Page:樺太アイヌ叢話.pdf/66

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ヌ現大泊支廳管內全部、眞岡支廳管內の一部、豐原支廳管內、內淵榮濱全部人口(八百餘人と云ふ)の總頭酋長となり補佐には、「白主」の東山梅尾氏、次は眞岡の西崎仁四郞氏(何れも故人)併して木下知古廣氏は總頭酋長となり、時の北海道開拓使長官黑田淸隆閣下に引率せられ墳墓の地を前述の如く露人の敬砲を聞きながら、汽船玄武丸(當時の軍艦)だと云ふ木船の汽船で有るに乘り込て此久春古丹を後にして遠く北海道移住民として出航したので有る。

北海道に移住して酋長木下知古廣氏外大半が天然痘とコレラ病の爲めに沒す

 明治八年樺太島を放れ同年北海道宗谷に越年し、翌九年再び小樽手宮に着す。當時の小樽は微々たる一寒村(漁村)で有つた。此小樽に着くと間もなく、元トマリオンナイ楠溪町の酋長故トマリカランケアイヌが死亡したので、其靈を祀るにスマセヘロンパ石碑を此山の上に建立されたと云ふ。

 此の石碑を立てると云ふ事は餘程の事情がなければ、其當時は建て無かつたものだ。併して其後手宮附近で見なれぬ石碑を發掘し一時新聞紙上等に記載されたが若しや其の酋長の石碑では無からうかと思はれた。而して皆は此の手宮に居住するものと思つて居る內再び北海道石狩に行く事となり、汽船