Page:樺太アイヌ叢話.pdf/82

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り、漁業資金を受け漁業に從事したので有る。當時アイヌの漁業として全盛なもので有た。他に東海岸に有りては、アイハマ現相濱の土人、トチムンランケが榮濱と內淵間に二ケ所の漁場を露政廳より許可されたので有る。當時盛大なもので有つた。

 此ロレーの酋長ウコツテアイヌ去りて其子カントシトエ日本名內藤勘太郞が、大正十年頃迄邦領後惣代として居たが大正十一年、現白濱部落に於て病沒した、其子にナツ、ナカの二女が現存し居るなり。二代目酋長モニタワアイヌ改名內藤宗太の子トイボラツテ內藤惣吉現白濱部落惣代として現存して居る。併して同氏の妹が露領時代內地の岩手縣人にして俗稱(ナンブ)事似內林次郞氏に嫁し長男に林藏君外に子女四名あり。

 然して內藤宗太氏(惣吉の父)は露領當時の番人邦人某の子にして其姉、チシカマは維新當時シアンチヤ現落合詰の役人(士族)對馬氏の愛妾であつたと云ふ。此部落人は大正五六年の頃內淵川の鱒鮭漁の爲め大半同地に移轉し大正十年現白濱部落へ全部移轉したのである。

サツサチ

 サツサチの解(サツ)は乾くサチは(砂濱)即ち汐干の時は砂濱が乾くと云ふ意義で有る。昔は此處に二三の土人が居た。川の北方に家が有つたが漸次他へ轉じたので有る。露領當時此處に凾館の大谷