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は白濱部落副惣代として在職中沒せられたのである。內藤勘太郞氏も年齡五十に達せずして病沒されたが惜しき人物で有つた。

 內藤勘太郞氏、沒せられて現內藤惣吉氏が其後任となられたので有る。

オタサンの二

 坪澤氏の父子三人が沒せられ後裔として弟六太郞氏には子無く兄金太郞氏に一男一女あるも未だ幼少なり、六太郞氏實妹テル子は一女を擧げて白濱部落に健全でゐる。

 然して此オタサン部落の第二の總代坪澤六助翁の存命中即ち露領當時は現北海道函館の代議士佐々木平次郞氏より漁業仕込を受け漁業經營中日露の交戰が開かれたので有る。

(三)露兵オタサン部落の背後より出沒して日本の密漁者を殺す

 時は明治三十八年八月小田寒に、密漁の爲め帆前船(邦人)一艘來りて船員六人と雇主林氏とが上陸して鱒を獲つて居た。

 其時前記の北部、人家の背後(山方)の叢より人の頭の樣なのが、動て見えるのを土人アリリバアイ