Page:樺太アイヌ叢話.pdf/75

提供:Wikisource
このページは検証済みです

した方がよいと自殺の、決意を生じ夜中皆の熟寢を計り密に家出して自殺を遂げたので有る。

 當時彼には妻(ハル)の外一男とサダ、ナカの二女が居た。併して彼の父は伊達栖原の番人邦人で有つた。

 松之助の死體は家族が引取り愛郞に埋葬したので有るが邦領に歸して漁業家の相原氏が之を聞き其勇悍に感淚して彼れの爲め、墓地に石碑を建設し其英靈を祀たと云ふ。

 併して、土人市外一人のアイヌはカルサーコヴ迄、護送せられ入獄中戰爭は露人の敗戰と共に入獄者は全部出獄された。當時日本軍が、大泊のメレーに上陸したるを以て幸ひ、土人市が出獄し大泊に滯在中で有つたから、日本軍の道案內として現軍川及富內方面へ至り、日本軍の爲め有利を與へたと云ふ。松之助氏も自殺を急がずカルサーコウに入獄すれば生命は助かつたので有らうに、餘り急いで自殺したのは殘念で有つた。氏は北海道に於て余と親友で有つて、渡樺當時は十五人團體者の一人で有つた。


三〇、トンナイチヤ(富內)