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り此處に建設され、舊樺太土人四百名の英靈を上野正氏の名に依り祀られたので有る。余は大正十一年八月墓地を參拜した。誠に立派な石碑で有つた。

共救組合の解散

 組合は悲境に陷り餘儀なく解散するの止むなきに立至つたので、組合共有財產の全部を札幌支廳に一任し本島領有されると同時に組合員は全部(四百餘人)復歸して一部は新部落に現智來部落を設け一部は多蘭泊及落帆等の土人部落其他に定住するに至りしなり。

 其後北海道廳長官と樺太廳長官永井閣下との交涉に依り該共有財產を受繼し之を賣却したる代金を昭和二年度に於て組合員各戶に其配當金を受領したのである。以上は本島に於ける南部土人に關係する者のみ。

 前記トマリオンナイ(現楠溪町)と山下町との間楠溪町に近き山の高地、海岸に面したる所に、裁判所が有つた。露政當時は此楠溪町に邦人の經營に係る大商店高村權四郞商店有り、山下町には岡田商店の外に商店長谷川等で以上全部で五商店が有つた。露人は申すに及ず渡來邦人の爲め便利を計つて居た。梅溪町の少しく奧へ行くと左側の少し高き所に日本領事館が有つた。此楠溪町の平野と山下