滿部の征伐を調べると、元史は「鉢魯完・朵魯伯に命じてこれを討って平らげた」とする。鉢魯完は、博羅渾である。訳語がやや異なることに因み、宋王諸公は区別できず、遂には博爾忽を誤って分けて二つにした。
朵魯伯は、都︀魯伯である。諸書はある時は改めて布琳 都︀爾伯とし、二人を合わせて一人とした。これ誤りのまた誤りである。このくだりを調べてわかるのは、数書いずれもこれを正しいとすることである。為之忻快者累日〈[#訳せない。「諸書の誤りを見つけたので連日楽しい」の意か]〉。通世案、このくだりは、西史にやや詳しい。「禿馬特は先にすでに降附し、帝の南征を聞き、遂に再び叛いた。この部の兵たちはまえまえから強かった。帝は巴鄰人納牙 諾延及び朵兒伯 諾延に行って討つよう遣わした。納牙は病で行かなかった。帝は長い間これをためらい、そこで改めて孛兒忽勒に命じた。孛兒忽勒は使者に問うて「これは人々が企てたことか。それとも上意か」と言った。使者は「上意である」と言った。
孛兒忽勒は「このようである以上は、私は必ず行く。私の体を血まみれにするのはたやすいことである。妻子、および主上はこれを憐むであろう」と言った。やがて禿馬特を平らげ、孛兒忽勒も戦地で死亡した。帝はその言を知り、またその先を聞き、甚だしくこれを痛く悼み、これをもってその子を厚くいたわり、その家人に「悲哀しすぎるな、私は必ず優しく慈しむ」と告げた」と言う。秘史は最も事情がつぶさで、二書とやや異なるとはいえ、おそらくその実をとらえている。今蒙韃備録をもって大いに照らし合わせる。〈[#以後秘史からの引用]〉「豁里 禿馬惕種の官人歹都︀禿勒はすでに死に、その妻孛脫灰塔兒渾が人々を治めていた。太祖はかつて豁兒赤官人が三十人の妻を求めることを許した。豁兒赤は禿馬惕の女子が生まれつき美しいことを知り、三十人を娶ることを求め、かの人々が逆らうに至るとともに、彼を捕らえて留めた。太祖は知って、忽都︀合 別乞が林の民の動静を知っていることに因み、それゆえに彼を行かせた。
彼もまた捕らえられ、孛脫灰 塔兒渾のところにあった。太祖は孛羅忽勒に命じて彼らを征伐させた。孛羅忽勒が到った時、三人に命じて大軍の前を行かせた。日が暮れるに至って深い林の細道の間に入り、彼らの先鋒が後ろより至ったことに気づかず、そして路が断たれ、孛羅忽勒は殺された。太祖は聞いて知って大いに怒り、親征を望み、孛斡兒出・木合里が諫めて止めた。別に朵兒伯 朵黑申に命じて再び行かせて征伐した。朵兒伯 朵黑申は、厳しく軍馬を整え、先行して遮る場所を掴み、虚しく声の勢いを張り、忽剌安 不合という獣の行く隙間に従って小路を進んで行った。また軍人が怖気づいて行かないのを恐れて、各人に十本の枝を背負うよう命じ、もし行かないなら、これを懲戒するのに用いた。
人々はまた各々が錛・斧・鋸・鑿などの道具を帯び、路の樹木の除去に用いた。行って山頂に至り、下に禿馬惕の地の人々を視て、天窓の上から下面を看るも同様で、大軍はすぐに進み、彼らは中で思わず卒倒し、宴席にとどまる間を捕らえた。〈底本-386〉やがて禿馬惕を収めて捕らえた後、賞して孛羅兀勒に百人の禿馬惕の人々を与え、豁兒赤に三十人の禿馬惕の女子を与え、忽都︀合 別乞の所に、孛脫灰 荅兒渾を与えた」と言う。塔兒渾は、勇婦の美称である。元史 莫拏倫、西史は「莫奴倫 塔兒衮の称は、有力という意味である」と言う。〉
戊寅(1218年)〈十三年、宋 嘉定 十一年、金 興定 二年。〉木華黎を封じて国王とし、〈通世案、元史 太祖紀は「木華黎を太師とし、国王に封じた」と言う。元史 木華黎伝は「太師国王と、都行省と、承制行事に封じるよう詔があり、誓券黄金印を賜わり、「子孫は、代々絶えることなく国を伝えよ」と言った」と言う。西史は「この木訶里が金の国境にいた時、金人はこれを称して国王とみなした。帝は「これは佳い兆しである」と言い、ここに至り遂に封じられ国王となった」と言う。〉王孤部の万騎を統率し、〈孤は原書では狐、秋濤が校改する。〉火朱勒部の千騎、〈通世案、伯哷津はこの部名が抜けている。華而甫のモンゴル史は庫施庫勒とする。〉兀魯部の四千騎、〈秋濤案、兀魯、元史は兀魯兀とする。
〉𢗅兀部将木哥 漢︀札の千騎〈曽植案、木哥は、元史𢗅哥、畏荅兒の子、伝の末尾に附いている。元史 太宗本紀は蒙古 寒札とし、次の国王 査剌溫 茶合帶 鍛眞の部下で、案陳 那顏兄弟の年長者である。又案、木哥はその名で、寒札はその称号である。ちょうど案陳 那顏の那顏のようである。蒙古源流には、済典子孫〈[#訳せない]〉、明愛 音札があり、布延台音 音札があり、おそらく貴人の称号であろう。ほかでもなくモンゴルの貴人は、歡津の称号があり、漢︀札の対音字であろうか。通世案、西史は木勒格 哈兒札とし、原注に「忽亦兒荅兒の子」とある。
〉弘吉剌部安赤 那顏の三千騎、〈通世案、西史は阿勒赤 諾延とし、つまり按陳 那顏である。〉亦乞剌部孛徒駙馬の二千騎、〈秋濤案、孛徒は孛禿であり、元史に伝があり、解説は前文に見える。〉札剌兒部及び帶孫らの二千騎〈通世案、木華黎伝、帶孫郡王、孔溫窟哇の第三子、木華黎の弟である。〉同じく北京諸部烏葉兒元帥〈秋濤案、烏は原書では鳥、今改める。烏葉兒は、吾也兒であり、元史に伝がある。〉禿花元帥が率いる漢兵及び北剌兒が率いる契丹兵〈通世案、西史は「契丹女眞の兵は、烏葉兒元帥と、禿花元帥がこれを統率した」と言う。北剌兒の名はない。原注「この二部の人はみな新しく附いた。二将がこの人々をよくわかっているので、その統率を命じられた」。禿花は、耶律 阿海︀の弟で、元史に伝がある。
北は、おそらく比の誤りであり、よって前文は比失兒とする。〉は南に金国を討伐し〈秋濤案、木華黎を封じて国王としたのは、元史 紀と本伝で、ともに丁丑年(1217年)八月にある。これは戊寅(1218年)に繋げている。あるいは戊寅年(1218年)の大軍による南伐に連ねて、すべてここに記されたか。しばらくこれに拠って、備考する。又案、元史 もとの木華黎伝は弘吉剌・亦乞剌思・兀魯兀・𢗅兀など十軍、及び吾也兒・契丹の周辺異民族と漢などの軍と称する。この録が弘吉剌など七軍にとどめて載せるのを考えるなら、もとの伝の十は、まさに七の誤りである。通世案、もとの伝は「重ねて諭し「太行山脈の北は、朕自ら経略する。太行山脈から南は、卿こそがこれに勉めよ」と言った。天子の乗り物に立てていた九斿大旗を賜り、はじめて燕雲に行省を建て、中原を取るのに用いた」と言う。西史の原注「この時に帝は金の事を木訶里に付け、そして自らは西方の事を謀った」。このくだりは、西史は虎年に繋げ、本書と同じ。
洪氏は「後文で見える西域の事は、丑年に起きた仲違いではないようである。親征録の寅年が合っているとみるべきである」と言う。だが金史 宣宗紀を調べると、大元の兵が益都・淄・沂・密などの州を下したのは、丁丑(1217年)の冬にある。この木華黎の南征は、元史の紀伝と合う。それが命を受けたのは、必ず丁丑年(1217年)にあり、本書と西史はともに誤っている。〉別に大将哲別を遣わして曲出律 可汗を攻め、撒里桓の地に至りこれを攻め取った。〈通世案、秘史は「者︀別に命じて古出魯克を追わせ、追って撒里黑崑の地に至り、古出魯克を追い詰めて滅ぼし終えて帰って来た」と言い、本書と合い、ただ秘史はこれを虎児年の太祖即位の次に述べ、おそらく誤って戊寅(1218年)を丙寅(1206年)としたのであろう。このくだりは、西史がはなはだ詳しい。
伯哷津の訳本は「古出魯克は、竜年に、別失八里克より、庫爾車に至り、喀剌乞䚟の古兒 汗に身を寄せた。古兒 汗はこれを取り立てていたわり義子とし、娘を娶わせた。突︀而吉斯丹と麻費闌 那喝︀拉は、最初はいずれも古兒 汗に属する地だった。謨罕默德 貨勒自姆 沙は、父の遺命を奉り、また三万的那を古兒 汗に毎年貢いだ。すでに近境を呑併し、国はいよいよ強大になり、遂に納貢せず、また布哈爾を攻め取り、各城に古兒 汗に従わないよう命じた。そこで撒馬爾干の酋長諤斯滿も来て合流した。さらに古出魯克によしみを通じて、使者がいろいろな道を往来した。
先にこの古出魯克は古兒 汗が無能なため、東方属部がみな叛いてモンゴルに従い、西域も叛いたと知り、またその父が当初の部に敗れ去りなお所在を隠して身を潜めていると聞き、国土を奪うことで、その人々を得ようと思い、古兒 汗に、「私は当初の地を離れてすでに久しい。今モンゴルは乞䚟の征伐に行っている。今この時に乗じて、私は葉密里・哈押立克・別失八里克に行き、ちりぢりになった人々を招集し、人々は必ず来て従う。その力を借りて、本国の防衛の用いるべきである」と言った。古兒 汗はこれを信じた。やがて東に行き、乃蠻の当初の人々は思ったとおり来附し、遂には脅かして奪い取った。さらに貨勒自姆 沙の使いと会って、共に古兒 汗を謀ることを望み、ただちに「東西で夾み攻めにしよう。西が勝てば、西軍は領土を、阿力麻里克・和闐・喀什噶爾まで広げる。東が勝てば、東軍は領土を、費那克特河まで広げる」と約束した。
話し合いは定まりつくし、古出魯克は、ただちに八剌沙袞に進攻した。古兒 汗はこれと戦い破った。古出魯克は退いて人々を集めた。貨勒自姆と撒馬爾干の兵は、すでに塔剌思に至り、古兒 汗の塔尼古という将を捕らえた。古出魯克は機に乗じて再び進み、古兒 汗を捕らえ、尊崇するふりをして、実は国を奪い自立した。二年が過ぎて、古兒 汗は憂いと怒りにより亡くなった」。洪氏は「これと遼史「直魯古の出猟に乗じて襲いこれを捕えた」はほぼ異なるが、「太上皇として尊び、朝夕に暮らしの様子を問うた」は、語意が似ている」と言う。「古出魯克はすでに位を得て、再びひとりの妃を娶った。仏敎に従うよう勧めた。これにより民間に諭し命じて仏を奉じ、謨罕默德を奉じられなかった。強引な税の取り立てが行われ、一郷の長の家ごとに、ひとりの兵士によってこれを見張った。自ら和闐に至った。民を諭して敎えを改め、謨罕默德敎の人を招集するよう出し示し、敎理を互いに論じ争った。人々はみな至り、彼らが指導者とした人は、阿拉哀丁と言い、古出魯克と、往復を繰り返して討論し、詞は屈しなかった。古出魯克はしだいに恐れ悩み怒り、これを罵って縛り、その手足を門に釘で打った。人々の心はみな怒り、どうにもならず、ただ帝の軍の至るの望んだ。帝もこれを聞き、この年、哲別を遣わして征伐に行かせた。
哲別は民間に示し諭して、各々が当初の敎えを守り、その祖先の奉じる所に従い、重ねて変えるのに人を用いるなとした。これにより各郷長はみな監督の兵を殺して応えた。古出魯克は喀什噶爾にいて、軍はいまだ至らず、先に遁れた。路沿いに住む民は、みな許さず受け入れなかった。将は巴達克山に入り、哲別は追って撒里黑庫爾山で追いつき道の狭い狭間のところでこれを殺し、乃蠻の残党を撃ってことごとく鎮めた」。撒里黑庫爾は、秘史の撒里黑崑であり、本書の撒里桓である。
西域水道記は色勒庫勒とし、「葉爾羌城の西八百里にあり、外藩総会の境界とされる」と言う。洪氏は「この節を考えるに、必ずや拉施特の増入であり、国史の載せるところではない。哀忒蠻訳は述べて、「古出魯克は西遼に至り、古兒 汗に謁することを望み、変があるのを思い考え、従者にいつわらせて彼が謁見に入るようにし、自らは従者として、門外に立った。ちょうどそこへ古兒 汗の正室の子〈底本-387〉格兒八速自ら外に至り、なんとなくその人を怪しみ、入ってその理由を問うて知って、そして招き入れた。格兒八速は娘の晃忽をこれの嫁にし、三日すぐに成婚した。晃忽は時に年は十五で、その夫が基督敎を信じぬよう勧め、仏敎に改めて従った。
古兒 汗は年老いてへつらいを好んだので、その夫にお世辞の方法を告げた」と言う。残りの云云は同じ。「古出魯克は、やがて葉密爾の三処に古くからの人々を取り立てて集め、ただちに鄂斯懇に至り、西遼の庫蔵を奪い、八拉莎袞を攻め、西遼を破った。その時に西域軍はすでに塔剌思に至り、塔尼古を捕らえた。八拉莎袞の民は、城守の注意を聞き、鄂思懇に兵を潰えさせぬよう命じて入城した。兵を潰えさせた指導者は謨罕默德大石で、人々を率いて囲んで十日攻め、象に門を壊させて入り、大いに三日掠めた。
やがて部下はその指導者に叛くのを繰り返した。古出魯克は乱が慌ただしく進んでいるのを聞き、古兒 汗を捕らえた。時に天方歴六百八年、西歴一千二百十一二年。直魯古は遂に位を譲った。古出魯克は父として尊び、もとのまま帝と称し、そして自ら国事を執った。直魯古は憂悶して病になり、二年過ぎて亡くなった。在位三十五年。古出魯克はさらに西遼宰相の娘を娶り、はなはだ盛んになった」。残りは皆同じ。「これは志費尼の書の中でいう所」と言う。
また「撒里庫爾道上は、地名は韋拉特尼で、山谷が奥深く偏り、入られるが出られない。古出魯克は中に隠れた。哲別は牧羊人に出会い、足跡を見分けることを相談し、猟師に路を導くよう命じ、捕らえてこれを殺し、葉爾羌などの所をことごとく平定した。帝は虎年の事とする」。案、遼史は、直魯古在位三十四年で、これは一年多くする。それは西歴一千二百十一年と言い、太祖 六年 辛未(1211年)とする。銭詹事大昕の諸史拾遺は、「西遼の亡びは、辛未(1211年)にあったとするのがふさわしい。諸家編年、みな辛酉(1201年)に繋げるが、繋ぎは誤っている」と言う。これをふまえて、確かな証拠としてよい。拉施特は「古兒 汗は娘を古出魯克に嫁した」と言う。他書は孫娘と言う者がある。これこそが外孫娘である。
おそらく哀忒蠻は誤訳して、ある時は長妃格兒八速とし、また誤って長妃の娘と言ったのである」と言う。又案、元史曷思 麥里伝は「曷思 麥里は、西域谷則斡兒朵人。初めは西遼闊兒 罕近侍で、のちに谷則斡兒朵に属する可散 八思哈の長官となった。太祖は西征し、曷思 麥里は可散などの城の酋長を率いて迎えて降った。大将哲伯は聞きいれた。帝は曷思 麥里に命じて、哲伯に従い先鋒となり、乃蠻を攻めてこれに勝ち、その主曲出律を斬った。哲伯は曷思 麥里に命じて、曲出律の首を持たせ、その地に命令してまわらせた。可失哈兒・押兒牽・斡端諸城のごときは、いずれも勢いを見て降附した」と言う。谷則斡兒朵は、遼史 本紀の虎思斡耳朵であり、金史 粘割 韓奴伝は、骨斯訛魯朵とし、耶律 楚材西游録は、虎司窩魯朵とし、西遼の都城である。垂河の浜辺にある。西史が言うところの八剌莎袞である。可散は、西游録は可傘とする。
経世大典の地図は柯散とし、察赤の東南にある。察赤は、今の塔什干である。俄羅斯の地図は、塔什干の東南で、今なおも喀散城がある。この時に太祖はまだ親征しておらず、曷思 麥里はおそらく哲別に降り、伝はやや誤っている。洪氏は「西書は「その首を太祖に献じた」と言い、つまりは必ず葉爾羌・和闐などの地を経て行き、元史の伝の「その首を持って領地を奪った」の話と、互いにわからなかったことを明らかにしている。西域の書はこの役を叙述しやはりあまり詳しくない。しかし「哲別は古出魯克を昆都︀雅河で破った」と言う。つまり今の裕勒都︀斯河で、天山の南にある。また「西域で商人を殺して金品を奪った時、古出魯克はわずかに和闐・葉爾羌の数城を持っていた」と言う。この意味を考えると、これは先に平定した天山の西北にある西遼の古都の地に当たり、また追いかけて天山の以南に至り、蔥嶺の西で物事が終わった」と言う。
〉先ず吐麻部が叛き、上は乞兒乞兒部に兵を召し出させ、従わず、やはり叛いて去った。〈通世案、後の児の字を思とし、つまり乞兒吉思であり、多遜も乞兒吉思とし〉遂に先ず大太子に命じてこれを行って討たせ、〈命大の二字は原書では倒置している。誤って大の字が消え去っている〈[#四庫全書存目叢書本は命大ではなく先命が倒置している。それぞれ別の原書に存在する別の誤りについて説明しているものと思われる]〉。曽植案、大の字が命の字の下にあるべき。通世が因んで校正する。〉不花を先鋒とし、〈秋濤案、秘史「兔児年、成吉思は拙赤に命じて、右手の軍を率いさせ、行って林の民を征伐させ、不合に道を導かせた」。不合は不花である。ただ秘史が兔児年を称するのと、この戊寅年(1218年)は合わない。
通世案、丁卯年(1207年)、乞力吉思は降附し、この年に叛いたのでこれを討った。秘史は誤って二つの事を併せて一時の事としている。洪氏は「元史と親征録と西書は、禿馬への征伐を載せ、いずれも丁丑(1217年)にあり、そして秘史は誤って朮赤が斡亦剌・乞兒吉思などの部を収めて付き従えた後に繋げ、金を討伐する前にその理由を詳しくつまびらかにし、おそらく朮赤が二つとも乞兒吉思に至ったので、第二次出兵が禿馬のせいで起き、そして秘史はただ一つの役を記し、これにより誤るに致った」と言う。又案、不花は、木華黎の弟である。太祖が主兒乞を滅ぼした時、父古溫兀阿に従って降附した。秘史で見える。〉乞兒思を追い、亦馬兒河に至り帰った。〈通世案、思の上にも吉の字が抜けている。
亦馬兒河はよくわからない。〉大太子は兵を率いて謙河を渡って川に沿って下り、〈通世案、謙河は、今は克姆河と言う。烏魯克姆・貝克姆・克姆池克三河が合流して北に流れ、俄羅斯国境に入り、葉尼𧶼河になる。詳しくは元史訳文証補の謙河考を見よ。朮赤補伝は、「帰って謙河に至り、凍った川を渡って北に行った」とする。自注は「亦馬兒河は考えが無く、あるいは葉密爾河。葉密爾河の浜辺は、葉密爾城があり、耶律 希亮伝に見え、劉郁の西使記は業滿とする。ここであらわれた葉密と亦馬は、音が近く訛りやすい。もしそうであるならばこれは遠く追って西南に至り、東北に軍を戻し、西に流れる謙河を渡った。渡河し終えた後、そのまま河が北に流れるのに従って行った。ゆえに「謙河を渡って川に沿って下り」と言う。これをもって親征録を註すると、それぞれの字にいずれも下の抜けがあり、誤りはないとすべきである。氷を踏んで謙河を過ぎ、西書に見える」と言う。
〉不困克児為思・〈秋濤案、不困の二字はおそらく誤って伸び広がっており、削るのが良い。通世案、六字は考えられない。何氏は克児為思は「乞兒吉思である」ということで不困の二字を削った。だが対音は合わない。待って六字とし後で考えるべきである。〉憾哈思・帖良兀・克失的迷・火因 亦而干諸部を誘いかけて降伏させた。〈秋濤案、この事は、元史は載せていない。大太子は、朮赤である。元史はその戦功を言わず、これでその欠けを補いうる。克児為思は、乞兒吉思部とすべきである。曽植案、火因 亦兒干は、つまり秘史のいわゆる林の民である。モンゴル語は、林を槐因と言い、人々を亦兒干と言い、また亦兒格と言い、秘史の蒙文で見える。通世案、元史類編朮赤伝は「大方通鑑は「朮赤は烏思・憾哈納思・帖良兀・克失的迷・火因 亦兒干などの部を討伐し、いずれもこれに降った」と言う。時に太祖 十二年 歳丁丑(1217年)の事であった」と注する。大方通鑑の文は、おそらく本書が根本であろう。不困克兒がなく、爲思を烏思とみなす。元史 西北地附録の注に烏斯があり、つまりこの烏思があたる。もしそうであるならば不困克兒もまた、一部の名とすべきである。憾哈納思は、西北地附録は撼合納とし、劉哈剌 拔都︀魯伝は憨哈納思とし、秘史は哈卜哈納思とする。この憾哈思は、哈の下に納の字が抜けている。喇施特は「謙河の源に八河がある。衞拉特は左岸に居る。その東の近くに烏拉速特・帖連郭特・克斯的迷三族があり、拜喀勒湖の西に居て、衞拉特・乞兒吉思はともに隣りあう。林木の間に住むので、号は林民となった」と言う。烏拉速特は、秘史は兀兒速特とする。帖連郭特は、秘史巻七は帖良古とし、巻十二は田列克とし、つまりこの帖良兀である。克斯的迷は、秘史は客思的音つまりこの克失的迷である。火因 亦而干は、諸部の統称で、部名ではない。乞兒吉思と撼合納の事は、西北地附録釈地が詳しい。〉〈底本-388〉
己卯(1219年)〈十四年、宋 嘉定 十二年、金 興定 三年。〉上は兵を統率して西域を征伐した。〈秋濤案、秘史、太祖が回回を征伐したのは、それが使臣兀忽納など百人を殺したことによる。元史 本紀は「己卯(1219年)夏六月、西域は使者を殺した。帝は軍を率いて親征した」と言う。通世案、西域は貨勒自彌の国と言う。その地は鹹海〈[#「鹹海」はアラル海]〉の南、裏海〈[#「裏海」はカスピ海]〉の西にある。つまり唐書 西域伝の貨利習彌であり、元史 地理志の花剌子模である。西人は訳して闊喇自姆とし、あるいは闊斡哷自姆と言う。洪氏はこの波斯使臣を調べ、つまびらかにして字音を定め、貨勒自彌とするのは、唐書の訳音にあらわれ始め、とりわけ元史が盛んである。貨勒自彌 沙 阿拉哀丁 謨罕默德は、諸部を幷呑し、その境域の東北は錫爾河に至り、東南は印度河に至り、北は鹹海・裏海に至り、西北は阿特耳拜占に至り、西は巴格達特に接し、南は印度海に至り、国の勢いは広々として果てしなく、唐や波斯や昭武九姓や吐火羅等の故土を覆うように残らず自分のものにした。もともとそれは部落を起こして始まり、貨勒自彌の朝を称した。
元史 本紀は、おそらく本書に拠り、これを西域と言った。洪氏はその称を補伝で用い、「漢書の名に従うと、名を西域と呼ぶ」と言う。また「元史 本紀は命名の意味を推しはかって、実に気を使った。列伝は改めて回回国と称し、はなはだ誤った」と言う。案、回回は、回紇の転訛である。唐の回紇は、つまり元の畏兀兒で、貨勒自彌の国とはるかに異なる。だが長春西游記は、畏兀兒と貨勒自彌国人を併せて、いずれも回紇と言う。元史 列伝も、しばしば回紇と称し、多くのこれは貨勒自彌国を指して言う。秘史蒙文は、その民を称して撒兒塔兀勒とし、訳は回回と言う。いずれも名と実が互いに適さない。貨勒自彌朝の始まりは、太祖の西征の役と、志費尼・喇施特の史がはなはだ詳しい。今は洪氏が訳した多遜の書に依って、その要点を記したものを揃え、備えることで照らし合わせて考える。北宋の時、塞而柱克王瑪里克沙は、奴世的斤という下僕を持ち、刀を持ってそばを守り、はなはだ可愛がられて信任され、下僕の籍を除かれ、貨勒自彌部の酋長となり、役目は地方司令官の政務を処理した。
その子庫脫拔丁 謨罕默德は、塞而柱克朝の衰えに乗じ、諸酋は領地をばらばらに別れて自ら王となり、やはり貨勒自彌 沙を僭称した。金は遼をことごとく滅ぼし、耶律 大石は西に来て、塞而柱克の兵を破り、将を遣わして貨勒自彌征伐を繰り返した。時に庫脫拔丁が亡くなり、その子阿切斯は、戦いに敗れて捕らえられ、臣服と、毎年金を貢ぐことを誓った。そこで盟を共にし放たれて帰った。阿切斯の子伊兒 阿斯蘭も、西遼に服属し、併呑して東南に境を近くした。伊兒 阿斯蘭の子塔喀施は、宋 光宗 紹熈 五年(1194年)に、塞而柱克朝を滅ぼし、その王托克洛耳を殺し、巴格達特 哈利發 那昔爾の封を受けた。
このように貨勒自彌の朝を作った。宋 寧宗 慶元 六年(1200年)、塔喀施の子阿拉哀丁 謨罕默德は位を継ぎ、さらに巴而黑・海︀拉脫・馬三德蘭・起兒漫各部の地を併せ、戦って奇卜察克を破り、領土が広く兵が雄々しいことにより、異敎の国に納貢するのを恥じた。その時撒馬爾干の酋諤斯滿も、また西遼の家来であることに甘んじず、西域の王に従うことを願った。西に遠く使者が、貨勒自彌に至った。旧例により使者は王の側に坐った。王は押しのけてこれを辱めた。使者は怒って言い争った。直ちにその体を切断した。元 太祖 四年(1209年)、王は挙兵して西遼に向かった。兵は敗れその将とともに捕らえられた。王はそこで将の下僕といつわった。その将は国に帰って貨を取って主に贖うよう命じ、逃げ帰ることができた。
しかし貨勒自彌の地は、すでにひとえに王が戦争で死んだと伝わった。王の弟阿立希耳は、その伯叔とともに、まさに分国して自立しようとした。王が帰り、はじめて鎮まった。次の年、再び諤斯滿と兵を合わせ、西遼を破って凱旋し、娘を諤斯満の妻とし、西遼を追い払い撒馬爾干の役人を監督し、使いを遣わして代わりに治めさせた。まもなく諤斯滿と使者はうまくいかなくなり、これを殺した。太祖八年(1213年)、西域王の軽兵が不意に攻撃し、まだ備えていないのに乗じて、その城を破り、諤斯滿の頸は刃に繋げ、首は布で覆い、降るよう乞うた。王女は諤斯滿が以前に西遼の皇女を娶ったことをもって、その夫の寵愛と礼遇が等しくないのを怨み、父を唆してこれを殺した。ここにおいて撒馬爾干・布哈爾は、ことごとく土地と人々を納めた。
撒馬爾干に新都を建て、貨勒自彌の烏爾鞬赤城を旧都として称した。乃蠻の酋長古出魯克は、西遼の国を盗み、直魯古の位を退け、西域王は実に隅にやられた。突︀耳基斯單の故地は、西遼に近づき属する者も、また分割されて占拠された。国の東南境は、郭耳国がある。その王希哈潑哀丁は、西域王を攻めて破り、帰って病歿した。甥の馬赫模特が位を継ぎ、西域王に貢いだ。在位七年で害された。あるいは「王主使」と言う。阿立希耳は、以前に誤って兄の死が伝わり、分国自立の嫌疑があったので、郭耳の非洛斯固都︀城〈[#訳せない。ここでは「非洛」を名詞の一部とする]〉に立ち退いた。ここに至って兄に請い、馬赫模特の位を得ることを望んだ。王は錫冠服を使いに遣わし、それが迎え受けたのに乗じて、突進してこれを殺した。
ここにおいて郭耳の地も編入された。後に嘎自尼という地に属したことがわかり、旧蔵文巻を調べると、哈里發 那昔爾と郭耳王の書を得て、「貨勒自彌人は、領土拡大の意向があり、これを用心して防がなければならない。ただ西遼に謀るにまかせて、南北が合わせ攻め、様々な願いをかなえる」と告げる。これまでの例に従い希哈潑哀丁の戦争は、おそらく哈里發がこれを始めたのであろう。王は書を見て大いに怒り、使いを巴格達特に遣わし、塞而柱克朝の故事のように、官を遣わして政治を監視させ、もっぱら政治を哈里發に属させ、祈禱文に自分の名を増させ、並びに自分を蘇爾灘に封じるよう望んだ。那昔爾は許さなかった。
王はそこで各々の聖職者に伝えて集め、那昔爾が広く開いて敎化できない罪を数えあげ、「巴格達特の阿拔斯朝は、実に忽辛〈[#「忽辛」は人名「フサイン」]〉の位を奪った。今は那昔爾を廃するのがふさわしく、別に阿里後裔を立てて哈里發とする」と言った。多くの敎士は応えて「その通り」と言った。遂に檄を発して挙兵し、先ず義拉克 阿鄭の乱を平らげ、法而斯兵を破り、その部主沙特阿塔畢を捕らえた。土地を分け与え貢物を献上して、はじめてこれを許した。阿特耳拜占部主鄂思伯克は敗れ遁れ、やがてまた来て仲直りを請うた。太祖 十三年 戊寅(1218年)、遂に巴格達特に向かって進んだ。途中で大いに雨と雪が降り、士馬は倒れ死んだ。先鋒は庫兒忒山中にあり、地元民に攻められ、一軍はほとんど死に尽くした。そこで引き退き、義拉克 阿鄭に至り、諸子に領地を分けた。義拉克 阿鄭を羅克訥丁に与え、起兒漫克赤・梅︀克藍を、吉亞代丁に与え、札拉勒丁 忙果必而體に嘎自尼・八迷俺・波斯忒・郭耳の地を与えた。
鄂斯拉克 沙は母土而堪 哈敦が特別に可愛がるところの王とされ、その子に位を継がせることを望み、貨勒自彌・呼拉商・馬三德蘭の三部を与えられた。西域の民は、それが密かに子に位を与えるとこっそり話し合った。王は兵が四十万あり、みな康里人突︀克蠻人で、民と合わなかった。土而堪 哈敦は、康里巴牙烏脫部主勤克石の娘とされる。康里人の多くが従って西域に至り、軍隊に入り、戦陣では勇ましかった。王はその力に頼り、戦って勝ち攻め取った。
この康里の将の多くがのさばり脅迫した。土而堪の権勢も、またその子に等しくなった。国は大きいとはいえ、根本が未だ固まっていなかったのである。これに先んじて太祖は金を討伐し、国を傾けて遠出した。乃蠻・蔑兒乞は、燃え残りを元通りにする暇を得て、遠近を煽り結んだ。太祖 十一年 丙子(1216年)、自ら引いて大軍を北に戻し、次第に将らに西遼の東の乱を定めるよう命じ、蔑兒乞を討ち、禿馬特を平らげ、自ら率いて西夏を征伐しこれに勝った。哲別に命じて古出魯克を征伐させ、戦いに勝って逃げる兵を追い、逃れて喀什噶爾に至った。民は古い恨みを抱き、その部兵を殺した。再び西に奔り、わずか三人が従った。哲別は追って撒里庫爾に至り、韋拉特尼谷中でこれを捕らえ、その首を斬り、各地を従えた。西遼の境内はことごとく定まった。ここにおいて東にただモンゴル、西にただ貨勒自彌、両大国が国境を入り乱れて接し、そして西征の役が起きた。
西域王が巴格達特から東に帰った時にあたり、諸子に封地を定め終え、そのまま布哈爾に至った。その時に天山の西北の西遼の地は、すでにモンゴルに入られ、周代の萑苻のように盗賊の多かった地はことごとく鎮められ、旅に行くのに阻む者はなかった。東から来る西域の商三人があり、太祖が贈った白駱駝や毛裘や麝香や銀器や玉器を商いし、太祖が語ったことを述べ、「私はあなたの国が極めて大きな国になると感じ、君主の国を治める能力は人々に遠くめぐり行く。私は君主に心を寄せ喜んで従い、子を愛するのに等しい。君主はまた応えて女直をすでに平らげたと私に知らせ、諸部族をことごとく安んじて、私の国の兵は武器庫のようで、私の国の金品は黄金の洞窟のようである。私がまたどうして再び他人の地を侵すことがあろうか。君主と交わりを結び、商売を通じ、境界を保つことを願う」というようなことを言った。
その夕方に王は召してその中の馬黑摩特と言う一人が入ってまみえ、「お前は我が民となり、実を告げるのは正しいことである。彼は塔姆嘎自を征服したと聞くが、事実か否か」と言った。塔姆嘎自は、西人が呼ぶ漢土の称である。ふたを空けたついでに、珍珠を取ってこれに与えた。馬黑摩特は実にその通りと答えた。王はまた「モンゴルの王は、何ほどの人で、それが敢えて私を子のように見るのか。彼の兵はどのくらいの数か」と言った。馬黑摩特は王が怒っているのを見て、そこで「彼の兵は多いとはいえ、蘇爾灘と軽重を測れば、〈底本-389〉ちょうどこれを灯す炎と日の光のようなものである」と言った。王の心は解けて、返礼に行かせて約束のようにするよう命じた。まもなくまた西域で商いをして自ら東に帰った。
太祖は親王と諾延に命じて各々に元手を出させ、人を遣わして西に行くのに付き添わせ、その土の物を買い求めた。衆が四百数十人いて、みな畏兀兒人だった。行って訛脫剌兒城に至った。城の酋長伊那兒柱克 嘎伊兒 汗はことごとくこれを捕まえ、モンゴルが細作を遣わしたと王に告げ、王はことごとく殺すよう命じ、ただ一人が逃げて帰って知らせることができた。訥薩斐〈[#「訥薩斐」はイスラム法学者ナサフィAbu al-Barakat al-Nasafiと思われる]〉は「その中の四人が遣わされ、残りはみな商いの仲間だった。それらが各地が出す生業を相談し、モンゴルの強さをたたえて言い、近くを訪ねて窺い探し求めたので、ゆえにこれを殺した。だがただ伊那兒柱克の考えで、王の命ではなかった」と言う。耶律 楚材西游録は「訛打剌城の酋長は、かつて吏数人と、商人百数の命を殺して、ことごとくその財貨を掠めた。西伐の挙はこれによる」。
西書と符合する。巴格達特が災いを被るのもまた、哈里發は怒りを蓄え報復を思ったが、しかし多くの国を回顧すると、相談できる者はなかった。モンゴルが盛強と聞き、そこで使いを遣わしてひそかに来て、西伐に導いた。だが太祖はまさに隣国との交際を整えようとしており、用兵の考えはなかった。やがて逃げた者が帰って知らせるのを聞き、驚き怒りそして大声で泣き悲しみ、被り物を取り帯を解き、跪いて天に祈り、必ずや恨みを雪ぐことを誓った。洪氏は「哈里發が使いを遣わしたことは、多桑は載せず、哀忒蠻はこれを載せる。その後札剌勒丁は、印度から西に帰って建国し、首攻報達〈[#訳せない。「報復に至ったことを統率者がとがめ」か]〉、「モンゴルの災いは、哈里發が招致したことによる」と言う。多桑もこれを載せる。
起きた事のその始まりは、必ず原因があり、ゆえに増入に拠って、哀忒蠻は「使いの人の髪を切り、頭のてっぺんに字を書き、髪をやや長く蓄えるにおよんで、そこでひそかに東に行くのに従った。やがて太祖に謁して、つぶさに来た意図を話した。拠るところを正すよう相談し、髪を切って頭のてっぺんの上の字を訳すよう請うた。「あなたが来て貨勒自彌国を攻めるよう請う」というようなことを言った。しかし太祖は重ねて信じて控えめにし、修好しようとしていたので、兵を用いることを望まなかった云云」と言う。これに見えるところに拠ると、実にこれは西域が自ら滅亡を求め、そして太祖の兵は義によって動いたのであった」と言い、その時に古出魯克の残りを撃ちなお治まっていなかった。そこで先ず西域人巴格拉を遣わして使いとし、モンゴル官人二人とともに問責しに行き、「先に互いに交易してよしみをむすぶと認めたのに、なぜ約束に背くのか。訛脫剌兒のようなふるまいは王の意志ではなく、酋長が償い、奪った財貨を返すことを請う。兵をもってあいまみえるなかれ」と言った。
王は巴格拉をむちうって死なせ、モンゴル官人のひげを剃り、これを辱めて放って帰し、自ら撒馬爾干に兵を集めた。忽錫爾河の北には知らせが至り、蔑兒乞部人は康里の境から来た。王は急いで布哈爾から、氈的城に至った。至って古出魯克がすでに死んだと聞き、蔑兒乞が従った。王は北に行き、海︀哩・哈迷池両河の間でこばみ、蔑兒乞人が殺されるのを見て、道に集まった。一人が傷ついたが死ななかった。これに意見を聞いて「モンゴル軍は夜に追いつき、我等を殺して東に去る。道のりを計ると遠くないとみなす」と言った。進軍してこれを追い、日を越えて追いついた。モンゴルの将は使いを遣わして来て「我が仇は、蔑兒乞特であり、他国と仲違いはない。出師の時に主から「もし貨勒自彌人に会えば、友情をもって待遇せよ」という命を受けた。今は酒食で兵をねぎらうことで捕らえた者を分けることを請う」と告げた。
王はその兵が少ないことをみくびり、そこで「お前が私を仇としないといえども、造物主はお前たちモンゴルを仇とするよう命じている」と言った。そのまま戦った。モンゴル兵はその左翼を破り、攻めて中軍に至った。札剌勒丁は右翼を用いてモンゴル兵を破り、来て中軍を援けた。夕暮れに至り戦いを中止し始め、勝負はほぼ優劣がつかなかった。モンゴル兵は陣営に多くの火をともし、夜に乗じて速く馳せ去った。王も引き返した。洪氏は「拉施特はモンゴルの将が何人だったかを言わない。訥薩斐は「朮赤に係わる」と言い、阿卜而嘎錫は蔑兒乞を言わず、ただ「朮赤は古出魯克を追いかけてこの残党を散らし、喀白里・喀立蚩両河の間でこれを殺して去った。西域兵は追いつき、朮赤は戦いを望んだ。諸将は「衆寡敵せず。出師の時、ただ乃蠻の生き残りを平らげるよう命じられており、他国と兵をかまえることは命じられていない。我らが退けば彼らはさらに進み、軍がやや偏れば、そこで戦うのがよい」と考えた。
朮赤は怒って「敵を見て逃げて、どうして帰って我が父および諸弟に会えようか」と言った。そのまま戦った。朮赤は十回突撃し十回切り開き、幾度も攻めて中軍に至り旗下の者は数人だった。札剌勒丁はモンゴルの旁翼〈[#訳せない]〉を破り、来て中軍を援けた。朮赤は思い通りにふるまえなかった。夕暮れに戦いは中止し、多く火を燃やして敵を惑わせ、夜明け前に直ちに馳け去り、帰って太祖に告げ 大いに見て喜びほめた」と言う。これとやや異なる。元史 耶律 留哥伝を調べると「子薛闍は西域への征伐に従った。帝は「回回は太子を合迷城で囲んだ。薛闍は千人の軍を率いてこれを救出し、身に長い鉾が当たった」と言った」とある。ここで言う哈迷池河は、おそらく河のほとりにある合迷城であり、あるいはこの役であろう。
又案、速不台伝「己卯(1219年)、蔑兒乞部主霍都︀を追って、欽察に至り、玉峪で戦いこれを破った」。蔑兒乞の滅びは、録は嶄河と言い、秘史は垂河と言い、おそらく吹河であろう。今の俄羅斯の地図を調べると、塔什干の北を西に偏って約五百里に、喀迷池克河があり、必ずやこの哈迷池河である。東にわずか四百余里で吹河に至る。西に流れて尽きるところは、錫爾河とわずかな距離である。速不台のこの役は、必ずしも遠く欽察に至っておらず、元史の伝の言葉は、頼り切ることはできない。そして貨勒自彌の軍と出会ったのは、土地の道のりが極めて合う。康里の居地に至り、ひたすら西書を調べると、鹹海の東で合ったするのがふさわしい。
他の西域人にも、速不台の軍と言う者がある」と言う。西域王は撒馬爾干に帰り終えた。モンゴルが大敵になると知り、心は戦うことに怯え、諸将を集めて相談し、野戦は不利として、溝を深め塁を高くするようなことはせず、それが飽きるまで掠めるのに任せて高く飛び去った。相談は定まり終え、そこでその軍が分かれて錫爾河阿母河の各城を守った。伯哷津は「兔年に、帝は諸子や各将帥を集め、西域への討伐を会議し、軍中の法規を定めた」と言う。兔年はもとより太祖 十四年 己卯(1219年)であり、出師をまだ言っていない。秘史は「兔児年に、太祖は行って回回を征伐し、弟斡惕赤斤に居て守るよう命じ、夫人忽闌を従えて行った」。西游録は「戊寅(1218年)、雲中を出て、行在所に達した。年が明けて、大挙して西伐」と言う。
耶律 楚材伝も「己卯(1219年)夏六月、帝は西に回回国を討伐した」と言う。本紀は「己卯(1219年)夏六月、西域が使者を殺した。帝は軍を率いて親征した」と言う。西域が使者を殺したのは、戊寅年(1218年)の事で、そして親征ははじめて己卯(1219年)にあったのである。洪氏は「帝は也兒的石河に駐留し、この己卯(1219年)夏に応じた。そして西域史は「辰年にまさに也兒的石河に至った」とし、親征録と同じ。これの理由は見るところ脫必赤顏の西伐の記述であり、誤って竜年に始まる。元史はもとよりこの親征録を根本とし、また他書で己卯(1219年)に始まったとするのをわきまえて考え、増入しておだやかにする。ここにおいて蒲華・薛迷思干両城を攻め取り、一つの事を再び記す。西域史を訳すと、まさにその病がここにあるのがわかる」と言う。
長春西遊記は、己卯年(1219年)五月に、劉仲禄は乃滿国の兀里朵にいて天子の命令を得た。これは太祖が自ら出発する一か月前にあった。兀里朵は、後文の窩里朵であり、長春は辛巳(1221年)六月に駐車した所は、いわゆる「窩里朵は、漢語の行宮である。その車と亭帳は、厳粛な眺めである。いにしえの大いなる単于は、この盛んな勢いには及ばない」である。西游録のいわゆる「戊寅(1218年)に行在所に達した」は、おそらくまたこの窩里朵に至ったのである。多遜は「一二一八年の末、成吉思は鄂爾多を出発し、弟斡赤斤を留めて、国政を委ねた」。西暦1218年は、戊寅年である。諸書と合わない。后妃表を調べると、太祖は四つの斡耳朵を所有していた。戊寅(1218年)の末に出発した所は、克魯倫河源の大斡耳朵であり、そして己卯(1219年)の夏に、乃蠻の旧庭を出発したか。待って後で考える。〉
庚辰(1220年)、〈十五年、宋 嘉定 十三年、金 興定 四年。〉上は也兒的石河に至り、夏を過ごした。〈通世案、これは己卯(1219年)夏の事である。本書は庚辰(1220年)から甲申(1224年)まで、いずれも誤って一年遅れている。伯哷津は「竜年、成吉思は伊兒的失河にいて駐夏し、商人を殺した仇に報いるために、使いを遣わして謨罕默德 貨勒自彌 沙に告げに行かせた。秋に兵を進めた」と言う。本書と同じ。二書どちらも脫必赤顏の誤りに沿っているのは、洪氏の意見に従う。元史 本紀は庚辰(1220年)夏に、也石的石河で駐蹕したと書いたのも、また本書を根本とするのである。前の石の字は児とする。多遜は「一二一九年、大軍は伊兒的失河に至り上は駐夏し、馬の力を養い、騎兵を補足した」と言う。西層一二一九年は、つまり己卯年(1219年)である。西遊記では、庚辰(1220年)二月、長春は燕京に入り、行宮が西に進んだと聞き、己卯(1219年)の秋に兵を進めた事を述べる。駐夏が己卯(1219年)にあったと認めてよく、庚辰(1220年)にはない。又案、太祖は乃蠻鄂爾多より、額爾齊斯河に至り、諸史みな〈底本-390〉その行路を載せていない。
長春が歩き回った山野は、おそらく大軍が経過した跡であろう。西游記は、辛巳(1221年)六月二十八日、窩里朵の東で泊まった。皇后は長春師に渡河するよう請い、宿営地に入って駐車した。玻塔寧は「この鄂爾多は色棱嘎河のひとつの源である額特爾河の傍にあったのがふさわしい」と言う。七月九日、西南に五六日行き、また三二日で一山を越え、峯は高く削ったかのようで、松と杉が鬱蒼と茂り、そして湖がある。南に大きな渓谷を出て、一つの川が西に流れる。玻塔寧は「峯は高く、杭愛のひとつの峯は鄂特昆 喀伊爾堪山と言い、山麓にひとつ湖があり、博古鼎河の源となる。ひとつの川が西に流れたのが、烏里雅蘇台河である」とする。北に曷剌肖という故城がある。布哷特淑乃德爾は「この名はやや烏里雅蘇台に似ている」と言う。西南に砂地の平原を過ぎてさらに五六日、嶺を越えて南に行った。二十六日、阿不罕山の北、鎭海︀が来て謁した。
八月八日、大いなる山に寄り添い西に行き、さらに西南に行くこと三日、再び東南に大いなる山を過ぎ、大峡谷を通る。中秋(陰暦8月15日)の日、金山の東北に至って少し駐留し、また南に行く。その山は高く大きく、深い谷と長い坂で、車は行くことができない。三太子が軍を出し、その路を啓開し始めた。約行四程〈[#訳せない。「おおよそ四日間行き」か]〉、続けて五つの嶺を越え、南に山の前に出て、河を臨んで止まって、水草は都合が良いので数日のあいだ宿泊してようやく行き、河を渡って南に行った。布哷特淑乃德爾は「長春が通った山道を考えると、大軍が西に進む時に開いたところと関わり、つまりその行程は大軍と同じとわかる。また「水草は都合が良い」及び「河を渡って」の二語に拠ると、おそらく長春らは烏蘭達班を越え、布爾干河に至ったのであろう」。これよりのち、長春らは南に沙陀を渡り、畏兀兒の地に向かった。大軍は馬の力を養う為に、西に額爾齊斯河のほとりに至ったか。克闌河及び額爾齊斯上流の渓谷は、今は畜牧に都合の良い地と名高く称えられるに至っている。
〉秋に兵を進め、通った城はいずれも攻め落とし、〈通世案、多遜は「畏兀兒王巴而朮克、柯耳魯克王阿而斯蘭、阿而麻里克王雪格那克 的斤、いずれも兵をもって来て会った。秋に軍を進め、人々は六十万と言いふらした。貨勒自姆の物見役は帰って「モンゴル兵には勝ちを納めることはできない。飢えれば羊馬を食べその血は、水を得られずのどが渇けば、その血を飲み、食糧を持たずに行き、戦えば軍旗は退かず、すべての人は心をひとつにし、進むことがあっても退くことはない」と知らせた。謨罕默德はおそれ、追い払えないと見積もった。太祖の軍は錫爾河に至り、防ぐ者はなかった」と言う。洪氏は「原書の評は「西域王はしまりがなく配置がなく、留まり守って倒れ死ぬに到り、それは先ごろ行われたことで比べるものがない」と言う。
あるいは「占い師が王に「凶星が星のいどころを守っていて、戦いは必ず不利である。ただ堅く守り時を待つのがふさわしい」と告げた」と言う。あるいは「王はすでに各地を征服し、志は満たされ気は驕り、将はその王を怨み、王はその将を疑い、ゆえに分かれて各城を守らせ、内乱を防いだ」と言う。訥薩斐は「西域人貝鐸哀丁がいて、家族すべてが刑を受け、その王を怨み、国の苦しい状況をさとり、モンゴルをたよって入り策を献じ、康里の将のように見せかけて成吉思 汗の書を与え、「我らは力を尽くして、王が大業を成すのを助けるのは、土而堪 哈敦のことのためである。今や王はまさにその母に不孝である。大軍が来れば、我らは内応する」と言った。ゆえにその書を後に残して王にこれを見るようにさせた。王は果たして大いに疑い、ついには軍中にいる勇気がなく、領地を分けて自らを守る謀計を行った」と言う。推し量ると同じではない。速不台伝を見ると「その主は国を委ねて去った」とあり、防ぐのに力をいれなかったことが、まことによくわかるであろう」と言う。
案、雪格那克 的斤は、鄂匝爾の子である。鄂匝爾は古出魯克に殺され、太祖はその位を継ぐよう命じた。又案、大軍は額爾齊斯河のほとりから錫爾河に至り、西遊録と西遊記にある、その行程を調べて用いることができる。西遊録は「道は金山を通る。金山を西に、川はいずれも西に流れ海に入る」と言う。考えるに烏隆︀古河は赫色勒巴什湖に入り、額爾齊斯河は齋桑湖の類に入るのである。また「その南に回鶻城があり、石把という別名を持つ。城を西に二百里、輪台県がある」と言う。記は「南に金山の前に出て、河を渡って南へ、白骨甸を越え、大いなる沙陀を渡り、回紇小城の北に至り、川に沿って西に行き、二つの小城を過ぎて、鼈思馬大城に至る。ここは大唐の時代は北庭端府だった。その西に三百余里、輪台という県がある。また二城を過ぎると、昌八剌城に至る」と言う。鼈思馬は、別石把であり、元史の別失八里であり、畏兀兒の都城である。
克剌普羅特は「別失八里克は、今の烏魯穆齊である」と言う。そして洪氏はこれに従っている。しかしこの説に拠れば、輪台とすべきところがない。徐松は「唐の北庭大都護府の所在地は、今の濟木薩の北にある。端は都︀護の字とこれは音が合う。輪台県の所在地は、おおむね阜康県の西五六十里にある」と言う。昌八剌は、地理志は彰八里とし、耶律 希亮伝は昌八里とする。程同文は「中統元年(1260年)、阿里不哥が叛いた。希亮は天山を越えて、北庭都護府に至り、二年(1261年)、昌八里城に至り、夏、馬納思河を渡り、であれば昌八里は、今の瑪納斯河の東にあるのである」と言う。西遊録は「瀚海は別石把城と数百里の距離がある。
瀚を過ぎること千余里、不剌城がある。不剌の南に陰山があり、山頂に池がある。陰山を出て、阿里馬城がある」と言う。西遊記は「陰山に近づいて西へ、約十程、ふたたび砂地の平原を渡ること五日、陰山の北に宿る。早朝に南に行き、長い坂を七八十里。ふたたび西南に約二十里行き、たちまち大池がある。師はこれを名づけて天池という。池に沿って真南に下り、左右の山々は群を抜いて高くそびえ立つ。多くの流れが峡谷に入り、駆け上がって波が湧き上がり、曲がり折れて弓なりに曲がってめぐり、六七十里ばかり。二太子は天子の西征に供をし、最初に石をうがって道を整え、木を切って四十八の橋とし、橋は車を並べることができる。渓谷を出て東西の大いなる川に入り、続けて阿里馬城に至る」と言う。西遊録の瀚海は、つまり西遊記の砂地の平原である。徐松は「晶河城を東に、托多克に至り、砂が積もって山を成している。
東から阜康県に隔たること、一千一百里、よって十余程と言う」と言う。不剌は、地理志は普剌とし、耶律 希亮伝は布拉とし、西史は普剌特と言う。洪氏は「今は城はすでに廃れている。博羅塔拉河左岸の近くにあり、南に𧶼剌木 淖爾を臨む」と言う。徐松は「托多克より晶河を通り、山を行くこと五百五十里、𧶼剌木 淖爾東岸に至り、いわゆる天池である。淖爾に並んで南に行くこと五十里、塔勒奇山の渓谷に入り、ことわざで果子溝と言う。谷の水は南に流れ、勢いは甚だしく速く厳しい。木の橋を架け、車馬を渡らせる。峡谷の長さは六十里で、四十二の橋とするのは、つまり四十八橋の遺址である」。東西に大いなる川は、伊犁河の谷と思われる。阿里馬は、地理志は阿力麻里とし、喇施特は阿勒麻里克とする。洪氏は「今は伊犁の西にあり、遺址は兆しがなく、それほど遠くないと思う」と言う。西遊録は「また西に大河があり亦列と言う」と言い、西遊記は「また西に行くこと四日、荅剌速沒輦に至り、舟に乗って渡った」と言う。亦列河は、つまり今の伊犁河である。徐松は「荅剌速沒輦は、つまり伊犁河である」と言う。
吹列爾は「記した者がたまたま誤写した」と言う。布哷特淑乃德兒は「おそらく錯簡である」と言う。考えるに長春の帰路は、吹沒輦より、東に行くこと十日、大河を渡り、また三日ぐらいで阿里馬城に至る。大河は、つまり伊犁河である。西遊録は「その西に城があり、虎司窩魯朵と言い、つまり西遼の都である」。西遊記は「南下してひとつの大きな山に至り、また西に行くこと五日、さらに西に行くこと七日、西南にひとつの山を越え、回紇小城に至る。西南に板橋を通って河を渡り、南の山のふもとに至り、つまり大石林牙である。その国王は遼の子孫である云云」と言う。渡った河は、つまり吹沒輦である。西遊録は「また西へ数百里に、塔剌思城がある」と言う。西遊記は「山に沿って西へ、七八日で山はたちまち南に去る。
ひとつの石の城に道で向き合い、石の色はことごとく赤い。駐軍した古い跡がある。西に大きな塚があり、北斗七星が連なっているかのようである。さらに石橋を渡り、西南の山に近づき、五日ほど行き、塞藍城に至る」と言う。記した者は伊犁河を、誤って荅剌速沒輦とし、よってこの場所は塔剌思河とは言わない。そうであるならば石橋を渡ったというのは、おそらく塔剌思河の橋であろう。布哷特淑乃德爾は「長春はおそらく伊犁河を渡った後、阿拉套山に近づいて西に行き、古い駅の路に従って、喀斯特克嶺を越え、今の托克馬克で珠河を渡り、亞歷山德爾山脈の麓に達し、今の駅路に従って西に行き、塔剌思河に至り、今の澳流阿塔あたりでその河を渡った。
塞藍城は沁肯特の東十三英里にあり、今なお存在する。澳流阿塔より塔什干駅の路に至り、𧶼藍の傍を通った」と言う。西遊録は「また西南に四百余里、苦盞城がある。苦盞を西北に五百里、訛打剌城がある云云」と言う。西遊記は「西南に行くことさらに三日、一つの城に至る。日が明けてさらに一つの城を過ぎる。さらに行くこと二日、河があり、これが霍闡沒輦となり、浮橋から渡る」と言う。布哷特淑乃德爾は「二つの城の一つが、塔什干城に当たる。霍闡沒輦は、阿剌伯の地理家の𧶼渾河で、つまり今の錫爾河である。郭宝玉伝は忽章河とし、明史 西域伝は火站河とする。赫爾別羅特は「阿剌伯人は𧶼渾河〈底本-391〉を那哈兒闊展特と呼び、つまり闊展特河である」と言う。長春はおそらく齊那斯でこれを渡った」と言う。
長春の行程は、大軍と同じでない場所で、おそらく𧶼藍以西にある。〉斡脫羅兒城に至った。〈斡は原書では幹。秋濤案、本紀は斡とする。通世が因んで改める。〉上は留まり二太子と三太子が攻め守り、まもなくこれを定めた。〈文田案、斡脫羅兒は、元史 西北地附録の兀提剌耳である。耶律 楚材の西遊録は「苦盞を西北に五百里、訛打剌城があり、付属の城は十数である。この城の首魁は、使者を数人殺した。西伐の挙はこれが理由である。訛打剌を西に千余里、尋斯干と言い云云」と言う。いわゆる訛打剌は、つまり元史 本紀に繰り返し出る訛荅剌であり、またつまりはこの斡脫羅兒である。通世案、秘史は兀都︀剌兒とし、小阿兒眛尼亞王海︀屯紀は調べて書き、鄂特拉兒とする。城はすでに廃れて久しい。列兒出は「故趾は錫爾河の東の支流である阿里斯河口の北にあり、北緯四十三度の地である」と言う。
多遜は「己卯(1219年)秋、訛脫剌兒城に至った」と言う。洪氏は「その日に軍が行った路は、邱長春の西游記にあり、行程を調べることができる。師が迅速に行っても二か月余り要すると見積もる。よって他の西書は「西へと十月に城下に至った」と言う。これは移動の途中に合い、九月の間である」と言う。「軍を分けて四つとし、察合台・窩闊台の一軍は、留まって城を攻めた。朮赤の一軍は、西北に行き鄭忒城を攻めた。阿剌黑・速格圖・托海︀の一軍は、東南に行って白訥克特城を攻めた。いずれも錫爾河に沿う。太祖自ら拖雷とともに大軍を率いて、そのまま錫爾河を渡り、布哈爾に向かい、その援兵を断った」。洪氏は「この時に西域王は撒馬爾干に駐留して東にいて、布哈爾は西にあり、その旧都烏爾鞬赤はさらに西北にある。その中を突けば、新旧の都の呼応は良くなく、ゆえにその助けを断ったのである。先ず西に布哈爾を破り、戻って東に撒馬爾干を攻めた。
太祖の兵法はこのようである」と言う。「察合台・窩闊台の訛脫剌兒也・伊那兒只克 嘎伊兒 汗部兵数万への攻めは、守りを繕い備えを全うした。蘇爾灘 謨罕默德は軍から一万人を分け、将哈拉札に率いさせ行って助け守らせた。五月に攻め、下らなかった。哈拉札は力尽きて降ることを相談した。伊那兒只克自ら生き延びる道がないことを知らせ、死守を誓った。哈拉札は夜に親軍を率いて、囲みを潰えさせて遁れ、捕らえられ、降を乞うた。問うて城内の虚実を得たことで、その不忠の罪を責めこれを殺し、そのままその城を攻め落とした。伊那兒只克は退いて内堡を守り、一月の始めに下った。撒馬爾干の大軍を檻に入れて送り、銀液を鎔かし、その口と耳に注ぎ、商人を殺して財貨を奪った仇の報いとし、その城を壊し、その人々を皆殺しにした」。伯哷津は「哈伊兒 汗は親兵三万を率いて、城内と堡塞を守り、たびたび戦いに出た。一か月持ちこたえ、すでにことごとく死亡し、わずか二人の兵が残り、なお自ら屋根に登り、瓦を掲げて人に投げた。やがて捕らえられ、これを庫克薩萊でこれを殺した」と言う。
庫克薩萊は、太祖が撒馬爾干を囲んだ時に御営のあったところである。元史 本紀は「己卯(1219年)夏六月、帝は軍を率いて親征し、訛荅剌城を取り、その酋長哈只兒只蘭禿を捕らえた」と言う。哈只兒只蘭禿は、哈伊兒及び哈拉札の誤りか。元史 本紀はおそらく他書に拠って、訛荅剌の戦いと書いた。その年は合い、その月は合わない。また「庚辰(1220年)秋、斡脫羅兒城を攻めてこれを取った」と言う。これは本書に拠ったのである。誤って一年遅れており、伯哷津と同じ。多遜・伯哷津も「阿剌黑 諾延、速格圖、托海︀は、五千人を率いて、白訥克特を攻めた。守将伊勒格圖 蔑里克は、康里の兵を率いて、大いに三日戦った。第四日に至り、城民は降を請うた。兵と民と工匠を三処に分け、康里の兵をことごとく殺し、工匠を収めて軍に従わせ、民間の若者を駆り立て、忽氈に行かせた。
守将帖木兒 蔑里克は、精兵を千人に分け、𧶼渾河の中洲を守り、矢や石は到達できず、城守とともに角となった。阿剌黑三将は、兵力が不足し、軍を助けるよう請い、忽氈・訛脫剌兒の四郷で、民五万を捕えて、山に石を運び、河をふさいで堤を築き、洲に達した。帖木兒は舟を十二艘造り、屋根を弓のように形作り、湿った氈で包み、泥を塗って酢を注ぎ、火箭を防ぐのに用い、夜明けのたびに二つに隊を分けて敵を迎えた。しかし河の堤防がようやくできて、石を撃みごたごたと集まって来た。帖木兒は事が差し迫ったと見て、舟七十二艘をもって、軍士と輜重を載せ、白訥克特に向かった。モンゴル軍は先ず鉄の綱によって河を閉じた。これを断ち切って、通り始めた。そして両岸みな兵を追い、前の路も多くが阻んだ。舟を捨て陸に登り、また戦いまた行き、兵はほとんど死傷し尽くし、わずか三人が従った。追う者の目を射て、はじめて免れることができた。ついに烏爾鞬赤に至り、その兵を収めて、養吉干に行って、朮赤の所に置いていた守吏を殺し、再び烏爾鞬赤に戻って、その後札剌勒丁に従った」。〉
辛巳(1221年)、〈十六年、宋 嘉定 十四年、金 興定 五年。〉上と四太子は、卜哈兒・薛迷思干などの城を追って攻めいずれもこれを取った。〈秋濤案、迷は原書では述、今 元史 本紀に拠って改める。この時に耶律文正公楚材が征伐に従った。湛然居士集は、庚辰(1220年)に西域淸明詩があり、また庚午元厤表の献上があり、「庚辰(1220年)、聖駕は西征し、尋思干城で駐蹕した。この歳の五月十五日、太陰で三分欠けるとするのがふさわしく、子正に食がはなはだしく、時は夜中で、この時刻を占えば、まだ初更の時間も終わっておらず、月はすでに食となった」と言う。邱長春の西游記を調べると「辛巳(1221年)十一月十八日、大河を渡り、邪米斯干大城の北に至った。大師移剌国公である耶律 禿花及びモンゴル・回紇の将軍みなが来て迎えた。そこで駐車することにし、待って次の正月に朝見した。東北門より入った。その城は溝の岸を頼りとしている。秋夏は常に雨がない。国人は二つの河を通って城に入り、分かれて町の道をめぐり、軒並は用いることができる。ちょうどそのときに筭端氏はまだ敗れておらず、城中は常に十万余戸あった。国が破れて以来、滞在する者は四分の一となった。その人々は大いに多くの回紇人を率いた。城の中に岡があり、高さは十余丈である。
筭端の新宮がしめる。また孔雀や大きな象が見え、いずれも東南に数千里の印度国の物である」。程廷尉同文〈[#訳せない。程同文のことか]〉は「邪米思干は、尋思干とも言う。考えると邪米の音が合う。耶律晋卿〈[#「晋卿」は耶律楚材のあざな]〉はまたこれを尋罳虔と言う。訳は「尋罳は、肥である。虔は、城である」と言う。今はこれを𧶼瑪爾罕と言う。北廷よりここに至り、あらかた西に行く。ここを過ぎてあらかた南に行く。西征で最も重要な占拠地となる。ゆえにここで兵を宿泊させ、そして耶律晋卿が駐留したのである」と言う。通世案、卜哈兒は、秘史は不合兒とし、元史察罕伝は孛哈里とし、地理志は不花剌とする。経世大典の地図は、撒麻耳干の西の南に偏ったところある。
洪氏は「西国の大地を考えるに、布哈爾の都城は布哈拉と称し、これ(地理志)とまさに同じである。元史の不花という名の人は、いずれも布哈とすべきであり、意味は牝牛である。西域人は「最古の城である。唐の中宗の時、阿剌比に属し、唐の昭宗の後、西域の薩蠻朝が、ここに都を建てた」と言う。新唐書 西域伝を調べると「安国は、一つは布豁と言い、また捕喝︀と言い、西は烏滸河にせまる」。布豁・捕喝︀、いずれも布哈の異訳である。布哈爾は、唐の時にその名がすでに見えてあり、最古の城ではないと言うであろうか」と言う。薛迷思干は、古代後期の西人は撒馬爾干の名で呼んだのである。
秘史蒙文は薛米思堅とし、また薛米思加〈[#「米」は底本では「未」。十二巻本に倣い修正]〉とする。西游記は、前で尋思干とし、後で邪米斯干とする。尋思干の名は、すでに遼史 天祚紀で見える。どれも一音の転訛である。薛迷思干の音が最も合う。突厥語では、薛迷思は肥を言い、耶律晋卿の訳ははなはだ当たっている。西遊録は「訛打剌を西に千余里に大きな城があり、尋思干と言う。尋思干は、西人は「肥である」と言う。以地の土は肥饒で、故に名となった。はなはだ生産が豊かで人口が多い。金や銅を銭に用い、孔や外縁の装飾がない。城の周りの長さは数十里で、みな園林である。掘割は高く滝が走り、池が並び沼は丸く、花木は連なって延び、誠に優れた景色である。瓜の大きなものは馬の首のようである。穀物は黍やもちごめや大豆はない。夏の盛りは雨がない。ぶどうを酒に醸す。〈底本-392〉桑はあるが蚕はできず、みな屈眴〈[#「屈眴」は布の一種]〉を着ている。
白い衣を吉とみなし、靑い衣を喪服とみなし、ゆえにみな白を着て、尋思干を西に六七百里に、蒲華城がある。土地の産物は更に豊かで、城邑はやや多い。尋思干は、まさに謀速魯蠻種が集住する梭里檀の都である。蒲華・苦盞・訛打剌城がいずれもここに従った」。謀速魯蠻は、つまり木速兒蠻で、いわゆる謨罕默德敎徒である。梭里檀は、蘇爾灘である。蒲華は布哈拉である。苦盞は闊展特である。訛打剌は訛脫剌兒である。元代の史料では、ただ地理志と経世大典の地図が、撒麻耳干とする。明史は「元の太祖は西域を平定し、前代の国名をモンゴル語に変え、撒馬兒罕の名を持ち始めた」と言う。
洪氏は「西人は「薛迷思干は、隣の部の名称とした。もしそのもとのところが自称であるなら、実は撒馬兒罕であろう」と言う。唐書 西域伝は「康国は、ひとつに薩末鞬、また颯末建とも言う」。唐の玄弉の西域記も「颯末建国は、唐は康国と言うのである」と言う。撒馬兒罕は、薩末鞬・颯末建とともに、同じく筋道が立っており、唐書において著しく、どうしてかつてモンゴル語だったなどということがあろうか」と言う。伯哷津は「帝は諸軍を分けて遣わし終えて、さらに自らは拖雷 汗 也可 那顏とともに、馳せて𧶼兒奴克城を襲い、夜明けに城下をおさえた。住民はみな入城を拒み守った。丹尼世們を誘いかけて降伏させに遣わした。城の人や将はこれを苦しくはずかしいこととした。
丹尼世們は「私は成吉思 汗の側近となった。私も木速兒蠻人であり、ただ一城の生命を救いに来た。もし抗い拒めば城は流れる血で満ちる。降れば身と暮らしはみな保全できる」と言った。城は遂に降り、食糧を贈った。ただ指導者は至らなかった。帝は怒った。始めて至った。殺掠せぬよう命令を下し、若者を兵とするよう触れを出し、その城を庫特魯特八力克と言う名にした。道を知り尽くしている突︀克蠻人を募って道案内とし、沙漠の片隅の路に従って行った。先鋒の将塔亦兒 巴哈都︀兒は、奴爾城に至り、また招いてこれを下し、軍糧を贈った。
速不台にその城を収めて安んじるよう命じ、六十人を選んで、城の指導者伊里 火者︀を送った。塔布瑟の地に至った。帝は城に至り「毎歳いくらか納税せよ」と問いただした。人々は一千五百的那と言った。帝は従い数えて完納するよう命じた」と言う。多遜は「一二二〇年三月、軍は布哈爾に至り、昼夜絶えず攻めた」と言う。西暦一二二〇年は、つまり太祖 十五年 庚辰である。洪氏は「酉三月は、中国歴の正二月となる」と言う。伯哷津は蛇年の事とみなす。蛇年はすでに辛巳(1221年)であった。伯哷津は「布哈爾城の守兵は二万である。守将は庫克汗と言い、部将は哈米特・巴兒塔牙達庫・匈赤汗・克什克里汗と言い、真夜中に軍勢を率いて囲みを突き、遁れて𧶼渾河岸に至った」。
多遜は阿母河とする。洪氏は「質渾と言うべきである。𧶼渾と作って誤った」と言う。「帝の兵が追いつき、ことごとく潰えて散った。城中の伊瑪姆および文士らは出て降った。帝は城に入り敎堂を見て、これを王宮と疑い、馬を止めて問うた。民は敎堂と答えた。帝は下馬して堂に入り、「馬が飢えており、速やかに馬を養え」と告げて、そこで経典の箱を取って馬の飼葉桶とし、敎士に馬を守らせた。また酒の袋を堂中に置き、歌手を集めて歌い舞うよう伝えた。モンゴル兵も歌い叫び楽しんだ。帝は時を進めて再び城を出て、敎士の講台に登り、民衆を集めるよう伝え、蘇爾灘が道理に背いて罪をおかした事を告げ、「お前たちは天からのとがめを受けて、お前の主人が最も重いことを知らなければならない。生まれつき私は鞭を執る牧人とされ、鞭を群れの類を鞭打つのに用いた。お前たちが造物主から罪を得ないなら、天はどうして私を生むであろうか」と言った。
訳者にその言葉を述べさせて、人々に周知させた。またモンゴル人に大軍をしずめ押さえさせ、乱れ損なわせないようにし、富んでいる民から税を取り、穴蔵の財物を出させ、二百八十人でこれを探し集め、残りの民は人頭税を出させて軍の足しにした。その時に内の砦はまだ下っていなかった。そのまま城内の民の住居を焼き、民を駆り立てて濠を埋めさせ、ことごとく平地と成し、矢砲が取り囲んで攻めた。十二日で砦は破れ、守りの者がことごとく死ぬこと、おおよそ三万人で、女性や子どもは免れることができた。その砦を壊し、民を野に追い立て、労働者を集めて軍に従わせ、あるいは撒馬爾干に移し、あるいは搭布瑟に移した。春の末に、そのまま撒馬爾干を征伐した。謨罕默德 貨勒自姆 沙は、先ず突︀而屈人六万、塔赤克人五万、大きな象二十で、撒馬爾干を守り、濠を掘って水を蓄えた。帝は訛脫剌兒にいて、ただちに撒馬爾干が、垣が高く険しく、守兵が充足していると聞き、一仕事で破ることはできないのは悪いとし、よって先に兵を分けて各所を取り、そして自ら布哈兒を取り、その後で軍を進めた。先鋒が至り、命令を拒む者はなかった。ただ色里普勒・搭布瑟の二つの城寨は降らなかった。兵を留めてこれを攻め下した」。多遜は「軍は𧶼拉甫散河に沿って動き、撒馬爾干に至り、おおよそ五日ほど。軍を分けて河浜の砦を下した。謨罕默德は先に撒馬爾干に駐留し、民を率いて城を直し池を掘り、モンゴルの軍勢が知れ渡り、恐れて「敵軍は鞭を投げ、流れを断つことができる。我らはここにいることはできない」と言った。ただちに先に去り、那黑沙不を通って南に走った」と言う。「帝は撒馬爾干に至り、朮赤ら三路の軍も至った。御営は庫克薩萊に駐留し、諸軍は分かれて城の四面に駐留した。帝は城外を周り巡り、お互いに状勢を詳しく調べること二日であった。蘇爾灘がすでに駐夏の地に行ったと聞き、直ちに哲別・速不台に二万騎を率いて行って追うよう命令し、また阿剌黑 諾延・畢速爾に命令して、斡克石・塔力堪の二か所に向かって兵を進めさせた。第三日の早朝、城の囲みは遂に閉じた。
守将阿勒巴爾汗・匈赤汗・巴朗︀汗などが戦いに出た。両軍で傷つき亡くなる者がはなはだ多かった。夜が始まり戦いを止めた。第四日に城を攻め、城民は心が落ち着かず恐れた。第五日再び攻めた。そこで敎士の喀特・社︀喝︀烏里斯拉姆が、伊瑪姆らとともに、城を出て内通した。日を越して、那馬斯喀喝︀門を開いた。大軍は城に入り、直ちにその城は落ち、城の民男女百人を分けて一隊とし、兵を遣わして城外の広い地へ追いやった。喀特と社︀喝︀烏里斯拉姆は、五百人を率いて、入って内の城を守った。帝は「民の間で兵や男を隠し匿う者は、殺し許さない」と命令を下した。その後に捜し捕らえ、はなはだ多くを処刑した。城中で養っていた象は、ことごとく広野に放たれ、多くが餓死した」。西游記は「また孔雀や大象を見ると、いずれも東南数千里の印度国の物であった」と言う。その詩は「秋の日には町のはずれになおも放った象がいた」と言う。証拠としてよい。
多遜は「地元兵は戦に出て、客兵は助けず、なかばは隠れてことごとく命を落とした。康里兵は本来はモンゴルと同類なので、事が速やかでそして降り、傷つけ殺されるに至らず、ゆえに闘志がなかった。帝が誘ってそれが降り、先ず妻と子供が城から出ることを許した。民も降ることはできなかった」と言う。伯哷津とやや異なる。「この夜に大軍ははじめて城を出た。城内の人は、阿兒潑汗(洪氏は、おそらく前文の阿勒巴爾汗の異訳であろうと言う)が許されないのを恐れた。夜に千人を率いて、密かに出て営に突き当たって遁れた。次の早朝、大軍は城内を攻め、その垣を破り、城の河の源を塞ぎ、夜に至って城は破れた。礼拝堂に入った千人がいて拒み守った。火箭を射て、火油で燃やし、ことごとく灰燼となった。守兵を城から追い出し、兵と民を二か所に分け、康里兵三万に命令して、辮髪にして、モンゴル人のようにして、将が軍籍に入ったことを示させ、夜にはじめてこれをことごとく殺した。その将は巴力世瑪思汗・托海︀汗・薩兒𧶼特汗・烏拉克汗と言い、さらに二十余りの副将がいて、みな死んだ。工商三万人を収めて、各営に分けて置き、民間の男の三万は、攻城隊に入れた。残りの民は再び元のまま居るのを許し、二十万的那を献上して命を贖った。巴克曷勒蔑里克・哀密兒阿米特を任用して、貢物の割り当てを統括させ、降った民の取り締まりを兼ねた。
その後たびたび人や物の取り立てを繰り返し、ゆえに城の民はますます落ちぶれた」。西游記の言うところの「滞在する者は四分の一となった」は、つまりこれである。元史 本紀は「十五年 庚辰(1220年)春三月に帝は蒲華城を取り、夏五月、尋思汗城を取った」。年は多遜と合う。また「十六年 辛巳(1221年)春、帝は卜哈兒・薛迷思干などの城を攻めこれを下した」と言う。これは本書の誤りを継いでいるのである。〉大太子は養吉干・八兒眞などの城を攻め取った。〈真の字は原書では欠けており、秋濤が元史 本紀に拠って補った。通世案、二城は鹹海の東にある。西史は養吉堪忒・巴兒喀力肎忒とし、潑剌諾 喀兒批尼は養欽特・巴兒沁とする。いずれもすでに滅び棄てられて久しい。養吉干遺趾は、喀咱林斯克砦の西南にあり、錫爾河左岸から二英里ぐらいの距離で、河口は約一日ぐらいの距離である。西暦一八六七年、俄羅斯人列爾出は砂の河原の中を掘って城址を得ており、考えるとつまりこの城である。突︀而基斯單考古旅行記という書にその場所が見える。八兒眞は海︀屯の旅行記録で見え、帕兒沁とする。
地理志は巴耳赤邗とする。列爾出は「巴爾沁の名が記された古銭があるのは、この城が鋳造された所とすべきである」。遺址はまだ詳しくわからない。多遜・伯哷津は「朮赤の一軍は、先に撒格納克に至り、畏兀兒人忽遜哈赤を遣わして降るよう諭し、殺された。昼夜交替して攻めるよう命令を下した。七日に城が破れた。大いに捕らえ首を切り忽遜哈赤の子にこれを守らせた。さらに奧斯懇・巴兒喀力懇を下し、失那斯を攻めるのを止めた。城中の兵は多く、かつ盗賊が兵役についたことにより、みなよく戦った。そして大半は陣没した。気をつけて鄭忒に至り、守将庫特魯克汗は夜に遁れ〈底本-393〉、錫爾河を渡り、沙漠を通って、貨勒自姆に向かった。
朮赤は成帖木兒に命じて鄭忒に降るよう諭させた。この時に城中に主がなく、人々はいずれも抜刄して向き合った。成帖木兒は撒格納克が使いを殺したことをもって禍に到る事を告げさせ、かつ兵が入城するよう命令しないことを許し、はじめて免れることを得て、帰って朮赤に告げ、ただちに兵を調べに城下に至り、木の梯子で登り、民を城から追い出し、抗わないことで殺されないことを得た。ただ数人はかつて帝を罵り、調べて捕らえてこれを殺した。布哈爾人阿里 火者︀にその地を守らせ、これは西域商三人中の一人であった。西に鹹海と二日ぐらいの距離に、養吉堪忒城があり、これも下した。地元の兵を万人募り、台納爾にこれを統率させた。行って途中に至り、約束に服さず自分勝手に伍長を殺した。台納爾はすでに前を行き、使者に聞いて馳せ返し、大半を殺戮した。残りの者は逃れて阿母河を渡った」と言う。朮赤はこの役で、察合台らとともに訛脫剌兒を攻め、阿剌黑などは白納克特を攻め、同時の事であり、おそらく己卯(1219年)の末から庚辰(1220年)の初めにあった。三路の軍は、いずれもすでに勝利を成し遂げ、その後で大軍で会い、撒馬爾干を囲んだ。本書で述べる事は順序がやや違う。〉
この夏、上は西域速里壇〈原注「西域の可汗の称である」。里は原書では望。称は原書では林。秋濤案、壬午年(1222年)は速里壇とする。通世案、望は里の誤り、林は称の誤り。今改める。速里壇は、つまり蘇爾灘であり、貨勒自彌 沙の僭号である。〉の避暑の地で駐軍し、〈通世案、伯哷津は「この年の夏秋、帝は撒馬爾干の境内に駐留した」と言う。この年は、十六年 辛巳(1221年)と思われ、誤りが本書と同じである。多遜は「太祖は撒馬爾干を平定し終えて、一二二〇年夏、この城と那黑沙不の間で駐軍して避暑した」と言う。那黑沙不は、つまり今の喀而什である。秘史は「太祖は兀都︀剌兒などの城を取り終えて、囘囘王が夏を過ごす阿勒壇 豁兒桓山の嶺のところで夏を過ごした」と言う。蘇爾灘の避暑の地は、おそらく撒馬爾干の南の山中にあり、鉄門関から遠くない距離である。よって元史 本紀は「夏四月、鉄門関で駐蹕した」と言う。この年に哲別・速不台は貨勒自彌 沙を追うよう命を受けた。本書は載せていない。今多遜・伯哷津に拠って補い述べる。
伯哷津は「戦争している間にたびたび貨勒自姆 沙の麾下の人を捕らえ、いずれも「その主は驚き恐れ取り計らえず、ただ相談して逃げ遁れた。その子札剌勒丁は父に請い、各路の兵を集めることを望み、ひとつの血戦を決め、しかし父は許さなかった」と言った。帝は先ず哲別・速不台を遣わし、各々万人を率いて行って追い、さらに脫格察兒 巴哈都︀兒を遣わし、万人を率いて続けて進んだ。三将を戒めて「どこまでも追って手放すな。彼の軍勢が敢えて抗うように、お前たちの力は軽く、ただちに前進せず、飛んで我が大軍に知らせよ。たびたび人が言うのを聞くと、彼は畏れ怯えるのが殊にはなはだしく、必ずや抗う意志がないと推察する。もし彼の勢いが縮まり遁れるならば、入山の穴に入るといえども、なお必ず突き詰めてその所に行け。これが通った地のところは、降せばこれを安んじいたわり、官吏を置いて治めよ。我が軍を阻み止める者があれば、必ずこれを打ち壊せ。三年をかぎりとし、世特奇卜察克を戴くことにより、回って摩古里斯單に至って、私と会え。その後に全軍を東に返す。お前たちの後、我はさらに拖雷に命令して呼拉商・蔑而甫・海︀拉脫・你沙不兒・𧶼兒黑思などのところを取って安んじる。私はまた朮赤・察合台・窩闊台に命令して、貨勒自姆の都城を攻め取らせる。天の祐けを頼み、必ずやことごとくこの事を終え、はじめて凱旋せよ」と言った。
帝は三将を遣わして行かせ終えて、さらに三子に軍を整えるよう命じて、貨勒自姆に行き、自らと拖雷 汗はしばらく撒馬爾干で休んだ」と言う。多遜は「蘇爾灘 謨罕默德が撒馬爾干を去り、モンゴル兵は始めて錫爾河を渡った。智謀の将は、王に勧めて「速やかに貨勒自姆などのところの兵を召し出し、ひとつの大軍を集めて戦いに備え、部民を呼び寄せるよう言いつけ、心を合わせて侮りを防ぎ、力を入れて阿母河を抑える。錫爾河の外は守りが堅いといえども失えば、なおも内は守りが堅く守ることができる」と言った。あるいは王に勧めて「嘎自尼に向う。敵が深く入るならば、印度に赴く。その地は暑く熱し山が多く、敵は進む勇気がない」と言った。
王はその計を用い全てがこれに従った。人に烏爾鞬赤に至らせ、その母と妻に告げて、馬三德蘭山砦に行かせ戦いを避けさせた。王は阿母河を渡り、行って巴而黑で拒んだ。その子羅克訥丁は、義拉克より使いを遣わして至り、父を迎えて西に行き、「兵があり兵糧があり、共に守るべきだ」と言った。王はまた計を改めてこれに従った。札拉勒丁はその時に父に従い、統帥の職を借りて、阿母河を守ることを願った。王はそれが変えることが少なくないのを責め、これを許さなかった。やがて布哈爾が攻め落とされたと聞き、ついで撒馬爾干も攻め落とされたと聞き、王は急いで義拉克に向かった。従った兵はみな康里人で、密かに叛くことを謀った。王は警戒する心があり、宿はすぐに場所を変えた。
ある夕方にすでに他に移り、空帳は射られた矢が集まりいっぱいになっていた。西暦四月十八日你沙不兒に至った。モンゴル兵はすでに阿母河を渡ったと聞き、西暦五月十三日、偽りを言って狩りに出て、逃げて義拉克に赴き、哲別・速不台は烹綽布に至り、阿母河を渡ることを望み、しかし舟がなかった。木を切り、枝や木の幹を編んで箱を作り、輜重と器械を内に置き、牛羊皮で外を包み、馬の尾に繋げ、泳いで進み、沈没しないようにできた。将士は引っ張り助けて寄り添い、全軍はそのまま渡った。河を渡り終え、道を分かれて行った。哲別は呼拉商に入った。呼拉商は、民衆が富んでいる地であり、分かれて四郡とされ、馬魯・海︀拉脫・你沙不兒・巴而黑と言う」と言う。
伯哷津は「哲別・速不台は先ず巴而黑に至った。城の人は軍装と食糧を贈り迎えて降った。守る役人を置き、導く者を募って行った。太石 巴哈都︀兒が先鋒となり、咱窪城に至り、前のように収めて降そうと望んだ。城の人は門を閉ざし応じなかった。軍は去り、城の人は怯えたとみなして、鼓を鳴らし辱めて罵った。軍は囲んで三日攻め、樹梯で城に入り、出会った人はただちに殺し、これを焼いて壊してから行った。将は你沙不兒に至った。蘇爾灘は先に伊斯法楞に赴いて巻狩りしようと望み、知らせを聞いてただちに可斯費音に逃げ、その妻を遣わし、喀兒魯克の地に行き、守将は塔赤哀丁 荅勒罕という名だった。自らと配下は戦いを避ける相談をした。人々は希闌山に登ると決めた。
すでに至り、行うことができず、羅耳の蔑里克 海︀沙富は智謀が多く、遅れて話し合いがきわまったものと考えられる。羅耳の酋長は「羅耳・法而斯両境の上に高山があり、帖克帖庫と言う。肥沃な地が広がり、人の通った跡はまれに到り、戦争を避けることができる。羅耳・法而斯・舒勒・沙班喀雷の四か所の兵は、十万集めることができ、力は敵を防ぐに足る」と言った。蘇爾灘はこれを信じず、相変わらずその地に駐留して兵を募った。哲別は你沙不兒に至り、遣わして呼拉商部内の各守将に告げ、その名は蔑執兒哀里蔑里克嘎非と言い、法喝︀兒哀里蔑里克拉希と言い、斐里特哀令と言い、吉牙哀里蔑里克佐贊と言い、帝による招降の諭しを伝え、並びに軍装と食糧を献じた。你沙不兒は三人が来て迎えて降り、食糧を贈った。哲別は「身と家族を保つ機を見よ。モンゴル兵はもてあそべないこと水火のようである。城があることや人が多いことに頼るな」と勧めた。再び帝の諭示を与え、畏兀兒文を用い、「哀密兒及び民衆がすべて知るよう諭す。
東より西に至るまで、上天はいずれも私に授けた。降った者 並びにその家族はこれを保護する。降らなければ罪は親族に及び、脅かし殺し許さない」というようなことを言った。あらかじめ示し終えてから行った。哲別はここから者︀溫の路に従って、徒思に向かった。速不台は大路に従い、札姆に向かった。途中で降った者にはいずれも危害を加えず、降らなければ力を入れて攻めた。徒思の東の各寨堡はみな降った。しかし徒思は命を拒み、殺傷ははなはだ多かった。徒思から拉得康に向かった。その地は花木がはなはだ多かった。速不台はその地が騒がしくないことに喜び、官主守を留め、自ら喀部珊に向かった。城の人は侮り敬意を加えなかった。重くこれを罰した。呼拉商境内の堅城すべては、多過ぎて攻めず、道に沿っていずれも長く駐留せず、ただ衣服と糧食と牛羊馬の類を取って行き、昼夜休まなかった。速不台は伊斯法楞に向かった。哲別は馬三德蘭に向かった。最も甚だしい者である、阿模爾・阿士特拉拔特を討ち平らげた。速不台は塔沒罕城に至った。民は避けて山に入り、土地の暴民が城をたのみに守った。これを殺し尽くした。また西模曩に行き、攻めてその民を破った。耳來夷城に至り、またこれのようにした」と言う。
多遜の書を調べると、二将が行った路は、伯哷津とやや異なる。哲別は巴爾黑を降し、薩伯城を破り、西暦六月五日、你沙不兒を征伐したが、徒思を通らなかった。速不台は徒思・枯姆・喀部珊・伊斯法楞・達蔑干・西模曩などの地を通って、西に義拉克に赴くことを望んだ。哲別は馬三德蘭より、山を越えて南に、両軍は合而拉耳城で出会い、軍は再び合流した。薩伯は咱窪である。枯姆は札姆である。達蔑干は塔沒罕である。西模曩は地理志の西模娘である。合而拉耳は耳來夷である。
伯哷津もまた「蘇爾灘はまさに阿塔畢奴思拉特哀丁・海︀沙勒沙富とともに相談し、そして耳來夷が知らせに至った。海︀沙勒沙富は恐れ、ただちに羅耳に戻り、他の酋長も遁れた。蘇爾灘は喀隆︀砦に行った。モンゴル軍は知って速やかに追い、途中で出会い、その馬を射て傷つけた。砦の中に一日居て、ただちにひそかに八格達特に向かった。兵を追ってそこにある砦を攻めることを考え始めた。〈底本-394〉それがすでに行ったことをやがて知り、再び後を追いかけた。
蘇爾灘は道を改め、雖而哲寒砦に入り、さらに基蘭に奔った。その地の哀密兒が迎えて入れた。七日駐留し、さらに伊西塔耳の地に行き、従者は逃げ尽くしさらに阿模爾 属之低押乃〈[#訳せない。何らかの地名「之低押乃」または「の低押乃」か]〉に行った。馬三德蘭の哀密兒も、また丁寧に真心で接した。だがモンゴル兵が足跡を追って来て至り、休息できず馬三德蘭敎士に相談して、嘎斯比海の中にある小島に入ることを勧めた。蘇爾灘はこれに従った。とどまって間もなくさらに他の島に移り、足跡を覆い隠した。哲別の軍は、探し求めて捕らえることができず、そのまま軍を返した。その輜重と珍宝をことごとく得て、撒馬爾干に送った。蘇爾灘は土地と財物をことごとく失い、さらに妻女がみな捕らえられたと聞き、幼子はみな刃を飲み、怨み恐れて病になり、目もくらみ、一日中大きな声で泣き、やがて死んだ。島内に埋めた」と言う。
洪氏は「他の西書を調べると王が亡くなったのは西暦1221正月11日とわかる。これと合う中国歴は太祖 十五年 十二月の間となる。耶律 楚材伝「庚辰(1220年)冬、大雷。楚材は「回回国の主は野で死んだとみなす」と言った」。時間と順序が正しく合う。速不台伝「蔑里は逃げて海に入り、ひと月もせず病死した」、また合う。ただ速不台伝は、これを壬午(1222年)に繋げ、誤りに係わる」と言う。考えるに伝は回回国主を蔑里と称し、布哷特淑乃德兒は「これと帖木兒 蔑里克が混じり合っている」と言う。そして巴而朮伝も罕勉︀力 鎻潭と称し、汗蔑里克と混じり合っているように見える。汗蔑里克は後で見える。多遜は「王は謀って裏海に入り、舟を岸につけて待った。馬三德蘭は、古くからの部の酋長がいて、王に殺され、領地も併合された。その子は仇を返すことを思い、王の居場所を申し上げた。兵は追いかけて至った。王は速やかに舟に乗った。水に入ってこれを追う三騎があり、溺れて死んだ。矢を射て、また及ばなかった。
舟は東南の隅の小島に至った。王は胸と脇の中が苦しく、憂え恐れ病になり島民は粗末な食べ物を捧げ、医薬は乏しかった。病は危篤となり、その子札剌勒丁・鄂斯拉克沙・阿克沙を召して、札剌勒丁が位を継ぐよう命じ、佩剣をその腰に繋げた。数日過ぎて亡くなった。葬儀の道具がなく、死体を土中に埋めた。羅克訥丁は起兒漫に遁れた。半ばが居て残りを載せ、人々を率いて帰り合而拉耳に至った。モンゴルの将台馬司・台納爾が来て攻めた。蘇呑阿盆脫砦に遁れ入った。攻めること半年、砦は破れ、殺された」と言う。多遜はまた「蘇爾灘の母土而堪 哈敦は、烏爾鞬赤にいた。帝は撒馬爾干より、使者丹尼世們を遣わし、行って告げて「哈敦の子は、母に不孝で、私に罪を述べた。私が甘心を得ようと望もうか。哈敦が治める地は、私は攻め入らない。急ぎ信用できる人を遣わして来い。私と向かい合って述べよ」と言った。土而堪は捨て置いて答えず、そして自らは立ち退き去った。以前に併合された諸部落のもとの酋長は、いずれも繰り返し都にいた。変を恐れ、ことごとくこれを阿母河に投げた。
忒耳迷酋長、八迷俺酋長、斡克石酋長、巴爾黑酋長父子、塞而柱克王托克洛耳二子、郭耳王馬赫模特二子、雪格納克酋長二子いずれも死んだ。ただ倭馬爾のむかしの酋長は殺されず、使いが導いて行き、やはり途中でこれを殺した。馬三德蘭の伊拉耳砦に入り、拠商山〈[#訳せない。「商山」が地名なのか書名なのかで拠の意味が変わる]〉、はなはだ険しく高かった。哲別・速不台は蘇爾灘を追って、その砦を測って、中にいる王の母に知らせ、軍を留めて囲み攻め、その水を汲む道を絶った。その月を越して雨がなく、砦の民は渇いて死を望んだ。軍を率いて入り、夕方すぐに雨になった。王の母と妻を太祖の塔里寒の軍中に送り、その幼い孫を殺した。
土而堪は遅れて大軍に従って東に行き、一二三二年になって、喀剌闊倫で没した。王女は四人だった。一人を丹尼世們に与え、二人の娘を察合台に与えた。察合台はその一人を自ら留め、一人をその将に与えた。先に鄂斯滿に嫁していた娘は、葉密爾の一商人が得るところとなった」とも言う。伯哷津は「蘇爾灘が生きていた当時は、最初はその子鄂斯拉克沙を跡継ぎに立てるのを望んでいたとするべきである。海の島に居た時に、改めて札剌勒丁を立てた。その死後に、札剌勒丁は、呼拉商・義闌の国境内に、すでにモンゴル兵はないと聞き、はじめて芒格世拉克より陸に上がり、馬を求め貨勒自姆に行き、その弟鄂斯拉克沙も従って行った。その時に朮赤らの軍はなおまだ貨勒自姆に至らなかった。その守将は徒智貝克里灣と言い、哈勒烏思拉克と言い、火者︀ 的斤と言い、阿忽沙希巴と言い、帖木兒 蔑里克と言い、守兵は九万であった。札剌勒丁はすでに至り、兄弟は不和で、それぞれに党派を作った。
人々は札剌勒丁の勇を畏れ、主とみなして奉公するのを願わず、これを殺すことを思った」と言う。多遜は「土而堪が去った後から、烏爾鞬赤城は主がなく、守兵六万は、多くが康里人であった。札剌勒丁が位を継いだと聞き、みな不服とし、謀って殺すことを望み、事が発覚した。一二二一年二月十日、札剌勒丁と帖木兒 蔑里克は、三百騎で出奔した」と言う。洪氏は「太祖 十五年の末、十六年の初とみなす」と言う。伯哷津は「札剌勒丁は訥薩の道から沙特巴黑に行った(原注「つまり你沙不兒」)。行って阿思特畢失𧶼克の地に至り、モンゴル兵と出会い、一時間ぐらい戦い、先に陣営のうちより逃げ去った」と言う。多遜は「南に沙漠を渡り、呼拉商に入り、訥薩城でモンゴルの遊軍七百人と出会いこれを破った」と言う。
伯哷津は「沙特巴黑に至り、兵士と馬を集めた。三日居て、将は嘎自尼に行き、そしてモンゴル兵が至った。(これは拖雷の軍である。後文で見える)。札剌勒丁はその将蔑里克 伊勒的力克を留め、城外にいて敵を防ぎ、そして自ら嘎自尼に行った。遠くに行くに及び、伊勒的力克も、また他の道より行き、モンゴル兵はこれを追って及ばなかった。札剌勒丁は七日で嘎自尼に至り、その地兵と民の多くがこれを奉じた」と言う。多遜は「札剌勒丁が出奔して三日後、朮赤らの軍は烏爾鞬赤に近づいた。鄂斯拉克沙・阿克沙は、居て守る勇気がなく、また出奔し、兄の後について行った。訥薩に近づき、遊軍に会い、避けて喀侖特耳砦に入った。兵が来て攻めた。砦の人は出て防ぎ、それ乗じる間に逃げ走らせた。モンゴル兵はこれを見て、戦わずに追って行き、勿世特という小さな村落に至った。また他の道より至る遊軍があり、これを殺した。ただ札剌勒丁は抜け出ることができ、海︀拉脫より、東南に遁れて嘎自尼に入った。」と言う
〉命じて忽都︀忽 那顏を先鋒とした。〈都は原書では相、忽の字の後に原書では抜けがある。文田案、この相の字は、この録に拠れば通例であり、また都に改めるべきであろう。通世案、布哷特淑乃德爾はこれを引き、忽都︀忽 那顏とする。つまり秘史の失乞 忽禿忽である。今因んで改め補う。西史はこの事を載せない。しかし明くる年に札剌勒丁を討った時に、失乞 忽都︀忽は実は先鋒とされ、この時にあるいはあらかじめ先鋒の命を受けていたのである。〉秋、分けて大太子と三太子を遣わし、〈通世案、大太子と三太子の間に、おそらく二太子の三字が抜けている。〉左軍を率いて玉龍傑赤〈玉は原書では王で、誤り。秋濤が元史 本紀に拠って改める。文田案、西遊録は五里犍城とする。曽植案、皇輿全覧図に拠ると今の阿母河の東北、鹹海の傍で、烏爾根齊城にあり、玉龍傑赤と対音がこのうえなく近い。おそらく玉龍傑赤は、つまりこの烏爾根齊城である。
通世案、玉龍傑赤は、つまり烏爾鞬赤の転訛で、貨勒自彌国の旧都である。西遊録が言う「蒲華の西に大河があり、西に海に入る。その西に五里犍城があり、梭里檀の母后が居た所で、豊かで人口が多くまた蒲華では盛んだった」の大河は阿母河を言う。昔は阿母河は、布哈爾の西北より、折れて西に、また折れて西南に裏海に入った。よって「西に海に入る」と言う。五里犍はつまり烏爾鞬赤であり、音は最も合い、ただ赤の音を省いている。梭里檀の母后は、つまり土而堪 哈敦である。亦本 浩喀勒地誌に拠ると、阿剌伯人は烏爾鞬赤を卓兒札尼亦と呼ぶ。額忒哩錫地誌も「卓兒札尼亞は、貨勒自姆国の都で、質渾河の両岸にまたがる」と言う。多遜は「烏爾鞬赤は、モンゴル人が称するところと係わる」と言う。
淸一統志は、烏爾根齊城があり、𧶼瑪爾堪城の西にあり、洪氏は「烏爾鞬赤は新旧がある。旧烏爾鞬赤は、阿母河の西流に当たり、河を跨いで城となり、機窪城の西北を二百余里にあたり、鹹海の南を西に偏り三百里で明中葉〈[#「明中葉」は明代の時代区分で1426-1526年]〉の後は、阿母河は砂漠に塞がれ、折れずに西へ、そのまま北に鹹海に入る。城も廃れて久しく、ただ遺址がある。俄羅斯の地図はその地を称して枯尼牙 烏爾鞬赤と言う。枯尼牙の訳義は旧城を言う。これがもとの烏爾鞬赤である。布哈爾の西北の阿母河の城の西岸は、鹹海を南へ東に偏った約五百里にあたり、また烏爾鞬赤城があり、後から来て再び建てたとし、機窪のまっすぐ北に数十里にある。再び北に数十里は、柯提城とし、元史 西北地附録に見え、また喀忒と称する。再び烏爾鞬赤を建てた時は考えられず、もとが後れて存在したとすべきであろう。
この一統志の烏爾鞬赤である。俄羅斯の地図は、音は烏爾坑赤のようである。これを波斯人に問うと、烏爾鞬赤とみなす。赤の字は西域〈底本-395〉語の末尾の字とされ、鞬の意味は都市国家となる。根を訳し坑を訳すと、いずれ鞬の変音である。鞬の字は力を注ぐよう求めて読み、ゆえにあるいは根と訳し、あるいは坑と訳す」と言う。又案、以上は辛巳年(1221年)の原文である。之城以下の八十四字は、旧本は誤って甲戌年(1214年)の末「阿児海哈撒児等」の下に入れており、何氏が校正した。〉の城を攻めた。〈秋濤案、前文の攻玉竜傑赤と合わせて一句とするのがふさわしい。〉軍を集めて意見を聞いた。〈軍は原書では君、秋濤が校改する。〉上はお考えがあり「軍はすでに集まり、三太子が統制するのを許すべきである」と言った。
〈秋濤案、秘史は「太祖は回回の地から帰り、拙赤・察阿歹・斡歌歹の三子に、右手軍を統率し、阿梅︀河を通り、兀籠格赤に至り下営するよう命じた。拖雷に亦魯などの城に行って下営するよう命じた。拙赤らは兀籠格赤に至り下営し、人を遣わして来て「ただいま我ら三人のうち、 誰が取り立てて遣わすのに従うか」と述べた。太祖は斡歌歹が取り立てて遣わすのに従わさせた」と言う。つまりこの事である。斡歌歹は三太子と称し、つまり太宗である。太祖はこの時すでに太宗を跡継ぎと定めており、よって大太子二太子に命令して、いずれもその統制に従った。この録の語意ははっきりせず、秘史の句がこれと比べて詳しいのを頼みとするのみ。
通世案、伯哷津は「朮赤・察合台・窩闊台は帝の命令を奉り、貨勒自姆を討伐した。つまり今の庫爾坑赤、モンゴル人は称して烏爾坑赤とする。この年の秋に、右翼を率いて行った。先鋒の将莽克來は、モンゴル人はこれを称して莽來と言う。札剌勒丁の兄弟の出奔もまた、将軍が多く従って行った。まさに忽馬爾・木忽兒・布喀があり、また統兵の将蔑兒斤人阿里があり、高官と民を合わせて共に守った。首領がないので、諸侯は忽馬兒を挙げて指導者とし、それにより王の母方の一族となったのである。ある日さまよう馬乗りが城下に至り、牛馬を掠めたことがあった。城人はそれが弱いと侮り、城を出てこれを追いかけた。追ってある花園に至り、伏兵が内にいて、追ってきた兵を突然飛び出し囲んで攻め、死者ははなはだ多かった。兵を破って城に入り、モンゴル兵も従って海︀蘭門に入った。日がすでに西に沈んだので、よって退いた。次の日に城を攻め、城将斐里敦古里が五百人を率いて、城下でこれを拒んだ。朮赤の兄弟はすでに至り、巡って城の形勢を見て、降るよう求め下らなかった」と言う。
多遜は「朮赤は「我が父はまさにこの地を私に封じようとしている。母は焼いて掠めることを許した」と軍中に命令を下した。人を遣わして誘って降伏させた。蘇爾灘が海の島に居た時に当たり、城民に「モンゴルを防がぬよう努め、民を出し敵を降し災いを取り除け」と諭させた。守将と兵士は願わず、そのまま堅く守った」と言う。二書はまた「城に近づき石は無く、大木を切って城壁を突き破る車を作った。垣は堅く厚く、すみやかに破れなかった。城は阿母河を跨ぎ、橋を作って通って往来していた。兵を遣わしてその橋を断たせた。三千人が行き、城兵に囲み攻められ、みな死んだ。これより守る者はますます勇敢になった。朮赤・察合台は以前から諍いがあり、軍は和せず、またきまりもなかった。城兵はこれによりたびたびモンゴル兵を破り、七か月経ち城は下らなかった。時に帝はすでに塔里堪にいた。
三子は人を遣わし軍に関する事を行って告げさせた。帝は調べてそれが事実であるとわかり、怒って窩闊台に諸軍を統率するよう命じた」。〉ここにおいて上は兵を進め鉄門関を過ぎた。〈秋濤案、この書は「上は速里壇の避暑の地で駐軍」と言い、しかし元史 紀は「夏は鉄門関で駐蹕」と言う。おそらく元史を作った者は、後文に「兵を進め鉄門関を過ぎた」の語があるのを見て、その言葉を残らず包み込んだので、ひとつの地でないことを知らなかったのである。西遊記は「壬午(1222年)三月上旬、阿里鮮が行宮より至り、思し召しを伝えて「真人は日の出の地より来て、山や川を渡り歩き、勤労のきわみである。今朕はすでに帰り、速やかに道を聞くことを望む。怠らずに私を迎えよ」と言った。重ね重ね万戸播魯只に命令を出し、武装した兵千人で守り鉄門を過ぎた。三月十有五日に出発した。四日、碣石城を過ぎ、鉄門を過ぎ、東南に山を越えた。山の勢いは高く大きく、縦横に石が散らばっていた。多くの軍は車を挽き、まさに二日で前山に至り、流れに沿って南に行った。軍は直ちに北に大山に入って賊を破った。五日、小河に至り、また船が渡った。
七日、舟は大河、つまり阿母沒輦を渡ったのである」と言う。程宗亟同文〈[#訳せない。程同文のことか]〉は「碣石は、明史外国伝は渴石とし、「南に大山が屹立する。峡口を出ると石門があり、色は鉄のようである」と言う。つまり記した所は鉄門と思われる。新唐書は、吐火羅に鉄門山がある。大唐西域記は「鉄門を出て、覩貨邏国に至った。その地は、東は葱嶺がおさえ、西は波剌斯に接し、南は大雪山に阻まれ、北は鉄門を頼みとする。雪山を過ぎると、濫波国となる。つまり北印度の国境にある」と言う。筭端を追った時に、南に雪山を越え、ゆえにこれを印度と考える。
太祖が軍を戻した後、再び将を遣わして追って忻都︀に至り、調べて申河で追いつき、筭端が死んではじめて帰り、つまり印度国の中にいた。阿里鮮は「正月十三日、邪迷思干より始めて出発し、三日で東南に鉄門を過ぎ、また五日で大河を過ぎ、二月一日、東南に大雪山を過ぎ、南に行くこと三日で行宮に至った」と言われる。おそらく阿里鮮は先に行在に赴き、まさに太祖が筭端を追って印度に至った時であろう。ゆえに雪山を越えた後さらに三日ではじめて達した。長春は四月五日に行在に達し、であればすでに帰って雪山に至り避暑していた。よって長春は鉄門を過ぎた後、行くこと十二日で、雪山に阻まれ止まった。渡った所の阿母河は、元史は他のところも暗木河とするのが見え、また阿木河とし、元秘史は阿梅︀河とする。つまり仏教の書の縛芻河である。その水は、今は西北に流れ、騰吉思湖に入る」。秋濤案、程春廬先生は、鉄門の所在を考え、至って学び詳しく明らかにした。ただ秘史の阿梅︀河は、愚考するに国境の外の阿母河とは異なる地であろう。
よそで考え解き明かすことにして、ここに詳しく記すことはしない。通世案、何氏は阿梅︀河を和闐の阿里木河とし、玉龍傑赤を玉隴哈什地とし、解釈は前文の玉龍傑赤のくだりの後で見える。今はその誤りが明らかであり、削って無くす。碣石の名は、夙に伊本 浩喀勒の書に見える。北史西域伝は「伽色尼国の都伽色尼城は、悉萬斤の南にある」と言う。唐書 西域伝は「史国は、或いは佉沙と言い、羯霜那と言う。西に百五十里、那色波とへだたっている」と言う。西域記は「颯秣建国に従って西南に行くこと三百余里、羯霜那国に至り、唐が言う史国である。土は良く風俗は、颯秣建国と同じである」。
元の時代に、巴兒剌思氏は、代々この地にあり、駙馬帖木兒はここで生まれた。土地の習慣ではこれを舍勒色卜自と言い、緑の城と言うようなものである。今俄羅斯の地図は常にすべて舍勒と言う。城の傍に河があり、喀舒喀達里雅という名で、おそらく古名の碣石の名残りであろう。那色波は、つまり魏書の那識波国である。唐書は「那色波は、また小史と言う」と言う。おそらく史所役属とされたのであろう。地理志は那黑沙不とする。察合台五世孫克珀克 汗は、かつてその地に宮殿を建立した。モンゴルは宮殿を称して喀而什と言い、よって後世にその地を称し、また省いて而什となった。音は碣石と近く、しかしもちろん別の地である。鉄門関は、碣石の南五十五英里にある。西域記は「羯霜那国に従って西南に行くこと二百余里で山に入る。山道は険しく、谷の小路は危なく険しい、すでに人里は絶え、また水草も少ない。東南に山を行くこと三百余里で鉄門に入る。
鉄門は、左右に山がめぐり、山は極めて険しく、ただ狭い小道があり、これに険しさが加わる。両脇は石の壁で、その色は鉄のようである。すでに門と扉が設けられさらに鉄鋼を用いている。鉄の鈴が多くあり、諸戸の扉に懸けている。その険しく固いのに因んで、そのまま名となった」と言う。阿剌伯人雅庫畢は鉄門の事を記し、波斯語を用いて、達兒伊阿罕と名付け、城名とした。伊本 浩喀勒は那黑沙不より特兒默特に至って行程を書中に記し、また鉄門もある。額忒里錫は鉄門のそばに有一つの小さな村があると記した。舍哩甫 額丁は明 洪武 三十一年(1398年)春に、駙馬帖木兒が印度より凱旋した行程を記し、阿母河を渡り終え、特兒默特に二日駐留し、その後で碣石に向った。第三日に闊魯噶を過ぎ、つまり鉄門である。その夜は巴里克河のほとりで宿った。第八日に碣石に入った。蘇爾灘 巴伯兒も鉄門を闊魯噶と称した。歐邏巴人は鉄門の事を記し、おそらく克剌費卓より始まった。
明 永楽 二年(1404年)、克剌費卓は喀斯提勒王顯理三世の命を受け、帖木兒に使いした。西暦八月二十二日、特兒默特を出発し、二十五日、高い山のふもとに至った。一つの渓谷の通路があり、名は鉄門と言った。両脇は石の壁で、人の手で削って仕上げたかのようである。その路は平たくはなはだ深い。渓谷の中に一つの村があり、村の後ろの山ははなはだ険しい。鉄門の外は、山は通る道がなく、ゆえに撒馬爾干の要害とされる。印度より来る商売人は、みなここを過ぎ税を納めた。帖木兒 伯克はそれによって大きな利を得た。地元民は「昔は渓谷の中に大きな門があり、鉄でこれを包んだ」と言う。二十八日、碣石の大きな城に至った。明史は「渴石を西に三百里、大きな山が屹立し、中に石の渓谷がある。二三里行くと、渓谷の出入り口に出て、石の門があり、色は鉄のようで、番人は鉄門関と呼んだ」。おそらく明の時代には〈底本-396〉鉄門は、すでに本物の門がなかった。克剌費卓の後、歐邏巴人がこの地を通らないこと、四百七十一年であった。
光緒元年(1875年)、俄羅斯人馬葉甫は希撒爾山地及び阿母河上流の北源諸水を探すことを望み、喀而什より拜遜に向かった。察克察河の広い谷川を渡り終え、たちまち鉄門の峡谷に至る。地元民はこれを布自果剌喀那と呼び、訳した意味は山羊の舎となる。近くの峡の北口は、沙勒撒爾卜自の路であり、喀而什の路と合う。光緒四年(1878年)、俄羅斯の将斯托埒托甫は兵を率いて阿富汗国に赴き、やはりこの地を過ぎた。軍医雅佛勒斯奇はその行程を記し、峡路の有様をかなり述べている。俄羅斯人が作った突︀而奇斯單の詳しい地図に拠れば、峡路の長さは一英里半あり、西北より東南に向い、分水嶺を横断する。そそり立つ崖の挟路は、道幅が三十歩、あるいはわずか五歩である。察克察河は西北に流れ、北口に出て、折れて北に流れる。南口の外は舒剌卜小河があり、南に流れ施剌巴特河に入る。道は南口に出て、二つに分かれる。
大路は折れて東に、五英里で德而邊特に至り、また東に拜遜及び希撒爾に至る。小道は分かれ南に向かい、施剌巴特に至り、阿母河に至る。伯哷津は「帝は蛇年の秋に、撒馬爾干より出発して行き、拖雷 汗とともに那黑沙不に行き、道中で遊牧し、帖木兒 嘎哈兒哈を通った」と言う。帖木兒の意味は鉄となる。嘎哈兒哈は、前文の闊魯噶であり、意味は関門となる。
〉四太子は也里・泥沙兀兒などのところの城を攻めた。〈文田案、也里は太祖 本紀で見える。泥沙兀兒は、つまり西北地附録の乃沙不耳である。曷思 麥里伝は你沙不兒とする。曽植案、泥沙兀兒が、元史 本紀は匿察兀兒とする。又案、秘史蒙文は亦薛不兒とし、すべて二つが見える。通世案、也里は後文の野里、泥沙兀兒は後文の慝察兀兒で、ともに後で見える。伯哷津は「拖雷 汗を遣わし、行かせて呼拉商を平定させた」と言う。多遜は「拖雷に命じて兵を率いて呼拉商に行かせ、哲別・速不台を後援とし、そのまだ平定していない地を平らげた」と言う。也里・泥沙兀兒などいずれも呼拉商州の中の名高い街である。〉上は自ら迭兒密城を攻め取り、〈文田案、迭兒密は、つまり西北の地の忒耳迷である。薛塔剌海︀伝は、帖里麻とする。曽植案、迭兒密は、つまり大典地図の忒耳迷である。西迷地附録も同じ。通世案、迭兒密は、漢書西域伝の都︀密で、唐書 西域伝の呾密である。西域記の覩貨邏国のくだりは「縛芻河に従って北に向かい、下流は呾密国に至る」と言う。大典図では、忒耳迷は巴里黑の北にある。俄羅斯地図の迭兒迷斯跡は、阿母河の北岸で、蘇兒喀卜河口を西北に十一英里は、巴勒黑の東北にあたる。迭兒迷特の名は、費兒都︀錫の詩史で見える。
伊斯塔克里地誌に拠ると、卜哈拉・撒馬兒干より巴勒黑の路に至り、迭兒迷特を通る。帖木兒は撒馬爾干より巴勒黑に至り、常に迭兒迷斯で河を渡った。今の渡し場は移ってその西にある。綱目は帖力迷とし、伯哷津は「帝は自ら率いて迭兒迷斯に至った。城は河にせまる」と言う。多遜は「城に開門して降伏を受け入れるよう叫び、応えなかった」と言う。伯哷津は「攻めること十日でこれを破り、民を城から追い出し、各軍に分けた。ある老婦は大珠を隠していた。これを求め、献じるのをよしとせず、口に呑んだ。その腹を裂いて珠を出した。これより死者の腹の多くが裂かれた。連格兒特薩蠻に至り、また殺して掠めた。軍を分けて巴達克山を収めた。
半ばは兵力によって、半ばは招撫によって、みな平定し、命令に抗う者はなかった。質渾河の北はことごとく平定され、そのまま質渾河を渡った。時はすでに冬の終わりであった」と言う。質渾は、阿母河の旧名である。昔はこれを瓦克疏河と言った。瓦克疏は、今は阿母河の北源の大河の名とする。希臘人の鄂克蘇斯、漢書の嬀水、西域記の縛芻、いずれも瓦克疏の転訛である。阿剌伯人はこれを質渾河と言い、突︀兒克人はこれを阿母達哩雅と言う。河岸に阿母勒城があり、今の名は察兒錐である。阿母の名はおそらくこれを根本とする。
洪氏は「この役は十五年(1220年)冬にあったとすべきである。元史 張栄伝「太祖に従い、西域諸国を征伐した。庚辰(1220年)八月、莫蘭河に至り、渡れなかった。太祖は呼び寄せて河を渡る策を問うた。張栄は舟を造るよう求め、一か月を限りとした。そこで工匠を率いて、百艘の船を造り、ついに河を渡った」。考えるに一か月の期限ははなはだ速い。もしかすると元史はその話をすばらしいとして書いたのかもしれない。そしてまた必ず十五年(1220年)冬にある。阿母河は、阿母耳河とも言う。莫蘭はこの母耳の転訛のようである。思うにモンゴルは河を沐漣と言い、おそらくただ河を重ねて言ったのであろう」と言う。〉さらに班勒紇城を破り〈通世案、班勒紇は、大典の地図は巴里黑とする。俄羅斯の地図は巴勒黑と称し、他国の地図はあるいは巴勒克と称し、西域最古の名城である。希臘の史家はこれを巴克特拉と言い、その州を巴克特里雅那と言う。漢書の撲挑、後漢書の濮達、魏書の薄羅・薄提、おそらくみな巴克特拉の訛略であろう。周書の拔底延、唐書の縛底野は、おそらく巴克特里雅那の訛略であろう。
西域記は「縛喝︀国は、北は縛芻河を臨む。国の大きな都城は、周の長さが二十余里で、人はみなこれを小王舎域というのである」と言う。縛喝︀は、つまり巴勒黑である。伯哷津は「蛇年春、巴勒黑に至った。官民は礼物を贈った。戸口を調べ、民に城を出るよう命じ、各軍に分けた。終えるとことごとくこれを殺し、民の住居を平らげて壊した」と言う。多遜は「巴勒黑城は迎えて降った。帝は将を南に行かせ、その城に留まり、あとで道が災難になるのを恐れ、民をことごとく出し、城を焼いた」と言う。洪氏は蛇年を馬年と改め、曰「多分これは訳の誤り。おそらく前文で已に蛇年の夏秋があり冬の末に至って、再び蛇年にはできなかったのであろう。本書と西史は、西征の役を述べるのが、いずれも誤って後ろに一年移っており、ゆえに辛巳年(1221年)を壬午年(1222年)とした。但し巴勒黑の役は、本書は辛巳(1221年)秋とし、西史は壬午(1222年)春とし、二書もまた互いに合わない。又案、西游記は「八月十五日に河のほとりに至り、その勢いは黄河のようであり、西北に流れる。舟に乗って渡り、その南岸で宿った。
河の東南を遡って行き、三十里ではじめて水が無くなり、その夜に行き、はなはだ大きい班里城を過ぎた。その衆は新たに叛いて去り、なおも犬が吠えるのが聞こえた」と言う。河の勢いが黄河のようであるのは、阿母河と思われる。河を東南に遡って行ったのは、おそらくその支河であろう。班里はつまり巴勒黑であり、西遊録も班城とする。ともに黒の字音が欠けている。元史 巻百三十七「察罕は、西域の板勒紇城人である。父伯德那は、歳庚辰(1220年)、国軍が西域を下して、一族こぞって身を寄せた」。おそらく巴勒黑の役は庚辰年(1220年)にあったのであろう。明史 坤城伝の後文に、やはり把力黑部がある。布哷特淑乃德兒は「速不台伝は必里罕城とし、曷思 麥里伝は阿剌黑城とする」と言う。〉塔里寒寨を囲んで守った。〈塔は原書では哈、寒の字は原書では欠けている。秋濤が元史 本紀に拠って寒の字を増やす。文田案、哈里寒を塔里寒とする。曽植案、哈は元史 本紀に拠って塔とする。文廷式案、これはおおむね西北地附録の塔里干。通世案、大典の図では、塔里干は巴里黑の西北、麻里兀の東にある。
西域記は「縛喝︀大城に従って西南に雪山の奥に入り、銳秣陀国に至り、銳秣陀国を、西南に胡寔健国に至る。胡寔健国を、西北に呾剌健国に至る。呾剌健国は、西に波剌斯国との境に接する」。呾剌健は、つまり塔里干である。伊斯塔克哩地誌では、托喀哩斯單都城は、泰堪と言い、巴勒克の東にあり、巴達克山に近い。斯普連格兒は阿剌伯人の地誌を引いて、托喀哩斯單のある城は、名を塔亦堪と言い、默兒甫 阿而嚕德の属城は、名を塔里堪と言う。また畢嚕尼の地図を引いて、塔里堪は巴勒克と默兒甫 阿而嚕德の間にあり、塔亦堪は巴勒克の東にある。額忒哩錫に拠ると、塔里堪は二つある。一つは托喀哩斯丹にあり、巴勒克の東にあたる。一つは科喇散にあり、巴勒克の西にあたる。東にある阿布勒佛達を泰堪とし、西にあるのを塔列堪とする。おそらく塔列堪は二つある。西にあるほうは、つまり西域記の呾剌健で、元史 地理志の塔里干である。東にあるほうは、西域記と元史 地理志のいずれも載せていない。
そして馬兒科 保羅は、巴勒克より東に行くこと十二日で、泰堪寨に至った。この村は今なおあり、塔列堪と称し、昆都︀斯の東にある。道光 十八年(1838年)、英国人烏德がその地に至り、一つの貧しい村である。伯哷津は「帝は塔力堪に至り、その寨を攻めてこれを取った。また諾司雷脫柯寨を囲んだ。極めて堅固で、守る者はみな死を覚悟した兵士だった。七月末に下った」と言う。多遜は「帝は塔列堪山中に入り、諾司雷脫柯寨を攻めた。先ず〈底本-397〉将を遣わして行かせた。山が険しいので、六月に攻めてまだ下らなかった。大軍が至って猛攻し云云」と言う。伯哷津に拠れば、塔力堪寨の外は、別に一つ堅い寨があった。多遜に拠れば、諾司雷脫柯は、つまり塔列堪山寨である。元史と親征録いずれもただ塔里寒寨と言い、おそらく伯哷津は誤っている。西史は塔列堪の場所を言わない。多遜は地図を作り、昆都︀斯の東にあるのをこれに当てる。それを見ると山中にあり、帝がここで避暑し、多遜の説に従って良いようである。〉冬、四太子はさらに馬魯察葉可・馬廬・
〈秋濤案、監本の元史 本紀は、馬魯とする。〉昔剌思などの城を取り、〈通世案、馬嚕察葉可は、多遜は馬嚕察克とし、默兒甫に属する町である。馬盧は、つまり默兒甫で、大典の地図は麻里兀とし、巴里黑の西を北に偏ったところにある。阿剌伯人地誌は、默兒甫を馬嚕とし、あるいは默嚕とし、あるいは馬兒甫とする。二つの城があり、一つの名は默嚕沙希展で、一つの名は默嚕阿勒嚕德である。いずれも默嚕魯德河岸にある。默嚕嚕德河は、つまり今の穆兒噶卜河である。馬嚕の名は、祆敎の古い経典で見える。洪氏は「後漢書の安息東界木鹿城は、号して小安息とし、洛陽と二万里離れている」と言う。
木鹿はつまり馬魯である。国境の道のりは、いずれもさほど誤っていない。新唐書 巻二百二十一下 大食伝「呼羅珊木鹿人」。馬嚕は呼拉商部内の四大城の一つとする。伝は呼羅珊の木鹿人と言ったとすべきで、文の意味は明らかである」。諸書を調べるとただ馬嚕と言い、いずれも默兒沙希展而馬嚕察克と言い、つまり默嚕阿而嚕德である。その町はなおあり、默兒甫の東南を百十英里にある。昔剌思は、多遜は塞喇克斯とし、また薩喇克斯と言う。よって城は默兒甫の西南にあり、赫哩嚕德河の東岸は、今は俄羅斯に属する。西岸にも一つ砦があり、名を新薩喇克斯と言い、波斯国に属する。地理志に撒剌哈歹があり、乃沙不兒・巴瓦兒的の間にある。布哷特淑乃德兒は歹を西と改め、「つまりこれは撒喇黑斯である」と言う。
伯哷津は「拖雷 汗は先ず帖木兒 嘎哈兒哈より進んで征伐した。自ら中軍を率い、他将は左右翼を率い、蔑魯察克の路に沿って下り、巴哈黑速兒を通って、みなこれを取り、蔑而甫を取り、你沙不兒に至り、さらに塞剌黑思・阿陛攸兒特・捏速を取り云云」と言う。捏速は訥薩である。多遜は「拖雷の一軍は、脫噶察兒を先鋒として、阿母河を渡り、訥薩に至り、捕らえた民は石と木と大砲を運んだ。半月攻めて、城は破れた。兵は隙間から入り、大いに屠戮した。三日駐留し、喀侖特耳砦に向かった。高く険しいため下すのは容易でなく、服や皮衣やいろいろなものを献じて繰り返すよう命令して許した。
一二二〇年十一月(太祖 十五年 冬)、你沙不兒に至り、それがすでに降ったことを知らず、ほしいままに殺し掠めた。城兵は脫噶察兒を射殺し、別の将が代わってその軍勢を統率した。兵が少ないので城を攻めなかった。二軍に分けた。一軍は薩伯・窪城に至り、自ら三日でこれを破った。一軍は徒思に至り、それに属する砦を下した。馬魯は、塞而柱克朝の故都である。哲別軍は馬魯察克に至り、馬魯守将巴哈夷倭兒は先に遁がれ、馬魯の民は人を遣わして降伏した。昔の守将木直而倭兒は蘇爾灘に従って西に奔った。蘇爾灘は亡くなり、戻って馬魯に至り、守備を話し合った。降ることを望まない民は、城主のために奉じ、士卒もこれに味方した。その降ることを望む者は、災いが及ぶのを恐れ、塞拉克斯のモンゴル軍中に告げて明らかにした。巴哈夷倭兒はすでにモンゴルに降り、行ってその地を収めるよう請い、兵を使い助けて行った。至ってことごとく殺した。
一二二一年二月二十五日(太祖 十六年 正月)、拖雷は安狄枯城を下し、そのまま馬魯を討った。先ず城外の突︀兒克人を追い払い、力を奮って城を攻めた。木直而倭兒は持ちこたえられないことを知り、そこでこれを許すかのようにだまして降ることを求めた。軍は城に入り、親族をあわせてことごとく誅殺した。城民はただ工匠と婦女と児童が免れることができた。塞而柱克故王散者︀耳の墓を暴いた」。案、三城を取った順序は伯哷津は本書と同じである。多遜に拠ると、馬魯を討つ前に、塞拉克斯はすでにモンゴル軍にいた。塞拉克斯は先に下り、そして馬魯が後れて平定されたのである。また訥薩の戦いは、多遜は諸城の前にある。伯哷津はこれを塞拉克斯の後につらねる。
訥薩は塞拉克斯の西北にあり、地勢によってこれを考えると多遜は誤っているようである。また脫噶察兒は拖雷の先鋒とされ、你沙不兒で死んだ。伯哷津に拠れば、哲別・速不台に従って、古兒只の地で死に、多遜と異なる。後で見える。〉さらに兵を進め、〈秋濤案、「之城」よりここまで、旧本はいずれも甲戌年(1214年)末にある。今甲戌年を考えるに、西域征伐の事はない。元史 本紀を調べると「辛巳(1221年)夏、鉄門関で駐蹕した。秋、帝は班勒紇などの城を攻めた。冬に皇子拖雷は馬魯察葉可・馬魯・昔剌思などの城を取った」とある。ことごとくこれと合う。であればこれは辛巳(1221年)年の事となり、錯簡が前にあることは、疑いない。今考え正してここに移す。〉
壬午(1222年)、〈十七年、宋 嘉定 十五年、金 宣宗 元光 元年。通世案、多遜及び西游記は、これを太祖 十六年 辛巳(1221年)とする。多遜に拠ると、太祖は塔列堪寨を囲み、拖雷は馬魯城を取り、いずれも辛巳年(1221年)の事とする。本書と元史 及び伯哷津は、いずれも誤って後ろに一年移している。〉春、さらに徒思・慝察兀兒などの城を取った。〈秋濤案、「さらに…を取った」と言うのは、第四太子がこれを取ったということである。元史の紀は「皇子拖雷は徒思・慝察兀兒などの城を取った」と言う。今まさに移して改めた所と言葉つきが合う。通世案、徒思は、西域の昔の名城である。長く伝わる話では神話時代の札姆施特王の創建とされる。唐 憲宗 元和 四年(809年)、哈里發だった哈侖 阿勒 喇施特がこの地で崩御し、就いてはここに葬られた。詩人費兒都︀錫と数学者那斯哷丁は、いずれもここで生まれた。南宋の時に呼拉商の首府となった。
モンゴルが来たのは、惨禍に重ねて遭ったようなものである。前年すでに速不台が攻めるところとなり、今また拖雷に遇い、城も壊された。元 太宗 十一年(1239年)、モンゴルの官人庫兒古は再び城を建てることを司った。その後に城市は衰えて廃れた。道光 三年(1823年)、英人弗喇塞兒が徒思の遺址を訪れ、默舍特の西北に十七英里にある。大典の地図は途思とし、巴達哈傷の北にあり、篤來帖木兒に属する。位置は大いに誤っている。慝察兀兒は徒思の西にあり、呼拉商四大城の一つである。地理志は乃沙不耳とし、曷思 麥里伝は你沙不兒とする。巴而朮伝は你沙卜里とする。你沙卜里・你沙不兒は音が最も合う。そして阿布勒費達は「波斯人は你沙兀兒として呼ぶ」と言い、であれば兀とするのも悪くない。你沙不兒は、波斯の古城である。希臘や羅馬の古書は你色阿と言い、祆敎の古い経典は你𧶼阿と言い、いずれもこの城である。そして阿剌伯・波斯史家はあるいは「薩散朝沙玻兒王がこれを建て、王の名から取って名とした」と言う。伯哷津は「拖雷 汗は塞剌黑思・阿陛攸兒特・捏速・徒思・札只闌・朱溫八吉克・哈甫・𧶼罕・魯達巴特を取り、また你沙不兒を取った。いずれもこの年の春にあった」と言う。
多遜は「拖雷は馬魯の西より你沙不兒を討った。城に砲兵三千があり、砲は五百を備えていた。拖雷も砲兵三千人を用い、他の場所から石を運んで至り、雲梯と火箭で助け、もろもろ計って囲んで攻めた。降るよう求め、認めなかった。四月九日(東暦三月中)、城は破れた。托噶察兒の妻は、万人を率いて城に入り、人畜に出会えばことごとく殺し、夫の仇に報いた。拖雷は積まれた死体の中に人が隠れていると聞き、ことごとくその首を断つよう命じ、男女の髑髏を分け、うず高く山となし、その城を滅ぼした。ただ工匠の四百人は死ななかった。徒思は先に速不台に降り、兵が去るに及ぶと、留守の者が殺された。拖雷は部将を先に遣わしその城を下した。やがて軍を分けてこれを踏みにじり、城外の哈侖 阿勒 喇施特の墓を壊した」と言う。〉上は暑気が盛んなので、使いを遣わして四太子を招いて速やかに帰った。
〈通世案、伯哷津は「この年の春、帝は塔里堪より、拖雷 汗を召して、大いに暑くなる前に宿営地に帰った」と言う。本書は「暑気が盛ん」と言い、気象のくだりがやや異なる。秘史は「人を遣わして行かせ拖雷に対して「天気は暑く、私に会いに来るべきである」と述べさせた」と言う。本書と文意は同じである。〉〈底本-398〉木剌夷国を通ったついでに大いにこれを掠め
〈通世案、木剌夷、元史 本紀の太祖紀は本書と同じ、太宗紀は木羅夷とし、憲宗紀は沒里奚とし、郭侃伝は木乃兮とし、劉郁西使記は木乃奚とする。多遜は木剌希達とし、国名ではない。伊斯埓姆敎の中の異派の種落の名に係わる。訳した意味は正しい道から迷い道に入った家となる。おそらくその同敎の人がこれをこのように罵ったのであろう。喇施特は称して伊斯馬額勒敎徒と言う。伊斯馬額勒は、宗祖のところの弟子である。北宋の時、互いに連れだって、波斯の地に至り、第楞に住み、阿剌穆特砦を奪い、嚕忒巴兒砦を占め、分かれて仲間を遣わし、裏海の西南の山内の険しく狭いところに、砦を築いて住んだ。裏海の東南の苦希斯單の地もここのようである。
その敎規は「すべての徒党は、必ず仇を殺して教えに奉じるべきであり、陰謀と行って刺し、必ず死に至ってそこで終えよ。」刺客を蓄えてはなはだ盛んにあり、四隣はこれを恐れた。太祖は西征し、大軍が阿母河を渡り、木剌希達酋長の哲剌勒丁 哈散は使いを遣わしてよしみを通じた。元史訳文証補に、その興亡を詳しく述べた木剌夷補伝がある。多遜・伯哷津いずれも「拖雷は苦希斯單を過ぎた」と言う。苦希斯單はつまり木剌希達東部の諸砦があるところであり、你沙不兒の南、默兒甫の西にあり、山中に群れた。〉溯搠蘭河を渡り〈文田案、上の溯の字は、元史はまた搠とする。
通世案、貨特哷迷兒は沙囉克の事を述べ「沙囉克は卓克卓闌河に至り、父帖木兒と会った」。つまりこの搠搠蘭河である。毛剌那舍哩佛丁戦勝史に拠ると、卓克卓闌河は、你沙不兒より安忒奎に至る道にあり、穆兒噶卜河の西である。おそらくこれは赫哩嚕德河を指すのであろう。伯哷津は「拖雷 汗は苦希斯單より、枯姆折闌河を過ぎ、赫喇特城を取った」。枯姆折闌は、つまり卓克卓闌の転訛である。秘史蒙文は「拖雷は亦魯などの城を取り終え、搠搠闌河を渡り、出黑扯連城を攻めた。城が破れた後で軍を帰し、太祖と会った」と言う。出黑扯連と卓克卓闌は音が近い。おそらくこれは城名を取って河名としたのであろう。
〉野里などの城を取った。〈秋濤案、元史は也里とする。通世案、秘史は亦魯とし、今の赫喇特城である。古代はこれを阿哩牙と言い、中世は赫哩と言い、あるいは哈哩と言い、呼剌商を四大城の一つとする。大佐祐︀勒が引くところの喀塔闌地図は額哩とし、本書と音が合う。明史 西域伝は「哈烈は、別名で黑魯と言い、撒馬兒罕の西南三千里にあり、嘉峪関を行くこと一万二千里、西域の大国である。元の駙馬帖木兒はすでに撒馬兒罕の君主で、さらにその子沙哈魯を遣わして哈烈を頼みとした」と言う。つまりこの地である。今は阿富汗国に属する。洪氏は「俄羅斯は印度を狙うことを望み、ここは要衝となった。
英国は阿富汗を助け、砲台を築き、防衛に備えた。海︀拉脫の東は、印度固斯大山となり、横たわって南北をさえぎり、行軍は勝手が悪い。ゆえに海︀拉特は阿富汗の門戸となり、またつまり西北印度の門戸であった。英人はゆえに越境して助け守ったのである。你沙不兒を東南に五日ほどである」と言う。多遜は「拖雷は苦希斯單より、赫喇特に至り、力を入れて攻めること八日、両軍の死傷ははなはだ多く、守将も倒れた。民はそこで降伏を請うた。ただ守兵一万二千人を殺し、凱旋して太祖の命を受け、東に塔列堪に行き軍と出会った」と言う。〉上はちょうどその時塔里寒寨を攻めていた。〈塔は原書では哈、寒の字は原書では欠けている。秋濤が元史に拠って寒の字を補う。通世が元史に拠って哈を改めて塔とする。
〉お目通りが終わり、いっしょになって兵がこれを攻めた。〈通世案、伯哷津は「拖雷 汗は赫喇特城を取り、そこで帰って帝にまみえ、兵を合わせて塔力堪堅寨を攻め、やっとこれを下した」と言う。多遜は「大軍が至り、猛攻し、垣を多く壊し、守兵は潰えて遁れた。ただ騎兵は抜けることができ、歩卒はことごとく死んだ。およそ七月の始めに下し、攻め滅ぼしてこれを崩した」と言う。〉三太子は玉龍傑赤城を取った。〈玉は原書では王、秋濤が校改する。通世案、伯哷津は「窩闊台は両兄のところに至り、極めて和解に力を入れた。軍は再び奮い立ち、力を入れて攻めこれを下した。城内の多くの場所を守りに用い、町は七昼夜戦った。民を野に追い立てること、約十万人。婦女と児童と工匠を軍に従わせ、男は敵の前で対面するのに用いた。およそモンゴル兵一人に、二十四人を分けて得た。民を数えて兵に充てた者は、数が五万を越えた」と言う。洪氏は「もしこのとおりであればモンゴル兵は二千余に過ぎない。はなはだ少ないのは免れない。
あるいは他族の兵には、民を分けられず、ゆえにこの数を得たのであろう」と言う。多遜は「民を軍に分け尽くし、一兵は二十四人を得た。やがてことごとくこれを殺し、ただ工匠と婦女と児童は免れることができた。堰を切って河水をその城に浸した」と言う。伯哷津とやや異なる。伯哷津はさらに「城中を燃やしほとんどを壊し尽くした。城に捏直哀丁 克兒費という敎士がいて、名声と人望はかねてから目立っていた。帝は以前にこれを聞き、人を遣わして速やかに城を出るよう告げさせ、災いを被るのを免れ、さらに加えて百人が従って行くことを許した。捏直哀丁は「親族ははなはだ多く、みな城にいて、人々と生死を共にすべきである」と言った。城が破れるにいたってやはり死んだ」と言う。〉大太子は営所に帰った。寨が破れた後、二太子と三太子は、やっと帰ってお目通りした。
〈始の字は原書では欠けている。張石州が翁方綱本に拠って姑の字を増やす。秋濤案、姑を始とする。朝は原書では誤って相とし、秋濤が校改する。通世案、伯哷津云「塔里堪寨はすでに下り、察合台・窩闊台は貨勒自姆より来て謁した。朮赤は、貨勒自姆より、荷物を整えて行った」。洪氏は「おそらく軍を別のところに移し、親征録が言うところの営所に帰ったである」。多遜も「朮赤はそのまま鹹海・裏海の間に駐留した」と言う。元史・秘史は並んで「三皇子はともに来た」と言い、おそらく誤っている。
洪氏の朮赤補伝は「時に太祖はまさに哲別・速不台に命じて、北に奇卜察克を征伐して裏海の西に沿って行かせようとしており、しかし大軍はいずれも東南にあり、ふさわしくない。まさに朮赤に命じてそのまま東に鹹海・裏海の間に駐留させ、遠いので声援した」と言う。自注「西書もこの意見に及ぶのは見えず、ただ朮赤が来なかったとのみ言う。地図を見れば、裏海の東であり、絶対にこの一軍が無かったことはありえない。ただもともと南軍は路を遅れたのではなく、重ねて西の将軍として兵を助けたのである。哲別補伝は、朮赤の事で軍を助けたとあり、これはその確証となる」。〉この夏に、塔里河の寨から高原に避暑した。〈通世案、元史 本紀は河を寒とする。伯哷津は馬年夏と言い、誤って本書と同じ。多遜は一二二一年夏と言い、つまり太祖 十六年 辛巳(1221年)、西游記と合う。金が烏古孫 仲端を使わして太祖に謁見させたのは、おそらくこの時であろう。
十六年(1221年)十月中旬、長春は西遼ゆかりの地に入り、東夏の使いに出会って帰ったのは、つまり仲端である。帳前で長春師におじぎした。ついでに「何時から来ているのか」と問うた。使者は「七月十二日より朝を暇乞いした。帝は兵を率いて算端汗を追い、印度に至った」と言った。金史 宣宗紀「興定 四年(1220年)七月、烏古孫 仲端などを大元に使わした。五年(1221年)十二月丁巳、礼部侍郎烏古孫 仲端は翰林待制安庭珍を北に使わして帰り、それぞれ一階級昇進した」。忠義伝は「仲端は使いの役目を承り、大元に和を乞い云云。西域に至り、進んで太祖皇帝とまみえ、その使いの事をし、ようやく帰った。興定 四年(1220年)七月に旅立ち、明くる年の十二月に帰って至った」と言う。金 興定 四五年は、つまり元の十五 十六年(1220年、1221年)である。
劉祁が撰したところの北使記は「五年(1221年)十月に至って結果を報告した」と言う。十の下に二字抜けている。十月中旬、仲端は西遼ゆかりの地を過ぎ、どうしてその月に汴京に至ったとできるであろうか。北使記に拠れば、四年(1220年)十二月初めに、北の国境を出て、五年(1221年)四月上旬に、西遼に至った。そうであるならば西遼より行くこと三か月、七月の初めに行宮で謁見し、暇乞いして帰りまた三か月、十月中旬に西遼を過ぎ、また二か月して結果を報告したのである。元史 本紀 十六年 辛巳(1221年)「金主は烏古孫 仲端を遣わして、国書を奉じて和を請い、帝を称して兄とし、許さなかった」。十七年 壬午(1222年)さらに「秋、金は再び烏古孫 仲端を遣わして来て和を請い、帝に回鶻国でまみえた。帝は告げて「私は以前にお前の主が私に河北の地を授けることを望み、お前の主が河南王になって、彼と私が戦いを止めるよう命令したが、お前の主は従わなかった。今木華黎がこれをことごとく取り終えて、ようやく始めて来て請うのか」と言った。仲端は痛ましそうに請うた。
帝は「お前が遠くから来たことは考える。河北はすでに私が持っており、関の西の数城でまだ下っていないものは、それを割って私に付け、お前の主が河南王になるよう命令する。再び違えるな」と言った。仲端は帰った」と言う。一事を重ねて両年に叙べて、やはり訛答剌・蒲華・尋思干の例と同じである。〉時に西域の速里壇 札蘭丁は遁れ去った。〈秋濤案、丁は後文で木とし、丁を正しいとすべきである。〈底本-399〉元史の文は丁とし、改めて鼎とする。秘史は回回王札剌勒丁。つまり筭端である。札蘭丁と筭端は、音も互いに近い。通世案、何氏の末の一句は蛇足に属する。札蘭丁はつまり札剌勒丁で人名である。算端は蘇爾灘であり、西域王の号である。このくだりはつまり多遜・伯哷津が述べるところの札剌勒丁が烏爾鞬赤の道から嘎自尼に入った事である。詳しくは前注で見える。
多遜は「帝は札剌勒丁が嘎自尼に居て未だ下らず、三子を率いて親征することを話し合った。秋に塔里堪より南に行き、戦勝を経て大きな城に歩いて行き、一月にこれを下した。興都︀固斯大山を越え、八米俺に至り、その城に向き合って突き留まりこれを攻めた」と言う。伯哷津は「この時察合台の子謨阿圖堪は、矢で傷つき死んだ。帝はこの孫を最も愛し、力を入れて攻めるよう命令を下した。やっと下し、出会った生物はことごとく殺し、その地を名づけて卯庫兒干と言った。(モンゴル語で、卯は、良くないである。庫兒干は、豁兒合の転訛で、意味は寨を言う)。今に至りこの地は人家の煙がない。帝は察合台が謨阿圖堪の死を知らないようにさせた。ある日諸子が食事で侍り、帝は怒りを発するふりをした。察合台は恐れ慌て地に跪き、「もし父に従わなければ死を命じよ」と言った。帝は「この言葉を拒むのを戒める」と問うた。いつわらないことを力を込めて誓った。
帝はようやく「謨阿圖堪は陣没した。私は軍中に悲しまないよう命令した。お前は我が命令に従うべきである」と告げた。察合台は言葉を聞いて目がくらみ、涙をこらえ侍して食事しもとのままであった。やがて出て野外に至り痛哭し、やっと引き返した」と言う。多遜が述べるあらすじは同じである。但しこの役は多遜に拠ると、塔里堪駐夏の後にある。しかし伯哷津は先にこの役を述べ、その後「この夏、帝は塔力堪に駐留した」と言う。この八米俺を平定し終えて、再び塔力堪に帰り、後で再び興都︀固斯山を越えたのである。いずれが正しいかわからない。元史と親征録はどちらも八米俺の戦いを載せず、ついでにここに附記する。〉遂に哲別に命じて先鋒としこれを追わせ〈秋濤案、哲別は、伝は只別とする。〉再び速不台 拔都︀を遣わし継がせ、また脫忽察兒を遣わしてその後の殿軍とした。〈秋濤案、原書は脱の下に児の字が余分にある。今削る。
〉哲別は蔑里可汗の城に至り、攻めず通った。速不台 拔都︀もこのようであった。脫忽察兒が至り、そのほかの軍と戦った。蔑里可汗は恐れて、城を棄てて走った。〈通世案、三将が蘇爾灘 謨罕默特を追ったのは、出来事は前年にあり、詳しくは前注で見える。西史は一方では汗蔑兒克の叛服を述べ、ついでに三将の追撃の事を追記する。本書は札蘭丁を追わせたとし、おそらく誤って訳している。伯哷津は「哲別・速不台が蘇爾灘を追ったとすべきであり、脫噶察兒が続いて進んだ。蔑而甫酋長汗蔑里克は、自ら国勢を破り崩し、蔑而甫の地は、長く居られず、そこで兵を率いて古耳の古兒只境内に行き、人を遣わし帝に降るのを聞き入れた。帝は直ちに哲別・速不台らに命令し、汗蔑里克の地を通ったならば、欲しいままに乱させぬよう命じた。二将は命令に従い攻めずに去った。
脫噶察兒は遅れて至り、欲しいままに軍が脅かし奪い取り取り立て求め、すっかり昔の有様のようであった。その地と山に住む人と戦い、脫噶察兒は陣没した。汗蔑里克は、人を遣わし帝に告げて「私は我主謨罕默德 貨勒自姆 沙に降伏を勧めたが、我主は従わず、まさにそれ自ら滅亡を取った。私はひたすらに帰順する。哲別 諾延は我がところを通り、乱さずに去った。速不台もこれに同じであった。しかし脫噶察兒ひとりはこれと同じではなかった。山に住む人は、降服したことを告げたが、彼は聴かず、もとのまま脅かして奪い取り、八剌克勤の人及び山に住む人を追い出し、交戦に至ったことで命を落とした。もしこれが重大であれば、どうしてこれらの人に兵を率いさせるべきか」と言った。なおも衣服を帝に贈って詫びとした。そして汗蔑里克は恐れ極まり不安であった。さらに札剌勒丁が奔って嘎自尼に至ったのを聞き、人々が集まり勢いが盛んで、再び人を遣わして行って付き従わせた」。
多遜は「脫噶察兒は拖雷の先鋒となり、你沙不兒城に至り、それがすでに降ったことを知らず、ほしいままに殺掠し、城兵に射られて死んだ」と言う。すでに前注で見える。これと異なる。多遜はおそらく志費尼の書にもとづき、喇施特としばしば合わない。洪氏は「汗蔑里克は、みな国主ではない。あるいはそれは封爵で、あるいはその名である。元史は蔑里可汗とし、もとより倒置が疑われ、また君の称と混じった。秘史蒙文は正しいであろうか。だが汗を一句とし、蔑里克を一句とし、そのまま誤って国主としたのである。脫忽察兒の死は、諸書のところはない。貝勒津訳拉施特の書は、西域人邁哈溫忒の説を繰り返し引いて、「脫忽察兒は、あるいは海︀拉特で死んだと言い、あるいは你沙不兒で死んだと言う。今この書を見れば、海︀拉脫がよく似ているとみなす」と述べる」と言う。
秘史は「者︀別に命じて先鋒とし、速別額台を者︀別の後援とし、脫忽察兒を速別額台の後援とした。三人に回回の住む城の外より遠く行かせ、人々に他へ動くことを許さず、太祖が到る頃合いを待って挟んで攻めた。者︀別は命令のようにし、篾力克王城の傍に従って経過し、けっして人々を他に動かさなかった。第三陣が至り、脫忽察兒は経過し、人々の穀物を奪い取った。篾力克王は走り出て云云」と言う。やはりこの事を述べるが、意味は誤っている。至るは「脫忽察兒が命令を違えたので、辞めさせることを望み、後に行わず、ただ重く責めて罰し、軍を率いることを許さなかった」を言い、そして戦死と言わず、つまり西史と最も異なる。〉忽都︀忽 那顏はこれを聞き、兵を率いて進み襲った。〈率は原書では素とし秋濤が校改する。〉時に蔑里可汗と札蘭丁は合流した。戦いは不利になり、そのまま使いを遣わして聞かせた。〈通世案、秘史は「篾力克王は走り出て、回回王札剌勒丁と会い、軍を率いて太祖を迎えて殺し合った。太祖は失吉 忽禿忽に命じて先鋒とし、札剌勒丁と対陣し、破れた。将は太祖のところまで追いかけた云云」と言う。
伯哷津は「札剌勒丁は嘎自尼にいて、蔑而甫酋長汗蔑里克は、兵四万をもって来て従った。また突︀兒克蠻人𧶼甫哀丁 阿格拉黑がいて、また四万人をもって従い、古耳の地の哀密兒はみなこれに従った。時に帝は古耳只斯丹・札布勒・喀不爾の地を厳守し終え、みな要害だった。失吉 庫圖庫に命令して兵を率いて南征させた。部将は謨哲と言い、謨兒哈爾と言い、烏克兒古兒札と言い、古都︀斯古兒札と言い、あわせて兵三万であった。上が言うところの地を取り、そして札剌勒丁を防いだ。汗蔑里克が駐留する地は、失吉 庫圖庫の軍から遠くない距離であった。モンゴル軍中は、ただそれがすでに降ったことだけを知り、札剌勒丁が降伏したことは知らず、密かに「君主は配爾彎に駐留し、必ずしも軍を移さない。私らは来て合流すべきである」と告げた。
汗蔑里克が密かに己の民衆並びに康里人を導いて去るに及び、失吉 庫圖庫は、始めてそれが異心をもつことを知り、速やかにこれを追って、夜半に追いついた。失吉 庫圖庫は、日が暮れたのでみだりに戦う勇気はなく、次の夜明けを待つよう命じた。汗蔑里克は直ちに夜に乗じて速く引き去った。空が明るくなった時、札剌勒丁の軍と合流し終えた。康里人も至り、勢いはますます盛んであった。以前に数日、謨喀哲・謨兒哈爾は、他将の困斡里淹城を取り、ゆえに将は下った。札剌勒丁はたちまち配爾彎より馳せ至り、だしぬけに攻め、千余人を傷つけた。二将は衆寡敵せずとして、退いて河を渡り、駐留して守った。やがて再び退き、失吉 庫圖庫と合流し、そのまま前進した。敵も前進した。出会った。札剌勒丁自ら中軍を率い、汗蔑里克に右翼を率い、𧶼甫哀丁 阿格拉黑に左翼を率いるよう命じ、一日戦い、勝負はつかなかった。
失吉 庫圖庫は、軍中の縛氈象人に命じて、士卒の身の後ろに置き、夜を徹して物を作り、助勢として敵を惑わせた。次の日また戦い、敵軍はついに助けが至ったと疑った。札剌勒丁は呼びかけて「我が軍勢ははなはだ盛んで、必ずしも恐れないのである。両翼に分けてこれを囲むべきである」と言った。これにより軍勢は奮い立ち、謀計〈[#底本の「図」は「囲」の誤りか。もとのまま「図」として訳す]〉もようやく閉じた。失吉 庫圖庫は軍士に命じて旗が見える所に向かい、敵陳に突入した。だがすでに四面に敵を受け、力は支えることができず、ついに奔った。敵騎は多く優れていて、馳せて追って殺し、死者は数えられなかった。帝は使者から敗戦を聞き、憂えて顔色を表さずに、「失吉 庫圖庫はまことによく戦った。常勝に慣れ、いまだ挫折を経ていない。今この負けがあり、ますます細かく行き届かせて、経験を増やすべきである」と言った。札剌勒丁は勝ちを得て、捕らえた獲物を分けた。汗蔑里克と𧶼甫哀丁 阿格拉黑はひとつの駿馬を争った。
汗蔑里克はその顔を鞭打った。札剌勒丁はそれが王母の族人であったため、こらえられなかった。𧶼甫哀丁 阿格拉黑は怒り、夜に所部を率いて、起兒漫沙克闌庫特の山に向かって去った。札剌勒丁軍は勢いがにわかに弱くなった。再び帝の軍が至ったと聞き、ますます恐れ、直ちに退いて嘎自尼に至り、〈底本-400〉相談して信地河を渡った」と言う。汗蔑里克は、多遜は阿敏︀ 蔑里克とし、帖木兒 蔑里克と異なる。多遜は「帝は八米俺にいて、将失吉 庫圖庫に命じて東南に喀不爾山中に行き、札剌勒丁を阻み並んで兵の背後を襲った。かつて札剌勒丁が奔った嘎自尼であり、その地はしばしば内乱があり、守将が次々と殺された。札剌勒丁が至り、人々はまことに推戴した。さらに王母の弟阿敏︀ 蔑里克がいて、主軍は他の城を守り、戦いを避けて出で走り、東南に嘎自尼に入った。庫拉起人𧶼甫哀丁 阿格拉克は、もとは阿母河の北にいて、また避難してここに来た。みな人々を率いて助けあった。
喀不爾地元民も兵を起こしてこれに応え、人々は六七万いた。大軍が南に来たと聞き、これを巴魯安に防いだ。砦を攻めるモンゴル兵に出会い、これを破り、千人を殺した。八日を越え、失吉 庫圖庫は至って終日戦い、互いに勝負があった。次日に再び戦い、阿格拉克のところが最も勇ましく闘うので、力を合わせてこれを攻め、なお勝てなかった。札剌勒丁は先ず兵に下馬して待つよう命令し、戦いのたけなわを見て、はじめて揃って馬に乗り攻撃した。失吉 庫圖庫は大いに敗けそして退き云云」と言う。〉上は塔里寒寨より、精鋭を率いて自らこれを撃ち、辛自速河を追いかけた。〈秋濤案、辛自速河は、秘史で言う申河、つまり印度河である。源から出たあと蔵〈[#「蔵」はチベットのこと]〉の阿里を、西に行き雪山の北、印度の西北の境界をめぐって、転じて南に行き、北印度の諸水がここに会い、転じて信地に至り海に入る。
文田案、辛自速河は、秘史はただ申河とし、辛自速河と称しえない。自速は、まさに目連二字の誤った文である。丘処機の西遊記は「沒輦は、河である」と言う。また西使記は、坤河を昏木輦とする。これは辛目連と称し、つまり辛河であり、またつまり申河である。目連と河は重複に疑いない。なお今の西遼河は、モンゴルは西喇木倫と称し、そして漢人も西喇木倫河と称するのである。曽植案、目連は、つまり沒輦で、今は木倫と話すのである。秘史蒙文は、この河が前後にたびたび見え、並び称して申沐漣とし、訳文は前後に申河と並び称する。これはすでに目連と称し、また河と称し、文において重複する。提要は言わば不自由でつたないのである。通世案、布哷特淑乃德兒は「辛自は、つまり信度である。速は、モンゴル語で水を言い、また河を言う」と言う。しかし李沈二氏の意見の正しくあるようには突きつめられていない。〉蔑里可汗を捕らえて、その軍勢を屠った。札蘭丁は抜け出して河に入り、川を泳いでそして遁れた。〈丁は原書では木とし、秋濤が校改する。
通世案、伯哷津は「失吉 庫圖庫は破れて帰り帝にまみえ、「烏克兒古札・古都︀斯古兒札は、戦陣の適切な処置を知らない。普段は戦いの事を言い、極めて才があるかのようである。陣に臨むに及んで、それがわずかもなく配置し、敗れるに至った」と訴えた。帝は直ちに自ら率いて軍を起こし、全軍は塔力堪を離れ、行くこと速やかで、食事を用意するに及ばなかった。戦場の前に至り、庫圖庫に問うて「烏克兒二将は、どこに陣を配置し、敵はどこに並んだのか」と言い、その選んだ地が良くないことを咎めた。二将は同じく訓戒を受けた。嘎自尼に至り、札剌勒丁を知り、前もって十五日すでに行き、八罷牙里委赤に城を取り締まる事を命じ、軍を引いて速やかに追った。
時に札剌勒丁はすでに船を備え、将は明くる日に東に渡った。帝は夜に急いで行き、夜明けに及んで追いつきこれを囲んだ。札剌勒丁を生け捕りしようとし、軍中に矢を射させなかった。また烏克兒古兒札・古都︀斯古兒札に命じて、敵兵を阻止し、河岸に近づかせなかった。やがて敵兵はようやく退いて河に至った。二将はその右翼を猛攻した。汗蔑里克は支えることができず、費薩倭兒に遁れることを望んだ。そして帝の軍はすでに道路を断ち切って守り、汗蔑里克を殺し、右翼はすべて破れた。札剌勒丁は中軍を率い、夜明けから戦い日中に至った。左右翼はいずれも滅び尽くし、中軍は僅か七百人で、左右が衝突した。諸軍は矢を放たない命令を奉じており、札剌勒丁は囲みを突いて出て、兜を棄て盾を背負い旗や傘を持って、ほしいままに馬が印度河に入り、(多遜は、その馬を鞭打って、数丈の高さの崖から投げ入ったと言う)川を泳いてそして逃げた。帝はこれを見て、口で指を咬み、諸子に述べて「およそ男子たる者は、みなこのようにあるべきである」と言った。諸軍も追って水に入ろうとし、帝はこれを阻止した。札剌勒丁の妻を捕らえ、その子は殺された。その輜重は最初に印度河に投げ終え、善く泳ぐ者にさらって取らせた」と言う。
多遜は「時に一二二一年の冬である」と言う。秘史は「者︀別ら三人は、札剌勒丁の背後から至り、札剌勒丁は勝たれた。不合兒城に入ろうとし、出来なかった。直ちに追って申河に至り、兵士と馬は溺死する者がほとんどすべてだった。ただ札剌勒丁と蔑力克だけは、申河を遡って走り去った」と言う。叙事は全て誤っている。およそ西征の役は、本書ははなはだおろそかで、秘史は最も多く間違っている。〉そのまま八剌 那顏を遣わして兵を率いて急ぎこれを追わせ、捕らえず、ついでに大いに忻都︀人民の半ばを捕らえて帰った。〈忻都︀は原書では折相とし、秋濤が校改する。通世案、秘史巻四、太祖が札木合から離れた時、札剌亦兒人巴剌が来て属し、つまりこの八剌 那顏である。忻都︀は、つまり印度である。秘史蒙文は欣都︀思惕とし、訳文は欣都︀思とし、元史 憲宗紀も欣都︀思とし、続綱目は欽都︀とする。
波斯語の欣都︀斯單の略であり、伯哷津は「帝は札剌亦兒人巴剌 諾顏を遣わし、軍勢を率いて追って印度に入り、さらに朵兒伯を遣わして同じく行かせた。やがて印度に入り、しかし追跡できず、璧遏城を取り、さらに木而灘に行った。その地は石がなく、木を伐って筏を作り石を運んだ。攻める道具はすでに備わり、暑気ははなはだ盛んで、そのまま捨て去り、躒拉火耳・璧薩烏爾・蔑里克甫爾諸城は、大いに掠めて帰った」と言う。秘史は「太祖は巴剌に命じて札剌勒丁などを追った。さらに欣都︀思惕種と巴黑塔惕種の間にある阿魯・馬魯・馬荅撒里〈[#「馬荅撒里」は底本では「馬塔剌撒」。十二巻本に倣い修正]〉などの種を、朵兒伯 朵黑申に命じて行かせて征伐した」と言う。また「はじめて巴剌に命じて回回王札剌勒丁並びに汗蔑力克を追わせ、追って申河を渡り、直ちに欣都︀思惕種の地に至り、根こそぎにして尋ねて見つからなかった。帰って来る、間に欣都︀思惕の辺りの城と人々の駝羊をすべて捕らえた」と言う。朵兒伯 朵黑申は、巴剌と同じに行っていないようであり、西史と異なる。多遜は土兒台とし、音が転訛している。洪氏は「秘史巻十蒙文は、朵兒伯の姓を言って朵兒伯台とし、であればこれは朵兒邊人にあたる」と言う。〉
癸未(1223年)、〈十八年、宋 嘉定 十六年、金 元光 二年。通世案、喇施特は羊年と言い、誤りは本書と同じ。多遜は一二二二年と言い、つまり太祖 十七年 壬午(1222年)である。〉春、上の兵は辛自速河を避けて北に行った。〈北は原書では止。秋濤案、北の字の誤りとする。通世案、伯哷津は「帝は帰って印度河の上流に至った」と言う。多遜は「帝は自ら印度河を避けて西岸を北に行き、札剌勒丁の残党を捕らえた。時に阿格拉克と他族は互いに憎み殺し、先に死んだ。モンゴル騎兵は、波斯歩兵が至ったので、あるいは殺しあるいは追い、憎む類をことごとく平定した」と言う。秘史は「太祖は申河を遡り、巴惕客薛城を攻め取った」と言う。巴惕客薛は考えがない。又案、西游記は、辛巳(1221年)十一月十八日、長春は邪米思干に至り、土着の暴民に阿母河の舟橋を壊させ、城に入り冬を過ごした。使いを至らせ曷剌等に前の路を探るよう命じた。
閏十二月、二太子は軍を出発して舟橋を整え、土着の暴民はすでに絶えた。曷剌等は営に行った。太子は「上は大雪山の東南で駐蹕云云」と言った。この時に太祖はまさに印度河のほとりにいたのである。壬午(1222年)正月十三日、阿里鮮は邪米思干を出発し、三日馳せて鉄門を過ぎ、さらに五日で大河を過ぎ、二月一日、大雪山を過ぎ、南に行くこと三日で行宮に至った。この阿里鮮は正月二十日、阿母河を過ぎ、十余日でようやく行宮に至った。であれば二月上旬、行宮は北に進み、大雪山まで三日ほどの距離で、すでに璧沙烏兒・喀不勒の間に至ったか。太祖の行留年月は、ただ西游記がこれを証明することができる。〉三太子に命じて河に従って〈秋濤案、旧本はこの下に、「都︀剌莎合兒」などの語があり、今考えて定め、丁丑年(1217年)に移して入れる。〈底本-401〉その丁丑年(1217年)は、「上は八魯灣川を避暑し」及び「八剌 那顏が伺候して」の語があり。これを元史 本紀で調べると、まさにこの年にある。これは錯簡して互いに誤っている。今改正して後文のようにする。通世案、何氏校本は、しかし下に南の字が補ってある。これは補う必要がない。下の帯の字は、つまり南の字の誤りである。
〉連れ立って行った。〈秋濤案、前後に欠文がある。通世案、これはつまり南の字で、そして前後に欠文はない。伯哷津は「帝は窩濶台に命令して行かせて印度河下流の諸地を平定させた。そのまま嘎自尼を大いに掠め、その人を捕らえて進み、城も壊した」と言う。多遜は「帝は札剌勒丁をいまだ捕らえておらず、軍が退いた後、嘎自尼の民は、必ず再び叛くので、窩濶台に命じて行かせ、戸口を調べると偽って、民を城から出させて捕虜を殺させ、工匠を取って従軍させた。巴魯安の負けで、海︀拉脫城も叛いた。伊兒知吉歹に命じて行って攻めさせ、六か月あまりでやっと下った。城を屠り、一百六十万人を殺した。時に一二二二年六月十四日である。軍は帰り、残した災いがあることを恐れ、再び兵を遣わしてにわかに行き、再び二千人を殺した。ただ十六人が村に居ることを許された」と言う。伊兒知吉歹は、つまり秘史の阿勒赤歹、太祖の弟である合赤溫の子であり、元史 表の済南王按只吉歹である。洪氏は「かつて波斯人が「モンゴルのその日の殺戮の惨さは、数百年休め養い生んで増やして、なおまだ原状に戻ってない」と言うのを聞いた。西書は「モンゴルはまことに殺すのを好む。そしてまたその民の離反にはそれを用いた」と言う。太祖が邱長春に与えた詔を見ると「来て従い去り背くのは、実力がこれに先立つからでありもっともなことである」と言い、これがわかるのみ」と言う。
〉不昔思丹城に至り、〈曽植案、秘史蒙語は昔思田とする。又案、つまり大典図の不思忒。通世案、西史は昔義斯單とし、嘎自尼の西南にある。また昔斯單と言い、つまり秘史の昔思田である。その都城は博斯特と言い、希勒們德河岸にあり、つまり西北地附録の不思忒である。布哷特淑乃德兒は「不昔思丹は、博斯特・昔斯單が合わせて一つの名となるようである。俄羅斯の地図を見ると、多哩河は希勒們德河のところに入り、喀剌畢斯特という名の地がある。おそらく古い博斯特である」と言う。
〉これを攻めることを望み、使いを遣わして来させて命令を与えた。上は「暑い盛りがまさに及ぼうとしており、別れて将を遣わしこれを攻めるべきである」と言った。〈通世案、伯哷津は「窩闊台は人を遣わして父からの命令を受けとり、行って昔義斯單を攻めることを望んだ。帝は「天はすでに暑く、直ちに帰るべきである。別の将を遣わして行って攻めさせるのがふさわしい」と言った。そのまま該勒姆西兒の道を経て帰った」と言う。秘史は「拖雷は昔思田城を取った」と言い、誤りに係わる。〉夏に上は八魯彎川に避暑し、〈曽植案、秘史は巴魯安 客額兒とする。通世案、巴魯安はまた珀魯安と言う。前年に失吉 庫圖庫が大敗した地である。喀不勒城と安德喇卜川の間、興都︀固斯山中、今なお帕兒彎峡谷がある。峡谷の中に河があり小さな町があり、やはり名を帕兒彎と言う。伊本 固兒達特伯は珀魯安を巴米俺に属する町とする。蘇勒灘 巴別兒は「帕兒彎峡谷の路ははなはだ険しく、その峡谷と南の大谷の間は、七つの小さな峡谷がある」と言う。
また「喀不勒の夏風は、帕魯彎風という名である」と言う。〉八剌 那顏が伺候し、近くの敵を討ったついでに、ことごとくこれを平らげた。〈通世案、伯哷津は「この夏、帝は配爾彎に避暑し、そして八剌 諾顏を待って、配爾彎に近いところをことごとく掠めた」と言う。西遊記は、壬午(1222年)三月十五日に長春は邪米思干より出発し、二十九日に阿母沒輦を渡り、四月五日に行在に達することができた。であれば阿母河から行在まで、六日を超えない。この帝は北に帰り、四月すでに配爾彎にいたのである。また「時はまさに炎熱で、車駕と宿舎に従い雪山で避暑した。上は四月十四日に長春に教えを問う約束をした。まさに約束の時に及ぼうとして、回紇の山賊が公然と非難したと知らせがあり、上は親征を望み、そこで改めて十月一日を選び定めた。長春師はもとの館に帰ることを乞うた。上は「再び来るのは苦労ではないか」と言った。師は「20日ほど」と言った。さらに三日、楊阿狗に命じて千余騎で従って行かせ、佗路より戻った云云」と言う。上が親征した山賊というのは、つまり本書の近くの敵を討ったである。
〉八剌 那顏軍は至り、そのまま行って可溫寨に至った。三太子も至った。時に上は西域を平定し終えて、達魯花赤を各城に置き、これを取り締まって治めた。〈秋濤案、帯の字からここまで、旧本は誤って丁丑年(1217年)吐麻部主の下に入っている。今は元史 本紀が八魯彎川での避暑及び達魯花赤を置いた事を載せていることを考え、この年にあったと整え、これに拠って正しく移す。通世案、伯哷津は「八剌 朵兒伯が至り、帝はそのまま古腦溫 庫兒干に行った。窩闊台も至り、配克部爾で冬を過ごした。その地の酋長は薩拉爾 阿黑默特と言い、自分で自分の体を縛って来降し、あわせて軍糧を贈った。地面が熱いことにより士卒が多く病気になり、民の戸毎に春の黍米百斤を、士卒三人の食に供給した。その時哲別と速不台は、阿而俺・阿特耳佩占・義拉克・失兒灣などのところを収めて定め、官吏を分けて設けた」と言う。
多遜は「この夏、巴魯安で避暑した。巴拉などは印度より軍を返して来て会った。六月、西域を大いに定め、達魯花赤を設けてその地を取り締まって治めた。秋、軍を起こした。窩闊台が来て古腦溫 庫兒干で会った。布雅闕沃兒に至り、冬に駐留した。その地は山中にあり、信度河の上流に近い」と言う。秘史は「太祖は額揭 斡羅罕・格溫 斡羅罕に至り、巴魯安 客額兒の地に下馬して宿営した」と言う。古腦溫 庫爾干は、つまり秘史の格溫 斡羅罕は、本書の可溫寨である。洪氏は「親征録は寨名とし秘史釈は河名とする。考えるに蒙文で寨は豁兒合と言い、小河は豁羅罕と言う。また豁羅合とする時もあり、二音は混じり易い。あるいはこれは寨名である。あるいは寨は河岸にあり、河を名とした」と言う。布哷特淑乃德兒は「可溫は、おそらくこれは蘇勒灘 巴伯兒が記す所の克沃克嶺で、興都︀固斯連山の中にある」。布雅闕沃兒は、つまり配克部爾の異訳であり、その地はつまびらかでない。西遊記、壬午(1222年)八月八日、長春は再び邪米思干を出発し、十二日に碣石を過ぎ、十五日に阿母河を渡り、二十二日に行宮に至った。行宮は阿母河と隔たること、七日ほどを超えない。であれば古腦溫 庫兒干・布雅闕沃兒も、また八魯彎と遠く離れていない。多遜は「信度河上流に近いというのは、おそらく違う」と言う。〉
甲申(1224年)〈十九年、宋 嘉定 十七年、金 哀宗 正大 元年。〉軍を帰し〈通世案、伯哷津は「帝は欣都︀斯丹より、唐古特の路に至って帰ることを望み、行未数程〈[#訳せない。「さほど行かないうちに」か]〉、唐古特がまた叛いたと聞き、道中は山が荒れ林が茂り、道が危険で、水と土が悪く劣り、旅を行くに病になりやすかったが、それでも帰り費薩倭兒に至り、やはり来た時の道に従って返した」と言う。洪氏は「これはつまり元史「帝は東印度国に至った」の一語の所のことである。これは脫必赤顏の原書にはこの語があると見てよい。とりわけ行くことを望み果たしていなかった。訳者はわからず、そのまま東印度に至り終えたと言った。しかし西游記はともにこの事がない。どうして帝が別の隊を遣わして路を探したことを、長春が知らないことがあろうか」と言う。
「猴年、八米俺の山道に従って行った。南に征伐した時、輜重を八格闌に留めた。ここに至って取って行き、質渾河を渡った。冬に撒馬爾干に至り、蘇爾灘の母と妻を、輜重の前に先行させ、それに故郷への別れの辞を言わせて泣かせた。諸軍は後ろにいて、それが泣くのを聞かせなかったのである。帝は費那克河に至り、朮赤を除くほかの諸子が至った。会議が終わり、ゆっくり進んで軍は帰った」と言う。多遜は「帝は信度河の上流にいて冬に駐留し、一二二三年春に印度から體伯特に入ることを望み、西夏を征伐するために、軍を率いて東に行った。而山は高く林は深く、危険で進むのが難しかった。そこで珀沙倭兒に戻り、八米俺山路を越え、八喀闌に至り夏を過した。
秋に巴勒克に立ち寄り、城跡に民が集まったのを屠った。質渾河を渡り、布哈爾に入り、天方敎を熟知する敎士を呼び寄せ曷世哀甫など二人が来てまみえ、宗教上の規則を詳しく述べた。帝は「言うところは大いに正しい。ただ麥哈礼拝に赴くことは、私はその通りと思わない。上帝は戒めを降し、灯のないところはない。なんのためにひとつの地にこだわるのか」と言った。令この後は祈禱文に己の名を用いるようにさせて、敎士に賦役を免じた。朮赤を呼び寄せて来て会い、並びに獣を駆り立てて東南に向わせ、備えさせて狩りをし、撒馬爾干を経て、錫爾河を渡り、蘇爾灘の母と妻及びその親族に、故郷への別れの辞を言わせて、国に向かって泣かせた。察合台・窩闊台は、布哈爾で狩りをし、来て獲物を献じた。
朮赤は弟と不仲であるため、〈底本-402〉己の封地が遠く異域にあり、常に不平に思って楽しまなかった。帝はたびたびこれを呼び出し、病気と称して至らず、ただ獣を追い立てて塔什干に至り、上に奉じて囲いに行った」と言う。考えるに西暦一二二三年は、つまり太祖 十八年 癸未である。本書は庚辰(1220年)より以来各年の紀の事は、いずれも誤って一年遅れ、であればこの甲申(1224年)はもちろん癸未(1223年)とするべきである。そして太祖が軍を帰したのは、実は壬午(1222年)にあり、癸未(1223年)になく、多遜も誤っている。そして帝が信度河上流にいて冬に駐留し、根本はその事はない。まして軍を率いて東に行くであろうか。長春西游記は、証拠となる。西游記は「壬午(1222年)八月二十七日、車駕は北に帰った。九月一日、船橋を渡って北に行った。(阿母河を渡ったのである)。十五日、十九日、二十三日、途中で帷幄が設けられ道を論じたことがあった。これより帝に随行して東に行き、時に道教を普及させた。さらに数日で邪米思干に至った。十月、上は城の東二十里に駐蹕した。六日に上にまみえ、車駕に従わず、ある時は先にあり、ある時は後ろにあり、心に任せて行くことを請い、上はこれを聞き入れた。十一月二十六日ただちに行き、十二月二十六日、東に霍闡沒輦を過ぎ、行在に至った。
その船橋の中ほどが夜に断たれて散ったと聞いたのは、おそらく二十八日である。癸未(1223年)正月十一日、馬首はそのまま東に向かった。二十一日、東に動くこと一つほどで、一つの大きな川に至り、東北に𧶼藍を離れて約三つほど行った。水草は豊かに茂り、牛馬は腹を満たせ、そのためここを立ち去りにくかった。二月七日に入ってまみえ、先に行くことを請うた。上は「しばらく待て。三五日で太子が来る云云」と言った。八日に狩りを諫めた。二十四日に再び政庁で話した。三月七日また話した。十日に政庁で話して行き、三日で𧶼藍に至り、十五日に趙道堅の墓にお供え物をし、明くる日にそのまま行った」と言う。いわゆる一つの大きな川は、おそらく齊兒齊克河であろう。塔什干城の南を通り、西に流れて錫爾河に入る。
伯哷津が言うところの「朮赤を除く他の諸子が至り」や、多遜が言うところの「二子が来て獲物を献じた」は、つまり癸未(1223年)二月にこの地で会ったのである。太祖は癸未(1223年)の春すでに塔什干のそばに至っており、二年を経てやっと帰国し、途上にあった歳月が過多であり、その理由がよくわからない。洪氏は「この時は、まさに哲別・速不台は欽察に入り、俄羅斯を破った時である。二将が遠くで軍を長く戦場に置いていたので、遅く進んで軍の使者を待ったのかもしれない」と言う。〉冬を過ごして避暑し、〈冬は原書では各とし、秋濤が校改する。〉しばらく止まりしばらく進んだ。〈通世案、西游記に拠ると、壬午(1222年)秋に軍を帰し、冬に撒馬爾干の近郊で駐留した。癸未(1223年)春、齊兒齊克河のほとりで駐留した。
多遜は「察合台・窩闊台が来て会った後、喀闌塔什の地に駐留し、巻狩りをして夏を過ごした」と言う。喀闌塔什は、つまり塔什干にあたる。癸未(1223年)二月、長春は狩りを諫め、後から二か月狩りに出なかった。長春が去った後、はじめて再び大いに狩りをしたのが、この癸未(1223年)の夏である。その冬の駐留地はわからない。秘史は「太祖はそのまま帰り、額兒的石の地に至って夏を過ごした」と言う。これは甲申(1224年)の夏である。伯哷津は「猴年は道の途中で夏に駐留し冬を過ごし、行って己の国境に至った。皇孫呼必賚(つまり世祖)・忽拉護(つまり旭烈兀)が来て迎えた。時に呼必賚十一歳、忽拉護九歳であった。乃蠻との境の上の阿拉馬克委の地にいて、呼必賚は一つの兔を射とめ、忽拉護は一つの山羊を射とめて献じた。布哈蘇赤忽に行き至り、金の帳殿を分け与え、宴を設け、大いに三軍をねぎらった」。多遜は「二人の孫が葉密爾河で迎えた」。布哈蘇赤忽は、多遜は布喀蘇起庫とし、その地はよくわからない。これみな甲申年(1224年)中の事である。〉
乙酉(1225年)〈二十年、宋 理宗 宝慶 元年、金 正大 二年。〉春、上は帰国した。自ら軍を出し〈この後文に秋濤が西域の二字を増やす。〉ここまでおよそ七年。〈至此の二字は原書では欠けている。秋濤が類編を引いたところに拠って増やす。案、秘史は「鶏児年秋、帰って禿剌河の黒林のむかしの宿営内に到った」。通世案、伯哷津は「鶏年の春に古くなった宿営地に至った。」と言い多遜は「一二二五年二月、モンゴルの鄂爾多に至った」と言う。西暦一二二五年二月は、つまり乙酉正月である。乙酉の帰国は、東西諸史いずれも同じである。ただ秘史は秋と言い、諸書と異なる。多遜はさらに「帝は東に帰り、四子の分地を定め、和林の旧営地を拖雷に分け、葉密爾河岸の地を窩闊台に封じ、錫爾河の東の地を察合台に封じ、鹹海の西南の貨勒自彌の地並びに鹹海裏海の北を長子朮赤に封じた。朮赤はその将成帖木兒を烏爾鞬赤に駐留させた」と言う。
蒙古源流は「令長子察干岱を俄羅斯地方の汗に即位させ、次子珠齊を托克瑪克地方の汗に即位させ、三子諤格德依を留守の汗位とし、その幼子圖類︀が生業を守った」と言う。長子と次子の名は互い誤っている。この時に俄羅斯の地は、なおまだ平定していなかった。また朮赤は後に王となり、すでに俄羅斯を征圧したといえども、しかし都城は奇卜察克の境内にあり、「俄羅斯地方で汗に即位した」と言うのは、誤りである。西書は「察合台は夏に伊犁に近いところの山に至り避暑した」と言い、であれば東の国境は伊犁に至るはずである。托克瑪克は伊犁の西にあり、解釈は間違っていないとして良い。圖類︀が生業を守ったというのは、モンゴルの昔からの生業を守ったことと言うのである。さらに考えるに、哲別・速不台は欽察に入って斡羅思を破り、本書はわずかな言葉を載せない。元史は速不台・曷思 麥里などの伝があり、わずかにその事を述べ及び、ただはなはだおろそかである。
西書が多くこれを述べるのは、多遜が広く多くの書を引いており、記す所が最も詳しい。今洪氏の訳文に拠り、補ってこれを述べ、助けとして考え究める。伯哷津は「札剌勒丁が你沙不兒より嘎自尼に遁れた時、哲別・速不台は人を遣わして帝に指示を求め、「蘇爾灘はすでに死に、札剌勒丁はすでに遁れた。我らは何処に向かうべきか、命令を待ってから行く。ただ一二年間を望み、天祐を仰ぎ頼み主上に従って立てる所の期限で、奇卜察克の地をめぐって、そして摩古里斯單に行く」と述べた。その後さらにたびたび人を遣わして事を申し上げた。時に西域の地は乱が多く、そのつど事を申し上げ、いずれも三四百人で護送した。軍は義拉克に入り、哈耳城(つまり大典の地図の胡瓦耳)・西模曩城を取り、立亞城に至りこれを掠め、枯姆城に至り大いに殺し掠め、西に哈馬丹に向かった。その酋長𧶼特密哲哀丁 阿拉曷都︀勒は衣服と馬を贈った。
官入を遣わして守った。別隊が薩哈斯に至ると聞き、(洪氏は後文に合うと言い、これを贊章とする)。その酋長塔勒沙拉赤庫赤布克汗が敗れたので、そのまま贊章に行き、大いに屠り殺した。さらに可斯費音に行き、民が城を守り辱め罵ったので、力を入れて攻めこれを下した。民はなお力戦し、両軍みな五万人が死んだ。義拉克境内は、軍勢の矛先を多く被った。この年の冬、寒さは最も甚だしかった。兵は立亞境内にあり、帝は忒耳迷斯・那黑沙不の地にあった。(そうであるならばこれは庚辰年(1220年)の冬か)。やがて兵が阿特耳佩占(貨勒自彌国の隣部)に入り、通ったところを殺し掠めた。将はその都城台白利司に至った。部主阿塔畢 鄂思伯克は、隠れて出る勇気がなく、人を遣わして迎え降り、牛羊馬及び衣服を贈った。二将は直ちに阿而俺に入って冬を駐留した」。阿而俺は、多遜は莫干とし、裏海の西、庫耳河の南にある。
多遜は「二将はその部内の莫干の地が、水草が豊かで、游牧に都合が良いので、そのまま冬に駐留した。西北に角兒只国があり、(つまり曷思 麥里伝の谷兒只であり、裏海・黒海の間、高喀斯山の南にある。)大敵が国境に近づいたと聞き、速やかに謀って防備を設けた。阿特耳佩占がすでに降ったことを知らず、闘志はなく、使いを遣わし鄂思伯克と約束し、春が明けて合力してモンゴルを挟み攻めした。そしてこの冬、二将は直ちに角兒只に行き、鄂思伯克の将阿庫世は、背いて先鋒となり、突︀兒克蠻人庫兒忒人はみな従って征伐し、その国境を掠め取った」と言う。洪氏は「曷思 麥里伝「招いて曲兒忒 失兒灣沙等城が降るよう諭した」。曲兒忒はつまり庫兒忒であり、阿特耳佩占の西南の山中にある。族類の名であり、城の名ではない。この時はすでに降っており、ゆえに来て従軍したとすべきである」と言う。「いまだその都城帖弗利司に至らず、角兒只人が来て防いだ。阿庫世は戦って不利になった。モンゴルは続けて進んでこれを破った。
時に一二二一年(太祖 十六年)二月である」。伯哷津は「谷魯斤部万人が来て防ぎ、対陣して痛く罵った。戦ってその人々を破った。その境内は路がせまく林が茂っていたので、退いて梅︀拉喀に行った。(台白利司の南にあり、倭而米雅湖の東南の隅に近い。)台白利司を往来して通り、部主はまた薩木斯哀丁 土格雷と言う役人を遣わし、出て兵と金を贈った。梅︀拉喀に進攻した。城主は婦人とされ、戦う事に慣れていなかった。城民はそこで自ら守るために青年を募った。モンゴル人は駆けてこの人々を生け捕りにして城を引っ掻き、退けば斬った。数日で城は破れ、大いに殺し掠めた」と言う。多遜は「三月三十日、梅︀拉噶城を破り、大いに殺し掠めた。
梅︀拉噶に従って哀而陛耳に行こうとし、(小国、梅︀拉噶の西南にある、)山路は狭く険しいので、改めて南に行き、思うに巴格達特に向かった。哈里發 那昔爾は知らせを聞き、〈底本-403〉哀而陛耳・毛夕耳・美索卜塔米牙各部主を召し出し、兵を出して守りを助けた。わずかに哀而陛耳・毛夕耳の兵が至った。(毛夕耳は、つまり地理志の毛夕里で、哀而陛耳の西北にあり、體格力斯河を隔てる。)モンゴル軍は守りの備えがあると聞き、やはり行かなかった。帰って哈馬丹に至り、民から貢物と年貢を取り立てた。民は去年すでに貢物を納めていたので、再びの求めには堪えられず、そのまま留守官を殺した。城を攻めること二日、モンゴル兵は多くが傷ついた。
しかし守将は遁れ去り、民は固い意志はなく、城はそのまま破れた。兵はほしいままに大いに掠めた」。伯哷津は「哈馬丹城は、貨勒自姆 沙の旧将只馬哀丁 阿比亞があり、人々を束ねて乱を作り、置いていた守吏を殺し、並びに阿拉曷都︀勒を捕らえ、獄に下した。二将は再び哈馬丹に戻り、その城を破った。只馬哀丁 阿比亞は降ることを求めた。やはりこれを殺し、哈馬丹を平らげて壊した。那希拉彎に行き、その城を破った。城の酋長は降ることを乞い、これを許した」と言う。那希拉彎はまだ明らかでない。多遜は愛而達必爾とし、台白利司の東南に近く隣り合う城である。多遜は「さらに北に行き愛而達必爾城を破り、さらに西に台白利司に至った。鄂思伯克は恐れそして避けて去り、留将が居て守り、銭を納めて許しを得た。
さらに北に𧶼拉白城を下し、使いを遣わして阿而俺の貝列堪城を招き下した。使いの人は殺された。攻めてこれを下し、男女の別なくことごとく殺した。(西暦一二二一年十月は、太祖 十六年 九月となる)。甘札城(阿而俺州城)は迎えて贈り物を献上してよしみを通じ、災いを被らずにすんだ。西北に角兒只に入り、再びその軍勢を破った」。伯哷津は「谷魯斤兵が来て防いだ。哲別は五千人で伏兵を設けた。速不台が迎え戦いともなって敗れた。敵が追って伏兵が起ち、その軍勢三万を殺した」と言う。多遜は「角兒只の南境は大いに乱れ、国都の早馬は騒いだ。時に哲別・速不台は、太祖の命令を受け終え、北に奇卜察克を征伐した。
角兒只の境内は、山道は厳しく険しく、谷川が多くめぐり、軍馬は苦しみ阻まれ、仮の道を望まず、退いて東に行き、庫耳河を渡り、失兒灣の沙馬起城を破り、(洪氏は、「失兒灣は国名で、沙馬起都城の、名で、裏海の西岸の部落である。曷思 麥里伝は失兒灣沙城と言う。どうして彼の地が文字を省いた呼称にするだろうか」と言う。今考えるに、失兒灣沙城は、やはり失兒灣の王城を言っているのである。しかし史臣は誤って失兒灣沙を城名とした)。さらに得耳奔特(つまり地理志の打耳班)を破った。失兒灣部主拉施忒は、山の砦を守っていまだ下らなかった。二将は道案内の人に来させて、直ちに攻めるのをやめた。
拉施忒は十人を遣わして至った。一人を殺して従わせ、九人は良く導かなければこれに倣った。軍はそのまま高喀斯山を越え北に行った」と言う。土土哈伝は「太祖は蔑里乞を征伐した。その主火都︀は欽察に奔った。欽察国主亦納思がこれを受け入れた。太祖は使いを遣わしてこれを諭して「お前はどうして私の矢を受けた大鹿を匿うのか。速やかに返せ。さもなければ禍はまさにお前に及ぶであろう」と言った。亦納思は答えて「逃げた鶴は小鳥であり、草むらは薄くてもなおこれを生かすことができる。私がどうして草木と同じであろうか」と言った。太祖はそこで将に命じてこれを討たせた」と言う。洪氏は「奇卜察克は、かつて逃げた人を受け入れ、これを求めても与えなかった。土土哈伝のほかは、各書いずれも証拠がない。ただ太祖が討ち平らげた諸国を見ると、必ずしも義によって動いたのではないとはいえ、やはり大総力軍は抜きん出て名声がある。裏海の北浜は、つねづね往来はなかった。どうして遠く離れた地に至って軍を突き詰め訪ねるだろうか。
土土哈伝は、必ずや由来のあることを語っている。ただ親征録・秘史垂河の役は、すでに速不台がことごとく蔑兒乞を滅ぼしたと言い、であればさらに合わないか」と言う。また「曷思 麥里伝は「帝は使いを遣わし哲伯に馳け走って欽察を討つよう促した」と言う。今多桑が記す軍の道のりを見るならば、哈馬丹より北に行った後、再び南には向かわなかった。この時は太祖 十六年 辛巳(1221年)となり、まさに自ら率いて札剌勒丁を追った時であり、西域が指し示す日は定まっている。そこで戦争の勝利を伝えさせて、北に欽察を征伐した。使いを遣わして策を授けたのは、必ずこの年にある。速不台伝は、庚辰年(1220年)での西域王を追う役が、誤ってこれが壬午(1222年)に繋いでいる。さらに誤って「年が明けて欽察を討つことを請うた」と言う。元史 本紀は北征の軍に、さらに一字も及んでいない。元史がおろそかで違えて欠けて省くのは、ここにおいて甚だしいのである。細かく西書を調べれば、印度河の戦いは、哲・速二将が、並んで列なっていない。これまた秘史の誤りである。」と言う。
伯哷津は「軍は阿蘭部(西北地の阿蘭・阿思)に入り、阿蘭人は奇卜察克人を寄せ集めて来て戦い、勝負がつかなかった。二将は奇卜察克人に「我らはみな同族、阿蘭は異民族である。我らは和議を約束し、互いに侵犯しないようにすべきである。もし財物が望みなら、みな贈り届けよう」と告げさせた。そこで手厚くこれを贈った。奇卜察克人は引き去った。この戦いは阿蘭に勝ったので、大い殺して掠めた。奇卜察克人は散って帰り、備えをしなかった。二将は不意に出て、その部に攻め入り、ことごとく残された物を返した。敗れた軍勢は俄羅斯に逃れ入った」と言う。阿蘭は靑目で、欽察は靑目でないのは、洪氏の考証がある。
多遜は「軍は高喀斯山に入った。奇卜察克・阿速(つまり阿蘭)・扯而開斯(つまり西北の地の撒耳柯思)などの部が、軍勢を集め来て防ぎ、衆寡敵せず、再び険しいところに迫った。そこで甘言で奇卜察克を誘い云云。奇卜察克は引き退いた。軍は険しいところを出終えて、阿速などの兵を破り、奇卜察克を追い、不意に出て、突き至り奮い撃ち、その部の酋長庫灘の弟玉兒格及び子の塔伊兒を殺した」と言う。速不台伝は「速不台が欽察を討つことを請う上奏をし、これを許した。そのまま兵を率いて寬 定吉思海をめぐり転々と移動して太和嶺に至り、石を掘って道を開き、不意にそこに出た。至ったことでその酋長玉里吉及び塔塔哈兒方の軍勢と不租河で出会い、ほしいままに兵は奮い立って敵を討った。その軍勢は潰走し、矢が玉里吉の子に及び、林間に逃れた。その下僕が来て告げ、そしてこれを捕らえた。残りの軍勢はことごとく降り、そのままその場所を収めた」と言う。寬 定吉思海は、また寛 田吉思海とも言う。
洪氏は「寛 田吉思海は、つまり裏海である。太和嶺は、つまり高喀斯山である。石を掘って道を開き、であれば軍は険しいとわかるところに迫ったのである。奇卜察克はすでに退き、そしてモンゴルが乗じるところとなり、ゆえに不意にそこに出たと言う。玉兒格はつまり玉里吉である。塔阿兒は、つまり塔塔哈兒である。西文の原書は塔伊兒とする。阿剌比文の阿と伊の二音は、西人がしばしば誤訳する。元史がこれの証拠であり、必ずやこれは塔阿兒である。土土哈伝は欽察国主亦納思と言う。西域書及び馬加国史は、いずれも奇卜察克王の名を庫灘と言う。華文の霍や忽などの字音は、西人は常に訳して庫となり、なおこれ蒙古源流は常に訳して豁や忽などの音が郭となる。であれば庫灘は必ずや霍灘である。曷思 麥里伝「その主霍脫思罕と戦い、ついに欽察を平らげた」。この二語に拠れば、欽察国主は、霍灘とするべきである。霍脫・霍灘は音が合う。思の字はあるいは恩の字の誤りである。西北の種族は、国は一部ではなく、部にそれぞれ長がいる。意味は亦納思は欽察東部の酋長とみなし、霍灘は西部の酋長とみなす、かもしれないのである」と言う。
多遜は「軍は東北に浮而嘎河に至り、朮赤太子に勝利を告げ、軍の助けを請うた。時に朮赤は烏爾鞬赤をすでに下し、裏海の東部に駐軍し、軍勢の多くが休み、兵を分けて大半が行って助けた。一二二二年(太祖 十七年)冬、新兵が既に至り、浮而嘎河が凍り、遂に阿斯塔拉干を下し、その城を焼いて掠め、奇卜察克に出会い、さらにこれを破った」と言う。
洪氏は「浮而嘎河は裏海のところに入り、地名は阿斯塔拉干で、商人の大きな船着き場である。曷思 麥里伝「康里を尋ねて征伐し、孛子八里城に至り、その主霍脫思罕と戦い、さらにその軍を破り、そのまま欽察を平らげた」。西人は考えて「阿斯塔拉干は、むかし波斯商人が貿易で集まる所だった。回紇語で城を八里と言う。孛子はつまり波斯の誤りであり、なお波斯城と言う」ととらえた。推測するに興味深い。ただ康里は鹹海の東にいて、烏拉嶺の以西や、裏海の北には決していない。これを康里とするのは、合わない。伝はまた「その主霍脫思罕と戦い、さらにその軍を破り、そのまま欽察を平らげた」と言い、であればやはりこれは欽察であり、康里ではない。霍脫は欽察国主にあたり、説は前文で見える。速不台伝を見ると、つまり曷思 麥里伝と、軍の行った順序が同じでない。元史を修めた明人は、少しも康里・欽察と阿速などの部や、どちらが東でどちらが西かを知らず、記すに到って各々異なり、拠りどころが不足したのである」
「軍は分かれて二つになり、再び率いて西に行った。一軍は追って兵を破り、端河を過ぎた。(軍は阿索富海の東南に至り、撒耳柯思・阿速などの部を平らげた。そのまま阿索富海より、氷を歩いて黒海に至り、克勒姆の地に入り、大いに掠めて北に行った。克勒姆は、つまり元史 西北地附録の撒吉剌である。喇施特は速達克城とする。速達克は、つまり嚕卜嚕克・馬兒科 玻羅の索勒岱雅であり、克勒姆の東南岸の大きな埠頭である)。両軍は再び合流した。庫灘は遁れて俄羅斯の境に入り、その壻哈力赤侯穆斯提斯拉甫に助けを乞うた。俄羅斯は、西北の大国である。西暦八六二年(唐 懿宗 咸通 三年)、始めて北海の南で立国した。その後に土地を拓きますます広くなり、南は黒海に接した。第十一世紀の半ば(宋の仁宗の時)に至り、〈底本-404〉にわかに封建の制を行い、諸侯はひとりでにその地を分けて子孫に与え、国は七十に分かれ、同族は日々争い奪うことに努めた。
哈力赤は南俄羅斯の諸国とする。その君主穆斯提斯拉甫は戦争が上手く、しばしば同族との戦いに勝ち、モンゴルを卑しみ軽んじ、その妻の父の要請を認めて、計掖甫侯穆斯提斯拉甫 羅慕諾委翅に告げさせ、諸国の君主を集めて軍事を相談した。ここにおいて扯耳尼哥甫侯穆斯提斯拉甫 司瓦托司拉勒委翅は、南俄羅斯諸侯とともに、みな計掖甫に至った。集まって相談し、国境を出て迎え撃ち、それを待たずに至り、並びに俄羅斯の首邦物拉的迷爾太公攸利二世に告げ、兵を出して助けとした。分かれて軍糧を運び、帖尼博爾河・特尼斯特河より、黒海の東北に至ることにした。哲別・速不台は俄羅斯が兵を起こしたと聞き、使い十人を遣わし、行って「モンゴルが討つのは、奇卜察克である。昔から俄羅斯と仲違いはなく、必ず互いに犯さなかった。モンゴルはただ天を敬い、俄羅斯の教えと互いに似ている。
奇卜察克は、まえまえから俄羅斯と戦争の怨みがあり、どうして我らを助けて仇ある人を攻めないのか」と告げた。諸侯は「先にこの言葉を餌に奇卜察克を誘った。今再び餌で我らを誘うのは、信じられない」と言った。その使いを殺した。二将は再び人を遣わして至り、「我らの行った人を殺し、その不正はお前たちにある。天はお前たちの魂を自ら奪い取って滅亡させる。今や兵を来させて、勝負を決することを請う」と言った。庫灘はまたこれを殺そうとした。俄羅斯人は帰ることを許し戦いを約束した」。洪氏は「俄羅斯史は「モンゴルは再び人を遣わして来て「前言は偽りではなく、我らはすでに天に誓っている。決してお互いに犯さず、兵を用いないことを請う」と告げた。これを見ると、実に俄羅斯は自ら兵禍を取った」と言う。哈力赤侯は先に万騎で東に帖尼博爾河を渡り、モンゴルの先鋒を破り、副将哈馬貝を捕らえてこれを殺した。諸侯はみな続けて東に行った。モンゴル軍は退いた。九日追って喀勒吉河に至り(あるいは喀勒喀河と称し、あるいは喀剌克河と称した。喀喇姆津は「つまり今の喀埓子河であり、喀勒迷斯河と合流して阿索富海に入る」と言う。喇施特は「十二日追った」と言う。)二将の大軍と出会った。
時に俄羅斯兵は八万二千で、分かれて南北に駐留した。南軍は計掖甫・扯耳尼哥甫などの部の兵となり、北軍は哈力赤などの部及び奇卜察克兵となった。哈力赤侯は敵を軽んじ功を欲ばり、南軍に謀らず、ひとりで軍を率いて北に河を渡り、孩耳桑の地で戦った。勝負はなお決まらず、そして奇卜察克兵は、敵に怯え先に退き、陣が乱れた。モンゴル軍はこれに乗じ、俄羅斯兵は大いに敗れた。哈力赤などの候は抜け出すことができ、河を渡って西に行き、ただちにその舟を沈めた。後に至った者は渡れず、ことごとく殺された。俄羅斯の南軍は、北軍の戦いを知らず、またその敗北も知らなかった。そしてモンゴル軍が速やかに至り、その陣営は行き詰まり、三日下らなかった。贈り物をして平和交渉をするよう誘い、それが出てくるのを待って激しくこれを攻め、皆殺しにして切った首は数えらなかった。(喇施特は「激しく戦うこと七日、ことごとく敵の軍勢を破った」と言う。)計掖甫 扯耳尼哥甫などの部の君主を捕らえ、縛って地に置き、板で覆って坐具とした。モンゴルの将軍はその上に高く坐り、酒を飲み集まりを楽しみ、圧死した者が多かった」。この役は、西域の書に拠ると、癸未年(1223年)の事となる。俄羅斯史はあるいは一二二四年六月十六日と言い、あるいは同年五月三十一日と言う。だが一二二三年と言うのが多く、まさに西域書の話と合い、おそらく太祖 十八年(1223年)夏にあったのであろう。
速不台伝は「さらに阿里吉河に至り、斡羅思部大小密赤思老と出会い、一戦でこれを降した」と言う。阿里吉河は、つまり喀勒吉河である。密赤思老は、つまり穆斯提斯拉甫の訛略である。哈力赤・計掖甫・扯耳尼哥甫の三候は、いずれも名を穆斯提斯拉甫と言う。洪氏は「計掖甫君が年長で、よって大とする。扯耳尼哥甫君が年幼で、よって小とする」と言う。曷思 麥里伝は「斡羅思に進撃し鐵兒山でこれに勝ち、その国主密只思臘を捕らえた。哲伯は曷思 麥里に命じて、多くを朮赤太子に献じこれを殺した」と言う。鐵兒山は、つまり孩耳桑の転訛で、それこそが地名であり、山名ではない。密只思臘は、つまり大小密赤思老である。「この役もまた、たちまち六侯七十将を滅ぼし、兵士は十のうちその九が死んだ。太公攸利二世は、兵が信じるよう請うて親しみ、その甥遏羅斯托侯瓦西耳克 康斯但丁諾委翅に軍勢を率いさせて行って助けさせた。(遏羅斯托城は、今は遏羅斯托弗哀と言う)。
行って扯耳尼哥甫に至り、軍が敗れたと聞き、速やかに引き退いた。この時に俄羅斯の多数の城はいずれも防ぐ備えがなく、戦い守り計ることができず、ただ兵が至るのを待ち、降って死を免れることを乞い、国を挙げて大いに震えた。そこでモンゴル軍は、西に帖尼博爾河に至り、北に扯耳尼哥甫・諾拂郭羅特・夕尼斯克城に至り留まった。この冬に端河・浮而嘎河は凍り、全軍は氷を渡って東に行った。素早い手紙が太祖の行在に至った。馬十万でねぎらうよう命じ、朮赤を奇卜察克に封じ、西北の地を取り締まるのに用いた。一二二四年(太祖 十九年 甲申)、朮赤はそのまま錫爾河の北儻塔の地より、西に烏拉嶺を越え、奇卜察克の東国境に至り、部のところを取り締まり治め、哲別・速不台に命じて軍を帰させた。二将は朮赤の部兵を帰し、自ら部のところを率いて東に戻った。途中で哲別が亡くなった」。喇施特は「帝が命じた道にしたがって帰った」と言う。曷思 麥里伝は「軍は帰り、哲伯は亡くなった」と言い、西書と同じ。洪氏の哲別補伝は「康里を平らげ東に戻った」と言う。
自注「モンゴルの康里の滅びは、何年にあったのかわからない。西書も考えを失っており、但し俄羅斯に対する戦勝の後には終わっていたようである。元史 阿沙 不花伝「阿沙 不花は、康里国の王族である。初めて太祖が康里を攻め落とした時、その祖母苦滅古麻里氏は未亡人になったばかりで、二子がありいずれも幼かった。国は乱れ家は破れ、頼れるところはなかった。ある夕暮れに数頭の駱駝がありみな荷を背負い、宿営地に突き入り、これを追い払っても去らなかった。その装いを暴き見ると、いずれも西域の大切な宝であった。そのまま駆け走って天子の都に至った。時に太祖はそののちやがて崩れ、太宗が立ち、所有していたものを献じた」。これに拠れば、康里の滅びは、太祖の晩年に西域から軍を戻した後にあったとすべきであり、よって亡くなった時期と遠くへだたっていない。奇卜察克は西にあり、康里は東にあり、哲・速二将の東還の後に繋がり、いろいろよく似ているのである」。
多遜はまた「太祖は東に行き、朮赤を呼び出し、いまだ至らなかった。つづけてさらにその西の布而嘎爾(つまり西北の地の不里阿耳)・奇卜察克・扯而開斯などの部のまだ平定していない地を平らげるよう命じた。そして朮赤は病気と称して行かなかった。太祖はますます楽しくなかった。一二二五年、太祖は行宮に帰り終え、西から来るモンゴル人があり、朮赤の病のことを問えば、「ただ狩りに出るのを見たが、病があるのは聞いていない」と言った。太祖は大いに怒り、察合台・窩闊台に兵を率いて行って捕まえ問うよう命じた。いくばくもなく亡くなった。使いが至り、太祖は大いになげき、その人を妄言の罪で処理しようとしたが、しかしすでに走り去っていた。そのまま斡赤斤大王にその喪を見に行くよう命じ、跡継ぎの位を定めた」と言う。〉この夏、避暑し〈通世案、西史は「夏には旧居にいて夏を駐留した」と言う。
〉秋に再び兵を率いて西夏を征伐した。〈通世案、伯哷津は「唐古特が再び叛いたと聞き、鶏年の秋、軍を整え合申を攻め、察合台に本部の兵で古くなった宿営地と後ろの路を守らせた。その時に朮赤が亡くなり、窩闊台が帝の軍に従った。拖雷 汗は妻の西兒忽克屯 別姫が疱瘡になったので、数日遅れて行った」と言う。西兒忽克屯は、元史 憲宗紀は唆魯禾帖尼とし、后妃表は唆魯和帖尼とし、后妃伝は唆魯帖尼とする。秘史は莎兒合黑塔泥とし、王汗の弟札合敢不の次女である。元史 本紀は「二十一年(1226年)春正月、帝は西夏が仇ある人赤﨟喝︀翔昆を受け入れるとともに人質の子を遣わさないことにより、自ら率いてこれを討伐した」。赤は亦とし、亦臘喝︀ 翔昆は、つまり元史 本紀の前文の亦剌合、本書の亦剌合 鮮昆で、王汗の子である。
癸亥年(1203年)、王汗は滅び、亦剌合は西夏に奔った。太祖は西夏が仇を受け入れたことを責め、おそらく乙丑(1205年)初めて西夏を征伐した時の事であろう。今年の役に至るのは、必ずしもこれを口実にしたのではない。西夏書事は「亦臘喝︀ 翔昆は、乃蠻部屈律罕の子」と言い、大いに誤っている。また本書と西史は、いずれも乙酉(1225年)秋の出兵を言い、元史 本紀は明くる年の正月とし、秘史は明くる年の秋とする。秘史は「成吉思は行って冬を過ごし終えて、唐兀を征伐することを望み、新しく整え選び出した兵馬を従えた。戌年の秋に至り、行って唐兀を征伐し、夫人也遂を従わせて行った。冬の間は阿兒不合の地で巻狩りした。成吉思の騎馬の一匹の紅沙馬が、野馬に驚いた。成吉思は馬から落ちて馬蹄で傷つき、搠斡兒合惕の地に赴いて下馬し宿営した。次の日、也遂夫人は大王並びに諸官人に対して「皇帝は今夜とても発熱している。あなたたちは協議すべきである」と話した。
これにおいて大王並びに諸官人は集会した。その中に脫侖が論じて「唐兀は城と堀の人々があり、移り動くことはできない。ただいましばらく帰り去り、皇帝が落ち着くのを待ってその時に再び来て攻め取ろう」と言ったのがあった。諸官人はいずれもこれを是とし、奏して成吉思に知らせた。成吉思は「唐兀の人々が私が帰り去るのを見れば、必ずや私が怯えたとみなす。しばらくここで病を養い、先ず人を遣わして唐兀のところに行かせて、彼が帰って何を話すか見よう」と言った。そのまま人を遣わして唐兀主不兒罕に対して「お前はかつて「必ずや右手として私に与えよう」と話した。私が囘囘を征伐する時になり、お前は従わず、〈底本-405〉さらに将は私を遠回しに悪く言った。ただいま囘囘を取り終えて、私はお前とともに前言をはっきりと明らかにしよう」。不兒罕は「遠回しに悪く言った言葉については、私は話したことがない」と言った。阿沙敢不が「これは私が話して来させた。私と殺し合いたい時は、お前は賀蘭山に到って来て戦う。金銀緞疋が欲しい時は、お前は西涼に向かって来て取る」と言うことがあった。使臣は帰り、将の前言を成吉思に話し与えた。成吉思は「彼がこのような大きな話を言って、私はどうして帰られようか。死のうとも、それでもまた行って彼に問うであろう。永遠なる天が知る」と言った。そのまま賀蘭山に到り云云」。〉
丙戌(1226年)〈二十一年、宋 宝慶 二年、金 正大 三年。〉春に西夏に至り、一年の間その城を取り尽くした。時に上は六十五才であった。〈原書では五字欠けている。秋濤案、癸亥年(1203年)に、上は年齢が四十二歳になったと称している。元史 紀は丁亥(1227年)にみまかり、年齢は六十六と言う。であるならばこれは「上年六十」の句の中に、必ずや五字の抜けがある。今増やす。通世案、秘史は「そのまま賀蘭山に到り、将阿沙敢不は敗れ、走って山寨に登った。我が軍将その他は血気盛んな若者と能く殺し合うとともに積み荷などの物をことごとく殺して捕らえ、その残りの人々は、ほしいままに各人が自ら求めて得て来るところとなった。成吉思は雪山にあって夏を過ごし、軍を整えて行き、将阿沙敢不とともに山に登った人々をことごとく絶やし捕らえた。孛斡兒出・木合黎に財物を与え、それが力尽きるまで取るところとするのを許し云云」と言う。前文はすでに狗年秋冬にあり、この夏を過ごしたのは、猪年の夏を言うようであり、元史 本紀と異なる。秘史は年月が多く誤っている。また木合黎はすでに十八年癸未(1223年)に亡くなり、この文も誤っている。元史 本紀は「二月、黒水などの城を取った。夏、渾垂山で避暑した」と言う。渾垂山は、粛州の北にあり、おそらく秘史の雪山であろう。
秘史はまた「成吉思は雪山より旅立ち、兀剌孩城を過ぎ、退いて霊州城に来て攻めて打った」と言う。霊州は、蒙文は朵兒蔑該とする。伯哷津は「軍は唐古特に至り、甘州・粛州を取り、さらに兀剌孩城を取り、滴兒雪開城を囲んだ。合申主失都︀兒忽は、地元民は李王と呼んで称し、その伊兒開都城から、五十の営兵を率いて来て助けた。帝は軍を移して行って迎えた。地は河が多く、いずれも黄河に従って行き、すでに凍っていた。兵はみな氷の上を従って行った。軍勢に矢を射させ、弱く放つことを許さなかった。この戦では、殺した人は数えられなかった。モンゴル兵は十のうち一が死に、合申兵の死者は二倍に増した。失都︀兒忽は都城に逃げ帰った」と言う。
洪氏は「元史と親征録いずれも丙戌(1226年)に西夏に入ったと言う。その甘・粛などの州を取ったのは、元史 本紀はこれを夏に繋げている。後文の狗年は、ここに移してまさに合うとすべきである。秘史蒙文の朵兒蔑該は、つまり滴兒雪該である。伊兒開都城は、原注「土着語の伊兒開は、モンゴル語では額兒起牙と言う」。おそらくつまり元史 本紀がいうところの夏王城である。秘史蒙文が寧夏を称して額里合牙と言うこれである」と言う。
元史 本紀は「甘・粛などを州を取り、秋に、西凉府・搠羅・河羅などの県を取り、そのまま沙陀を過ぎ、黄河に至って九回渡り、應里などの県を取った。冬十一月庚申、帝は霊州を攻めた。西夏は嵬名令公を遣わし来させて助けた。丙寅、帝は河を渡り西夏の軍を叩きこれを破った。丁丑、五星聚という天文現象が西南で見えた。塩州川で駐蹕した。この歳、皇子窩闊台及び察罕の軍は、金の南京を囲んだ。唐慶を遣わし金に毎年の貢物を求めた」と言う。金史 哀宗紀は「正大 三年(1226年) 十一月、大元の兵は西夏を征伐し、中興府を平らげた」。〉
丁亥(1227年)〈二十二年、宋 宝慶 三年、金 正大 四年。〉その国を滅ぼして帰った。〈秋濤案、この句の下に脱文がある。通世案、金史 哀宗紀「正大 四年(1227年) 三月に大元の兵は徳順府を平らげ、節度使愛申は、摂府判官の馬肩龍とともに死んだ。五月丁丑、大元に和を乞う話し合いをした。大元の兵は臨洮府を平らげ、総管の陀滿 胡土門を死刑にした」。元史 太祖紀は「二十二年 丁亥(1227年)春、帝は兵を留めて西夏の王城を攻め、自ら軍を率いて河を渡り、積石州を攻めた。二月に臨洮府を破った。三月、洮河・西寧の二州を破った。夏四月、帝は竜徳に駐留し、徳順などの州を攻め落とした。徳順の節度使である愛申と、進士の馬肩龍は死んだ。五月、唐慶を遣わして金に使いさせた。閏月、六盤山に避暑した」と言う。伯哷津は「帝は「彼はこの負けを経て、力は再び振るわなくなったか」と言い、あまり気に留めず、その都城を落とし、行って他の城を取った。各城を攻め下し終えた、あと直ちに乞䚟の国境に入った」と言う。洪氏は「これみな猪年の事であり、原書は続きを失っている。どうして国史はまだ明らかでなく、ゆえに親征録もおおよそ言及がなく、そして元史及びこの書は、みな諸々の他所と見分けるのか」と言う。「狗年春の初めに盎昏塔朗︀呼圖克の地に至り、身はあまり健やかでなく、死期に及ぶことを感じる夢を得た」。洪氏は「地名は考えがない。結局はこの夢があったのは、必ずやこれは猪年に向いたのであり狗年ではない」。
「この時諸子で側にあった者は、ただ亦孫哥阿克であった。(注は、朮赤 哈薩兒の子と言う)。そこで「窩闊台・拖雷は、今どこにいるのか、互いに遠く離れていないのか」と問うた。亦孫哥阿克は「わずかに二三里離れている」と言った。直ちに人を遣わして呼び寄せ至らせた。次の日の早朝、帝は諸将及び従官に「今や諸子とともに相談することがあるので、お前たちはしばらく避けよ」と告げた。人々が退くに及んで、そこで「私はおそらく寿命が終わる時に至っている。私がお前たちに始めさせたこの基業は、東西南北はいうまでもなく、この先頭からあの先頭までいくのに、いずれも一年かかる。私が残す命令は他に無い。お前たちはよく敵を防ごうとし、多くの民衆を得て、必ず人々の心を一つの心にしなければならず、まさに永遠に国の幸せを受けるに値する。私の死後、お前たちは窩闊台を奉じて主人とせよ」と言った。さらに「お前たちはそれぞれ帰って事を治めるべきである。私はこの大きな名誉を受け、死ぬことに心残りはない。私は故郷に帰ることを願う。察合台が側にいないとはいえ、我が遺命に背いて乱を生むに至ることはないとみなす」と言った。言葉が終わり、直ちに諸子が出るよう指図し、自ら兵を率いて南紀牙斯に向かった。至ったところの地はいずれも迎えて降った。六盤山に行き至り、主兒只・南紀牙斯・合申の三か所の境界が交わる地とした」。
洪氏は「南紀牙斯は、必ずや南宋を指し示し、しかし名称からはその見識を得られない。古くからの理解では南朝の二字の変音とされ、斯の字は末尾の文字となる」と言う。金史 哀宗紀は「六月 戊申 朔、前の御史大夫完顏 合周を遣わして和を議する使いとした」と言う。元史 太祖紀は「六月、金は完顏 合周・奧屯 阿虎を遣わして来させて和を請うた。帝は羣臣に「朕は去年の冬の五星聚の時より、すでにこれまでに殺さず掠めないことを聞き入れている。早くも命令を下したことを忘れたのか。今は内外に布告して、彼を行かせた人に朕の考えを知らせるべきであろう」と語った」と言う。伯哷津は「主兒只はそれが至ったのを聞き、使いを遣わして財物を納めて平和交渉を行い、一つの大珠を盤に盛り、小珠を無数に囲んだ。帝は「どうして耳に孔を開けた人が、珠を受け取りに来られようか」と問い、ことごとく人々に分けた。続けて珠を求める者があり、珠を投げ出して地面に満たし、それを自ら取るに任せた」と言う。
秘史は「唐兀惕主不兒罕は、名高い金の仏像並びに金銀の器皿及び男女と馬や駱駝などの物を、いずれも九つずつ数を揃えて来て献じた。成吉思は止めて門外で礼を行わさせた。礼を行う間に、成吉思は気分が悪くなって第三日に至り、不兒罕を失都︀兒忽に改名し、脫侖に殺すよう命じた。脫侖に対して「むかし唐兀を征伐した時、私は巻狩りで落馬した。お前はかつて我が身体を惜しみ、帰るよう求める意見をかかげた。敵人の言葉が不遜だったので、来て征伐するのである。永遠なる天は助け、彼を取った。今や不兒罕が行宮に来て器皿を並べたのを、お前が納めるのである」と言った。成吉思は唐兀惕の人々を捕らえ終えて、その主不兒罕を殺し、その父母や子孫を滅ぼし、飲食時にはひたすら常に、唐兀惕が絶え尽くすよう言わねばならないようにさせた。猪児年に至り成吉思が亡くなった後、唐兀惕の人々を、也遂夫人に多く分け与えた」と言う。
元史 本紀は「この月(六月)、西夏の主 李睍が降った。帝は淸水県の西江に宿泊した。秋 七月 壬午に天子は病気で、己丑に薩里川哈老徒の行宮で亡くなった。死に臨んで、左右に「金の精兵は潼関にあり、南は連山に拠り、北は大河がへだて、速やかに破るのは難しい。もししばらく宋に従うならば、宋と金は代々仇敵であり、必ずこれは我らに良い。そうなれば唐州・鄧州に出兵し、すぐに大梁を討つ。金は急ぎ、必ず潼関に兵を召し出す。しかし数万の軍勢をもって、千里を出かけて行って助け、人馬は疲弊し、至ったといえども良く戦えない。これを破るのは確かではないか」と言った。言葉が終わって亡くなり、享年六十六。起輦谷に葬った」と言う。
伯哷津は「失都︀兒忽は自ら「たびたび叛きたびたび敗れた。今すでに全ての国境を乱され、再び賑わすことはできない。ただ降ることを乞うしかない」と考えた。そこで使いを遣わして来て誓いを立てて本当に服従し、「子となってこれを収めることは敢えて望まない」と言った。帝はその請いを許した。さらに貢物を整え、民戸を移し、一か月のうちに自ら来て謁見することを申し述べて待った。帝はまたこれを許した。今や私はなおも病いなので、しばらく来ないようにと告げ、脫侖 扯兒必に命じて、失都︀兒忽を導いて行かせ安んじさせた。帝はこれより病が日ごとに進んだ。死に臨む前、その大臣に「私が死んだら、しばらく喪を明らかにせず、敵に知られないようにし、合申主が来るのを待って、直ちにこれを殺し尽くせ」と告げた。猪年八月十五日に帝は亡くなった。諸将は遺命に従い、喪を明らかにせず、合申主が来て謁するのを待ってこれを殺し、そしてのちに喪を明らかにし、柩を奉じて古い宿営地に帰った。四つの鄂爾多が日を同じくして〈底本-406〉哀悼を捧げた。
遠いところは便りを得て、やはりいずれも喪に駆けつけ、三か月の後に集まり終えた。以前に帝はあるところに至り、孤樹を見てこれを愛で、立ち去りにくく樹下にややしばらくの間いて、左右に「私が死んだら、ただちにここに葬れ」と言いその後に前の命令を述べた人がいて、そのまま選び定めて樹下に葬った。言うところに拠ると、墓は克魯倫河にあり、葬った後で樹がともに多く生え、後に密林を成し、どの樹の下に墓があるのか区別できない。当日に送葬した者といえども、またよくわからなかった。拖雷 汗・蒙哥 汗・呼必賚 汗・阿里 布喀、いずれも付き従ってここに葬り、他の子孫は別に葬った。墓を守る者は烏梁海︀人とされた」と言う。
元史 太祖紀を調べると「戊子年(1228年)、皇子拖雷が代理で国政を執った」。元史 太宗紀「太祖が亡くなり、霍博の地より来て集まり喪に服し、元年 己丑(1229年)夏、忽魯班 雪不只の地に至り、皇弟拖雷が来てまみえた」。これは太祖が亡くなった時に、太宗はおそらく数千里の外にあったのであろう。西史が窩闊台は側にあったと言うのは、おそらく誤りである。閏五月、六盤山に避暑した。山は甘粛 平涼府 固原州の西南に三十里にある。六月、帝は淸水県 西江に宿泊し、今の甘粛 秦州の国境であり、六盤山の南に三百余里にある。七月己丑、薩里川哈老徒の行宮で亡くなった。薩里川は、つまり克魯倫河上流の撒阿里 客額兒の地である。哈老徒は、今は噶老台とし、噶老台嶺・噶老台河・噶老台泊がある。この行宮は、つまり克魯倫河のほとりの大鄂爾多であり、太祖が長く住んだ所である。ゆえに西史は古い宿営地と言う。
続綱目は「鐵木眞は六盤山で死んだ」と言い、西史と合う。おそらく太祖は六盤山もしくは秦州境で亡くなり、柩を奉じてモンゴルに帰り、その後で喪を明らかにした。いわゆる「壬午に天子は病気で、己丑に薩里川哈老徒の行宮で亡くなった」であり、いずれも喪を明らかにした所を称する言葉で、そして元史 本紀はこれに依る。洪氏は哈老徒を鄂爾多斯の哈柳圖河とし、正しくない。その亡くなった時期に至っては、元史 本紀は七月とし、西史は八月十五日とする。西史はおそらく西暦によってこれを言う。西暦の八月は、つまり東暦の七月である。西史はまた「金の棺が古い宿営地に至ったのは、当年の某月十五日にあった」と言う。伯哷津注「原文の某月の字は区別できない」。そうであるならばいわゆる八月十五日は、金の棺が古い宿営地に至った日であり、そして亡くなった時期は実にその前にあったのである。徐霆の黒韃事略「霆が見た忒沒眞の墓は、瀘渚︀河の側にあり、山と水が囲んでめぐる」。瀘渚︀河は、つまり克魯倫河である。西史と合う。
元史 本紀は起輦谷と言い、起輦も怯綠連の転訛である。元史 本紀は「至元 三年(1266年) 冬 十月、聖武 皇帝という追号を贈った。至大 二年(1265年) 冬 十一月 庚辰、追号を加えて法天 啓運 聖武 皇帝とし、廟号を太祖とした。帝は落ち着き払って大略があり、軍の使い方は神のようで、よって四十の国を滅ぼすことができ、西夏を平らげ終えた。その優れた手柄と見事な功績ははなはだ多い。当時の史官が不備であったこと、あるいは紀に載せる多くを失ったことが惜しまれる」と言う。
〉太祖 聖武皇帝がはるか遠くに昇った後、太宗皇帝が即位し以前は、太上皇帝が時に太子とされた。〈銭辛楣先生は「この書は烈祖 神元皇帝と、太祖 聖武皇帝の追号を載せている。元史を調べると、烈祖と太祖の追号は、いすれも世祖 至元 三年(1266年)にあり、であればこの親征録は至元の以後に作られたものである。よって睿宗に太上皇の称がある。だが太宗の事にその弟に太上の称を加えて記すのは、名正しからざれば則ち言順ならずではないか」と言う。秋濤案、太祖は丁亥(1227年)に亡くなり、己丑(1229年)に至り、太宗は初めて即位した。元史 太祖紀は「戊子年(1228年)、皇子拖雷が代理で国政を執った」と言い、元史 太宗紀は「太祖が亡くなり、霍博の地から来て集まり喪に服した。元年 己丑(1229年)夏、忽魯班 雪不只の地に至り、皇弟拖雷が来てまみえた。
秋 八月 己未、諸王百官は怯綠連河曲雕阿蘭の地で大集会し、太祖の遺言により、皇帝に即位した」と言う。睿宗伝は「諱は拖雷で、太祖の第四子。ちょうど太祖が亡くなった時、太宗は霍博の地に留まっており、国の事は所属がなく、拖雷が実に身をもってこれを担い云云」と言い紀と伝が載せて示すところのこれと合い、であればこのくだりは「太祖がはるか遠くに昇った後、太宗が即位し以前は、皇子拖雷が代理で国政を執った」と言うのに当たり、であれば事の道理は明らかであろう。今まさに「太上皇帝が時に太子とされた」と言い、実にその意味を解けないとみなせ、おそらく監国を太子の事にしたのであろう。だがどうしてついに太子と指してしたのか。その後に武宗が弟の仁宗を立てて太子とし、明宗は弟の武宗を立てて太子とし、名正しからざれば則ち言順ならずである。
ことごとくこれらの紀が載せるのは、これの手引きになる。辛楣先生はこれに及んで論じておらず、ゆえに詳しくこれを言った。彭〈[#訳せない。「彭」は人名か副詞の「盛んに」か]〉言うには、明宗和世㻋は、武宗の長子で、在位半年で、文宗圖 帖木耳が継いだ。文宗は、武宗の次男である。もしこれを指すなら、弟の武宗を立てるのは、字の誤りに近いのではないか。通世案、阿卜勒噶錫は「モンゴルの習俗では、諸子の成人は、いずれも他所に住み、そして幼子が父の遺産を得る。よって斡赤斤の名は、ただ幼子がこれを称することができ 意味は竈の主である」と言う。おそらく游牧の民は、一帳の内に、子の群れと同居することができず、よって大きな子は続けて外へ放牧に出るので、留まる者は幼子だけであった。太祖が四子を分封する時になり、三子はともに遠い地となり、そして拖雷がモンゴルの古くからの家業を受け継いだのも、旧俗に依るのである。伯哷津は「鶏年に合申を征伐した時、帝が移動中に、窩闊台の子庫延・古由克が身を寄せて来た。二孫は褒美をたまわることを求めた。帝は、「所有の物は、すでにことごとく拖雷に任せており、彼は家主である」と言った。その後拖雷 汗は衣物を分けてこれを贈った」と言う。洪氏は「拖雷は幼子なので父に従い、家主のように厳かであった。その後に帝は亡くなり、そのまま代理で国政を執った。親征録が「太上皇帝は時に太子とされた」と言ったのは、みなつまりその意味である。それをでたらめと退けるべきではない」と言う。だが家産を継ぐのは、汗位を継ぐのと同じではない。モンゴルの俗は大切なことがあると、部を挙げて会議してこれを決めるのは、庫哩勒台と言い、汗を選ぶのも兵を出すのもそうである。家産は必ず幼子が受け継ぎ、しかし汗位は庫哩勒台で決めたので、必ずしも父子の相続ではない。太祖は窩闊台を立てることを望む言葉を遺したが、しかし皇太子にしようとはせず、必ず庫哩勒台の議決を待ち、その後で位を定めた。定宗と憲憲の即位もみなそうである。世祖が漢臣の勧めに従って自立するに及んで、この制は始めて変わったのである。そうであるならば拖雷はもとより太子ではなく、窩闊台もまた太子ではない。史臣はモンゴルの習俗に通じておらず、よって記録をつけるのは誤りやすかった。〉
戊子(1228年)、〈宋 理宗 紹定 元年、金 正大 五年。〉輪思罕に避暑した。〈秋濤案、この避暑というところが、何を指すのかわからない。あるいは「睿宗と考えられる」と言う。湛然居士集は「戊子(1228年)、駅継ぎ馬車が京に来て、人は異域の事を問い、応対が煩わしいことをおもんばかり、そのまま西遊録を著した」と言う。耶律晋卿の西遊録が今に伝わっていないのを考えると、惜しむべきことである。文田案、輪思罕は、斡里罕とすべきで、つまり鄂勒昆河であり、元史 太宗本紀「二年(1230年)春、拖雷とともに斡兒寒河で狩りをした。夏、塔密兒河に避暑した」。おそらく二つの事を一つとしただけであろう。また考えるに、耶律 楚材の西遊録は、大半が元人の盛如梓の庶斎老学叢談の中で採り入れている。また清朝の兪浩の西域攷古録が西遊録を引くところは、他の書が盛んに引いたのを出すのがはなはだ多くある。私は選び取ってこれに注をつけた。この書は唐の後と元の前の外域輿地沿革の標準とみなされ、見ずにはいられないのである。通世案、輪思を斡児とすべきである。睿宗は斡兒寒河に避暑したのである。胡の習俗では毎年冬夏に居るところが異なる。丙子(1216年)の避暑は、自ずと戊寅(1218年)の避暑と同じでなく、李氏が強いてこれを合わせようとしたのは、誤りである。〉金主は使いを遣わして来朝させた。太宗皇帝と太上皇は搠力蠻と相談して再び西域を征伐した。秋、太宗皇帝は虎八より〈秋濤案、元史は霍博とする。〉先の太祖皇帝の太宮に集まった。〈曽植案、太は大とすべき。大宮は、大斡耳朵である。〉
己丑(1229年)〈太宗 元年、宋 紹定 二年、金 正大 六年。〉八月二十四日、諸王駙馬百官は、怯綠連河曲雕阿蘭で大会し、共に相談して太宗皇帝が即位した。太宗はそのまま金国を征伐して収めることを話し合い、〈収は原書では牧。文田案、牧を服か、あるいは収の字とするべき。曽植案、収とするのが正しい。〉貧乏な者を助け、倉の守備兵を置き、駅站を始めた。〈剏は原書では瓶とし、張石州が校改する。〉河北の先に附いた漢民に労務と貢物を命じ、〈底本-407〉兀都︀ 撒罕にこれを司るよう命じた。〈都は原書では相とし、秋濤案、この書では相はみな都とすべき。兀都︀ 撒罕は、つまり耶律 文正 楚材が賜った名である。元史は吾圖 撒合里とする。これが都︀とすれば、圖と音が近い。相は遠い。銭竹汀先生さえも、この字の誤りに気づかなかった。〉西域の労務と貢物は、牙魯瓦赤に命じてこれを司らせた。〈秋濤案、元史 本紀は「麻合沒的 滑剌西迷がこれを司った」と言う。〉この年、西域の伊思八剌納城主が使いを遣わして来て降った。また西域の西忻都︀〈原書は折相とし、秋濤が校改する。〉及び不剌夷国主自ら来朝してまみえた。〈秋濤案、元史 本紀は「印度国主と木剌夷国主が来朝した」と言う。印度はつまり忻都︀である。不剌夷は元史 本紀に従って木剌夷とするのが正しいとすべき。この書は壬午年(1222年)四太子が西域を征伐したことを載せ、道は木剌夷国を経て、大いに掠めそして帰り、また木剌夷とするのは、証明できる。〉
庚寅(1230年)〈二年、宋 紹定 三年、金 正大 七年〉春、将を遣わして京兆を攻め守った。金主は歩兵と騎兵の五万で来て助け、破れて帰った。その城はまもなく攻め落とされた。秋七月、上〈[#「上」は太宗オゴデイを指す。以後すべて同じ]〉と太上皇は金国に親征した。闕郡隰過川を出発し、宮山より鉄門関・平陽を南に下り、河を渡って鳳翔を攻めた。〈秋濤案、おそらく抜けと誤りがある。文田案、この鉄門関は、雁門関の誤りのようである。山西はこの地名はない。おそらく前文の西域の鉄門関つまりこれをでたらめに改めたことにちなむだけであろう。曽植案、宮山はおそらく官山とすべき。金史 地理志では、西京 大同府 宣寧県に官山がある。睿宗列伝、「辛卯(1231年)に太宗が官山に帰り、諸侯と王が大集会を開いた」。〉
辛卯(1231年)〈三年、宋 紹定 四年、金 正大 八年。〉春二月、遂に鳳翔を取り、さらに洛陽と河中のいくつかのところの都市を取って帰った。宮山で避暑した。〈秋濤案、宮山を官山とする。紀は九十九泉とし、これは一つの地とすべき。元一統志を調べると、官山はかつての豊州の東北を一百五十里にあり、上に九十九泉があり、流れて黒河となり、つまりその地である。今は帰化城の境内にある。北魏 太祖紀は、天賜 三年(406年) 八月 丙辰、西に武要北原を登り、九十九泉が見え、つまりこれである。そして水経注という地理書の㶟水に関する注は、さらに「沮陽城を東に八十里に、牧牛山があり、下に九十九泉があり、山上には道武皇帝廟がある」と言う。沮陽故城は、今は宣化府 懐来県の南にあり、つまり水経注が称する所の、まさに嬀水の上流である。おそらく北魏はふたつの九十九泉があった。北の習俗では入山して避暑し、いずれも名勝を選び、ふたつの地が泉の源であることは疑いなく、いずれも登山して水に臨む地である。もしも元朝の皇帝が行幸するところであれば、帰化城の黒河で疑いない。文田案、元史 西雷伝、北口を出て、官山で夏を過ごした。特薛禅伝、〈[#子の按陳を]〉官人山に葬った。
たいていの元人は居庸関の外にあり、今の張家口の北で、いずれも草地と称し、また官山と名付けられたのである。金史地理志は、西京路の大同と宣甯、遼の宣徳県に、官山がある。宋の徐霆の黒韃事略は、居庸関の北、如官山・金蓮川などのところは、六月でも雪がある。大清一統志は「官山は毛明安旗の西南を七十里にある。崑都︀倫河は、官山を経て、吳喇忒の境界に入る」と言う。曽植案、山西通志は、黒河は大靑山九十九泉に源を発し、帰化城の南を経て、西に流れて脫脫城に至り、伏流は黄河に入る。大靑山を考えるに、モンゴルは翁袞山と称し、また翁觀とし、訳は神を言うのである。官山の上に九十九泉がある。であればつまりこれは大靑山翁觀山である。官と観は対音の字というだけ、〉諸王百官を集め、三道に分け、金国を征伐して収め、来年正月を期限として、みな南京に集まった。この年の秋八月十四日に、西京に至った。〈秋濤案、西京はやはり金の旧名である。元史 本紀が雲中に行幸したと言うのは、これである。
〉人事を行い、それそれが官名と官位を司った。兀都︀撒罕は中書令に、〈都は原書では相、秋濤が校改する。〉黏合 重山は右丞相に、鎭海︀は左丞相になった。〈張石州は「元史 紀は耶律 楚材を中書令とし、黏合 重山は左丞相とし、鎭海︀は右丞相とする」と言う。秋濤案、鎭海︀伝も右丞相とする。文田案、徐霆の黒韃事略は「その大臣四人は、案只䚟と言い、黒韃人で、移剌 楚材と言い、粘合 重山と言い、鎭海︀と言う」と言う。この当時は実に四人があり、いずれも称して必澈澈と言い、相という大臣の称はなかったのである。それが言う宰相は、将来の翻訳のような文の言葉だけである。左右を定めないのがふさわしいか。必澈澈は、つまり畢且齊、あるいは必闍赤とするのである。
〉ここより遣わして撒哈塔〈秋濤案、元史 紀は撒禮塔とする。曽植案、高麗を征服したのは、秘史は札剌亦兒台 豁兒赤とする。この撒哈塔 火兒赤は、おそらく一人であろう。元史 塔出伝、「蒙古 札剌兒氏。父は札剌台で、太祖から憲宗まで次々と仕えた」。〉火兒赤に、高麗を征伐させて収め、四十余の城を取って帰った。冬十月初めの三日、上は河中府を攻め、十二月初めの八日にこれを取った。時に西夏人速哥という者があり、黄河は白坡で渡れると告げて来た。その言葉に従った。〈曽植案、火兒赤は、秘史蒙語は豁里赤とし、撒哈台の役人である。前とつなげて読む。又案、元史 一百廿四の速哥伝は、つまりこの速哥である。彼はモンゴルの怯烈氏と言う。〉
壬辰(1232年)〈四年、宋 紹定 五年、金 正大 九年。〉春正月初めの六日、大兵は渡り終るとともに、漢船七百余艘を捕らえた。太上皇は将貴由を遣わし、軍兵らが集まったことを知らせに来させ、漢江を渡り終えた。上はまた太上皇に使いを遣わし、「お前たちは敵と戦って日が長い。〈秋濤案、翁本は敵の下に速の字がある。今は取り上げない。〉合戦に来るべきである」と言った。上は正月十三日に鄭州に至った。城を守る馬提控という者は城を率いて降った。〈秋濤案、元史 本紀は馬伯堅とする。〉太上皇は漢水を渡り終え、金の大将哈荅〈秋濤案、金史と元史、ともに合達とする。〉麾下の欽察の者で逃げて来たのがいて、哈荅が鄧州の西の狭間に兵を伏せて遮ることなどを伺っていると告げたことがあった。太上皇はそこで夜に兵を集めて燭で明るくして進んだ。哈荅と移剌は知られたと聞き、鄧州に入りその鋒を避けた。太上皇は正月十五日に鈞州に至り、雪が降った。〈底本-408〉
上は大王口溫 不花と国王荅思を遣わして、軍兵を率いさせて至らせた。十六日、雪がまた大いに降った。この日に哈荅と移剌と三峰山で合戦し、大いにこれを破り、そのまま移剌を捕らえた。十七日、上は戦場を見に行きこれを褒めた。〈原書では佳、秋濤が校改する。〉二十一日、鈞州を取った。哈荅は地面の穴に潜んでいたのを、やはりこれを捕まえた。また昌州を取り潡州 嵩州 曹州 陝州 洛陽 濬州 武州 易州 鄧州 応州 寿州 遂州 禁州などが来て降った。〈秋濤案、元史 本紀は「そのまま商・号・嵩・汝・陝・洛・許・鄭・陳・毫・穎・寿・睢・永などの州県を下した」と言い、これと多くが異なる。金の時代を調べると、河南は昌・漷・易・応・遂・禁などの州はなかった。おそらく昌と漷は商と号の音の誤りで、応は穎の音の誤りで、遂は唯の音の誤りで、禁は永の音の譌りで、残りはまだ詳しくわからない。〉先月、上は南京に至り、忽都︀忽にこれを攻めさせ、上と太上皇は北に河を渡り、官山で避暑した。〈秋濤案、元史 紀は「夏四月、居庸関を出て、官山で避暑した」と言う。
〉速不歹 拔都︀・〈都は原書では相、秋濤が校改する。〉惑水歹 火兒赤・貴由 拔都︀・塔〈曽植案、塔の下に脱字があり、これは塔察兒 火兒赤とすべきである。〉などが、まさに金が荆王守仁の子曹王を我軍へ質に入れに遣わすのに出会い、そのまま退き、速不台 拔都︀を留め、兵三万で河南を鎮め守った。秋七月、上は唐慶を遣わして金に降伏を促しに使いさせ、そこで殺された。八月、金の参政完顏 忠烈〈張石州は「元史 紀は思列とする」と言う。曽植案、惑水を忒木とすべき。食貨志に忒木台駙馬とあり、また忒木台行省とある。忒木歹 火兒赤が誰なのかわからない。又案、行省の忒木台は憲宗の時にいた。これは元史 公主表で名の欠けた公主が嫁いだ忒木歹駙馬とすべきである。又案、経世大典の馬政篇(永楽大典の中にある)太宗 十年 戊戌(1238年)、国全体の住民と租税を調べ、馬を整え、東平府路は、訛可曹王が新戸一十戸を納め終え、ついで査剌溫 火兒赤と回回大師の降伏があり、曹王は、金が滅んだ後、なおもその爵禄を保ち得たのである。元の初めに民戸を支給したのは、ただ同族の手柄のある古い家だけであった。訛可はその時に功がなく、王の領土は改まらなかった。どうしてその後に公主を娶ることができるのか。
〉と恒山公武仙は、兵二十万を率いて、南京に集まり、鄭州の西に至って合戦した。この年、高麗王が再び叛いた。再び撒兒荅 火兒赤に命じて〈原書では大児亦とし、秋濤が校改する。〉征伐して収めた。九月、南京城中の穀物倉庫がみな尽きた。金主は兵六万を率いて、北に河を渡り、東平・新衛の二城を取り戻そうとした。我が軍は北に追いかけた。軍が潰えて散り散りになって千余人を保ち、〈逐北は原書では遂北。張石州は脱誤があると疑う。秋濤案、逐北とするべき。通世案、姚士達の刊本では、存は尚とする。原書はおそらく尚と存の二字があり、姚本は存の字が抜け、この本は尚の字が抜けたのである〉再び北に河を渡った。
癸巳(1233年)〈五年。宋 紹定 六年、金 正大 十年。〉春 正月 二十三日、金主は南京を出て、帰徳に入った。金人崔立は、南京留守参政の二人を殺し尽くし、門を開き速不台 拔都︀に行って降った。四月、速不台 拔都︀は靑城に至った。崔立はまた金主の母后と太子二人とともに諸族人を率いて来て献じた。そのまま南京に入った。六月、金主は帰徳府を出て、蔡州に入った。〈原書では八察で、州の字がなく、秋濤が校改する。〉塔察兒 火兒赤は大軍を統率して守りを囲んだ。この月の十日、人を遣わして城に入らせて降伏を促し、応じなかった。四面に城を築いてこれを攻めた。八月、一方で案脫らを遣わして、漢民七十三万あまりの戸籍を書き写した。十一月、南宋は太尉の孟珙らを遣わし、兵五万を率いて、食糧三十万石を運び、蔡州に至り来て助け、兵を南面に分けてこれを攻めた。金人は沂・萊・海・維〈原書では此の字が欠けている。張石州が翁本に拠って増やす。秋濤案、元史 本紀は濰とすべき。文田案、孟珙は蒙韃備録にあり、この時に遣わしたのである。曽植案、案脫は、元史 太宗紀は阿同葛とする。又案、案脫は、元史で前に不兀剌と同じく乞里吉思に使いをした案彈であり、元史 公主表の阿昔倫公主が嫁いだ阿脫駙馬、これである。又案、中堂事紀は、火赤達剌罕の大名府の民戸は五百余で、断事官案脫が定めて下した民と劣って食い違っているのは、つまり案脫が漢民の戸籍を書き写した事である。〉等州を挙げて来て降った。
甲午(1234年)〈六年、宋 理宗 端平 元年。この年に金は滅んだ。〉春 正月 十日、〈正の字が原書で欠けており、秋濤が元史 本紀に拠って増やす。〉塔察兒 火兒赤は蔡城を攻めて危機が迫った。金主は一族の承麟に位を継がせ、そのまま首をくくって火をかけて死んだ。我が軍が蔡州に入り、承麟を捕らえてこれを殺した。金主の遺体は、南人が争い取って逃げた。金を平らげた事はこのようであった。この年の五月、荅蘭荅八思で行宮の建設が始まり、諸王百官が大いに集まり、憲章を宣布した。この年、羣臣は奏して「南宋は仲よくすると称しながら、反して我が使いを殺し、〈原書は死とし、注は「音使」と言う。秋濤案、死を使とすべき。「音使」の二字は、後の人が〈底本-409〉みだりに加えた。これは大変はっきりとした錯誤であり、そして後の人はこれを正しいとできなかった。また前後の食い違いが多くやはり伝写の誤りであることは証明に足りる。文田案、使いを殺したというのは搠不罕であり、辛卯(1231年)、元太宗は使いを宋に遣わした。宋の沔州統制の張宣はこれを殺した。耶律鋳の双渓酔隠集で見える。〉我が付近を侵犯した。天命を奉り揚げ、その罪を征伐しよう」と言った。また忽都︀〈原書では相とし、秋濤が校改し、つまり忽都︀虎である。〉忽を遣わし、漢民を治めることを司り、別に塔海︀ 紺孛を遣わして蜀を征伐させた。
乙未(1235年)〈七年、宋 端平 二年。〉和林城宮殿を建てた。〈秋濤案、元史 本紀は「春、和林を築き、万安宮を作った」と言う。湛然居士集に、和林城で行宮を建てた棟上げの文があり、乙未年(1235年)三月の姪を弔う文の後に繋がるのである。鳳鑣案、耶律鋳の双渓酔隠集の凱楽歌詞曲に、和林を題材にした詩があり、注は「和林城は苾伽 可汗の故地である。歳乙未(1235年)、聖朝太宗皇帝はここに築いて、万安宮を起こした。城の西北七十里に、苾伽 可汗宮城の遺址がある。城の東北七十里に、唐明皇 開元 壬申(741年) 御製御書 闕 特勤碑がある。唐史 突厥伝を調べると、闕 特勤は、骨咄祿 可汗の子で、苾伽 可汗の弟である。名は闕。
可汗の子弟は、これを特勤と言う。開元 十九年(731年)、闕 特勤は亡くなった。金吾将軍の張去逸と、都官郎中の呂向に命じて、詔書を持って行かせ、北に弔祭に使いさせ、並びに碑を立てさせ、上自ら文を作った。別に祠廟を立て、石を刻んで像を作った。その像は今でもある。その碑の額及び碑文は、特勤がいずれも殷勤の勤の字である。唐新旧史は、すべて特勤と書き、いずれも銜勒の勒の字とするのは、誤りである。諸突厥部の遺俗は、なおその可汗の子弟を特勤や特謹︀という字で呼ぶのである。であれば碑文と合う。碑は「特勤は、苾伽 可汗の令弟である。可汗は朕の子のようなものである」と言う。唐新旧史は、並びに毗伽 可汗とする。勤と苾の二字は、碑文が正しいとすべきである」と言う。
双渓酔隠集のこの注を考えると、弁論がすこぶる詳しい。よってこれを記し備えることは、証明を考えるのに役立つ。〉夏、曲出 忽相都︀を遣わして漢民一百二十万あまりに到る戸籍を記した。そのまま諸王に都市を分け与え、それぞれ遣わすことがあった。〈秋濤案、忽相都︀は耶律 楚材伝に拠って、忽都︀虎とすべき。元史 本紀は、乙未(1235年)に皇子曲出 胡土虎を遣わして宋を征伐し、漢民の戸籍の事は言わない。丙申(1236年)夏六月、再び中州の戸口を取り締まり、続けて戸一百一十余万を得た。秋七月、真定の民戸を、太后が湯沐する場所として奉じ、中原諸州の民戸を、諸王や王族の親戚に分け与える命令があり、つまりこの事に当たり、そして元史 本紀はこれを次の年に寄せたのである。〉
丙申(1236年)〈八年、宋 端平 三年。〉和林城宮に入って祝った。〈秋濤案、元史 本紀、丙申(1236年)春正月に、諸王はそれぞれ接待の準備をして集まって来て、万安宮の落成を楽しんだ。〉冬十二月、赤曲〈秋濤案、おそらくやはり人名であろう。文田案、赤曲は、つまり秘史の曲出である。曽植案、赤曲は、つまり元史 太宗紀の曲出であり、黒韃事略は屈朮とする。□の意見は誤りである。これは赤駒駙馬である。〉・闊端〈原書は関端とし、秋濤が元史 本紀に拠って改める。〉などが西川を取った。
丁酉(1237年)〈九年、宋 理宗 嘉熙 元年。〉夏四月、掃鄰城を築いた。〈秋濤案、元史 本紀「夏四月、掃鄰城を築き、迦堅察寒殿を作った」。元史類編は「和林の北七十余里にある」と言う。文田案、輟耕録では、掃鄰は、宮門外院官が集まるところである。曽植案、山居新話は「内八府宰相は翰林院官の掃鄰に集まって居場所とした」と言う。注は「つまり宮門の集まるところである」と言う。〉秋八月、漢儒の選擢を真似て、本貫の職位に就かせた。〈秋濤案、元史 本紀には八月に木虎乃と劉中に命じて諸路の儒士を試験して選び、本貫議事官に就かせ、四千三十人を得たとある。この書は他の政務をことごとく載せていない。ただこれを記したものは、太宗が儒を崇めたと記すだけで、それゆえ始まりは世祖が盛んにしたこととするのである。〉
戊戌(1238年)夏、禿思兒城を築き〈十年、宋 嘉熙 二年。秋濤案、元史 本紀は「圖蘇湖城を作り、迎駕殿を築いた」と言う。圖蘇湖は、おそらくつまり禿思兒であろう。元史類編は「和林を行くこと三十余里」と言う。文田案、禿思兒は、つまり元史類編の朔漠図の禿忽思城である。禿忽思は、つまり圖蘇湖三字の対音であり、中国語で言う涼しいである。耶律鋳と太宗后が関わる。后は姪を鋳に嫁がせ、涼楼の中で耶律 希亮を生んだ。よって名は涼と言う。涼と亮の音が転訛し、ゆえに希亮と改めた。モンゴル語の名は禿忽思と言う。意味は元史 希亮伝の中で見える。
曽植案 広輿記の朔漠図は、禿思忽嶺があり、禿思忽涼楼があり、ともに哈喇和林河の南にあり、つまり圖蘇湖城である。今の皇輿図は、朱爾馬台河の、南に、達爾湖喀喇巴爾哈孫があり、おそらくつまりこれがその遺址であろう。喀喇巴爾哈孫は、モンゴル語で黒い城を言う。おおむねモンゴル人は廃城故址において、大きな町は黒城の名をこれに用いる。達爾湖と圖蘇湖は、古い言葉が世間に広まったもので、音と言葉はかすかに変わっている。ただその地が望む目安に拠るべきである。対音と訳義は、必ずしもまたみな近く合ってはいない。考えるに、秘史蒙文の語を解くと、圖思は正主である。〉
己亥(1239年)。〈十一年、宋 嘉熙 三年。〉
庚子(1240年)〈十二年、宋 嘉熙 四年。〉春正月、暗都︀剌蠻に命じて〈張石州は「元史 太宗紀は、奧都︀剌合蠻とする」と言う。〉漢民の財産取り立てを司らせた。〈秋濤案、先にこの漢民の財産取り立ては、いずれも耶律楚材晋卿がこれを司った。今暗都︀剌蠻に命じたのは、おそらく太宗が晩年に利をもたらす家臣の言葉に惑い、晋卿が次第に疏外されるのが明らかになったからである。元史類編は「初め楚材は割り当てる額を定めて、年に五十万両にとどめた。河南が降るに及び、戸口は増えて盛んになり、増えて一百余万に至った。ここに至って回鶻人奧都︀剌合蠻は二百二十万両の物品税を請うた。楚材ははなはだ諫め、声色がともに激しくなるに至り、語るとともに涙がともなった。帝は「お前は格闘したいのか。さらに民衆を泣かせたいのか。しばらくこれを試行する」と言った。楚材は失効させることができず、嘆いて「民の困窮は、まさにこれより始まらんとするか」と言った」と言う。〉
辛丑(1241年)〈十三年、宋 理宗 清祐 元年。〉春、高麗王が子弟を遣わして入貢した。冬十月、牙老瓦赤に命じて漢民の公事を統率させた。〈秋濤案、主管は原書では王営とあり、不可解である。元史 太宗紀は羊管とする。今 考えるに、主管とするべき。その漢民の下、原書は公事の二字が抜けている。今 元史 本紀に拠ってこれを補う。己丑年(1229年)は「河北はまず漢民の財産取り立てを実施し、兀都︀撒罕に命じてこれを司らせ、西域の財産取り立ては、牙魯瓦赤に命じてこれを司らせた」と言い、つまりこの牙老瓦赤とすべきである。ほかに牙剌瓦赤とする。財産取り立てを治めるの上手かったので、よってこれに命じて、漢民の公事を司ることを兼ねたと言うだけである。
又案、姚枢伝は「歳辛丑(1241年)、牙老瓦赤行省事は燕京で、漢民の公事を統率し、姚枢を行省郎中にした。牙老瓦赤はただ贈り物に努め、姚枢を幕長にしてこれを分けてつかわした。姚枢は拒絶し、ついでに職を辞して去り、家族を携えて輝州蘇門山に行き、書を読み琴を鳴らし、まさに命を終えようとするかのようであった。世祖が皇帝の弟となった時、趙璧を遣わしてこれを呼び寄せるに至り、客として待遇するかのように待った」と言う。邵遠平は「姚燧が牧菴集に載せる姚枢神道碑は「上は趙壁を遣わし、早馬が彰徳に至った。趙璧は姚枢がはばかって避けるのを恐れ、ただ輝州に至り、旅人が会ったことをもって、それが姚枢であるとわかり、初めて会って召し出す意志を伝えた。姚枢は使者が誤って懲らしめるのを恐れて、応えることができなかった。璧は「君は牙老瓦赤を棄ててここに隠れた者ではないか」と言った。「そのとおり。」と言いようやく一緒に彰徳に行って命令を受けた」と言う」と言う。〉十一月初めの七日、〈秋濤案、この下に脱文がある。〉月惑哥忽聞という名の地で、〈秋濤案、聞は闌とすべき。元史は「帝は大いに狩りをすること五日、帰って鈋鐵𨬕胡蘭山に至った」と言う。今改めて烏特古呼蘭とし、〈底本-410〉つまりこの地である。
方輿紀要は「和林の東北にある地」と言う。文田案、惑は忒とすべき〉病いにあり、次の日に亡くなった。〈秋濤案、元史 太宗紀は「庚寅、奧都︀剌合蠻が酒を進め、楽しく飲んで徹夜してようやく止めた。辛卯、明け方に行殿で亡くなった」詳しく史や記を探すと酒一樽を進めたのは、おそらく太宗が耶律晋卿を疎んじ、そしてひたすら利をもたらす、奧都︀剌合蠻のような西域の家臣を信じ、庚寅に酒を進め、そして辛卯に帝がすぐにたちまち亡くなり、はなはだ疑うべきものがあり、よって詳しくこれを著した。この書が欠落しているのが惜しまれる。その最初から終わりまでを明らかにできない。元史類編は、ただ酒を進めて楽しく飲んだと言い、そして奧都︀剌合蠻の名を削り、とすれば隠す意図が明らかになるのを嫌がった史官の過ちか。この書と元史 本紀の月日が互いに証明になり、初めの七日を庚寅とするのを知り、その月の一日を甲申とし、そして銭侗氏が増補した四史朔閏攷が載せなかったことは、その欠けを補うことができる。〉年は五十六、〈原書は寿の下に余分な至の字があり秋濤が校正して削る。〉在位一十三年。〈原書では一十二年。秋濤が元史 本紀に拠って校改する。〉
皇元聖武親征録一巻は、太祖と太宗の事を記し、撰した人の姓名は明らかになっていない。その書は烈祖 神元皇帝と太祖 聖武皇帝の追号を載せている。元史を調べると、烈祖と太祖の追号は、いずれも世祖 至元 三年(1266年)にあり、であれば至元以後の人が撰したものである。ゆえに睿宗に太上皇の称がある。そして太宗の事を記し、しかし太上の称をその弟に加え、言わば名正しからざれば則ち言順ならずではないか。開国時の事を多く記すところは、金を平らげることは良くできており、夏を取ることは頗る省かれている。元史 察罕伝、仁宗は脫必赤顏を訳すことを命じ、名付けて聖武開元記と言う。その書は今は伝わっておらず、この親征録と相違があるのかどうかはわからない。秘史のようには良く出来ていないとはいえ、しかし元初の事跡は、それでもなお考証のために頼ることができる。その訳語の異なるのは、王孤部が、つまり汪古であるようなものである。博羅渾 那顏は、つまり博而忽である。闖拜は、つまり沈白である。暗都︀剌蠻は、つまり奧魯剌合蠻である。兀相撒兀は、つまり吾圖 撒合里〈耶律 楚材の賜名。〉である。
秋濤案、今 殿本を考証すると、博羅渾を改めて博羅罕とし、かつ博爾忽の名がない。
右の光沢の何秋濤願船先生が校正した元聖武親征録一巻。熙〈[#「熙」は跋を書いた庚熙の自称]〉が二十才で厳君に従い都で仕え、先生と〈底本-411〉張石州先生に習い親しみ、いずれも明らかに適するところに拠って考え、その一字一音の細かいことを考え解き明かし、心密かにこれを慕い、しかし自らが届くことはなかった。歳己未(1859年)、邵武館で先生に近づき感化を受けることができた。先生はその時まさに朔方備乗を集めていた。数か月しないうちに、書が成って皇帝に差し上げ、熙はまだ手に入れて見ることができていない。二年が過ぎ、そして先生は過去の人である。同治 甲子(1864年)、思いがけなく張観準の主計寮の書斎の中から、先生が校正した元聖武親征録を得た。思うに元親征録は世に刊本がなく、そして先生の攷正、さらに校勘家の所のものは見やすくなかった。ついに録を手にした。熙ははやくから先生が言うことを聞いており、元代史の誤りは、整えて挙げることができず、そして元史の太祖の開国を記したところは、誤りが入り乱れてはなはだ多い。ほかでもなく先生はこの書の自序でやはりこれを言う。この帙に記すのは、史を読んで考証するのに役立ち、やはり私淑を考えて言うのみである。原本。平定の張穆・旌徳の呂賢基の二つの序があり、今はただ張の序だけをそのままにしておく。張とはつまり石州先生である。呂の序は校正の意味においてふさわしくなく、ほとんど削るべきである。同治 甲子(1864年)二月、後学 陽湖荘 庚熙 跋
光緒丁亥(1887年)に、初めてこの書の写しを得て、細かい校正を一通りすることを望んだが、暇な時間がなさすぎて、自分で三か所ほど改正したままになった。おそらくやはり石州・願船両先生の隙間を補うことで足りるであろう。だがすべて考証は容易でなく、たちまちこれをやめた。同じ頃に竜鳳鑣が政務を司るのを不安に思い、都に来て京兆試を受験して、沈曽植司法官の校本の出版を望んだ。沈の校は詳しく納まり、張と何の上を超越し、この書は人の世にあまねく行き渡る。十分に理解していないところは、必ず沈の校の正確さには及ばず、あるいはまたそれぞれに明らかな意味がある。しばらくは竜鳳鑣に任せるとともに、待って区別して選ぶのみである。光緒 癸巳(1893年)九月朔日、最後でとりとめもなく記した。李文田 記。